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メッセージ - 伝道者の書カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
結局のところ、神を恐れその命令を守れ(伝道者の書12:9-14):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書12章9-14節を基に、知恵の真の源と、神を恐れ命令を守ることの重要性について説く。

【聖書箇所】

伝道者の書12章9-14節

【戒めの言葉】

知恵を持つだけでなく、それを実践することが重要である。

【勧めの言葉】

神を恐れ、その命令を守ることが人間にとって最も大切である。

【悔い改めの促しの言葉】

多くの知識を得ても、それを守り行わなければ意味がない。

【***詳細***】

今日、私たちが学ぶみ言葉は伝道者の書12章9節から14節です。この箇所は、ソロモンが書き残したものです。

ソロモンは知恵が与えられた人でした。人類で最も知恵が与えられたと言っても過言ではありません。彼は多くの箴言をまとめ上げました。聖書の中に箴言が記されていますが、ソロモンが本当にたくさんの知恵の言葉をまとめ上げました。その中に記されていることは本当にためになり、また人生の知恵で満ちています。それを守り行うならば、確かに成功して幸いを受けるでしょう。

しかし、知恵を持っているか、あるいは知恵の書を書き記したかどうかよりも、その知恵をその人本人も守って行ったかどうか、それが重要なのです。11節には「知恵あるものの言葉は牧畜のようなもの、編集されたものはよく打ち付けられた釘のようなものである。これらは一人の羊飼いによって与えられた。」と書かれています。

この「一人の羊飼い」とは、主なる神のことです。ダビデも「主は私の羊飼い」と言っています。この羊飼いが、ソロモンに知恵を与えたのです。ソロモン自身がいろいろ本を調べたり勉強したりして知恵を身につけたのではなく、主が誰にも勝る知恵を与えてくださったから、ソロモンはこのような知恵者となったのです。

私たちは、すべての知恵の源である主を求めるべきです。知恵と刑事の例は主から来るものです。そしてその知恵にあって、歩むもの、そして知恵が与えられたのであるならば、その知恵を用いて、確かに知恵を人に伝えること、それも重要です。でも、人に伝えても自分自身がその知恵に記されていることを守り行わないなら、一体何になるでしょうか。

ソロモンは知恵が与えられて、それを書き記して多くの人々に伝導しました。宣べ伝えました。でも結局のところ、彼は彼自身を救ったわけではありませんでした。12節には「我が子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには限りがない。多くのものに熱中すると体が疲れる。」と書かれています。

彼自身、多くの本を作りました。多くのものに熱中しました。でも結局それは彼自身の体を疲れさせるだけでした。神様抜きで、また御言葉を守り行うこと抜きでいろいろなことをしても、それはただただ体が疲れるだけなのです。御言葉を除いたところで空回りしてもどうしようもありません。

本当に滅びる人、あるいは幸いを得られない人の共通する特徴というのが、自分の中が忙しい、頭の中が自分の言いたいこと、自分の訴えたいことでいっぱいいっぱいの人です。そういう人は聞く耳を持たないのです。自分の口で何かを教えたい、自分で何か言いたい、自分で編み出したことを伝えたいという、そういうことだけで思いが塞がれて、唇からベラベラと出すのです。

そういう人は、御言葉が語られている時や、誰か人が話している時に、その話している言葉に耳を傾けません。むしろ思いの中でぐるぐる巡らして、それで、その話している人の話が途切れた途端、その自分の中に思い巡らしていたことをバーッとぶちまけるのです。

ソロモンはその羊飼いの声をないがしろにして、みことばが語られているとき、それを書き記して、本にして、編集するということをしました。確かに与えられた恵みを書き記すことは良いことですが、でも、その聞いている時間を紛らわすために書いているような人もまたいるのです。与えられた言葉「ああ、ありがたい、ありがたい」と言ってノートに書き記しはするのですが、でも翌日たっても、その翌々日になっても、その書き記された言葉を思い出すことなく、もう書き記したら、もうページの狭間に埋もれさせるだけで、そういう人は本当に災いが多いものです。

皆さん、どうかそのようなものにならないで、書き記されているみ言葉はしっかりと守り行うこと、それにて幸いを得るべきです。ソロモンは結論として言います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

結局のところ、多くの書物を書き記すことはただ疲れるだけです。むしろ、書き記すことよりも、守り行うことをしなさいということが肝心です。ソロモン自身、本当に書き記してきた、また多くの知恵を人々に伝えた。それだけでは、ただ単に疲れるのです。むしろ自分自身が神様を恐れて神様の命令を守り行うことが大切なのです。

教会においては、もう耳にタコができるほど聞いてきたことですね。神様の命令を聞いて守り行いなさい。旧約聖書にも何度も何度も耳にタコができるほど書いてあることですが、でも人は何かと、もう耳にタコができることほど守り行うということをしないのです。そういう性質があるのか、それとも神様の命令を守り行うことが、よっぽど耳にタコができるほど言っても言っても聞かない性質が人間にあるのか。とにかく幸いの法則、それは主のみ言葉を聞いて守り行うことであるのですが、でもそれをしないのです。

