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主日礼拝

熱いスピリットを起こす秘訣(マタイ5:3-6)

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週報/メッセージ(説教)概要

 この度、韓国各所に起こされているIMのセンターを視察するため、韓国をほぼ一周して来た。行った先々で、共通して言われた事は、このIMのシステムおかげで、次世代だけでなく大人もどんどん変えられ、その変えられた彼らの様に驚いた人々が次々と加わり、さらに増え、さらに変えられている。今は今までで一番幸せな働きをしている。日本のために喜んで助けに行くのでぜひ、うちのセンターに頼んで下さい、と。
実際、それぞれのセンターの子どもたちは共通して、素晴らしく秩序があり、礼拝においても賛美においても、ワーシップダンスにしても、伝道にしても、一切の迷いなく、はつらつと行うので、閉塞的だった子供も大人も、ともにイエス様を祝う喜びの渦へと巻き込んで行った。子供たちの学びの場や生活の場も見させて頂いたが、びっくりしたのは、彼らの時間管理と、空間管理の、規律正しさである。とにかく無駄が無い。
そして彼らは、御言葉を暗唱してからでないと、夕食にあずかれない。若い時からそのような習慣が身についているからには、今回、第一期生がアメリカの一流の大学に次々と合格したのも、うなずける。
 
 私達はリバイバルをこの地にもたらすために、強いモチベーション(動機づけ、やる気)が必要である。
ネヘミヤは、エルサレムが廃墟である事に対する深いうめきがモチベーションとなって彼を動かし、わずか52日で城壁を完成させた。ダビデも、神の陣営が40日もなぶられていた事に対する強い憤りに突き動かされて、巨人をたった一つの石で打ち倒した。パウロは福音を伝える事について、返さなければならない負債(ローマ1:14)、どうしてもしなければならない事、もししなかったら災いだ(1コリント9:16)、とまで言った。
 この地にリバイバルをもたらしたい、次世代を起こしたい、といった「モチベーション」が無いとするならそれが私達にとって一番の深刻な問題である。それはつまり、熱いスピリットが無い事を意味しているからだ。
 どうしたら、それを奮い立たせる事ができるだろう。それは自分で奮い立たせられるものではないし、叱られたり、急かされたりして沸き起こるものでもない。これを湧き起こす鍵は、イエス様の山上の垂訓にある。
 
 『心の貧しい人達は、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:3) 「心の貧しい人」とは、原文的には、「霊で自分の貧困を意識する者たち」「自らの霊性で、自分が神の前に無一物、乞食同然であることを知る人々」である。また、「天国」と訳された語は、原文的には「天が支配する領域」である。
 つまり幸いな人とは、自分は霊において自分は何もない、無一文な者だ、自分は乞食のようで、もし恵みを受けられないのなら、生きられない!と自覚する人々の事である。そのように自覚している人こそ天からの援助を受けられ、天の支配が、自分自身へと導入される特権が与えられる、という事を意味しているのだ。
 自分は富んでいる、教えらなくてはならない事など無い、諭されなくてはならない事も一切無い、と思っている人こそ、じつは霊的に麻痺状態で、みじめで、何も持っていないのだ。自分は霊において貧しい者である、次世代が面している危機をうめく心が無い、リバイバルを求める心において自分は貧しい、自分は愛において、親切において、人を顧みる心において心無しで貧しい、自分にはビジョンが無い、主の働きのために必要なものがない…そういった「貧しさ」を涙を流して悲しむ所から「偉大な働き人」への道が始まる。
 
 『悲しんでいる人達は、さいわいである、彼らは慰められるであろう。』(4節) ここの「慰められる」とは「パラカレオー」の受動態で、励まされる、元気づけられる、熱心に説かれる、勧告される、訓戒される、等の意味もある。だから、自分は霊において貧しい!と悲しむ人こそ、それが与えられ、慰められ、励まされ、あるいは慰め主である聖霊(パラクレートス)から、熱心に説かれ、あるいは勧告され、また訓戒される。
 そして、「柔和である事」(5節)こそ、重要である。もし私達が、リバイバル化された日本を、相続したいのなら、柔和さを身につけるべきだ。柔和でない人には、「神の国」化された日本を、相続させてもらえない。
 そして「義」に飢え渇く心も、重要である。自分の中を見、また世の中を見るに、義が無い状況について主に「飢えています!」「渇いています!」と訴える人にこそ、充分に満足する程、与えられるのだ。
 次世代を起こす働きも、この国にリバイバルをもたらす働きも、強いモチベーションが無いなら不可能だ。
それを自身にもたらすには、まず自分が霊において貧しい者である事を自覚し、悲しみ、主の前で涙し、うめき、求めるのである。そうするならパウロのような、ダビデのような、ネヘミヤのような熱いスピリットが与えられ、この時代に立ちはだかる巨人を倒し、霊的な城壁を回復させ、福音のためならいのちをも惜しまない栄光の建て上げ屋になって行く。熱いスピリットをもってこの時代を建て直して行く私達でありますように!
 

