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怠け者になる原因と特徴、そして脱却方法(箴言26:13-16)

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なまけ者の特徴は、色々ある。
何事もめんどくさいと思う、体を動かすのが嫌い、引きこもる、先延ばしにする、楽をすることが一番、寝ることが好き、時間にルーズ、人に合わせるのが嫌い、などなど。
 
今回は、怠け者になる原因と特徴、そして脱却方法を見ていきたい。
 
箴言26:13 なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。
26:14 戸がちょうつがいによって回るように、なまけ者はその寝床で寝返りをする。
 
怠け者は、何かいいわけを見つけて、自分のなまけ場所という「巣」をつくって、そこでごろごろする。
なぜなら、その、自分だけのテリトリーに引きこもっているなら、その時間・その場所で、主導権を握れるからだ。
 
ところが、一歩外へ出れば、有能な人が、主導権を握っているので、自分の思う通りに行かない。
しかも、するべき事をしない・動かない自分の「なまけざま」が、責められるので、ますます自分の巣に、自分の「思い巡らし」に、引きこもることになる。
 
しかし、そうやってなまけた事で費やした時間のむくいは、やがて、必ず来る。
 
6:9 なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。
6:10 しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。
6:11 だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。
 
なまけた事の報いは、貧しさと、乏しさである。
そして、霊的になまけた事の刈り取りは、永遠の火である。
 
悔い改めるべき時に悔い改めず、罪の飲み食いを止めない。
明日、しよう。
明日、やめよう。
すると、その「明日」は1週間後となり、1ヶ月後となり、1年後となり、10年後、30年後となり、延々と続けて、結局タイムリミットが来たしまったなら、その刈り取りをしなければならない。
 
怠け者の、最たる特徴は、時間をわきまえない事である。
するべき時に、するべき事を、気が向かないからといって、しない。
そうこうしているうちに、どうにもこうにも、しなくてはならなくなる時が来て、追い立てられながら、嫌々ながら、せざるをえない。
 
26:15 なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。
26:16 なまけ者は自分の目に、良く答えることのできる七人の者よりも、自らを知恵ありとする。
 
怠け者は、霊的なアドバイスというごちそうを持って言っても、それを受け入れようとしない。
むしろ、自分を知恵ある者と思い込んで、余計な見解を混ぜ込んでしまう。
 
怠けぐせを治すには、どうしたらよいか。
その示唆が、箴言31章10節以降に、あの有名な「しっかりした妻」の箇所に、ふんだんにある。
彼女は、まさに、怠け者の反対である。
 
1,まずは、行動する事。
 
怠け者は、まず、動きたがらないが、彼女は、行動のかたまりだ。
だから、まずは何の生産性をもたらさない寝床や「巣」を、さっさと畳んで、行動するのだ。
 
箴言31:15 彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。
 
2012年、ハンチングドットコムという所が、68000人の男女を対象に、起床後にどんな事をしているのか、また、人生への満足度や、収入との関連性を調べた所、自分でベッドメイキングをする人の、約71%の人が、「自分は幸せ」と答え、それをしない人の内、62%が、「自分は不幸だ」と答えたという。
一日が始まったら、寝床という、ぬくぬくと居心地が良い、そして何の生産性をもたらさない所を、さっさと畳んで、イエス様が用意された素晴らしい一日へと踏み出して行くのだ。
 
2,「よくなりたい」という意識を持つ
 
イエス様が、よく言われた言葉が「よくなりたいか」だった。
38年も病に伏せっていた病人は、その言葉に対し、「助けてくれる人がいません」と答えたが、イエス様は容赦なく、
「起きて、床を取り上げて、あるきなさい」
と言われた。
すると、その人は、38年も伏せっていた床を取り上げて、歩き出した。
38年も、できなかった事が、イエス様の言葉に従っただけで、できたのだ。
 
「よくなりたい」と思わない人は、どんなに、黄金のような怠けぐせを脱却するアドバイスをしたとしても、「めんどうくさい」、という一言で、台無しにしてしまう。
まずは、つべこべ言わず、思考停止して、イエス様に言われた通り、床を取り上げて歩くべきなのだ。
 
3,大切な人、守るべき養うひとを見つける。
31:27 彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。
 
母親になって、赤ちゃんができれば、否が応でも、赤ちゃんを養うために、動かざるを得ない。
同じように、大切な人、養うべき人、がいるなら、自分の事はともかくとして、その人のために動く。
そういう人は、「動きたくない」「かったるいな」などといった、怠けの思考は停止して、動かざるをえない。
つべこべ考えて心を病む、というような暇が無い。
 
大切な、養うべき人を持つ。
それは、「よくなりたい」という意識を持つ以上に、なまけを排除する要素である。
 
使徒20:33 わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。
20:34 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。
20:35 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。

主の働き人に与えられた保証と権威(マルコ16:15-18)

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今回の箇所は、福音を伝える人は、世の5つの害悪・害毒から守られ、むしろそれらを制圧し、世にいのちをもたらす事が示されている。
 
マルコ16:15 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
 
「全世界」と訳された語はコスモス、すなわち全宇宙。
すべての「造られたもの」はクティシス、すなわち、すべての被造物。
つまり、福音(ヨゥアンゲリオン:勝利の良き知らせ)は、人間に対してだけでなく、動植物や大地、地殻、太陽など、全被造物に対して、宣言するべきなのだ。
福音を受け入れ、信じてバプテスマ(浸し込み)を受ける人は、救われる。
信じない人は、刑罰が定められている。
それは、イエス様を信じない者は、罪の赦しを受けないままの状態であり、あらゆる罪をもたらす害毒・害悪を、あい変わらずに撒き散らし続けるからだ。
 
