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慈しみ深き友なるイエスと、慈しみを渇望するヨブを正論で切り刻むヨブの友人(ヨブ記6章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2026-9-1 8:30
慈しみ深き友なるイエスと、慈しみを渇望するヨブを正論で切り刻むヨブの友人(ヨブ記6章)
メッセージ音声
概要
苦しみの中にあるヨブが友人エリファズの正論に対して答える場面を通して、真の慰めとは論理や正論ではなく「ヘセド(慈しみ・恵み)」であることを学ぶメッセージ。2026年9月1日の礼拝で語られた。
聖書箇所
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ヨブ6:1-30
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ヘブル13:1-3
慰めの言葉
イエス様はヨブの友人たちのように正論で切り刻む方ではなく、私たちの弱さをすべてつぶさに知り、慈しみをもって受け止めてくださる真の友である。
戒めの言葉
苦しんでいる人の言葉尻だけを捉えて論理的に裁くことをしてはならない。状況を勝手に推測して決めつけた言葉をかけてはならない。
勧めの言葉
落胆している者には友からのヘセド(慈しみ)が必要である。私たちは御霊に満たされ、渇きではなく潤いをもたらす者とならなければならない。
【***詳細***】
今日、恵みをいただくみことばはヨブ記6章です。最初に1節と2節を宣言します。
「ヨブは答えた。ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が共に秤にかけられたら良いのに。」
慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむと呼ばれています。しかしヨブの友人たちは残念ながら、ヨブの弱さを知って憐れむのではなく、むしろヨブの言葉をそのまま額面通りに受け止めて、それに対して論理で返してしまいました。このイエス様の慈しみとはまた程遠い有様が、ヨブ記を読み進めていけばいくほど明らかにされていきます。
6章において、ヨブが答えます。前の5章ではテマン人エリファズがヨブに対して、ヨブ記3章でヨブが苦しみの中から出した言葉に対して、いわば正論で返しました。それに対するヨブの答えがこの6章です。
ヨブはかつて3章で吐き出した言葉、その言葉の内容だけで測らないで、むしろその言葉が出てきた原因である、その背後にある苦悶の重さを測ってほしい、また、夜にもたらされた破滅の絶望さ加減をこの秤にかけてほしいと願っているのです。友人たちに対して、「あなた方は私の言葉だけでなく、私のこの状況の重さ、この背景も共に測った上で話してほしい」と願っているのです。
3節を見ますと、「海の砂よりも重いだろう。だから私の言葉は激しかったのだ。まことに全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。」ヨブはこの3節において、自分の言葉が激しかった理由を説明しています。ヨブ自身も自分の言葉が激しかったことを認めているのです。
私たちは、本当に苦しみの中にある人の言葉をそのまま額面通りに受け止めて、それに対して額面通りに返すべきではありません。むしろその背景にある苦しみの重さも思いやらなくてはなりません。特に子どもの教育に携わっている私たちは本当にそうです。
残念なことに、このヨブの感覚的な言葉は、より一層、友人たちにとって格好の攻撃材料にされてしまいます。ヨブは自分の言葉が激しかったことを認めつつ、その理由を分かってほしいと切実に訴えていますが、5節以降でその切実さの理由を説明しています。
「野ろばが若草の上で鳴くだろうか。雄牛が飼い葉の上で唸るだろうか。」これは、動物は満ち足りている時に理由もなく鳴いたり唸ったりするだろうか、という意味です。ヨブが呻いているのも、激しい言葉を発しているのも理由なしではないということを訴えているのです。
6節を見ますと、「味のないものは、塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。私の喉はそれを受け付けない。それらは私には腐った食物のようだ。」ヨブに対してテマン人エリファズが言った言葉を、塩気のない食べ物に例えています。エリファズは立派な格言を用意し、神秘体験も披露しましたが、それはヨブにとっては味気もない、塩なしで食べる卵の白身のようで、到底受け入れられない、腐った食物のようだと揶揄しているのです。
8節から見ますと、ヨブは再び死を願っています。「私の願いが叶えられ、私が望むものを神がなさると良いのに。神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を断たれるのであれば、それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも私は小躍りして喜ぶ。」ヨブは主が命を取ってくださるなら、それを小躍りして喜ぶほどの喜びだと言っています。
ヨブは確かに3章で自分の生まれた日を呪いました。けれども6章でヨブが進展していることがあります。それはヨブが神様との関わりをこの言葉の中に絡めたことです。彼は主ご自身によって打たれることが自分にとって慰めだと言っています。まだ投げやりではありますが、この呟きの中に神様との関わりがあるところに、ヨブの志の進展があります。
さらに10節後半を見ますと、「私は聖なる方の言葉を拒んだことはない」と言っています。これは、ヨブ自身が罪あるものであることを否定したわけではありません。彼はもちろん全能者の前に自分は罪人だということを告白しています。ただ彼は、今この時点で聖なるお方の言葉を拒んだ記憶が一切ヨブの中にはなく、神様の前で忠実に仕えてきた記憶しかなかったのです。それは本当です。実際、主もそれを認めています。主がサタンの前で、ヨブはこんなになってまでも唇で罪を犯さなかったと認めているのです。だからヨブの言うことは一理あるのですが、残念ながらこれもまた友人たちの耳には攻撃材料の一つが増えたとしか聞こえないのです。
さらに11節から見ますと、「私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは、どんな終わりがあるのだろうか。耐え忍ばなければならないとは。私の力は石の力なのか。私の肉は青銅なのか。私のうちには何の助けもないではないか。優れた知性は私から取り払われている。」ヨブは何の助けもないと叫んでいますが、ヨブの友人たちからすればこの言葉は心外だったかもしれません。友人たちはヨブを助けるために遠くから訪ねてきましたし、7日7夜ずっとヨブと一緒に言葉も発さずに寄り添ってあげました。けれどもテマン人エリファズから出た言葉がヨブを苦しめたので、ヨブがこのことを言ったのです。ヨブが求めていたものは正論ではなかったのです。エリファズが発した正論や格言は慰めをもたらすのではなく、むしろ切り刻みをもたらしました。
ヨブが切実に求めていたもの、それが14節に書いてあります。「落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。」ヨブが求めていたもの、それは友からの友情という言葉ですが、これはヘブライ語で「ヘセド」です。慈しみと訳されたり恵みと訳されたりする言葉です。落胆している者には、友からの恵み、あるいは慈しみが必要だ。それがなければ、全能者への恐れを捨てるだろうと言っています。
慈しみがないなら、弱い人は絶望して恐れ敬う心を捨て去ってしまうものです。もしも子どもの親、あるいは子どもの先生が慈しみがない親や先生だとしたら、子どもは絶望して「こんなことやってられるか」になってしまいます。まだ小さくて力がなく反抗できないうちはおとなしくしているようでも、力や言葉、知恵を身につけていくうちに、その権威に対する反逆に取って代わってしまうわけです。
幸い私たちの主は、ヘセドに満ちたお方です。「慈しみ深き友なるイエスは罪とが憂いを取り去りたもう。心の嘆きを包まず述べて、などかはおろさぬ負える重荷を。」ヨブは友人の前で心の嘆きを包まず述べた結果、テマン人エリファズの言葉が返ってきてしまいました。けれどもイエス様はそれをすべてつぶさに知りたまう方です。イエス様は慈しみ深い友なるお方です。ヨブはこの友からのヘセドを求めましたが、友にはありませんでした。しかし真の友なるイエス様はヘセド、慈しみに富んだお方です。
さらに15節以降を見ますと、「兄弟たちは水なし川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。」この水なし川は砂漠地帯によくあるもので、雨季には川があるのですが、乾季になるとそこに行ってみても川がないのです。ヨブはこの友人たちが水なし川のようだと言いました。友人たちから恵み、ヘセドをいただけるかと思いきや、期待は見事裏切られたと言っています。
18節以降でヨブはこの様子を、砂漠地帯を旅する人になぞらえています。「隊商はその道筋から逸れ、荒れ地に登って滅びる。シェバの隊商はこれを目印とし、シェバの旅人はこれに望みをかける。彼らはこれに頼ったために恥を見、そこまでやってきて辱めを受ける。今やあなたがたはそのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見て怯えている。」隊商や旅人が荒野を旅する中で、以前記憶していた川を目指して力を振り絞って到着したら、そこに水がなかった。それを発見した人は失望して落胆して荒野で滅びるのと同じように、ヨブは訪ねてきてくれた目の前の友人たちに、荒れ地の中にオアシスのような潤いを求めていたのに、それがなかったので、とても失望したのです。
私たちは教会の中において何をもたらすべきでしょうか。ヘブル13:1-3「兄弟愛をいつも持っていなさい。また、旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは知らずに御使いたちをもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。」ヨブは本当に肉体の苦しみを持ち、あらゆるものを失いました。だから私たちも同じ弱さを持つ肉体を持つ者として、そういう人たちを慈しみ、憐れむべきなのです。病という牢獄にいる人、痛み・悲しみ・絶望の牢獄にいる人を私たちも思いやるべきだと、ヘブル書の記者は勧めています。
ヨブはそれが得られなかったゆえに、さらに強硬に自分の正当性を22節以降で主張しています。「私が言ったことがあるか。私に贈り物をせよと。あなたがたの財産の中から私のために賄賂をくれと。あるいは敵の手から私を救い出せ、横暴な者たちの手から私を贖い出せと。私に教えよ。そうすれば私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。」ヨブはやや喧嘩腰になっています。友人たちはヨブの状況をよく知らないまま来て、ヨブの罪について指摘し、悔い改めるようにいろんな格言を用いて勧めました。けれどもヨブとしては、自分がどの罪を犯したのでこんな災いに遭っているのか全くもって心当たりがなく、むしろ神様に誠実に仕えてきた記憶しかなかったのです。悔い改めというものは、本当に自覚があってこそできるものです。けれどもヨブとしては一切その自覚がありませんでした。だからどんな格言を用いたとしても、ただただ逆効果だったのです。
ヨブは25節で言っています。「まっすぐな言葉はなんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。」ヘセドがないまっすぐな言葉は、ただただ痛いだけです。そしてそれを受けた痛みを受けた人は、さらに強硬になって、余計に頑なになって、もっと喧嘩腰になってしまうものです。私たちはこのヘセドを忘れてはならないのです。
ヨブはさらに切実に訴えます。28節以降「今、ぜひ私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。私の舌に不正があるだろうか。私の口は破滅を見極められないだろうか。」ヨブは切実に訴えていますが、残念ながらこの言葉を受けた友人たちは、もっと理論的にヨブの言葉尻を捉えて、もっとヨブを切り刻んでいくのです。
今日学んだこと、私たちは相手の、特に傷を受けている相手、痛みの中にある相手の言葉尻だけで判断してはなりません。その背後にある心の奥底にある重さ、痛さも一緒になって測ってやるべきです。そしてとりなし、祈るべきです。大切なキーワードはヘブライ語のヘセド、慈しみ、恵みです。この恵み、慈しみを私たちは決して忘れてはなりません。このヘセドに満ちた言葉は、聖霊に満たされなくては発することができません。ただ御霊に導かれた人だけが、ヨブのような人を真に慰め、癒すことができます。
祈り:あなたのごとく慈しみ深いものになることができますように。恵みと慈しみを持って、悩んでいる人と接し、彼らに渇きではなく潤いをもたらす者でありますように。
続いて司会者からの祈り:鼻で息をしている人の中には救いがないということがあり得るとわかりました。私たちの親しい者が苦しみあう時、その人が何で苦しんでいるのだろうと原因を探り、そのことを話してはなりません。ただ、今、痛んでいる様を見て、「神様、憐れんでください。私の友人、私の親しい友を憐れんでください」と、この一言で、私たちはあなたの愛を頼り、赦しと恵みを求めるべきです。
おびただしい言葉を友人から聞かされました。そのおびただしい「じゃないか、ああじゃないか」という言葉からヨブが受け取ったのは悔い改めでもなく、心の刺さりや悲しみでもなく、勝手に並べられた正しいと思われることに、ただ腹を立てるしかありませんでした。私たちがその人の状況を推測して「こうじゃないか、ああじゃないか」という言葉には、神様の保証もなければ、その人が受けるべき恵みや慰めも一切ないということを知るべきです。
物事が起きることの一切を知っておられる方は、イエス様だけです。罪を犯した本人でさえも、自分が何をしたのかわからない。それが正解だからです。イエス様は十字架の上で「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのかわかりません」と、この一言で私たちをとりなし祈ってくださいました。イエス様がこのように定義をつけた、何をしているのかわからない私たちが、それをわきまえているなら、「こうだからそうじゃないか、ああだからそうじゃないか」ということは言えないはずです。
今日のこの箇所を通して教えられることは、状況を自分なりに判断して、勝手に並べた言葉を言ってはならないということです。私たちが把握した状況の中に真実はありません。自分が目で見て、聞いた話で状況を判断して、ああじゃないか、こうじゃないかと決めつけていたそのすべての時を、イエス様、赦してください。もう二度とその時に戻ることなく御前にいますように。その人がなんでそういうことになったのかを探るより、そのようになってしまったことを、神の前で憐れみ、とりなし祈り、憐れみを求める。これが私たちが為さなければならないことです。
結論
ヨブとその友人たちのやり取りを通して、私たちは苦しんでいる人の言葉尻だけを捉えて論理的に裁くのではなく、その背後にある痛みの重さを共に測り、ヘセド(慈しみ・恵み)をもって接するべきことを学びました。真の友なるイエス様は私たちのすべてをつぶさに知り、慈しみ深く受け止めてくださいます。私たちも御霊に満たされ、渇きではなく潤いをもたらす者として、悩む人々に寄り添う者とならせていただきましょう。
ゴージャスにボタンをかけ違えてしまったエリファズ(ヨブ記5章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記5章のエリファズの弁論から、主の御名のない人間的な思い込みで人を裁くことの空しさと危険性を学び、御霊に聞くことの大切さを教えるメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ5:1-2
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ヨブ5:3-4
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ヨブ5:5
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ヨブ5:8
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ヨブ5:9-16
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ヨブ5:17-18
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ヨブ5:25
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ヨブ42:7
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�汽灰螢鵐�4:5
【戒めの言葉】
先走った裁きを、人間的な思いや決めつけ、当てつけで行ってはなりません。前提が間違っていれば、どんなに麗しい真理の言葉も虚しく響き、ただ人を切り刻むだけで終わってしまいます。
【勧めの言葉】
文字は殺し、御霊は生かします。人を癒し養うためには、まず御霊に聞き、とりなしの祈りをもって主に問うべきです。他人の目のちりを取り除く前に、まず自分の目の中の梁を取り除きましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
神様の言葉を混ぜて語る狡猾な言葉に騙されないよう、御言葉に記されているかどうかをしっかり見極め、神からのものか闇からのものかを仕分けることが必要です。
【***詳細***】
今日はヨブ記5章に入ります。はじめに1節と2節を宣言いたします。
「さあ、呼んでみよ。だれか、あなたに答える者はいるか。聖なる者のうちのだれのところにあなたは向かうのか。いらだちは愚か者を殺し、ねたみは浅はかな者を死なせる。」(ヨブ5:1-2)
素晴らしい主イエス様の御名をほめたたえ、賛美いたします。私たち人間は間違いが多いものですが、主は完全なお方です。私たちがこの御霊に満たされるのであれば間違えることはありません。けれども、主抜きで、御霊なしで、何か物事を解決しようとするならば、私たちはだいたい間違えてしまいます。ですから、このヨブ記から、いかに主の御名がないことが虚しいか、そして主抜きで何かを行うことがいかに間違いを犯しやすいものかを見ていきたいと思います。
4章から、テマン人エリファズの弁論が始まります。この5章に入って、エリファズの言葉はより一層深みに入っていくような格言なんですね。真実があり、またヨブの未来を言い当てているような内容でもあります。ヨブの未来、祝福が2倍になって返ってくる、ヨブが立ち直るということではあるのですが、でも、そんな言葉を発したエリファズは最終的に神様から叱責されてしまうんですね。
