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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

詩篇講解説教

私達の中の邪悪な性質を追い出して下さるイエス様(詩篇101篇)

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この詩篇は、ダビデによるもので、彼が「このように生きたい」「このように歩みたい」と表明し決心した詩である。
そして同時に、この詩篇は、ダビデの子孫として来られる王の王、イエス・キリストのご性質を、的確にあらわしている詩篇である。
 
詩篇101:1 わたしはいつくしみと公義について歌います。主よ、わたしはあなたにむかって歌います。
 
1節の、前半の「歌い」はシール、「声」で歌う意味で、後半の「歌い」はザーマル、指で弦楽器を弾く事や、歌う事を意味する。
 
何を、歌うのか。
それは、主の恵み(ヘセド)と、さばき(ミシュパト)を、である。
 
ミシュパトは、司法的に宣告された判決、さばきを意味するが、人は誰一人、主の裁きの前に立つ事はできない。
そこで、主の恵み(ヘセド:恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深さ)が必要なのだ。
 
 
父なる神様は、義であられ、罪ある者を罰さざるを得ない。
しかし恵み(ヘセド)深い神様は、そのヘセドのゆえに、御子イエス様を、私達に送ってくださった。
彼の贖いのゆえに、私達はイエス様にあって、父なる神様の前に進み出る事ができるようになった。
それで私達・キリスト者は、主のさばきを「喜び」「慰め」として受け止める事ができる。
それを、私達もダビデのように、歌うのである。
 
しかし、サタンとそれに同意する者は、主のさばきを恐れる悲しむ以外に無い。
だから、誰もが、キリストにあって救われる必要があるのだ。
 
 
詩篇101:2 わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家(ベイト)のうちを歩みます。
 
ダビデのように、「全き道」に、心を留める人は、主が来られる日を、今か、今かと、心待ちにする。
しかし、後ろ暗い事をしている人は、主に、来てほしくない、と思う。
 
ダビデ個人としては、彼は、全き道に心を留め、正しい心で、自分の家の中を歩もう、と、決心し、宣言した。
しかし残念ながら、ダビデは、全き道を歩まなかった。
彼は、彼の家の中で罪を犯し、また、彼の家に生まれた後の子孫も、罪の道を歩み始めてしまった。
 
しかし、だからといって私達は、「ダビデは”直き心をもって、わが家のうちを歩みます”などと言う資格はない」と、断罪することはできない。
 
ダビデはたしかに、罪を犯した。
犯したけれども、彼は、主の前に進み出て、赦しを願い、主に喜ばれる道を歩もうと、もがいた。
 
私達も、もがくべきである。
たとえ罪を犯したとしても。
主に喜ばれる道を歩もうと決心し、宣言し、もがきつつも努力し続けるべきなのだ。このいのちがある限りは。
 
 
ダビデは「全き道に心をとめる」と言ったが、どうしたら、全き道を歩めるか。
 
それは、主の前に歩む事によって、である。
 
創世記17:1  アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 
ここで主が宣言された通り、全能の神の「前(パニーム:面前)」を歩むなら、人は、全き者になれるのだ。
 
人はたとえ、罪の行いを全くせず、品行方正に歩んだ、としても、神と共に歩まないとするなら、彼は、全き者ではない。
人は、単体では、全き者にはなれない。
ただ、全能の神と共に歩む事によってこそ、全き者になれるのだ。
 
アブラハムは、86歳から99歳までの間、神様抜きで、13年歩んだ。
しかし、神様の憐れみが注がれて、神様のほうから彼にあらわれて、わたしと共に歩んで全き者となれ、と言って下さった。
 
ダビデもまた、自分の家の中で、罪を犯したが、彼はそれでも、罪を犯したままの自分を、そのまま主の御前へと持って行った。
罪を犯したからといって、神との歩みを止めなかった。
むしろ、犯したからこそ、その罪ある自分を何とかしてほしい、と主の御前に持って行き、あくまで神との歩みを止めなかった。
だから、彼は主に愛され、主の憐れみを受けたのだ。
 
ダビデは2節で言っている。
わたしは「直き(トム:完璧さ、純粋さ、シンプルさ)」心をもって、わが家のうちを歩みます、と。
 
つまり、主の前の純粋さ、シンプルな心をもって、主の前に歩む人を、こそ、主は憐れんでくださるのだ。
 
そういうわけでダビデは、「主よ来て下さい」、と、何のわだかまりなしに言えたのである。
 
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
彼は、彼自身の前から「ベリヤアル」を、すなわち、邪悪な者を自分の中に置かない、
むしろ自分は、背く者の行いを憎み、それをまとわりつかせない、と、決心し、表明した。
 
罪を犯したダビデが、よくもそんな事が言えるものだ、と、私達は言うことはできない。
私達にも、いつ罪を犯してもおかしくはない「罪のとげ」が刺さっているからだ。
 
私達も、日々、ダビデのように、罪をかなぐり捨てる事の表明をし、競争を耐え忍んで走っていくべきなのだ。
キリストとベリアルは、共生できないからだ。(2コリント6:15)
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
もし、キリストが私達のうちに住んでいない、キリストに住んで欲しい、と、願うなら、
ダビデのように、私達の内のベリヤアルを置かない、と宣言し、それを憎み、それが出ていくまで「イエスの御名によって出ていけ」と宣言し続けるべきである。
 
ヘブル12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 
 
詩篇101:4 ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません。
詩篇101:5 ひそかに、その隣り人をそしる者を/わたしは滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。
 