マルコ16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
 
5つのしるしはすべて、世の害悪から守られる、という「受動的」なものだけではない。
それら、害悪を攻撃し排除するという「積極的」しるしである。
 
福音を伝える人は、イエス・キリストの御名によって、
1,悪霊を追い出し:霊的害悪を排除する。
2,新しい言葉(数々の異言(外国語))を語り:世の、死と呪いに汚れたことばに自分自身は汚染されず、むしろ、上からの、全くあたらしい、いのちを養うことば、癒やしのことば、無秩序に対し秩序をもたらすイエス様のことばを語りだす。
3,へびをも「つかむ(アイロー:取りあげる、外す、運び出す、除去する):サタンやそれに類する者共を、そこから取り上げ、除去する権威が与えられる。
4,毒を飲んでも害を受けない:霊的な毒からも、また人の言葉から来る思考的な毒からも、また、被造物から来る毒も、打ち払い捨て、無効化し、むしろ毒の反対、いのちに有益なものをもたらす。
5,病人に手をおけば、いやされる:病にかかることから守られるのみならず、むしろ癒やす、と、主が約束された。
 
これら全てをまさに体現したのが、使徒パウロである。
 
使徒28:1 わたしたちが、こうして救われてからわかったが、これはマルタと呼ばれる島であった。
28:2 土地の人々は、わたしたちに並々ならぬ親切をあらわしてくれた。すなわち、降りしきる雨や寒さをしのぐために、火をたいてわたしたち一同をねぎらってくれたのである。
28:3 そのとき、パウロはひとかかえの柴をたばねて火にくべたところ、熱気のためにまむしが出てきて、彼の手にかみついた。
28:4 土地の人々は、この生きものがパウロの手からぶら下がっているのを見て、互に言った、「この人は、きっと人殺しに違いない。海からはのがれたが、ディケーの神様が彼を生かしてはおかないのだ」。
28:5 ところがパウロは、まむしを火の中に振り落して、なんの害も被らなかった。
28:6 彼らは、彼が間もなくはれ上がるか、あるいは、たちまち倒れて死ぬだろうと、様子をうかがっていた。しかし、長い間うかがっていても、彼の身になんの変ったことも起らないのを見て、彼らは考えを変えて、「この人は神様だ」と言い出した。
28:7 さて、その場所の近くに、島の首長、ポプリオという人の所有地があった。彼は、そこにわたしたちを招待して、三日のあいだ親切にもてなしてくれた。
28:8 たまたま、ポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていた。そこでパウロは、その人のところにはいって行って祈り、手を彼の上においていやしてやった。
28:9 このことがあってから、ほかに病気をしている島の人たちが、ぞくぞくとやってきて、みないやされた。
28:10 彼らはわたしたちを非常に尊敬し、出帆の時には、必要な品々を持ってきてくれた。
 
マルタ島では、パウロがこの時植え付けた福音が、2000年経った今でも廃れず、ずっと生き続けている。
 
いま、私達は、新しいことば、この世とは異なったことば、すなわち神のことばを、全被造物に対して語る必要がある。
「ことば」と、病は、深い関連があるからだ。
 
ヘブライ語で、コロナやペストなどの感染力の強い病疫を「デベル」と言うが、それは、ことばを意味する「ダバル」と、子音が同じであり、デベル(疫病)は、ダバル(言葉)が元なのだ。
 
ことばには、感染力があり、拡散力があるが、デベルのみならず、悪意あるダバルからも守られるのだ。
 
詩篇91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病(デベル)から助け出されるからである。
詩篇91:6 また暗やみに歩きまわる疫病(デベル)をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
 
今、コロナ禍の中では特に詩篇91篇の守りを宣言する必要があるが、この守りは、世にはびこるあらゆる害毒を持ったことば、情報からも、守られる。
 
この「使徒29章」の時代、使徒パウロのように、コロナ禍にあえぐ全被造物に対し、また、人、モノ、コトに対し、イエス・キリストの勝利のよき知らせを伝え、宣言し、あらゆる呪いを、あらゆる毒を、あらゆる病を、また、あらゆる悪しき霊や悪しき言葉を、攻撃し、踏みにじり、無効化し、勝利して、イエス・キリストのいのちを、至るところにもたらして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

悪霊を惹き寄せるコスメと、イエス様を惹き寄せるコスメ(ルカ11:14-36)

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11:14 さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。
11:15 その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、
11:16 またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。
 
イエス様は、様々な悪霊を追い出した。
悪霊を追い出す事や、癒やしは、良いわざであり、否定しようがない。
それなのに、それを悪くいう人がいた。それが、祭司長や、パリサイ人たち。
 
11:17 しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。
11:18 そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、
 
サタンの国が、もし仲間割れしていたら、とうの昔に、その支配体制は滅んでいたはず。
けれども今、厳然と、悪の勢力は統率がとれて機能している。
 
どういうわけで、秩序がなさそうな悪霊どもに、統率がとれているのか。
それは、サタンが、厳然とした権威体制を強いているから。
 
サタンの国でさえ分裂せず統率が取れているのに、私達が、分裂して統率が取れないとするなら、それは恥ずかしい事だ。
 
ガラテヤ
5:13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
 
だから、もし兄弟姉妹の間で、家族間で、夫婦間で、仕事場で、ビジネスにおいて、分裂しているなら、そこは、立ち行かない。
なぜなら、たとえば、10の力があるとするなら、かみあう事で3のエネルギーを使い、食い合う事で3のエネルギーを使い、残りの4で、世の戦いをして行かなくてはならないからだ。
それでは、負けてしまう。
 
敵意、争い、そねみ、分裂、分派、党派心、ねたみ等は、肉の実である。
それでいては、せっかく10ある力が、4になり、やがて、先細りして無くなってしまう。
むしろ、互いに愛し合い、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制があるなら、10の力が100にも1000にもなる。
 
だから、イエス様にあって和解するべきなのだ。
 
11:19 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
 
当時、悪霊を追い出す祈祷師が、ユダヤ人の中にいた。
祭司長スケワの息子達がそれである。(使徒19:13-16)
だから、悪霊をベルゼブルによって追い出している、と言った、彼ら自身が、彼らをさばいているのだ。
 
11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
 
そう、神の国は「あなたがたに」来ている。
2021年現在も、あのイエス様の時代と同じように。
 
神の国にあずかれない人がいるが、そのコツとは何か?
今回の箇所は、そのコツで満ちている。
それは、イエス様に対しての、こころざしが悪い人たちだ。
そういう人は、神の国に入ることができない。
 
11:21 強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。
11:22 しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。
 