【結論】

皆さん、どうか守り行ってください。神様を恐れ、敬い、御言葉に記されていることを守り行うならば、皆さんは幸いを得ます。ソロモンは本当に多くの箴言や、また知恵の言葉を記してきました。皆さんも多くのことを記したりするでしょう。でもそれも確かにある程度は有益ですが、最も大事なのは、皆さんの心の板に書き記して、それを守り行うことです。紙のノートに書くよりも、皆さん自身の心の板に記して、そして皆さん自身が御言葉を守り行うということ、これを実践すること、これがすべてのすべてです。どうか皆さんはこの幸いの法則、御言葉を聞いて守り行うということ、もうこの聖書には何度も何度も記されていることをしっかりと守って、そして幸いの人生を歩んでいく皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
衰えて行く世の人、新しくされていく神の国の人(伝道者の書12:1-8):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書12章1節から8節を通して、若い日に創造者を覚えることの重要性と、年老いることの意味を考察し、キリストにある希望を説く。

【聖書箇所】

伝道者の書12章1節から8節

【慰めの言葉】

「イエス・キリストにある人は死んだ後、復活して新しい体が与えられる。」

【励ましの言葉】

「主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように翼をかって登ることができる。」

【戒めの言葉】

「若い日にあなたの創造者を覚えよ。」

【勧めの言葉】

「この地上のものを思うべきではなく、むしろ天のものを思うべきです。」

【悔い改めの促しの言葉】

「自分の唇がどれだけ悪しきものかを認識し、主の前で改めるべきです。」

【***詳細***】

今日の御言葉は伝道者の書12章1節から8節です。「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」とあります。年を取ると、目がかすみ、耳が遠くなり、力が衰えていくことが記されています。ソロモンは、老いを迎える前に創造者を覚えることを勧めています。年を取ると、人生の経験が増し、それに対する信頼が増してしまうため、福音を受け入れにくくなる傾向があります。だからこそ、若い日に福音をしっかりと受け入れることが重要です。

しかし、キリストにある者は、年を取ることを恐れる必要はありません。イエス・キリストにある人は、死んだ後に復活し、新しい体が与えられるという希望があります。パウロは第二コリントの手紙で、「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても、神のくださる建物があることを私たちは知っています」と述べています。この地上の肉体は衰えていくものですが、天において新しい体が与えられるという希望があります。

イザヤ書40章には、「主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように翼をかって登ることができる」とあります。わしは40歳で転機を迎え、くちばしや爪を新しくし、再び力強く飛ぶことができるようになります。私たちも、古い自分を脱ぎ捨て、新しくされる必要があります。まずは言葉を新たにし、主を賛美し、御言葉を語る唇をいただきましょう。

この地上の幕屋はやがて廃れていきますが、私たちは天において新しい体が与えられるという希望を持っています。ソロモンは「すべては空」と言いましたが、キリスト者は希望を持ち続けることができます。イエス様の愛によって、私たちは日々新たにされ、若々しくされていきます。

【結論】

私たちはこの地上のものに囚われることなく、天のものを思い、日々新たにされることを求めましょう。イエス・キリストの愛によって、私たちは希望を持ち続け、若々しくされていくことができます。主の御名によって祝福し、お祈りいたします。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
若さも青春もむなしい(伝道者の書11:7-10):右クリックで保存

【概要】

この説教では、伝道者の書11章7節から10節と第二ペテロの書を通して、人生の儚さと虚しさ、そして真の救いの光であるイエス・キリストの御言葉の大切さについて説きます。

【聖書箇所】

・伝道者の書 11章7-10節

「光は快い。太陽を見ることは目のために良い。人は長く生きて楽しむが良い。しかし、闇の日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることは皆むなしい。若い男よ、若いうちに楽しめ、若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の赴くまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべてのことにおいて、あなたは神の裁きを受けることを知っておけ…」

・第二ペテロの書 3章10-14節

「しかし、主の日は盗人のようにやってくる。その日には、天は大きな響きを立てて消え失せ、天の晩鐘は焼け崩れ、地とその中の悪い行いは焼き尽くされる…」

【慰めの言葉】

どんなにこの世の栄華や快楽が一時的であっても、神の絶え間ない恵みと忍耐が私たちと共にあり、どんな試練も主の愛の中で癒されるという慰めがあります。

【励ましの言葉】

暗闇の日々が訪れても、私たちは必ず「世の光」であるイエス・キリストに立ち返り、その御言葉に従うことで、力と希望を新たにすることができます。

【戒めの言葉】

ソロモンが若い頃は神を敬い知恵も授かったのに、やがて世の虚栄に流され、最終的にむなしい人生に陥ったことを思い起こしましょう。私たちは、富や名声、享楽などに溺れることなく、常に神の御前に心を向けるべきです。

【勧めの言葉】

毎日の生活の中で、聖書の御言葉を灯火のように胸に抱き、その光で自らの内なる闇を照らし出すよう努めましょう。御言葉に忠実に従い、互いに励まし合いながら歩むことが、私たちに永遠の命への確かな道を示します。

