たとえ殺されても主を待ち望む − 一の正しさを喜ばれる神(ヨブ記13章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記13章全体から、苦しみの中で友人たちの空虚な言葉に怒りつつも、神ご自身に向かって正直に訴え続けるヨブの姿を学び、「聞く」ことの大切さと、神が私たちを責め追い立てる方ではなく、わずかな正しさを喜んでくださる愛と憐れみの方であることを味わうメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ13:1-3
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ヨブ13:4
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ヨブ13:5
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ヨブ13:6
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ヨブ13:7
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ヨブ13:8-9
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ヨブ13:12
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ヨブ13:13
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ヨブ13:14-15
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ヨブ13:17
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ヨブ13:20-24
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申命6:4
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ヤコブ1:19-20
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ロマ3:10
【慰めの言葉】
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主イエスは私たちの言葉だけでなく、その言葉の背景までご存知で、最後まで私たちを諦めず、とりなしてくださる大祭司であり、深く憐れんでくださる主である。
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主は私たちを責める方ではなく、追い立てる方ではない。
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主は私たちの一の正しさを、九十九にまさって喜び、誇り、自慢してくださる方である。
【励ましの言葉】
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たとえ殺されても神を待ち望むヨブのように、正直な思いを神にぶつけてよい。神は貧しい者の叫びを必ず聞いてくださる。
【戒めの言葉】
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神の名を用いながら、実は自分の利益や栄光のために神を利用してはならない。サタンもまた「神のために」と言いつつ自分の栄光を求めて堕ちた。
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圧倒的な言葉や巧みな言葉の洪水で相手を封じ込めるのは最悪の手段であり、聞くふりをしてはならない。
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人が苦しみにあう状況をそばで見たわけでもないのに、推測を働かせ「罪には罰がある、だからこうなったのだ」と裁いてしまう心を戒める。義人はひとりもいない。人であっても自分であっても義人ではないことを覚える。
【勧めの言葉】
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苦しむ人のそばでは、多くの言葉を語るよりも、黙って共に座っていることのほうが知恵深い行動となる。