 

 

 

主日礼拝

主に向くなら(イザヤ43:18-20)

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週報/メッセージ(説教)概要

 1月のカレンダー聖句は、『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』である。今年は「メタモルフォー」、すなわち反転、逆転、変貌、反撃、ひっくり返しの年として、新年が始まったのだが、今月の聖句も同様に、「荒野に道」「荒れ地に川」という反転・逆転が示されていた。全ての事は二人または三人の証言によって確定する、と書いてあるからには、主は今年、全く新しい、良き方向へ導いて下さるだろう。
 
 主のメタモルフォーに与れるかどうかの鍵は「主に向く事」であると、第2コリント3:16-18から学んだ。
そこは原文的には、「人が主に振り向く時はいつも、その覆いは取り除かれている」、つまり、主に向き続けている状態なら、いつでも、栄光を遮断する覆いは取り除かれた状態で、逆に、主に向いていない状態なら、いつでも覆いに覆われてしまった状態、という事である。もし主の栄光が見えない、という事なら、主ではないもの(自分、現実、心配事など)に、目が向き続けている、という事だ。しかし主に向くなら…、覆われていた覆いは取り除かれ、主の栄光があらわになり、その栄光の輝きを通して、物事が起きるようになる。
  だから私達は、主のなさろうとする御旨に乗っかって行くべきである。主の御旨をさておきして、自分が思った通りにして欲しい、願い事を叶えて欲しい、と主に突きつけ、拝み倒す「異邦人の祈り」は、実は、主の栄光を邪魔する「覆い」で、自分自身を覆ってしまう事なのだ。もし私達が、物事に自分の手練手管を混ぜ込むなら、それは、その物事に「罪」を交ぜる事になる。 モーセは若い時、たった一人のユダヤ人を自分の方法で助けようとした結果、殺人者となり、ヒーローになるどころか、追われ逃げ隠れる犯罪人となった。
彼は結局、たった一人のユダヤ人さえ助けられず、大いに非難を浴びてしまった。 主が願われる道ではなく、自分の「はかりごと」によって物事を通して行こうとするなら、それ相応して「額に汗」しなければならず、生えてくる茨やあざみへの対応に追われ、ついには「ちり」にかえらなくてはならない(創世記3:17-19)。
 しかしもし、「主に向き続けている状態」であるなら、御霊が与えられる。そして御霊と真理がある所には、自由がある。閉塞感や束縛感にあふれている人こそ、真理なる主に目を向けて、御霊を求めるべきだ。
その人は、覆いが取り除けられた顔で、鏡に映し出されるかのように、主の栄光を見続ける。そうしてその人は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ続けて行く(メタモルフォーの現在形受動態)。
 
 だから主は言われる。先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな、と。そういった、以前のものや、現状のもの、将来のもの、自分のもの、他人のものにではなく、「主に向くなら」、主は新しい事をされ、反転をなさる。道の無い荒野に、道をもうけ、渇き切った荒野に川を設ける。野の獣も、ジャッカルも、だちょうも、主をあがめる、と書いてある。いかにジャッカルのような荒々しく、人を喰いものにするような者も、主をあがめるようになる。だちょうは、自分が産んだ卵を砂の中に埋めて、砂に温めさせる。自分ではどこに産んだのかすら忘れ、自分の足で卵を踏み潰しても何とも思わない。 また、猛獣が目の前に現れると、砂の中に自分の頭を埋める。そうするとダチョウ的には、猛獣が見えなくなるので、猛獣から逃げおおせた、と思い込んでいるのだが、単に猛獣の前に無防備に大きな図体を晒し続けて、じっとしているだけなのだ。
そのように知恵がなく愚かであっても、また、愛情のかけらが無い者でも、主に向くなら反転させて下さる。
ダチョウのような愛情が無い、愚かで、浅はかな自分に、嫌気がさしているだろうか。ジャッカルのような自分に嫌気がさしているだろうか。道が見えないだろうか。渇いているだろうか…。私達が主に向くなら、主がそれを反転させ、逆転させ、メタモルフォーの造り変えをして下さり、道を設け、川を流して潤して下さる。
 
 主はいつも、何もできない人、絶望している人を逆転・反転させて用いられる。イエス様の弟子達は、大した地位があったわけでもないし、知恵があったわけでもなかったが、神は知恵ある者をはずかしめるために、あえてこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた。それは、神の御前でだれをも誇らせないため、ただ主だけを誇るようになるためである(1コリント1:27-30)。
 主は私達を、イエス様の働きへと招いておられる。イエス様が建て上げて行かれる、神の国の栄光の働きに加わるように、と。その働きの向こうには、ただ栄光しかない。イエス様に不可能な事は無く、倒せない敵は存在しない。主に向いて、今までのあらゆる古い覆いを取り除いていただき、人生が良い方向へと反転して行く経験をするこの年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

