知識は高ぶらせ、愛は育てる − 主の御名不在の論破を越えて(ヨブ記12章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記12章から、主の御名が不在のまま知識や論破で人を切り刻むことの危うさを学び、愛によって人を立て上げることの大切さを示すメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ12:1-3
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ヨブ13:1-2
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ヨブ12:4
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ヨブ12:5-6
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ヨブ12:7-9
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ヨブ1:21
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Ⅰコリント8:1-2
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ローマ12:15
【戒めの言葉】
知識は人を高ぶらせます。主に聞くことなく、自分の思い込みや決めつけ、論破力で相手に接するなら、それはただ相手を切り刻み、壊してしまうだけです。
【勧めの言葉】
まず主に聞き、主から聞いたことだけを相手に流し出しましょう。愛は人を育てます。泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶ者でありましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは主の御名抜きの議論、知識による論破に没頭して人を傷つけてこなかったでしょうか。主の前にそれを悔い改めましょう。
【***詳細***】
今日、恵みをいただくみことばはヨブ記の12章です。はじめに1節から3節を宣言いたします。
「ヨブは答えた。『まさにあなたがたは地の民。あなたがたとともに知恵も死ぬ。私にも同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。』」(ヨブ12:1-3)
では、一言お祈りします。まことに使徒の岩なる主イエス様。あなたこそが我らの救いです。あなた抜きでは、私たちは虚しいものです。あなたの贖いなしでは、私たちは何も立ち得ないものです。私たちのこの知識や、このことの巧みさ、そうしたものは救うことはできません。ただイエス様、あなただけが我らの救い主であり、その十字架こそが我らの贖いのしるしです。今、あなたに向かいます。どうか必要な命の御言葉を今日も与えてくださり、養いを得させてください。取り次ぐしもべを、また預かる一人一人の耳を、どうかあなたが記憶してください。これからの一切をあなたの御手にお委ねし、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン、ハレルヤ。
素晴らしい主の御名を褒め称え賛美いたします。本当にこのヨブ記ですね。読んでいると、この人間同士の対話だけを読んでいると、心が沈んでくるかのような心地がするんですけども、イエス様をフォーカスするのであるならば、どんどん心が豊かに温かくなってきますね。このヨブ記は、本当に私たちに対する反面教師で満ちていると思います。
前回の11章は、ナアマ人ツォファルによる論説だったんですけども、彼はこのヨブがせっかく神様に向かって祈っていた、かなり荒々しい言葉であったんですけども、たくさんの言葉で神様に相対していた、それをですね、ツォファルだけではないですね、彼らはこのヨブのある部分だけを聞いて、ある部分には耳を閉ざして、このヨブの言葉を切り貼りにして、このヨブを攻撃する題材にしてしまったんですね。
せっかく神様に向かって語っていたのに、この友人たちがこのヨブに対して、そういう切り貼りした言葉、怒涛のように攻撃的な言葉を浴びせ続けていった結果、今度はヨブの方をまた病ませてしまうんですね。今日の箇所から、このヨブが友人に対する皮肉とか攻撃の言葉を使うようになっていってしまいます。
本当にヨブは思慮分別が高い人ですね。ヨブの奥さんが何と言いましたっけ。ヨブの奥さんは「あなたは神を呪って死になさい」というふうに言いましたね。けれども、そんな奥さんに対して、「あなたは愚かな女のようなことを言っているね」というふうにやんわりと諭して、「あなたは知恵のない女だ」と言わないで、そういうふうにやんわり諭すほどの思慮分別があったヨブがですね、いよいよ相手を鋭い知恵の言葉、知識の言葉で切り刻むようになっていってしまう。そういうターニングポイントに差し掛かってきております。
