切り倒された木にも望みがある − 死を越える永遠の命の望み(ヨブ記14章)

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切り倒された木にも望みがある − 死を越える永遠の命の望み(ヨブ記14章)

メッセージ音声

【概要】

ヨブ記14章を中心に、人間の命の儚さと、死を越えてなお神との交わりを望み見るヨブの信仰、そしてイエス・キリストにある永遠の望みと使命を語るメッセージです。

【聖書箇所】

  • ヨブ14:1-2

  • ヨブ13:15

  • 使徒17:26

  • ヨブ7

  • イザヤ43:4

  • エペソ2:10

  • ヨブ6

  • ヨブ14:3

  • ヨブ14:5-6

  • ヨブ14:7-16

  • 伝道者3:21

  • ルカ23:42-43

  • イザヤ40:31

  • ヨハネ3:16

  • 詩篇51:5

  • ヨハネ11:25-26

  • イザヤ11:1

【慰めの言葉】

  • たとえ人が花のようにしおれ、影のように逃げ去る者であっても、神の目には「高価で尊い」存在として愛されている。

  • 散ってしまった花のような人生にも、神は目を留めてくださっている。

  • 死んだ後においても、神が私たちを覚え、潜ませてくださるという望みがある。

  • 主を待ち望む者は、わしのように翼を広げて舞い上がり、力を得る。

  • 死んでもなお、イエス様を信じる者には永遠の命の望みがある。

  • 苦しみの中でカットされたように見えても、永遠に切り捨てられたわけではない。

【励ましの言葉】

  • 私たちの人生は単なる日雇い人の労苦ではなく、永遠の報い、永遠の救いという報酬が定められた神の国の働きである。

  • ほんの少しの慈しみ・恵みの香りがあれば、人は切り倒されても芽を出し、生き返ることができる。

  • 死を待ち望むことが力となる。神と一対一で向き合う人は力を得る。

  • 神は御子をお与えになるほどに全被造物を愛しておられる。

  • 真のぶどうの木であるイエス様に接ぎ木された者は、豊かな実を結ぶ。

  • この人生には永遠の価値があり、多くの人をイエス・キリストへつなげる使命が与えられている。

【戒めの言葉】

  • 神様を無視してはならない。どんな時でも神様に向き合うべきである。

  • 神様の戒めは正しく、それを通して私たちの中に居座る罪を取り除く働きがある。

【勧めの言葉】

  • 口を聞くには早く、語るには遅く、怒るに遅くするべきである。耳を使わず口だけを使うと、相手をうんざりさせひねくれさせてしまう。

  • 苦しみを持つ人の前では、ほんの少しでもヘセド(恵み・慈しみ)を施すべきである。

  • しょっちゅう神様に「私を思い出してください」と求め、とりなし続け、神との関係を求め続けましょう。

  • どんな時でも、嫌な時でもイライラする時でも、神様から離れずに向き合い続けること。

  • 多くの人々をイエス・キリストへとつなげていく歩みをすること。

【詳細(AIによる文字起こし)】

本日恵みをいただく御言葉は、ヨブ記14章です。ヨブ記14章1節と2節を宣言します。「女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません。」アーメン。

一言お祈りします。私たちの愛する主イエス様、よみがえりの主イエス様。確かにあなた抜きの人間は花のようにしおれ、影のように逃げ去り、とどまることはないでしょう。けれどもイエス様、あなたによって私たちには永遠の望みが与えられている恵みを感謝いたします。今日もまたあなたの蘇りを豊かに体験させてください。これから御言葉を取り次ぐ僕の唇を清め、また預かる一人一人の耳を清めてくださり、天から流れ滴る命の泉を豊かに汲むこの時とならせてください。初めから終わりまでの一切を、あなたの支配の御手にお委ねして、我らの愛する主イエス様のお名前によってお祈りいたします。ハレルヤ。

ヨブ記を単体で見ると、私たちはちょっと気分がどんよりとしてしまうかもしれません。難しくて、望みがないような厳しい言葉をたくさん言っているイメージです。けれども、聖書全体の中でこれを読み解いていくと、本当に希望が持てる、なおかつ私たちが気をつけなくてはならないことがたくさん書いてあることがわかります。

前回は13章を見ました。ヨブは友人たちに向かって「聞きなさい、よく聞け」と、シャーマーというヘブライ語を3回も繰り返していました。友人たちは口ではたくさんの言葉で圧倒して語りはしたのですが、あいにく耳を使っていなかった。耳を使わないで口だけをたくさん使うと、相手を本当にうんざりさせてしまいます。受け止める力の高い人さえもひねくれ者にしてしまうのです。ましてや私が親だとして、子供に対して言葉だけたくさん、耳を使わずだとしたら、どれほど子供にひねくれた思いをさせ、惨めにさせてしまうことでしょうか。私たちは本当に、聞くには早く、語るには遅く、怒るに遅くするべきです。

