私を贖う方は生きておられる − 「あわれんでくれ」と叫ぶヨブと真の友イエス(ヨブ記19章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記19章から、友人たちの決めつけに追い詰められたヨブが「あわれんでくれ」と叫び、さらに「私を贖う方は生きておられる」と告白した姿を通して、人に必要なのは理屈ではなく憐れみであり、真の友・贖い主イエス様のもとへ人を導くべきことを語るメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ19:1-3
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ヨブ18:2
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マタイ7:3-5
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ヨブ19:5-6
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ヨブ19:7-12
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ヨブ19:13-20
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ヨブ19:21
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ヨブ19:22
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ヨハネ5:1-9
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ヨブ19:23-24
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ヨブ19:25
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ルツ記(贖いの権利者ボアズ)
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マタイ1:5
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ヨハネ15:12-13
【慰めの言葉】
人が離れていき、誰も助けてくれないように思える時にも、私たちには最も近い友となり、命を捨てるほどの愛で贖ってくださるイエス様がおられます。
【戒めの言葉】
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「自分は100%正しく、相手が100%間違っている」という思い込みは、自分の目の中の梁です。それを取り除かないまま相手を責めると、相手をますます怒らせ、壊してしまいます。
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苦しむ人に罪の指摘や因果応報の理屈ばかりを押し付けてはなりません。
【勧めの言葉】
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苦しむ人には、まず愛と憐れみと赦しをもって関わりましょう。何が本当に必要なのかは、人の心の奥底を探り極める御霊に聞きましょう。
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「誰もいない」と叫んでいる人を、解決のない所ではなく、真の友イエス様のもとへ導きましょう。
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イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合いましょう。
【詳細】
今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記19章です。初めに1節から3節までを宣言します。
「ヨブは答えた。いつまであなたがたは私のたましいを悩ませ、ことばで私を砕くのか。もう十度もあなたがたは私を辱め、私をいじめて恥じることもない。」(ヨブ19:1-3)
愛するイエス様、私たちはヨブの友人たちのように、またヨブのように、さまざまな罠に陥りがちです。あなたを知らず、主の御名を呼ばず、ただ人間同士の議論や喧嘩の中に陥って、罪の深みへと落ち込んでいくものです。主よ、どうか私たちを助けてください。御言葉によって私たちを教え、導き、命へと浸し込んでください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
ヨブ記では、友人たちの議論の中に主の御名がほとんど出てきません。主の御名を忘れてしまうと、私たちはどんどん罠に陥り、怒りへ、絶望へと落ち込んでいきます。今日の箇所では、ヨブが本当に必要としていたものが何だったのか、それがヨブ自身の口から叫ばれます。