このヨブ記の11章、12章、13章の言葉を通して、このヨブ記の第1ラウンドが終わるんですね。登場人物が4人出てきましたね。ヨブと3人の友人で、まずヨブが行って、友人が行って、ヨブが行って、友人が行って、という一巡のラウンドが、ここで一つ区切りがつくんですけども、このラウンドを重ねるごとにどんどん険悪に、また言葉がより激しく、よりきつくなっていきます。
昨日の箇所から学んだことは、主の御名が不在の人間的な思い込み、あるいは「あなたはこれこれでしょう」という決めつけ、それが相手を切り刻んでいってしまうということです。この決めつけとか人間的な思い込みで相手に言うこと、これは本当に明後日な手術をするのと全く一緒です。ただ単に相手を無駄に切り刻んで、「あなたはその肺に疾患があるんでしょう」と言ってメスで切っても、結局そこには疾患はなかった、という具合です。3人の友人たちは、全くそんな感じのことをして、ヨブを切り刻んだ結果、ヨブをひねくれ者にしてしまうんですね。
私たちはまず主に聞くこと、そして主に聞いた上で人を見ることですね。昨日見ましたね。主から弟子の耳をいただき、弟子の舌をいただくということ、これが本当に肝心だということを私たちは知りました。イエス様はおっしゃったのは、「私は御父から聞かなければ、私は何も言わない」というふうに言いましたね。まず主に聞く。父から聞いたことだけを相手に流し出す。これが本当に相手を立て上げて、相手を癒す方法ではあるんですけど、しかし、主に聞くことなしで自分の思い込み、自分の知識だけで相手に接するとするならば、それはただ単に相手を切り刻んでいってしまうだけです。
この友人たちの身勝手な思い込みによって無駄に切り刻まれてしまったヨブは、どうなっていってしまうのか。それが今日の12章以降が示しているところです。今日の箇所は主に対して向き合うところが一切ありません。以前、ヨブは主に向かって二人称で言っていたのが、この今日の箇所は主に対して伺うことが一切なくなっております。ヨブ自身も売り言葉に買い言葉の罠に落ちてしまうんですね。
ヨブの応答の真っ先は、「あなたがたがもし死んだら、あなたがたの知恵も一緒に死ぬんでしょうね」という強烈な皮肉から始まります。そして3節以降、「私にも良識がある。私はあなたがたに劣っていない」というふうに言うんですけれども、この「私にも良識がある」という言葉、実は13章にももう一度出てきます。
「見よ、私の目はこれをすべて見、私の耳はそれを聞いて悟った。あなたがたが知っていることは、私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。」(ヨブ13:1-2)
この「私はあなたがたに劣っていない」という言葉が、ヨブ12:3とヨブ13:2の両方とも全く同じヘブライ語で、一字一句同じ言葉があるんですね。この言葉によって挟まれた、そのサンドイッチ構造の真ん中がこの12章です。「私はあなたに劣っていない」という、ちょっと嫌味な言葉の意図の枠組みの中に組み込まれた章であるわけです。
4節を見ますと、「私は自分の友の笑いものとなっている。神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに、正しく誠実な者が笑いものだ。」友人たち、果たしてヨブのことを笑いましたっけ。今まで読んできた中で見ますと、ヨブの友人たちがヨブのことを笑いものにしたようなところはなかったはずですね。でもね、ヨブの頭の中に「お前たちは私を笑いものにしているんだ」という思い込みがふつふつと沸き起こってきました。このような思いに火をつけたのは、もちろん友人たちです。思い込み、決めつけ、それによる激しい言葉、知恵による諭し、最後にとってつけたかのように「悔い改めれば神様は立て直してくれるよ」という、3人ともそんな感じでしたね。それがヨブの怒りに火をつけてしまったんですね。
相手が言ってもいなかったこと、相手が思ってもみなかったことを「笑いもの」と決めつけて、相手をあさっての方向に攻撃するという、この不毛な論争にどんどん落ち込んでいってしまうわけです。主が不在で主に聞かない、主に伺うところ一切なしの論争、また知識という刃の当てつけ、これはどん底の低レベルな論争に巻き込んでいってしまうんです。本当に伝説的な義人であるヨブ、あの奥さんに対してあれほど見事な受け答えをしたヨブさえも低レベルにしてしまうのが、この多くの言葉による当てつけ、決めつけ、口の攻撃なんです。
5節、6節を見ますと、「安らかだと思っている者は、災いを侮る。災いは、足がよろめく者に用意されている。荒らす者の天幕には安らぎがあり、神を怒らせる者は安らかだ。」ヨブはひねくれて、「神様は時に不条理なこともするんだよ」ということを言うのと同時に、暗にこれは友人たちのことを揶揄しているところがあると思います。本来、災いが起こるのは悪を行う者ですね。けれども、善を行っている者にも災いが降る、こういうことを神様はするんだよ、ということをヨブは暗に言っております。