イエス様は、はるかに強い。
そのイエス様が来て、悪霊をしばって、その人を開放するなら、その人はイエス様のとりこになる。
だから私達も、暗闇にとらわれている人たちから、イエス様の名によって悪霊や病を追い出し、ぶんどるなら、そ人は、神の国の分捕りになる。
 
喧嘩に勝つコツは、強い友達につく事。
別に、腕立てや腹筋して鍛えなくても、強いイエス様につくなら、どんな悪霊や悪魔にも、世のあらゆる艱難にも、勝利する。
この世の中、悲しい事や苦しい事が、色々ある。しかし、それをもたらす者よりも、はるかに強いイエス様を主としているなら、主であられるイエス様がそれを打ち破り、平安がもたらされる。
 
11:23 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
 
「味方」と訳されたギリシア語は「メタ」、すなわち、イエス様と共にいる、というのが原意。
つまり、イエス様と一緒にいない人は、イエス様に、反対する人!
イエス様と一緒にいない、で、イエス様を揶揄する者は、集めるものでなく、散らすもの。
 
パリサイ人のように、悪辣な者は、せっかくイエス様がもたらした恵みを、難癖つけて、散らしてしまう。
 
11:24 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、
11:25 帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
11:26 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。
 
悪霊の帰る「家」とは、人の事。
「その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」と書いてある。
 
それでこの悪霊は、もともと取り憑いていた人のところに帰ってみると、掃除をして、きちんとかたづいていた。
ここの「かたづいていた」は、コスメオー。
その語は、コスメの元で、飾るとか、整える、という意味。
 
化粧した女性は魅力的に映るが、悪霊にとって魅力的にコスメされた人とは、どういう人か。
それは、悪霊が追い出された後、その思いも心も、空白のまま、ぼーっとしている人である。
 
せっかく悪霊が追い出されたのに、その空白を、イエス様のことばで満たさず、健全な兄弟姉妹の交わりをせず、空白のままにしておくと、また、むらむらと蘇ってくる。
以前の、けんかしたり、酒飲んだり、仕事せず引きこもったりしていた、ある種「ラク」だった頃を。
 
それが悪霊にとってコスメされた状態。
そこに悪霊が戻ってくると、悪霊にとって居心地良い物件、として映って、さらにたちの悪いのを7つ連れて、住んでしまう。
 
だから、悪いくせが追い出されたなら、そこを、御言葉で満たし、健全なことばで満たし、健全は働き、健全な交わりで満たすべき。
さもないと、以前よりももっと悪くなってしまう。
 
11:27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。
 
それでは、イエス様の母マリヤが幸いか?
確かにマリヤは幸いだが、イエス様は、「いや」と言われる。
 
11:28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
 
ここの動詞は、現在形能動態が使われている。
すなわち、神のことばを自主的に聞き続け、それを自主的に守り続けている人達!
それが、幸いな人。
 
この箇所のある人は、イエス様に悪霊を追い出してもらい、癒してもらい、しるしを見た。
でも、幸いな人とは、神のことばを聞きつづけて、それを守りつづけている人たちなのだ。
 
11:29 さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
11:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
 
イエス様のもとに行って、しるしを求める人に対する、イエス様の評価は、「悪い時代(ジェネア:世代)」。
だから、しるしばかり求める人は、「悪い世代」なのだ。
 
そのような者に対しては、ヨナのしるししか与えられない、と、イエス様は言った。
ヨナは、三日間、魚の腹にいて、祈らされ続けていた。
 
ヨナ2:9 しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。
 
ここの、「救は主にある」は、ヘブライ語では「イェシュアータ・ラ・アドナイ」。
実はここに、イエス様の名、イエシュアが、込められている。
 
つまりヨナは、三日間、イエス様の御名を呼び続け、そして三日後、魚の腹から吐き出され、復活し、神の国のことばを広め、多くの人を救った。
 
だから大事なことは、イエス様と問答し続け、イエス様のことばを聞き続けて、守り続ける人である。
 
11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
 
シバの女王は「聞くため」にやってきた、と書いてある。
 
11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
 
ニネベの人々も、裁く。なぜなら、ヨナの説教を「聞いて」「悔い改めた」から。
だから、心して聞いて、そして悔い改める人が、終わりの時、立つ人である。
 
パリサイ人達は、見た。聞いた。
が、信じないどころか、イエス様を、ベルゼブル呼ばわりした。
そういう人は、終わりの時代、ニネベの人々や、南の女王から、裁かれてしまう側の人である。
 
11:33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。
 
ここで、「あかり」について言っている。
あかりはレクノス。ルクスの元で、ランプという意味である。
ランプが灯った、それを、覆い隠す?
そんな事する人はいない。
ましてや、昔のランプは、火を使っている。
そんな事する人、いないはず、なのに、なんでイエス様は、そんな事を言われたか。
それは、あえて隠す人が、いるからだ。
あえて、イエス様の御言葉に、覆いをかける人が。
そんな事をしたら、火がついて、苦しみの内に倒れる、とイザヤ書50章に書いてある。
 
イザヤ50:10 あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。
50:11 見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。
 
11:34 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
 
目が「健全なら」の原意は「単純明快なら」「シンプルなら」という意味。
そうであるなら、全身は明るく、人生は明るい。
 
しかし、目が悪いと。。。
ここの、目が悪い、とは、近眼だとか、白内障だとかの「目が悪い」ではない。
 
ここのギリシア語はポネーロス。
それは、邪悪とか、悪辣という意味。
 
だから、目が、悪辣なら、邪悪なら。。。
すなわち、人をみるたびに、あいつは悪霊のかしらだ、とか、偽善者だ、とか、きっと心では悪いことを考えているのだ、とか、そういった、悪辣な目で人、モノ・コトを見る人は、からだ全体が暗い、とイエス様は言われる。
 
