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詩篇 講解説教

人はなぜ神に何度も罪を犯し、神なぜ人を何度も赦し憐れむのか(詩篇78篇)

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詩篇78篇表題『アサフのマスキールの歌』
 
この詩篇には、出エジプトからダビデ時代までの歴史が、それも、主の恵みが注がれたのに、人々はそれに対し、いかに主を無視し失礼を働いて来たか、という歴史が、語られている。
その意図は、北イスラエル王国(エフライム)が、主を軽んじ続けた故に滅んでしまった、その歴史から、教訓を受けて学べ、というものである。
 
詩篇78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
 
養いを受けるのに、真っ先に必要な事は、聞くことである事が、最初に宣言された。
 
詩篇78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
 
これから示されて行く内容は、既に聖書に記されている内容であり、また、ある程度クリスチャンとして教会に通っているなら、既に聞いて来た内容である。
 
聖書には、救われる法則と、呪われる法則とが書いてあるが、それを単に知っているだけ、というのと、実際に祝福を受ける事とは、別物だ。
聞いているから、知っているから、といって、救われるわけではない。
だから、たとえ「それは何度も聞いた」と言えるような事でも、なおも聞く必要があり、そして何よりも、守り行う必要がある。
 
詩篇78:4 われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを/きたるべき代に告げるであろう。
78:5 主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、その子孫に教うべきことを/われらの先祖たちに命じられた。
 
主は御言葉を、すなわち聖書を、ヤコブの内に、すなわち、イスラエルに与えられ、そしてその子々孫々へと受け継がれて行った。
それは、彼らが神の契約(御言葉)を守り行い、そうして世界に救いをもたらすためであった。
 
聖書を、一言であらわすなら、どんな言葉になるだろう。
私は、「主は救い」だと思う。
創世記から黙示録まで、主は、人を救う意図でもって人類に関わり、そしてついに、イエス様をこの世に送られた。
イエスのヘブライ語はイエシュア、すなわち、「主は救い」という意味である。
神は、「主は救い」であられるお方を世に遣わして、彼を通して、全人類に救いをもたらして下さった。
 
詩篇78:6 これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、
78:7 彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。
78:8 またその先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからと/ならないためである。
 
5-6節で「子孫」というキーワードが3度も繰り返されているように、神の御言葉と信仰を、子どもたちへ、子々孫々へと伝授する事は、私達の人生の中で、最も重要な使命の一つである。
 
現代の敬虔なユダヤ人の親は、神の命令に従って、子供に必ず神様の御言葉を教えるべき、という使命感を持っている。
彼らは、親としての責任を全うする道とは、どんな時でも、子供に御言葉を教え込む事で、もし、御言葉に従順して生きるような子供に育て上げる前に、死んでしまうとするなら、それは、親としての責任を全うせずして死ぬ事だ、と思っているという。
 
7節に、重要な3つの動詞が出てくる。
すなわち、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」、であり、それをする理由は、8節の「ならないため」である。
 
何に「ならないため」か。
 
それは、「かたくな」にならないため、
「そむく者のやから」にならないため、
「心定まりが無い者」にならないため、
「魂が神に忠実でないやから」にならないため、
である。
そのために、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」のだ。
 
9節から、イスラエルの歩んだ具体的な歴史が記されている。
 
それはすなわち、神に対する反逆と、それを覆う神の恵みの、何度も何度も繰り返された歴史であり、そして北イスラエル王国が行き着いた滅びの結末、すなわち、主の御言葉をあえて無視し、御言葉を押しのけて、おのが欲望を成し遂げるという事を、改めない事をあくまで続けたゆえに、ついには滅びへと至ってしまった、という歴史である。
 
詩篇78:9 エフライムの人々は武装し、弓を携えたが、戦いの日に引き返した。
 
9節のエフライムとは、北イスラエルの代表的部族であり、北イスラエル王国全体を、象徴的にあらわしている。
北イスラエル王国は、なぜ、戦いの日に引き返し、敗北し、滅んだのか。
その理由は、10-11節に書いてある。
 
詩篇78:10 彼らは神の契約を守らず、そのおきてにしたがって歩むことを拒み、
78:11 神がなされた事と、彼らに示されたくすしきみわざとを忘れた。
 
それにも関わらず神の恵みが注がれているさまが、12節から記されている。
 
詩篇78:12 神はエジプトの地と、ゾアンの野で/くすしきみわざを彼らの先祖たちの前に行われた。
78:13 神は海を分けて彼らを通らせ、水を立たせて山のようにされた。
78:14 昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。
78:15 神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、
78:16 また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた。
 
ここでは特に、出エジプトの出来事を思い起こさせている。
ゾアンとはゴシェンのことで、ナイル川三角州の北西部にあったヒクソス時代の首都である。
 
海が分かれて乾いた所があらわれ、誰も思ってみない所に、道ができる。
イスラエルの民はそれを渡り、しかしエジプト軍は、その海に飲み込まれてしまった。
イスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを照らし、導かれて行った。
岩砂漠地帯において、40年も、200万ほどの民が、一日たりとも水や食料で不足を来たらせる事なく、養われた。
こんなにも、想像し難い奇跡を体験しておきながら、彼らはは背いてしまった。(17-20節)
 
詩篇78:17 ところが彼らはなお神にむかって罪をかさね、荒野でいと高き者にそむき、
78:18 おのが欲のために食物を求めて、その心のうちに神を試みた。
 
想像し難い奇跡を体験しておきながらも、背いてしまう原因は、主に対する敬いと感謝が無い事、それと、18節にある「おのが欲望」である。
どんなに奇跡を見ても、しるしを見ても、
「ふーん、すごいね。でもわたしは肉が食べたい、肉を食べさせてくれないなら、あなたを神として認めない」
というような思考なのだ。
 
結局、17節の「罪」「そむき」とは、それの事である。
彼らは、神が主なのではなく、おのが欲望が主なのだ。
 
神の集会の中で、「おのが欲望」のままに、食べ物で罪を犯す時、本人自身の体に、病気という形で変調があらわれ、そして遂には、死に至るのは、新約においても同じである。
 
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
 
18節後半の「試み」の内訳が、19-20節にある。
 
詩篇78:19 また彼らは神に逆らって言った、「神は荒野に宴を設けることができるだろうか。
78:20 見よ、神が岩を打たれると、水はほとばしりいで、流れがあふれた。神はまたパンを与えることができるだろうか。民のために肉を備えることができるだろうか」と。
78:21 それゆえ、主は聞いて憤られた。火はヤコブにむかって燃えあがり、怒りはイスラエルにむかって立ちのぼった。
78:22 これは彼らが神を信ぜず、その救の力を信用しなかったからである。
 
