「私は悪くない」という自己義の呪い − すみやかに主の前にへりくだる(ヨブ記10章)
メッセージ音声
【概要】
苦しみの中で「自分は正しい、神が間違っている」と訴え続けたヨブの姿から、すべての打ちたたかれの源は「私は悪くない」という自己義であることを学び、ダビデのように速やかに主の前にへりくだる歩みへと導かれるメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ記10:1
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ヨブ記10:3
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ヨブ記10:8-17
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ヨブ記10:18-19
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Ⅰヨハネ1:8-10
【戒めの言葉】
「私は正しい、相手が悪い」という自己義こそが、創世記3章のエデンの園以来、人類が握りしめ続けている呪いの源です。
【悔い改めの促しの言葉】
苦しみという火によってあぶり出された自分の罪を、速やかに主のもとへ持っていき、「私が間違っておりました」と告白するところに、雪よりも白くされる清めの始まりがあります。
【勧めの言葉】
どんなことでも人と論じ合うのではなく、まず神様に近づき、神様と論じ合いましょう。十字架にかかられたイエス様に近づくことだけが、すべての解決の発端となります。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記の10章です。初めに1節を宣言いたします。「私の魂は命を忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、魂の苦しみのうちに私は語ろう。」アーメン。
一言お祈りします。ハレルヤ、愛するイエス様、今朝もまた私たちはあなたの御前に進み出ました。あなたから日々糧をいただかなくてはならないからです。どうか私たちに必要な今日の命の糧を、御言葉を通して与えてください。今、私たちの思い、心、体、すべてをあなたに向けることができますように。一切の体調不良や、仕入れてきた諸々の煩い、それらをしっかりと十字架の前に下ろして、御前に進み出て、清らかなあなたの御言葉にあずからせてください。これからのすべてをあなたに期待し、あなたの御手にお委ねし、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
さて、私たちはヨブ記から養いを受けているのですが、ヨブはこの神様に対して、初めはとても浅はかと言いますか、神様とは疎遠だけれども、自分は本当に正しく生きてきたんだというスタンスで生きておりました。ヨブの正しさ加減、その義人としての力は、本当に見上げるようなものでした。けれども、それまで彼は神様に対して第三者的な、三人称の関係だったのです。
ところが、この苦しみにあって、どんどんヨブは神様と一対一の、直接の関係、二人称の関係が大きくなっていきます。そしてこの10章では、もう神様との二人称での話し合いがずっと続く、そういう章になります。
神様に対する直接の訴えではあるのですが、でもその内訳は、神様に対する不平のぶちまけなのです。もう一度10章1節を見ますと、「私の魂は命を忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、魂の苦しみのうちに私は語ろう。」というふうに、神様に対する感情的な嘆きのぶちまけに発展していきます。
感情的なぶちまけなので、もちろんその内容を見ますと、神様に対して持っている偏見とも思えることが多々あります。でも少なくとも、たとえ不平のぶちまけであろうとも、神様と親密に交わろうと、神様に対して一対一で論じ合おうとしている。この主に近づいて論じ合おうとする人は、救いが遠くない人の特徴です。あくまで神様に対して三人称の人は、救いから遠い。けれども、神様と一対一で話し合おう、もう文句がある、だからすったもんだして相撲を取ろう、そういう人は神様に近い人、救いが近い人の特徴です。
それに対して、ヨブの友人たちは、確かに弁論の内容は正しいと見られることが多い。けれども、彼らの中にはついぞ主の御名が、主の名前が一切ありませんでした。神様との個人的な関わりがないのです。神様抜きで、世の中の知恵や知識をしこたま仕入れている人は、もうずっと議論が絶えないのです。