実際、人をみるたびに、ウソつきだとか、心の中で悪く思っているのだ、とかいった目でみているなら、実際、からだが不健康になり、そういう人の人生は、全てが暗い。
 
14節では、悪霊を追い出しているイエス様をベルゼブルだとか、悪い目で見ている人たちがいた。
その言葉自身が、その人本人について、証明してしまっている。
 
11:35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」
 
目が単純明快な、シンプルな人こそ、救いから遠く離れていない。
だから、ものの見方において、シンプルであるべきである。
 
幸いな人とは、自ら聞いて、自ら守る人だとも言われた。
私達は、聞いたならシンプルに守り行うべきだ。
 
イエス様によって、悪霊が追い出され、悪習慣が追い出されても、何もせず放置するような、悪霊にコスメするような者ではなく、むしろ、御言葉を心して聞いたなら、それを思い巡らす、という、イエス様に好まれるコスメで、いつも身を飾る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

主の囲いで守られる人と、囲いが無い人の違い(ヨブ記1章)

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エゼキエル書講解説教

聖と俗とを区別せよ(エゼキエル42章)

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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
42章では、祭司たちのための施設について、また、聖なる領域について示されており、聖と俗とを区別するべき事が、特に強調されている。
 
1-9節には、内庭の北側に配置するべき祭司のための建物の構成と寸法が示されており、10-12節は、南側の建物について示されている。
南側の建物も、北の建物と、寸法や構成は一緒である。
それらの建物は、北と南が通路で分断された三階建ての建物であり、これらの施設の用途は、13-14節に示されている。
 
42:13 時に彼はわたしに言った、「庭に面した北の室と、南の室とは、聖なる室であって、主に近く仕える祭司たちが、最も聖なるものを食べる場所である。その場所に彼らは、最も聖なるもの、すなわち素祭、罪祭、愆祭のものを置かなければならない。その場所は聖だからである。
42:14 祭司たちが、聖所にはいった時は、そこから外庭に出てはならない。彼らは勤めを行う衣服を、その所に置かなければならない。これは聖だからである。彼らは民衆に属する場所に近づく前に、他の衣服を着けなければならない」。
 
この建物の用途は、主に近づく祭司たちが、最も聖なるささげ物を食べる所、すなわち、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえの、祭司の分を食べるべき所であり、また、祭司が装束を着替えるべき所でもある。
 
つまり、祭司たる者は、食物においても、着物においても、聖別された者として、自分自身をキープしなければならない。
神殿にて、神仕える祭司が食べる捧げものの肉は、単なる食物ではないし、また、その場所において食べる行為は、単なる飲み食いではない。
それは、主へ捧げられた犠牲を覚える、聖なる行為である。
そのために主は、わざわざ、聖なる敷地の一角に、祭司がそれをするための建物を指定されたのだ。
 
私達・キリスト者は、現代の祭司である。
パウロは警告している。
教会において、われ先にと飲み食いして、自分だけ満腹で酔っていて、他の人を、空腹のままにしておくような者に対して。
 
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
 
パウロは続いて、主が制定された聖餐を説明する。
旧約で、祭司は、犠牲の捧げものは定められた聖なる所で食べるように、と、指示されていた。
同様に、新約聖徒は、罪の犠牲となられ、和解のいけにえとなられたイエス様のみからだであるパンを共に食べ、イエス様の流された血であるぶどうの実で作った飲みものを、共に飲むのである。
 
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
 
ここでイエス様が繰り返し言われた、大事な事は、「わたしを覚えて、これを行いなさい」である。
聖餐をあずかるに「ふさわしくない」者とは、イエス様の尊い十字架でのみわざを覚えない者、みからだをわきまえない者である。
 
よく、自分は罪をたくさん犯したから、この聖餐にあずかるにふさわしくない、と、勘違いする人がいる。
もし罪をたくさん犯した、というのであるなら、なおさら、罪人の身代わりに十字架上でみからだを割いてくださったイエス様の肉にあずかるべきであり、罪を清める血にあずかるべきである。
 
だから、私達・新約聖徒は、教会における飲食は、キリストのからだを覚えつつ、わきまえて行うべきである。
そうでない者、すなわち、イエス様のみからだをわきまえないで飲み食いした者は、どうなったか。
 
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
 
コリント教会の中には、みからだをわきまえない飲み食いによって、弱った人や、病気になった人が、大ぜいおり、また眠った(死んだ)者も少なくない、というのは、恐るべき事である。
キリストを覚えず、教会に、単に飲み食いだけのためだけに来ていたような人は、弱くなったり、病につきまとわれたり、さらには、死んでしまったのだ。
だから、パウロは注意している。
 
1コリント11:33 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
11:34 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。
 
 
エゼキエルはさらに、聖と俗の境界を示される。
 
エゼキエル42:20 彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。
 
区別がある。
聖と、俗との。
 
主は、聖なるお方である。
だから、自分自身をきよくしようとしない者は、神を見る事はできない。
 
実際、黙示録で示される天国は、汚れた者は入れない、と書いてある。
また、レビ記には、みずからを清めないまま主の御前に出るなら、打たれてしまった事が、書いてある。
 
神殿は、主と出会う場所であり、汚れた者は、入れない。
エゼキエルに示された神殿は、特に、汚れに対しては、ガードが固かった。
 
私達も、主と出会いたい、という事であるなら、まず自分自身を清める必要がある。
 
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
 
ここの14節で言われている事は、不信者とは一切出会うな、という事ではない。
「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」である。
 
私達は、世に出て、信じていない人を、信じる人とするために、宣教へ出ていくつとめがあるが、それは、自分を不信者の側へと合わせたり、不信者といっしょくたになって、共同で罪を犯したり、不正に手を染めたりしてはならない、という事である。
 
自分をきよくしている人が、汚れた人に触れるなら、相手の汚れがk自分に移って汚されてしまうのである。
人は、罪や汚れに弱いものである。
アルコール依存症の人を救おうとして、彼らの気持ちを理解しようと自分もアルコールを飲むなら、やがて、自分もアルコール依存症になってしまうものだ。
 
唯一の例外は、イエス様である。
長血(不浄の病とされている)に12年もかかっていたある女が、イエス様ならきっと、わたしを救って下さる、という信仰をもちながら、イエス様の衣のふさに触れた。
通常なら、汚れた人がきよい人に触れるなら、触った相手を汚してしまう。
しかしこの時、逆の事が起きた。
イエス様に触れた女のほうが清められ、その不浄の病が癒やされたのだ。
 
