わが魂よ、主をほめたたえよ − 主語の転換が人生を切り替える(詩篇103:1-5)
メッセージ音声
【概要】
詩篇103:1「わが魂よ、主を褒め称えよ」を中心に、人生転換の鍵は「主語を自分から主へ変えること」であり、気分に支配されがちな魂に命令し、主をほめたたえることで、悪魔の妨害を打ち砕き、鷲のごとく舞い上がる勝利の人生へと変えられると語るメッセージ。
【聖書箇所】
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詩103:1-5
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詩102
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詩42:5
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詩57:8
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マルコ8:34-35
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ヨハネ12:25
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マルコ9:23
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2コリント10:4-5
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使徒16:25-34
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2歴20:1-30
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詩37:1-2
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ヨハネ14:13-14
【慰めの言葉】
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どんなに惨めな現実を目にしても、「信じる者にはどんなことでもできる」。全知全能なる主があなたを鷲のごとく、若々しく作り変えてくださる。
【励ましの言葉】
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人生切り替わりのコツは「主語の転換」。「私、私」から「しかし主よ」へ主語を変えると、ミミズクのような惨めな状態から鷲のように高く舞い上がる人生へと変わる。
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悪魔が嫌がらせしてくるのは、その道が正しい証拠。恐れず前進しよう。
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キリストはすべてのことをおできになり、すべての必要を備えてくださる。
【勧めの言葉】
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魂の言いなりにならず、自分の魂に向かって「わが魂よ、主を褒め称えよ」と命令する。
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スマホや動画に奪われそうなとき「わが魂よ、携帯を置け、立ち上がって仕事をしろ」と自分に命じる。
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日ごと自分を否み、イエス様を肯定して生きる。
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キリストへの服従という武器で、高ぶりや否定的な思いを捉え、要塞化する前にすぐキリストのもとへ引き渡す。
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気分が塞いだら、その気分を取り押さえ、意志をもって主をほめたたえよう。
【戒めの言葉】
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感情で現実を劇画調に脚色し、思い込みを増し加える魂の傾向に注意する。
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否定的な思いやサタンの毒づきを放置すると、それが積み上がって要塞化し、手がつけられなくなる。
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肉のまま、思いの欲しいまま、本能のままに振り回されてはならない。
【詳細(AIによる文字起こし)】
今日恵みをいただく御言葉は詩篇103篇1節から5節です。はじめに1節。「わが魂よ、主を褒め称えよ。私の内にあるすべてのものよ、聖なる御名を褒め称えよ」。アーメン。
我が魂よ、主を褒め称えよと自分の魂に言って聞かせたダビデでした。今朝も私たちは早朝、暁を呼び覚まし、私の魂に主を褒め称えよう、また御言葉によく聞き、聞いたのであるならばそれによく従うようにと自分の魂へ言って聞かせたいと願います。主よ、どうかこの決心に立つお一人お一人に、御言葉の真実、確かさ、恵みの豊かさを教えてください。体験させてください。取り次ぐしもべの唇を清め、預かる一人一人の耳を清めてください。初めから終わりまでのすべてがあなたの支配のうちにありますように。一切を御手にお委ねし、愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