ヨブの友達はヨブの言葉を聞かなかったから、ヨブは「聞け、聞け、聞け」と言いました。あまりにも聞かないから、ヨブは友人たちに「黙れ」と言って、背を向けて、神様に向かって語り始めました。ヨブは神様にこう言います。「呼んでください。私は答えます。」ヨブが一番望んでいたのは、言葉のキャッチボールでした。さらにヨブは13章15節で「たとえ神が私を殺しても、私は神を待ち望む」と、死んでも神を待ち望むという決意を表明しました。

今日の14章はその続きで、ずっと神様に向かって二人称で「神様、あなたは」と呼びかける対話としてあります。けれどもその内容はちょっと重いものです。人の命の儚さや、死んだらどうなるだろうかという内容です。「女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません。」花は咲いた時はとても美しく綺麗です。ちょうど今もコスモスが花盛りで、地面に散ってしまった花もいくつかあります。ヨブ自身が自分の人生をそういうふうに見ています。ヨブはついこの間まで、東の国一の物持ち、一番大いなる者と言われていました。財産も子供もすべて咲き乱れた花のようになっていたのに、今やヨブのすべてが散ってしまって、取り上げられてしまっている。そういう状況です。

3節を見ますと、「このようなものに対してさえ、あなたは目を見開き、この私をご自分と共に裁きの座に連れて行かれるのですか。」こんな散ってしまった花のような人間に、神様はなんでそんなにじっと目を留めて、裁きの座に連れて行こうとされるのですかと問うています。

さらに5節、6節では、「もし人の日数が定められていて、その月の数もあなたが決めておられ、その人が超えることのできない限界をあなたが設けておられるなら、その人から目をそらして構わないでください。彼が雇い人のように自分の日を楽しむために」と言っています。使徒17章26節にこう書いてあります。「神は、すべての人々に対して、決められた時代と住まいの境界を定めておられます。」確かに神様は人の日数を数えておられ、人が行く境界線も定めておられます。ある人は日本から出ない生涯を送り、ある人は宇宙まで行く。人間の行動の境界線も、生きている時間という境界も定めておられます。

その境界の中で、ヨブは人生を日雇い人の労働者のように例えました。この14章でも、7章でも日雇い人のようだと言いました。どうせ短い人生なのだから、神様、もう私に構わないでください、と。せめて日雇い人が一日の終わりにちょっとした安息を得られて、賃金が与えられてほっと一息つける、そのぐらいの楽しみを味わうぐらいだったらいいでしょう、と言うのです。これは多くの宗教や哲学が、神抜きで、福音を知らないとするならば考えることでしょう。

けれども、私たちの人生はそんな日雇い人のように嘆くよりも、むしろ神様が私たちの人生に価値を与えてくださったということを、聖書全体を読めばわかります。イザヤ43章4節「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」神様の目には、私たちは高価で尊い神の子として、永遠を生きる者として、神の似姿として、神の作品として良い行いをするために造られ、良い行いも備えられた。エペソ2章10節に書いてある通りです。

確かに人の人生は日雇い人の労働者のようだと。ぶどう園のたとえでイエス様が例えを出されました。確かに雇い人ではあるかもしれません。けれども、少なくともぶどう園で働いているのです。神様が働き場を備えてくださったのです。そしてその働きは、使ってなくなる報酬ではない「永遠の救い」という報酬が定められています。朝9時から入った人も、夕方5時から入った人も、全く同じ報酬です。でも少なくとも朝から働いた人は、一日中その仕事の安全、保障、神の国において働けるという恵みがずっと続いたのです。

ですから、この人生を日雇い人の苦労として見るか、それとも永遠に価値ある働きとして見るか。イエス様は真のぶどうの木です。私たちはその枝です。神の国の働きは、永遠に価値があり、やりがいがあり、安心感がある働きです。

ヨブはさらに7節以降、とても印象的な例えを持ち出します。「木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとえその根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し、苗木のように枝を出す。」ヨブは、人間よりも木の方が望みがあるのではないかと言っています。切り株は水の気配があるだけで芽を出すのです。