 

主日礼拝

メタモルフォーの年(2コリント3:16-18)

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週報/メッセージ(説教)概要

 22年暮れから示され続けている一連の言葉群がある。反転、逆転、変貌、反撃、覆し、ひっくり返し・・・。
古い上着を脱ぎ捨て、全く新しいものを着る。防戦から攻勢に転じる。世の医者が12年治せなかった病が完治する。38年も寂しく病の床にあった人が一瞬で癒やされ、床を担いで歩き出す。生まれつき足が萎えていた40歳の人が一瞬で癒やされ、跳んだりはねたりしながら、憧れていた神殿に入って礼拝する。これらは、私達の主イエス様が実際に為された事で、私達に対して為される事である。主こそ、逆転の主である。
死をいのちに、呪いを祝福に、弱い者を強いものに、貧しい者を富む者に「逆転」させられる。これらを一言で表すギリシア語が「メタモルフォー」である。メタモルフォーを多く体験するこの新年でありますように!
 
 そのためには、主には、全てがおできになると信じ、今までの人生で培ってきた思い込みや固定概念というバリヤを破る必要がある。その向こうには、限りない自由、開放、無限の可能性が、天のように開けた世界がある。『しかし主に向く時には、その覆いは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。私達は皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に「変えられていく(メタモルフォー)」。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)
 メタモルフォーとは、変貌山において、主の姿や形が全く変わった、あの「変貌」である。その時、主の顔は太陽のように輝き、御衣は、世のさらし屋では到底できないほど白く輝いた(マルコ9:3)。主の霊に浸しこまれるなら、日々メタモルフォーして行く。世のさらし屋で消せない汚れはきれいに消えて白く輝き、世の医者では治せない病も癒やされ、臆病だった心は勇士の心にされる。だから主の霊を求めるべきである!
 新幹線と衝突すると体がばらばらになってしまうように、主の霊が圧倒的に臨むなら、自分の意固地な感情、悲しさ、卑屈さ、恐れ、不安、絶望といった、主のものでない感覚は、ちりぢりばらばらにされる。そして、主の「わたしの子よ!」という愛に溢れた意図に圧倒され、細胞の隅々にまで浸透し、神の子にされたという確信によってどんな状況でも揺るぎない平安、喜びが来、そしてどんな事でも主にあって熱心になれる。
 神様の方法は、いつもそうだ。神様が神の国を立てあげる時、力が無い小さい者を、力ある者に反転させ、何もできない人、絶望している人を、主の力で充満した者に逆転させて用いて下さり、私達を通して、イエス様のビジョン行わせて下さる。イエス様は、私達が考え出すビジョンに力添えするお方ではない。私達をイエス様のビジョンの中へと入れ、揺るぎない神の子に引き上げて行って下さる。イエス様に招かれ、イエス様に建て上げられて行くからには、立ちはだかるものがゴリヤテであろうと、どんな病や貧困、また不可能に思える事であろうと、全き平安の内に導かれていく。イエス様が平安の息を吹きかけられたからだ。
 
 しかし、せっかく油注ぎを受けても、取り上げられてしまう人もいる。サウルがそうだった。サウルから神の霊が離れると、彼は凡人になってしまい、自分の王座を固持するあまり、あれこれもがいて悪を重ね、恐れ悩んだ挙げ句、死んでしまった。もし神の霊が無いなら、凡人となって、悩みに悩んで命を終えるしか無い。
神の霊とは接点なしに人生を終える人とは、自分の思いを世に嵌めたまま、思いを刷新しない人である。
 『この世の鋳型にはめ込まれてはいけません。かえって、あなたがたは、何が神の御心か、すなわち、何が良いことで神に喜ばれ完全かを識別するために、自分の「思い(ヌース)」の刷新によって、「変えられ続けていきなさい(メタモルフォーの現在受動態命令形)」。』(ローマ12:2 ギリシャ語新約聖書インタリニア)
 私達は、スマホなどを経由して入ってくる、世の側が提供してくる情報、世のスタイル、世が仕掛けてくる「鋳型」に、嵌め込まされてはならない。同化させられてはならない。新しいぶどう酒は、古い皮袋に入れる事はできない。もしそんな事をしたら両方だめになってしまう。私達は、考え方や心構え、意見、決心を刷新し、「新しい皮袋」になるべきである。そうするなら聖霊の新しいぶどう酒に充満され、日々メタモルフォーが推進して行く。たとえ何かが立ちはだかっても、その辺に転がっている石ころ一つで、ダウンさせられる。
 
 全く経験した事の無い領域に入って行く事に、不安を覚えるだろうか。ダビデは、未だかつて経験した事の無いような巨人が立ちはだかっても、主の陣が40日もなぶられた事に、聖なる憤りに充満され、恐れは一切なかった。主の霊に臨まれるなら、恐れも粉微塵になって、主の栄光を表す働きを、何でも出来る!
今までのあらゆる古い覆いを取り除き、あらゆる方面で反転を経験して行く、この新年でありますように!