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人は誰でも聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい(ヤコブ1:19)。まず相手の状況を聞いて理解し、折にかなった言葉で相手を養う。
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誰かが罪によって打たれている様を見たとき、自分の襟元を正す。
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自分の手に負えない様々なことになったとき、イエス様の脇腹の中に逃げ込む。
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最後まで諦めない主に対して、私たちも主を諦めない信仰で貫く。
【詳細(AIによる文字起こし)】
今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記の13章です。初めに1節から3節を宣言いたします。
「見よ、私の目はこれらすべてのことを見た。私の耳も聞いて、それを理解している。あなた方が言っていることは、私もよく知っている。私はあなた方より劣ってはいない。けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。」(ヨブ13:1-3)
一言お祈りします。ハレルヤ、我々の愛する主イエス様、あなたは私たちに同情してくださるお方であることを感謝いたします。あなたは神であられるにもかかわらず、人として降りてこられ、人の弱さを体験し、人のその弱さゆえの悩み、苦しみをつぶさにご覧になられ、大祭司として深く同情し、またとりなし、祈り、そしてなおかつ私たちの身代わりに十字架へと命を捧げられました。それゆえに我らはあなたにとりなされ、あなたにあって神の子とされ、その血潮の値でもって罪清められました。神の子供の値がつけられ、主よ、本当にこうして御前に進み出られる恵みを感謝いたします。我らもあなたに倣い、あなたの業をしたいと願うものです。主よ、どうか助けてください。今、取り次ぐ僕の唇を清め、また預かる一人一人の耳を清めてください。あなたの命を豊かにいただき尽くし、恵みに満ち溢れるこの時でありますように導いてください。これからのすべてをあなたに期待し、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
ハレルヤ、素晴らしい主の御名を褒め称え、賛美いたします。私たちの主イエス様は、話を聞かないお方ではないことを感謝いたします。むしろ私たちのことをつぶさにご覧になられ、私たちの口、唇から出てくる言葉だけでなく、その言葉の背景をも主はご存知で、その上で私たちのことをとりなしておられ、また最後まで私たちのことを諦めないお方であることを感謝いたします。イエス様は、何と言われようと、ユダに対しても、ユダが裏切る志を持って同席しているにもかかわらず、最後の最後まで「友よ」と語りかけてくださいました。最後の最後まで立ち直って、天国に行ってほしい。そう願っておられるのが私たちの主イエス様です。
前回もこのヨブ記13章1節から3節を見ました。特に前回は、この3節の「私は神と論じ合うことを願う」というヨブの言葉を学びました。神様と論じ合いたいということ、これはとても大切だと学んだのですが、しかし残念なことに、ヨブはそのまま神様に向かうのではなく、目の前にいるこの友人たち、本当に自分のことを全くもって理解していない、また全く見当違いなことで論破しようとして、言葉でねじ伏せにかかってくる、その友人たちに対しての怒りが募ってきている状態です。そしてこの友人たちをコテンパンに論破する方向に徐々に向きを変えていってしまっています。
4節を見ますと、「しかしあなた方は偽りを塗る者、皆無用の医者だ」と告発しております。偽りを塗る、これは漆喰を塗るとか上塗りをするということです。元々の壁がもうすごい破損状態で、汚れに汚れている。それをペンキで上塗りをして、なかったかのようにする感じです。この友人たちの言葉は、ヨブの本当に傷ついて深くひび割れしたその上に、もっともらしい格言でもって上塗りをしているようなものだったのです。それでヨブが感じたのは、「無用の医者だ」という評価です。
しかも5節では、「あなた方が沈黙を守っていたら、それがあなた方の知恵となっていただろうに」。かなり辛辣です。結局、ヨブの友人たちが最も知恵ある友であった期間は、黙って一緒に座っていた7日間、それだけだったのです。何の言葉も発していない方が、むしろじっと一緒にいてくれた。それがむしろ最も知恵深い行動だったということです。けれども、たくさんの言葉でもって、友人たちは言葉の洪水でヨブを論破し、押し流そうとした。