19章は、18章のビルダデの言葉に対するヨブの答えです。ビルダデは「いつになったら、あなたがたはその話にけりをつけるのか」(ヨブ18:2)と言い、ヨブの話をまったく聞かずに「まず私の言うことを聞け」と主張しました。大きな声を武器にして相手の言葉を封じることは、相手を傷つけ、怒らせ、物事をややこしくするだけです。ビルダデもエリファズもツォファルも、初めからヨブを悪人だと決めつけ、「あなたはこうだから、こうしなさい。そうすれば治る」と言い続けました。ビルダデは18章で、悪しき者がどんな最期を迎えるかを延々と語ります。それを聞いたヨブは「結局、私を悪者扱いしているのか」と怒りのボルテージが上がり、ここで一つの爆発を起こします。
自分の目の中にある梁を取り除かなければ、相手を怒らせ、相手の人生や性格まで歪ませてしまいます(マタイ7:3-5)。「自分は100%正しく、相手が100%間違っている」という思い込みこそ、家を支えるほどの太い丸太のような梁です。私たちはまずこの梁を取り除かなくてはなりません。
5節と6節を見ましょう。「もし本当に、あなたがたが私に向かって高ぶり、私が受けた恥辱のことで私を責めるつもりなら、今、知れ。神が私を不当に扱い、ご自分の網で私を取り囲まれたことを。」(ヨブ19:5-6)
ヨブは友人たちから恥辱を受けました。そして何よりも、神が自分を不当に扱ったのだと真剣に思っていました。新旧約聖書全体、ヨブ記全体を見れば、神は不当なことをなさらない方だとわかります。けれどもこの瞬間、ヨブはそう思いました。私たちもまた「神は私を不当に扱われた」と思いがちです。それは私たちが陥りやすい罠です。どんなにそう思えても、私たちは自分の魂を否んで「主は良いお方だ。今こうなっているのには理由がある」と宣言するべきです。神は憐れみ深く、恵み豊かで、私たちをより優れたものにし、祝福の深みを増し加えるためにこのことをされるのだと、主に望みを置くべきです。
ヨブは、神がどのように自分を扱ったかを7節から12節で語ります。「見よ、私が『暴虐だ』と叫んでも答えはなく、叫び求めても、さばきは行われない。」(ヨブ19:7)「神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれた。神は私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた。」(ヨブ19:8-9)神は私を打ち倒し、根こそぎにし、怒りを燃やし、敵のように見なし、ついには私の周りに陣を敷かれた、とヨブは心境を告白しました。
さらに13節から20節では、兄弟も知人も親族も、しもべも、妻さえも、ヨブから離れ、見下し、嫌がり、背を向けていった様子が語られます。そして20節で「私の骨は皮と肉にくっつき、私はかろうじて生き延びている」と言います。原文を直訳すると「歯の皮一枚で」です。薄皮一枚で生き延びているような状況だということです。
このようなヨブに対して最善の対処は何でしょうか。21節で、ヨブ自身が叫んでいます。この一節がヨブの本心を見事に表しています。
「あなたがた、私の友よ、私をあわれめ。私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。」(ヨブ19:21)
「あわれめ」はヘブライ語で「ハヌーニ」、ハナンの命令形です。コーエンでもよく学んでいますね。ハナンは恵み、憐れみであり、友として好意を寄せることでもあります。ヘブライ語で繰り返すのは強調です。ヨブはこの命令形を二回続けて叫びました。ヨブがこの時に必要としていたのは、神学でも理屈でも因果応報でもありませんでした。憐れみでした。
けれども友人たちは、ずっと罪の指摘をするばかりで、憐れみを一つも与えませんでした。ここに私たちが陥りやすい罠があります。罪の指摘ばかりでは、人はへし折られ、立ち上がれなくなってしまいます。私たちは愛、憐れみ、赦し、その恵みという、イエス様のご性質をもって人と関わるべきです。そして主に教えを求めるべきです。「御霊よ、今この人に何が必要ですか」と。時には憐れみではなく、戒めや力が必要なこともあります。それを知っておられるのは、人の心の奥底を探り極める御霊だけです。だから私たちはいつも主に聞くべきなのです。
22節では「なぜ、あなたがたは神のように私を追いつめ、私の肉で満足しないのか」(ヨブ19:22)と言います。友人たちは神の代弁者になったつもりでヨブを責めていました。では、主は実際にどのようなことをされたお方でしょうか。
ベテスダの池のそばに、38年間病気のまま置かれていた人がいました(ヨハネ5:1-9)。誰も彼を顧みませんでした。そこにイエス様が友となって来てくださり、「良くなりたいか」と声をかけられました。彼の答えは「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません」(ヨハネ5:7)でした。「誰もいないのです」と。まさにヨブと同じ状況です。今の世の中にも、そういう人が大勢います。