イエス様が、この、汚れに満ちた人の世に降りて来られたのは、ただ、一方的な恵みである。
こんなにも罪に汚れて、きよい神とは、ほど遠いような、そんな私達に向かって、イエス様は、天を押し曲げて降りてこられた。
それで私達は、イエス様に出会い、イエス様を信じ、救われたのだ。
 
私達は、イエス様の名前によってこそ、父なる神とお会いする事ができるのだ。
 
それが示された以上、私達は、いつまでも汚れに留まっていてはならない。
イエス様は、つまずきを与える者や、不法を行なう「主のしもべ」を、御国の中からから取り集めて外の暗闇に追い出すので、彼らは泣いて歯ぎしりする、と言われた。
 
聖と俗とを区別し、汚れを捨てて、いつも自分をきよくし、聖なる敷地の中で、聖なる祭司としていつも主と出会い続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

祝福のための呪いの宣言(申命記27:11-26)

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27:11 その日またモーセは民に命じて言った、

27:12 「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。
27:13 また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。
27:14 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
27:15 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
 
約束の地に入った時には、12の呪いの宣言と、それに対する民の「アーメン」の宣言をしなさい、と命じられている。
 
申命記11:29 あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。
 
ここで、(祝福と呪いを)「置く」のヘブライ語は「ナタン」、与える、付与する事を意味する。
つまり、トーラーを宣言し、アーメンする事は、祝福と呪いを付与する行為なのである。
だから、レビ人が「**する者は呪われる」、と、12ののろいの言葉を大声で宣言し、民が、それにアーメンを発した時、その祝福と呪いが効力を発するようになるのだ。
 
27:14 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
27:15 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
27:16 『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:17 『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:18 『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:19 『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:20 『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:21 『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:22 『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:23 『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:24 『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:25 『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
 
27:26 『この律法(トーラー)の言葉(ダーバル)を「守り(クム)」「行わ(アーサー)」ない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
 
ここの「守る」(クム)は、立つ、従う、確認する、参加する、保つ、の意味の、ヒフィル態未完了形。
 
ヒフィル態とは、『〜させる』という、使役動詞である。
つまり、トーラーの御言葉は、自分の意志でする、のではなく、「させられる」ものであるのだが、それを拒否する者は、呪われる、という意味である。
 
だから、呪われる人とは、
父母や霊的指導者によって、
御言葉に、立たせられる事を、拒否する人。
御言葉に、従うように、させられる事を、拒否する人。
御言葉を、確認するように、させられる事を、拒否する人、
御言葉に、参加させられる事を、拒否する人。
御言葉を、保つように、させられる事を拒否する人、
 
この箇所の宣言には、ひたすら、呪いしか無い。
御言葉を記す石灰で塗られた石が置かれるのも、呪いを置くエバル山のほうだった。
 
しかし、これを行うのは、祝福するため、と書いてある。(Jos_8:33)
 
結局、そのような事を、しない事、が、祝福なのである。
 
詩篇1:1にも、ある。
幸いな人とは、3つの「ず」の人だった。
 
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
 
人の世には、否応もなく、死がある。
なぜなら、罪の代価は死である、と書いてあるからだ。
私達に苦しみがあるのは、そのためである。
 
解決方法は、一つしか無い。
すなわち、私達が、罪を犯した、という事を、後悔する思い、と、罪を離れたい、という決心をもって、イエス・キリストに「赦して下さい」、と言う告白である。
 
イエス様は、私達に追い迫ってくる死を、解決するために、きてくださった。
私達がそれを告白するなら、告白したゆえに、私達の死に値する罪を、イエス様は御身に移し、十字架の上で、処罰して下さった。
 
呪いの宣言は、罪を避け、祝福を受け継ぐため。
罪は、見ないふりをしたり、臭いものに蓋をしたり、また、仕方ないと言って開き直ったりしているなら、呪いは留まったままである。
私達は、犯した罪をそのままイエス様に告白し、赦していただき、もうそこに戻らない事、そのものが、祝福なのだ。

 

早天祈祷会

のみを当てない石の祭壇で捧げる礼拝(出エジプト記20:22-26)

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参照箇所:
 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

ヨセフのように地に住み誠実を養う(創世記40章)

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この時代、主から大いに用いて頂く器となるためにどうすればいいか?
地に住み、誠実を養ったヨセフから学びたい。

 

エゼキエル書講解説教

天国を思わせる神殿(エゼキエル41章)

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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
41章は、いよいよ、神殿の本堂の中へと入っていく。
 
この度の箇所のように、神殿の詳細を読んでいく時、聖霊の助け無しに読むなら、自分とは何ら関わりのない、無機質な設計図を読んでいるかのような「つまらなさ」を覚えるだろう。
しかし、聖霊という”ツアーガイド”つきであるなら、その情景がありありと浮かび、あたかもそこが、自分がこれから入居する素晴らしい邸宅を内覧しているかのような、うきうきとした喜びに浸しこまれていく。
 
この箇所に限らず、私達は聖書を読む時、聖霊のガイドに従って読めるように、求めるべきである。
 
 
41:1 彼がわたしを拝殿に連れて行って、脇柱を測ると、こなたの幅も六キュビト、かなたの幅も六キュビトあった。
41:2 その戸の幅は十キュビト、戸のわきの壁は、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトあった。彼はまた拝殿の長さを測ると四十キュビト、その幅は二十キュビトあった。
 
神殿の戸の幅は、奥へ入っていくにつれ、どんどん狭くなって行く。
(玄関の幅は14キュビト、聖所は10キュビト、至聖所は6キュビト)
 
この神殿の構造自体が、礼拝者の心を整えて行く構成となっている。
神殿の階段も、外から内へ入るにつれ、どんどん段数が多くなって行ったよう。
階段を登るごとに、礼拝者の心を「上」へと向けさせられ、また、狭い戸をくぐって行くごとに、礼拝者の心は、どんどん低くへりくだらせていく。
 
 
41:3 彼がまた内にはいって、戸の脇柱を測ると、それは二キュビトあり、戸の幅は六キュビト、戸のわきの壁は七キュビトあった
 
至聖所の戸は、6キュビトと、今までの門の中では、一番狭い。
そう、聖なる領域へ入る門は、狭いのだ。
 
イエス様は、心して、せまい門から入りなさい、と言われた。(マタイ7:13)
滅びに至る門は広く、ラクであり、その道を行く人は多いが、その向こうは、聖なる場所ではないし、聖なるお方も、おられない。
その道は、滅びに通じる道だからだ。
 