19-20節で、彼らは「主は**できるだろうか?」と3度も繰り返している。
それが、逆らう事、試みる事、主を憤らせ、怒らせる事である。
これは私達がよく犯してしまいがちな罪ではないだろうか。
「主は**できるだろうか?」と、何度も心で繰り返したりして、いないだろうか。
 
マルコ9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
 
「主を試みてはならない」。
この御言葉は、イエス様が荒野で悪魔の試みを受けた時、宣言した言葉のうちの一つだ。
イエス様はその時、3つの御言葉をもって、悪魔を撃退したが、いずれも、申命記の御言葉であった。
 
たまに、今は新約こそ必要で、旧約はあまり関係がない、と言う人がいるが、旧約律法を軽んじてはならない。
申命記を軽んじる人は、サタンに向かって「イエス様の名前によって出ていけ」と言う時、軽んじていた分だけ、サタンから軽んじられる。
 
詩篇78:23 しかし神は上なる大空に命じて天の戸を開き、
78:24 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。
78:25 人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。
 
人々が神を信じず、また救いの力を信じなかった、にも関わらず、神は彼らに恵みをほどこし、彼らの望みどおり、パンと肉を与えられた。
ここでは、70人訳に従って「天使のパン」と訳されているが、原文ヘブライ語はアビィリーム、すなわち、強き者達、勇者達、という意味である。
 
荒野でマナを食べた民は、強き者だっただろうか?いや、弱い者達だった。
しかし、主が与えてくださる特別の恵みを受ける者は、たとえ弱くても、強い者となる。
なぜなら、彼らが弱くても、彼らを守る主が強いからである。
 
詩篇78:26 神は天に東風を吹かせ、み力をもって南風を導かれた。
78:27 神は彼らの上に肉をちりのように降らせ、翼ある鳥を海の砂のように降らせて、
78:28 その宿営のなか、そのすまいのまわりに落された。
78:29 こうして彼らは食べて、飽き足ることができた。神が彼らにその望んだものを与えられたからである。
 
肉を求める彼らのところに、うずらがおびただしく飛んできた奇跡(民数記11章)が記されている。
しかしである。
 
詩篇78:30 ところが彼らがまだその欲を離れず、食物がなお口の中にあるうちに、
詩篇78:31 神の怒りが彼らにむかって立ちのぼり、彼らのうちの最も強い(マシュマーン:太った、肥えた)者を殺し、イスラエルのうちのえり抜きの者(バフゥル:選ばれた者、若者)を打ち倒された。
 
肉をほおばった人の、誰も彼もが打たれたのではない。
肉が与えられても、一切感謝もなく、欲望にかられて、我先にと、肉を口に放り込んだ者、最もマシュマーン(太った、肥えた)な者、選ばれた者(バフゥル)を、狙い撃ちに打たれたのだ。
 
肉欲が強い者、「感謝なさ」において選り抜きの者を、主は狙い撃ちにされたため、そこは、「キブロテ・ハタワワ(欲望の墓)」と呼ばれるようになった。
これは、私達に、欲望のまま・ほしいままにふるまってはならない、肉欲を優先させて主への感謝を忘れてはならない、という警告である。
 
そのような目に遭っても、まだ、人々は懲りない。
 
詩篇78:32 すべてこれらの事があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくすしきみわざを信じなかった。
78:33 それゆえ神は彼らの日を息のように消えさせ、彼らの年を恐れをもって過ごさせられた。
78:34 神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。
78:35 こうして彼らは、神は彼らの岩、いと高き神は/彼らのあがないぬしであることを思い出した。
 
彼らはなおも罪を犯し。なおも信じず、それで災いが送られる。
そして災いに遭って、ようやく神様を求める。
 
こんなにも懲りずに、またまた罪を犯してしまうという、そのどうしようもないまでの理由は、39節にある通り、彼らが肉に過ぎず、また弱い者であるからだ。
 
それでもなお、この詩篇ではもう何度目になるか、という程の「しかし」が繰り返される。
 
詩篇78:36 しかし彼らはその口をもって神にへつらい、その舌をもって神に偽りを言った。
78:37 彼らの心は神にむかって堅実でなく、神の契約に真実でなかった。
 
マソラ学者の計算によれば、この36節は、詩篇の総節(2527節)の真中に当り、
37節は、詩篇の総行(5896行)の真中である。(実用聖書注解)
 
ちょうど詩篇全体の、位置的中心にあたる内容が、なんと、
人々は神にへつらいの口を叩き、偽り、その心は神に対して堅実ではなく、神の契約に対して真実でない、という内容なのだ。
 
なんと象徴的な事だろう。
 
まことに詩篇は、神に逆らい、偽り、堅実でなく、真実でない人間が、神に向かって救いを祈り、叫び求める歌なのだ。
 
詩篇78:38 しかし神はあわれみに富まれるので、彼らの不義をゆるして滅ぼさず、しばしばその怒りをおさえて、その憤りをことごとくふり起されなかった。
詩篇78:39 また神は、彼らがただ肉であって、過ぎ去れば再び帰りこぬ風であることを思い出された。
 
人はなぜ、神にこうも何度も何度も逆らい、何度も何度も同じミスを繰り返すのか。
なぜ神はこうも、そんな人間を、何度も何度も赦し、憐れむのか。
それは39節にある通り、人は肉に過ぎず、そして神はその事を、よくご存知であるからに他ならない。
 
神は、心のうちの真実を喜ばれる。
ダビデが詩篇51篇で告白したように、罪を犯しやすい自分を悲しみ、清められ、癒やされる事を、神に求め、また叫ぶ人を、神は赦し、憐れみ、救ってくださるのだ。
 
しかし、強情になって、罪を改めようとせず、かえって罪に開き直り、改めようとしない者は、やがて滅ぼされる、という事を、この詩篇では教えている。
 
結局、私達は、私達の向きが、天に向っているか、それとも下に向っているかによって、天国に行くか、地獄に行くかが決まるのだ。
神の御言葉に向いている人は、何度倒れても起き上がる。
しかし、自分の欲する事を求める事を改めない者は、あちこちぶつかって痛い思いをした挙げ句、地の下に降っていくのだ。