そしてヨブ自身も、神様との論じ合いがない状態の友人たち、主の御名がない人たちとぶつかると、何が起こるか。終わりなき議論です。ひたしのない消耗戦が待っているのです。神様との個人的な関わりがないとするならば、終わりなき議論、終わりなき論破の試合、終わりなき格闘があるわけです。でも、どうせ格闘するのなら、神様と一対一で格闘するべきなのですね。ヨブは神様と関わろうとしました。ですから、少なくともその点においては、友人たちよりはヨブの方が真実だったのです。
さらに3節以降を見ますと、ヨブは神様に対して、「神様、あなたは果たして肉に過ぎない人間のようなんですか。あなたは不当に人を虐げたり、また悪人の方を良しとして、こんな義人として頑張っている人間にひどい目に遭わせて、果たしてそれが正しいんでしょうか。あなたは御手の業を捨ててしまってはいないでしょうか」と、喧嘩腰でふっかけているのです。「神様、あなたは肉の目で世の中を見て、罪のない人間を不当に苦しめている、そうじゃないですか」と。
もちろん行き過ぎた思い込みが多々あるのですが、問題なのは、世の中の多くの人たちが実にこのヨブと同じ目線で見ているということです。多くの人々は神様に敵対して、「神様、あなたこんな風にして不当じゃないですか」と、偏見を持った目で神様を見ている。これが問題なわけです。
ではこういった偏見は、どうして起こるのか。理由は単純です。その原因は実に単純明快です。それは、「自分は正しい、相手が間違っている」という立場に立ち続けていることが原因です。このスタンスに立ち続けている限り、人間との議論はずっとエンドレスですし、打ちたたかれや痛みもずっとエンドレスです。
ヨブはまさに、3章から37章までずっとこのスタンスに立ち続けていて、だから延々と議論がエンドレスで続きます。自分が正しいと立っている人が二人いるとエンドレス、三人いるともっとカオス、四人、五人だともっとわけがわからないエンドレスです。
そして38章から、ただ神様のお言葉、ただ神様のお力、神様の栄光だけが輝いていく章となります。その末にヨブはようやく、「もう本当に私はゆえもなく、知識もなく、神様を悪としてきた。本当に私は悔い改めて、塵と灰の中に打ち伏します」と告白する。そこから祝福が戻ってきました。
私たちも本当に同じ過ちに陥りがちです。「私は正しいんだ、相手が違うんだ、神様の方が間違っているんだ」と。この10章の中でも、「私が正しい、私が正しい」が芽を出し始めて、そのキーワードが出てくるのです。
けれども、私たちが立つべきスタンスは、「義人はいない、一人もいない」という前提で生きることです。冒頭で宣言したのは、第一ヨハネの手紙1章からでした。Ⅰヨハネ1:8-10を宣言しますと、「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義から清めてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神の言葉はありません。」アーメン。
もし自分は罪を犯したことはないと言うとするならば、神様の方を偽り者としていることです。そうするならば、神の言葉が私たちのうちにありません、と10節で締めくくっています。ヨブはまさに10章において、神様の側を偽り者とし、自分の側を正当なものとしてしまった。「私は悪くない、相手が悪い」。これはもう、創世記3章、エデンの園からずっと人類が握りしめ続けている呪いの源、呪いの性質です。
アダムは「私は悪くない、妻が悪い」。妻の方は「私は悪くない、蛇が悪い」。確かに蛇は悪い、確かに悪魔サタンは悪いです。けれども「私は悪くない」、これが悪いのです。「悪魔サタンが一方的に悪いんだ、悪霊がこうさせるから悪いんだ」、確かにそうかもしれませんが、「私は悪くないんだ」というスタンス、これが結局、すべての呪いを招いてしまう源になってしまいます。
ヨブは確かに義人を貫いていたかもしれません。いわれのない罪は犯さなかったかもしれない。けれども唯一、彼が犯していた罪、それがエデン以来ずっと持っていた根本的なもの、すなわち「私は悪くない、私は聖徒だ、私は正当だ、相手が悪いんだ」と思い込んでいる、それです。そう思い込んでいる人は争いが絶えない、災いが、打ちたたかれが絶えないのです。義人は本来一人もいないはず。けれども「自分はあくまで正しいんだ」が根付いて、握りしめていることすら意識できないほどになっているとするならば、これはもう打ちたたかれが激しくなってしまうのです。