 

 

主日礼拝

祈りという捧げ物を猛禽から守り続けよ(創世記15:7-11)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先週、マイケル宣教師を通じてインターナショナルミッション日本センターが立ち上げられ、日本本部としての特権が私達に与えられた。以来、韓国プサン・トーブチームの中高生16人が、主イエスの恵み教会を拠点に学習と宣教の活動をしている。彼らは日頃から御言葉を暗唱し、宣教師としての訓練を受けているため、道行く若者に声をかける事に、全く躊躇が無い。初めての相手にもすぐに打ち解け、惹き込んでいく。そんな彼らは、天才にならざるを得ない。事実、第1期生は、世界200位以内の大学に次々と合格している。そのような素晴らしい教育システムが、突然、向こうから来た。今まで祈り求めて来た事が本当に答えられたのだ!
 
 これからは、今まで慣れ親しんできた生活サイクルを脱出し、全く新しい領域へ、進もうとしている。その際、真っ先に立ちはだかる敵は、「変化に対する拒否反応」「先回りした心配・恐れ」である。出エジプトした民は、そうした拒否反応や恐れを「固持」したゆえに、荒野で40年さまよって死んでしまった。サウル王も、心配のあまりに勝手ないけにえを捧げてしまったため、王として固く立てられる機会を、逃してしまった。
 地図を開いたなら、まず現在地と方向を特定するのと同じように、今、私たちは「主が祈りに応え、導いておられる」という「現在地」を確認し、方向性を主に求めていくべきだ。私達の信仰の父・アブラハムは、主から「本土・親戚・父の家を出よ」という言葉を受けた時、行き先は分からなかったが、75年も生活してきたその地を離れた。拒否反応や心配は、あっただろう。それでも主の言葉という「現在地」を確認し、そこを出た時、次の方向はその都度示され、そうして彼は、信仰の子々孫々を建てあげる栄光の道を一歩一歩、進んで行った。私たちも彼にならい、先が見えなくても信仰によって進むなら、必ず次が示されるのだ。
 
 主は確かに生きておられ、信仰を手放さない者には力強く働かれる事を、最近体験した。私は半年ほど前から、左腕や首筋のしびれと痛みがひどかったが、マイケル先生の集会で、イエス様の血潮による癒しの祈りの時間があって、私も「癒やしてください、痛みを取り除いてください」と祈っていたのだが、祈りの最中、気付かされた。そうした祈りは、「もしおできになるものなら」(マルコ9:22)という、不信仰が込められている、と。「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんな事でもできる!」(同23節) そこで祈りを変えた。
「イエス様の名前によって、今晩、必ず癒やされて帰る!!」 信仰によって、そう宣言し続けたが、状況は全く動じず、痛みは変わらず残り続けた。だんだん祈り疲れ、祈る事に飽きて来たりもした。やっぱりだめかな、という思いも来たが、それでも口で宣言を続け、自分のたましいに言い聞かせ続けた。集会が終わっても、痛みは残っていたので、ますます否定的な思いがよぎった。しかし、アブラハムが主の約束を確かめた時、捧げ物を狙って来た猛禽を追い払ったように、私も主と出会うまでは、そうった「猛禽」を追い払い続けよう、今晩、必ず主と出会い、癒やされて、主の偉大な力を人々にこれから伝えていく!と宣言し続けた。
 結局、頭の中にひっきりなしに巡ってくる、否定的な「はかりごと」や「思惑」、そして「いいわけ」が、信仰という捧げ物を食い散らかす猛禽だったのだ。そうした、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ、従順が完全になる時、あらゆる不従順を罰する用意ができる!と書いてある(2コリント10:5-6)。そうしてあきらめず続けると、ついに帰りの車で癒やされた!
 
 結局、癒やしも、必要の満たしも、先行きが見えない際の導きも、本当に、本気で信じているかどうか、そして「しつこく」求め続けるかどうかの問題だったのだ。『少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』(ヤコブ1:6-7) 主は、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを、教えられた(ルカ18章)。
 先回り的な心配性や、不信仰、主に逆らって立つはかりごとや思惑、いいわけ、そうした諸々は、イエス・キリストの御名によって縛り、退去命令を出す!そういう「霊的戦い」を、しつこく、しつこく続ける。それこそ、癒やしを体験しキープし、力強い証人になるためのコツなのだ。
 痛みも、病も、経済的不足も、あらゆる不安と思えるような事も、その他、あらゆる立ちはだかる障壁も、全て主に本気で願い求めて、実際に主の偉大な力を、その身に、その人生に働いた経験をたくさん積む皆様でありますように。そうして、ヨシュアのように、ダビデのように、主にあってどんな事でもできる!という確信を身につけ、恐れなく大胆に、祝福と希望に満ちた将来を勝ち取っていく皆様でありますように!
 