なぜ、麗しい格言、より深みに入った真理を解き明かしているにもかかわらず、神様から叱責されてしまうのか。その理由は、そもそものヨブに対する認識の前提が間違った形で格言や真理を語ったからです。前提を間違えているとするならば、どんなに御言葉が真理であったとしても、どんなに素晴らしい言葉を語ったとしても、そもそもが的外れなんですね。
エリファズの言葉を例えて言うならば、彼は本当に素晴らしい手術を行う執刀医の腕を持っていました。手術をするために肺を開きました。その手術の手法も技術も完璧でした。けれども、あいにく病巣は肺にはなかったんです。肝臓が悪いにもかかわらず、肺が悪いんだと言って、肺を手術して切り刻んで引き裂いた。その手法は完璧だったけれども、あいにくそれは的外れだったんです。思い込みで、肺に病巣があると思い込んでいたエリファズは、ヨブはこれこれこうだと決めつけて、言葉で切り刻んで、その後に癒しの言葉を投げかけました。けれども、結局は全くもって無意味だった。むしろただ単に切り刻んだだけで、その傷跡が残ったというだけだったんですね。
主の御名がない、思い込みの人間の言葉は、ただ単に人を切り刻んで、それで終わりにしてしまうだけです。ただ、主の御霊だけが人の奥深くを探ります。そして真の病巣を御霊が照らし出し、ただ御言葉だけがそれを取り除いて、人を癒し、人を生かし、また悪魔サタンを切り刻むことができます。
この5章のエリファズの言葉は、最初とてつもなく辛辣な言葉で始まります。辛辣な真理の言葉で切り刻んで、後半は「神様、悔い改めるならば豊かに赦して癒してくださるぞ」と神様の恵みを語るのですが、最初のボタンの掛け間違いで、的外れなことを言葉で切り刻んでいって、そして最終的に神様の恵みをどんなに語ったとしても、それはとても虚しく響くだけで、むしろ相手を切り刻んだだけで終わってしまうんです。
3節、4節を見ますと、もっとひどい当てつけの言葉があります。
「私は、愚か者が根を張るのを見て、直ちにその住まいを呪った。その子たちは安全からは程遠く、門で押しつぶされても救い出す者もいない。」(ヨブ5:3-4)
暗にヨブを愚か者に仕立てています。エリファズが愚か者の住まいを呪うと、その住まいが倒れて、子どもたちが門で押しつぶされた——ヨブの子どもたちは、家が倒壊して押しつぶされて死んだのですが、その子を失った傷がまだ生々しいヨブに対して、あまりにも酷な言葉ではなかったでしょうか。
辛辣な言葉で人を切り刻んで、痛い目に合わせて、それでその人の悪事を直そうとする、そういうパターンの人がおります。人を痛い目に合わせれば、この子は二度とそうはならないだろうと思っているんですね。けれども、辛辣な言葉で人を切り刻んだら、その言葉がその子に残るものです。腕力で人を殴って黙らせ、痛い目に遭わせて、あくどいことをしないように黙らせるのと同じですね。果たして暴力にしても言葉の暴力にしても、その人が心の底から「私が悪かった」と悔い改める方向に行く確率は、一体どれほどでしょうか。むしろ、傷を受けた痛みをバネにして、相手に対する憎しみを募らせてしまうという危険性のほうがはるかに高いんですね。
相手がなかなか悪の道から立ち返らず、むしろずっと同じ愚かさを繰り返しているとするならば、私たちは自分の言葉が刃じゃなかったかどうか、自分のしたことの動機が主ではなく、相手に対する憎しみが動機ではなかったかどうか、これを探るべきです。
「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。その時に神からそれぞれの人に賞賛が与えられるのです。」(�汽灰螢鵐�4:5)
先走った裁きを人間的な思いで決めつけ、当てつけでしてはなりません。エリファズは先走って、ヨブは隠れた罪を行ったに違いないと、そもそもボタンの最初が掛け間違えていたんです。
エリファズは5節以降、また因果応報を持ち出します。悪いことをすれば悪いことが起きるよと。けれども、災いが起きたその原因が、そもそも本人の罪が原因だったとは必ずしも限らないんですね。良い人が災いを被ることもあります。ヨブの場合、まさにそうでした。パウロもそうでした。
エリファズはさらに続けます。「私なら神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」(ヨブ5:8)けれども、ヨブはもうとっくの昔にそれをしているんですね。災いにあったその日その時に、ヨブは主の御名を最高の賛美で褒め称えておりましたし、奥さんからきついことを言われた時も、神様に任せることをしておりました。
9節以降、エリファズは神様がいかに素晴らしいお方かを語っています。「神は大きくて計り知れないことを行われる」(ヨブ5:9)、「賢い者を彼らの悪巧みで捕らえる」——この格言は使徒パウロが引用するほどの言葉なんですね。けれども、あれだけ刃で切り刻んで決めつけで圧倒した後にそういった言葉を並べても、虚しく響くものです。エリファズは真理の言葉を癒すために放ったのではなく、痛めつけるために使ってしまった後だから、その後にどんな言葉を言っても空虚に響くのです。
子ども教育に携わる私たちは、よく気をつけるべきです。子どもをまず痛めつける言葉で嫌味を言った後に、柔らかい言葉でどんなに言っても響かないものなんです。
「ああ、幸いなことよ。神が叱責するその人は。だから全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが御手で癒してくださるからだ。」(ヨブ5:17-18)この言葉だけ切り出せば、とても美しく真理です。けれども、もう後の祭りです。むしろその言葉が真理であるから、逆にイラつくんですね。
エリファズは25節以降、将来祝福されることをあたかも予言しているようにも語ります。「あなたは自分の子孫が地の青草のように増えるのを知る。」(ヨブ5:25)ヨブの結末そのものを言い当てております。ヨブは実際この後、2倍の祝福を受けて、長寿を全うして死にます。それなのに結局、神様はエリファズを叱責しているんですね。
「主がこれらの言葉をヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。『私の怒りは、あなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが私のしもべヨブのように、私について確かなことを語らなかったからだ。』」(ヨブ42:7)
エリファズの言葉は正しく聞こえ、真理の中にありました。主を褒め称えました。なぜ神様から正しくないと言われたのか。その理由の一つは、前提が間違っていたということです。神様はサタンに対して「お前は理由もなくヨブを陥れた」と言いました。理由がなかったんです。でもエリファズは理由をヨブの隠れた罪に求めました。前提が間違っていたんです。
そして、エリファズの言葉には主が一切ありませんでした。彼は弁論の初めに「私が見たところでは」と始め、今日の章の終わりは「我々が尋ね極めたところはこの通りだ」と締めくくります。始めから終わりまで全部、人間の知恵、人間の思ったところだったんです。そこには主ご自身は一つもありません。
文字は殺し、御霊は生かすんです。だから私たちは御霊を求めるべきなんです。御霊にある人こそが、他の人を養うことができるんです。イエス様は言われました。あなたがたは裁いてはなりません、裁かれないためです。あなたは他人の目のちりを覗こうとするけれど、あなたの目の中に梁があるじゃありませんか。まずその梁を取りのけなさい。そうすれば、人の目のちりを取り除くことができる、と。
私たちはこのエリファズの罠に陥りがちなものです。最初のボタンの掛け間違え、自分の思い込みが掛け間違いをさせます。どんなにボタンがゴージャスな金、銀、宝石でできていても、最初に掛け間違えてはめていくならば、みっともないゴージャスさになってしまいます。どんなに正しい格言、真理でも、前提が間違っているならば、全部が虚しいのです。
私たちは御霊に聞くべきです。御霊による慰め、そしてまずとりなしの祈り、これが肝心です。「主よ、この人はどこに傷があるのですか。示してください。癒してください。憐れんでください。」そうするならば、御霊が次になすべきことを教えてくださいます。御霊に導かれて、人を癒し、この世界に癒しをもたらしていく皆さんでありますように。
最も高慢な罪を犯している者、もっともらしい言葉で人を諭そうとする者、それがいかに忌まわしいかを主が教えてくださいました。エリファズはここで数回、神様の名を呼んでいます。神様を恐れ敬う者にとって、神様を入れていったほうが一番効果があるだろう——そういう狡猾なところが見えます。神様を混ぜて話をすると、人は騙されやすい。特に信仰にある人は。アダムとエバの時もそうでした。悪魔サタンは「神様」という言葉を混ぜて私たちに声をかけ、私たちの思いと心、感情を支配しようとするのです。
御言葉に記されていることかどうかをしっかり見極めて、神からのものか、闇からのものかを仕分けることができますように。黙り込んでこの言葉を聞かなければならなかったヨブが、いかに辛かったか、よくわかります。親しいと言っている人から延々とそれを聞かされる。このことはとても悲しいことです。だから、聞かなければならないことを仕分ける力をください。人のことを長い時間聞いて過ごすことのないように、あなたの御前にひれ伏して、私たち自身のちりに過ぎない口をちりにつけて、「主よ、語ってください。しもべは聞きます」の一辺倒でありますように。
【結論】
エリファズの言葉は真理を含み、神様を褒め称え、ヨブの未来さえ言い当てていましたが、その前提が思い込みで間違っていたために、神様から叱責されました。文字は殺し、御霊は生かします。私たちは自分の思い込みや人間的な知恵で人を裁くのではなく、御霊に聞き、とりなしの祈りをもって、神からのものか闇からのものかを見極め、御霊による癒しをこの世界に届けていく者となりましょう。
テマン人エリファズによる「決めつけ」(ヨブ記4章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記4章のテマン人エリファズの最初の言葉と、彼が体験した「霊」の正体、そして使徒パウロの神秘体験との比較を通して、因果応報の思い込みの危険性と、御霊によって歩むことの大切さを学ぶメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ4:1-2
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ヨブ4:3-5
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ヨブ4:7
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ヨブ4:10-11
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ヨブ2:3
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ヨブ4:12-16
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ヨブ4:17-21
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�汽茱魯�4:1-3
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2コリント12:5
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2コリント12:7-10
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2コリント3:6
【戒めの言葉】
前提条件が間違った思い込みで人を裁いてはならないこと。また、文字(人の言葉、格言、因果応報の考え方)だけで人を裁いたり慰めようとすることは、かえって人を殺してしまうこと。
【励ましの言葉】
弱さの中にこそ主の力が現れる。侮辱や迫害、困難な目に遭わされても、それを喜ぶことができる。
【勧めの言葉】
神秘的な体験や霊的な現象に触れた際は、その霊が神からのものかどうかを御言葉によって吟味すること。また、御霊に導かれて歩み、御霊によって本当に傷ついている人を癒し、励まし、愛し、赦し、慰めていく者となること。
【***詳細***】
本日の御言葉はヨブ記4章です。はじめに1節と2節を宣言します。「するとテマン人エリファスが話し始めた。もし人があなたに言葉を投げかけたら、あなたはそれに耐えられるか。しかし、誰が語らないでいられるだろう。」
いよいよヨブ記の4章に突入し、ヨブの3人の友人たちの議論が始まります。ここから3章から37章に至るまで、長い長い論争が始まったわけですが、ヨブはそれまで7日7晩黙っていました。友人たちも黙っていました。そして、その沈黙の中で心の中で練りに練って醸成し発酵したものが、まず最初にヨブに吹き出たものが、自分の生まれた日を呪うということでした。自分は生を受けていない方がましだった、ということです。そして、そのヨブの吹き出した言葉に応じて、先に言葉を発したのがテマン人エリファズでした。ですから、この友人3人たちの中で、一番兄貴格であったと思われます。
このエリファズが来たのは、そもそもヨブを慰めるためだったのです。ヨブに対して良くなってほしいという動機から来たのですが、ヨブが最初に発した言葉、7日7晩黙って最後にヨブが発した言葉に、ついにテマン人エリファズが耐えきれなくなって、言葉を出さずにいられなくなりました。3節から見ますと「見よ、あなたは多くの人を訓解し、弱った手を力づけてきた。あなたの言葉はつまずいたものを起こし、崩れ折れる膝をしっかりさせてきた。しかし今、これがあなたに及ぶと、あなたはそれに耐えられない。これがあなたに至ると、あなたはおじまどう。あなたの敬虔さはあなたの確信ではないか。あなたの誠実さはあなたの望みではないか。」
ヨブ、あなたは健全な時は多くの人々を言葉によって諭して正してきたではないか。それなのに、いざ災いが自分に及ぶと、あなたは途端に自分は耐えきれないのか、というふうに言うのです。エリファズはそもそもヨブがそういうふうに人を正すことができたのは、また以前は祝福を受けてきたのは、ヨブが神様を恐れて正しかったからではないかということを言いたいのです。
7節からこういう風に言います。「さあ、思い出せ。誰か潔白なのに滅びたものがあるか。どこにまっすぐなのに立たれたものがあるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪をまくものが、自らそれらを刈り取るのだ。彼らは神の息吹きによって滅び、右怒りの息によって消え失せる。」
エリファズがヨブに言いたい言葉は、誰が潔白なのに滅びたものがあるか、まっすぐなのに立たれたものが一体あるだろうか、不法を耕して害悪を撒くものが自らそれを刈り取る、私の見てきたところではそうだ、ということです。つまり悪を行った者がその悪の実を刈り取る、いわば因果応報です。これは世の中の哲学や宗教では非常におなじみの思考のパターンです。
さらに10節、11節。「獅子のうなり声、猛る獅子の声がする。しかし、若獅子の牙は砕かれる。雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散っていく。」これは、あくどいものにした者がどんなにライオンのように唸り声をあげて弱いものをいじめていたとしても、それでも神様がそれを打ち砕くということを言っているのです。
ですからエリファズは、ヨブに何か罪があるから、何か訴えどころがあるから、こういう徹底した災いに、痛い目に遭っているのだということを、ずっと思い巡らし、それがやがて決めつけになって、その決めつけによってヨブにこの因果応報の法則を当てはめているのです。しかし、ヨブの場合は全く事情が違うのです。
そもそもこのヨブに何か訴えどころがあった、何か悪を行ったから打たれたのではないかという、そのエリファズの思い込みなのですが、そもそも神様はヨブに対してこういうふうに評価していました。2章3節でサタンに対して主はこう言われています。「お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお自分の誠実さを固く保っている。お前は私をそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を飲み尽くそうとしたか。」
神様はサタンに、「お前は理由もなく彼を飲み尽くそうとした」と言っています。このヨブには、打たれる理由はそもそもなかったのです。ヨブを理由もなく打ったのはサタンでした。ですから、エリファズが言っていること、主があなたにこう打たれたのはあなたに害悪があったからではないか、これはそもそも間違っているのです。真実は、サタンが理由もなくヨブを打った、これが史実なのです。けれども、テマン人エリファズは決めつけで、思い込みで、そういうふうにヨブに何かこういう理由があったからではないかというふうに決めつけました。それに対してヨブは違うと言うのですが、他の友人もいや、そうだ、お前には悪の理由があったからだ、というふうに、そういう展開がこれからずっとされていくのです。
そもそも前提条件が間違っているのです。例えば、林パスターが何かあくどいことをしたからではないか、あくどいことを思っているからこのことをしたのでしょう、というふうに、ゆえもない理由を、いや違いますと言いかけると、いや、そうに違いないと決めつけて、多くの言葉でなぎ倒す。そういった感じのことです。ヨブはそもそも前提条件が間違っている友人の思考、その言葉の仕掛けによって、この37章に至るまでの議論がずっと展開されていき、それでもうヨブは苦しかったのがもっと苦しい目にあって、ついにはヨブは神様に対しても挑戦的な態度を取るようになっていきます。あまりにもこの前提条件が間違った議論の吹きかけの応酬が、心を痛ませ、怒らせ、そしてついに言ってはならないことまで言うようになってしまうのです。ヨブ記から本当にそのようなことを学ぶべきです。ヨブ記は本当にそのような議論、心が痛まれるような言葉の応酬によって満ち溢れております。
正しくないから災いを受けるんだ、という友人たちの主張、因果応報は通念的な思想ではありますが、皆さん、世の中にはそんな因果応報の四文字で片付けられるような単純明快なことで進まないことがたくさんあります。正しい人なのに災いを受けるということ、また悪どいのに災いを受けないということ、そういったことは世の中いっぱいあるのです。因果応報という言葉では言い切れないようなことがたくさんあります。しかも、ヨブに限っては本当にそのような不条理を受けているのです。