それで6節で、「さあ、私の論じるところを聞き、私の唇の訴えに耳を傾けよう」と言っています。この「聞け」はシャーマーです。申命記6章4節のシェマーと同じ動詞ですね。けれども、申命記6章のように、あそこは神様が契約的なことを聞いて、聞いたならばそれに服従しなさいというニュアンスがあったのですが、ここではそういったニュアンスではありません。むしろ、友人たちに対して、あなたたちは私のことを決めつけにかかってばかりいる、一度、私が実際に何を言っているのか、ちゃんと聞いてほしいという意味での「聞け」という命令形なのです。
けれども、ヨブとしてはもうすでに怒りのボルテージが上がってきている状態ですので、この「聞いてほしい」という言葉の内容は、もう攻撃的な色合いがかなり濃くなってきてしまっております。その攻撃的なニュアンスを聞いた友人たちはますます怒って、ヨブのことを理解しよう、もっと聞いてあげようといった志はもう全くゼロになって、むしろヨブを論破しようとする口がもっと大きくなっていく、そういうどうしようもない方向に向かっていってしまっているのがこの13章です。
7節では、「あなた方は神のためにと言って不正を語り、神のためにと言って欺くことを語るのか」。ヨブとしては、この友人たちは「神のために」というふうではあるけれども、実際のところ、あなた方は神という言葉を利用しながら、自分の利益のために神の名を用いているに過ぎないんじゃないかということをここで言っています。
8節から、「あなたがたは神の顔を立てるつもりか、神のために言い争うつもりか。神があなたがたを調べても構わないのか。人を欺くように神を欺こうとするのか。神は必ずあなたがたを責める。密かに自分の顔を立てようとするなら」。ヨブは言いました。密かにあなたが自分の顔を立てようとして、神の名前を用いて、神の名のもとに自分の利益を集めようとしている。本当に確かにそういう人たちはおります。神様の名前を用いて、自分の利益を測ろう、自分の顔を立てようとして、神の名前を用いる。神の宮において、また教会において神の名前を用いている。けれども、実のところは、自分に人気が集まるために、自分の栄光を現したいがために、そういう人は確かにおります。
サタンはもともとそうでした。サタンはもともと賛美を司る天使だったのですが、そのうちに心が高ぶってきて、賛美の最中に神様を賛美するのではなく、自分の美しさ、自分の栄光を中心にして、どんどん心が高ぶっていって、ついには地に落とされてしまった。「神のために」と言いつつも、実は自分の栄光、自分の顔を立てているんじゃないか。ヨブはそこをズバリと指摘します。
さらに12節では、「あなた方の申し立ては灰の言葉、あなた方の弁明は粘土の盾だ」。粘土の盾、もう剣がいざ来たら、簡単に貫かれてしまいます。灰の言葉とは、灰は風が吹けばすぐに吹き飛んでしまう。あなたのその弁論はもう中身がそれほどないよ、軽いよと言っておりますが、友人たちとしては、ここまで言われてしまったら、もっとヒートアップせざるを得なくなります。
さらに13節でヨブは決定的なことを言います。「黙れ。私に関わるな。この私が話す。私に何が降りかかっても構わない」。要は友人たちにはっきりと「黙れ」と言います。自分はただもう神様と関わりたい。この私が話す、神様に向かっては私が話す。もう話して、神様から何が降りかかっても、私はもう構わないというふうに、友人たちに対してはもう一旦背を向けて、神様に向かって話し出します。
14節、15節を見ますと、「何のために私は自分の肉を歯に乗せ、自分の魂を手のひらに置くのか。見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望み」とあります。
15節を見てください。「私は、神が私を殺しても、神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。神もまた私の救いとなってくださる。神を敬わない者は御前に出ることはできない。」アーメン。ヨブは、自分に何が降りかかっても構わないという思いがどんどん強くなっていきます。たとえ殺されてもいい、それでも自分はとにかく神様の前に自分の道を主張したいんだと言っています。「神が私を殺しても、私はなおも神を待ち望む。」本当にここにヨブの神様に向かう志が、とてつもなく見事に表れています。言葉は荒々しく、上品ではありません。でも、たとえ神が私を殺しても、それでも私は神に向かっていく。これは神様を嘲るためではありません。むしろ神と論じ合いたい、神様に徹底的に納得いくまで交わりをしたいという志であるゆえに、ヨブは神様と関わりをしたいという思いが熱く、強くなっているのです。