5節は、「そしる」という意味のラーシャンが、反復強調されている。
この、隣人をそしる性質、高ぶる目、高慢な性質は、サタンの性質である。
 
日本語訳では、ダビデはそのような「者」を滅ぼします、といっているように書かれてあるが、それでは、ダビデは恐怖政治をするつもりなのかというと、そういう事ではない。
原文には元々、「滅ぼし」の対象となる目的の語は無いので、ここはむしろ、わたしは「隣人へのそしり」を滅ぼします、という事だろう。
 
私達も、自分自身の中から、また、自分のグループの中から、サタンの性質を、滅ぼすべきである。
 
ダビデには、それは結局できなかったが、ダビデの子孫・イエス様は、真に、私達の中から、そのような性質を断ち切り、滅ぼしてくださる事が、おできになる方だ。
そしてゆくゆく、イエス様は、悪魔サタンそのものを、断ち滅ぼして下さる。
 
黙示録22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
黙示録22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
 
 
詩篇101:6 わたしは国のうちの「忠信な(アーマン)」者に好意を寄せ、わたしと共に住まわせます。全き道を歩む者はわたしに仕えるでしょう。
 
ここもまさに、イエス様のご性質が、そのまま歌われている。
アーマンは、アーメンの元となった語であるが、イエス様の元には、彼にアーメンする人達が来る。
そして彼に対して「アーマン(忠信)」な人達が、イエス様とともに住み、とこしえにイエス様に仕える事が、黙示録に書かれてある。
 
 
詩篇101:7 欺くことをする者は/わが家のうちに住むことができません。偽りを言う者はわが目の前に立つことができません。
 
イエス様も言っている。
 
啓示録22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
 
 
詩篇101:8 わたしは朝ごとに国の悪しき者を/ことごとく滅ぼし(ツァーマト)、不義を行う者をことごとく主の都から断ち除きます。
 
ダビデ個人としては、そのようにあろうと宣言した。
それを実行できるお方は、まことのダビデの子孫、イエス様お一人である。
私達はイエス様にあって、ダビデのように、日毎、主とともに歩み、全き者の道を歩んでいく者達である。
 
キリストとベリヤルは、共生できない。
だからもし、私達の中に、邪悪な性質がはびこる都度、それに「しょうがないや」と言って妥協したりしてはならない。
都度、ベリヤアルを追い出し、主の前に歩む努力をすべきだ。ダビデがしたように。
そのような日々こそ、主の面前を歩む道、まったき道だから。

詩篇講解説教

喜びに彩られた感謝を主に捧げよ(詩篇100篇)

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詩篇100篇表題「感謝の供え物のための歌」(ミズモール・ラ・トダー)
ミズモールは歌、あるいは音楽。
トダーは、ユダヤ人の「ありがとう」で、すなわち感謝の言葉である。
 
 
この詩篇は、主への感謝で溢れており、1-2節は早速、「喜び」というキーワードで目白押しである。
 
詩篇100:1 全地よ、主にむかって「喜ばしき声をあげよ(ルーア)」。
 
1節で提示されている命令形動詞はルーア、これは、95篇1-2節でも繰り返されている動詞で、「喜び」という感情に脚色された叫び、大声、大きな音を立てる事である。
 
その命令の対象は、コール・ハ・エレツ(地の全て)、つまり私達人間のみならず、全被造物である。
 
 
詩篇100:2a 喜びをもって主に仕えよ(アーバド)。
 
2節の命令形動詞は「仕える(アーバド)」。
それは、奴隷やしもべとして聞き従う事、すなわち、自分の意思を降ろし、相手の意思に服従する事だ。
 
アーバドする事、すなわち、奴隷として仕える事には、苦しみが伴われると思われがちだが、主に限っては、そうではない。
人間は不完全であり、罪があるので、人間に隷属する事には、苦しみが伴うかもしれないが、完全であられる主に仕えるなら、仕えるほど、喜びが湧き起こってくる。
 
 
神の民たる者は、もし、自分の願った事と、主の願っておられる事が食い違っていた場合、すぐに自分は降ろし、主の御旨に従うものであるはずだが、それが成熟して行けば行くほど、従う事の喜びは大きくなっていく。
 
結局、クリスチャンのレベルアップの度合いは、教会に通った年数でも、歩数でもない。
いかに喜びつつ、主の前に自分を降ろせるか、いかに喜んで主に聞き従えるかどうか、それによって計られる。
 
 
詩篇100:2b
歌いつつ(レナーナー)、そのみ前にきたれ(パニーム)。
 
レナーナーとは、喜びの感情によって色どられた叫びや、歌、おどりである。
コンサートで主演者がステージに現れたら、詰めかけたファンに沸き起こる、あれである。
私達は、そうしたファン以上に、主の前にレナーナーする者だろうか?
 