それに対してエリファズはさらに畳みかけます。もう一つの思想を次の5章において言うのですが、その前に自分が体験した神秘的な体験を披露するのです。12節から16節まで読みますと、「ある言葉が私に忍び寄り、そのささやきを私の耳が捉えた。夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、おののきと震えが私に降りかかり、私の骨骨の多くがわなないた。ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。それは立ち止まったが、私はその顔立ちを見分けられなかった。しかし、その姿は私の目の前にあった。静寂。そして私は次のような声を聞いた。」
ある霊がある夜、エリファズに臨みました。このことについて、聖書と仲介の方では次のように書いてあります。幻は必ずしも神の啓示とは限らない。思い乱れるというのは悪夢にうなされるということで、霊、ヘブライ語でルアハは、普通は目に見えない存在だが、ここでは姿を持っている。だから聖書的な意味での霊というより、幽霊のような存在を指している。女性名詞だが、ここでは例外的に男性形の動詞で受けているのもそのためだろう。
では、この霊が言っている言葉の内容はどういう内容だったか。17節以降にあります。「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前に清くあり得ようか。見よ、神はご自分の僕さえ信頼せず、御使いたちのうちにさえ誤りを認められる。まして、塵に土台を据えた泥の家に住むものはなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて誰も顧みない。彼の天幕の綱は確かに取り去られる。彼らは知恵がないために死ぬ。」
このエリファズが出会った霊は、どういう存在、どういう正体であるのか。これは言っていることや、また体に現れた反応によって見分けることができます。まず、この霊がエリファズに臨んだ時、どういう反応がエリファズに現れたかというと、14節、15節にありますように「おののきと震えが私に降りかかり、私の骨骨の多くがわなないた。ある霊が私の顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。」何か薄暗い、いわくつきの物件に入ると、身の毛がぞわっとするようなことがあります。聖霊に満たされると体は熱くなりますが、悪霊は寒くなります。偶像礼拝をしているある家に入ると、外の気温と十度ぐらい体温が違うような、室内の温度が低かったような、エアコンもつけてないのに、なんかそういう感じがすることがあります。聖霊は熱くなりますが、悪霊は寒くなります。
また、この霊が言っている神様の評価はどうでしょうか。14節では「人は神の前に正しくあり得ようか、その造り主の前に清くあり得ようか。」確かにそうです。人は神の前に正しくあり得るだろうか。誰もそんな人はいません。しかし18節以降、「神はご自分の僕を信頼しない。御使いたちにさえも誤りを認められる。」誤りを認めて指摘するのは、神様でしょうか、サタンでしょうか。サタンの場合、御言葉によって見分けることができるのです。まして、「塵に土台を据えた泥の家に住むものはなおさらのこと。」人間は塵、土台、泥の家に住むものというふうに評価しており、「彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて誰も顧みない。」確かに悪魔サタンからすれば、神様は押しつぶされる側、朝から夕方まで打ち砕かれる側ですね。悪霊は神様をそのように評価します。そして偶像礼拝する人も、真の神様を何かひどい神というふうに評価するのです。
21節「彼らの天幕の綱は確かに取り去られる。彼は知恵がないために死ぬ。」確かに、悪霊サタンは一部分は聖書の言葉を引用しますが、しかしその大部分に泥を混ぜるのです。もし100%のカレーではなく99%のカレーで1%ヒ素が、毒が混じっていたら、それは大変です。悪霊サタンのやり方はそうです。神様のピュアな純粋な神の言葉にちょっとした毒を混ぜ込むのです。それで神様はひどい存在だ、そういう存在だ、ということで、神様から離れさせるということをするのです。
この霊に対して、私たちはどのように対処すべきでしょうか。ある人が霊を見たとか、礼拝中にこの辺に神様がいて、なんかすごく神秘的な体験をした、まあそういう神秘的なことを持ち出す人はいるのですが、そういう場合、私たちはどういうふうに対処すべきか、ヨハネが対処方法を教えてくださっています。第一ヨハネの手紙4章1節から見ますと「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうかを吟味しなさい。神からの霊はこのようにしてわかります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊は皆、神からのものです。イエスを告白しない霊は皆、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
さて、テマン人エリファズです。彼は長らく議論の言葉を語っているのですが、残念ながらその中には主、主ジェホバの言葉は一つもありませんでした。その言葉が神様から来たものかどうかは、イエス・キリスト主を告白しているかどうかによって分かることができます。エリファズはまず真っ先に神秘体験を披露しました。
では、パウロはどうだったでしょうか。パウロもたくさんの神秘体験をしましたが、あまりにもそれを告白しなかったために、逆にコリントの人たちから貶められてしまった経験をしました。第二コリント12章のところです。コリントの人たちはあまりにも他の偽教師たちに惑わされていました。偽教師たちは真っ先に神秘体験や、自分はアブラハムの子孫だといった外面的なことを言うのですが、それに引き換えパウロはなっていないと言われてしまいました。コリントの人たちもその讒言を信じてしまい、それでパウロはこの手紙を書いたのです。
パウロもまた主の幻と啓示を見ました。第三の天にまで引き上げられて、人には語ることが許されていないような言葉を聞いた。パラダイスに引き上げられて、そのような体験をしたのですが、パウロは12章5節でこう言っています。「このような人のことを私は誇ります。しかし私自身については、弱さ以外には誇りません。たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを話すからです。しかし、その啓示があまりにも素晴らしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、誰かが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう」。
パウロはあまりにも素晴らしい神秘体験をしたけれども、誇ることのないように黙っていたのです。そして自分がその体験をしたのに、「私が」ではなく「キリストにある一人の人」がこういう体験をした、というふうに語っています。コリントの人たちがあまりにも聞き分けがないので、あえてそのように語り、「あなたがたはついに私を愚か者にしてしまいましたね」とまで言っているのです。
しかもパウロは、いろんな体験をして、いろんな示しを神様からいただいたけれども、高慢にならないようにと、ヨブと同じようにサタンから撃たれました。何も悪いことをしていないのに災いに遭うということは、確かにあるのです。12章7節から見てみましょう。「その啓示の素晴らしさのために高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないための、私を打つためのサタンの使いです」。パウロは明確に、サタンの使いが自分を打ったと言っています。ヨブと同じです。「この使いについて私から去らせてくださるようにと、私は三度主に願いました。しかし主は、私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである、と言われました。ですから私は、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私はキリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱い時にこそ私は強いからです」。
私たちにも弱さがあります。侮辱を受けることもあります。噂話や迫害、困難な目に他人から遭わされることもあります。でもパウロはそれを全部喜んでいます。なぜなら、弱い時にこそ主が強いから。侮辱を甘んじて受ける、弱いかのように見える、でもその時こそ私は強い。主の力が現れるからです。何か悪どいことをされても、それに対する仕返しは主のすることであって、自分が何かするのではなく、主にお任せするべきなのです。パウロもヨブも同様に、何も悪いことをしていないのに打たれる所以がないにもかかわらず打たれました。けれども、悪いことをしたからではありません。それは主が教えてくださるためだと、パウロは悟りました。何を教えてくださるのか。「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れる」ということです。パウロもヨブと同様に、悪いことをしたのではないけれども苦難を受けて苦しみましたが、それによってさらなる主の深さを知り、さらなる幸いを得ていきました。そして、さらなる真理に近づいていったのです。
今朝、私たちが受けるべきことがあります。この世の中は一筋縄ではいきません。この世の哲学や宗教は因果応報という一つの格言で物事を片付けようとしてきます。けれども、私たちは何によって歩むべきか、何によって人を慰めていくべきでしょうか。第二コリント3:6にこう書いてあります。「神は私たちに新しい契約に仕えるものとなる資格をくださいました。文字に仕えるものではなく、御霊に仕えるものとなる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです」。ヨブの友人たちは、文字でヨブを殺しにかかってきました。本人たちはそれで人を慰められると思っていたかもしれませんが、あいにく主の御名がない文字は人を殺してしまいます。ただ、御霊に仕えるものとなる資格が私たちには与えられていると書いてあります。新約において、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって御霊が与えられ、御霊に導かれるのであるならば、道を誤ることなく、本当に傷ついた人を、御霊によって癒すことができます。
私たちもこの主の御霊に導かれて歩んでいきましょう。いつも主と親しくして、共に歩み、御霊に満たされて、本当に困っている人、傷つけられている人を励まし、愛し、赦し、慰め、そして本当に立て上げていく。そのような者となっていきますように。
続いて祈りの中で、次のようなことが語られました。鼻で息をする人はみな、神の御前において不完全な存在です。神の御心にかなった者は一人もおらず、信じている者、信じていない者の差はあっても、みな神の目の中で生きています。もし神様が私たちの行いの良し悪しによって私たちを顧みてくださるだけの方であるなら、神様の御前に立てる人は一人もいません。しかしこの日のエリファズの話を通して、私たちは神様がいかに憐れみ深く、私たちを愛してくださる方であるかをよりくっきりと知ることができました。神様は私たちの行いに応じてではなく、その愛と憐れみと赦し、その恵みによって私たちを測ってくださる方だからこそ、私たちは今もこのように生かされています。
ヨブでさえも、神の御前において完全な者ではありません。しかし神様の祝福が取り払われ、あたかも正しいことを言うかのような友人たちを前にして、ヨブ自身も変わり果ててしまうことを証明しました。主は良いものを限りなく与え、それを受けて豊かに生きることをご自身の誇りとし、良くない様を見ると、それを憐れみ、赦し、恵みを惜しみなく与えてくださる神です。
人がいかにおびただしく言葉を並べても、人の言葉には真実がありません。エリファズの言葉にもそうでした。真実な言葉は主だけです。人がどれほどそれらしく御託を並べても、その中には見下しがあり、蔑みがあり、私意があり、詮索があり、優しそうな言葉であっても実は攻撃に過ぎません。エリファズの言葉を最初から最後まで見ていると、「あなたが人々の役に立っていた時は良かった。これだけの不幸が起きているのを見ると、あなたの生き方に問題があったのではないか」という調子です。しかし私たちは、人の役に立っているから存在価値が高まるのではなく、主によって赦していただいた、愛していただいた、恵んでいただいた、憐れんでいただいたことをいかに覚えて生きるかにこそ、真の存在の意義があります。
どんな時にも人の言葉に心を奪われ、自分自身の信仰にある人格を崩してしまうことがないように。何かあった時には、イエス様にあって自分自身の口を制することができるように。人の言葉によって災いがさらに大きくなることのないように。地に伏して主と向き合い、「憐れんでください」と主に求めることができますように、との祈りが捧げられました。
【結論】
エリファズはヨブを慰めるつもりで来ましたが、因果応報という前提条件が間違った思い込みから、ヨブに罪があるのではないかと決めつけてしまいました。実際にはヨブは理由もなくサタンに打たれたのであり、神様ご自身がそのことを証しされています。私たちも、間違った前提で人を裁くことがないよう気をつけなければなりません。また、エリファズが体験したような神秘的な霊的体験についても、その内容や現れ方を鵜呑みにせず、御言葉に照らして吟味することが大切です。イエス・キリストを告白する霊こそが神からのものであり、そうでない霊は反キリストの霊であることを、私たちは�汽茱魯�4:1から学ぶことができます。
さらに、パウロの神秘体験と苦難の経験をヨブと比較することで、私たちはこの世の因果応報という格言では人を本当に慰めることはできないことを学びます。私たちは御霊に仕えるものとされた者として、主の恵みと憐れみを心に留め、弱さの中にこそ現れる主の力に信頼し、傷ついた人々を御霊によって癒し、励まし、赦し、慰める歩みをしていきましょう。人の言葉ではなく、主の恵みと御霊によって歩むことこそが、真に人を生かす道なのです。
「貧しい義人」から「豊かな義人」への第一歩(ヨブ記3章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記3章から、苦しみのどん底に落ちたヨブが自分の生まれた日を呪う姿を見ます。しかし、この苦しみは、神様がヨブを恐れから解放し、より豊かな信仰へと引き上げるための試練であり、私たちにとってもイエス・キリストこそが失われることのない最高の報いであることを教えられます。
【聖書箇所】
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ヨブ3:1-2
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ヨブ3:3-4
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ヨブ3:7-10
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ヨブ3:11-12
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ヨブ3:16
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ヨブ3:20-23
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ヨブ3:25
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創世記15:1
【慰めの言葉】
耐え難い苦しみの中で自暴自棄な言葉を発してしまうのは仕方のないことです。神様はその苦しみを、より深い神様との関係へと導くためのプロセスとして用いてくださいます。すべてのことを益としてくださる神様の意図が必ずあります。
【励ましの言葉】
私たちが決して失うことのない最高の報酬はイエス・キリストご自身です。主を私たちの盾、私たちの報いとするとき、受ける報いは甚だ大きいのです。この揺るがない真理にしっかりと立ちましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちの正しい行いの動機が、何かを失うことへの「恐れ」から来ていないでしょうか。「地獄が怖いから」といった動機で従う「貧しい義人」から、神様への愛と感謝に根差した「豊かな義人」へと変えられていきましょう。
【***詳細***】
本日はヨブ記の3章です。はじめにヨブ記3章1節と2節を宣言いたします。「そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。ヨブは言った。」(ヨブ3:1-2)。
ヨブ記は、この3章から文体が「詩」の形式に変わります。詩篇と同じ文体ですが、その内容は詩篇のように共感できるものばかりではなく、ヨブの過酷な嘆きが綴られていきます。物語は「起承転結の承」の段階、より深みへと入っていきますが、その先にあるのは消耗するような議論です。
2節に「ヨブは言った」とありますが、ヘブライ語の原典では「答えて言った」という意味の言葉が使われています。ヨブと3人の友人は7日7晩、一言も交わさず沈黙していました。では、ヨブは何に「答えた」のでしょうか。実は、沈黙にも言葉があるのです。
音楽に休符があるからこそメリハリがつくように、沈黙もまたメッセージの一部です。現代音楽家のジョン・ケージが作曲した「4分33秒」という曲は、演奏者が4分33秒間ただ黙っているだけの曲です。これは、沈黙や無音の中にこそ音楽が存在するという気づきを聴衆に与えるためのものでした。沈黙は、人の心の内側で言葉を熟成させます。ヨブが7日7晩の沈黙の間に心の中で練り上げてきた言葉が、いよいよ音となって現れるのです。
その言葉はどのようなものだったでしょうか。3節から読んでみましょう。
「私が生まれた日は滅び失せよ。男の子が胎に宿ったと告げられたその夜も。その日は闇になれ。神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな。」(ヨブ3:3-4)
7日7晩の沈黙を破って出てきた言葉は、自分の生まれた日を呪う、壮絶なものでした。自分の誕生が宇宙のカレンダーから消え去り、光が闇に変わってしまうようにと願っています。神様が天地創造の際に闇の中に光を創造し、秩序と命を造られたのとは全く逆の、破壊と消滅を願う言葉です。
7節以降も見ていきましょう。
「見よ、その夜は不妊となるように。その夜には喜びの声も起こらないように。日を呪う者たちが、レビヤタンを巧みに呼び起こす者たちが、その日に呪いをかけるように。その夜明けの星は暗くなれ。光を待ってもそれはなく、暁のまばたきを見ることがないように。その日が私を孕んだ胎の戸を閉ざさず、私の目から労苦を隠してくれなかったからだ。」(ヨブ3:7-10)
ヨブは、自分を孕んだ母の胎の戸がなぜ閉ざされなかったのかと、自分の誕生そのものを憎んでいます。これが、長い沈黙の中で熟成された彼の心の叫びでした。