世の人は、解決のない所に人を連れて行きます。「因果応報だ、罪のせいだ」と言って、何の解決もない所へ人を導きます。けれども、私たちが人を導く先は、ただイエス様であるべきです。イエス様は、誰もいない人のところに友として行き、声をかけ、立ち上がらせ、癒してくださいました。誰もいないと言う人のところにイエス様を届けること、それが皆さんの務めです。先ほど賛美した86番も、世の友に捨てられる時にも、傷ついた心を憐れみ癒してくださるイエス様は、いとも良き友だと歌っていました。
ヨブはさらに23節以降で叫びます。「ああ、今できるなら、私のことばが書き留められればよいのに。書物に記されればよいのに。鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。」(ヨブ19:23-24)
近所にも、岩に文字が刻まれた古い石碑がありますが、もうなかなか読めません。岩に刻んだ文字でさえ消えていきます。けれども、神の言葉は消えません。神様はヨブの叫びを、岩に刻むよりも確かな神の言葉として、永遠の書物に記してくださいました。だから今、私たちはヨブ記を読むことができるのです。そして神様は、ヨブの問題に対する永遠の解決、真の友イエス様を送ってくださいました。
25節で、ヨブは驚くべきことを言います。まるでイエス様を知っているかのような言葉です。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには土のちりの上に立たれることを。」(ヨブ19:25)
贖う方が生きておられ、やがて地のちりの上に、そしてちりとなった人々の上に立って治めてくださる。神の似姿として造られた人間を、悪魔サタンはただのちりにしてしまいましたが、そのちりである人間の上に立ち、神の子どもにしてくださるイエス・キリストを、神は送ってくださるのです。これはヨブが御霊によって示された言葉でしょう。
「私を贖う方」はヘブライ語で「ゴアリー」、「ゴエル(贖う者)」に「私の」がついた形です。ゴエルといえばルツ記です。異邦人のルツを買い戻し、妻として迎えたのは、買い戻しの権利者ボアズでした。そしてルツは、イエス・キリストの系図に名を連ねました(マタイ1:5)。真の買い戻しの権利者はイエス様です。イエス様は皆さんの友となって皆さんを買い戻し、神の子ども、イエス・キリストの兄弟姉妹として、永遠の栄光の家系に招き入れてくださいます。
ちなみに、このヨブ記19章25節は、ヘンデルの「メサイア」第3部の冒頭のアリアになっています。1742年、アイルランドのダブリンでの初演は慈善演奏会で、その収益によって、借金が返せず牢屋に閉じ込められていた140人余りの人々が解き放たれたと言われます。ロンドンのウェストミンスター寺院にあるヘンデルの記念像は、今もこのアリアの楽譜を手にしています。負債で牢屋に閉じ込められた人々を救い出す、真のゴエルはイエス・キリストです。
今日学ぶべきことは、人は離れていき、人は捨てるということです。助けにもならない所に38年も置き去りにされることもあります。けれども、私たちの最も近い友となってくださるイエス様が、私たちを贖ってくださいます。ヨブはそういう人がいないと叫び、ついに怒りを爆発させてしまいましたが、御霊によって「私は知っている。贖う方がいる」と示されました。
冒頭で宣言したのはヨハネ15章12節と13節でした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:12-13)
イエス様は、私たちがまだ敵であった時に友として来てくださり、命を捨てるほどの愛で愛して、私たちを贖ってくださいました。私たちもイエス様に倣い、互いに愛し合いましょう。決して離れない真の友イエス様を人々に届け、また自分自身もイエス様の愛と憐れみと恵みによって癒された者として、今日もしっかりと立って、イエス様の業を成していく皆さんでありますように。
愛するイエス様、あなたは私たちの友となり、命を投げ出すほどの愛で私たちを満たしてくださいました。いつもあなたを握りしめ、あなたに聞くことができますように。愛がない、憐れみがないと叫び、気落ちしている人のところに、あなたを届けていくことができますように。私たちを用いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【結論】
ヨブを追い詰めたのは、自分は正しいという思い込みの梁を抱えたまま、罪の指摘と因果応報を押し付ける友人たちの言葉でした。苦しみの中でヨブが二度叫んだのは「あわれんでくれ」でした。人に必要なのは理屈ではなく憐れみです。そしてヨブは御霊によって「私を贖う方は生きておられる」と告白しました。その贖い主、真のゴエルであるイエス様は、命を捨てるほどの愛で私たちの友となってくださいました。私たちは、誰もいないと叫ぶ人をこのイエス様のもとへ導き、イエス様が愛してくださったように互いに愛し合う者となりましょう。