わが魂よ、主をほめたたえよ − 主語を「私」から「主」へ、魂に命じる名人に(詩篇103:1)
メッセージ音声
【概要】
詩篇102篇から103篇への流れを通して、「私は」を主語にした人生は惨めさに沈んでいくが、主語を「主」に切り替え、鬼が云々する自分の魂に向かって「わが魂よ、主をほめたたえよ」と命じるとき、人生が希望へと塗り替えられることを語るメッセージです。
【聖書箇所】
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詩篇103:1
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詩篇102:1
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詩篇102:3-11
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詩篇102:12
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詩篇103:5
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ヘブル4:12
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民数記13:33
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詩篇42:5
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詩篇57:8
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マルコ8:34-35
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詩篇103:2-5
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Ⅱコリント10:4-5
【戒めの言葉】
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「私は、私は」と自分にばかり目を留めていると、荒野のミミズクやはぐれた鳥のような惨めな自分像がどんどん大きくなります。それは謙遜ではありません。
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魂が脚色して流してくる絶望や自己卑下の声に聞き入り、それを言い訳にしたり、その表情や言葉で周りの場を悪い方向に支配したりしてはなりません。
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頭の中のはかりごとや「自分は100%正しい」という鬼の云々を野放しにすると、悪魔サタンの要塞が堅固にされていきます。
【勧めの言葉】
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魂と自分(霊)を御言葉によって切り分け、うなだれる魂に向かって「わが魂よ、主をほめたたえよ」と命じる名人になりましょう。
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魂はしつこく語りかけてきます。スヌーズのように何度でも「わが魂よ、目を覚ませ」と霊を呼び覚ましましょう。
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主が良くしてくださったことを一つずつ数え、何一つ忘れないようにしましょう。
【励ましの言葉】
主語を「私」から「主」に転換するとき、人生は鷲のように若々しく新しくされ、私たちの霊的な武器は要塞をも打ち倒す力を持っています。
【詳細】
今日、恵みをいただく御言葉は詩篇103篇1節です。宣言します。
「ダビデによる。わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。」(詩篇103:1)
愛するイエス様、あなたの御名をほめたたえます。今朝も私たちはあなたを知りたい、あなたと出会いたいと願いつつここに来ました。どうか御言葉を通して豊かに出会ってください。すべての時があなたの恵みで満ちあふれたものとなりますように。主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
ここつくばみらいでは、いつもヨブ記の講解説教をしています。ヨブ記は人間の議論に満ちていて、主の御名がほとんど出てきません。そこで今日は、たまには息抜きとして、主の御名がふんだんに出てくる詩篇から恵みをいただきたいと思います。
詩篇103篇はとても有名な箇所で、読んでいると励まされる希望にあふれた詩篇です。その直前の102篇の表題を見ると、「苦しむ者の祈り」とあります。1節は「主よ、私の祈りを聞いてください」(詩篇102:1)と始まります。表題と最初の一節というわずかな箇所に、早速、主の御名が二回も出てきます。いつもヨブ記を見ている私たちからすると、なんと斬新な祈りだろうと思えます。102篇の作者は苦しみの真っ最中にありますが、すぐに主の御名を呼び求めているのです。