しかし、イエス様は言われた。
『わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。』(ヨハネ10:9)
 
イエス様という、あまり人々が見いださない「狭い門」から入った向こうには、天国があり、神様との永遠の交わりがあり、永遠の喜びがある。
それ故私達は、イエス様にあって、永遠の祭司となるのである。
 
 
41:4 彼はまた拝殿の奥の室の長さを測ると二十キュビト、幅も二十キュビトあった。そして彼はわたしに、これは至聖所であると言った。
 
至聖所のサイズは、ソロモン神殿と同じである。
ソロモン神殿には、六百タラントに当たる良質の金がかぶせてあったが(2歴代誌3:8)、この神殿は、金や銀などの貴金属や宝石などの飾りについては、一切、触れられていない。
 
 
続いて聖所の外側の、脇間の説明に入る。
 
41:5 彼が宮の壁を測ると、その厚さは六キュビトあり、宮の周囲の脇間の広さは、四方おのおの四キュビトあり、
41:6 脇間は、室の上に室があって三階になり、各階に三十の室がある。宮の周囲の壁には、脇間をささえる突起があった。これは脇間が、宮の壁そのものによってささえられないためである。
 
神殿の外を覆う壁の厚さは、3メートル強で、かなり厚い。
モーセの幕屋の骨組みは、アカシヤ材の板が、基本的な構成物となっていて、板一枚につき2個の銀の台座で支えられていたが、それとは比べ物にならないほど、頑強だ。
 
脇間は、神殿をぐるっと回る回廊状にめぐらされ、1フロアごとに30あり、それが3フロアあるので、合計、脇間は90もある事になる。
そこは、色々なものを保管したり、あるいは、奉仕者が色々な用途に用いる事ができるだろう。
 
天国には、イエス様が用意された部屋が、たくさんある。
イエス様は、言われた。
 
『わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。』(ヨハネ14:2-3)
 
 
バビロン捕囚から帰還した民は、ゼルバベルを中心に、神殿を再建したが、総督であるネヘミヤが不在の時、代行していた者は、神殿の聖なる部屋を、トビヤという、神の民をあざける異邦人のために都合つけ、あてがっていた事が発覚した。(ネヘミヤ記13章)
神の民をけなす者の私物を、聖なる神殿の一室に置く・・・それは、相当根深く隠れたつながりでも無い限り、ありえない事である。
 
『わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。』(ネヘミヤ13:8-9)
 
ネヘミヤは憤って、きよめを遂行したが、私達という神の神殿は、どうだろうか?
罪との隠れた、根深いつながりは、無いだろうか?
私達の心の部屋、頭の部屋には、トビヤの私物を、放置していないだろうか?
 
「ネヘミヤ」の名の意味は「主の慰め」、すなわち、慰め主・聖霊と同じ名である。
もし私達が、世と妥協し、この私達という宮に、あえて、汚れた情報や思考を取り入れ、蓄えるなら、聖霊は憤られる。
そして、宮をきよめるために、強制力を発動される。
 
私達も、自分自身という宮を見張る事を怠り、トビヤの私物のような汚らわしいものを、自分の中に蓄え、のさばらせているなら、ネヘミヤの時代にあったように、少々、手厳しい扱いを受けるだろう。
ものすごく恥ずかしい思いをするか、何か大きな損失を被るか、、、。
ともかく、大々的な「きよめ」という”霊的ガサ入れ”が入る。
 
 
41:7 脇間は、宮の周囲の各階にある突起につれて、階を重ねて上にいくにしたがって広くなり、宮の外部の階段が上に通じ、一階から三階へは、二階をとおって上るのである。
 
この脇間は、階を上がって行くにつれて、全体的に広くなっていった。
私達という神殿の内部屋、すなわち、私達の思いや心は、礼拝へと登るにつれ、すなわち、天に近づくにつれ、イエス様へと近づいて行くにつれ、どんどん広まって行く。
それまで、「狭い」と思っていた自分自身の心が、内側が、イエス様にあってどんどん解放され、どんどん広く、開放されて行くからだ。
 
 
41:8 わたしはまた宮の周囲に高い所のあるのを見た。脇間の基を測ると、六キュビトの一さおあった。
41:9 脇間の外の壁の厚さは五キュビト、あき地になっている高い所は五キュビトあった。宮の高い所と、
41:10 庭の室の間には、宮の周囲に、広さ二十キュビトの所があった。
 
神殿の脇間は、このように、高い基の上に据えられ、その周囲は広々としていて、開放感がある。
もし、私達がよく見張り、汚れたものを自分に入れず、聖なる様相を保ち続けるなら、私達という神殿の「心」という脇間も、どっかりとした土台の上に据えられ、広々と、開放感がある者となって行くのだ。
 
 
41:12 西の方の宮の庭に面した建物は、幅七十キュビト、その建物の周囲の壁の厚さは五キュビト、長さは九十キュビトであった。
 
この、西側の、すなわち、神殿の後ろ側の、結構大き目の建物は、モーセの幕屋や、ソロモン神殿には、無い建造物である。
 
 
41:13 彼が宮を測ると、その長さは百キュビトあり、その庭と建物と、その壁は長さ百キュビト、
41:14 また宮の東に面した所と庭との幅は百キュビトであった。
41:15 彼が西の方の庭に面した建物と、その壁の長さを測ると、かなた、こなたともに百キュビトであった。宮の拝殿と、内部の室と、外の廊とには、羽目板があった。
41:16 これらの三つのものの周囲には、すべて引込み枠の窓があり、宮の敷居に面して、宮の周囲は、床から窓まで、羽目板であって、窓には、おおいがあった。
 