ヨブは6章で友人たちのことを「あなた方は水なし川だ」と言いました。荒野を旅してきた人が、ここに川があったと思いきや、そこはもう水がない水なし川だった、と。けれども、ほんの少しのこの慈しみの香りがあったならば、ヨブもたとえ切り倒されたとしても、この友人たちの言葉で潤って芽を出せたかもしれない。私たちも、本当に苦しみを持った人の前においては、ヘセド、恵みを施すべきなのです。ほんの少しの慈しみ、恵みの香りがあれば、人は生き返ることができるのです。

ところが、ヨブは10節からこう続けています。「しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えるとどこにいるのか。水は海から消え去り、川は干上がり、枯れる。そのように人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない。」これはヨブの人生観です。人は死んだらもう目覚めがない、起き上がらない、という見方です。

確かに旧約の時代においては、人が死んだ後どうなるのかについて、はっきりと示されておりませんでした。シェオルという死んだ後の世界については書いてはあるのですが、人は死んだ後どこに行くのか、よくは分かりませんでした。ソロモンも伝道者の書3章21節において、「人の子らの霊が上に登るのか、誰が知るだろうか」と言っています。

ヨブは13節以降で問うています。「ああ、あなたが私を黄泉に隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定めて私を覚えてくださればよいのに。人は死ぬとまた生きるでしょうか。私は苦役の日の限り待ちます。私の代わりがやってくるまで。あなたがお呼びになればお答えします。あなたは御手の業を慕っておられるでしょう。」アーメン。

ヨブは、なんと死んだ後、黄泉においても、あなたが私を潜ませ、私を覚えてくださればよいのに、と死んだ後においても神様との交わりを望んでいます。14節において「人は死ぬとまた生きるでしょうか。でも私は苦役の日の限り待ちます。私の代わりがやってくるまで」と、死んで後もその私の代わりが来ることを待ち望んでいます。

ヨブは13節において「私を思い出してください」と言いました。昨日も見ましたが、十字架の上の強盗について見ましたね。右側の強盗はイエス様に対して「あなたの御国に入られる暁には私を思い出してください」と、まったく同じ「思い出してください」という言葉を神様に対して求めています(ルカ23:42-43)。神様に対して「思い出してください」と言う人は、パラダイスが近い人です。そういう人に対して、イエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言われました。

だから私たちもしょっちゅう神様に求めるべきです。「神様、私を思い出してください。あの人、この人を神様思い出してあげてください。」私たちはずっとそのようにとりなすべきであり、神様との関係を求め続けていくべきなのです。

たとえ神様が私のことを殺しても、私は待ち望む。さらにヨブは苦役の交代の時まで待っているという、待つ信仰にここで立っています。死を待ち望むこと、これが力です。ヨブは神様と一対一で、二人称で「あなた」と呼びかけました。そういう人は力を得るのです。イザヤ40章31節、主を待ち望む者は、翼を広げて舞い上がるわしのように力を得て舞い上がっていきます。

この15節でさらにキャッチボールをしたいという度合いが深くなっています。なんと死の向こう側でも、「神様、あなたが私の名前を呼んでくださるなら、私は答えます。」死んでもこの神様との関係は終わらせない、死んだ向こう側でも神様との関係を望み見ているのです。

15節の後半では、「あなたは御手の業を慕っておられるでしょう」とあります。この全世界は神様の御手の業、被造物です。それを神様は慕っておられるのです。ヨハネ3章16節「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を得るためである。」アーメン。この「世」はコスモスというギリシア語です。宇宙も地球も人間も、鉱物や石や植物も含めて全部、それを神様は愛しておられる。御子をくださるまでに愛しておられる。

16節を見ますと、「今あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を止めないでください。私のそむきを袋の中に封じ込め、私のとがを覆ってください。」とても福音的ですね。ダビデも詩篇51篇5節で同じように祈りました。母は自分を罪あるものとして身ごもった。でも神様、どうか私のその罪に目を留めないでください。私のとがを覆ってください。

その望みが、新約によってイエス様の十字架において成就しました。十字架の血潮でもって、私たちの罪が覆われ、清められ、雪よりも白くされた。これがヨブの新約における望みです。

18節以降で、ヨブはさらに再び沈んでいきます。でも見落としてはならないことがあります。この沈んでいくヨブの言葉の中においても、最後まで神様に対して「あなた、あなた」と、22節までずっと神様に向かって語りかけています。沈んだとしても、気分が落ち込んだとしても、神様から離れない。手放さない。神様を掴み続ける。神様から離れるか離れないか、そこがとても肝心です。

イスカリオテのユダはイエス様から離れていきました。自殺という手段で自ら断絶してしまいました。カインもさすらい人として神様から離れていきました。ヨブは沈みながらでも、怒っても、荒々しい言葉で神様に対してでも、それでも神様と関わりを求めてきました。