私たちはこれを聞いて「そんなことを言ってはいけない」と思うかもしれません。しかし、ヨブが味わった苦しみを考えれば、彼がそうならざるを得なかった心情も理解できます。全財産とすべての子どもを一日で失い、今や全身が悪性の腫瘍におかされ、土器のかけらで体を掻きむしっているのです。ある解釈では、これは痒みのためではなく、固まったかさぶたを剥がすためだったとも言われます。友人たちが一目見てヨブだと分からなかったほど、彼の姿は変わり果てていました。
私たちはここまでひどい災いに遭ったことはありません。しかし、苦しみの中にある兄弟姉妹に対して私たちができることは、ただ執り成し祈ることです。ヨブの友人たちは、彼の自暴自棄な言葉を額面通りに受け取り、正論で反論し続けましたが、それは全く無意味でした。苦しみの渦中にいる人の言葉を、私たちはただ受け止め、自分の知恵で返そうとせず、祈るべきなのです。
11節からヨブは、いくつもの「なぜ」を問いかけます。
「なぜ私は生まれた時に死ななかったのか」(ヨブ3:11)。「なぜ私を、生まれた時、受け止める膝があったのか、さらに、なぜ私を生かすその乳房がそこにあったのか」(ヨブ3:12参照)。「なぜ最初から存在しないもののようにならなかったのか」(ヨブ3:16参照)。彼は死を強烈に渇望しますが、死ぬことさえできず、ただ苦しみの中で生き続けなければなりません。
彼の問いはさらにエスカレートしていきます。
「なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者にいのちが与えられるのか。彼らは死を待つが、死はやってこない。隠された宝にまさって死を探し求めても。彼らは墓を見いだしたときに、歓声をあげて喜び楽しむ。自分の道が隠されている人、神が囲いに閉じ込めた人に、なぜ光が与えられるのか。まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。」(ヨブ3:20-23)
「なぜ自分に命があるのか」という問いは、普通の人が抱くものではありません。しかし、人は耐え難い苦しみに遭うと、普段考えもしなかったことを考え、命の存在そのものや、命を与えた神の存在について問い始めるのです。ヨブの問いは、やがて「なぜ神はこんなことを許すのか。神は本当に正しいのか」という根源的な問いへと発展していきます。
その問いの果てに、ヨブはついに神ご自身と出会います。神が圧倒的な形で彼に語りかけ、それまでの神に対する認識の貧しさは一掃されました。噂で聞いていただけの神を、この目で確かに見るという、深く親密な交わりへと導かれたのです。その結果、ヨブは神の前にへりくだり、その後、彼の持ち物は二倍に祝福され、以前にも増して神との親密な人生を歩むことになりました。これがヨブ記の結論です。
しかし、この3章の時点では、ヨブの神に対する認識はまだ浅いものでした。25節にそのことが表れています。
「私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それがわが身に降りかかったからだ。」(ヨブ3:25)
ヨブは「恐れていたことが起きた」と言っています。彼は、多くのものが与えられていた時から、すでにそれを「失うこと」を恐れていたのです。子どもたちが自分の知らない間に罪を犯したかもしれないと恐れ、そのためにいけにえを捧げていました。彼の正しい行いの動機は、実は「恐れ」だったのです。
私たちはどうでしょうか。神様を愛し、その喜ぶお方になりたいから、自分のために命を捨ててくださったイエス様に応えたいから正しいことを行う人は「豊かな義人」です。一方、今持っているものを失いたくないから、罰が怖いから、いやいやながら罪を我慢する人は「貧しい義人」です。どうせなら、豊かな義人になりたいものです。
しかし、神様は貧しい義人を喜ばないわけではありません。少なくとも正しくあろうと努力するヨブを、神様は天の会議で大いに賞賛されました。神様は、ヨブに貧しい義人のままでいてほしくなかったのです。豊かな義人になってほしかったからこそ、あえてサタンの試みを許し、ヨブをグレードアップさせようとされたのです。
私たちも「なぜ」と思うような苦しみに遭うことがあります。しかしそれは、神様が私たちをより優れた者とし、想像もしなかった素晴らしい領域へと導くために、敵さえも用いられることがあるのです。
では、私たちの報酬とは何でしょうか。お金や土地、建物でしょうか。それらは失う恐れが伴います。しかし、私たちには決して失われることのない報酬が与えられています。それはイエス様ご自身です。主こそが、私たちの最も優れた報酬であり、給料であり、ご褒美であり、決して失われない相続財産です。このイエス様を受け入れるなら、私たちが受ける報いは甚だ大きいのです。
冒頭で宣言した創世記の御言葉を思い出しましょう。アブラハムに臨んだ主の言葉です。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾であり、あなたへの報いは、はなはだ大きい。」(創世記15:1)
主が私たちの盾であり、イエス様が私たちの報酬です。この真理を固く握りしめ、一切の恐れから解放され、貧しい義人から豊かな義人へと変えられていきましょう。
【結論】
ヨブの苦しみと嘆きは、彼が「恐れ」に根差した「貧しい義人」であったことを明らかにしました。神様は、この試練を通してヨブを恐れから解放し、神ご自身と出会わせることで、神への愛に根差した「豊かな義人」へと変えられました。私たちにとっても、失われることのない最高の報酬はイエス・キリストです。このお方を固く信じ、恐れから解放され、豊かな信仰生活を歩んでいきましょう。
ヨブと友人たち ― 七日の沈黙の間に醸成させてしまったものとは(ヨブ記2:13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2026-8-25 13:00
ヨブと友人たち ― 七日の沈黙の間に醸成させてしまったものとは(ヨブ記2:13)
メッセージ音声
【概要】
ヨブと3人の友人が過ごした沈黙の7日間に、心の中で何が「発酵」していたのかを問い、私たちは主に向かい、とりなし祈る者となるべきだと示すメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ2:13
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詩篇32(ダビデの詩)
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ローマ12:15
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ヨブ12:5
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ヨブ13:4
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ヨブ16:2
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ヨブ4:7
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ローマ8:26
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ヘブル12:2
【勧めの言葉】
沈黙する時は詮索や比較ではなく、心の中に主への通路を設け、とりなし祈る者となりましょう。
【戒めの言葉】
神が「良し」とされたこと以外を、神なしにじっと見て思いを巡らすと、心が腐り、相手を自分の思いで測り裁いてしまいます。
【励ましの言葉】
ダビデのように、何かあったらすぐに主に告白すれば、主は罪の咎めを赦してくださいます。
【***詳細***】
今日恵みをいただく御言葉はヨブ記の2章13節です。それでは宣言いたします。
ヨブ2:13「彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、誰も一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。」
アーメン、ハレルヤ。愛するイエス様。今から我ら御言葉へと向き、またあなたから命の恵みをいただきたいと思います。私たち人間はまことに弱いもの、不完全であり、罪を犯しがちなものです。それゆえに御言葉が必要です。どうか今日必要な命の言葉を私たちに語りかけてください。初めから終わりまでのすべてをあなたの御手にお委ねして、我らの愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン、ハレルヤ。
今日も素晴らしい1日が明けたことを感謝いたします。このヨブ記から多くの恵みをいただいていますけれども、ちょっと昨日の箇所をもう一度見てみたいと思います。ヨブ記は三章以降を読み進めていくとわかるんですけれども、本当にヨブ記の二章までを見れば、みんな完全な感じではあったんですね。ヨブも、また友人たちの対応も、本当に美しいような感じではあるんですけれど、三章以降になる途端に、見にくくなるんですね。
昨日も見たこの七日七夜、七日間の沈黙があったんですけれども、果たしてこの二章までの美しさ、三章以降の醜さ、一体これは何なんだろうか。今一度その思いを巡らしていたところ、この七日間に一体何があったのかを詳しく見ていきたいと思いまして、今日はこの二章13節をもう一度見て、昨日の箇所を別の視点から見ていきたいと思うんです。
この3人の友人たちは、遠くから駆けつけてきて、このヨブの変わり果ててしまった姿を見て、初めは声を上げて泣いて、塵を空中に投げて、そしてヨブと一緒にじっと黙って七日七夜を共に過ごしました。ここまでは確かに尊い姿ではあります。ローマ書にも「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」(ローマ12:15)と書いてあって、彼らはそれを実践したわけですね。
けれども、その場面を今一度想像して見ていきたいと思うんです。このヨブと3人の友人たち、この4人が互いに黙ってじっとそこにいる。その沈黙をしている最中、彼らの心の中では一体何が動いて七日間を過ごしていたのか。良い思い巡らしがあったのか。どうも結果を見ますと、あまりそうではないような気がします。
昨日は「黙っている、沈黙は素晴らしい」ということを確かに見たんですけれども、確かに心の中に良い思い巡らしがあれば黙っているのはいいかもしれませんけれど、必ずしも黙っていれば良いというわけではないんですね。
冒頭で宣言したのは、ダビデの詩篇32篇のところだったんですけれども、ダビデは言っています。「私が黙っていた時、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。」ダビデの場合、黙っておりました時、何が起きたかを正直に告白しました。黙っていた時はもう骨が疲れ切って一日中呻いていた、というんですね。
それでダビデは何をしたか。「私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。私の背きを主に告白しようと。するとあなたは私の罪の咎めを赦してくださいました。それゆえ敬虔な人は皆祈ります。あなたに向かって、あなたがおられるうちに。大水は濁流となっても彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で私を囲んでくださいます。」アーメン。
ダビデの場合、すぐに全部主に持って行ったんですね。ところがヨブ記は、主という言葉が三章以降、たった一回しか出てきません。このヨブと友人たちの議論の中において、三章から三十七章までの間で、主という言葉は一回しか出てこないんですね。ですから、主抜きで黙っていること、これはもうただただ良くないものを心の中で発酵させていくだけです。
ダビデの場合はすぐに主に持って行って、黙っていた時はもう骨が乾ききった、だからもう自分の罪を主に告白しようと決心して主に祈りを捧げました。告白しました。そうしたらもう主が赦してくださった。なんと幸いなことだろうか、と言うんです。でもヨブと3人の友人は主抜きでずっといるんですね。
ヨブがこの七日の沈黙の後に口から出した言葉は、自分の生まれた日を呪うことでした。ここでもヨブは死を呪ったのではないんですね。彼の奥さんは「死を呪って死になさい」でしたけれども、それでも七日の沈黙の後、ヨブの口から出てきたことは確かに呪いではあったんですけれど、死を呪ったのではなくて、自分の生まれた日を呪ったということでした。ヨブの場合は、主を恐れ敬う心は確かにありましたけれど、主と対話しようという志はまだなかったんですね。読むと、3人の友人の議論の末に、ようやく「私は主と論じ合いたい」という心が芽生えるんですね。
けれどもこの場面において、友人たちは沈黙をして、よくも沈黙していたけれども、沈黙が必ずしも良いものだとは限らないということです。沈黙している間は、中に閉じ込めているものを表に出さない、吐き出さないわけですね。もし心の中に良くないものをずっと思い巡らしながら、「あいつのこと憎たらしい、憎たらしい」という思いをずっと巡らしながら黙っているとするならば、ちょっとその人、危ない人だなと皆さん思いますね。だから本当に心の中に良くないものを持ったままで沈黙しているのは良くないんです。
沈黙というものは、言ってみれば発酵する機械みたいなものですね。ぶどう酒を生成する時、発酵する機械の中に入れますね。横浜からつくばみらいに来る途中もアサヒビールの工場があるんですけれども、こんなでっかいタンクがたくさん並んでいるんですね。その中で発酵し続けているものがあります。沈黙は発酵するタンクみたいなものです。もし思いの中に良くないものを抱え込んだまま発酵させていくと、それがどんどん膨らんでパンパンになっていってしまいます。けれども、もし心の中に主をお入れして沈黙しているならば、どんどん主が中で良いものを発酵させて膨らませていくんですね。
一昨日でしたか、冷蔵庫の中にパンパンになった袋、その中にキムチが入っていたんですね。発酵するとどんどん膨らんで、パンパンになってやがて破裂してしまうんですね。何を心の中に入れているか、これがとても肝心です。
まずヨブは、この沈黙の七日間、何を発酵させていたか、ちょっと想像してみたいんです。ヨブとしては、もうひっきりなしのかゆみがあります。たった一日にして財産を失い、子供全員を失いました。その上で、全身かさぶただらけの、ひっきりなしのかゆみにある状況。そして目の前には、何ともない友人たちが3人座っております。その3人は、ヨブがまだ健康だった時、信仰においてもヨブより若干劣っていたことでしょう。祝福においても富においてもヨブが断然一番だったんですね。けれどもその3人は今、目の前で何の苦労もなく痛みもなく座っている。
ヨブの方が頑張ったんです。義においても頑張りました。唇から悪い言葉を発しないことにおいてもヨブの方が頑張りました。けれども目の前には頑張っていない3人が、無傷の健康な体の3人がおり、それに引き換え自分自身はすべてを一日で失って健康も失って灰の中に座っている。自分と相手の落差が沈黙の中で激しくなっていくことでしょう。自分の惨めさがどんどん際立っていくことでしょう。「なんで自分よりも頑張っていないものがこんなに安らかで、こんなにも義において頑張った私がこんな惨めな思いをしているんだろうか」と。沈黙の中で少しずつそういう思いが芽生えていったことがうかがわれます。
その根拠になるのは、その後のヨブの言葉の節々から見えます。例えばヨブ12:5で「安らかなものの思いには、不幸なものに対する蔑みがある」。「あんた黙っている、あんた蔑んでいたんじゃないか」と。また13:4では「あなたがたは皆、役に立たない医者だ」。医者のなりをしてきたけど、結局役に立っていないじゃないか。またヨブ16:2で「あなたがたは皆、煩わしい慰め手だ」。みんな煩わしい慰め手に見えたんですね、ヨブとしては。ですから、このヨブの言葉は突然湧き上がったんじゃなくて、この七日間の間に静かに熟成していったものが、ある時パンと弾けて出たのではないでしょうか。
この3人の友人たちは、じゃあこの七日間で何を熟成していったのか。もちろん一日目、二日目は深い同情心で一緒に泣いて共に座っていたことでしょうけれど、三日たち、四日たちすると、だんだん見慣れてくるんですね、ヨブのその有様とヨブの表情に。慣れてくると、最初はノーブルな心がだんだん支えられなくなってくるものがあります。そして心の中にどんどん芽生えていくんですね。「確かにひどい状況だけれども、なぜだろうか。何をしたらこんな目に遭うのか。この災い、ただごとじゃない。ここまでなんで徹底的に打ちのめされるのか。もしかすると我々の知らないところで彼は隠れて大きな罪を犯していたに違いない」と。
そういった思いは、ふと相手のことを見定めて、「あ、この人、服にシミがある、何々したからに違いない」というふうに、思いの中でどんどん変な方向に向かっていくんですね。沈黙して相手に聞かず、思い巡らしていると、人は本当に汚いものですね。心の中で思い巡らしていると、良くないものが熟成されていくものなんです。
では、この3人、果たしてそうなのかどうか。残念ながら、その後の章を見ると、この友人たちが本当に心の中で七日間、良くない思い巡らしをしていたことがわかるんですね。ヨブ3章では、ヨブ自身が自分の生まれた日を呪う章でした。4章からこの3人の友人たちの言葉が始まるんです。4章はまずテマン人エリファズからですけれど、彼の口から早速出た言葉が、「果たして罪のないものがこんな目に遭うだろうか」。ヨブ4:7から見ますと「考えてもみよ、罪のないもので滅ぼされたものがあるか」。突然こういう言葉が打って出てくるんですね。ですから、この七日の沈黙の間、すでに彼らの心の中に出来上がって熟成されたものが、いざ三章というゴングが鳴ると、カーンとなると、突然ヨブと3人の友人のその議論、言葉の論争が始まるんです。
なんでこういうふうになってしまうのか。それはやはり主の御名がないということです。この3章以降、主の御名がたった一度しか出てこない。この3人の友人たち、4章以降、延々と論争が始まるんですけれども、結局、ヨブの口からたった一回、主の御名が出てきました。この3人の口からは、ただの一度も主の御名は出てきませんでした。
主の御名が一度も出てこない。結局、彼らは主に今、向かっていなかったんですね。心の中にちょっとでも主がおられるのであれば、一度ぐらいは主の御名が出てきたことでしょうけれど、この三章以降、延々と続くその中には、主の御名がたった一回しか出てこなかった。結局、彼らは主に向かっていなかったんです。
主に向かうべきなんです。私たちはダビデのごとく、何かあったらすぐに「主よ」、何かあったらすぐに「イエス様」、そういうふうに向かうべきなんですね。私たちは、もし誰かこのヨブのように徹底的に打ちひしがれている人を目の前にした時、確かに沈黙して一緒に痛みを感じること、それは良いことです。けれども、もしその沈黙の中で「この人、何かやらかしたのかな」というふうに詮索し出すと、これは悪、サタンの仲間入りの第一歩です。あれこれ詮索、あれこれ詮索、心の中でそういうことをし出すと、良くないものを熟成していってしまいます。