ではなぜ彼は苦しんでいるのでしょうか。1節から11節を見ると、私の日々は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃え、私の心は青菜のようにしおれた、と言っています。さらに「私は荒野のミミズク、廃墟のふくろう、屋根の上のはぐれた鳥のようだ」(詩篇102:3-11)と、自分のことを宣言してしまっています。
なぜ彼はこんなに惨めなことを言ってしまっているのでしょうか。なぜ私たちの人生は惨めな思いに満たされてしまうのでしょうか。その原因は、102篇の主語を見れば明らかです。「私は、私は」と、何度も「私」が主語になっています。主語を「私」にしてしまうと、どんどん惨めになり、弱い私、ミミズクのような私、はぐれた鳥のような私になっていってしまいます。「私が鷲のように新しくなるなんて、とんでもございません。私はミミズクでございます」というのは、謙遜でも何でもありません。自分にクローズアップしていると、惨めな自分像がどんどん大きく映し出されてしまうのです。
けれども102篇は、途中で雰囲気がガラッと変わります。12節で「しかし」が出てきます。「しかし主よ、あなたは……」(詩篇102:12)と、ここから主語が「私」から「主」へと切り替わっていくのです。これが人生を切り替えるコツ、主語の転換です。「私」が主語の人生はどんどんしおれて、青菜のように、ふくろうのようになっていきます。けれども主が主語になっていくと、鷲のように若々しく新しくされ(詩篇103:5)、翼を駆って上っていくことができます。
103篇1節で、ダビデは「わがたましいよ」と、自分の魂に向かって二人称で命令しています。ダビデは、魂と自分とを別物として切り分けていたようです。皆さんも切り分けるべきです。魂は「だめな私、ふくろうのような私、しおれた私」とささやいてきます。その時、魂を指差して「おい、魂よ、主をほめたたえよ」と命令するのです。主語を「私」から「主」に転換する。これが、暗かった人生を希望に転換する具体的なやり方です。
なぜ魂に命じることがそれほど大事なのでしょうか。ヘブル書にこう書いてあります。「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(ヘブル4:12)魂と霊は、御言葉によって切り分けられた状態にならなければなりません。そして切り分けられた状態で、霊が魂に向かって「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と言うべきなのです。
魂はしばしば私たちに語りかけてきます。「誰も私のことをわかってくれない」「何もしたくない、寝ていたい、もうだめだ」。しかも厄介なことに、魂は感情という色をつけて、皆さんの心をふさぎ込ませ、覆いかぶさってきます。
駅に行くと、電光掲示板に文字が流れています。魂という電光掲示板に流れてくる声をじっと見続けていると、心を大きく揺さぶる文字が次々に現れます。スマホを見ていても、次から次へと動画が流れてきますね。流れてくる動画を見続けていると、時間が奪われ、せっかく祈りで清めた思いが世の中のさまざまなもので汚されていくのを感じます。動画を編集したことがある人はわかると思いますが、効果音やキラキラした絵やキャプションで、いくらでも脚色できます。魂も同じように脚色してくるのです。
魂が脚色した絶望感や自己卑下にそのまま見入っていると、「何もやりたくない、もうだめだ」となってしまいます。そして魂の声を言い訳にして何もしなかったり、ふさぎ込んだ表情で相手を支配し、場を悪い方向に支配してしまったりします。あるいは、脚色された思いから流れ出る言葉で、主の御言葉を覆い隠してしまいます。かつて荒野の民は「あちらの人々は私たちより強い。彼らは巨人に見えた。私たちは自分の目にいなごのように見えた」(民数記13:33)と脚色し、神様が約束してくださった地を、良くない地のように言いふらしました。そしてその世代は荒野で滅んでしまいました。私たちは魂の言葉ではなく主の御言葉を優先させ、主の御言葉で魂を逆にやり込めるべきなのです。
魂という漢字を一度書いてみましょう。何が云々していると書いてありますか。鬼が云々していると書きます。魂が云々してくる声は、鬼が云々している声だと理解してください。「敵は私よりも強い、自分はいなごのようだ」「私は絶望だ」「私には知識がない」「私の人生はずっと無駄だった」。こうした鬼の云々が聞こえてくる時、皆さんもダビデのように命じるべきです。「わがたましいよ、主をほめたたえよ。」
ダビデはこの、魂に向かって命じることの名人でした。だからこそ偉大な王になれたのです。皆さんも、この地上で自分の人生を正しく治める偉大な王になりたくないでしょうか。それなら、魂の言いなりになるのではなく、魂に向かって命じる名人になってください。「わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。……神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」(詩篇42:5)「わがたましいよ、目を覚ませ。琴よ、竪琴よ、目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。」(詩篇57:8)