私達がレナーナーしながら行く先が、「主のみ前(パニーム)」である。
パニームとは顔、すなわち、面前で、英語ではプレゼンス(臨在)と訳されている。
主の臨在(面前)に、喜んで行くのが、主の民であり、主の面前に行きたがらないのが悪魔サタンに属する者達である。
 
出エジプトした民は、主のしるしや奇跡を体験したにもかかわらず、主の臨在(パニーム)の前でつぶやき、罪を犯したため、約束の地に入れなかった。
私達キリスト者は、いつでも、主の御前に、主の臨在にいる、という意識を持ちながら、日常を歩むべきである。
 
 
詩篇100:3 主こそ神であることを知れ(ヤーダー)。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
 
3節の命令形動詞は、「知れ(ヤーダー)」である。
何を知るべきか?
主こそ神である事、主が私達をつくられた事、を。
 
 
詩篇100:4a 感謝しつつ(トダー)、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。
 
ここの命令形動詞は「ボー(入れ)」。
入っていく門の先、その大庭とは、主を礼拝する場所である。
 
私達は礼拝するために教会の門をくぐる時、「感謝」と「ほめたたえ」の心をもって、入っているだろうか。
 
 
詩篇100:4b 主に感謝し(ヤーダー)、そのみ名をほめまつれ(バラク)。
 
ここの命令形動詞は「バラク」、祝福する、とよく訳される語であるが、元々は「ひざをつく」である。
主の前にひざをついて自分は低くし、そして主を高めるのだ。
 
 
こうして4節は、トダーと、ヤーダーがセットで示された。
トダー(感謝)は、ヤーダー(知る)が元になっているヘブライ語である。
 
感謝とは、相手を知ってこそ出来るものであり、主を知っていればいる程、感謝が溢れ、賛美に力を入れるものである。
 
もし、主への感謝が、沸き起こって来ない、という人がいるなら、まず、主を「知る」事から、はじめるべきである。
主を知れば知るほど、感謝と喜びが沸き起こってくるからだ。
そして、そのような人がする賛美は、その表情や節々から、喜びが、感謝が、にじみ溢れて来ているものだ。
 
 
詩篇100:5 主は恵みふかく(トーブ)、そのいつくしみ(ヘセド)はかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。
 
主のトーブは、創世記1章において、主の創造のわざに対し、主ご自身が「よし」と言われた語であり、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
続くヘセドは、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。
 
 
詩篇100篇の最後は、この、主のトーブとヘセドで飾られた。
詩篇23篇も、そうだった。
 
詩篇23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵み(トーブ)といつくしみ(ヘセド)とが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
 
今回の詩篇でも、3節で、主を羊飼いとする告白をした。
主を自分の羊飼いとするなら、主のトーブとヘセドが、生涯、追いかけてくるのだ。
 
主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、
人は主の言葉に反して、ことごとく、トーブの逆の実を、すなわち、不完全、醜さ、悪さ、を結ばせて来た。
それらを人生で実らせてきた結果、もたらされたのが呪い、病、死である。
 
しかし、その状態に縛られた人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造のトーブわざが、与えられた。
それが「恵み(ヘセド)」である。
恵みとは、一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に主から与えられる、良きわざである。
 
主の家に住まう事、
主を羊飼いとする事、
それこそ、生涯、トーブとヘセドが追いかけてくる生き方なのだ。

 

 

詩篇講解説教

聖なる、聖なる、聖なる主(詩篇99篇)

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詩篇99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。
 
「主は王である」という表現が、93篇から反復されている。
その王の王とは、「救い(イエシュア)」をもたらして下さる主、イエス・キリストである。
 
ここの「おののけ(ラガツ)」は、激しい感情、特に怒りや恐怖で震える事で、「震えよ(ヌット)」は、震える、 動かされる意味である。
イザヤ6章では、御使いが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と呼び交わす声に地は震え、主の栄光の臨在で満たされた。
主の臨在を前に、地は、震える。
そして終わりの時代、神に愛された都を守るために大地震が起こり、神に敵対する者達は、揺るがされる。(エゼキエル書38:19-20、啓示録8:5, 11:13,19, 16:18)
 
1節の後半では、主は、ケルビムの上のみ座におられる、と書かれてある。
ケルビムとは、いつも主のすぐそばにはべり、聖と俗とを区切り、聖なる領域を炎で守る役割の御使いであり(創世記3:24、エゼキエル1章)、また、主の臨在を運ぶ役割がある。(詩篇18:10)
主は、そのケルビムの間から御声を発し、語られる。(出エジプト記25:22)
 
 
詩篇99:2 主はシオンにおられて大いなる神、主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
詩篇99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を/ほめたたえるであろう。主は聖でいらせられる。
 
ここでは「大いなる」が反復されて、主の「聖」を際立たせられているが、この「聖」という主のご性質が、3節と、5節、9節で反復されている。
 
「聖(カドシュ)」には「切り分けられた」の意味がある。
聖とは、主なる神の、絶対的かつ排他的なきよさで、罪・汚れのある人間が触れるならたちまち死んでしまう程の、恐ろしいご性質である。
 
預言者イザヤも、その「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」を見た時、絶望した。もう自分は死んでしまう、と。
しかし彼は、聖なる祭壇の炭火によって、くちびるの汚れが清められ、罪が贖われたゆえに、主の聖の前で打たれる事なく、主のつとめに入る事ができた。(イザヤ6章)
祭壇には、犠牲のいけにえが燃やされている。
それが触れる事によって、汚れがきよめられ、罪が贖われたように、私達も、犠牲のいけにえとなってくださったイエス様に触れられるなら、罪が贖われ、清められ、主の聖なる臨在の前に大胆に進み出る事ができるのである。
 
 
詩篇99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは/堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
 
ここで反復された語は、ミシュパト(司法的に宣告された判決、さばき)であり、主のさばきの性質は、公平であり、正と義である。
 
この節では「ヤコブ」という名が、取り沙汰されている。
ヤコブ(かかと、掴むという意味)には、イスラエル(神と粘り強く格闘(すったもんだ)する)という、素晴らしい名が与えられたが、その与えられた後も、時々、人・物・事の足を掴む「ヤコブ」に戻ってしまった。
 