もしせっかく沈黙するんだったら、とりなしをするべきですね。心の中で「主よ、この人を憐れんでください。主よ、この人を助けてください」と、そういうふうにとりなしているとするならば、その沈黙はむしろ天に向かって立ち上る祈りになっていくんですね。私たちがなすべきことは、とりなし祈ることです。相手に対して何の言葉もかけてやれないとするならば、「主よ、この人を助けてください、憐れんでください」ととりなし祈ることですね。真の癒し主であり全能者であられるお方、そのお方に「この人を助けてください、全能なるあなたがこの人に声をかけてください」ととりなし祈ること。これは聖霊の働きであり、またイエス様の働きですね。御霊は言いようもない深いうめきをもって、私たちのためにとりなしておられると書いてあります(ローマ8:26)。イエス様も今、御手において私たちのためにとりなしておられます。
このヨブ記の最後も、実はとりなしで祝福が戻ってくるんですね。ヨブはこの3人の友人たちのためにとりなし祈った、その瞬間から祝福が戻ってきたと書いてあります。ヨブが神様の前で悔い改めて自分を低くした時に祝福が戻ってきたのではない。とりなし祈った時に祝福が戻ってきたということが書いてあります。だから私たちはとりなし祈るものになるべきです。本当に詮索したり、比較したりするならば、相手に対しての良くない思いがどんどん熟成されていってしまいます。
だから私たちは心に「主よ」という、主に対する通路をいつも設けておき、何かあったらその都度、主に行って、ダビデのごとく「黙っている間は本当に私の骨は打ちひしがれておりました。けれども、あなたに罪を告白したら、あなたは赦してくださいました」と。皆さんはいつも主に向かって心を開いておきましょう。いつも主に対する通路を設けておきましょう。何かあった場合は、本当に「主よ」ととりなし祈りましょう。皆さんはこの地上において、本当にとりなし祈るものとして、心の中に溜めておかないで、主に向かってすべてを打ち明け、主にとりなし祈る。そのようなものでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
ハレルヤ、愛する主よ。本当に詮索しがちな私たちです。口を閉ざして、心の中に何を巡らしているのか、本当にそれが大事であることを今日見ました。私たちはいつも主を思い巡らし、また人を見るたびに主を思い、主に向かってとりなし、また自分の状況を見ては、ダビデのごとく、主にすべてを告白する私たちとならせてください。そしてこの地上においては、とりなし祈る祈り手になって、人々をあなたへと持っていく私たちとならせてください。今日いただきました御言葉に感謝して、私たちの愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
じっと見る、じっと見るということは本当に良くないです。なぜなら私たちの目は、神様が「非常に良かった」と仰せられた、その見解で見る目が私たちにはないからです。神様なしでじーっと見るということは、罪の罠に陥ってしまうことです。じーっと見て、見たものに思いを走らせるということを、私たちの先祖があのエデンの園ではっきりと、実をじーっと見て、心と思いが腐っていきました。神様が良しとされたこと以外、私たちはじっと見てはならない。じっと見たところに罠があるからです。
ヨブを心配してきた友人たちも、変わり果てた彼の姿を見て言葉を失い、じーっと見ていたその七日間を通して、その友人たちも腐っていきました。キリストに根拠しないものをじっと見ると、私たちもこのようなことが起きるに違いありません。主よ、あなたが保証すること以外は、じっと見て思いを巡らすことがありませんように。イエス様、私たちを助けてください。じっと見たところに罠があります。じっと見たところに謀りごとをします。じっと見たことによって相手を自分の思いで測ってしまいます。主よ、測って、その人をああだこうだと判断すること、これは主から私たちに赦されたことではありません。
ヘブル12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
私たちがキリストにあるならば、相手をいつも愛、憐れみ、赦し、その恵みの目でじっと見て、愛すべきところを探し、憐れむべきところを見つけ出し、赦すべきところを見出し、恵まれなければならないことを主に祈る。これが私たち、神から出たものがなすべき業です。主よ、今日もあなたが、じーっと見たことによって起きてしまったこのもろもろを、痛いほど教えてくださったことを感謝いたします。アーメン。
私たちは、主が与えてくださった愛、憐れみ、赦し、その恵みによって相手をじっと見ることができますように。じっと見させてください。そして愛、憐れみ、赦し、その恵みの量りに、私たちの愛すべきもの、憐れむべきもの、罪赦されてほしいもの、恵まれてほしいものを測り見ることができますように。とりなし祈ることができますように。イエス様、助けてください。助けてください。助けてください。主が今日もこのヨブ記を通して、このように私たちを養ってくださったことを心から感謝して、イエス・キリストの御名によって祈りました。アーメン。
【結論】
沈黙そのものが尊いのではなく、その沈黙の中に主がおられるかどうかが決定的です。ヨブと3人の友人は主抜きで七日間を過ごし、比較・詮索・裁きを心の中で「発酵」させてしまいました。私たちはダビデのように何かあればすぐ主に向かい、人を見る時はじっと詮索するのではなく、主が与えてくださる愛と憐れみと赦しの目で見つめ、とりなし祈る者となりましょう。とりなしの祈りにこそ、祝福が戻ってくる道があります。
ただ黙って一緒にいた七日七夜(ヨブ2:11-13)
メッセージ音声
【概要】
苦難にある者に対して私たちがどう寄り添うべきか、ヨブの友人たちの沈黙と発言を通して学び、人間の浅知恵ではなく共にいて痛みを分かち合うことの大切さを説くメッセージ。
【聖書箇所】
ヨブ2:11-13
ローマ12:15-16
ヨブ3:1
【慰めの言葉】
苦しむ友に対して焦って言葉をかける必要はありません。ただ同じ空間にいて、共に悲しみを分かち合い沈黙することが最大の慰めとなります。イエス様もそのように、私たちの痛みに寄り添ってくださるお方です。
【戒めの言葉】
主の御名がない人間の浅知恵や正論は、かえって相手を傷つけ、正しい人でさえも信仰から遠ざけてしまう結果になります。自分を知恵のある者と考えて、上から相手を裁いたり評価したりしてはなりません。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちはこれまでに焦って不用意な言葉をかけ、良かれと思って多くの人を傷つけてきました。その罪を悔い改め、鼻で息をする人間に頼るのではなく、主によって唇を清めていただかなければなりません。
【***詳細***】
今日恵みをいただく聖書箇所は、ヨブ2:11-13です。
「さて、ヨブの3人の友がヨブに降りかかったこれらすべての災いのことを聞き、それぞれ自分のところから訪ねてきた。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに同情し、慰めようと互いに打ち合わせてきた。」
私たち人間というものは、本当に間違いを犯しやすいものです。イエス様につながっていないと、こちらが良かれと思ってやったことがことごとく裏目に出て、相手に悪い結果を押し付けてしまうようなことになります。
今日の箇所によりますと、ヨブの3人の友人たちが、ヨブが大変な災いに遭ったという知らせを聞き、示し合わせてヨブを慰めるためにやってきました。ヨブ記を読むと、物語の大半はヨブとこの3人の友人たちとの議論で占められています。物語の展開を「起承転結」で言うなら、2章までの箇所は「起」の部分にあたり、3章から「承」へと発展していきます。今日の箇所はその「起」と「承」をつなぐちょうつがいのような部分ですが、この段階での3人の友人の対応は、友人として完璧なものでした。
しかし、3章以降になると、その対応は完璧ではなくなってしまいます。ヨブを慰めるために来たはずの彼らが、全く逆のことをしてしまい、ヨブを安らげるどころか、かえってもっと苦しめるようになってしまうのです。それは彼らが、人間的な知恵や格言に基づいた議論を吹きかけて、ヨブを正しい道に導こうとしたからです。彼らの議論の中には、主(ヤハウェ)の御名が一切出てきません。主の御名がないまま、人間の知恵だけで相手を正しい道に導こうという動機であったとしても、結局は人を傷つけ、さらに苦しめるだけで何の解決ももたらさなかったのです。
ヨブはそれまで、10人の子どもたちを失い、自分の体全体がサタンによってひどい腫れ物で打たれ、妻からは「神をのろって死になさい」とまで言われていました。そこまでされても、ヨブは唇で罪を犯しませんでした。本当に正しい人としての器は最高のものでした。しかし、そんな正しい人を腐らせてしまうもの、それが主の御名がない人間的な小賢しい知恵なのです。
とはいえ、最初のうち、この友人たちはとても素晴らしい行動をとりました。時間を割き、示し合わせてヨブを慰めに来たことは非常に良いことです。さらに12節と13節にはこう書かれています。
「彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることを見分けられなかった。彼らは声を上げて泣き、それぞれ自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、誰も一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。」
これは当時の行動としては、最も深い悲しみを表す激しい仕草です。ヨブの体は腫れ物とかさぶたで覆われ、灰をかぶっていて、外見的には目も当てられない姿でした。友人たちはその姿を見て、真っ先に声を上げて泣きました。上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げました。そして、何も言葉をかけませんでした。彼らはなんと七日七晩、一言も声を出さず、ずっと沈黙を保ったのです。ただ一週間、ヨブと一緒にいて、一緒に座っているだけでした。その理由は「彼の痛みが非常に大きいのを見たからである」と書かれています。
彼らの沈黙は、気まずさや無関心からではありません。相手の痛みや苦しみが本当に大きいことが分かると、言葉は出ず、沈黙しか出てこないものです。何か言葉をかけてあげなければと、焦って言葉を出そうとしてはいけません。焦った時点で、一言も発してはならないのです。沈黙していること、ただ一緒にいること。これが、本当に苦しんでいる人に対する正しい接し方です。ただそこにいて、同じ空間にいてその人を見る。その人の痛みを感じ、思いやる。これがベストなのです。
ローマ12:15-16にはこう書かれています。
「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」
「共に」ということが大事です。ただ一緒にいる。それが、痛んでいる友に対して最も雄弁に語る言葉であり、それが沈黙です。
面白いことに、ヨブ3:1でヨブが口を開くとき、ヘブライ語の原語では「答えて言った」と書かれています。ずっと七日間沈黙し、何も喋らなかった友人たちに対して、ヨブが「答えて言った」のです。ヨブは何に対して答えたのでしょうか。それは、七日間沈黙して一緒にいてくれたことに対してです。友人はずっと黙っていました。ヨブもずっと黙っていました。ただ一緒にいただけです。この「共にいる」ということ、「共に泣く」ということがとても肝心なのです。
イエス様は「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」というお方です。皆さんが苦しい時、悲しんでいる時、また人を傷つけてしまって悲しんでいる時、共にいて悲しんでくださるお方です。皆さんが病で苦しんでいる時、イエス様も共に沈黙して、共にいてくださいます。ですから、友人たちが共にいて黙っていた時は、本当に完璧なことをしていたのです。ヨブが最も必要としていたのは、共に黙ってそこにいて、痛みを感じてくれることでした。
しかし、その完璧だった友人たちが口を開いた瞬間から、すべてが台無しになっていきます。4章以降、彼らの口からは哲学的な言葉や人間の知恵に満ちた言葉が飛び出します。「あなたが今苦しんでいるのは、あなたが罪を犯したからだ。悔い改めて神に立ち返れば、すぐに癒される」と、異口同音に語り出します。慰めに来たはずの彼らが、いつの間にか高い場所に立ち、上から大上段に論理の言葉でヨブを切り裂いていくのです。
主の御名がない、人間の知恵や格言を使った言葉。そして「私は悪くない、あなたが悪い」といった主義主張の応酬は、ただ人を苦しめ、場を険悪にするだけです。正しい人でさえも切り裂き、腐らせてしまいます。何か言わなければと口を開いた途端に、彼らは険悪になり、愚かになってしまいました。
だからこそ私たちは、この口をどのように用いるべきか、聖霊様に教えていただく必要があります。私たちには限界があり、間違いを犯しますが、聖霊様には限界がなく、間違いを犯しません。私たちの唇は汚れているため、聖なる炭火で清めていただく必要があります。聖霊を通した言葉こそが、人を本当に立て上げ、癒すことができます。もし聖霊からの示しがないのなら、黙っているべきです。的外れな言葉で人を傷つけてしまうからです。
言葉を発しようとする時は、「主よ、どうかお言葉をください。この唇を清めてください。この人は傷ついています。慰め主である主よ、どのように語ればよいのか教えてください」と祈るべきです。言葉が来ないなら、黙って一緒にいてあげるだけでいいのです。
イエス様はインマヌエル、共にいます主です。私たちの痛みを見て、知っておられ、はらわたがちぎれるほどの思いで憐れんでくださるお方です。ずっと無言で一緒に居続け、寄り添い続けてくださるイエス様に私たちも倣いましょう。そして、イエス様がお言葉をかけてくださる時、それをそのまま届ける「預言者(言葉を預かる者)」であるべきです。人間の知恵による善悪の論争は、ただ人を傷つけ、争いを起こすだけです。
友人たちは、自分の知恵を誇り、大上段から相手を裁いてしまいました。それによってヨブは引き裂かれ、ついには怒り爆発して、神様にまで論争を吹きかけるようになってしまいました。あんなに立派だったヨブをそこまで追い詰めたのは、結局、人間の浅知恵だったのです。
私たちは、まことにインマヌエルなる主イエス様から御言葉をいただき、もし御言葉が来ない時は待ち、真に寄り添うべきです。皆さんがイエス様を届ける者として、この地上で豊かに用いられますように。
私たちはこれまで、浅知恵で焦って何か言葉をかけなければと思い、多くの人を傷つけてきました。そのことを悔い改め、主によって唇を清めていただきましょう。
自分に不本意なことが起きたとしても、それがイエス様の許しのもとで起きているのなら、「なぜこんなことが起きるのだろう」という愚かな問いに走るのではなく、口をちりにつけ(へりくだり)、「主よ、このことから私を解放してください」と祈るべきです。
目の前にある人の姿を見て、自分より劣っていると見下したり、逆に優れているからといって卑下したりする、そんな私たちの腐った価値観を捨てる必要があります。目の前の現実に振り回されるのではなく、奥まった部屋に入り、イエス様と出会うまでそこから出ずに祈り続けることが大切です。どんなに親しい人であっても、鼻で息をする者(人間にすぎない者)に頼ったり、向き合って評価したりしてはいけません。
もし愛する者がひどい目に遭っているなら、私たちが語るべき言葉はただ「主よ、憐れんでください」だけです。人を評価してはいけません。自分の身に起きたことに対しては口をちりにつけ、人の前に行って人をじっと見るのではなく、ただ「イエス様、助けてください」と祈り続けること。これが、私たちがヨブ記から学ぶべき、苦難に直面した際の立ち振る舞いなのです。
【結論】
苦しんでいる人に対して、私たちは自分の知恵や正論で相手を裁いたり、焦って言葉をかけたりするべきではありません。共に泣き、黙って寄り添うことが最大の慰めとなります。常に聖霊によって唇を清められ、人間の浅知恵や評価を手放し、ただ主に祈り頼りながら、イエス様の愛と御言葉を届ける者となるべきです。
最も親しい妻からの鋭い攻撃と、ヨブの驚くべき対応(ヨブ記2:1-10)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2026-8-21 12:50
最も親しい妻からの鋭い攻撃と、ヨブの驚くべき対応(ヨブ記2:1-10)
メッセージ音声
【概要】
サタンによる第二の攻撃を受けたヨブが、全身の激しい痛みと痒み、そして最愛の妻からの「神を呪って死になさい」という言葉に直面しながらも、唇によって罪を犯さず、誠実を貫き通した姿から、試練の中での信仰と神への信頼を学ぶメッセージ。
【聖書箇所】
-
ヨブ2:1-10
-
創世記3章
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黙示録12:10-11
-
ローマ8:28
-
ヤコブ書(ヨブの忍耐について)
【慰めの言葉】
地上で誰にも認められなくても、私たちが主に捧げた誠実さは神の御前でちゃんと覚えられ、認められている。
【励ましの言葉】
たとえ痛みや痒み、周囲からの理不尽な言葉があっても、神は私たちを見捨てず、最善へ、より深い祝福へと導いておられる。
【戒めの言葉】
サタンは最も親しい人を通して攻撃を仕掛けてくる。私たち自身も、悪魔に利用されて配偶者や家族を傷つける道具にされてしまうことがあるので注意が必要。
【勧めの言葉】
たとい近しい人からひどい言葉を受けても、ヨブのように相手を思いやり、唇で罪を犯さないこと。良いことも悪いことも主から受け取るという全き信頼の姿勢を持つこと。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記2章1節から10節です。まずヨブ2:3を宣言します。
「主はサタンに言われた。『おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを固く保っている。お前は私をそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を飲み尽くそうとした』」
ヨブ記から本当に多くの、天における隠されたこと、また私たち人間の中に隠されているもろもろが明らかにされていきます。前の1章において、サタンはヨブを訴えました。ヨブはサタンの攻撃にあいましたが、その攻撃の中でも彼は主を呪うのではなく、逆に主を礼拝しました。この大きな試練の中で、彼の本性は呪いではなく礼拝だということが明らかにされました。このことによってヨブの本性が明らかにされ、サタンの面目は失われました。けれども、サタンは一度面目を失ったからといって諦めません。もう一度、天の会議にやってきます。
2:1から見ますと、「ある日、神の子らがやってきて、主の前に立った。サタンも彼らの中にやってきて、主の前に立った。主はサタンに言われた。『お前はどこから来たのか。』サタンは主に答えた。『地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。』」