【悔い改めの促しの言葉】

もし、過去に自己中心的な欲望や虚栄に走り、神から離れてしまったと感じるならば、今こそ心を入れ替え、真摯に悔い改め、再び主の御導きを求める時です。過去の過ちを認め、神の恵みに立ち返ることで、新たな希望と祝福が授けられることを信じましょう。

【***詳細***】

本日の御言葉は、伝道者の書11章7節から10節にある「光は快い。太陽を見ることは目のために良い」という箇所に始まります。ソロモンは、若き日々の享楽を肯定しつつも、人生には必ず闇の日が訪れるという現実をも強調しています。私たちは、日常の中で感じる一瞬の喜びや享楽に溺れることなく、常に「すべての行いは神の裁きを受ける」という厳粛な警告を胸に留めなければなりません。いかに美しい日差しも、一方では影となり、やがては消え去るように、この世の栄華もまた一時的でむなしいものに過ぎないのです。

しかし、第二ペテロの書3章10節からは、すべての造られたものがいつかは焼き尽くされ、新しい天と新しい地へと移り変わるという希望の約束が示されています。「主の日は盗人のようにやってくる」という言葉は、私たちの予測を超える神の計画と、その日が現実のものであることを迫真の面持ちで伝えているのです。天が大きな響きを立てて消え、天の晩鐘が焼け崩れるといった描写は、いかにこの現世の物事が儚く滅びゆくかを示しています。それと同時に、私たちがどんなに世俗的な成功や快楽を追い求めても、永遠に続くものではなく、むなしい結果に終わるという戒めが込められています。

ここで私たちが見失ってはならないのは、たとえこの世のすべてがむなしいものであっても、神の御心にのっとって歩むならば、必ずや永遠の命と救いが与えられるという真実です。イエス・キリストこそが「世の光」であり、その光が私たちの暗い心を照らし、真実の知恵と力を授けるのです。イエスが、自ら「私が世の光である」と宣言されたとき、彼は単に物理的な光を示しているのではなく、霊的な闇に閉ざされた心に希望と救いをもたらす絶対の真実を語っておられました。盲目であった者がイエスの御手によって見えるようになったように、私たちもまた、内にある霊的な盲目を打ち破り、真実の光に導かれることが求められているのです。

ソロモンは若い頃、神を心から敬い、知恵と栄光に恵まれました。しかし、時の流れとともにその心は世の虚栄に引きずられ、偶像崇拝や不義な快楽の道に走ってしまいました。その結果、彼が追い求めた富や権力、名声、それに華やかな生活は、晩年にはむなしいものへと変わってしまったのです。これは、私たちが日々選択の岐路に立たされたとき、どれほど一時の快楽に惑わされる危険があるかを示す重い戒めです。同時に、神はそのような過ちを悔い改める者に対して、忍耐と寛大な救いの手を差し伸べてくださることもまた、聖書は教えています。

さらに、第二ペテロは「主の忍耐は救いである」と語り、どんな迫害や試練の中にあっても、神が与える忍耐こそが私たちに真の救いと力を与えると強調しています。迫害に耐え、困難な状況の中であっても、私たち一人一人が神の御言葉を信じ、正しい歩みを続けるならば、神はその忍耐力と知恵をもって私たちを支え、あらゆる苦難を乗り越える力を与えてくださるのです。私たちは自らの力では到底及ばない大いなる試練に直面するかもしれませんが、主の恵みの中にあれば、真実の光が常に道を照らしてくださいます。

また、御言葉は私たちに、光としてのイエスを掲げ、その光で悪しきものすべてを打ち砕くようにと呼びかけています。たとえ敵がどれほど多く、力強くとも、正しい信仰と真実の言葉があれば、悪は必ず自ら滅んでいくのです。イエス・キリストの御名の下に、互いに励まし合い、御言葉を絶えず伝えることによって、私たちは闇に飲み込まれることなく、永遠の救いへと歩むことができるのです。

このように、伝道者の書と第二ペテロの書が教えるのは、世の栄華や快楽は一時的であり、最終的にはむなしいものであるという厳しい現実と、それに対抗する真実の光、すなわちイエス・キリストが与える永遠の希望です。私たちは日々、神の御言葉を心に刻み、過ぎ去るこの世のものに心を奪われず、常に永遠の命へと向かう歩みを続けなければなりません。悔い改めと戒めを忘れず、互いに励まし合いながら、主の忍耐と恵みを受けて、この短い地上生活の中で確かな光を輝かせる者となるよう努めましょう。

【結論】

この世の享楽や栄華に酔いしれることなく、私たちは常に「世の光」であるイエス・キリストの御言葉に導かれて歩むべきです。日々の生活の中で悔い改め、戒めに耳を傾けながら、神の恵みと忍耐にすがり、永遠の命への確かな道を進んでいくことを、心より願います。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
運は制御する事が可能である(伝道者の書11:1-6):右クリックで保存