私達も、本来、神と「すったもんだ」するべきなのに、時には「ヤコブ」に戻ってしまうが、その中でも、主の憐れみ深いミシュパトによって、私達の中の不義は取り除かれ、ますます義なる性質へと練り清められていく、という幸いがある。
 
 
詩篇99:5 われらの神、主をあがめ、その足台のもとで拝みまつれ。主は聖でいらせられる。
 
あがめて、ひれ伏す理由は、主は聖であるからだ。
 
詩篇99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
 
ここで、祭司としてのモーセとアロンが、また、御名を呼ぶ者としてのサムエルが引用されている。
彼らに共通している事は、主を呼び、そして、主に答えられた事である。
 
私達も、主イエスの御名を呼ぶ者である。
主イエスにあって、祭司たちの中に、私達もいる。
主を呼ぶ者達の中に、私達もいる。
そして私達は、イエス様にあって、預言者であり、そして、王である。
 
私達の分は、主の御名を呼び、神と人との間に立ってとりなし祈り、また、主から御言葉をあずかって、それを人々に届ける事、
そして、主にあって「王」として、治める事である。
 
詩篇99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った。
 
あかし(エダー)は、他にも証人、証言という意味がある。
定め(ホック)は、制定されたもの、戒め、法律である。
終わりの時代において、主人公となる人とは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」である。(黙示録12:17、14:12)
 
 
詩篇99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。
 
「主は答えられた」というキーワードが、反復された。(6節)
主を呼び求めるなら、確かにゆるしが与えられる。
しかし同時に、主は、それぞれの「しわざ」に応じて報いる方である、という事も、忘れてはならない。
 
 
詩篇99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。
 
あがめよ、とは、高くせよ、という事であり、
拝みまつれ、とは、低くなれ、という事である。
すなわち、主を高く上げ、自分は低くなるべきである。
 
なぜなら、主は聖でいらせられるからだ。
 
こうして、詩篇99篇では、「主は聖である」が3回、反復された。
聖なる、聖なる、聖なる主。
 
私達も、イザヤが体験したように、聖なる主の臨在の前に震えおののきつつ、十字架の上で犠牲となられたイエス様よって清められ、贖われ、主のあかし人となり、神と人との間に立つ祭司として取りなし、祈り、また御言葉を伝え、王として統治する者である。

詩篇講解説教

イエスを通して全世界が救われた事をあらわす詩篇(詩篇98篇)

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詩篇98:1 新しき歌を主にむかってうたえ。主はくすしきみわざをなされたからである。その右の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。

 

私達・神の民が、新しい賛美をつくり、新しいメロディを作曲して主をほめたたえる事は、主の命令である。

それは、主が「くすしきみわざ」をしてくださったからだ。

 

「くすしきみわざ(パーラー)は、元々は「分離する、区別する」の意味で、そこから、神にしかできない不思議、奇蹟という意味となった。

ただ主にしか出来ない、差別化された不思議、奇跡である。

それは、主の右の御手と、聖なる腕によってもたらされ、勝利がもたらされた。

 

 

詩篇98:2 主はその勝利を知らせ、その義をもろもろの国民の前にあらわされた。

 

この節をヘブライ語で見ると、実は、新約福音のエッセンスが記されている。

 

直訳すると、

「主は、イエシュア(救い=イエス様)を知らされた。彼の義を公に、ゴイーム(異邦人達、異邦の国々)の目に。」

 

この内容は、まさに、イエス・キリストの福音ではないか!

 

その救いは、1節にある通り、「御手によって」もたらされた。

 

イエシュア(イエス様)の御手には、十字架の釘跡がある。

全人類を贖って救いをもたらした、あの十字架の釘跡が。

 

それ故、黙示録にあるとおり、全被造物は、ほふられた小羊キリストを、こぞってほめたたえるのだ。

 

 

詩篇98:3 主はそのいつくしみと、まこととを/イスラエルの家にむかって覚えられた。地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た。

 

主が覚えておられたのは、主の恵みと真実のゆえである。

人類に罪と死が入ってしまった時、主は、人を救う「女の子孫」をつかわし、彼が蛇のかしら、すなわち、サタンのかしらを踏み砕く、と、約束して下さった。

その恵みと真実を、主はずっと覚えておられ、時至って、イエシュア(イエス様)がこの世に遣わされ、彼によって救いがもたらされた。

 

4節以降に、その故の賛美の命令が記されている。

 

 

詩篇98:4 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、ほめうたえ。

 

人は、全被造物に向かって命令する立場にある。(創世記1:28)

全被造物を命令するに値する人とは、「主にある人」である。

主にない者が、全被造物を支配すると、被造物をうめかせてしまう事になる。

今、まさに被造物は、うめきの中にある。

 

 

なお、ここで反復されている言葉は「喜ばしい声をあげよ」「喜びうたえ」である。

 

私達の中から、主への賛美が沸き起こって来る、その源は、まさに、救われた事の喜びと、主が真実であられる事ゆえだ。

 

賛美は、主の救いの確信に基づいた源があってこそ、できるものである。

たとえ喜べない状況であっても、主を賛美するなら、救いの確信と喜びが沸き起こって来る。(詩篇34篇)

 

もし、賛美によって、怒りや恐れ、悲しみが沸き起こってくる人があるとするなら、その人は、悪霊に憑かれた人である。

その人の中にいる悪霊が、賛美の内に住んでおられる主を怖がり、悲しんでいるのだ。(1サムエル記14章)

 

 

詩篇98:5 琴をもって主をほめうたえ。琴と歌の声をもってほめうたえ。

詩篇98:6 ラッパと角笛の音をもって/王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。

 