この神殿の描写は、ソロモン神殿の描写に比べれば、飾りっ気が無く、非常にシンプルである。
 
 
41:17 戸の上の空所、内室、外室ともに、羽目板であった。内室および拝殿の周囲のすべての壁には、同じように彫刻してあった。
41:18 すなわちケルビムと、しゅろとが彫刻してあった。ケルブとケルブとの間に、しゅろがあり、おのおののケルブには、二つの顔があり、
41:19 こなたには、しゅろに向かって、人の顔があり、かなたには、しゅろに向かって、若じしの顔があり、宮の周囲は、すべてこのように彫刻してあった。
41:20 床から戸の上まで、ケルビムと、しゅろとが、壁に彫刻してあった。
 
天国には、2種類の木が登場する。
一つは、いのちの木であり、もう一つは、しゅろ(なつめやし)の木である。(黙示録7:9)
 
聖所の内側の彫刻には、若獅子と、人とが、しゅろの木のほうを向いている。
神殿内の飾りと言えば、ただ、それだけだ。
シンプルといえども、まことに、黙示録を連想させる彫刻である。
 
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』(黙示録5:5)
 
『その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
』(黙示録7:9-10)
 
 
41:21 拝殿の柱は四角であった。聖所の前には、木の祭壇に似たものがあった。
41:22 その高さは三キュビト、長さは二キュビト、幅は二キュビトで、すみと、台と、壁とは、ともに木である。彼はわたしに言った、「これは主の前にある机である」
 
この、聖所の中の、いや、聖所と至聖所に見られる、唯一の器物は、主の前にある「机(シュルカーン:食事などを置くテーブル)」だけである。
その材質は木だけであり、寸法は、高さ150cm強、長さ・幅は、共に60cm強である。
 
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の聖所には、3つのアイテムがあった。
すなわち、供えのパンの机と、香の祭壇と、燭台(メノラー)が。
それに対し、この聖所に置かれたものは、いや、至聖所も含めて、この聖なる神殿の中に唯一、言及された器物は、これだけなのだ
まことに、私達の目には、謎の多い神殿だ。
 
 
41:23 拝殿と聖所とには、二つの戸があり、
41:24 その戸には、二つのとびらがあった。すなわち二つの開き戸である。
41:25 拝殿の戸には、おのおのにケルビムと、しゅろとが、彫刻してあって、それは壁に彫刻したものと同じである。また外の廊に面して、木の天蓋があり、
41:26 廊の壁には、こなたかなたに引込み窓と、しゅろとがあった。
 
聖所と至聖所の間の戸は、折りたたみ式の戸で、そこにも同様に、ケルビムと、しゅろの彫刻が為してある。
 
 
以上、この神殿を探索するに、謎と思える事が、いくつかあった。
 
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の、聖所内の香壇は、金が被せられていたのに、エゼキエルが見たこの神殿には、金や銀など高級品の記述は、一切見られない。
また、寸法と材料は書いてあっても、用途が書かれていないものも幾つかあった。
 
分かっている事は、この神殿は、ガードが非常に固いという事と、豪華絢爛なものは記されていないにしても、ゆったりとしていて、何か、天国を思わせる雰囲気がある。
 
主は言われる。
わたしはすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないよう、あなたの持っているものをしっかり持っていなさい、勝利を得る者を、神の聖所の柱としよう、と。(同11-12節)
 
主イエスの血によって、御前に近付く者は、至聖所の本体に入るのである(ヘブル9:24-25,10:19-22)。

エゼキエル書講解説教

与えられた堅固な神殿の幻(エゼキエル40:5-49)

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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
40章以降は、回復された神殿の完成形が、その用途や寸法まで示されており、まずは外側から内側へと進んで行く方向で、その神殿の説明が進んでいく。
 
5-16節は、神殿の外側を巡る壁と、東向きの門の説明である。
 
40:5 見よ、宮の外の周囲に、かきがあり、その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。彼が、そのかきの厚さを測ると、一さおあり、高さも一さおあった。
 
ここで使われているキュビトは、通常のキュビトに、一手幅加えられたもの、そのキュビトは、52cmほどである。
つまり神殿の外側は、およそ3.1mの高さと幅の壁によって、区切られている事になる。
 
神殿の原型は、荒野でモーセに示された幕屋であったが、モーセの幕屋と比べれば、随分、ゴージャスになっている。
モーセの幕屋は、内側と外側を区切る幕の高さは5キュビト、およそ2,25mなので(出エジプト記27:18)、少し背の高い人がジャンプすれば幕屋の内側が見えてしまう。
また、亜麻の撚糸の布製で、押し入ろうとするなら、押入れてしまいそうな材料でできている。
 
しかし、この神殿の外壁は3m以上の、高さと、幅で仕切られている。
ちょっとした城壁に匹敵するような高さと厚さだ。
またこの神殿には、東、北、南の指定された入口からしか入れず、門も、しっかりしたセキュリティの構造となっている。(後述)
 
40:6 彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その厚さは一さおあり、
40:7 その詰め所は長さ一さお、幅一さお、詰め所と、詰め所との間は五キュビトあり、内の門の廊のかたわらの門の敷居は一さおあった。
40:8 門の廊を測ると八キュビトあり、
40:9 その脇柱は二キュビト、門の廊は内側にあった。
40:10 東向きの門の詰め所は、こなたに三つ、かなたに三つあり、三つとも同じ寸法である。脇柱もまた、こなたかなたともに同じ寸法である。
 
神殿の正面は、東であり、神殿の外庭へと入って行くための玄関の両側には、それぞれ、3つの控え室、合計6つの部屋がある。
これは門衛の詰所であり、神殿に入る人は、そこでしっかりとチェックされる事になる。
 
 
40:11 門の入口の広さを測ると十キュビトあり、門の長さは十三キュビトあった。
40:12 詰め所の前の境は一キュビト、かなたの境も一キュビトで、詰め所は、こなたかなたともに六キュビトあった。
40:13 彼がまたこの詰め所の裏から、かの詰め所の裏まで、門を測ると、入口から入口まで二十五キュビトあった。
40:14 彼がまた廊を測ると二十キュビトあり、門の廊の周囲は、すべて庭である。
40:15 入口の門の前から内の門の廊の前まで五十キュビトあり、
40:16 詰め所と、門の内側の周囲の脇柱とに窓があり、廊の内側の周囲にも、同様に窓があり、脇柱には、しゅろがあった。
 