 詩篇 講解説教

心病ませる「わたし・わたし」の夜想曲と、そこから解放される術(詩篇77篇)

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詩篇77篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたアサフの歌』
 
再びアサフの歌である。前篇と同じく、アッシリヤの時代背景が考えられる。
 
この詩の前半は、弱気で、悲観的な雰囲気である。なぜそのようになってしまうのか?
その理由は、この詩の前半の主語を見れば、わかる。
 
すなわち、この詩の前半の主語は、「わたし」「自分」で埋め尽くされているのだ。
心病んでしまう人の特徴は、心が、「わたし」で埋め尽くされている事が多い。
 
詩篇77:2 わたしは悩みの日に主をたずね求め、夜はわが手を伸べてたゆむことなく、わが魂は慰められるのを拒む。
 
アサフは、この詩篇のはじめの状況は、慰められる事を拒むほど、ひねくれてしまっていた。
なぜ、ひねくれてしまうのか。それは、彼は、自分の悩みについて、主に尋ね求めてはいても「わたし」「自分」を主張しているからだ。
 
いかに「祈り」と名のつく行動をしてはいても、ヨブのように、主の御言葉を聞く事なしに、「自分」の主張ばかりをするなら、主は何も答えてくださらない。
それでも語気を荒げて続けるなら、もっと主が黙っているかのようになり、それをこじらせてしまうと、無益な自問自答や、主の御名が無い、無味な議論討論が、延々と始まる。
実際、ヨブ記3章から37章の長い議論の中には、「主(ジェホバ)の御名」は、1回しか登場しない。
 
結局、主の御名なき人間の自問自答や議論は、ますます、人を病ませてしまう。
祈りとは、主との対話であり、全て問題の解決は、「わたし」の願望を主にごり押しする所にはなく、主の言葉に聞き従う所にあるからだ。
 
詩篇77:3 わたしは神を思うとき、嘆き悲しみ、深く思うとき、わが魂は衰える。〔セラ
 
神を思い起こすと、嘆き悲しみが起きてしまう原因、また、深く思う時に魂が衰え果ててしまう原因は、何だろう。
続く節の内容から、その理由を導き出せる。
 
詩篇77:4 あなたはわたしのまぶたをささえて閉じさせず、わたしは物言うこともできないほどに悩む。
77:5 わたしは昔の日を思い、いにしえの年を思う。
77:6a わたしは夜、わが心と親しく語り
(NKJV:  I call to remembrance my song in the night 私は夜、かつての詩(歌)を呼び起こし)
77:6b 深く思うてわが魂を探り、言う、
 
この、3節だけでも、「わたし」「わが」という主語が、6回も登場する。
「夜」という時間に、自分で作った詩をひもといては、自分の「たましい」に繰り返し自問自答し続けて行くと、悪霊が寄ってきて、云々して来る。
「魂」という漢字は、「鬼が云々する」と書くのは、伊達ではないのだ。
 
心病むためのコツは、夜中じゅう、ずっと「わたしのしたい事」「わたしの現状」「わたしの将来どうなるか」を思い巡し続け、朝になったら、夕方まで寝るだけで、どんなに健全な人でも、心を病ませるのに、一ヶ月はかからない。
 
夜という時間は、安息して休む時間である。
創世記1章にある通り、聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりであり、一日のはじまりをしっかり安息してこそ、朝、力強く働きができ、そうして、神が創造された本来のあり方へと回復する法則が働く。
 
詩篇19:2に書いてある通り、被造物は、昼に活動し成長するが、そうこうしている内に、バランスを崩してしまったり諸々を壊してしまったりするのを、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へ修復するのだ。
 
悩みの解決を、世の中の情報や、インターネットや本で、あるいは友人に電話して求めると、一時的には、気分が晴れたかのような気がするかもしれないが、所詮は神から来るものでなく、真理ではない。
だから、真の解決には至らない。
夜中に、友人に電話して、長々と相談しても、うんざりされるだけである。
 
だから、夜眠れない時は、完全なる御言葉を思い巡らし、宣言し、そして主に「祈り」という電話をするべきである。
天地を創造した力ある御言葉を宣言すると、その人の中で、御言葉が力を持ち、傷つき壊れてしまった心や体は回復し、癒やされていく。
 
この詩篇の作者は、夜に、御言葉ではないもの、自分の思いや、昔創作した詩や歌を呼び出し、思い巡らした結果、以下のような、真理とは真逆の思考へと導かれてしまった。
 
詩篇77:7 「主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。ふたたび、めぐみを施されないであろうか。
77:8 そのいつくしみはとこしえに絶え、その約束は世々ながくすたれるであろうか。
77:9 神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもって/そのあわれみを閉じられたであろうか」と。〔セラ
 
主はとこしえに、捨てられる?
主は恵みを、施されない?
主のいつくしみは、とこしえに絶えた?
主の約束は、世々永く廃れる?
神は恵みを施す事を、忘れた?
神は怒りをもって、その憐れみを閉じられた?
 
全部、御言葉と真逆の内容である!
 
これこそ、夜闇の中で「わたし・わたし夜想曲」を巡らした結果であり、闇の考えに侵されてしまった好例である。
サタンはいつでも、御言葉とは真逆の考えを吹き込むものなのだ。
 
結局のところ、「わたし」の思い巡らしは、主の御言葉の真実をねじ曲げてしまう結果となるのだ。
サタンが人を堕落させるやり方は、エデンの園の時から変わっていない。御言葉をねじ曲げる事だ。
 
以上、9節までの内容がしっくりくる、という人は、心病ませるパターンに、はまってしまっている。
そこから抜け出すには、10節以降の対処をする必要がある。
 
詩篇77:10 その時わたしは言う、「わたしの悲しみは/いと高き者の右の手が変ったことである」と。
 
ここは、日本語訳は、意訳となっている。
英語の聖書KJVでは、
And I said, This is my infirmity: but I will remember the years of the right hand of the most High.
すなわちヘブライ語原典には、元々、「いと高き者の右の手が変わった」は、無い。主の右の手は、決して変わらない。
むしろ、「これが私の弱さです。しかしわたしは、いと高き方の右の手の日々を思い起こします。」が、10節の正しい内容である。
 
