まず主に聞く − 相手を見ず聞かずに諭すツォファルの危うさ(ヨブ記11章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記11章のナアマ人ツォファルの言葉を通して、相手をよく見ず、よく聞かずに人を教え、諭そうとすることの危うさを学び、まず主に聞くことの大切さを教えられるメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ11:1-3
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ヨブ11:4
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ヨブ11:5-6
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ヨブ11:7-9
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ヨブ11:13-14
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ヨブ11:16-17
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ヨブ6:14-15
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ヨブ10:7
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箴言3:5
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イザヤ50:4
【戒めの言葉】
相手をよく見ないで説教すること、相手の言葉を聞かないまま遮ること、人が神様に向かって祈っているところにしゃしゃり出て自分の論説を展開することは、ただ相手を切り刻むだけの苛立たしい言葉にしかならない。
【勧めの言葉】
まず自分の悟りに頼らず、主により頼み、主に聞くこと。主から弟子の舌と、よく聞ける弟子の耳を与えていただいた上で、人と接しなさい。
【悔い改めの促しの言葉】
人が不幸にあっている時、必要なのは先生でも原因追及でもなく、包み、慰め、抱きしめる温かい心である。私たちの中にあるこのような節々を認め、悔い改めよう。
【***詳細***】
今朝はヨブ記11章から御言葉を取り次がせていただきます。まず初めに1節から3節を宣言します。
「さらにナアマ人ツォファルが答えた。『言葉数が多ければ言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。あなたがあざける時、あなたに恥を見させるものはいないのだろうか。』」
このヨブ記は、特に私たちのように人を教える立場にある者にとって、本当に耳に痛い戒めを見て取ることができる書です。ヨブも、三人の友人たちも、知恵・知識に長けていて、人を教える立場にある人たちです。しかし彼ら、特に三人の友人たちは、間違った仕方で人を諭そうとして、かえって相手の傷をえぐってしまう。そういう状況がこのヨブ記では展開されています。
11章は、ヨブの三人目の友人、ナアマ人ツォファルの弁明の言葉です。前回の10章では、ヨブが神様と一対一で、二人称でずっと話し合っていました。ヨブが神様に向かって語り終えて、そこに神様が語りかけてくださるかと思いきや、語りかけたのは神様ではなく、ツォファルでした。
その中身を見ていきますと、本当に偏見、思い込みに満ちた言葉であることがわかります。2節で彼はこう言います。「言葉数が多ければ言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。」では、誰に向かってヨブは言葉数多くしていたのか。前の章を見ますと、ヨブは神様に対して言葉数多く祈っていたのです。それなのにツォファルは「言葉数が多ければ言い返されないだろうか」と言う。誰が言い返すのか。人間が、です。つまりツォファルは、ヨブが神様に向かって言葉数多く語ったことを、自分たち三人の友人に向かって言葉数多く言ったのだと受け止めてしまったのです。
その次の行、「人は唇で義とされるのだろうか」。確かに弁論が巧みな人は、強引な弁論で白を黒にねじ伏せるようなところがあります。しかしツォファルはヨブに「あなたは唇で義とされるのだろうか」と言っている。ヨブは明らかに神様と一対一で思いの丈をぶちまけていたのに、ツォファルはそれを自分たちに向かって激しい言葉を言われたと勘違いしているのです。
3節、「あなたの無駄話は人を黙らせるだろうか。」神様に向かって話していたのに、ツォファルは「人を黙らせるため」と受け取っている。「あなたがあざける時、あなたに恥を見させるものはいないのだろうか。」ヨブが誰かをあざけったことがあったかと、前の方を見てみますと、おそらく6章15節の言葉でしょう。
ヨブは6章15節で、友人たちに向かってこう言っています。「兄弟たちは水なし川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。」これは直前の14節で、ヨブが友人たちからの憐れみ、友情を求めたのに、それがなかったという文脈です。14節はこうあります。「落胆している者には、友からの友情が必要だ。さもないと全能者への恐れを捨てるだろう。」旅人が水を求めて川に行ったのに、あいにくそれは水なし川で、裏切られた。それになぞらえて、ヨブは「あなたたちに憐れみ、友情(ヘセド)を求めたのに、それがなかった」と言っているのです。
ところがこの友人は、ヨブがヘセドを求めている部分には耳を塞いで、「裏切った」という部分だけを取り上げて、「ヨブは俺たちをあざけったんだ」と言っているのです。悪意でもって人を見る人は、こういう独特の切り貼りをします。相手が助けを求めている部分には蓋をして、都合の悪い部分だけをパッと開いて、偏見を募らせていくのです。
4節を見ると、それがさらに明らかになります。「あなたは言う。『私の主張は純粋だ。私はあなたの目に清い』と。」ここでツォファルは、ヨブがあたかも「私の主張は純粋だ」と言ったことにしています。この「主張」はヘブライ語で「リクヒー」。これは教え、教義、ドクトリン、戒めといった意味の言葉です。つまりツォファルは「あなたは自分の教義、自分の戒めは純粋だと言った」と言っているのですが、ヨブは一度もそんなことを言っていません。過去の箇所を読み返しても、ヨブが「私のドクトリンは正当だ」と言った箇所はありません。