【概要】

本日の御言葉は、伝道者の書11章1節から6節の知恵と、私たちが日々歩む信仰生活における投資と備えについての御教えです。神様の導きに応じ、御言葉に従って歩むことの大切さをお伝えいたします。

【聖書箇所】

・伝道者の書 11章1節〜6節

・申命記 11章8節〜

・(最後に)主の祈り

【慰めの言葉】

どんなに私たちが不安や試練に直面しても、主は私たち一人ひとりの歩みを見守り、恵みと祝福を賜ってくださいます。

【励ましの言葉】

一見無駄に見える努力や投資も、信仰をもって続けるならば、やがて豊かな実りとなって現れると、神はお約束くださいました。

【戒めの言葉】

人間の知恵に頼り、偶然やリスク分散だけに心を奪われるならば、神様の御業を見失う危険があります。神の導きを無視することは、霊的な大罪に他なりません。

【勧めの言葉】

毎日の生活の中で、御言葉の種を惜しみなく蒔き、日々の小さな努力を通して神様の御恵みにあずかるよう努めましょう。家族や隣人に対しても、愛と信仰の証として御言葉を伝え、励まし合いましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

もし、これまで神様の御言葉に耳を傾けず、自分勝手な判断で歩んできた者は、今一度心を改め、神様の愛と導きに立ち返るよう、謙虚な心で悔い改める時です。

【***詳細***】

今日、私は「あなたのパンを水の上に投げよう。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう」という伝道者の書11章1節の御言葉を、心に深く刻みながら説いております。この一節は、一見無駄と思える投資や努力が、遠い未来に予想もしなかった豊かな実りとなって返ってくるという、神の御知恵を示しているのです。神様は、私たちに「あなたの受ける分を7人か8人に分けておけ。地上でどんな災いが起こるか、あなたは知らないのだから」と語り、リスクを分散させる知恵を授けられました。私たちの日常生活において、子育てやビジネス、あるいは御言葉の宣言という霊的投資も、投げ捨てるのではなく、ひたむきに続けるべき行為であると改めて教えられます。

神様の御計画は、時として私たちの理解を超え、偶然や不確かな未来の中に秘められているかのように思えます。しかし、**「あなたは一切を行われる神の御業を知らない」**という御言葉が示す通り、すべてのことは神様の御手の内にあるのです。朝のうちに種を蒔き、夕方にも手を離してはならないという教えは、私たちに怠ることなく日々の労苦を惜しまず、信仰と努力をもって前に進むようにとの励ましです。たとえ、どんなに私たちが計画し、リスク分散に努めても、結局は「神様の御業」が導かれる結果に従うのです。

また、申命記11章8節以降に記された御言葉にもあるように、神様の命令に従えば、与えられた地において絶えず恵みが降り注ぎ、豊かな実りが得られると約束されました。エジプトの過酷な土地とは異なり、天の雨で潤された土地は、神様がお心を留め、絶えず御顔をかたむけてくださる場所なのです。私たちもまた、どんなに厳しい時代にあっても、神様にすべてを委ね、御言葉に従って歩むならば、必ずや「先の雨」と「後の雨」を受け、心にも、物質にも、霊的にも実りある人生を歩むことができるのだと確信しております。

私たち信仰者は、世の中の成功哲学に流されることなく、主の御言葉という礎に立ち、歩むべき道を選ぶべきです。失敗や予期しない災いが襲ってくることもあるでしょう。しかし、世界の知恵ではなく、神様の知恵と約束に信頼するならば、どんな嵐の中にも平安と希望があると信じております。実際、御言葉の一節「あなたの門が固く守られるように、あなたは日々その備えをせよ」という励ましは、私たちが一人ひとり、風雨に抗して前進するための確固たる指針となるはずです。

また、主の祈りにおいて、私たちは「我らの父よ、御国を来たらせたまえ」などと願うように、神様への信頼と依存を新たにしなさいと命じられています。この祈りの中にこそ、私たちの生きるべき姿勢、つまりどんなに道が厳しくも、御言葉に従い、神の御声に耳を傾け、日々の小さな努力と愛の行いを惜しまない決意が込められているのです。私たちは、自分自身の知恵ではどうにもならぬ未来に対し、ただ主の慈しみと恵みに全てを委ねるべきであり、その証として、家庭や教会、地域社会においても積極的に御言葉を実践し、互いに励まし合って歩む責務を負っております。

この説教を通して、私たち一人一人に伝えたいのは、投資の対象が何であれ、神様の御言葉の種こそが、最も尊く、最も確かな実りをもたらすという真実です。たとえ、日々の生活の中で「パンを水の上に投げる」ように感じられる努力があったとしても、そのすべては後の日に大いなる祝福として回収されるのです。子育ての中で、霊的な乳を与え続けること、また自らの信仰を堅く守り通すこと、これらはすべて、神様が後に大きな利子となって実を結ばせるための大切な行いです。