詩篇77:11 わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからの/あなたのくすしきみわざを思いいだす。
 
作者は、この10-11節で、方向転換し、詩の雰囲気ががらっと積極的になる。
なぜなら、この節以降、主語が「わたし」から、「神」「あなた」に変わり、そして、彼がこれから思い起こしていくのは、「自分」ではなく、主の右の手のわざの日々、御言葉に記されている事だからだ。
 
詩篇77:12 わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。
77:13 神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。
77:14 あなたは、くすしきみわざを行われる神である。あなたは、もろもろの民の間に、その大能をあらわし、
77:15 その腕をもっておのれの民をあがない、ヤコブとヨセフの子らをあがなわれた。〔セラ
 
主語が、自分から神に変わった事で、そして主のなされた事を思い起こしていく事によって、それまで問題だと思っていたものは、どんどん、問題ではなくなっていく。
全ての問題を解決して下さる救い主を、自分自身の中へと、招き入れるからだ。
 
アサフは特に、出エジプトの記事を思い巡らし、そして主をほめたたえたが、そのように、私達も、聖書に記されている主のわざを思い巡らす時、それはまことに、私達の心を喜ばせていく。
 
詩篇77:16 神よ、大水はあなたを見た。大水はあなたを見ておののき、淵もまた震えた。
 
出エジプト記において、神がモーセに、彼の杖を海に向かって差し伸べるよう指示を与え、その御言葉どおりにすると、水は左右に分かれ、海の中に道が出来た。
 
なお、淵と訳されたヘブライ語「テホム」は、創世記1:2に登場する「大水」あるいは「深淵」である。
人はおおげさに、わたしの煩いは深淵よりも深い、と言うかもしれない。
しかし、たとえ本当にその人の煩いの深さが、深遠ほどであったとしても、神は、暗闇の深淵に「光があれ」と御言葉で命じ、光を創造し、大水の真っただ中に、空を創られたお方である。(創世記1:1-8)
 
『「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。』(2コリント4:6)
 
詩篇77:17 雲は水を注ぎいだし、空は雷をとどろかし、あなたの矢は四方にきらめいた。
77:18 あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、あなたのいなずまは世を照し、地は震い動いた。
 
主は自然を動かされるお方である。
私達の主イエス様は、あらしの中、大波に揺れ動く小舟にも、水の上を歩いて来られるお方。
主は雷、雲、つむじかぜをもって、エジプトをかき乱したように、呼び求める私達の煩いをも、薙ぎ払ってくださる。
 
詩篇77:19 あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった。
77:20 あなたは、その民をモーセとアロンの手によって/羊の群れのように導かれた。
 
イスラエルの民にも、またエジプトにとっても、まさか、海の中に、神の民が通るべき道があったとは、誰も予想だにしなかった。
そして、その海の中に出来た道は、神の民でない者が追いかけてきても、かえって海は、その者を飲み込むのである。
 
主が備えておられる道、人の目に隠されて、ただ主の他にのために用意しておられる道は、みなそうである。
ただ主の民だけが通り、それ以外の者は、入ってはならない。
 
そして主は、神の民のために、世の人々が誰も見いだせない隠された宝を、また、秘められている財宝を用意し、蓄えておられるのである
イザヤ45:3 あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだ/イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
 
詩篇77:1 わたしは神にむかい声をあげて叫ぶ。わたしが神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる。
 
私達は、主を呼び求める時に、「自分」「わたし」を主張してしまうような間違いを犯してしまうが、少なくとも、神に向かって声をあげているなら、それは祈りとなり、主はそのような過ちを正して、正しい道へと戻して下さる。
 
いつも主の御言葉を思い巡らし、健やかな、真昼のような人生の歩みである皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

尊い命を、戯れや気まぐれでひねり潰すような事は、決してお許しにならない主(詩篇76篇)

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詩篇76篇表題は、『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたアサフの歌、さんび』であるが、70人訳の表題には「アッシリヤについて」という説明が付けられており、この詩篇は、アッシリヤがエルサレムを包囲した、ヒゼキヤ王の時代が、背景にあると考えられる。
 
詩篇76:1 神はユダに知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大である。
76:2 その幕屋はサレムにあり、そのすまいはシオンにある。
 
ユダ、イスラエルは、いずれも神の民であり、サレム、シオンは、いずれも神の民が住む聖なる都、現代でいう、教会である。
なぜなら、教会と訳されたギリシア語・エクレシアは、元々「召し出された者達」という意味であり、すなわち教会とは、建物や場所というよりも、むしろ、神様から呼び出された人々をあらわすからだ。
 
なお、サレムはエルサレムの古い呼び名で、アブラハムの時代、サレムはメルキゼテクという神様の祭司が、王として治めていた事が、創世記14章に記されているが、ヘブル書によると、メルキゼデクはイエス・キリストである事を示している。
教会は、イエス・キリストが王として、また祭司として治める神の民、また場所なのだ。
ゆえに、この詩篇は、現代の私達・神様を礼拝する教会と、その聖徒たちに直接関わる内容である。
神様は、昔も今も変わらず、圧倒的な力をもって、神様を恐れ敬う人々を救い、しかし主の敵に対しては、恐ろしいお方だ。
 
詩篇76:3 かしこで神は弓の火矢を折り、盾とつるぎと戦いの武器をこわされた。〔セラ
 
神様は、神の民に敵対する、あらゆる兵器を破壊される。
そして神様は、私達・神の民にとっては、鋭い矢であり、盾であり、剣であられる。
実際、神様は、アッシリヤの18万5千の軍勢を、たった一人の御使いを遣わして、たった一晩で滅ぼした。
 
詩篇76:4 あなたは永久の山々にまさって/光栄あり、威厳があります。
 
「永久の山々」は、70人訳での表記で、ヘブライ語聖書では「えじきの山」となっている。
何が「えじき」となったのか。それは、アッシリヤだ。
なぜアッシリヤは、えじきとなったのか。
それなりの理由があるからだ。
 
アッシリヤは当時、残虐な方法で諸国を震え上がらせ、恐怖によって国々を支配して来た。
一時は、預言者ヨナの警告でへりくだり、悔い改めたが、すぐ、その心をひるがえして傲慢になり、ヒゼキヤ王の時代には、イスラエルの神様に対して大口を叩くまでになった(イザヤ36-37章)。
それで神様は、アッシリヤを、「えじきの山々」で裁かれると言われる。
 
