主語を「私」から「主」へ − 苦しむ者の祈り(詩篇102:1-17)

執筆者:

カテゴリ:

主語を「私」から「主」へ − 苦しむ者の祈り(詩篇102:1-17)

Youtube動画

メッセージ音声

【概要】

「私」に目を向けている間は惨めさが続きますが、主語を「主」へと転換するとき、人生は希望へと変えられ、鷲のように新しくされるというメッセージです。

【聖書箇所】

詩102:1-17/詩101:1-8/詩103:3-9

【励ましの言葉】

困ったときには真っ先に「主よ」と呼び求めましょう。主を呼び込むとき、解決の主が真っ先に飛んできてくださいます。

【慰めの言葉】

主はとこしえに怒ってはおられません。窮したものの祈りを顧み、礼拝する者を立て直し、良いもので一生を満たしてくださいます。

【戒めの言葉】

「私、私」と自分だけに目を留め続けると、荒野のミミズクのように惨めな堂々巡りに陥ってしまいます。

【勧めの言葉】

主を仰ぎ、主を礼拝し、主を主語として生きましょう。そのとき、主の栄光があなたを通して輝きます。

【***詳細***】

おはようございます。今朝、恵みをいただく御言葉は、詩篇102篇1節から17節です。はじめに、102篇の表題を宣言いたします。

「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出した時のもの。」アーメン。

一言お祈りをしてから始めましょう。私たちの愛する主よ、この地上の人生を歩んでいると、時に苦しみに悩み、気落ちし、病んでしまうことがあります。しかし、そのような時であっても、私たちがあなたに向かうとき、あなたは私たちを鷲のごとく新しくしてくださいます。この早朝、あなたへと向かいます。どうか、取り次ぐ僕の唇を、また聞く一人一人の耳を通りよくして、天からの命の泉を豊かに湧き上がらせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

さて、何年か前、2019年か2020年の頃まで、私は詩篇の公開説教をしていて、ちょうど101篇で止まっていました。それ以降は働き人たちにこの講壇メッセージをお預けして、世界における活動がいろいろと広がっていきました。この続きをやりたいと思っていたのですが、最近またこの講壇に立つ機会が増えてきましたので、今一度、この詩篇のほうを見ていきたいと思いました。

今日はこの横浜において、詩篇102篇です。前回の101篇、といっても、もう五年以上前ですが、101篇のほうは「ダビデの詩篇」で、「私は○○します」というダビデ王の決心が綴られている詩篇でした。この「ダビデの」という表題は101篇にありますし、次の103篇にも「ダビデによる」とあります。しかし、この102篇の表題には「ダビデ」とは書いてありません。「苦しむ者の祈り」とだけ書いてあって、名前がないのです。

ダビデかもしれません。しかし、あえて名前を書かなかったのかもしれません。そこは分かりません。ただ、名前が書いていない以上、これは誰か特定の人の祈りではなく、皆さんお一人お一人にも当てはまる祈りなのです。今、苦しんでいるでしょうか。今、喜んでいるでしょうか。喜んでいる人も、やがて苦しむかもしれません。苦しむとき、ぜひこの祈りを思い出していただきたいと思います。

101篇では、ダビデが「私はこれから希望に満ちて、これこれのことをします」と決心しました。皆さんも、今年の1月に新たな目標を立てたのではないでしょうか。その目標を、覚えているでしょうか。今、2026年10月になりました。残りはもう三ヶ月を切っています。あの1月の新たな決意どころか、何か毎日を忙しくこなすだけで精一杯。「ああ、今日もやっと1日が終わった」「朝起きたら、あれもしなければ、これもしなければ」。そういう忙しさで満ちていないでしょうか。気づけば燃え尽きそうになっているかもしれません。

この102篇は、101篇で希望に満ちて立てた目標が、燃え尽きてしまったような順番になっているのです。せっかく新たな希望を立てたけれども、102篇においては、疲れてしまった人の祈り、苦しむ者の祈り、気落ちして自分の嘆きを主の前に注ぎ出した人の祈りです。

ただ、燃え尽きたとき、自分の嘆きを主に告白するのではなく、自分の中だけで思い巡らして、「ああ、私かわいそう。あれもこれもやっているのに、誰にも評価されない」としていると、どんどん落ち込んでいくだけなのです。

では、1節を見てみましょう。

「主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びがあなたに届きますように。」

この1節だけでも、なんて前向きなのだろうかと思うのです。なぜ前向きなのか。ヨブ記を読んでいると、ずっと主に向かうことなしで、「主」という言葉なしで、人間同士の議論、「自分かわいそう」「相手が間違っている」ということがずっと議論されて、心が荒んでいきます。主に向かうということが一切ないと、本当に荒んで病んでいって、罵倒の試合のようになってしまいます。

けれども、この102篇では、1節から早速「主よ」と、主の御名が真っ先に出てきます。気落ちすること、これはよくあることです。けれども、そのとき、ぜひ「主よ」と真っ先に叫んでください。主を呼び込むなら、解決の主が真っ先に飛んできてくださる。解決は早いのです。何か困ったことがあったら、まず主を呼び込むこと。これを真っ先にしてください。

2節を見ます。

「私の苦しみの時に、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、すぐに私に答えてください。」

御顔が照らされるとき、祝福の祈りのように、恵みが豊かに溢れます。また、「耳」というパーツは、私たちキリスト者にとってとても重要です。私たちはこの耳を使って主の御声を聞く。そして、主に向かって「あなたの御耳を私の祈りに傾けてください」と求めるのです。