私たちは、経済的なリスクを分散し、世の知恵に基づいた計画を立てることも大切ですが、何よりも重要なのは、心から神様に従い、御言葉を信頼することです。多くの方が、世の中の流行や成功哲学に惑わされながらも、現実の厳しい試練に遭遇する中で、神様の御恵みから遠ざかってしまうことを私自身も痛感しております。しかし、逆に神様の御声に従い、信仰の道を歩むならば、決して時の流れや環境に左右されることなく、確固たる信頼と盼望を持って未来に向かうことができると、聖書は力強く語りかけております。

このように、伝道者の書に記された知恵と、申命記の約束、そして私たちが共に唱える主の祈りは、私たちの人生における羅針盤であり、決して見失ってはならない光の道しるべです。どうか、今日ここに宣言された御言葉の一語一句を、皆さんの心の中に大切に留め、明日への希望と励ましとして生かしていただきたく、心より願っております。すべては、私たちを愛し、導いてくださる主イエス・キリストのおかげです。

【結論】

私たちの一見無駄に思える努力も、神様の御計画の中では必ずや大いなる実りとして帰ってきます。日々、御言葉の種を惜しまず蒔き、互いに励まし合い、主の御声に従って歩む者こそが、真の幸いと祝福を受けるのです。どうか皆さん、一人ひとりが神様の愛と恵みに満たされ、永遠に歩むべき光の道を進んでいかれますよう、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
なまけていると天井が落ちる(伝道者の書10:16-20):右クリックで保存

【概要】

怠惰の危険性と神の御言葉に従う大切さを説く説教

【聖書箇所】

伝道者の書10章16-20節

箴言24章30-34節

【戒めの言葉】

霊的な怠慢は人生を崩壊させる危険があります。

【勧めの言葉】

神の御言葉に従い、霊的な武具を身につけ、日々霊的なメンテナンスを怠らないようにしましょう。

【***詳細***】

今日の箇所は、伝道者の書10章16節から20節です。

まず16節と17節を見てみましょう。「災いなことよ。あなたの王が子供であって、あなたの主だちが朝から食事をする国は。幸いなことよ。あなたの王が貴族の出であって、あなたの主だちが酔うためではなく、力をつけるために定まった時に食事をする国は。」

これは、未熟な指導者と成熟した指導者の対比です。私たちの人生においても同じことが言えます。自分の欲望のままに生きる未熟な「王」のような生き方は災いをもたらします。一方、神の御言葉に従い、適切な時に適切なことを行う成熟した「王」のような生き方は幸いをもたらします。

18節には「怠けていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする」とあります。これは霊的な怠慢の危険性を警告しています。私たちが霊的なメンテナンスを怠ると、私たちの人生という「家」は崩壊の危機に瀕します。

箴言24章30-34節も同様の警告を与えています。「私はナマケモノの畑と、知恵に欠けている者のぶどう畑のそばを通った。すると、イバラが一面に生え、イラクサが地面を覆い、その石垣は崩れていた。」

霊的に怠けていると、私たちの心は苦々しさや怒りで覆われ、悪魔の攻撃に対する防御壁も崩れてしまいます。そして「あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは武装した人のようにやってくる」のです。

ではどうすればよいのでしょうか。エペソ6章の霊的な武具を身につけることが重要です。信仰の大楯、救いのかぶと、御霊の剣である神の言葉を用いて、悪魔の策略に立ち向かうのです。

伝道者の書10章20節は「王を呪おうと密かに思ってはならない。寝室でも富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ」と警告しています。私たちの思いは神に知られています。寝室の中であっても、真の王であられる神を軽んじてはいけません。

【結論】

私たちは霊的な怠慢を避け、日々神の御言葉に従って歩む必要があります。御言葉を蓄え、聖霊に導かれて生きることで、私たちの人生は神に喜ばれるものとなります。怠惰は災いをもたらしますが、神への従順は祝福をもたらします。今日から、霊的なメンテナンスを怠らず、神の御言葉に立つ決意をしましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
御言葉の剣をなまくら刀にするなかれ(伝道者の書10:8-15):右クリックで保存

概要

伝道者の書10:8-15を基に、愚か者と知恵ある者の対比、言葉の重要性について説く。

【聖書箇所】

伝道者の書10:8-15

【戒めの言葉】

愚か者のように多くを語り、秩序を無視して自分の欲するままに行動するのではなく、神の御言葉に従う知恵ある者となるべきである。

【勧めの言葉】

みことばの剣を日々研ぎ澄まし、昼も夜も口ずさみ、それを実行することで、あなたのすることはすべて栄える。

【***詳細***】

今日の箇所である伝道者の書10章8節から15節では、愚か者と知恵ある者の対比が示されています。特に、口から出る言葉によって、その人が愚か者であるか知恵ある者であるかが明らかになることが強調されています。

まず、8節から11節では、世の中における知恵が示されています。「穴を掘るものはそれに落ち込み、石垣を崩すものは蛇に噛まれる。石を切り出すものは石で傷つき、木を割るものは木で危険にさらされる。もし斧が鈍くなった時、その刃を研がないともっと力が要る。」これらの言葉は、仕事や生活における危険と、それを回避するための知恵を教えています。