イザヤ14:25 わたしはアッスリヤびとをわが地で打ち破り、わが山々で彼を踏みにじる。こうして彼が置いたくびきは/イスラエルびとから離れ、彼が負わせた重荷は/イスラエルびとの肩から離れる」。
 
主は確かに、ヒゼキヤのように、主に助けを呼び求める人々に、答えてくださる。
たとえ、アッシリヤのような、圧倒的な力と残虐さを持って向かって来ても、その人が、主に助けを呼び求めるなら、主は助け、救って下さる。
 
詩篇76:5 雄々しい者はかすめられ、彼らは眠りに沈み、いくさびとは皆その手を施すことができなかった。
76:6 ヤコブの神よ、あなたのとがめによって、乗り手と馬とは深い眠りに陥った。
 
エルサレムを包囲したアッシリヤの軍勢18万5千だったが、この節によると、その軍勢が滅ぼされた時、彼らは眠りこけるように横たわっていたようだ。
それも、人間だけでなく、馬までも。
 
6節の「深い眠り」は、ヘブライ語ではラーダム、原意は「気絶させる」事で、速やかに深い睡眠へと、あるいは、死へと落とし込まれる事を意味する。
ちなみに、創世記2:21にて、神様がアダムに深い眠りで眠らせ、彼の脇腹を元にして女を造られた場面では、「ラーダム」から派生した「タルデマール」(昏睡状態、トランス状態的な深い眠り)が用いられている。
 
詩篇76:7 しかし、あなたこそは恐るべき方です。あなたが怒りを発せられるとき、だれがみ前に立つことができよう。
 
原文では「あなた(アター)」が反復され、「あなた(神様)」の恐ろしいまでの力が、強調されている。
 
確かに神様は恐るべきお方であるが、気まぐれや戯れで簡単に人を殺したりするようなお方ではない。
 
映画や、ゲーム、マンガ等では、魔法や超能力的な力を持った者が、大勢の人々を一瞬で次々殺すような場面を、目にするかもしれない。
言うまでもなくその創作物は、人の想像の中にあるだけで、現実世界には決して起こらない。
なぜなら、いのちを大切にしておられる主は、生きておられ、たとえ、誰かが超能力を得たとしても、神様の尊い似姿である命を、戯れや気まぐれにひねり潰すような事は、決して、お許しにならないからだ。
 
御霊が無い人は、願望する。憎たらしい相手を、思いのままに、一瞬にして、むごたらしい方法で、抹殺できないだろうか、と。
しかし、現実世界で、そんな事はできない。できない理由は、神様が許可しておられないから、であるが、その事を彼らは知らない。
できないから、それを、デザイナーやクリエイターは、映画やゲーム、マンガなどで表現する。
それは、人を貶めたい欲求を持つサタンが、彼らに吹き込んだ、偽りのイマジネーションである。
クリエイターを目指す人は、特に、そういう方面の闇に、陥りやすく、それを創作する人も見る人も共々、それを見る事で、鬱積した情緒の解放が起こり、また、怖いもの見たさを求める心情もあって、そういったホラーもの、残虐ものというジャンルが、いつの時代でも流行るものである。
 
そして、そのような、悪魔サタンの願望と、常に同調している人は、悪魔や、悪霊からインスピレーションを浴び続け、悪霊との交流をいつも続けているために、霊的・身体的な障りが起こったり、その人の運命にも、どんどん不調があらわれ、ついには、悲惨な死へと導かれてしまう。
反キリスト的な、あるいはホラーもののアーティストやクリエイターに、悲惨な、あるいは不可解な死が多いのは、そのためなのだ。
 
そこから唯一、救い出せるお方がおられる。
救い主イエス・キリストであり、そして、まことのクリエイターであられる神様である。
 
愛であられる主、すなわち、全被造物のまことのデザイナーであり、クリエイターであられる主は、人に、神様の似姿としての尊厳を与えられた。
創世記1:27 神様はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神様のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
 
その故に、神様は、人の命の尊厳を汚したり、いたずらに殺す事は、お許しにならない。
創世記9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神様は人を神様のかたちにお造りになったから。
 
天地を創られた主は、いかに悪辣な人であっても、悔い改めて主に立ち返る事を望んでおられ、気まぐれや戯れで人の命をもてあそぶなど、一切、心に無いお方なのだ。
エゼキエル18:31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからです。――神様である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。
 
しかし、たまにある種の人を、殺さざるを得ないくなる時がある。
それは、あまりに悪辣な人で、多くの人々を罪へと不幸へと陥れ、その人を生かしていたら、もっと多くの人を罪に陥れ、また地獄へ導いてしまうような。
そういう者を、殺さなければならない場合でも、主は、天上会議をわざわざ開いて、そうそう簡単に殺すという事はしない。(1列王記22章)
 
 
詩篇76:8 あなたは天からさばきを仰せられました。神様が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙しました。〔セラ
 
ヒゼキヤ王は、常に神様に信頼し、祈り求め続けた故に、神様は救いの行動を起こされ、アッシリヤの軍勢を滅ぼされた。
諸国の民はそれを聞いた時、イスラエルとヒゼキヤ王を恐れた。
 
76:10 まことに人の怒りはあなたをほめたたえる。怒りの余りをあなたは帯とされる。
 
いかに力強い相手が、怒り狂いつつ、神の民を攻撃するとしても、神様は、その怒る者をも用いて、今まで御力と栄光を現して来られた。
当時のアッシリヤに対して、そうだったし、また、エジプトのパロに対しても、そうだった。
 
76:11 あなたがたの神様、主に誓いを立てて、それを償え。その周囲のすべての者は/恐るべき主に贈り物をささげよ。
76:12 主はもろもろの君たちのいのちを断たれる。主は地の王たちの恐るべき者です。
 
「もろもろの君たちのいのちを断たれる」の「いのち」はヘブライ語でルアッハ、すなわち、霊である。
主は、地の支配者たちの誇り高ぶった精神様を打ち砕かれるお方であり、また、肉体だけでなく、たましいも、霊も、共にゲヘナに投げ込む権威を持っておられるお方である。
実際、黙示録に、それが記されている。
 