17節を見ますと、「あなた方は私の言葉をよく聞け。私の述べることを自分の耳で聞け」と言っています。ヘブライ語の原文を見ますと、シャーマーという言葉が二回反復して出ています。ですから「よくよく聞け」ということを強調しています。この章からヨブが友人たちに対して心でどう感じていたかを見て取ることができます。ヨブはこの17節で二回「聞け、聞け」と繰り返し、6節でも「聞け」と言いました。ヨブは聞いてほしかったのです。友人たちは口でたくさん語りました。でも耳を使わなかった。ヨブの言葉を聞かなかったのです。
ヨブとしては、友人たちが神学や正しい哲学的な難しいことを語るけれども、それ以前に、苦しんでいる人の声を本当に聞くということを要求していたのです。友人たちは確かに七日間ヨブと一緒におり、言葉を口に出さずにいました。けれども、その時はヨブがそもそも語っていなかったから、聞きようがなかったのです。ヨブが七日目にようやく語り出したのを友人たちが聞くと、これは神様を冒涜しているのではないかと文句をたらたら述べ、何か罪を犯した上でこんな文句を述べているのだという思い込みで言って、ヨブの言葉も聞かず、本心も悟ろうとしませんでした。だからヨブは「あなた方は役に立たない医者だ」と言ったのです。友人たちはたくさんの言葉でヨブを論破しようとし、言葉でねじ伏せようとして格言を用いたり神学を用いたりしました。けれども、結局は友人たちはヨブ自身のことを全くシャーマー、つまり聞いていなかったのです。
私たちがここから悟るべきことがあります。私たちは神様の言葉を当然シャーマーして、聞こうという意思、意図を持つことは、神の民にとって最低限のことです。けれども、それと同時に、人の叫びに対しても耳を傾けるべきなのです。この友人たちのように、相手のことを全然聞かないで、自分の持っている論を高々と掲げるなら、それは全くの逆効果になってしまいます。相手を聞かないで自分の言葉ばかり喋る、そういう親元で育つ子どもは、本当にひねくれた思いになってしまいます。相手の言葉を聞かないで、自分の神学や知識を高々と掲げるのは逆効果です。相手はますます怒って「こんな聞かず屋の言葉が聞けるか」というようになってしまいます。だから私たちはまず相手の言い分を聞くこと、相手がどういう状況なのかを聞くことが大切です。「イエス様、この人は今どういうことなんですか」と、人に聞くだけでなく主に聞いて、正確に相手の状況を聞こうとすること、これが大事です。
黙って聞くふりはいけません。相手が喋っている間に聞かないで、自分の頭の中で「次はこう言おう、あの格言は何だったかな」と考え、相手が喋っているのに耳を閉ざしているのを聞くふりと言います。これではいけません。何を言っているのかを聞いて理解し、相手がどういう状況なのかをしっかり悟る。その思慮分別をしっかり身につけるべきであり、私たちはその思慮分別を主に求めるべきです。あいにくこの友人たちは、その最低限のことができていませんでした。
そこでヨブは神様に方向転換して願います。20節を見ますと、「ただ二つのことを私になさらないでください。そうすれば、私はあなたの御顔から身を隠しません。」二つのことをヨブは願います。それを守ってくださるなら、私はあなたの御前に進んで出ることができる、と。一つ目は、「あなたの手を私の上から遠ざけてください」。今自分はこの皮膚のひっきりなしのかゆみ、痛み、苦しみ、そしてすべてのものを失ったという苦しみ、その災い、圧迫を、どうか私から取り除けてくださいということです。二つ目は、21節後半の「あなたの恐ろしさで怯えさせないでください」。神様の圧倒的な威厳、恐怖によって萎縮してしまい、自分が語れなくなるようなことを、どうかなさらないでくださいということです。
本当に言葉の暴力のもとで、子どもはどうなるか。萎縮してしまうのです。何か言いたい主張があってもうまく言えなくなって、言葉がどもり、たどたどしくなるから、もっと相手を攻撃的にさせてしまう。どうかそのように萎縮させないでください、とヨブは神様に願っています。圧倒的な強い言葉、巧みな言葉の洪水で、相手に有無を言わせず封じようとする人がいます。そういう人のようにではなく、どうかこちらも語れるように、応答できるように、言葉のピンポンができるようにと、ヨブは神様に願っているのです。
事実、22節を読んでください。「私が答えます。あるいは私に語らせ」。ヨブは言葉のキャッチボールを神様に願っています。友人たちはもう言葉のキャッチボールができない。「神様、あなたは今このように圧倒的に私に臨んでおられますが、私が望むのは言葉のキャッチボールです。どうか私にも語らせ、そしてあなたが語ってください」と求めています。ヨブとしては、神様も圧倒的にねじ伏せにかかっているように感じています。だからこう願うしかなかったのです。律法の中に、貧しい人を圧迫してはならない、その人がもし神に叫ぶならば、神がその訴えを聞いてあなたを殺すことになる、という内容があったと記憶しています。本当にヨブは今、貧しさの極みです。言葉においても思いにおいても貧しく、経済においても持ち物においても貧しく、人間関係においても貧しい。だから神に訴えるしかなかったのです。