門という”建物”は、横25キュビト(13m弱)、奥行き50キュビト(25m強)、門柱は60キュビト(30m強。口語訳には記述なし)。
その門という建物の内側には、門衛の詰所が左右3つづつあるので、結構壮麗な門である事がわかる。
 
 
続いて17-19節に、外庭についての説明がある。
 
40:17 彼がまたわたしを外庭に携え入れると、見よ、庭の周囲に設けた室と、敷石とがあり、敷石の上に三十の室があった。
40:18 敷石は門のわきにあり、門と同じ長さで、これは下の敷石である。
40:19 彼が下の門の内の前から、内庭の外の前までの距離を測ると、百キュビトあった。
 
つまり、神殿の外庭をぐるっと囲む形で、合計30の部屋があるのだ。
また、外側の門から、内庭の外の端までの距離は、100キュビト(50m強)である。
という事は、この神殿の外庭の門から内庭までの間に、モーセの幕屋が、すっぽりそのまま入るような広さである。
(モーセの幕屋の外庭の寸法は、古いキュビトで長さ100キュビト(45m弱)、幅は50キュビト(22m強)。出エジプト記27:18)
 
また、北向きの門については、20-23節に、南向きの門について24-27節に、それぞれ記されているが、それらの門は、寸法も、成り立ちも、東の門と同じである。
 
 
外庭から内庭へと入るには、南、東、北にある「内庭の門」を通らなければならない。(28-37節)
その寸法も成り立ちも、外庭の門と同じであるが、階段の段数が違う。
外庭の門の段数は7段であるが、内庭の門の階段は、8段で、より高い所に内庭があるのだ。(31節)
 
内庭の東の門についての説明は、32-36節にあり、内庭の北の門についての説明は、35-37節にあるが、いずれも寸法は同じで、それぞれの階段の段数は、8段である。
 
 
38-43節では、北側の内門のところに、いけにえを捧げる際に用いる祭具についての説明が続く。
 
40:44 彼はまたわたしを、外から内庭に連れてはいった。見よ、内庭に二つの室があり、一つは北の門のかたわらにあって南に向かい、一つは南の門のかたわらにあって、北に向かっていた。
 
日本語の聖書には無いが、ヘブライ語の聖書では、これら2つの部屋は「歌うたい(ヘブライ語:シィール)」のための部屋、とある。
(KJVでは、chambers of the singers)
 
40:45 彼はわたしに言った、この南向きの室は、宮を守る祭司のためのもの、
40:46 また北向きの室は、祭壇を守る祭司のためのものである。その人たちは、レビの子孫のうちのザドクの子孫であって、主に近く仕える者たちである。
 
ツァドクの子孫こそ、正当な祭司の家系である。
 
ツァドクは、エルアザルの子ピネハスの子孫で(エズラ7:1-5)、ピネハスは、とても主に熱心であった。
イスラエルが、異邦の女と淫らな事をしていた時、それを排除した事によって、主の賞賛を受け、彼の子孫は永遠に祭司職となる、という約束を、主からいただいていた。(民数記25:10-13)
 
ツァドクから生まれた子孫の中には、偉大な指導者・エズラがいる。(エズラ7:1-5)
彼は、バビロン捕囚から帰還した時、信仰伝授教育であるテフィリン教育を指導し、そのおかげで、ユダヤ人の信仰は、世界中に2500年も離散していたにもかかわらず、現代に至るまで、変わらず信仰が伝授され続けて来た。
 
このように、ツァドクの子孫は、主の聖所の任務を忠実に果たした、という賞賛をいただいた故(エゼキエル44:15)、彼らは祭壇のつとめが与えられ、主の近くで主に仕える栄誉にあずかったのだ。
 
 
40:48 彼がわたしを宮の廊に連れて行って、廊の脇柱を測ると、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトであり、門の幅は十四キュビトである。門の壁は、こなたも三キュビト、かなたも三キュビトである。
40:49 廊の長さは二十キュビト、幅は十二キュビトであり、十の階段によって上るのである。脇柱に沿って、こなたに一つ、かなたに一つの柱があった。
 
いよいよ神殿の玄関口の寸法である。
口語訳と新共同訳では、そこの階段は10段、とあるが、それは七十人訳を元にしているもので、ヘブライ語聖書には「10段」という表記は無い。
 
いずれにしても、外庭の門に入るためには7段登り、内庭の門に入るのに、さらに8段登り、そして神殿へと入るには、さらに階段を登らなくてはならない。
神殿の階段が10段だとしたら、外界よりも、25段高い事になる。
 
 
今回の神殿は、城壁のような壁と、いくつもの門衛の詰所によってガードされていた。
ソロモン神殿を建築する箇所では、豪華絢爛さが強調されていたが(2歴代誌1-5章)、信仰のガードが甘かった。
それ故、彼らは、世の汚れた情報や、汚れた宗教の侵入を許して、それを手放さなかったため、ついに主は、神殿にバビロンの侵入を許可し、豪華絢爛なもろもろは、徹底的に破壊されてしまった。
 
この有様から、私達が受けるべき養いは、私達という神殿は、きよい、聖なるものとして、しっかり外界と境界線を引いてガードし、私達自身を、神に受け入れられる、生きた供え物として、捧げるべき事である。
金銀宝石といった豪華絢爛さを求めるよりも、むしろ、ガードする事をこそ、求めるべきなのだ。
私達の、目という門をガードし、耳という門をガードし、世の汚れた情報や言葉を、心の中への侵入を許さず、口という門からは、良い食べものを口に入れ、きよい、いのちの水のような御言葉を語りだす口とするのだ。
 
エゼキエルは、なぜ、こんなにも正確に、神殿の諸々の寸法や用途を、書き残す事が出来たか。
それは、彼が、神様から示されたまぼろしを、よく心に留め、それを頭に心に刻みつけるために、何度も口ずさんで、テフィリン(御言葉暗唱)していたからである。
私達も、主の御言葉を、そして、主から示されたまぼろしを、昼も夜も口ずさみ、それをよく心に留め、頭に刻みつけるべきである。
そのようにしてこそ、私達は神の神殿として、人々にいのちの水を流しだし、救いを流しだして行く事が出来るのだ。
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