特に注目すべきは10節の「もし斧が鈍くなった時、その刃を研がないともっと力が要る。」という箇所です。これを霊的な意味に当てはめると、私たちのみことばの剣、すなわち聖書の知識と理解が鈍くなっていないかを問いかけています。みことばの剣を日々研ぎ澄ましていないと、人生の試練や誘惑に対して多くの労力を要することになります。

11節の「もし蛇がまじないにかからずに噛みつくなら、それは蛇使いに何の益にもならない。」という言葉は、言葉の力と限界を示しています。世の中には、言葉巧みに人々を操ろうとする者がいますが、その言葉が効果を持たない時、彼らは何の益も得られないのです。

12節以降では、特に言葉についての知恵が記されています。「知恵あるものが口にする言葉は優しく、愚かな者の唇はその身を滅ぼす。」(12節)この対比は重要です。知恵ある者の言葉は優しく、建設的であるのに対し、愚か者の言葉は破壊的で、自分自身を傷つけることになります。

さらに、「愚か者はよくしゃべる。」(14節前半)という特徴が挙げられています。愚か者は多くを語りますが、その言葉には実質がありません。「人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、誰が告げることができよう。」(14節後半)と続きますが、これは人間の知識の限界を示しています。

最後に、「愚かな者のロークは己を疲れさせる。彼は街に行く道さえ知らない。」(15節)という言葉で締めくくられています。愚か者は多くを語り、多くの労力を費やしますが、結局は自分を疲れさせるだけで、本当に重要なことさえ理解できないのです。

この箇所から学ぶべき重要な教訓は、私たちの言葉と行動の重要性です。知恵ある者として生きるためには、神の御言葉に従い、それを日々の生活で実践することが必要です。詩篇1篇2-3節にあるように、「まさに主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実を結び、その葉は枯れない。その人のすることは何であれ、すべて栄える。」

私たちは、みことばの剣を常に研ぎ澄まし、神の知恵を求め続けるべきです。そうすることで、愚か者のように自分を疲れさせるのではなく、知恵ある者として神の祝福のうちに歩むことができるのです。

【結論】

私たちは愚か者の道を避け、知恵ある者として生きることを選ばなければなりません。そのためには、神の御言葉を日々学び、実践し、私たちの言葉と行動を通して神の知恵を表す必要があります。みことばの剣を研ぎ澄まし、神の導きに従うことで、私たちの人生は真に豊かなものとなり、神の栄光を現すことができるでしょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
僅かな汚れが多くの聖なるものを汚す(伝道者の書10:1-7):右クリックで保存

【概要】

愚かさの危険性と、キリストにつながることの重要性を説く説教。

【聖書箇所】

伝道者の書10:1-7、出エジプト記30:22-33、第一コリント6:14-20、詩篇133篇

【戒めの言葉】

わずかな愚かさが、神の聖なるものを汚し、台無しにしてしまう危険性があります。

【励ましの言葉】

キリストにつながることで、私たちは死に打ち勝ち、神の油注がれた者となることができます。

【***詳細***】

今日の箇所は伝道者の書10章1節から7節までです。

「死んだハエは調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは知恵や栄誉よりも重い。」(伝道者の書10:1)

この「調合した香油」とは何でしょうか。出エジプト記30章22-33節に記されています。それは神の宮のあらゆるものを聖なるものにするための油です。この聖なる油は、会見の幕屋、証しの箱、机などの器具に注がれ、それらを聖別します。また、アロンとその子らにも注がれ、彼らを祭司として聖別します。

この油は今日で言えば聖霊を意味しています。聖霊の油によって私たちは清められ、特別な賜物と使命が与えられるのです。

しかし、死んだハエのようなわずかな愚かさが、この尊い油を台無しにしてしまうのです。私たちがどれだけ奉仕し、礼拝を捧げていたとしても、ほんの少しの愚かさがすべてを台無しにしてしまうのです。

「知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。」(伝道者の書10:2)

これは十字架上のイエス様を思い起こさせます。イエス様の右には悔い改めた犯罪人が、左には悔い改めなかった犯罪人がいました。また、終わりの日には、イエス様は羊(救われる者)を右に、山羊(滅びる者)を左に分けられます。

「愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。自分が愚かであることをみんなに知らせる。」(伝道者の書10:3)

愚かな者は自分の愚かさに気づいていませんが、その言動によって周りの人々に自分の愚かさを示してしまいます。十字架上で「お前がメシアなら自分を救ってみろ」と叫んだ犯罪人のように、愚かな者は自分の愚かさを大声で宣言してしまうのです。

「私は日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席につけられている。私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。」(伝道者の書10:5-7)

これらの言葉は、イエス・キリストの受難を予言しているかのようです。本来、王の王であり主の主であるキリストが、罪人のような扱いを受け、十字架につけられました。ポンティオ・ピラトやヘロデ王といった愚かな権力者たちが、神の子イエスを裁く立場に立ちました。

しかし、イエス様は私たちの罪のために自ら低くなられ、十字架の死に至るまで従順でした。そのことによって、私たちの愚かさを打ち砕き、死に勝利してくださったのです。

第一コリント6章19-20節にこうあります。「あなたがたの体は、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分の体をもって、神の栄光を現しなさい。」

私たちはキリストによって贖われ、神の宮とされました。私たちの体のすべての部分に、キリストの尊い油が注がれているのです。私たちはもはや自分のものではなく、神のものとなりました。

詩篇133篇にあるように、「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう。それは頭の上に注がれた尊い油のようだ。それはヒゲに、アロンのヒゲに流れて、その衣の襟にまで流れ下る。」

私たちがキリストの体に連なるとき、キリストに注がれた油が私たちにも流れ、私たちは一つとされるのです。この一致と交わりこそ、教会の喜びであり力なのです。

【結論】

私たちの愚かさは、神の聖なるものを汚す危険性があります。しかし、キリストは私たちの愚かさを背負って十字架につけられ、死に打ち勝ってくださいました。私たちはキリストにつながることで、もはや愚かさの奴隷ではなく、神の油注がれた者となることができるのです。ですから、しっかりとキリストにつながり、キリストの体である教会に連なり、神の栄光を現す者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
知恵を生かすかどうかはその人次第(伝道者の書9:13-18):右クリックで保存

【概要】

知恵の価値と、神の前を正しく歩むことの大切さについてのメッセージ

【聖書箇所】

伝道者の書9:13-18

ヨハネの福音書1:9-13

第一列王記3:11-14

【励ましの言葉】

神の知恵は人を生かし、多くの人を救います。

【戒めの言葉】

知恵があっても神の前を正しく歩まなければ、その知恵は無駄になってしまいます。

【***詳細***】

今日の箇所は、伝道者の書9章13節から18節です。

ソロモンは知恵について次のようなことを見ました。小さな町に大王が攻めてきて包囲しましたが、そこに一人の貧しい知恵者がいて、その知恵によって町を救いました。しかし、誰もその貧しい人のことを覚えていませんでした。

ソロモンはこれを見て「知恵は力に勝る。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、彼の言うことも聞かれない」と結論づけました。貧しい人が知恵を持っていても、その知恵は軽んじられ、誰も耳を傾けないというのです。

しかし、イエス様の教えは異なります。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」(マタイ5:3)と言われました。ここでの「心の貧しい者」とは、自分の霊的な貧しさを自覚し、神に頼る人のことです。

世の中では、物質的な豊かさや社会的地位が重視されがちです。しかし、神の国では異なる価値観があります。イエス様は、献金箱に小銭を入れた貧しいやもめを称賛されました(マルコ12:41-44)。神は外見ではなく、心を見ておられるのです。

ヨハネの福音書1章9-13節には、イエス・キリストが世に来られたことが記されています。

「まことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権を与えられた。」(ヨハネ1:9-12)

イエス様は、創造主であり、真の知恵の源です。しかし、多くの人々は彼を受け入れませんでした。それでも、イエス様を信じる人々には、神の子どもとなる特権が与えられるのです。

ソロモンの知恵についても考えてみましょう。第一列王記3章11-14節には、ソロモンが神に知恵を求めた時の様子が記されています。

「神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵の命をも求めず、むしろ自分のために正しい裁きを行う知恵を求めたので、見よ。わたしはあなたの言葉どおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵に満ちた心を与える。...もし、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの道に歩み、わたしの掟と命令を守るなら、わたしはあなたの日々を長くしよう。』」

ソロモンは正しい判断力を求め、神はそれに応えて知恵を与えられました。しかし、知恵だけでは不十分です。神の道を歩み、神の命令に従うことが重要なのです。

私たちも同様です。知恵を求めることは良いことですが、それ以上に大切なのは神の前を正しく歩むことです。たとえ世の中で認められなくても、神の目には尊いのです。

イエス・キリストこそ、真の知恵の体現者です。彼は多くの人々を救いましたが、世からは拒絶されました。しかし、彼を信じる者には永遠のいのちが与えられるのです。

【結論】

知恵は大切ですが、それ以上に神の前を正しく歩むことが重要です。イエス・キリストを信じ、神の知恵に従って生きることで、私たちは真の豊かさと永遠のいのちを得ることができます。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
結婚できない人や貧しい人はただ虚しいだけなのか(伝道者の書9:9-12):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書9章9-12節を基に、人生の意味と神の愛について語る説教。

【聖書箇所】

伝道者の書9章9-12節

【励ましの言葉】

主を愛し、主の戒めを守る人は、神に愛され、豊かな人生を送ることができます。

【戒めの言葉】

この世の価値観や自分の力に頼るのではなく、神の国とその義を第一に求めましょう。

【***詳細***】

今日の箇所は伝道者の書9章9節から12節です。水曜日の昼礼拝では伝道者の書を1章から順に学んでいます。

「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが生きている間に日の下であなたがする労苦による。あなたの受ける分であるあなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしている黄泉には、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」(伝道者の書9:9-10)