結局、ヨブが神に訴えた結果、最終的に神様が責めたのはヨブではなく、友人たちの方でした。貧しい人が神に訴えるなら、神様はその訴えを聞いてくださるのです。23節、「私には咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください。」ヨブはここで、私は一体何をしたのでしょうか、神様どうか教えてください、なぜなんですかと切実に訴えています。友人たちはヨブに何か隠された罪があるからこんな目に遭っていると決めつけました。けれどもヨブには分からないのです。その分からないということを友人たちは全く理解しないで、「罪の結果の災い、因果応報、しかし神に悔い改めるなら神は赦してくださる」と、三人が三人ともそう言いました。でもヨブは本当に分からなかった。その罪が何なのか。それでヨブは直接神様に尋ねているのです。
24節、「なぜあなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか。あなたは吹き散らされた木の葉を脅し、乾いた藁を追いかけられるのですか。」ヨブは「なんで私を敵とされるのですか」と、この24節以降では食ってかかるようになっています。決して上品な祈りではありません。けれども、それは少なくとも正直でした。正直なヨブの心境を、神様に向かって吐き出したのです。怒りという感情、悲しみという感情を正直に神様にぶつけました。その叫びでこの13章は終わります。
今日私たちが学ぶべきこと、それは、私たちは聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くあるべきだということです。ヤコブの手紙1章19節から20節にこう書いてあります。「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人は誰でも聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」アーメン。ですから、圧倒的な強い言葉や巧みな言葉の洪水で相手に有無を言わせず封じ込めるのは、最悪の手段です。ヨブとして最も言いたかったこと、この13章で繰り返した言葉は、「聞いてほしい、聞いてほしい、聞いてほしい」。三回言いました。「どういう状況なのか理解してほしい」。けれども、あいにく友人たちは自分の哲学や神秘体験、難しい話を披露したくて、ヨブが話をしている時は耳を閉じ、ヨブがたまたま放つ激しい言葉だけに耳を開いて「このヨブは攻撃的だ」と思いを募らせ、どんどん互いに的外れな議論、論破の応酬をするようになっていってしまいました。
私たちは主義主張ではなく、まずは聞いて、相手の状況を理解する、そうした思慮分別を身につけましょう。そして、このヨブのような災いに遭っている人にはちゃんと聞いてあげて、あるいは主に向かって「主よ、この人は一体どういう状況なんですか」と、状況が分からない時は主に聞いて、相手に対してはこの相手を立て上げる御言葉、折にかなった言葉で相手を養う。その主の僕としての嗜みをしっかりと身につけて、神様に聞き、人に聞いて、主の御業、主の言葉、主の愛を届ける皆さんでありますように。
私たちは浅はかな思いと心で物事を測ってしまいます。「だからこうなんだ」という言葉が、ヨブをここまで挫けさせてしまいました。主よ、赦してください。なぜなら、この友人たちの姿に、私たちにも身に覚えがあるからです。友人たちは、ヨブが今ひとり苦しみにあって、どうしようもない状況の中にあると見ていました。しかし、ヨブに対する彼らの態度、彼らの言葉には、ある考え方が隠されていました。彼らは、ヨブは恵みのゆえにこのぐらいで済んでいる、もともとを正せばもっとひどい状況にあっても仕方ないのだ、という考え方を節々に隠し持っていたことがわかります。
人が何かにあったとき、その状況の中に私たちは隣に行って、じっと見たわけではありません。それなのに、私たちは自分の中にあるありったけの推測力を働かせて、「この人がこうなったのは、これだから、ああだから」と判断してしまう。罪には罰がある、そのように考えてしまいがちなものです。確かに、罪に罰があるのは当然です。けれども、罪によって罰に打たれ、人が歩み、そして死ぬことは、神様が最も望まないことです。なぜなら、主は悪人であってもその人が滅びに至ることを願わない、と言っておられるからです。