主はサタンの本性を暴くために、あえてサタンに尋ねています。「お前、どこから来たのか。」神様はご存知なのに、あえて質問したのは、私たちにサタンがどこから来るのかを知らせるためです。「地を行き巡り」とサタンは答えましたが、私たちが知るべきは、サタンは地を行き巡るものだということです。ヘブライ語では、これはあてもなく徘徊するという意味です。皆さんは夜中にあてもなく徘徊してはいないでしょう。サタンはそのようなことをします。何のために徘徊するかというと、食い物になるものを見つけるためです。
サタンは食い物にする人間を探し回っています。創世記3章において、蛇、サタンの食い物は塵だということが定められましたが、私たち人間は、主の霊を持っていないとするならば、塵に過ぎない存在です。ですから、私たちが主の御霊を、イエス様をしっかりと握りしめていないと、結局サタンの食い物にされてしまいます。私たちはサタンの食い物にされている人たちを救い出す役割であるべきです。
このサタンは日夜、聖徒を訴える者です。黙示録12章10節に書かれています。このサタンは地に投げ落とされて、地を這いずり回って、訴えることによって人を食い物にします。訴えて、地に引きずり落として、お互いに罪を犯し合う、そういう罪の泥仕合の中に引きずり込みます。私たちも本当にそんな悪魔サタンの企み、目論見に引っかかってはならないのです。
けれども、このサタンに対処する術が黙示録12:11に書かれています。
「兄弟たちは子羊の血と自分たちの証の言葉のゆえに龍に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分の命を惜しまなかった。」
子羊の血と証の言葉によって、龍(サタン)に対して勝利すること。たとえ蛇から龍に「昇格」したところで、私たちが勝利する術があります。これはイエスの血と証の言葉です。これによって勝利します。ヨブも見事な証の言葉によって、サタンの面目を丸つぶしにしましたが、それでもサタンはまだ引き下がりません。サタンは一度私たちに敗北したとしても、またにょろにょろとやってきます。けれども、慌てる必要はありません。サタンは神様が許可した範囲内でしか動けません。
2:3において、神様はヨブを弁護します。「お前は理由もなく彼を飲み尽くそうとした。お前は私をそそのかして彼に敵対させようとしたか」と。神様はサタンに対して、再びヨブを誇りに思っています。あたかも自分の子供を誇るかのように、主はサタンに言います。「お前は私のしもべヨブに心を留めたか。」ヨブは神様を見たことはありませんでした。神様を見ることができるのはもっと後の方の章になります。神様を見ないけれども、主のしもべとして神様は認めておられます。「彼のように誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は地上には一人もいない」と誇り、「彼はなお自分の誠実さを固く保っている」とサタンに言いました。ヨブはこの時、地上の人間から認められはしませんでしたが、神様の御前においてはちゃんと覚えられ、認められているのです。
これは私たちにとっても本当に慰めです。私たちは地上において認められていない、誰も分かってくれないとしても、皆さんが主に捧げた誠実はちゃんと神様において認められており、皆さんの立ち振る舞い、全行動、また心の中の全ての動きもご存知です。神様が皆さんのことを評価してくださるのです。
天の法廷におけるこの判決、ヨブに対する判決は、「ヨブは全きものであることを貫いた。誠実を貫いた。ヨブのようなものはいない」というものでした。けれども悪魔サタンはさらにヨブを訴えます。4節から見ますと、
「サタンは主に答えた。『皮には皮を持ってします。自分の命の代わりには、人は全て持っているものすべてを与えるものです。しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと面と向かってあなたを呪うに違いありません。』」
サタンはさらにヨブをいやらしく訴えます。「皮には皮を持って」つまり、ヨブは自分の命に対しては何もかも投げ出すでしょう。財産や子供は自分にとっては他人事だったけれど、自分自身の命に対してはどうでしょうね、というふうに、サタンは実にいやらしく、厚かましいものです。
主はそれに対して何と答えられたか。6節「主はサタンに言われた。『では彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。』」主はなんとこんなにも誠実を尽くしたヨブに対して、サタンが手を加えることを許可されます。これは本当に驚きです。人は「わからない、理解できない」と言うかもしれません。けれども私たちは、話を途中まで聞いて全て分かったかのようなふりをするべきではありません。ちゃんと最後まで見るべきです。物語の途中だけを見て議論をし出すと、永遠に終わらない議論になってしまいます。ヨブ記についての議論は、「神様はひどい」といった議論になりがちですが、ヨブ記の結論を私たちは知っています。ヤコブ書にもヨブ記の結論が書いてあります。「ヨブの忍耐」を私たちは知っています。
ここから結論づけられることは、神様は慈愛に富み、また誠実であられるお方だということです。なぜ神様がここで試練を許されたか、それはヨブに2倍の祝福を与えたいから、より神様のことを深く知らせたいからです。そして今、ヨブの心の奥底にしっかりと紐づいている自己義を手放してほしいから。神様との関わり、神様のことをもっと見てほしいから。そしてヨブの後半の人生を、より長く、より祝福された形で送っていただきたいから。だからあえてこの悪魔サタンに一線を引いて、「ここから先はいい、でもここからこっちはダメだよ」という許可付きでサタンを泳がせるのです。
そもそもヨブの災いを願い出たのはサタンです。神様ではありません。私たちは「なんで神様は」と訴えるべきではなく、「悪はサタン、お前よくも兄弟しもべを訴えたな」とイエス・キリストの名前によってサタンをこそ訴えるべきなのです。神様は実際サタンが好き勝手できないように境界線を引かれます。6節にあるように「ただ彼の命には触れるな」と、しっかりとサタンをコントロールしているのです。
けれどもサタンは許可を受けた範囲内で、人間を徹底的に打ち叩きます。7節「サタンは主の前から出て行き、ヨブを足の裏から頭の頂きまで悪性の腫物で打った。ヨブは陶片を取り、それで体を掻いた。彼は灰の中に座っていた。」
足の裏から頭の頂きまで、悪性の腫物がヨブにできてしまいました。陶片で体中を掻きむしります。本当に痛みがあり、また痒みが人を消耗させます。夜も眠れないでずっと掻き続けます。横になることもできません。床についたところが痒くて痛い。私たちが今、癒しをお祈りしているホ・ジュビ幹事を覚えます。彼女は体の45%を火傷を負いました。普通なら命の危機に関わりますが、神様は彼女の命を救ってくださり、また聖徒たちが日夜捧げている祈りに応えておられます。ホ・ジュビ幹事は今、全身の痛みから、今度は痒みに変わったりします。本当にどれほどの痛み、痒み、壮絶な思いをされているか、私たちは祈ることをずっとやめてはなりません。
神様はもともと人が健やかであることを望んでおられます。けれども、より神様との関わりを深くするために、あえてこのような試練を与えることは確かにあります。このヨブ記を見ますと、神様は人間の痛み、痒み、また人から見れば「なぜこんなこと」と思うようなことを軽くは見ておられないことがわかります。それ以上に神様は人をより深く立て上げ、より悪魔サタンから遠ざけ、より神様との親しい関係を持たせたいと願っておられます。
今日冒頭で宣言したローマ8:28に書いてあります。「神を愛する人たち、すなわち神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことが共に働いて益となることを私たちは知っています。」神様がなさることは最善であると書いてあります。最善よりも悪いことはされない、ということは、最善以上に最善のことを神様は備えておられるのです。
9節に、ヨブにとってさらに手痛い仕打ちが待っています。「すると妻が彼に言った。『あなたはこれでもなお、自分の誠実さを固く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。』」
ここに一番手痛い一撃が来ます。それは外の敵からではありません。妻という最も親しいはずの身内からの一言です。妻はこれまで人生をずっとヨブと共にしてきました。子供を産みました。事業を支えてきました。この妻から「神を呪って死になさい」という一言。ヨブは何度も人生、妻の助言を受けて、従って助けられてきたことでしょう。この妻からの言葉は、今までの何よりも深く、神様を呪って死にたいような、そういう思いに駆られたことでしょう。
サタンはいつもこういう手口を使ってきます。最も親しい人を通して、最も親しい人が怒りを爆発させて、えぐるような一言を投げかけるように攻撃してくるのです。サタンはアダムに対してエヴァを通じて攻撃してきました。最も親しい友人、最も親しい身内、妻、夫からのこのような言葉、これは本当に痛いものです。悪魔サタンが親しい人をその手に操るということ、怒りや妬み、そうした諸々をついて攻撃してきますし、私たち自身も妻を、夫を、悪魔サタンに利用されて攻撃する道具にしてしまうことがあります。私たちは本当にいつもイエス様を握りしめ続けて、いつも清らかな思い、心を持って歩み続けていくべきなのです。
ヨブはそれに対して何と答えたか。10節「しかし、彼は妻に言った。『あなたはどこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、災いも受けるべきではないか。』ヨブは、このすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。」
ヨブは本当に痛いのです。痒いのです。絶叫したいぐらい痛い、痒い。その中において神を呪って死になさいという言葉を受けました。そんな中でも、なおヨブは妻に対して思いやりがある言葉を返しています。妻に対して「あなたは愚かな女だ」とは言っていません。「どこかの愚かな女が言うようなことをあなたは言っている」というふうに、この期に及んで妻に対する思いやり深い心がこの一言から垣間見られます。やんわり諭したのです。攻撃を持って返したのではありません。バシンと叩いたのではありません。突き放さないで、その弱さをなおも担ったのです。本当に最も辛い中においても、なおも親しい人を思いやる。私たちも自分が痒い、痛い、苦しい時に、相手が思いやりのある言葉を言っても、バシンと攻撃しがちなものですが、ヨブはここまでも誠実を保ちました。だから当代一の富豪になり、祝福されて、神様が囲いを置いて守ってくださったのです。
このヨブの性質から私たちはいろいろと学ぶところがあります。近い人がたとえどんなひどいことを言ったとしても、「ああ弱いんだな」と思いやるべきなのです。ヨブはこの時、良いことも悪いことも主からいただくものはいただくのだ、というふうに、さらに優れた告白をしました。前回のところでは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言いましたが、ここではさらに一歩進んで、この災いに遭ったことの中において、ヨブはなおも唇で罪を犯さず、良いことも悪いことも主から受け取るものだ、と、妻に対して、しかも本当にひどいことを言った妻に対して、さらに優れた宣言をしました。主に対しての全き信頼がここにあるからです。
「ヨブは、これがすべてのことにあっても、その唇で罪に陥ることはなかった。」この「唇で」というところがあります。確かに心の中でいろいろ渦巻くこと、うごめくことがあります。けれども、私たちは唇で罪を犯さないこと、これはとても大切なことであり、神様は少なくともこの時点で評価しておられます。心の中にいろいろうごめくものがあることを主はご存知です。それは後々の章で神様が取り扱っていかれます。けれども、少なくともこの章においては、神様はヨブを本当に褒めて、悪魔サタンに対して「私の僕」ということを評価しました。
今、私たちが覚えるべきは、確かにこの地上において報われていないことは絶対あるかもしれませんし、また順調でないこともあるかもしれません。痛みの中にあるかもしれません。けれども、主は天においてしっかりと私たちの最善を導くために、あえてことを行われる、許可をされることは確かにあります。けれども、その向こうには、主は憐れみ深く、恵み深いお方だということを、私たちはしっかりと握りしめて歩んでいくべきです。
どうか皆さんは、今日も本当に主の働き人として、誠実を尽くし、また、たとい隣人が近い人が傷つけるような言葉を言ったとしても、このヨブのごとく口で罪を犯すことなく、誠実を貫いて、主から評価をいただいて、さらに多くを任されていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。
【結論】
ヨブは、全身の激しい痛みと痒みという肉体的苦しみに加え、最も親しい妻からの「神を呪って死になさい」という言葉という精神的な痛みにも直面しました。しかし彼は妻を非難することなく、思いやりを持って諭し、良いことも悪いことも主から受け取るという全き信頼をもって唇で罪を犯すことがありませんでした。サタンは今も私たちの最も親しい人を通して攻撃を仕掛けてきますが、私たちはイエス・キリストの血と証の言葉によって勝利することができます。地上で報われず、痛みの中にあったとしても、神様は私たちを見捨てず、最善以上の祝福へと導いておられます。ヨブに倣い、誠実を貫き、唇で罪を犯さない歩みをしていきましょう。
極限的な悲劇のどん底で主を最高にほめたたえたヨブ(ヨブ1:13-22)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2026-8-17 12:50
極限的な悲劇のどん底で主を最高にほめたたえたヨブ(ヨブ1:13-22)
メッセージ音声
【概要】
ヨブは一日にして財産と十人の子供すべてを失うという悲劇に見舞われます。しかし、その絶望的な状況下で彼は神を呪うどころか、地にひれ伏して「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と礼拝しました。
【聖書箇所】
ヨブ1:13-22
黙示録13:13
ヨハネ14:27
【慰めの言葉】
イエス様を信じているなら、この世の何物にも揺るがされない平安を得ることができます。どんな災いが起ころうとも、決して平安を失うことはありません。
【励ましの言葉】
私たちの本性が礼拝者であるならば、悪魔サタンの試練は、私たちの本性を明らかにし、神の栄光を現す機会となります。主ご自身が私たちの財産であるなら、何が起ころうとも決して失われない祝福の源を持ち続けることができます。
【勧めの言葉】
人生のハイライトをこの世の飲み食いではなく、主と共に歩み、主を礼拝することに置きましょう。そして、子供たちが自分自身の信仰でしっかりと立てるように、信仰において自立するよう育てていきましょう。
【***詳細***】
ハレルヤ、素晴らしい主の御名を褒め称え、賛美いたします。ヨブ記の学びを続けます。前回、私たちは天の裏舞台、天上での会議を見ました。そこに神の子らと共にサタンも来て、神様にこう言いました。「ヨブがあなたを恐れるのは、あなたが祝福を与えているからだ。その囲いを取り上げてごらんなさい。そうすれば彼は本性を現してあなたを呪うでしょう」。サタンは理由もなくヨブを試そうとしたのです。もちろん、ヨブ自身はこの天上での会話を一切知りません。
しかし、今日の箇所でヨブは、このサタンの告発に対して明確な答えを出します。神様が祝福の囲いを取り去ったとしても、それでもなお神様を礼拝するという答えです。天上の会議で決まったことが、地上において現実となり、ヨブに降りかかってきます。
ヨブにとっては、いつもと変わらない一日が始まりました。しかし、その一日のうちに、嵐のような災いが次々と彼を襲います。
13節から見ていきましょう。「ある日、彼の息子、娘たちが一番上の兄の家で食べたり、ぶどう酒を飲んだりしていた時、一人の使者がヨブのところにやって来て言った。『牛が耕し、そのそばでロバが草を食べていると、シェバ人が襲いかかってこれを奪い取り、若い者たちを剣の刃で撃ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」
最初の災いはシェバ人という、人間の悪意によるものでした。人の欲望や悪意を、サタンは利用して人に災いを下すことがあります。私たちは悪意を持ってはなりません。悪意を持つとき、そこにサタンが働き、悪魔に加担することになってしまいます。サタンは天上会議から出て行くと、早速この人の悪意に手をつけてヨブを打ったのです。
「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『神の火が天から下って、羊と若い者たちを焼き滅ぼしました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」(ヨブ1:16)。
二番目の災いは「神の火」です。「神」と訳されているヘブライ語は「エロヒム」ですが、これは唯一の神様を指すこともあれば、天使たちのような崇高なる存在を指すこともあります。天上会議に集まった「神の子ら(ベン・ハ・エロヒム)」の中にはサタンも紛れ込んでいました。つまり、この火はサタン由来の火です。黙示録13章13節にも、獣が天から火を降らすしるしを行うと書かれているように、サタンは神を装って人を惑わすことがあるのです。
「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『カルデア人が三組になってラクダを襲い、これを奪い取り、若い者たちを剣の刃で撃ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」(ヨブ1:17)。
ここでもカルデア人という、人の悪意が用いられました。そして、最も辛い一撃がヨブに下されます。
「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『あなたのご子息ご令嬢たちは、一番上のお兄さんの家で食べたり、ぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野の方から大風が吹いてきて、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、皆様亡くなられました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」(ヨブ1:18-19)。
なんと、ヨブは十人の息子と三人の娘たちを、一日にして、一度に失ってしまったのです。しかも、子どもたちが長男の家で宴会を開き、食べたり飲んだりしている、その真っ最中の出来事でした。これはヨブにとって、あまりにも辛い知らせでした。