前回は102篇を見ました。表題からして「名もなき者による、苦しむ者の祈り、衰え果てた人の祈り」が102篇にありました。なぜ苦しむ人がずっと苦しんでいる有様だったのか。それは主語がずっと「私、私、私」だったからです。102篇を見ますと、「私の日は煙のように消え去り、私の骨は炉のように焼ける。私の心は青菜のようにしおれた」。ずっと惨めな私をクローズアップしているのです。荒野のミミズク、廃墟のフクロウ、屋根の上のはぐれた鳥というように、本当に惨めな私しか堂々巡りしない。
ところが途中から「しかし主よ、あなたは」というように主へと転換しました。そこから雰囲気がガラッと変わるのです。人生切り替わりのコツは主語の転換です。「私、私、私」のままだったら荒野のミミズクですが、主語が主に向かうと鷲のように高く舞い上がる人生へと切り替わります。雰囲気をガラッと変えたいなら、コンディションを変えるよりも主語を変えてください。自分という主語から主イエス様へと主語を変えるとガラッと変わるのです。
103篇1節にその秘訣があります。「わが魂よ、主を褒め称えよ」。自分の魂に向かって命令しています。102篇では堂々巡りでしたが、103篇ではもう早速、自分が自分の魂に向かって「おい、魂よ、主を褒め称えよ」と命令しているのです。人生転換の答えがここにありました。
この魂、ヘブライ語ではネフェシュと言います。自分の思いや意思、感情、気分、願い、願望、そうした諸々が宿っている座が魂です。この魂はいろんな気分によって左右されたり支配されたりしやすいものです。私たちはしばしば現実を見て、「ああ、もうダメだ。何もしたくない。どうせ変わらない。誰も分かってくれはしない」と、感情という色をつけて劇画調に脚色し、思い込みを増し加えていきます。YouTubeやインスタの動画を作るとき、効果音や文字をつけて劇画調に脚色して強調します。私たちの魂も本当にそういう傾向があります。現実では物が左から右に移っただけなのに、「あいつが悪意を持って私を馬鹿にしているんだ」と脚色してしまいがちなのです。
魂というもの、このネフェシュは、そうやって脚色して感情を込め、それをずっと見続けていると、どんどん奪われていくものがあります。YouTubeや動画を見続けていると、時間が奪われ、能力が奪われ、自分で考える思考が奪われていきます。魂の中で次から次へと流れてくる動画に見入っていたら、どんどん人生が奪われてしまうのです。
だから私たちはこの魂の言いなりになってはなりません。魂に向かって命令すべきです。動画をじっと見つめて携帯をやめられない場合は、自分に向かって「わが魂よ、携帯を置け。立ち上がって仕事をしろ」と命令する必要があるのです。
ダビデはこの「わが魂よ」の名人でした。だからあんなに偉大な王になれたのです。心の中の動画を置き、スマホを置いて、主に向かって働き歩み出す、その転換の名人だったからです。詩篇42篇5節に「わが魂よ、なぜうなだれているのか。私の内で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神を褒め称える。御顔の救いを」とあります。また57篇8節では「わが魂よ、目を覚ませ。竪琴よ、琴よ、目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう」とあります。皆さんもこの朝、早朝5時に目覚めて、本当は眠い、もっと眠っていたい、スマホのアラームを止めて「あと5分だけ」としたことがあったでしょう。でもしっかり起き上がって、「眠いな」という思いを拒否して、こうして早朝に目覚めておられるのです。
魂に命じて祈ることはとても大事です。イエス様も魂をどう扱うべきか教えておられます。マルコ8章34、35節。「誰でも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、私と福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです」。このいのちは、心臓がバクバク動いて保っているいのちのことではありません。ギリシャ語ではプシュケーと言い、サイコロジー(心理学)の語源です。自分の「あれしたい、これしたい」という気分、心理を、イエス様のために否む者は永遠のいのちを救うのです。
自分の魂の言うままにして、好きな態度を取るのではなく、それを否んでイエス様のために凛々しく立つ人はいのちを救います。イエス様はヨハネ12章25節でも「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」と言われました。自分のプシュケーを否んで、「イエス様が隣人を愛しなさいと言われたから、私は御言葉のほうを取ります」と言う人は永遠のいのちをいただけるのです。
私たちの人生はどちらを否むかの連続です。自分の気分を取るか、それを否んでイエス様を取るか。ペテロはイエス様を3回否みました。みんなの前で顔を立てたつもりが、泣き叫び、心が張り裂けました。私たちは日ごと自分を否んでイエス様を肯定すべきです。自分の老いていく様を否んで鷲のごとく新しくされていくのです。
冒頭で宣言したマルコ9章23節では、悪霊に憑かれた息子を持つ父親が「おできになるなら、私たちを憐れんでお助けください」と言うと、イエス様は「できるのなら、と言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです」と言われました。信じるということは現実にとらわれません。どんなに悪霊が地面でのたうち回る現実を目にしても、信じる者にはどんなことでもできるのです。
第二のポイント、第二コリント10章4、5節。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち破る力があるものです。私たちはさまざまな議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、すべてのはかりごとを取り押さえてキリストに服従させます」。この戦いの武器は剣でも棍棒でもなく、従順・服従です。キリストの言葉への服従です。あらゆる高ぶりをキリストの網で虜にして逮捕し、捕縛するのです。泥棒が剣や棍棒を持って来ても、網でバーっと捕らえられるように、皆さんのキリストへの服従がその網です。