ここで反復されている「ほめ歌を歌え(ザーマル)」は、元の意味は「指で打つ」、そこから、弦楽器や鍵盤などを打って、楽器を演奏する、あるいは、声でメロディをかなでる意味となった。

賛美の際には、音に出せ、という事である。

 

礼拝中であろうとなかろうと、賛美をする時は、口パクするべきではない。

主をほめたたえる時は、実際に声に出し、また、色々な楽器をたくみに用いて、メロディを出すように、と、命じられているからだ。

その命令は、全被造物に対して、である。

 

 

詩篇98:7 海とその中に満ちるもの、世界とそのうちに住む者とは鳴りどよめけ。

詩篇98:8 大水はその手を打ち、もろもろの山は共に主のみ前に喜び歌え。

 

海も、川も、山も、実は主をほめ讃え、主の栄光をあらわしている。

人は、人と人との間にいる時に病む事はあっても、自然の中にいると、癒やされ、なごむのは、全ての創造主、愛なる主の栄光があらわれているからだ。

 

 

この詩の最後には、主がさばきのために来られる事を宣言している。

 

詩篇98:9 主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。

 

主の民は、主のさばきを、喜びとして受け止めることができる。

しかしサタンとそれに属するものは、主のさばきを、糾弾材料として、あるいは恐怖や悲しみとして受け止める。

主のさばきは「公正」である、と書いてあり、公正なさばきは、主の民にとっては慰め、不正を愛する者にとっては都合が悪いからである。

 

最終的には、天も、地も、地の下も、その被造物も、また、そこで生きる全ての生き物も、こぞって主をほめたたえる事になる。

 

黙示録5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。

黙示録5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

黙示録5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

黙示録5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

 

 

エゼキエル書講解説教

主はここにおられる(エゼキエル48:23-35)

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エゼキエル書の最後は、町(都)の描写をもって閉じている.
 
エゼキエル48:30 町の出口は次のとおりである。北の方の長さは四千五百キュビトである。
エゼキエル48:31 町の門はイスラエルの部族の名にしたがい、三つの門になっている。すなわちルベンの門、ユダの門、レビの門である。
エゼキエル48:32 東の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。
エゼキエル48:33 南の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちシメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。
エゼキエル48:34 西の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちガドの門、アセルの門、ナフタリの門である。
 
この都は、一辺4千5百キュビト(約2キロメートル)の正方形で、四方の城壁にはそれぞれ3つの門があって、合計12の門がある。
そして、それぞれの門には、12部族の名が付けられている。
 
ここにおいて記されるイスラエル12部族の名で、特徴的な事は、ヤコブ(イスラエル)の12の息子の名が、一つも欠けていない事である。
 
聖書の他の箇所でイスラエル12部族が示される時、大抵は、レビとヨセフは除外され、代わりにヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねる場合が多い。
それは、ヤコブが、ヨセフの子マナセとエフライムをヤコブの直接の子としたためであり(創世記48:5)、また、レビにはゆずりの地は無い代わりに、全部族からの全ての十分の一が与えられ、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
 
しかしこの都は、人間的な、地上的な決まり事から、全て解かれ、本来それぞれに与えられたものが回復している。
 
 
そしてエゼキエル書の最後は、都の名前「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」で終わる。
 
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
 
この都の名、「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」の意味は、「主はここにおられる」である。
その名は、インマヌエル(イザヤ7:14,マタイ1:23)と同じく、契約の主の臨在を表している。
 
そして、「主はここにおられる」の究極的成就が、黙示録21章に記されている。
 
黙示録21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
黙示録21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
黙示録21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
黙示録21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
 
この都は、「主が共に」が成就し、永遠に続く都であり、その都の正体は、キリストの妻なる花嫁、すなわち、教会である。
 
黙示録21:9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
 
 
この都にも、エゼキエル書の記述のように、東西南北に門が3つづつあって、それぞれに、イスラエル12部族の名が記されている。
のみならず、12の土台のそれぞれには、新約の、イエス様の12使徒の名が記されている。
 
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
黙示録21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
黙示録21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
黙示録21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
黙示録21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
 
 
都には、神の聖徒たちの名が記されている。つまり、都の構成要素は、私達・聖徒たち、という事だ。
エペソ書にも書いてある。
教会(都)はキリストのからだであり、キリストの花嫁であり、そしてそのかしらは、花婿キリストである。
 
エペソ5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
エペソ5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
エペソ5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
エペソ5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
エペソ5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
エペソ5:30 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
 
 
からだには色々な器官があるように、一人一人のそれぞれの役割は違う。
 
エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
エペソ4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
エペソ4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
 
黙示録3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
 
 
結局、「主がともにおられる」事の成就・完成は、インマヌエルと呼ばれるイエス様にあって、為されるなのだ。
 
その都には、主ご自身がおられ、都のどこでも、主の栄光と臨在で満ちている。
黙示録21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
黙示録21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
 
 
このように、「主がともにおられる」は、神の言葉を守り行う聖徒たちによって、構成される。
出エジプトした民が、荒野において、神の幕屋を中心に行進して行く時も、そうだった。
神の幕屋を中心に、東西南北に3部族ずつ、「十字架」の形で配置された時、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、主がともにおられる事をあらわされた。
 
しかし、主の御言葉を信じず、主の言葉どおりに行わないなら、主は、共にはおられない。
民数記14:43b 「あなたがたがそむいて、主に従わなかったゆえ、主はあなたがたと共におられないからである」。
 