この子供たちは、父親であるヨブの守り、つまり「主の囲い」の外側にいたのかもしれません。彼らの人生のハイライトは、互いに行き来して食事をし、ぶどう酒を飲むことでした。私たちの人生のハイライトは何でしょうか。この世の飲み食いではなく、「主に仕えた」という一行が刻まれる者でありたいものです。主の囲いの内側にいる人は、主と共に歩むことを喜びとします。
サタンは神様に「あなたが(ヨブの)周りに囲いを設けたではありませんか」と言いました。そして神様はサタンに「彼のものには手を出してよいが、彼自身にだけは手を触れてはならない」と言われました。ヨブ自身にはまだ主の囲いがあったのです。しかし、残念ながら、彼の子供たちにはそれがありませんでした。北王国のヤロブアム王の物語を思い出します。彼は偶像礼拝に走りましたが、息子のアビアだけは「良いものがあった」と認められ、父の王国が滅びる前に天に召され、王の子としてきちんと葬られました。しかし他の子供たちは悲惨な死を遂げました。私たちは、子どもたちがダニエルやその友人たちのように、またルツやエステルのように、自分自身の信仰でしっかりと立てるように育てていく責任があります。
さて、すべてを失ったその瞬間、ヨブはどうしたでしょうか。
「この時、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、」(ヨブ1:20)。
上着を引き裂き、頭を剃ることは、当時、最も深い悲しみを表す行為でした。ヨブは本気で悲しんだのです。悲しむことは不信仰ではありません。イエス様もラザロが死んだ時、涙を流されました。信仰とは、悲しまないふりをすることではなく、悲しみのただ中にあっても、神様に心を向け続けることです。
しかし、ヨブは悲しみだけで終わりませんでした。彼は悲しみの底で、「地にひれ伏して礼拝した」のです。ここに、ヨブの最も深い本能が、呪いではなく「礼拝」であったことが現れています。人は、いざという時に本性が現れます。ヨブの本性は礼拝者でした。悪魔サタンの試練は、私たちの本性を明らかにします。いざという時、呪いやつぶやきではなく、礼拝が出てくる者でありましょう。
さらに彼はこう言いました。「『私は裸で母の胎から出てきた。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」(ヨブ1:21)。
ヨブは、自分は何も所有していなかったこと、財産も健康も家族も、すべては神様からの預かり物に過ぎなかったことを告白しました。だから、主がその囲いを取り上げたとしても、つぶやくことなく、「主の御名はほむべきかな」と賛美したのです。ヘブライ語の原文では「メボラク」という、祝福するという意味の言葉の最も強い強調形が使われています。これは、口先だけの言葉ではなく、心の底からの絶叫としての賛美でした。サタンは「囲いを取れば、彼はあなたを呪うでしょう」と軽々しく言いましたが、ヨブの本気の賛美は、サタンの面目を完全に失わせたのです。
「これらすべてのことにおいても、ヨブは罪を犯すことなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。」(ヨブ1:22)。ヨブにとって本当の財産は、牛や羊ではなく、主ご自身だったのです。私たちも、主ご自身を自分の財産とするなら、たとえ地上のものを失ったとしても、祝福の源であるお方ご自身を失うことは決してありません。
今日賛美した「静けき川の岸辺を」の作詞者、ホレイショ・スパフォードも、ヨブのような経験をした人です。19世紀アメリカの成功した弁護士で、熱心なクリスチャンでしたが、一人息子を病で失い、シカゴの大火で全財産を失いました。心を癒すためのヨーロッパ旅行の直前、仕事で家族を先に行かせたところ、妻と4人の娘たちが乗った船が大西洋で沈没。娘たちは全員亡くなり、妻だけが助かりました。妻からの「私だけが助かりました」という電報を受け、彼はすぐに後を追います。その航海の途中、船長が彼を呼び、「今、あなたの娘さんたちが沈んだ海域の真上を通過しています」と告げました。彼は暗い海を見つめ悲しみますが、不思議と心は平安でした。彼は「いや、娘たちは下にいるのではない、上にいるのだ」と感じ、その平安の中で、あの有名な賛美歌の歌詞 "It is well with my soul" (わが魂には幸あれ) を書いたのです。たとえサタンが群がり襲ってきても、心は安らかである、と。
スパフォードもヨブも、すべてを失ったように見えましたが、キリストご自身、主ご自身を持っていました。だからこそ、すべてを失ってもなお、主を礼拝できたのです。これは彼らだけの特権ではありません。イエス様を信じている皆さん自身の特権でもあります。イエス様を持っているなら、この世の何ものにも揺るがされない平安を得ることができるのです。
イエス様は言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと同じようではありません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れひるんではなりません。」(ヨハネ14:27)。
イエス様こそが、決して失われることのない平安の源です。このお方をしっかりと握りしめているなら、どんな災いが来ようとも、平安を失うことはありません。
【結論】
ヨブの試練は、彼の信仰が神からの祝福という見返り目当てのものではなく、神ご自身に向けられた本物のものであることを証明しました。彼はすべてを失った悲しみのどん底で、呪いではなく礼拝を選び、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白しました。これは、彼の本当の財産が主ご自身であったからです。私たちも、イエス・キリストという決して失われない平安の源を持つ者として、どんな状況でも主を礼拝し、その御名をほめたたえる者でありましょう。
天上の裏舞台 大公開(ヨブ記1:1-12)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記の本題が始まり、ヨブという人物の人となり、その子どもたちの様子、そして人間には見えない天上会議の場面が語られる。神様がヨブの周りに信仰ゆえの「垣(囲い)」を巡らせて守られたこと、サタンの訴えとその限界について語られ、私たちを本当に守るのは信仰であり、主ご自身が私たちの報酬であることが説かれた。
【聖書箇所】
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ヨブ1:1-11
-
ヨブ1:9
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ヨブ1:11-12
-
Iペテロ1:5
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創世記3章
【励ましの言葉】
神を恐れ、悪から遠ざかろうと努める者は、ますます神様から喜ばれる者へと成長していく。本当に信仰をしっかりと握りしめるならば、神様から自慢されるものになる。皆さん自身も、この夜のごとくしっかりと信仰を自分自身で保ち、また子どもたちに信仰を受け継いでいこう。
【勧めの言葉】
とりなしの祈りだけでなく、先手を打って子どもたちに主を恐れることを教え諭すことが大切である。どうかこの主を報酬とし、主によって祝福の人生を歩んでいく皆さんでありますように。子ども自身が信仰によって独り立ちするまで教育すること、これが私たちの務めである。
【慰めの言葉】
信仰によって、神の御力によって私たちは悪魔サタンの手から守られている。神様は皆さん一人一人の小さな歩みを天から見ておられ、天上会議において列席している者たちに自慢してくださる。主が皆さんの報酬であるならば、皆さんは主の囲いの中で守られ、決して悪魔にタッチされることはない。
【戒めの言葉】
私たちも気をつけるべきである。皆さんは何故に神様を敬っているだろうか。財産が守られるから、祝福されるから、ということであれば、そこがサタンがつけ込んでくるポイントである。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記1章1節から11節です。本日からヨブ記の本題に入っていきたいと思います。
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて、悪から遠ざかっていた。彼に7人の息子と3人の娘が生まれた。彼は羊7000匹、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ろば500頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった。」
今朝もこのヨブ記から恵みをいただいていきたいと思うのですが、まずこのヨブ記の始まりにヨブの人となりが記されております。ヨブという人がいた。誠実でまっすぐな心を持っていて、神を恐れて悪から遠ざかっていたというふうに書いてあるのですが、ヘブライ語ではbe動詞「ハヤー」があるのですが、これは「であった」とも訳せますが、それと同時に「こういう人になった」というふうにも訳せるのです。ですから、ヨブは生まれつき誠実で、神を恐れてまっすぐな心ということではなく、こういうふうになっていったわけです。ヨブ自身が神様を恐れる心を持とうと努めていたところ、ますます誠実になり、ますますまっすぐな心になり、ますます悪から遠ざかりたくなっていった。そうしてついにはそういうふうになっていった。ですから、未完成において清く、また悪から遠ざかろうと努力していく人はそういうふうになっていって、そして神様は喜ぶ。そういうものになったのです。神様は天上会議によってヨブを自慢するのですが、皆さんも本当にこの神様を敬う心、恐れる心、これをしっかりと握りしめて、ますます神様から喜ばれていく皆さんであってほしいのです。
このヨブ、物質的に非常に祝福されておりまして、彼は東の人々の中で一番の有力者であったというふうに書いてあります。ですから、神様を恐れ敬う人になればなっていくほど、神様から喜ばれる。物質面においても祝福されていく人になっていきます。
さらに4節、5節にこの彼の息子たち、子どもたちの人となりについて記されているのですが、4節、「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の順番の日に家で宴会を開き、人を遣わして彼らの3人の姉妹も招き、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。」
このヨブの子どもたちについて、この一節に記されているのですが、聖書という永遠の書物に記された彼らの生涯を1行であらわすハイライトは何だったか。それは、互いに行き来していた、誕生日に宴会を開いて、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。・・・これが、この子どもたちについての人生のハイライトです。皆さんが永遠の書物に記される皆さんの人生のハイライトは、一行で記すなら、何になるでしょうか。ある人の人生のハイライトは「親がお金持ちだった。自分の誕生日に年に何度も宴会を開いて、よく飲んだり食べたりしていた」というこの一行しか記されない人生になってしまうかもしれません。皆さんはそうならないでほしいのです。ここにいる皆さんは本当に日々、礼拝して、神様を恐れ敬って、神様のために働いた、そのように記されるのが、ここにいる皆さんだと思います。でも、ある人にとっては、永遠の書物に記されるのがただ飲み食いした、というだけで終わる人も、またいるわけです。
さらに続きを見ますと、この子どもたちの人となりがさらに伺えるのですが、「宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人一人のためにそれぞれの全焼のささげ物をささげたのである。ヨブは『もしかすると息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」
父親であるヨブは子どもたちのためにとりなし祈りました。とりなし、これはとても素晴らしい性質です。事実、ヨブはこのとりなしの性質のゆえに、最終章において祝福されたのです。友人たちのためにとりなしに立った結果、神様が彼の祝福を戻して、以前の人生の2倍祝福されたと書いてあります。皆さんも本当に相手が誰であれとりなす心、これを持つならば、それは祝福される性質です。
父親ヨブはこの息子たちについて、ある種の恐れがあったのです。もしかしたら罪に陥って心の中で神を呪ったかもしれない。ヨブは何の根拠もなくこういうふうに言ったわけではないと思います。そういう節が子どもたちにあったからなのでしょう。それでそういうふうに祈ったのですが、これは後手に回る祈りです。先手を打つ対応ではなく、後手に回るのです。先手を打つというのは、もうこの息子たちがそういう罪に陥らないように、しっかりと神様を恐れ敬う心を持って諭して教育するべきです。子どもたちにはしっかりと主を恐れ敬うということ。そしてまた、もし罪を犯したのであるならば、お父さんが祈るのではなく、むしろ本人自身がしっかりと罪を悔いて、改めて主を恐れる歩みをもってこそ、悪魔サタンにタッチされない、しっかりと災いの日に守られる、そういう性質をしっかりと身につけられるのだよということを子どもたちに教えるべきです。けれどもヨブはそういうことを教えたとは書いておらず、「息子たちがもしかしたら心の中で神を呪ったかもしれない」から全焼のいけにえをささげたというふうに書いてあります。
そんなこんなしているある日、1章6節を見ますと場面が変わります。私たち人間には計り知れない天の情景が書かれてあるのです。天における舞台裏。私たちの目に見える舞台表に対して、真理の世界の舞台裏があるのです。ヨブ記、誰が書いたのかは不明ですけれども、しかし神様からの啓示を得て書かれたこのヨブ記には、しっかりとこの舞台裏にはこういう背景があるのだよということがあるのです。その天の舞台裏においては、天で開かれる天上会議の情景が公開されております。
そして、ここに集うのは、6節を見ますと、「ある日、神の子らがやってきて、主の前に立った。サタンもやってきて、彼らの中にいた。」と書いてあります。驚くべきことに、この天の会議に集うのは、まず神の子ら、ヘブライ語で「ベネー・ハーエロヒム」、神の子たちという表現がされております。御使いであったり、また天的な、霊的な存在であったり、人間ではないそういう存在たち、それと同時にサタンもそこに来ているのです。
サタンは勝手にこの天の会議に乱入したのではありません。ダンテの神曲という作品においては、悪魔が勝手に神のその会議に乱入して、神様に挑戦状を叩きつけるような、神様がこのサタンの挑発にのったかのような、そういう表現があるのですが、実際の真理の世界はそういうことではありません。この悪魔サタンさえも、神様の許可なしにはこの天上会議に入ることはできませんし、また、この神様とサタンの力関係、勢力図、それは全くもって月とスッポン以上の差があります。夜中の映画とか漫画などではサタンとか悪魔が何か神様と対等な戦力を持っていて、あたかもサタンにも神様に匹敵するような力があるように描かれたりすることが多いのですが、それは真理においては誤りです。サタンはもう神様の使いであるミカエルにさえも勝てないその程度の力であり、神様はお言葉一つでその悪魔の手足をもぎ取ってしまうぐらいの力があります。
創世記3章において、神様が蛇を呪った時、蛇はそれまで手足があったようですが、「お前はもう腹ばいで、一生、塵を食べ物にしなくてはならない」。ですから、神様はお言葉一つで悪魔をいくらでもなぎ倒すことができるのですが、しかしあいにく人間が自由意志でもって、悪魔サタンの言葉の方を選んでしまったから、だからあえて今悪魔サタンを生かされていて、この人間が一体どちらを選ぶか、そのために時が定まった時に至るまで、悪魔サタンを泳がされているに過ぎないのです。
本当に私たちは「神様、なんで悪魔サタンを一気にやっつけないのか」と思うかもしれないのですが、そうはいかないのです。もしある夫婦がいて、奥さんの方が旦那さんを裏切って別の男に走った。旦那さんの方はとても力があって、その裏切った男をいくらでもいつでもやっつけることができるけれども、じゃあだからといって、その力ある旦那さんが、その裏切った奥さんとまたその間男をすぐにやっつけたら、それで解決するでしょうか。そうではないのです。奥さんを取り戻すためには、奥さん自身の自由意志で間男を選ぶか、それとも自分を選ぶか、あえて泳がせなくてはならないのです。その奥さんが自由意志でもって旦那である自分を選んだならば、それで大解決。けれどももし間男の方を選んでしまったら、間男とともに滅びることになります。
神様は私たちに一体どっちを選ぶか、サタンの言葉を選んで神様を捨てるのか、それとも神様を選ぶのか、真の主人として一体どっちをあなたは選ぶのか。それを選ばせるために、あえて泳がされているのです。悪魔サタンはそれに過ぎないのです。この悪魔サタンは呪われて、そして地を這いずり回って、地を行き巡って歩き回る、そういう存在にならされました。「主はサタンに言われた。『お前はどこから来たのか。』サタンは主に答えた。『地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。』」
創世記3章以降、悪魔サタンはこの地を行き巡る存在、全知全能ではないのです。創世記3章において、蛇は塵を食い物にしていくようになりましたが、私たち人間の組成はもともと塵です。神の息がない人間は塵に過ぎませんし、蛇の獲物にされる存在でしかありません。けれども、私たち人間、いかに塵というものでも、イエス様を信じて神の子になるのであるならば、神様がその人間をその信仰のゆえに守って、そして一切悪魔サタンが囲いを越えられないように、神様が悪魔サタンがタッチできないように囲いを置いて、私たちを守ってくださるのです。
冒頭で宣言したIペテロ1章5節ですが、「あなたがたは信仰により、神の御力によって守られており」というふうに書いてあります。信仰によって神の力によって守られると書いてあります。悪魔サタンの力から守るドアバリアは、信仰です。信仰によって皆さんは悪魔サタンから守られます。
そしてこの悪魔サタンは地を這いずり回って、兄弟姉妹を訴える者なのです。
8節の方を見ますと、「主はサタンに仰せられた。『お前はわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は地上に一人もいない。』」ここで会話を切り出したのはサタンの方でなく、神様の方からでした。神様はこのヨブについて自慢話をまず切り出したのです。悪魔サタンに「お前、ヨブを見たか」、まるで親が我が子を自慢するかのように「見たか、ヨブを」というふうに。
皆さん自身も、皆さん一人一人の信仰を神様が見ておられます。皆さんが本当に信仰において凛々しく立った時、神様は天から「見たか」「見たか」というふうに、皆さんのことを神様から言われるようになってください。本当に信仰をしっかりと握りしめてあげるならば、神様から自慢されるものになります。その皆さん一人一人の小さな歩みを天から見ておられ、天上会議において、そこに列席している一員たちに自慢してくださるんですね。