 

主日礼拝

恵みの大雨が降る時(ヨエル2:23)

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English Service:The graceful rain of The Spirit(Joe2:23) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 
 今回、マイケル宣教師を通してインターナショナルミッション日本センターが立ち上げられ、しかも、日本本部としての権限が、私達に与えられた。 彼は当初、縁もゆかりもなく、福音を鉄板のように跳ね返す日本を訪問する際、一体どうしたらいいでしょうか、と主に祈った時、主から言われた。日本には既に用意された人達がいる、と。
 彼は今回の訪日で、私達と出会った時、主が言われた事は本当だった事が確認できた、と言っておられた。つまる所、私達は、日本福音化のために「主に用意された人たち」なのだ!
 確かに私達は、普段から祈って来た。栄光の次世代を建てあげる仕組みを下さい、そのために必要な土地、建物、経済、人を与えてください、と。主はこんな小さな交わりで祈られて来た祈りを、聞いておられた。
 同じ時期に主は、韓国でマイケル宣教師を起こし、次世代教育を起こし、私達日本に必要なシステムや人材、教材は、既に彼らを通して用意され、そして、ついに時が満ちたこの時、日本と韓国の群れを一つにし、聖徒達の祈りを、折にかなって答えて下さったのだ!まことに主は素晴らしいお方である!
 
 今月の箇所・ヨエル2:23に書いてある。「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」 主はまさに、豊かな実りをもたらす雨を降らせてくださるが、さらに後の箇所には、どの世代に対しても聖霊が与えられ、全く新しくされる約束が、記されている(28-32節)。
 マイケル先生がよく引用しておられたのは、ダビデに油を注がれた箇所である。『サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。この日から後、主の霊は、激しくダビデの上に臨んだ。』
 聖霊の油が注がれると、主の霊が圧倒的に臨んで充満され、心が全く新たにされる。それまで世の中の思考で生きていた者が変えられ、天の思考で生きるようになる。その思考は、不安に覆い被されたものではない。壁に囲まれて閉塞したような思いではない。万軍の主が共におられる!という確信から来る、開かれた天のような、無限の可能性を秘めた希望から来るワクワク感に満ちた思いであり、主にあっては何でもできる!という確信が、泉のように湧き上がって来るものである。それを今回、感じただろうか。
 
 ダビデはどうして、イスラエルの王として神様から選ばれたのか。それは彼に能力があったからではないし、知恵があったからでもない。事実、彼は、家族の中で一番見下げられていた末っ子であった。彼は、偉大な預言者サムエルを家に迎える、という、エッサイ家にとっては重要な時に、羊の面倒を見る事が命じられたが、神は実に、彼が誰からも顧みられなかった時、既に彼を王として見出していたのである(1節)。
 主が事をなさる時、人のわざは、何も役に立たない。主のわざを為すのに必要な能力も、知恵も、権威も、経済も、天地を創られた全能の主から来るからだ。主は弱いものを勇士とし、貧しいものを富ませてくださるお方である。事実、ダビデも、マイケル先生も、元々は何もなかった。ただ王としての性質は備えていた。
 偉大な王の性質とは何か。それは、主の全能性を信じて疑わない事だ。主には何でもできる!という信念が誰よりも強い人を主は用いる。偉大な王としての性質とは、主の全能性を信じて疑わない事である!
 
 私達に主のわざが起きる事を邪魔しているものは、一体何だろう。それは、私達の中の思い込みである。
自分の頭で構築した手段を考案し、第2プラン、第3プランを考え出し、そのレールから外れた事を言われたり、されたりすると、怒ったり、拒否反応を起こしたりし、「無理」「できない」とカテゴリ分けしてしまう。
 その、「できない」という口から出た言葉、あるいは、思考の中で巡らされた言葉が、神様のわざがなされる事を、最も邪魔して来たのである。私達は、ダビデのように、主の全能性を信じ切る必要がある。主は無限なるお方である!と、ダビデのように思考する「偉大な王」の器を持っている人を、主は探しておられる。
そのような人が一人いるなら、主は、この時代に回復のわざを為されるきっかけを得る事ができる。
 
 主は、穀物が無理なく育つように、はじめの雨と後の雨を降らせてくださる。それと同じように主は、私達が無理なく主の働きができるように、必要な主の霊を降り注がせてくださり、そして新しい心を与えて下さる。
 この時代、ダビデのように、主は全ての事がおできになるお方だと信じ切る王の性質を身につけ、主のわざをこの時代、この日本へと導入して行く私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

メガスの信仰と、テラスの奇跡を起こす器(ヨハネ6:28-29)