 
エゼキエル書は、イスラエルの民が、度重なる違反を、主の前に積み上げている事に対する警告で始まりった。
しかしイスラエルの民は、その警告を聞かなかった。
 
そうしていると、ついに、「主が共におられる」事をあらわす主の栄光が、神殿から離れ、ついには都から離れてしまった。(10章)
すると、バビロンが来て、都は破壊され、神殿も破壊されてしまった。
 
しかし後に、主はエゼキエルに神殿の幻を見せ、それを、主のはかりざおで正確に測って行くと、主の栄光が帰ってきた。(43章)
出エジプト記においても、神の幕屋についての詳細な様子と寸法が示され、それを寸法どおりに正確に造り、それが完成した時、主の栄光の臨在があらわれ、幕屋に満ちた。(出エジプト記40章)
 
「主がここにおられる」は、聖徒たちが、主の御言葉どおりを正確に行う所に、あらわれるのだ。
 
こうしてエゼキエル書は、「主はここにおられる」という、主の御名が付された町の名前で終わった。
そして、聖書の終わり(黙示録)も、主がともにおられる都によって終わる。
 
結局、私達のこの地上の人生は、主の御言葉を守り行い、「主が共におられる」を礼拝において、そして生活の現場において現すものである。
そうして至る所に神の国を建設し、それが、主の定められた時に至って完成するまで、私達はそれを続けるのみである。

主日礼拝

マゴグとゴグのシナリオと私達の戦い方(エゼキエル38章)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

週報添付資料

 
 ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。入って来るニュースを見聞きする度、心が痛むが、これらの事を主導した者は、時代に働く、霊的な、闇を握った世の主権者、天にいる諸々の悪意を持つ霊的存在達である。これらこそ私達が格闘するべき相手であり、これらに対抗するために、私達が取るべき霊的武具は、「真理」「正義」「平安の福音の準備」「信仰」「救い」、そして「神のことばという御霊の剣」であり(エペソ6章)、その戦いは「ゆずった・ゆずらない」「容認した・容認しない」という、「意思と言葉の場所取り戦争」であり、勝利の鍵は、いかに「しつこく」真理に立ち、祈りと御言葉で攻撃し続けたか、である事を先週学んだ。
 私達は物理的支援はできなくても、祈りと御言葉の宣言によって、闇の霊的な勢力に攻撃をし続けるべきである。なお、今回のロシアの動きは、エゼキエル書や黙示録で予め預言されていた内容に一致する所が多く、今後、私達は大いに注視して祈る必要があると思われたため、今回エゼキエル書を見ていきたい。
 
 エゼキエル書38章には「メセクとトバルの大君(大首長)」「マゴグの地のゴグ」に対する預言が記されている。このマゴグとゴグは、黙示録によると、千年の獄から解放されたサタンが彼らを惑わし、海辺の砂のような数の大軍を召集し、神の都へ進軍するという事が書かれてある(20:7-8)。このマゴグとゴグとは何だろう。
それはイスラエルの「北の果てにある国々」(エゼキエル38:15)である。日本語訳で2節は、「メシェクとトバルの大君」と訳されているが、「大君」のヘブライ語ロシュ(頭、リーダーという意味)は、NKJVや文語訳では固有名詞「ロシュ」と訳されている。ロシュはロシアを、メシェクはモスクワを示しているとするなら、地理的にも、地名的にも、一致している。(別紙を見ると、モスクワは、イスラエルのほぼ真北にある事が分かる。)
 これが、多くの国と連合して、イスラエルへと攻めて来るのだが、その連合する国は、ペルシヤ(イラン)、クシュ(エチオピヤ)、プテ(リビヤ)、ゴメル(カッパドキア)、ベテ・トガルマ(アルメニア)である。(4-7節)
別紙を見ると、それらは、イスラエルを包囲する形で、立地している事が分かる。
 
 8-13節には、それらの国々がイスラエルに対して企む謀略が預言されているが、その企みはまさに、今回ロシアが辿った仕方と一致している。すなわち、防備の弱い国に対して色々な悪巧みを設け、あらしのように突然攻め上って、分捕り、腕力を奮ってかすめ奪う、という手法であり、13節を見ると、色々な国がその事に驚き、咎める事が書かれてある。今現在、ロシアにとってイスラエルはまだまだ狙いの外に見えるが、地図を見ると、ロシアはまさに南下を目指しており、そのシナリオが進みつつあるように見える。
 主は、主の民が取り囲まれ、滅ぼされるのをみすみす見過ごすような事は、なさらない(14-16節)。しかし神はなぜ、神の民の敵を「つけあがらせて」、神の民を取り囲む事を許されるのか。それは、「諸国の民の目の前に、主の聖なることを示し、彼らが主を知るため」、と書いてある(16節)。ちょうど出エジプトの時、エジプトの横暴を、敢えて許し、そのエジプトから神の民を救い出す事によって、主が圧倒的な栄光を受けられたのと同じである。 黙示録にも書いてfある。ゴグとマゴグは、聖徒たちの陣営と愛された都を包囲したが、天から火が降ってきて、包囲した者達は一瞬で焼き尽くされた、と。(黙示録20:7-10)  主がゴグとマゴグに報いる日、大地震が起こり(エゼキエル38:19-20)、主は彼らに同士討ち(21節)や、疫病と流血、また、彼と彼の部隊、また彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる事が書いてあり(22節)、そしてこれら全ての事を通して、主が栄光をお受けになる、と書かれてある。(23節)
 