9節を見ますと、「サタンは主に答えた。『ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。あなたが彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに垣を巡らせたではありませんか。あなたが彼の手の業を祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです』」(ヨブ1:9)とあります。
サタンは日夜、兄弟姉妹を訴える者です。サタンはこう告発しました。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか」。ですからサタンの主張はこうです。「ヨブが神を恐れているのは、あなたが祝福をしてくださっているからじゃないですか。ヨブがあなたを拝んでいるのは、ただ単に祝福が欲しいから。財産だとか健康だとか、それが増し加えられたいから、ただそれだけで神様を恐れ敬っているんじゃないですか」。「あなたがその垣を取り除いてください。そうすれば、果たしてヨブがあなたを恐れ敬うかどうか、それを知ることができますよ」というふうに訴えるんですね。
このサタンは、「あなたが彼の周り、彼の家の周り、彼の財産の周りに垣を巡らされた」というふうに、3回も繰り返して言っています。この「垣」、原語ではヘブライ語で「スーク」と言います。コーエンでは「アドナイ・シュク・バラク」の法則というふうに学びました。神様がその家と持ち物と財産に、くまなくこの垣を巡らしてくださって、だからサタンは手出しができなかった。信仰ゆえに、神様が彼に垣を巡らしたのです。
ですから、サタンが訴えるのはお門違いです。ヨブの信仰のゆえに神様が垣を巡らされたのに、それを持っているから「ヨブはあなたを敬っている」と言うんですね。本当に私たちも気をつけるべきです。皆さんは何故に神様を敬っているでしょうか。財産が守られるから、祝福されるからということ、そこがサタンがついてくるポイントです。けれどもヨブは、本当にこの点で誤ってはいませんでした。
確かに神様は許可を下します。11節から見ますと、「しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと面と向かってあなたを呪うに違いありません。主はサタンに言われた。『では、彼の財産をすべてお前の手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない』。そこでサタンは主の前から出て行った」(ヨブ1:11-12)。
ここで神様はサタンの挑発に乗ったかのように見えますが、実は違うんですね。以前、ヨブ記のキアズム構造を見ました。最初と最後を見たところ、神様がこのヨブをより一層2倍に祝福され、そしてヨブが以前よりも神様と親しく親密に交わるようになる。その内容がこのヨブ記の真ん中にあったということを見ましたね。神様がこの悪魔サタンの挑発が悔しくて乗ったんじゃありません。ヨブをさらに立て上げるためです。サタンなんかなんとも思っていないんです。むしろヨブのことをより一層立て上げるために、サタンを道具として用いた。これが正しい構図ですね。
注目するべきなのは12節で、神様が一線を敷かれていることです。その一線というのは「ただし彼自身には手を伸ばしてはならない」と、しっかりとサタンに釘を刺しているところ。サタンは釘を刺される側、神様はこの悪魔サタンの行動に明確に境界線をびちっと敷くお方です。ですから私たちはこの神様の法則に守られています。これを神様の「サメク」の囲い守りと言います。サメクはこういう形をしている、円の形をしたヘブライ文字です。その囲い守りの中に、神様がしっかりと守っておられる。
ですから皆さん、いろいろなことが人生の中で起こるでしょう。「なんでこんなことが」と思っても、それもしっかりと神様の守り、囲いの中において守られていることであり、決して皆さんが悪魔サタンや、あるいは誰か悪意ある人間の好きにさせられること、その自由にさせられるものではありません。むしろその背後にしっかりと神様の境界線が敷かれていて、その境界以上にはその悪人もサタンも超えることができないものです。
結局、私たちを守るもの、それは信仰です。第一ペテロ1:5に「あなた方は信仰により神の御力によって守られており、終わりの時に表されるように用意されている救いをいただくのです」とあります。ヨブにはそれがありました。だから神様の囲いの中で守られておりました。
けれども、後になってわかるのは、ヨブの子どもたちにはその囲いがなかったことです。もし子どもたちの中の一人でもしっかりと信仰を持っている子どもがいたら、その子供は守られたことでしょう。けれども、あいにくこの時、子どもたちは全滅してしまいます。
イスラエルの王の中にヤロブアムという悪どい王がいます。神様から「もしあなたが神様の御教えを守るならば、ダビデに匹敵する祝福があなたのものになり、子孫は代々続くだろう」と言われていたにもかかわらず、彼は神様から離れて偶像礼拝を人々にさせてしまい、結局その子孫は絶たれてしまうんですけれども、このヤロブアムの子供の中で唯一アビヤという子だけはまともだったんですね。彼は王の子としてまともに葬られますが、他の子孫は野の犬に死体が食われるというような扱いを受けます。
いかに父親が悪くても、子供の中で信仰がまともな子供はしっかりと神様の目に留められて、神様の守りと祝福があるんですけれども、結局、人を本人自身を守るのは信仰なんですね、本当に。ですから、私たちの子供教育において、しっかりと本人自身が信仰によって独り立ちするまで教育するということ、これが私たちの務めです。皆さん一人一人も、本当にこの信仰を自分自身で保って、そしてまた子どもたちに信仰を受け継いでいきましょう。
今日の御言葉からわかること。ヨブ自身の信仰が元にあったからこそ、ヨブをこのように神様に自慢話をさせるまでになりました。どうか皆さん自身も、本当にこの神様を恐れる信仰を持ちましょう。神様こそが皆さんにとっての相続財産、皆さんにとってのお給料です。この神様を恐れ敬う人に与えられる祝福は非常に大きいものです。以前学んだ創世記15章で、アブラハムに対して「私があなたの盾である。あなたの甚だ大きい報酬は私自身だ」ということを見ましたけれども、主が皆さんの報酬です。この主が報酬であるのであるならば、皆さんは主の囲いの中で守られて、決して皆さんが悪魔にタッチされることはありません。どうかこの主を報酬とし、主によって祝福の人生を歩んでいく皆さんでありますように。
【結論】
ヨブは生まれつき完全な人だったのではなく、日々神を恐れ悪から離れようと努める中で誠実でまっすぐな人になっていきました。私たちも同じように、日々神様を恐れ敬う心を持ち続けることで、神様から喜ばれる者へと成長していくことができます。また、悪魔サタンは神様の許可なしには何もできない存在であり、信仰によって私たちは神の御力に守られています。神様は信仰を持つ者の周りに確かな「垣(囲い)」を巡らせて守ってくださり、サタンの訴えにはお門違いな面があることも示されました。私たちを本当に守るのは財産や環境ではなく、信仰そのものです。子どもたちに信仰を受け継がせる責任も含め、主ご自身を報酬として恐れ敬う信仰を持ち続け、恐れることなく主を選び続けていきましょう。
ヨブ記は難しい?難解?いいえ!(ヨブ記1:1)
メッセージ音声
概要
ヨブ記は難解で理不尽に思える書物だが、ヘブライ思考的に最初と最後を見比べる(キアズム)ことで、その真の結論が「神は慈愛に富み、憐れみに満ちておられる」ということだとわかる。人間の議論による崇高な言葉よりも、神との親密なとりなしの祈りこそが幸いへの道である。
聖書箇所
ヨブ1:1、ヨブ12:9、ヨブ42:17、ヤコブ5:11
慰めの言葉
神様は気まぐれに人に災いを起こすお方ではなく、私たちを憐れみ深く、忍耐深く、恵みを施そうとして待っておられる方である。
励ましの言葉
神様と喧嘩をしてでも親密に関わろうとすることは幸いなことである。神様から背を向け、無視して生きることこそが一番良くない。
勧めの言葉
聖書が分からない時は、まず最初と最後を読むこと。それでも分からなければコンテキスト(前後の節)、インターテキスト(前後の章)、インフラテキスト(他の書物)を見ること。
悔い改めの促しの言葉
人間の議論、崇高そうに見える言葉のやりとりの中にどれだけ忌まわしいものが潜んでいるかを、自分も含めて知り、悔い改めることに信仰の中心を置くべきである。
***詳細***
ヨブ記は擬人の苦難というテーマを扱った文献として知られています。ウィキペディアにもそう書いてありますが、一般的には難しい、崇高的な、哲学的なことが書かれていると思われがちです。でも皆さん、ヘブライ思考を学びましたね。ヘブライ思考で感じるのは、最初と最後のキアズムです。
ヨブ記の1章1節ではこう書いてあります。「この鬱(ウツ)の地にヨブという人がいた。この人は誠実で真っ直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」そしてヨブ記の最後、42章17節にはこう書いてあります。「こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。」
ここを見ますと、ヨブ記が理不尽なこと、不条理なことが書いてあるから好きだという人には、その考えは当てはまりません。最初はヨブが誠実で神を恐れて悪から離れていたこと、最後はヨブが満ち足りた生涯であったこと。その真ん中にサンドイッチされたのがヨブの苦難です。ヨブの人生からすれば、苦難の後にもう140年生きたのです。ヨブが苦難を受けたのは70歳の時だという人もいますが、そうだとすると210年も生きたことになり、しかもその大部分は幸せな人生だったということが分かります。
キム先生が言っていたのですが、聖書が分からなかったら、最初と最後を読みなさいということと、もう一つ、聖書の別の箇所を読むと分かりやすいということです。聖書本体はテキストと言いますが、それに関わる他のテキスト、一番身近な前後の節はコンテキストと言います。分からなかったらコンテキストを見なさい。それでも分からなかったらインターテキスト、章と章、前の章と後の章を見なさい。あるいはヨブ記の他の章を見なさい。それでも分からなかったらインフラテキスト、つまり他の書、新約と旧約をまたいで、それについての説明がどう書いてあるか見なさい。これがヘブライ思考的な聖書の見方です。答えは必ず書いてあると、キム先生も菅先生もおっしゃっていました。
このヨブ記に関してのインフラテキストが、冒頭で宣言したヤコブ書5章11節です。新約によって唯一ヨブについて言及されているのがそこです。そこにおけるヨブ記の結論はこう書いてあります。「見なさい、耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなた方はヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられます。」ヨブ記単体を見ますと、神様が恐ろしい、理不尽なことを仕掛けるんじゃないかと思う人が大勢いますが、聖書の結論は、神様はこのヨブを通して慈愛に富み、憐れみに満ちておられるお方だということです。
ヨブ記が難しく感じられる理由の一つは、3章から最後の章まで、詩文体という特別な文体で書かれているからです。詩篇と同じ文体です。詩篇は読んでいて感動し、共感しますね。しかしヨブ記は、同じ詩篇と同じ文体で書かれているにもかかわらず、感動する人はなかなかいません。感動どころか読んでいてうんざりしてくる人も多いかと思います。
詩篇の場合はそのまま読んでいて「ああ、共感できるな」と自分の祈りを重ねられますが、このヨブ記は詩文体で書かれてあって崇高そうなことが書かれています。この崇高な文体で書かれてある内容は、人間の知恵、人間の哲学、それに基づく議論なのです。もう一つ、うんざりする理由は、この詩文体で書かれてある部分において主の御名がほぼないことです。ヨブ記の3章から37章まで、この長い議論の中で主の御名がたった1回しか出てきません。それが出てくるのはヨブ記12章9節のヨブの言葉だけです。ですから皆さん、キリスト教会の中にいたとしても、主の御名がない人間的な哲学議論、難しい議論は人をうんざりさせるのです。
ヨブは創造主に対して、友人に対して詩文体を用いて崇高な言葉で、自分が正しい、主は間違ってる、友人たちお前たちの方が間違ってるんだと、議論で打ち負かそうとしているのです。もし皆さんがヨブのように、私は悪くない、創造主の方が悪いんだという祈りを延々としていると、怒りが積み重なって浸透していき、ついには圧倒的な力によって打ちのめされることになってしまいます。皆さんは詩篇のように、「主よ、あなたが主です、どうか私を憐れんでください」と祈るのであれば、詩篇が示す幸いに与ることができます。
このヨブ記の議論を読んでいくと、なぜキリスト者の中にもうんざりさせるような崇高な感じの人がいるのか、その正体が分かってきます。また、最初は素晴らしかったヨブが、友人たちとの議論を重ねていくうちに、だんだんくだらない土俵に落ち込んでいってしまう。義人をこんな風に貶めてしまう原因は何かも、このヨブ記から分かってきます。
しかも、この議論の中には主の御名は出てこないけれども、実際は全部見えているのです。ヨブが徐々にイエス様のような執り成し手を求めるかのような変化が見られてきます。「私には弁護士が必要だ、私を憐れんでくれる人が必要だ」と。そして主を求めるようになっていきますが、さらに友人たちの議論によって怒りがある時点で爆発し、今度は神様に対して喧嘩を吹きかけるようになっていくのです。でも喧嘩であろうとも、神様と親密に関わろうとすることが幸いなことです。神様に対して納得がいかなかったら、「なんでですか」と吹きかければいいのです。祈りの中で親密になっていけばいいのです。一番良くないのは、神様から背を向けて、神様を無視して、神様なしで別次元で生きることです。喧嘩でも神様と関わることは良いことです。どうせなら「神様、あなたを愛します、あなたに従います」と言えることが最も幸いです。
ヨブは非の打ち所がない、東の第一の信仰者であり、東の第一の祝福を受けた人でした。けれども災いを受けるようになっていきます。今の私たちだけでなく、古代の人々もこう考えていました。何か悪いことが起きるのは、その人が悪いことをしたからだ、罰が当たったんだ、因果応報だと。ヨブの友人たちもこぞってこの因果応報を主張し、「あなたは何か悪いことをしたからこういうことが起きたんだろう」と言い続けますが、ヨブは全くもって身に覚えがなかったのです。
このヨブ記の起承転結を見ますと、まず「起」の部分は1章と2章です。天上で会議が行われ、サタンも登場します。サタンはヨブについて「果たしてヨブは理由もなく神様を恐れているでしょうか」と疑問を投げかけます。「どうせヨブが神様を恐れているのは、あなたが祝福の囲いを置いているからじゃないですか」と。「一つヨブから、その加護を取ってごらんなさい。たちまちヨブはあなたを呪うでしょう」と。神様はそれを許可し、ヨブはたった1日にして全財産を失い、愛する子どもたちを失います。それでもヨブは一切神様を呪うようなことはしませんでした。ヨブの妻は「神を呪って死になさい」とまで言いますが、それでも呪わなかったのです。
「承」の部分は3章から31章、終わりなき論争のところです。友人たちは「お前は何か悪いことをしたから災いにあってるのだ」と言い続け、ヨブは「違う」と反論します。それが何巡もするうちにどんどん激しくなり、ついにヨブが切れてしまいます。正しかったヨブが「神様、あなたの方が間違ってる、私はあなたと議論したい」というふうになっていってしまうのです。人間だけの議論、いかに崇高そうな詩文体でつじつまが合っているように見えるものであっても、ヨブをこんな風に痛めつけて追い詰めてしまう力があります。ここにヨブ記の警告があるのです。
「転」は神様の登場です。神様がついに嵐の中からヨブに語りかけていきます。「私が地の基を据えた時、あなたは一体どこにいたのか。暁の星々が歌った時、お前はそこにいたのか」と、圧倒的な膨大な質問を投げかけていきます。神様はヨブの疑問に対して一切何も答えていません。ただ神様の圧倒的な臨在、力、その摂理の奥深さと力強さをただ示しただけでした。この神様の圧倒的な御業と支配、創造の素晴らしさの前に、ヨブの疑問はどんどん解けていきます。
「結」は42章です。ヨブはついに悔い改めて塵と灰の中にひれ伏します。そしてヨブの祝福が帰ってくるのですが、そのトリガーは、ヨブの悔い改めではなく、なんとヨブが自分を責め続けてきた友人たちのために執り成し祈ったその瞬間だったと書いてあるのです。私たちに必要なのは議論ではなく、執り成しです。これが祝福が帰ってくるコツだということも、ヨブ記が示すところです。
実際、ヨブは苦難のあと祝福されて、その祝福を140年も味わって満ち足りた生涯を送りました。ヨブ記の結論はヤコブ書にありました。「あなた方はヨブの忍耐のことを聞いております。主によってその結末を知っています。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられます。」確かに神様は恐ろしい形でヨブに現れました。けれども、主と本当に面と向かって出会ったヨブ、悔い改めたヨブ、自分をひどい目に遭わせた友人たちのために執り成した後に、主はこのように幸いを返してくださいました。
神様は皆さんに気まぐれに災いを起こすお方ではありません。ある人生の瞬間だけを切り取ってみると、神様が災いしか起こさないんじゃないかと思えることがあるかもしれませんが、神様は憐れみ深く、忍耐深く、恵みを施そうとして待っておられる方です。なぜ神様はヨブに災いを起こしたのか。それはさらなる幸いの深みにヨブを持っていくために、あえてサタンの言葉を許可し、ヨブをもっと深く神様と親密に交わらせ、もっと祝福の人生を送ってほしいから、あえて人生のある瞬間を切り取ってそうされたのです。
ヨブが受け取った本当の報酬は、持ち物が2倍になったということではありません。嵐の中から語りかけられた主との出会い、これが何よりの宝でした。生きた出会いによって、ヨブの人生観が変えられました。皆さんも主こそ宝です。主こそ皆さんの報酬です。皆さんは本当に主と親密に交わって、出会って、時には喧嘩をするのもいいでしょうが、主と仲良しで親密に交わって幸いなこれからを歩んでいく皆さんでありますように。
結論
ヨブ記は理解しにくく、辛い書物であるがゆえに、読みたくないと感じるクリスチャンも少なくありません。しかしこの書には、人間の議論の中にどれほど忌まわしいものが潜んでいるか、そして神様の恵み深さがどれほど大きいかが示されています。義人は一人もいない中で、私たちが正しく歩めるとすれば、それはすべて神様の備えによるものです。悔いる心を持ち、嫌な相手のためにさえ執り成し祈ることの幸いを、ヨブ記から学び取り、苦難のただ中にあっても、以前のものは過ぎ去り、新しくされるという素晴らしさに与ることができますように祈ります。