ヨブは「人は死んだらまた生きるでしょうか」と問いました。その問いに対して答えてくださったのはイエス様です。冒頭で宣言しましたのはヨハネ11章25節から26節です。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」アーメン。私たちはイエスを信じるのであるならば、死んでも生きるのです。

ヨブは、木には望みがあると言いましたが、イザヤ書11章1節にはこう書いてあります。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる知識の霊である。」アーメン。ダビデの王家はあたかも切り倒されたかのようでした。けれども、その根株から新芽が生えて出てくるのです。その新芽はイエス・キリストを表しております。

最近、天声のビルディングのところ、この木が切り倒されてしまいました。長年あの木の枝の陰で雨をしのいだり、夏は日陰になっていたのですが、切り倒されてしまいました。けれども、最近そこが茂ってきています。ヒコバエというふうに言います。切り株から四本全部、また茂ってきております。切り倒された根株から出た新芽、それはイエス・キリストを表しております。イエス様はご自身が切り株から出てきた新芽であり、そこから出てきた芽は命が途絶えることがありません。

私たちはこのイエス・キリストにつなげられた者です。真のぶどうの木であるイエス様に接ぎ木された者です。イエス・キリストによって豊かな実りを結びます。実を結ばない枝は切り倒されてしまいます。父はまことの農夫で、実を結ばないものはカットします。そして実を結ぶ方にどんどん栄養が出されるのです。ヨブは実を結ばないところはカットされていたのです。本当にカットされたから、今、苦しみの真っ只中にあります。けれども永遠にカットされたわけではありません。本当に私たちには望みがあります。

この人生においても、日雇い人の労働のように見えたとしても、永遠の価値があり、永遠のイエス・キリストの命へと向かっていく。そして多くの人々をこの永遠の命につなげていく。この役割が私たちに課せられております。この喜び、この望みに感謝して、これからの人生を歩み、多くの人々をイエス・キリストへとつなげていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。

愛するイエス様、あなたが来てくださったことを感謝します。この日雇い人の労働の苦しみに満ちた人生に、あなたが来てくださって、光を灯し、永遠の命の価値ある人生、多くの人々をあなたへとつなげるという素晴らしい使命を与えてくださいました。この人生を全うして、永遠のパラダイスにおいては、永遠の報いをあなたから得られますことを感謝いたします。

主よ、わからず屋である私たちと、とことん付き合ってくださるのはあなたです。嫌な時、あなたに向き合うことができますように。ヨブが最悪の時にも、あなたと会話をしておりました。食ってかかっていた時も、あなたに食ってかかっていました。どんな時でもあなたに向き合う者は救われるのです。あなたは向き合ってくださり、あなたの良き御旨を聞かせて諭し、私たちを立て直してくださる主であるから、感謝いたします。

私たちが絶対この地上において一生してはならないことは、どんな時でもあなたを無視しないことです。人は戒めを受けると、不当だと言いがちなものです。でも主よ、あなたの戒めは正しく、それを通して私たちの中に居座っている罪を取り除いてくださるその働きがあることを感謝いたします。

旧約において、最後の最後まであなたを離さないこの信仰、だから彼はあの時代の正しい人でした。私たちにもこの時代の正しい人として歩む力をください。なぜなら、ヨブには与えられていなかったイエス様を、くっきりと与えてくださったからです。イエス様の十字架も、十字架で話された七つの言葉も、流してくださった血潮も私たちのためでした。あなたがあなた自身の永遠を私たちのために、あの十字架の上で渡してくださいました。だから私たちは、この地上においてヨブよりもっとあなたに向き合うことができる、その条件が、もうあなたにあって備えられていることを感謝いたします。私たちを愛し、十字架の上で「完了した」と、テテレスタイの宣言をしてくださった、主イエス・キリストの御名によって祈りました。アーメン。

【結論】

人間は花のようにしおれ、影のように逃げ去る儚い存在です。しかし神の目には私たちは高価で尊く、永遠の救いという報酬の定められた神の国の働きへと召されています。木が水の潤いによって切り株からも芽を出すように、ほんの少しの恵みと慈しみの香りによって、人は生き返ることができます。ヨブは死の向こう側でもなお「思い出してください」と神との交わりを望み続けました。苦しみや絶望の中にあっても、ヨブのように最後まで神様から離れず向き合い続けること、そしてイエス・キリストにある永遠の命の望みに生き、多くの人々をキリストへとつなげていくことが、私たちに与えられた使命です。