そう受け止められる箇所は、10章にあります。ヨブは神様に向かってこう言いました。「私に悪しきことがないことを、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存知だ。」これは神様に対して「私は潔白です。こんな災いに遭うような罪を犯していません」という叫びであって、自分の教義を友人たちに主張したのではありません。ところがツォファルは、ヨブの神様に対する痛みと叫びを読み替えて、「ヨブは自分たちに対して傲慢な論説を展開したのだ」と受け止めてしまっているのです。
ヨブとしては、このわずか4節までの言葉で、「ああ、この人はもう偏見で私を見ている。前提条件がそもそも間違っている」とわかったことでしょう。この後5節から、ツォファルの立派な神様論が長々と続きますが、どんなに立派な神様論を展開しても、相手がすでに偏見を持っているとわかった時点で、その長々とした論説は、うるさく苛立たしい雑音、虫の羽音にしか聞こえなくなってしまうのです。
5節6節、「しかし、神が語りかけ、あなたに対して唇を開いてくださっていたなら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。」ツォファルは、神様がヨブに直接語れば、きっとヨブの間違いをはっきりさせてくださるだろうと思っていたのでしょう。しかし、確かに神様は38章以降で怒涛のように語りかけ、ヨブは過ちを認めますが、友人たちに向かっては「あなたがたは私について正しいことを言わなかったので、怒りがあなたに燃え上がる」と言われました。お叱りを受けたのは、むしろ友人たちの方だったのです。
7節から9節、「あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それは、黄泉よりも深い。あなたが何を知り得るだろう。それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。」神様の深さを語る高尚な神様論ですが、「ヨブは嘘と嘲りの言葉で口達者にベラベラ喋っている」という誤った前提を先に出してしまった以上、この高尚な論説も、ただ苛立たしい雑音にしか聞こえなくなってしまいます。相手に対する偏見をまず持っていたなら、その相手を正しく戒めることは決してできません。御霊によって開かれた唇、開かれた耳、開かれた目でもって相手を見て、相手を理解しない限り、どんなに素晴らしい箴言を述べても、相手にとっては忌々しい言葉にしか聞こえないのです。
13節14節、「もしあなたが心を定め、神に向かって手を伸べるなら、もし手に不法があれば、それを遠ざけ、あなたの天幕に不正を住まわせないなら。」ツォファルは「ヨブ、神様に向かって両手を広げなさい」と勧めていますが、ヨブはついさっき10章まで、まさにそれをしていたではありませんか。神様に向かって手を伸べ、思いの丈をぶちまけていた。それを遮って出てきたのが、他ならぬツォファル本人なのです。「神様に向かって手を伸べなさい」と言いながら、そのヨブを邪魔したのは自分自身だったのです。
16節17節、「こうしてあなた自身は労苦を忘れ、これを流れ去った水のように思い出すだろう。あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。」「もしあなたが神様に向かうなら、このように人生が変わる」と言っています。しかし、最初のボタンを掛け違えているのです。どんなにゴージャスなブランド物の服を着ていても、ボタンを掛け違えて颯爽と歩いていたら、みっともない姿にしかなりません。三人の友人たちは、まさにそうでした。
これは私たちが陥りやすい罠でもあります。相手をよく見ないで説教する。相手の言葉を聞かないまま遮る。本人が神様に向かって祈っているところにしゃしゃり出て、それをやめさせて、自分の論説を展開する。相手を見ない、聞かない説教、伝道は、ただうるさい言葉にしかなりません。
どう言えるでしょうか。テマン人エリファズは「ヨブは肺が悪い」と肺を切り刻んだ。手法は完璧でしたが、病巣は肺にはなかった。次にビルダデは「肝臓が悪い」と肝臓を切り刻んだが、そこにも病巣はなかった。今度はナアマ人ツォファルが「胆嚢が悪い」と胆嚢を切り刻んだが、やはり病巣はなかった。結局ヨブをただ切り刻んだだけだったのです。相手をよく見ない、よく聞かない説教・伝道は、ただ相手を切り刻んで、「ここに病巣はありませんでした」と見なかったふりしてそっと閉じるようなもの。しかし切り刻まれた相手には傷が残るのです。激しく諭しておきながら、それが見当違いだったとわかると、そっとフェードアウトしていなくなる。これはやってはいけないことです。
私たちが人を御言葉で教え、宣教し、伝道する立場にあるなら、この罠に陥らないために、まず自分の悟りに頼らないことです。箴言3章5節にこうあります。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。」自分を知恵のある者と思わず、主に拠り頼むべきなのです。
そして主から、私たちの耳と舌を整えていただく必要があります。冒頭で宣言したのはイザヤ書50章4節です。「神である主は私に弟子の舌を与え、疲れた者を言葉で励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。神である主は私の耳を開いてくださった。」
ヨブ記には「主」という言葉が一切ありませんでした。主に拠り頼むこと、主に聞くこと、主から弟子の舌を与えていただき、よく聞ける弟子の耳を与えていただくこと。まず主に聞かずしては、ただヨブの三人の友人の罠に陥ってしまいます。「主よ、どうしてこの人はこんなふうになっているのですか」と、まず主に聞く。そして主から諭しをいただいて、それをそのまま伝える。これが私たちに必要なことです。
皆さんはまずイエス様に聞くべきです。心に悶えがあるなら、まずイエス様にお話しすること。思い煩わずにイエスに話すこと。このヨブ記の中から私たちが悟るべきは、まず主に聞くこと、そして主から悟りを得て、人と接することです。どうか皆さんは主から知恵をいただき、お言葉をいただいて、素晴らしいカウンセラー、主の届け人となっていきますように。
【結論】
人を正しく教え、慰め、立て上げるためには、まず自分の悟りを捨て、主に聞くことが欠かせません。相手をよく見ず、よく聞かずに原因を追及し、自分の言葉を発することは、ヨブの三人の友人のように相手をただ切り刻むだけです。痛む人には包みを、悲しむ人には慰めを、苦しむ人には抱きしめる温かい心を。そして、いついかなる時も「イエス様、この人を助けてください」と主に拠り頼む一人一人へと変えられてまいりましょう。