黙示録20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲しました。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられる。
 
今の時代、映画やゲーム、マンガなどに、邪悪なイマジネーションを吹き込み、多くのクリエイターや、その作品を視聴する人たちを惑わした、悪魔や、悪霊は、永遠に、火と硫黄の池に、投げ込まれる、と書いてある。
主は、人の尊厳をけなす悪霊やサタンや、主に敵対する、全ての者に対しては、まことに恐ろしいお方であるが、愛であられる主は、悪人が救われるように、悔い改めて主に立ち返るようにと、忍耐をもって、待っておられる。
主は実に、ノアの洪水を起こすまでに千年以上も待たれたが、結局世界には、悪辣ではない人はノアの家族8人しか残らなくなってしまった故、彼らを救うために、大洪水を起こされた。
主は、誰も滅びる事を望んではおられない。
この世界を、また多くの人々を、主の御言葉に従って救うために、主と豊かに交わり、主の御心を行う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

何のために主の御名は近くにあるのか(詩篇75篇)

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詩篇75篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたアサフの歌、さんび』
 
この詩篇では、主は、悪しき者がいつまでも栄えてほしいままにふるまう事は許さず、やがて必ず公正な裁きをして下さる、という事を示している。
続く76篇の表題は、70人訳聖書では「アッシリヤについての歌」とあるため、この75篇も、ヒゼキヤの時代のアッシリヤが、傲慢にも主を侮ったものの、たった一晩で主に打ち砕かれた事を背景としているのかもしれない。
 
預言者ハバククも、悪い者がいつまでも力を振るって栄え、弱い人々がいつまでも虐げられている状況について、主に叫んだ時、主は答えられた。
 
ハバクク2:2 主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
2:3 この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
2:4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
2:5 また、酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって、飽くことなく、万国をおのれに集め、万民をおのれのものとしてつどわせる」。
 
悪い者が永遠に栄え、弱い者が永遠に虐げられ続ける、という事は、ない。
主のさばきは、必ず来る。
世の歴史でも、悪がいつまでも永遠に栄えた歴史は、無かった。
 
その理由は、まさに、裁き主である神が、生きておられるからだ。
もしも神がいない、とするなら、この世は、騙しにおいて、卑怯さにおいて、腕ずくにおいて、強い者が、延々と延々と栄え続け、弱い人々は、延々と虐げられ、搾取され続ける、という世界がずっと広がり、酷い状況になっているはずだが、そうなっていないのは、悪を裁かれる神が生きておられるからだ。
神を知らない世の人も「正義は必ず勝ち、悪は必ず滅びる」と言っている通りである。
 
もし、悪しきものが延々とはびこっている、とするなら、その国民全体が「神はいない」とする共産主義国であったり、偶像崇拝国であったりする場合だ。
主は、そのような、主を呼び求めない人には、救いの御手を伸ばしようがない。
しかし、主に救いを求める人に、主は確かに答えてくださる。
 
そこで1節では、先取りして、主に感謝が捧げられている。
 
75:1 神よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。「われらはあなたのみ名を呼び」、あなたのくすしきみわざを語ります。
 
この「われらはあなたのみ名を呼び」の部分は、新共同訳では「御名はわたしたちの近くにいまし」、KJVでは「thy name is near」である。
 
そう、主の御名は、近くにあるのだ。
 
何のために、主の御名は、近くにあるのか?
 
それは他でもない。
 
私達が、すぐに、主の御名を呼ぶため、である。
 
アッシリヤの王セナケリブが、主に対して驕り高ぶり、神の民イスラエルに向かって傲慢な汚しごとをわめき散らした時、また、傲慢な手紙を送りつけて来た時、ヒゼキヤ王はそれをそのまま、主のもとに差し出し、主の御名を呼んで祈った。
すると、主が動いて下さり、アッシリヤの軍勢18万5千人を、たった一晩で全滅させた。
主は、主の御名を呼び求める人に答え、助けを送ってくださるが、神に逆らう者に対しては、裁き主として現れてくださる。
 
2節以降、主こそ裁き主であり、そのさばきの時と方法は、主が定めておられるという事が、記されてある。
 
75:2 定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく。
 
主は、定めておられる。御手を動かして裁かれる時を。
 
75:3 地とすべてこれに住むものがよろめくとき、わたしはその柱を堅くする。〔セラ
 
地が揺れ動く、という時がある。
それは実際に、地震という形かもしれないし、あるいは、悪辣な勢力が、地を轟かすような形で世を動かしている形であるかもしれない。
しかし、御言葉をもって天地の基を造られた主は、御言葉という「柱」でもって、揺れ動く地に対しては秩序を固く立て、地を轟かせている悪辣な者達は、平定してくださる。
 
75:4 わたしは、誇る者には「誇るな」と言い、悪しき者には「角をあげるな、
75:5 角を高くあげるな、高慢な態度をもって語るな」と言う。
 
高慢な者は、何も起きないと、どんどんつけあがって高慢になって行く。
それが、強力な国家の元首であったりするなら、世の人は、全く手がつけられない。
しかし主が「誇るな」「角をあげるな」「高慢な態度をもって語るな」と命じられるなら、その者達は、退場せざるをえない。
次のように書いてあるとおりである。
『神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。』(ダニエル2:21)
 
75:6 上げることは東からでなく、西からでなく、また荒野からでもない。
75:7 それはさばきを行われる神であって、神はこれを下げ、かれを上げられる。
 
「上げること」(ルーム)は、高く上げる事の意味で、KJVではプロモーションと訳されている。
プロモーションといえば、自分のものを広く知らしめる活動、として知られているが、他にも、進級や昇進などの意味がある。
私達を世においてプロモーションし、高く上げて下さるのは、主である。
 
その、高く上げる事は、東からでなく、西からでなく、また、荒野からでもない。
東(モーツァー)の原意は、出ること、噴出することで、そこから、太陽が出てくる東となった。
西(マアラーブ)は、陰る事の意味から、太陽が沈む西を意味するようになった。
荒野(ミドバル)は、KJVでは「南」と訳されており、牛を放牧する地、荒野の意味がメインである。
私達を高くする事の源は、東西南北のどこからでもないし、また、世の何者によってでもない。ただ、主が源である。
高く上げられる事も、低くされることも、またプロモーションも、全てをさばかれる、主から来るのだ。
 