人生にはいいこともあり、悪いこともあります。いいことをするときもあれば、そうでないときも私たちにはあります。主よ、「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)。このみ言葉を、私たちはしっかりと覚えます。人であっても、自分であっても、義人ではない。そのことをしっかり覚え、誰かが罪を犯して打ち叩かれているその様を見たときに、自分の襟元を正すことができますように。主よ、あなたが私たちを助けてください。
ヨブは、友人たちのその言葉によって、不安に陥っていきました。「私の罪のゆえに、今、私は打たれているのですか」と、その罪によって責め立てられている様、それがヨブのことでした。風が吹かれたら、自分の意志では身を隠すことも、逃げるところもできない。最悪の状況の中にいました。そしてヨブが言ったことも、主を追い立てるということではなく、「私と論じてください」ということでした。一方的に追い立てられ、一方的に責められる、これは神のなさる御業ではありません。私たちが騙されることのないように、このヨブ記を通して、あなたがまた教えてくださることを感謝します。
「見たか、わたしの愛する者を。この時代に正しい者を」という神様の誇り、その言葉をもってくださることを思います。主よ、あなたは私たちの一の正しいことに対して、九十九にもまさってそこを喜んでくださり、「これがわたしの正しい人だ」と言ってくださる。私たちはちっぽけな者で、間違えてばかりなのに、「わたしの正しい人」と誇り、自慢してくださるのはあなたです。私たちは本当に大きな過ちを犯すのに、主はその一に対して、千の千、万の万を増し加えてくださる。わずかであっても「正しいこと」と言ってくださる。この方であることを忘れないようにしてください。それが私たちのいのちであり、私たちの避けどころであり、私たちのやぐらだからです。
イエス様、「見たか、わたしの正しい人」、私もそう言われる者になりたいのです。これほどのものを、でも私の力で肯定することはできません。あなたが抱いてくださったその信仰の上に、ほんの少しを携えて、そこにあなたの愛と、あわれみと、赦しと、その恵みをもって、私たちをあなたから救い出してください。「わたしの愛する者、見たか、わたしの愛する者」、これほどに見てくださり、あなたが満たしてくださるほどの一人ひとりとなりますように。
ヨブは悪の方から訴えられ、そして苦しみの海に追いかぶさられていました。そのすべてのことを、主が自分を追い立て、責め立てていると錯覚していました。このことを通して、主は私たちを責める方ではない、追い立てる方ではないということを、しっかりと覚えさせてくださいます。自分の手に負えない、様々なことになったとき、イエス様の脇腹の中に逃げ込むことができますように。そして、イエス様をよりどころとすることができますように。イエス様を私の主とすることができますように。最後まで諦めない主に対して、私も主を諦めない信仰で貫くことができますように。何があっても、主よ、あなたを諦めない私たちでありますように。神の愛、憐れみ、赦し、その恵みを信頼する私たちでありますように。
主よ、あなたが私たちを祝福してください。今日ここにおいて、ヨブと友達の有様、そして苦しみに陥ったヨブの言葉はちぐはぐでした。でも神の真実はただ一つでした。イエス様、感謝します。愛するイエス様、あなたが本当に私たちのことを聞いてくださる主であられることを感謝します。理解してくださり、大祭司として私たちをとりなし、私たちを深く憐れんでくださる主であられることを感謝いたします。私たちもあなたにならって、あなたから聞いて、相手の状況をよく理解し、折にかなった適切な言葉で相手を慰め、励まし、勧め、あるいは戒め、あなたの命へと導く者とならせてください。どうか助けてください。今日いただきました御言葉に感謝して、私たちの王であり、主であられるイエス、その御名によってお祈りをいたします。アーメン。
【結論】
ヨブは友人たちの空虚で上辺だけの言葉に深く傷つき、怒りを募らせましたが、それでも「神が私を殺しても、私は神を待ち望む」と神ご自身に正直に訴え続けました。友人たちはヨブの言葉を聞かず自分の神学を押しつけて逆効果を招きましたが、私たちはまず相手の声を聞き、主に聞いて状況を理解し、折にかなった言葉で相手を慰め養う者とならなければなりません。他者を浅はかに裁くのではなく自らの襟元を正し、何があっても主を諦めず、イエス様の脇腹に逃げ込みましょう。ヨブと友人たちのやり取りはちぐはぐでも、神の真実はただ一つでした。主は私たちを責め追い立てる方ではなく、わずかな一の正しさを千にも万にもまさって喜び、誇ってくださる愛と憐れみの方であり、貧しい者の叫びを必ず聞いてくださる方です。聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありましょう。