メッセージ - 主の山に備えあり(創世記22:9-14)
礼拝説教メッセージ音声:主の山に備えあり(創世記22:9-14):右クリックで保存
アブラハムがイサクをささげる場面には、キリスト者にとって重要な様々な予表が埋め込められている。
父が、大切な一人子を捧げる。
その事に、御父なる神の、ひとり子イエスキリストを犠牲にする葛藤を見る。
アブラハムは、自分のいのちよりも大切な一人子を、刀を取ってほふろうとしたが、主が備えて下さった雄羊を身代わりとして捧げ、そうしてイサクは生かされた。
私達もまた、本来は自分の罪の故に死に処されて当然であるのに、まことの子羊・キリストが身代わりとなって罰を受けてくださったおかげで、私達はこうして、なお生かされている。
アブラハムは、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていた約束を信じ、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたため、信仰によって、イサクを死者の中から返してもらった。(ヘブル11:17-19)
それ故、イサクから出るアブラハムの子孫は、死をくぐって聖別され、その従順が神の前に義とされ、全人類を救いへと導く祭司のような民族とされたのである。
キリストもまた同様である。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブル5:7-10)
子であるイサクは、父の縄目に自ら縛られ、父によって神に捧げられてしまった。
イエス様はゲツセマネで、悲しみのあまり死ぬほどだったように、イサクも、父に縛られ刀を向けられた時、悲しんだであろう。
イエス様は「父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、イサクも、見捨てられたと思ったかもしれない。
しかし、イサクは死から救われ、生かされ、祝福された。同様に、イエス様も、死から解き放たれ、永遠に生きるものとされた。
イサクは、父によって一方的に捧げられる事によって、祝福された者となった。
アブラハム、イサク、ヤコブの中で、最も平和でラクな生涯を送ったのは、イサクであった。
彼が種を蒔くと、百倍の実を結び、彼が土を掘ると井戸が湧き出、それを奪われても尚祝福されるので、恐れをなした異国の王は、彼に同盟を申し入れて来たほどだった。
父によって一方的に捧げられる事によって、大いに祝福される事をイサクは経験したが、イエス様もまた同様である。
「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」(イザヤ53:10-12)
「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:14)
私たちは「主の山に、備えあり」という言葉を、よく、物質的な必要の満たしを主は備えて下さる、というニュアンスで用いる。
しかし、主がアブラハムに備えて下さったものは、かけがえのない一人子の命を救うための身代わりという、尊いものであった。
主が私達に備えて下さった、最も良きもの、それは、私達のいのち身代わりとなる、子羊キリストである。
アブラハムは、主は備えて下さるお方である事を経験し、子孫達に伝えたであろう。
主は、死んだも同然の者からいのちを息吹かせて下さるお方であるという事、主は、死人の中からよみがえらせて下さるお方であるという事、主は、いのちを備えて下さるお方であるという事を。
私達もまた、主が成して下さった最も良きこと、すなわち、御父の贖いを、人類の身代わりとなって下さった御子を、私達を助け取り成して下さる聖霊を、世に伝えるべきである。