伝道者の書は聖書の中でも特異な書物です。「むなしい」という言葉が最も多く使われており、旧約聖書全体で「むなしい」という言葉が使われる回数よりも、この伝道者の書だけで使われる回数の方が多いのです。なぜ聖書の一部である伝道者の書にこれほど「むなしい」という言葉があるのでしょうか。それは、著者であるソロモンが神から離れ、人間の知恵を追求した結果だと考えられます。

ソロモンは人類史上最も知恵があり、IQの高い人物でした。しかし、神から離れて知恵や力を追求した結果、すべてが「むなしい」という結論に至ったのです。これは世の中の哲学や仏教の思想とも似ています。すべてのものは無常で、移り変わり、同じところに行き着くという考え方です。

しかし、キリストにある者の人生は全く異なります。聖書の他の箇所は希望に満ち、愛に満ち、喜びに満ちています。信仰者が目指すべきは、ソロモンのようなむなしさではなく、神の国です。

「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。」(伝道者の書9:9)

ソロモンは人生の楽しみを妻との生活に見出していますが、実際には700人の妃と300人の側室、合計1000人もの妻を持っていました。その結果、彼は「女は死よりも苦々しい」と告白しています(伝道者の書7:26)。これは神から離れた生き方の結果です。

私たちクリスチャンは、エペソ人への手紙に記されている夫婦関係の模範を目指すべきです。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)

「あなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。」(伝道者の書9:10)

ソロモンは自分の力で物事を成し遂げることを勧めていますが、信仰者である私たちは違います。自分の力ではなく、イエス・キリストの知恵と力に頼るべきです。ある姉妹は、この箇所を次のように読み替えました。「あなたの手元にあるなすべきことは、イエス様の知恵と力でしなさい。あなたが行こうとしているところは、死も涙も痛みも傷も何一つない神の国の中にあるからです。」

私たちがなすべきことは、自分の力ではなく、イエス様に委ねることです。イエス様が羊飼いとなって私たちを導いてくださいます。たとえ死の陰の谷を歩むようなことがあっても、私たちには恐れる必要はありません。

「私は再び日の下を見たが、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇者のものではなく、またパンは賢い人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでもないことがわかった。」(伝道者の書9:11)

ソロモンはすべてのことを時と機会のせいにしていますが、信仰者である私たちは違います。戦いは主のものであり、パンは主から与えられ、富も主のものです。すべてはイエス・キリストのものなのです。

私たちは神の国とその義をまず第一に求めるべきです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

主に愛される人とは、イエス・キリストを愛し、その戒めを守る人です。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)

【結論】

私たちは、ソロモンのような罠に陥ることなく、世の価値観ではなく神の価値観に従って生きるべきです。すべての不条理を御言葉によって塗り替え、幸いと命へと人生を変えられていく者となりましょう。神の国とその義を第一に求め、イエス・キリストに愛され、導かれる人生を歩んでいきましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
生きている間に喜んで楽しめという考え方(伝道者の書9:1-8):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書9章1節から8節を通して、人生の結末とキリストにある希望について説教します。

【聖書箇所】

伝道者の書9章1-8節

【慰めの言葉】

「すべて生きているものに連なっているものには希望がある。生きている犬は死んだ獅子に勝るからである。」

【励ましの言葉】

「キリストにある私たちは、永遠に受ける分があるこの恵みと望みを感謝いたします。」

【戒めの言葉】

「どうせ明日は死ぬのだからと言っている。そこで万軍の主は私の耳を開かれた。この罪はお前たちが死ぬまで決して許されない。」

【勧めの言葉】

「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」

【悔い改めの促しの言葉】

「この地上の歩みは、永遠を決定づけるための査定期間と言っていいでしょう。」

【***詳細***】

今日の御言葉は、伝道者の書9章1節から8節です。この箇所では、人生の結末がすべての人に同じように訪れることが述べられています。正しい人も悪者も、善人も清い人も、すべての人に同じ結末が訪れます。しかし、キリストにある私たちは、永遠に受ける分があることを感謝します。黙示録20章11節からの白い御座の裁きにおいて、私たちはキリストにあって成したことの報いを受けます。

生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられます。しかし、キリストにある者は、永遠に受ける部分があり、信仰の試練は火を通して精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも貴いのです。

イエス・キリストを信じる者は、命の書に名が記されており、第二の死は何の害もありません。私たちはこの地上で、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩むべきです。黙示録の1章17節でイエス様は言われました。「私は生きているものである。私は死んだがみよ、いつまでも生きている。」

伝道者の書の言葉は、キリストなしに生きている人たちに非常によく当てはまりますが、キリストにあって生きる人は、永遠の希望を持っています。私たちは、キリストという生きるお方につながっていることで、希望があります。生きている犬は死んだ獅子に勝るという言葉は、キリストにつながる私たちに当てはまります。

【結論】

キリストにある私たちは、永遠の希望を持ち、地上での歩みを通してその希望を確かなものとすることができます。私たちは、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩み、永遠の報いを受けることを目指しましょう。

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