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週報/メッセージ(説教)概要

 いよいよ今週、マイケル・ジョー宣教師をはじめ、インターナショナルミッションの一行が来日し、諸々の活動を行う。彼の教育法の素晴らしさに、多くの教会や教育者が感銘し、現在、世界70カ国から講演依頼が殺到しているが、先週、韓国コーエンに参加した祭、もう一人の素晴らしい器に、主は出会わせて下さった。釜山ビジョン教会のキム・ソングァン牧師である。キム・ヒョンジョン博士は8年前、キム・ソングァン牧師の招請でウガンダの首都カンパラにて、現地の牧師500人にテフィリン講義をしたのだが、それが種となって今、教会がなんと1221箇所も建設され、さらにキリスト教学校の初等学校、中高校、大学が、40も建てられたのだ!
 彼らのような大きな働きをする器に、共通している点がある。それは、神様は無限なるお方である、と信じ切っており、与えられたみことばに対して「無理」と言った事がない点である。周りから「そんなの現実ではムリ」と言われても、神様には限界が無い、と信じて、実際行動したら、ムリと思われていた事が次々と実体化し、出来上がって行ってしまうのだ。主はいつの時代も、そのような器を通して、大きな働きをされる。
 
 信仰には、大きさがある。御言葉を、そしてイエスキリストを、どれだけ大きく信じてそれにかけたか。それによって生じる神様のわざの大きさが、違ってくる。ツロ・フェニキヤの女は、イエス様から冷たいように思われる言葉に対しても、優れた信仰告白をしたゆえに、『女よ、あなたの信仰は見あげたもの(メガス)である。あなたの願いどおりになるように。』と言われた(マタイ15:21-28)。イエス様は、彼女の信仰はメガス(百万、巨大)だ、と言われた。モーセも信仰が百万(メガス)に成長した時、パロの娘の子として儚い罪の楽しみを受けるよりは、神の民とともに苦しむ事を選び取った。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富とし、その報いはより優れたものだ、と信仰によって受け取ったのだ(ヘブル11:24-26)。 
 「偉大な信仰」とは、神様をどれだけ大きく見るかによって決定づけられる。もし私達が、神様を1で見るなら、1の結果しか帰ってこないが、百万で見るなら、百万の結果で帰ってくるのだ!
 聖書を見ると、信仰によって、百万よりもさらに偉大な結果で帰ってくる事がある。それは、テラスである。
メガスの値は1,000,000であるが、テラスは1,000,000,000,000、1兆である!それは人には一生かかても数え切れない数字、という事で「奇跡」と訳される、人間には到底できない、ただ神のみができるわざである。
それはイエス様の専売特許ではなく、神には限界が無いと信じ切った信仰者によって行われるものである。
 事実、テラスという語は、4福音書には計3回しか出てこないが、使徒行伝には9回も登場する。信じた人はイエス様のわざを行うのみならず、もっと大きなわざをも行う、と言われた通りである。(ヨハネ14:12)
 
 神のわざには、限界が無い。無限大である。無から有が創造される・・・闇だった所に、光が存在するようになる・・・むなしく茫漠とした所に、愛の意図に満ちたいのちが溢れる・・・。これらは全て、はじめからあったみことば、はじめからおられた神のことばによって成就した。この世に満ちている被造物は全て、はじめに神がことばによって、創造された。『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。』(ヘブル11:3)
 人間は唯一、そのわざに参加できる存在である。神に似た者として、神のかたちとして。闇に光をもたらし、むなしい所に愛といのちで満たすわざに。それがキリスト者の仕事である。そのわざに参加する方法は、イエス・キリスト、すなわち神のことばを信じる事である。( 神のわざ = 神のことば(キリスト) × 信仰 )
 『そこで彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、私達は何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神が遣わされた者(イエスキリスト)を信じる事が、神のわざである」。』(ヨハネ6:28-29)
 
 主には、おできにならない事は、何も無い。その信仰に立つ時、神の無限大のわざが為される。一番の敵は、私達の中の「それは無理だ」「どうせ出来ない」「現状のままでいい」といった思いである。主が用意しておられる無限な将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。主のビジョンを、ケチケチしてはならない。今、主は、主は無限なるお方であるとする人の現れを待っておられる。主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人が実に少ない。今、私達求めるべきである!信仰によって、望んで活用するなら、必ず成功の報いがある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに稼ぎ、優れた支配をしていく私達でありますように!