「もうダメだ」と布団の中で怠けていたり、「どうせ私なんか」という思いを、キリストの網で捉えて服従させるのです。ほったらかしにすると要塞化して手がつけられなくなります。前回学んだように、サタンは「お前、あれやっただろう、これやっただろう」と毒づいてきます。そうした毒づきを放置すると積み上がって要塞化しますが、出てきたらすぐ縛り、キリストのもとへ連れて行くことをし続けていくのです。
こうしたことをしていくと、悪いものがなくなって、悪魔サタン、悪霊のざわざわがどんどん取り除かれていきます。そして、本当にすっきりとした世界が、キリストにある青空が開けていくようになっていきます。こうしたことをしていくと、悪霊や悪魔サタンが嫌がって、いろいろな邪魔をしてきます。
最近、このイエス・キリストにある追い出しの祈り、教会のために祈る祈り、これに磨きをかけてきたら、早速いろいろな嫌がらせが起きてきました。スピーカーシステムだとか、昨日2026年10月15日のお昼も、アンプではなくミキサーが動かなくなって、配信などで手こずってしまいました。
なぜ私が金曜日の朝、2026年10月16日のこの時間にここに立っているかというと、それを聞いて、ここに来てミキサーを確認し、これは修理に出さなければいけないと分かりました。それで予備のミキサー、講演ジャパンで使っている小さいミキサーに切り替えて、今こうして配信がちゃんと止まらずに流れているわけです。
いろいろな妨害がありました。ここ三ヶ月でネットワーク機器が壊れて配信できなくなったり、配信用のパソコンも壊れました。韓国に行く直前です。本当に嫌がらせかと思うくらいの嫌がらせです。でも、それに屈しないで、しっかりとパソコンを直して、ネットワーク機器も交換してもらいました。
先週、ちなみに私のスマホが壊れました。iOSのアップデートをしている最中に更新ができなくなって、途中で止まって、工場出荷状態に戻すしかありませんと出て。結局、一年半くらい前のバックアップがあったのでそれに戻して、このスマホは一年半前の状態になって、写真がごっそり一年半前の状態になってしまいました。最近撮った写真や、ラインやカカオのメッセージが全部、ごっそり流されてしまったのですが、でもそれでも立っています。
悪魔、サタン、悪霊、またすべて福音を嫌がらせするものに対しては、徹底的に踏みつけて、「お前ができることはこんなものか」と、しっかりと業務は遂行され、YouTubeもこのように問題なく流されています。悪魔サタン悪霊のそうした嫌がらせは全部打ち砕かれて、むしろそのように嫌がらせした者たちは、都度キリストのうちに逮捕して、綺麗になって送り込む。その働きをどんどん続けてまいります。
皆さん、悪霊や悪魔サタンが嫌がらせしてきたら、「ああ、この道は正しいんだな。じゃあもっと悪魔サタン悪霊の嫌がることを我々はし続けていこう」。このスタンスでいいのです。キリストが、すべてのことをおできになるあのお方が助けてくださり、すべての必要を備えてくださり、キリストにあるさらにクリアな空へと、鷲のごとく舞い上がっていくことができるようになっていきます。
本当に皆さん、主をほめたたえること、これが武器です。気分が良くなったから賛美するのではありません。気分が塞いでいるならば、その塞いだ気分を否んで、「我が魂よ、主をほめたたえよ」というふうに、それを取り押さえて主をほめたたえるならば、全知全能なる主が働いて、皆さんをよくしてくださいます。
ヨシャパテの時代、敵が攻めてきた時、気分が塞ぎました。けれども主をほめたたえました。すると敵は蹴散らされて、分捕り物を取るのに三日もかかるほど多くの分捕り物をしました。皆さんも塞ぐ気分を取り押さえて主をほめたたえ賛美するならば、多くの分捕り物が待ち受けています。
パウロも捕らえられて牢獄に入れられた時、シラスと一緒に主をほめたたえ賛美しました。すると牢獄が開いて、しかもそこの看守を家族ともども救いへと導きました。使徒16章25節以下の出来事です。この技が現代に起こるのです。皆さん、信じますか。アーメン。塞ぐ気分を逮捕して主をほめたたえましょう。そうするならば、本当にさらに優れたことになっていきます。
だいぶいい時間になりました。まだ一節しか進んでいなくて、今日は五節までやるつもりでしたが、一節だけでも十分恵まれましたので、残りはまた次回に回したいと思います。皆さん学びました。自分の魂に向かって、「我が魂よ、主をほめたたえよ」とするならば、人生が切り替わります。詩篇103篇1節の御言葉です。
人生が変わるコツ、それは主語を変えることです。「自分、自分、自分」という主語。これを切り替えて、イエス様へと主語を変える。そうするならば、すべての雰囲気が変わり、すべての方がおできになり、イエス様が働いてくださいます。
皆さんはこの主をほめたたえ、もし皆さんの魂が、気分が塞ぐならば、それを「我が魂よ」と言って逮捕して、主をほめたたえる。これによって皆さんの人生を変えてくださる主が働いて、皆さんを本当に鷲のごとく、若々しく作り変えてくださる。そのように、賛美の名人である皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
人生を変える鍵は、気分や感情に支配される自分の魂(ネフェシュ・プシュケー)の言いなりになるのではなく、「わが魂よ、主を褒め称えよ」と魂に命令し、主語を自分から主へと転換することにあります。気分が塞ぎ、現実や悪魔の妨害が私たちを塞ぎにかかる時こそ、その思いを取り押さえ、日ごと自分を否んでイエス様を肯定し、キリストへの服従という武器であらゆる高ぶりや否定的な思いを捉えて服従させるのです。そのとき主が働いてくださり、私たちは荒野のミミズクから鷲のように若々しく舞い上がる勝利の者へと新しくされるのです。