75:8 主の手には杯があって、よく混ぜた酒があわだっている。主がこれを注ぎ出されると、地のすべての悪しき者は/これを一滴も残さずに飲みつくすであろう。
 
杯は、聖書では多く登場するキーワードで、主に、災いや裁きを意味している。(エレミヤ25章、黙示録14:10,16:19)
主は、地のすべての悪しき者に、さばきの杯を飲ませる。
 
イエス様は、十字架につけられる前の晩、
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)
と祈られた。
 
イエス様は、父なる神から与えられた災いとさばきの杯を、私達の代わりに、飲み尽くして下さった。
それは、全て罪を持つ全人類の、身代わりとして、十字架にかかられるためであり、そのイエス様を、救い主として信じる人は、もはや、裁きにあう事はなく、永遠のいのちを得て、救われるのである。
 
75:9 しかしわたしはとこしえに喜び、ヤコブの神をほめうたいます。
75:10 悪しき者の角はことごとく切り離されるが/正しい者の角はあげられるであろう。
 
作者はこの詩篇の最後にも、主は救いを与えてくださる事の故に、先取りして、賛美を捧げている。
 
主の御名は、近くにある。
 
なんのために近くにあるのか?
 
それは、いつでも、どこでも、私達が呼び求めるため、であった。
 
悪がはびこる場面に出くわす度に、また、悪しき者が政権を取って、不当な政治を行っているのを見聞きする度に、主の御名を呼び求めるのだ。
主は、公正に裁かれるお方である故に。
 
イエス様に贖われ、救われ、王かつ祭司とされた者として、積極的に主を呼び求め、私達の身の回りに、そしてこの時代に、世界に、主のさばきと助け、そして、主の支配を呼び込む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 早天礼拝

主を愛するとは(申命記6:4-9)

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参照箇所:
ローマ12:1-2
 

 主日礼拝

祝福の秘訣:御言葉どおりに留まるだけ(創世記12章)

第一礼拝 Youtube動画

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週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムは私達全て信仰者の父で、彼が主と共に歩んだ道や、受けた祝福は、私達にとても密接に関係する。私達の祝福の基本は、創世記12:1-3にある通り、以前の罪深い縄張りやしきたりを離れ、神様が示された御言葉のしきたりと、御言葉の縄張りの中へと入って行く事だった。再び12章から恵みを得たい。
 
4節: アブラハムが神様に呼び出されて、古いなわばりとしきたりから出て来た時、甥のロトもついて来た。
アブラハムは、主の言葉に従って出たのに対し、ロトは、主にではなくアブラハムという「人」について来た。
ここに「天と地の差」がある。ロトは別れるまで一貫して自分の目に良い所へ行き、主の言葉に従った記述は無い。そのような者はやがて「アブラハムの群れ」から離れ、離れたとたん、群れには大きな祝福が来る。
5節: アブラハムは、父の家を出てから、カナンの地に入るまで、たった1節しか費やしていない。なぜアブラハムは1節で入れたのに、彼の父テラや、出エジプトした民の多くは、カナンに入ないまま死んだのか。
その理由はシンプルである。アブラハムは「神様から言われた」と「行動した」の間に、何も挟まなかったのに対し、出エジプトの民は、御言葉に対し「でも」や「だって」を挟み、テラは自分の好む所に留まったのだ。
 私達が学ぶべきは、御言葉に対しては私情や意見は挟まず、思考停止してすぐ実行する事こそ、速やかな祝福の秘訣でり、実行するのを思い煩った分、利子がついて、祝福を受けるのを長引かせてしまう。
6-8節: アブラハムは元々、行き先は分からなかったが、カナンまで来た時、主は初めて相続地を明らかにした。アブラハムはそこに祭壇を築き、礼拝を捧げた。私達も、留まるべき地が明らかにされたなら、そこに留まり、礼拝する生活を続けるなら、どんどん祝福され、国々の王さえ打ち破るまでになって行く。
しかしアブラハムは、「ここが相続地だ」と分かった時、もう行き先が見えない旅をしなくていいのだ、と余裕が出て、余計な事をしてしまう(9節)。私達も一段落ついて、余裕が出た時こそ気をつけなくてはならない。
10節: アブラハムは「主が与える」と言われた場所から離れて行ってしまう。すると、ききんという悪い状況が、すなわち、主からの「戻れ」というサインが起きた。しかしアブラハムは戻らず、エジプトへ下って行った。
エジプトに近づくにつれ、今までおぼろげだった不安が、具体化してくる。私たちは、霊において不安な事は、やってはならない。彼は御心の逆を、すなわち、うそで生活を乗り切ろうと、具体的に御心に反する事をし始めた。心配で頭がもたげると、御心とは真逆の、愛、喜び、平安とは、真逆の実を結んでしまう。
12-13節: 彼は不安に駆られ、妻のゆえに自分は殺される、と、起きてもいない事を「起きる」と思い込み、さらに彼は、妻との関係を、公には「兄妹関係」とする事で、エジプト人から好待遇を受けられるだろう、と、確信犯的な皮算用もしている。主のスタンダードから離れて、「労苦」という主からのサインが来たなら、速やかに主の御言葉と、主の定められた地に戻るべきである。私達は、労苦してはならない。もし労苦が重なっても、主の言葉に戻らずに、人を恐れ続けると、アブラハムでさえ、このような狂気に走ってしまうのだ。
14-16節: それまでアブラハムの心の中にだけあった心配が、そっくりそのまま実現してしまった。信仰とは、思っていた物事の実体化なのだ。妻は、パロの宮廷へと連れて行かれ、パロの妾にされてしまった。
その見返りに、アブラハムは、多くの家畜の群れや、男女の奴隷を所有するようになった。アブラハムは、それらに満ちた天幕、そして、妻がいない天幕を見て、もう二度と会えないかもしれない妻を思い、主の前に、どううめいて呼ばわっただろうか。主は、聖なるうめきを、聞いて下さる。主は直接、動いて下さった。
17-20節 : 主は、パロの家に災いを起こされた。パロは、災いの原因は、明確に、アブラハムの妻の故だ、と知った。それでパロは、アブラハムを呼び出し、彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
 失敗を仕出かしたのは、アブラハムだったのに、災いに遭ったのはパロで、賠償をしたのも、パロだった。
アブラハムは、エジプトから多くを分捕ったような形で出てきた。しかし、もらって良いものと、いけないものがある。忌まわしい所からのもの、特に、忌まわしい思考を持った人間は、もらってはならない。アブラハムは、エジプトの女奴隷ハガルをもらってしまった故に、後々、大変な事になってしまう。彼女はいつでもエジプトをなつかしみ、エジプト流の考えをアブラハムの家の中に導入し、エジプト化された世界を形成した。
 アブラハムは、その後、ソドムや王達の富を辞退した。そう、私達は、世のものを欲しがるのではなく、むしろ、清さを保ちつつ、主が留まれ、と言われた所に、留まり続けるべきである。そうするなら、9人の王の富さえ、くつひも程度にしか見えない程、気持ちにおいても、実体においても、富んだ者になるのだ。
アブラハムの歩んだ成功と祝福の道に歩み、失敗した道には足を踏み入れない皆さんでありますように!
 