さらにヨブは続きます。「しかし、獣に尋ねてみよ。あなたに教えてくれるだろう。空の鳥にも尋ねよ。あなたに告げてくれるだろう。あるいは地に話しかけよ。教えてくれるだろう。海の魚も語るだろう。これらすべてのうちで、主の御手がこれを成したことを知らない者があるだろうか。」(ヨブ12:7-9)
この9節にとても重要なキーワードが出てきます。皆さん、聖書の太文字の「主」が出てきますね。そこにヤハウェの御名が出てくるんですけども、この主の御名がどういう場面で使われたのか。「あなたたちが言っていることなんて、鳥も獣も海の魚も知っているよ」という、そういう場面で主の御名が使われてしまったんですね。なんとこの主の御名が出てくるのは3章から37章の中の長い議論の中でただ1回しか出てこなかった。その尊い主の御名というカードをですね、こんなことで使ってしまったんですね。皆さんは主の御名を本当に人を攻撃する場面に使っていないでしょうか。
ヨブが主の御名を用いたその前、最後にヨブが主の御名を唱えたのが1章21節です。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)これは本当に素晴らしい賛美、どん底の中での賛美、本当に気高い用い方をヨブがしたんです。それがこんなにも成り下がってしまった。だから本当に、主の御名がない人間の知識、議論、これはいかに人を廃らせてしまうのか、どんな義人をも引きずり込んでしまうのか。義人を貶めたいとするならば、不毛な議論を延々と語りかければコロッと落ちますよ。皆さんはぜひしないでくださいね。皆さん、主の御名をもって、本当にこの人のためにとりなし祈りましょう。
このヨブはずっとヘセド、本当に憐れみ、恵み、慈しみを求めていました。けれども、ヨブの友人たちは一切それを与えないで、ある人は神秘体験を通して得た知識、ある人は人間の金言、人間のことわざ、それでずっとヨブを切り刻んでいった結果、あんな素晴らしかったヨブが、こんなことで主の御名を用いるようになってしまったんです。ヘセドがない、恵みがない、慈しみがない議論、慈しみがない言葉、それは刃の言葉になってしまいます。言葉の刃で相手を切り刻んでいると、相手はどんどんひねくれて、ひねくれた相手を見たらもっと鋭い刃にして、ついに相手を壊してしまう。このパターンに私たちは陥っていないでしょうか。
あまりにもヘセドではない知識、知恵、論破力、言葉の強さ、これは相手を壊してしまいます。相手を壊さないで相手を立て上げる方法を皆さん知りたいと思えないでしょうか。冒頭で宣言したのは第一コリントの8章なんですけども、1節と2節にこう書いてあります。
「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(Ⅰコリント8:1-2)
アーメン。知識は人を高ぶらせる。ヨブの友人たちは知識でヨブをねじ伏せようとしました。ヨブもまた、その芽がこの章から出てきました。知識で相手をねじ伏せよう、多くの言葉でもって相手をねじ伏せよう、論破しよう、と。相手を論破したら相手がどう思うか。「私が悪うございました」と思う人はパーセンテージ的に少ないと思います。むしろ怒って「なんだあいつは」と思うパーセンテージが多いと思います。知識は人を高ぶらせます。人を立て上げるのは愛です。
パウロは言っています。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、誰かが神を愛するなら、その人は神に知られています。」ですから、私たちにとって大切なことは、私たちがどれほど神について知っているかではないんです。大切なのは、神に知られているということです。神様が私を知っていてくださるんだ、今のこの荒んだ心も神様はご存知なんだ、神に知られているということ、この土台に立つのであるならば、愛が神様から自分を通して相手に流されていきます。
ヨブは陥ってしまいましたね。「私はあなたがたに劣っていない」という言葉のサンドイッチ構造で、今日の章があります。「自分は相手よりも優れている」「あなたがたよりも劣っていないんだ」というふうに、人と比べて自分を誇るのであるならば、その人は知るべきことさえまだ知っていないのです。パウロは言います。むしろ愛が人を立て上げる。そして大切なことは、神様から知られていることです。
イエス様は、知識で人をぶん殴るようなことはしませんでした。むしろ、隣人を愛しなさい、自分自身のように愛しなさいと言われました。イエス様は高き御座を捨てて、降りてきて、人となって、人の友となって、人にヘセドを、人に友情を与えてくださいました。人の友となってくださって、十字架につけられて、私たちの身代わりになって、私たちを救うために命を捨てるほどの愛を示してくださった。だから私たちは人生が作り変えられたんです。私たちがイエス様についていきたいと願ったのは、知識でぶん殴られたからじゃないですね。愛で命を差し出してくださったから、私たちのために死んでくださったから、イエス様についていったはずです。