今朝も皆さん、眠い目をこすって起きたはずです。スヌーズ機能を使っている人はいるでしょうか。何度も鳴っては止め、鳴っては止め、うるさいからとスヌーズを切って寝込んでしまう人もいます。魂は本当にしつこく、何度も何度も皆さんを絶望や心配事や「私はだめだ」で覆いかぶせようとしてきます。だからこそ皆さんも、スヌーズのように何度でも「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と、霊の眠りを呼び覚ましていくべきです。
イエス様は、魂をどう扱うべきかをはっきり教えておられます。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(マルコ8:34-35)
ここで「いのち」と訳されているのは、ギリシャ語で「プシュケー」、魂のことです。「あれはしたくない、これはしたくない」「あいつが悪い、私は悪くない」という魂の言葉を救おうとする者は、実はそれを失ってしまいます。「相手が100%悪くて、自分は100%正しい」という鬼の云々を救おうとしてはなりません。むしろ「私はイエス様の前で罪人です。私はイエス様によって罪が贖われ、清められた者です。私はイエス様を信じることによって神の子とされた者です」と、御言葉の方を優先させるのです。福音のため、御言葉のために自分の魂を否む者こそが、魂を得、永遠のいのちを得るのです。
「自分を捨て」は「自分を否む」とも訳せます。ペテロは三度、イエス様を知らないと否みましたが、それと同じ言葉です。皆さんはイエス様を否むでしょうか、それとも自分を否むでしょうか。自分を否むべきです。魂を否んで、イエス様の御声についていくべきです。うなだれている魂に対しては、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と宣言するのです。
主は良いお方です。103篇2節以降には、主が何をしてくださったかがたくさん出てきます。主は私の咎をことごとく赦し、病をことごとく癒やし、私のいのちを穴から贖い、私の一生を良いもので満たしてくださる。そして私を鷲のように若々しく新しくしてくださる(詩篇103:2-5)。主がどのようなお方であるかに心を留めるべきです。
冒頭で宣言したのはコリント人への手紙第二10章4節と5節でした。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえてキリストに服従させます。」(Ⅱコリント10:4-5)
私たちの戦いの現場は外ではなく、内側にあります。私たちの頭の中では、さまざまな議論が行われています。ヨブ記でも多くの議論がなされていました。神の知識に逆らって立つ高ぶり、つまり神様よりも自分の魂の方が上だという高ぶりを打ち倒し、「この場はこうやって、あいつを悪者にして、自分がのし上がろう」といった頭の中のはかりごとをとりこにしてキリストに服従させるなら、要塞は打ち倒されます。けれども、はかりごとや魂の云々、鬼の云々を野放しにしているなら、悪魔サタンの要塞がますます堅固にされていってしまいます。
ですから皆さんは、ダビデのように「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と言うべきです。冒頭で「数えてみよ、主の恵み」と賛美しましたね。主の恵みを一つずつ数えていくなら、ふさがった心はどんどん希望に満ちた心になっていきます。ダビデのように自分の魂への命令上手となり、魂を取り押さえてキリストに服従させ、目の前に立ちはだかる要塞をどんどん打ち壊し、悲観的だった人生を、喜びと希望に満ちた人生へと塗り替えていく皆さんでありますように。イエス様の御名によって祝福いたします。
愛するイエス様、あなたは御言葉を通して私たちに希望をもたらしてくださいました。私たちの魂の云々は何の益ももたらさず、ただあなたから引き離し、あなたよりも自分を上に立てて高ぶらせ、悪魔サタンの要塞を積み上げてしまいます。ダビデは「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と言いました。私たちもダビデのようにキリストの側に立ち、御言葉を私たちよりも上に立て、魂をキリストに服従させて、あなたについてまいります。今日一日も希望と喜びにあふれて歩めるよう、助け導いてください。主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【結論】
102篇の作者は「私は、私は」と自分を主語にしたために、荒野のミミズクのような惨めさに沈んでいきましたが、「しかし主よ」と主語を主に切り替えたところから希望が開けていきました。魂は鬼のように云々し、脚色した絶望や自己卑下を流し続けます。私たちは御言葉によって魂と霊を切り分け、ダビデのように「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と魂に命じる名人となり、自分を否んでイエス様に従い、魂の云々やはかりごとをキリストに服従させて要塞を打ち倒していきましょう。主の恵みを数えるとき、人生は鷲のように新しくされ、希望に満ちたものへと塗り替えられます。