 ヨナ書 講解説教 水曜夕礼拝

ヨナ書概要(ヨナ1:1-2)

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 エゼキエル書 講解説教 水曜昼礼拝

ツロの滅びの性質:神の民を金銭的な損得感情ではかる(エゼキエル26章)

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早天礼拝

マタイ1章系図で、なぜダビデにしか王の称号が付与されていないのか(マタイ1:5-6)

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参照箇所:
マタイ20:25-28
1サムエル記16:1-13;17:34-37
 

主日礼拝

神様から報酬をいただくには?その報酬とは?(創世記15:1-6)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

  アブラハムは、主に示された地に留まった事によって大いに富まされたため、彼には、9人の王達に勝利して得た分捕り品など、くつひも程度にも見えなかった程、主にあって満ち足り富んでいた事を、前回見た。
私達もアブラハムに習い、出るべき所(罪の性質)を出て、主が示された留まるべき所に留まり、主を礼拝するなら、主にあって富まされた者となる。さらにその後、主はアブラハムに現れて言った。『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報い(報酬)は、甚だ大きい。』(創世記15:1)
 主は、甚だ大きい報酬を与えて下さる、と言われたが、私達はそれを、どうやって受け取れるのだろうか。
 
 アブラハムは、信じて戦いに出た結果、勝利と祝福の言葉をいただいた。つまり主から報酬を受けるには、神様が提示された御言葉を「信じ」、信じた通りに「行う」事によってであり、その支払いは、神様の言葉が「実体化」される事によってである。彼に一番最初に与えられた御言葉は、「Aをしなさい、するなら、Bを与える」、というもので、Aとは、本土、親戚、父の家を離れる事、そうするなら、大いなる国民とし(B1)、祝福し(B2)、名を大いなるものとし(B3)、名は祝福となり(B4)、あなたを祝福する者をわたしは祝福し(B5)、あなたを呪う者をわたしは呪う(B6)、全ての民族は、あなたによって祝福される(B7)というものだ。(12:1-3)
 この約束を聞いたアブラハムは、期待し、信じ、実行した結果、実際にBの祝福が、全部実体化した。
アブラハムは、なぜ信仰の父となったか。なぜ、イエス・キリストの系図はアブラハムから始まるのか。彼は、神様から提示された言葉を信じ、信仰の行いをした結果、その報酬として、御言葉の実体化や、必要の満たしを得、祝福を得た「最初の人」であり、続く系図の人々も、今の信仰者も、皆、そのような人々だからだ。
 
 しかし私達は、御言葉の約束を頂いても、心にモヤモヤがあったり、信じ切れなかったりする事がある。
その時は、遠慮なく、主に申し上げるべきである。アブラハムも当初、そうだった。アブラハムにはまだ、肝心の子が与えられていなかった(2節)。主は、莫大な富や勝利はいくらでも与える事ができる、と、前回の戦争で実体験したが、その莫大な祝福と信仰とを受け継がせるための、肝心の、子が与えられていない。
主が生きて働いておられる事は、十分経験済みなのに、一番肝心の「子」だけが、与えられていないのだ。
 私達も、そういう時がある。御言葉の約束は与えられていて、実際に祝福され、主が生きて働かれている事は十分経験済みなのに、肝心の、求めている「それ」だけ与えられていない、という事が。
 主はその時、アブラハムを外に連れ出して、言った。『「天を仰いで、星を数える事ができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を「信じた(アーマン)」。主はこれを彼の義と認められた。』(5-6節) アーメンとは信じ、同意し、それと一体化する事である。
 神様から報酬を受け取るためには、与えられた御言葉を「信じ」、その通りに「行う」事によって、だった。
 彼は以前、あなたの子孫を地のちりのように多く増し加える、という約束を聞いただけで、ウキウキし、生まれ故郷を飛び出したのに、約束が中々実現しないと、主の約束へのときめきとドキドキが無くなっていた。
 主は、そんな彼でも、信じてアーメンできるように、天を仰いで星を数えなさい、と言われた。それは彼が信じて、義と認定するためだった。私達も、信じ切れなかったり、モヤモヤする時、主に遠慮なく申し上げるなら、主は、こんな私達でも、信じられるように、天を仰がせ、私達の見るべき「星」を見させて下さる。
この、罪と不正に満ちた暗闇の中、キラキラと輝きながら、御言葉によって支配し、治める、信仰のテフィリン世代を。もし、私達にも見させて下さい、と願うなら、信じられるように、その星空を見させて下さるのだ。
 
 ときめきをもって御言葉を受け取り、期待し、楽しみつつ行うなら、主は、喜んで報酬を与えて下さるが、もし、聞いて、ぼんやり「有り難い」とは思っても、何も手足を動かさないままでいるなら、報酬は何も無い。
聞いた御言葉を信じ、期待し、楽しみつつ実行してこそ、御言葉の実体化という喜びの報酬を得るのだ!
 信じて宣言した御言葉は、主が責任を取って下さる。宣言した御言葉が真実であると示すために、主はしるしや奇跡をもって答え、今、彼が言った言葉は本当だよ、と保証して下さる。信じて宣言するのは、私達の分。それを実行して下さるのは、神様の分なのだ。イサクも、ヤコブも、そのように生きたので、彼らを見ていた人々は、確かに彼らには神がおられる、と、恐れた。御言葉を聞いたなら、信じ、実践し、そして主から大いなる報酬をいただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 
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