これは、救いが近い人の祈りです。イエス様の十字架の場面で、両隣に強盗が十字架につけられました。一方は、「主よ、あなたが御国の位にお着きになる暁には、私を思い起こしてください」と言いました。「私を覚えてください」という、主との個人的な関わりを求めた祈りです。その強盗は、その日パラダイスに行くという約束を得ました。

3節から見ましょう。

「私の日は煙のうちに尽き果て、私の骨は炉のように燃えているのです。私の心は青菜のように打ち倒れて萎れ、パンを食べることさえ忘れました。私の嘆きの声で、私の骨は肉に溶けてしまいました。私はまるで荒野のミミズク、廃墟のフクロウのようです。私は眠ることもできず、屋根の上のはぐれた鳥のようになりました。」

ここで「私」という言葉がかなり出てきます。主語が「私」だけになると、私はどう見えるか。煙の中に尽き果てる私、青菜のように打ちしおれている私です。自分だけに目を留めると、荒野のミミズク、廃墟のフクロウ、屋根の上のはぐれた鳥のように、惨めな自分しかクローズアップされません。「クローズアップ私」だと惨めになるのです。けれども「クローズアップイエス様」だと、希望が湧いてくるのです。

なぜ彼はこんなに気落ちしているのか。8節にその原因があります。

「敵は絶えず私をそしり、嘲る者です。私を名指しにして毒づきます。」

敵、何か具体的な人間かもしれません。あるいは、自分で自分を毒づいているのかもしれません。あるいは、悪霊、悪魔サタンかもしれません。サタンは日夜、兄弟を訴える者と書いてあります。あたかも自分の内側から湧き上がるように、「お前はあれをした、これをした」と責め立てる。しかし、毒づくこと、訴えること、嘲ることは、悪魔サタンの本性です。

このような訴えを心に感じたとき、「イエス・キリストの名によって出て行け」と宣言するのです。イエス・キリストの十字架の血を見よ。罪に定められたのは私ではなく、悪魔、サタン、お前だと宣言するのです。イエス・キリストは十字架にかかって死んで葬られ、三日目に蘇り、今、全能者の右の御座に座しておられる。これは大いなる慰めであり、力強い根拠です。イエス様を根拠にするなら、たとえ疲れしおれ果てても、その人は鷲のように高く上がっていくのです。

9節、10節を読みます。

「まことに私は灰をパンのように食べ、飲み物に涙を混ぜ合わせました。それは、あなたが憤りと激しい怒りのゆえに私を持ち上げ、私を投げ捨てられたからです。」

ここで彼は「主が怒った」と言っていますが、果たして主はそのようなお方でしょうか。落ち込んでいるときはそう思うこともあるでしょう。けれども、103篇9節には「主はとこしえに怒ってはおられない」と書いてあります。この違いは何でしょうか。

102篇の1節から11節までと、12節以降とで、雰囲気がだいぶ違います。12節で、主語の転換があったのです。11節までは主語が「私」でしたが、12節以降、「しかし主よ」という言葉で始まります。

「しかし主よ、あなたは永遠に御座についておられます。あなたの呼び名は世々に及びます。」

主が主語になった途端、雰囲気が変わります。人生の切り替わりのコツは、主語の転換です。13節。

「あなたは立ち上がり、シオンを憐れんでくださいます。今や慈しみの時、定めの時が来ました。まことにあなたの僕たちはシオンの石を喜び、シオンの土を愛おしみます。」

シオンという言葉が何度も出てきます。シオンはエルサレムの礼拝の神殿の丘です。つまり、礼拝する者、主を仰ぐ者には、主から憐れみが来るのです。皆さんが主を礼拝するなら、主の慈しみ、憐れみ、赦しを受け、罪を清めていただき、栄光の天国へと導かれます。

15節から見ます。

「国々は主の御名を、地のすべての王はあなたの栄光を恐れます。まことに主はシオンを建て直し、その栄光のうちに現れ、窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされません。」

主に向かう人は、この栄光をいただくことができます。皆さん自身だけでは暗闇で、パッとしないかもしれません。けれども、主を抱くとき、主の栄光が皆さんを輝かせ、パッとした者になります。主は礼拝する皆さんを建て直し、皆さんを通して栄光を輝かせてくださいます。

17節にあるとおり、主は窮した者の祈りを顧みてくださる方です。皆さんの祈りはないがしろにされません。夜通し、朝早くからメッセージの準備に励む、その働き。今朝も三時半ごろに礼拝堂に入ったら、明かりがついていました。本当に主のために頑張っている、その栄光の光です。その労は決して無駄にされません。

102篇では、「私、私」と主語にしているうちは、荒野のミミズク、廃墟のフクロウ、屋根の上のはぐれた鳥の状態でした。けれども、主語を主に変えた途端、103篇5節ではこうなります。

「あなたの若さは鷲のように新しくなる。」

ミミズクやフクロウ、はぐれた鳥ではなく、鷲のごとく若々しく羽ばたいていけるのです。冒頭で宣言した103篇3節から見ましょう。

「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに恵みと憐れみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」

どうか皆さん、主に向きましょう。主に向いて、ミミズクやフクロウから鷲のごとく新しくされ、力強く、凛々しく、美しく上っていき、主の栄光を豊かに輝かせていく。そのような皆さんとなりますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

「私、私」と自分に目を向けている間は、惨めでパッとしない日々が続きます。しかし、12節の「しかし主よ」という主語の転換こそが、人生の転換点です。主を呼び、主を仰ぎ、主を主語として生きるとき、主の栄光が私たちを通して輝き、私たちは鷲のように新しくされ、力強く高く上っていくことができるのです。