10章8節以降を見ますと、ヨブはさらに「私をこういうふうに作ってくださったのはあなたではありませんか」と主張しています。多くの人がこう思います。「神様、あなたがこういうふうに作ったんでしょう。そう作っておきながら、不当に私を苦しめて、私がたとえ正しくても、圧倒的な力でねじ伏せて『あなたに罪がある』とねじ伏せてしまっている。これは一体何なんですか」と。これが14節から17節のヨブの主張です。
確かに世の中そう主張する人は多いですが、結局のところ一緒なのです。「自分は正しい、自分には罪がない」という前提条件、これがそもそもの打ちたたかれの原因、打ちたたかれネタなのです。それは「私の中に間違っているところはない」というところです。
ダビデの場合は、すぐに「私が間違っておりました」に持っていきます。ダビデは本当に良くない罪を犯しました。それを預言者ナタンに指摘された時、ダビデはすぐに「私が間違っていた」と持っていきました。だからダビデは打ちたたかれが少なかったのです。ヨブの場合は3章から37章までずっと「私が正しいんだ」を主張して、打ちたたかれがずっと続きました。確かにヨブは1章、2章で見上げるような義人力を発揮したのですが、その気高さゆえに、それがかえって邪魔してしまって、打ちたたかれがずっと続いてしまったのです。
18節と19節をお読みしますと、要はこう言っています。「なぜあなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたなら、誰の目にも止まらなかったでしょう。私は存在しなかったかのように、母の胎から墓に運ばれていたらよかったのに。」ヨブは再び「生まれなかった方がよかった」と嘆きます。3章でも同じ嘆きをしていますが、3章の嘆きはただのつぶやき、神様に向いていないつぶやきでした。けれども10章の同じ内容は、今度は神様に対するつぶやきになっています。「こんな正しいものがこんなに苦しい目に遭うのは不当だ、不条理だ。こんなことをするくらいなら、私を生まれさせなければよかったんだ」と。
感情的になればなるほど、本当に隠れていた自己義という高慢がどんどんあぶり出されていきます。レモンの汁を紙に書いても、紙は白いままで見えません。火であぶり出されて、ようやく見えてきます。私たちもこの苦しみという火を通して、隠れていた罪があぶり出されていきます。そして、あぶり出されたらしめたものです。それを神様のもとに持っていって取り扱えばいい。そうすれば罪がごっそりと取り除かれて、雪のように白くされていく、その始まりが始まるのです。
本当に、私たちは神様と論じ合おう、主に近づいて主と論じ合おう。そこからすべての罪が雪よりも白く、羊の毛のようになる、その始まりになるのです。何かある都度、人と論じ合うのではなく、神様に持っていく。それならば雪よりも白くなる、その始まりになります。
先ほど賛美した343番、「泣けど空し」という賛美ですね。神様抜きで泣いても泣いても虚しい。この罪を、我らは洗えない。ただ十字架にかかり苦しみしイエス、我を救うはただただイエス。だからすぐにイエス様に持っていく人は幸いです。イエス様抜きで泣いても虚しい。「行い思い、清く正せど、新たになれず、力虚し」。本当にヨブの状態です。ヨブは義人力はすごかったけれど、いくら自分で自分を清くしようとしても、それは虚しい。ただ十字架にかかり苦しみしイエス、このお方こそがすべてなのです。三番では「堪えど空し」。弱きこの身は罪に溺れて死ぬほかなし。四番では「信仰は強し」とあります。十字架にかかりしイエス、このお方に向かうこと、このお方に近づくこと、ただこれだけがすべての解決の発端となっていきます。
世の中の人たちは神様に不平不満をぶちまけます。なぜか。「自分は正しい」、そのスタンスだからです。これが創世記3章以来の呪いです。「あの人が間違っている、私は悪くない、妻が悪い、蛇が悪い」としている限り、打ちたたかれは続きます。けれども「私が悪かった、イエス様、どうか赦してください、助けてください」、こういう人こそが赦しが近く、救いが近い人です。
皆さんは本当にこのイエス様に近づいて、イエス様にすべてをぶちまけるのもいいです。イエス様に近づいて、イエス様にあって義人とされ、罪が清められていく。ますますイエス・キリストにある義人力が高い皆さんとなっていきますように。イエス様のお名前で祝福いたします。アーメン。
【結論】
苦しみの火は、私たちのうちに隠れていた「私は正しい、私は悪くない」という自己義の罪をあぶり出します。しかし、あぶり出されたらしめたもの。ヨブのように三人称で神を責め続けるのではなく、またダビデのように速やかに「私が間違っておりました」と主の前にへりくだり、十字架にかかられたイエス様のもとへすべての重荷を下ろすとき、私たちは楽になり、雪よりも白く清められていきます。すべての解決の発端は、ただイエス様に近づくことにあるのです。