 このように、エゼキエル書や、黙示録で、あらかじめ預言されている内容を見たからには、それらに該当しそうな者達は、その「滅びのシナリオ」に乗らないよう、横暴な事をしないよう気をつけて良いはずだが、悪辣な者達は、神の民にちょっかいを出したがるものである。それは彼らが、書かれてある事を信じないからであり、またサタンが、彼らの神に対する恐れを、麻痺させるからである。彼らは普段から、殺意や暴力、強奪といった、サタンが好む欲求を思い巡らし、それを手放さず、きよく聖であられる神に立ち返る事を、好まないために、サタンのそそのかしに、いともあっさり同意してしまうのだ。今、私達が受けるべきメッセージは、私達はいつも、時代を見張り、目を覚まして祈る必要がある、という事だ。全ては神のコントロール下にあり、最後には、主の勝利が成る事を宣言しつつ、目を覚ましていつも祈り、時代に働く暗闇の勢力を打ち砕き、平和を世にもたらして行く私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

エゼキエル書講解説教

神の民が受ける栄光の相続地とは(エゼキエル48:1-22)

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エゼキエル書48章1-7節では、47章後半において定められていた、イスラエル各部族が受けるべき相続地の、具体的な割り当て方が示されている。
 
主にある相続は、無条件に与えられるものではない。
かつて、イスラエル12部族に、くじによって割り当てられた相続地と、実際に彼らが住む事ができた相続地は、違っていた。
 
むしろ大多数の部族は、くじで割り当てられた「書面上の地」に比べると、実際に彼らが得て住んだ地は、はるかに狭かった。
なぜ、そうなってしまったのか。
その理由は、真理の上では「あなたが主から得たものは、これですよ」と示されていたのに、それを得に行かなかったからだ。
彼らは、「そこに住んでいる民は強い民だ」と言い訳して、戦うことを恐れたり、なまけたり、そこの罪深い原住民と妥協したりしたのである。
それで、元々住んでいた邪悪な人々が力を得て、イスラエルの民を追い出しにかかったのだ。
 
私達は主から、聖書に記されている内容を「書面上の地」として既に受けており、私達はそれを信じて、行って、そこに記されている莫大な祝福を勝ち得ていけば良いだけである。
 
それをしないで、現実を見て、恐れ、何もしなかったり、罪と妥協したりしているなら、結局それを得られないまま、狭い領域の中で細々と生きるしか無いのだ。
 
 
私達が主から与えられた相続地内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いをし続けているなら、かつてイスラエルの土地が、人を吐き出したように、その者は吐き出されてしまう。
 
 
続く8‐22節では、45:1-8で記されている奉納地についての規定が繰り返されており、特に、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保する事であり、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
 
エゼキエル48:9 すなわちあなたがたの主にささげる献納地は長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトとである。
エゼキエル48:10 これが祭司への聖なる献納地である。すなわち祭司の分は、北は二万五千キュビト、西は幅一万キュビト、東は幅一万キュビト、南は長さ二万五千キュビトである。主の聖所はその中にある。
 
神の民の相続地の中心は、聖所である。
すなわち、神の民の中心は、主の栄光の臨在である。
私達の生活の中心も、礼拝を中心に据えるべきであり、主の臨在の中で、日々の生活を歩んで行くのだ。
 
 
エゼキエル48:11 これはイスラエルの人々が迷い出た時、レビびとが迷ったように迷ったことはなく、わが務を守り通したザドクの子孫のうちから、聖別された祭司に属する。
エゼキエル48:12 このようにレビびとの境に沿って、いと聖なる地、すなわち聖なる献納地が、特別な分として彼らに帰属する。
 
ここでは特に、大祭司ツァドクの子孫への相続地が、特別に割り当てられている。
その地は、レビ族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。
 
彼らがこのような特別扱いを受けた理由は、彼らは、イスラエル人が迷い出た時、いっしょに迷い出ず、また、迷い出た他のレビ人達とは違って、聖なる任務を貫き通したからだ。
 
この法則は、現在も同じである。
 
世の人々が、いかに堕落した生活を送っているとしても、あるいは、現代のレビ人である神の国の働き人たちの多くが堕落したとしても、私達は、固く信仰を保ち、今日も、神の国の仕事を忠実に成して行くのみである。
そうするなら、天において受ける永遠の相続は、他よりも偉大なものとなる。
 
イエス様を信じて得られる報酬は「救い」であり、それは誰も彼も分け隔ての無い、同じ報酬である。
しかし、その信仰を用いて行った「行い」の報いは、その行いに応じ、ある人には10、ある人には5、といった「差」が生じる。
しかも、せっかく与えられた聖なる仕事を、何もしないまま、与えられている膨大な年数を使い切っても、なお主人に文句を言っているとするなら、持たされたものは取り上げられ、外に追い出され、泣いて歯ぎしりする事になってしまうのだ。(ルカ19:11-27)
 
 
エゼキエル48:13 レビびとの分は祭司の所有地の境に沿って、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビト、すなわち、そのすべての長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトである。
エゼキエル48:14 彼らはこれを売ってはならない、また交換してはならない、またその大事な分を手ばなしてはならない。これは主に属する聖なる物だからである。
 
レビびと、すなわち、主の働き人が受けた相続は、どの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない、と定められた。
私達も、主にあって得た聖なる仕事、聖なる相続を、決して手放したり、世の何物かと取り替えたりしてはならない事を、示している。
 