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

知識もなく摂理を覆い隠して来たわたし(ヨブ記42章)

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 金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

癒やしに必要な罪の告白(マルコ9:14-29)

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 主日礼拝

テフィリンした人に与えられる祝福(申命記6:10-14)

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English Service:Take your sandals off(Exo3:4-5) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 私達は、テフィリン(御言葉暗唱)を土台とした教育機関を立てて、ダニエルやヨセフのように頭の先から爪先まで、御言葉によって神の知恵と能力が備わった、栄光の次世代を起こすビジョンが与えられている。
 前回は、ユダヤ人が最も大切にしている申命記6:4-9の「テフィリン本文」から養いを受けたが、今回はその続きの箇所より、テフィリンした人に与えられる祝福の素晴らしい内訳と、注意すべき事を確認したい。
 
 その祝福の内訳は、10節以降に記されている。すなわち、自分で建てていない町々や良い物が満ちた家々、掘らなかった堀り井戸、自分で植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を、得て、食べて、満ち足りる、というものであるが、それは決して、他人が労して構築したものを、奪い取ったり、強奪する事ではない。
 御言葉を昼も夜も口ずさんでテフィリンした人は、何をしても栄えるため(詩篇1篇)、周囲にいる人々が、その人を持ち上げて、自分の家や畑をその人に任せるようになる。ちょうどイザヤ45:14にある通りである。
 ヨセフは奴隷だった時、彼がする事は何でも祝福されたので、やがてその家の支配人となり、紆余曲折は経たものの、ついにはエジプト全体の支配人へと、仕立て上げられた。そして彼が面倒を見た国政(家)も、農業(畑)も、大いに祝福され、民は喜んで彼に支配権を譲渡した。ダニエルも、バビロンやメド・ペルシヤの王達が自ら進んで彼に支配権を委ねた。被造物は、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでおり(ローマ8:19)、そして神の子が支配権を得て行使する時、人々も被造物にも、平安が来るのだ。
 
 以下、テフィリン教育の第一人者・キム・ヒョンジョン博士の言葉である。御言葉なるキリストが、その人の中に、千節も満たされると、悪魔サタンはその人に入れなくなる。コーエンで学んだある宣教師は、毎日六百回宣言していると、罪を犯す事が苦しくて苦しくてたまらない、と言っていた。御言葉なるキリストが、心や思いに、脳に満たされるなら、罪も、悪霊も、また、どうしても止められなかった罪の習慣さえ、居られなくなって出ていく。キリストとベリアルは、共生できないからだ(2コリント6:15)。さらに二,三千節の御言葉が入ると、見たものが写真を撮ったかのように、聞いたことが録音したかのように、覚えられるようになる。
そして旧新約が五千節も入ると、主がその人の手を取って国を変える働きをするようになり、手で触れたものがことごとく自分のものに、足で踏んだ所がことごとく御国のものになっていく。使徒パウロがそうだった。
 パウロは、旧約だけでなく、新約の御言葉もテフィリンされた人だった。旧約だけテフィリンしたユダヤ人は多くいるが、パウロは彼らとは比べものにならない働きをした。彼が手ぬぐいを人に当てただけで、その人の病や悪霊は出て行き、彼が足で踏んだ所はリバイバルが起き、二千年も続く教会が次々と建てられた。
 パウロは、表向きは囚人として護送されて行っただけなのに、彼が行かされた先々では、いつの間にか彼が主導権を取っており、奇跡が、救いが、次々と起こされて行った。御言葉が染み込んでいる人は、御霊がその人に、霊の帯で縛って、引いて行き、行く先々で主の働きが起きる。パウロがまさにそうだった。
 自分はただ導かれて行っただけなのに、主のスピーカーとして用いられ、自分はただ手を置いただけなのに、主が為したい癒やしのわざや奇跡を起こり、自分はただ聖霊に縛られ、引きずり回されただけなのに、行った先々で悔い改めが起こり、救いが起こり、教会が建って行く、という、パウロのわざが起きるのだ。
 
 だから、自分のものではないものが、次々と与えられた時にこそ、「気をつけよ」と、今回の御言葉は警告する(12節)。自分のものでない物質が次々に与えられる理由は、「わたし」が物持ちになったり、欲望のままに貪るためではない。ヨセフやダニエルのように、それを用いて全地に主の栄光をもたらすためなのだ。
 それらが与えられた時こそ、神である主を恐れ、主に仕え、御名によって「誓わなければならない」と書いてある(13節)。「誓う(シャーヴァ)」の意味は「7にする」「完全にする」「成人するまで育てる」といった意味があり、主を恐れ仕える事において、過ちを犯さない程に成人するまで、御言葉で養い育て続けよ、という事なのだ。そしてその時、世で成功したからと言って、世の神々に逆戻りするな、と警告されている(14節)。
成功した時、過ちに陥ってしまった人が、数多いる。それらを得た時こそ、真価が問われるスタートなのだ。
  今、世界では続々とテフィリンによる働きが起こされており、日本でもTIA(テフィリン・インターナショナル・アカデミー)が起こされ、立て上げの活動がはじまっている。まずは私達自身がテフィリンし、あらゆる面で祝福され、栄光の次世代を育て上げ、主の栄光を、全世界へと伝播して行く私達でありますように!