愛の心を持って困難の中にある人のためにとりなし祈るのであるならば、その相手をどんどん立て上げていくことになります。ヨブの友人たちは7日7晩ヨブと一緒に口を閉ざしていてくれましたが、でもあいにくその行いは立派でも、心の中は「ヨブがこんなに災いにあっているのはきっと何か罪を犯したから、知らない罪があるからだ、知識で立て上げよう」という形でやっていた結果、どんどん険悪になっていって、ヨブを壊すようになっていってしまいます。
私たちは主の御名抜きの御託並べは必要ありませんね。相手を論破して、相手を知識で殴りつけるということ、これは主のしもべがすることではありません。むしろ愛を持って人を立て上げ、相手のためにとりなし、まず主に聞いて、聖霊から弟子の舌が与えられて、それでもって相手を立て上げていく。そのようにして人を立て上げる名人、皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
ハレルヤ、愛するイエス様。あなたがまず私たちを愛してくださったから、私たちには愛が分かりました。あなたが天から降りてきてくださったのは、知識を教えるためではなく、愛でもってその道を示すためでした。十字架の道をあなたが歩まれ、愛を示してくださった。それに倣うようにと。主よ、本当に私たちはあなたから教えられたはずでした。けれども、いつしかあなたを忘れ、主の御名抜きの議論、知識による論破に没頭して、人を傷つけ、切り刻んできたことでしょうか。主よ、本当に許してください。そして、私たちが切り刻んできたその人々をどうか癒してください。私たちが本当に愛を持って人を立て上げていくことができるこれからでありますように、どうか導いてください。今日いただきました御言葉に感謝して、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ、愛する主よ。あなたの御名をほめたたえ、感謝します。御言葉はこのような状況について、泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜びなさいと言われます。相手が泣いていることに、確かに原因はあったでしょう。そこで原因追求をしたとしても、その人を泣かしたそのことを正すことはできません。主よ、「だからこうなんだ」という言葉は「だから何なの」につながってしまいます。原因追求をする、結局はそれが相手をもっと痛めてしまう、そして相手の心を貶してしまう、ということをしっかりと私たちは知るべきです。
この御言葉が私たちに教えているのは、泣く者とともに泣きなさい、悲しむ者とともに悲しみなさい、喜ぶ者とともに手放しに喜びなさい、ということです。主よ、私たちにその心を与えてください。「なんでこうなるの」「なんでこうなったの」ではなく、その人が痛んでいたら一緒にいる、悲しんでいたら一緒に悲しむ、添えてあげること、それが私たちにできる最善であることをしっかりと覚えて、喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむことに徹する私たちでありますように。
主よ、結局、ヨブの友人たちの言葉は、主に向かって言ったヨブの心を貶してしまいました。そして、天に向かっていたその心を地上に、自分たちの論判に引きずり下ろして、とんでもない罪を知らないうちに犯してしまいました。私たちが人生の節目で悲しむ人に会ったとき、痛む人に会ったとき、原因を追求して、その人の心を引きずり下ろすことのないように、あなたが私たちを助けてください。ひたすら悲しむ者とともに、泣く者とともに、悲しみ泣く者でありますように。
主よ、ある人が今悲しんでいます。主よ、助けてください。ある人は泣いています。主よ、助けてください。今まで私たちは、悲しんでいる人、泣いている人を見て「当然だよね、あんなことしたもん」そういう心がどこかにありました。主よ、許してください。今まで私たちはわからずやで、その人がやったことを自分なりに原因を追求して「だからああなったんだ、当たり前だよね」と思っていた、言っていた、そのすべての時を許してください。私たちにできる最善はキリストにあって悲しむ者とともに悲しみ、楽しむ者とともに楽しむことです。この法則から離れず、あなたの御前に私たちの人生を貫くことができますように。主よ、あなたが主権をもってしてください。今日、あなたが私たちに教えてくださったこの御言葉の随意を心から感謝して、私たちの王であり、主であられる、私たちと共に悲しみ、共に喜んでくださったイエス・キリストの御名によって祈りました。アーメン。
【結論】
主の御名が不在のまま、知識や論破、人間的な決めつけによって相手に接するなら、どんな義人をも低レベルに引きずり込み、相手を切り刻んで壊してしまいます。知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。大切なのは、私たちがどれほど神を知っているかではなく、神に知られているということです。まず主に聞き、愛をもって人を立て上げ、泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶ者として歩んでまいりましょう。