 

 

 

主日礼拝

御言葉教育がもたらす祝福(申命記6:4-9)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 私達には、ビジョンが与えられている。テフィリン(御言葉暗唱)を土台とした教育機関を立てて、頭の先から爪先まで御言葉が染み付いた、ダニエルやヨセフのような栄光の次世代を起こし、御言葉によって知恵と能力が研ぎ澄まされた彼らを通して、政治、経済、文化、教育のリーダーシップを取り、この時代に神の国をもたらす、というビジョンを。そこで、テフィリン教育の根幹を今一度、よく理解するため、テフィリン教育の本家であるユダヤ人が最も大切にしている今回の箇所(テフィリン本文)から、極意を得て行きたい。
 
 敬虔なユダヤ人であるなら、「シェマー(聞きなさい)」から始まる今回の申命記6:4-9の一文を、必ず朝夕宣言する。戦争中の兵士であっても「シェマー・イスラエル」だけは宣言する程、大切なこの箇所である。
 その最も大切な命令、「シェマー」は、単なる「聞け」という意味には留まらない。耳を傾け、心して聞こう、そして聞いたなら、それが何であっても従順しよう、という「意思」をフル可動させつつ、主の御言葉に耳を傾ける、という意味であり、これこそ、私達・神の民が、神の言葉と向き合う時に必須の心構えである。
 さらに5節には、全身全霊をもって主を愛する事が、命令されている。それでは一体、「主を愛する」とは、具体的に、どうする事だろう…。私達は、なんとなく、漠然と「これが主を愛する事」だと、根拠なしに行動してしまいがちであるが、ユダヤ人はその点、御言葉の根拠を置いているので、正確である。では、「神を愛する手段」とは、正確に、どうする事だろうか?その答えは、続く6-9節であり、彼らは6-9節に記されている「神を愛する手段」を、2500年前から今に至るまで、忠実に実践して来た。それで彼らは祝福されたのだ。
 6節には、主の御言葉を刻み込みなさい、とあるが、原意は「御言葉を溢れるばかりに存在させよ」である。
御言葉をテフィリンしたなら、家にいる時も、会社にいる時も、バカンス中でも、心に刻まれた御言葉が、常に心から溢れ、行動として流れていくため、何をするにも、御言葉に沿った祝福の法則どおりを、自動的に躊躇なく行い、呪いの法則を、自動的に躊躇なく排除しながら生きる。なんと祝福された生き方だろうか!
 7節には、御言葉を子どもたちに「よく教え込む(シャナン)」事が、命じられている。シャナンとは、ノミなどでコツコツ彫刻する事。つまり、御言葉をテフィリン(暗唱)する事は、芸術家が荒削りの木をノミで彫刻し、意味無いものに意味を与え、価値が無いものに、尊い価値あるものへ彫り込んで行くように、御言葉を何度も反復宣言する事によって、その子から、愚かな要らない性質が削ぎ落とされ、まことのアーティストであられる主が本来付与された、素晴らしい賜物を、その子に浮き上がらせ、素晴らしい性質を現して行くのだ。
 さらに、家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい、と命じられているが、それは「論じ合う」事である。彼らは、その御言葉を守って来た故に、小さい頃から、論じ合いディベートする”くせ”をつけて来たので、会話を聞いて理解する能力や、意思疎通能力、説得力や交渉力が高い。
 また8-9節では、御言葉をあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとしなさい、と命じられているが、これは現在も「テフィリン」という箱を手や額に結びつけながら、御言葉暗唱の祈りをする形で、守られている。また、家の入口の柱と門とに、わたしの命令を書きしるしなさい、という命令は、家の入口の柱や門に「メズーザー」という御言葉の箱を打ち付ける事で、実践している。しかし大事な事は、御言葉の箱といったモノではなく、御言葉の内容を自分の生活や生き様に、そのまま実体化する事である。
 
 このように彼らは、体や行動、家や生活全般において、神の言葉を打ち付け、結びつけ、御言葉の命令の「制限」の中で生き続けている。その制限こそが、彼らを守る防護壁となり、祝福をもたらしているのだ。
 こうして、神の言葉が入った子どもは、脳が祝福され、非常に短時間で多くを学ぶ事が出来る。ユダヤ人学校は、午前中はもっぱら御言葉をテフィリンし、昼食後の三時間程を、世の学校と同じ一般教育を学ぶ。
彼らは、入っている御言葉ゆえに、知恵・知識が祝福されているので、世の、普通の学校で学んでいる同年代の子ども達に比べ、一般教育を学ぶ時間が遥かに少ないにもかかわらず、遥かに優れた成績を出している。実際、アメリカの名門大学に入学する若者は、ユダヤ人であるパーセンテージが大きい。
 申命記6:4-9の御言葉を守る人には、10節以降の祝福が約束されている。すなわち、自分で建てていない良い物が満ちた町々や家々、掘らなかった堀り井戸、自分で植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得て、食べて、満ち足りるという祝福である。私達も、新旧約の御言葉を暗唱し、ユダヤ人以上にそれらの祝福を受け、栄光の次世代を育て上げ、主の栄光を全世界へ伝播して行く私達でありますように!
 

 

 

 

 

 
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