 
エゼキエル48:15 その残りの地すなわち幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトは町のため、すみかのため、また郊外のための一般人の地所とせよ。町はその中に置け。
エゼキエル48:16 一般人の地所の広さは次のとおりである。すなわち北の方四千五百キュビト、南の方四千五百キュビト、東の方四千五百キュビト、西の方四千五百キュビトである。
エゼキエル48:17 町は郊外を含む。郊外は北二百五十キュビト、南二百五十キュビト、東二百五十キュビト、西二百五十キュビトである。
 
このように、国土の分割の仕方や、都市や神殿や、それらの付属物の配置は、完全に規則的である。
啓示録において示された天の都も、そうである。
神の国は、秩序正しく、美しく、尊いのだ。
 
 
エゼキエル48:18 聖なる献納地に沿っている残りの地の長さは東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。これは聖なる献納地に沿っており、その産物は町の働き人の食物となる。
エゼキエル48:19 町の働き人は、イスラエルのすべての部族から出て、これを耕作するのである。
エゼキエル48:20 あなたがたがささげる献納地の全体は二万五千キュビト四方である。これは町の所有地と共に聖なる献納地である。
 
聖なる奉納地の残りの地所で収穫したものが、働き人の食物となる事が示されている。
主は、働く牛にくつこをしてはならない、と言われた。
働き人には、食べる分があるのだ。
 
もし働き人が、ひもじい思いをしているとするなら、主に、その保証を堂々と求めるべきであって、やせがまんするべきではない。
 
 
エゼキエル48:21 聖なる献納地と町の所有地との、こなたかなたの残りの地は、君たる者に属する。これは聖なる献納地の二万五千キュビトに面して東の境に至り、西はその二万五千キュビトに面して西の境に至り、部族の分に沿うもので、君たる者に属する。聖なる献納地と、宮の聖所とは、その中にある。
エゼキエル48:22 町の所有地は、君たる者に属する部分の中にあり、そして君たる者の分は、ユダの領地と、ベニヤミンの領地との間にある。
 
エゼキエル書後半において示されている「君たる者(ナーシー)」は、上に立つ者であって、王ではなかった。
彼らは、民に代表して礼拝を捧げる役割がある事が、46章で示されたが、その君主に対しても、特別な割り当てが与えられている。
 
主のために特別な役割を果たす者には、特別な割り当てがあるのだ。
 
神の民は、聖なる民であり、私達自身を聖なる者として保ち続けるべきなのだ。(1ペテロ1:15-16)

篇講解説教

主にあって喜び楽しむ神の民(詩篇97篇)

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詩篇97篇は、70人訳聖書の表題には「ダビデのために。彼の地が安定した時に」とある。
バビロン捕囚から帰還した時代背景も考えられるが、この詩篇は、神の国が到来した時にも当てはまり、また、主の再臨の時にも当てはまる内容である。
 
 
詩篇97:1 主は王となられた。地は楽しみ、海に沿った多くの国々は喜べ。
 
「王となられた」は、マーラフという動詞「王となる・王として統治する」の、完了形である。
 
地や島々に対し、楽しみ、喜べ、と命令できる根拠は、義によって統治される主が、王となられ、その統治が及ぶようになったからだ。
 
この詩篇で反復されているキーワードは、この「楽しみ」(1,8節)、「喜べ」(1,8,12節)である。
「楽しむ」(ギール)は元々、くるくる回る事の意味で、「喜ぶ」(サーマフ)は、顔がパーッと輝く様をあらわしている。
雅歌書のおとめも、このギールとサーマフの「二本立て」で喜んだ。
 
雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。
 
「あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)。。。」
これはちょうど、子犬が、大好きな主人を前に喜んで、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、くるくる回りながら、しきりに鳴くような感じである。
花嫁が王の元に嫁ぎ、王が彼女を彼の部屋へとエスコートした時、彼女はそのような喜びを喜んだ。
私達キリスト者も、花婿であられるイエス様が来られて、彼にエスコートされて御国へと入る時、そのような喜びが沸き起こるが、今、もし私達が、イエス・キリストを自分の王としているなら、その喜びはまさに今、味わう事ができるのだ。
 
 
主が王になられる事は、まさに、「神の国」の到来である。
神の国(ギ:バシレイア)とは、神の「支配領域」の事だからだ。
 
 
ルカ17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 
つまり、私達が神の統治に服しているなら、私達の人生が「神の国」の人生であり、また、クリスチャン事業家が、職場を神の統治下に置いているなら、その職場が神の国である。
そして、神の国が私達のただ中にあるなら、私達も主にある「楽しみ(サーマフ)喜ぶ(ギール)」分がある。
 
 
詩篇97:2 雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である。
詩篇97:3 火はそのみ前に行き、そのまわりのあだを焼きつくす。
 
3節の「あだ(ツァル)」は、元々は「狭い所」の意味で、そこから、敵、苦悩の意味となった。
主の「御顔の前の火(直訳)」火は、主の「義と正」の反対を攻勢して来るサタンにとっては、恐ろい火であるが、主とともに歩んでいる私達・主の民にとっては、慰めの火である。
その火が、私達の人生を狭くしている諸々の苦悩や、それをもたらすサタンを、焼き尽くして下さるからだ。
だから私達は、主と共に歩むべきである。
 
4節以降で、主の力と栄光が強調されている。
 
詩篇97:4 主のいなずまは世界を照し、地は見ておののく。
詩篇97:5 もろもろの山は主のみ前に、全地の主のみ前に、ろうのように溶けた。
詩篇97:6 もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た。
詩篇97:7 すべて刻んだ像を拝む者、むなしい偶像をもってみずから誇る者は/はずかしめをうける。もろもろの神は主のみ前にひれ伏す。
 
「刻んだ像」のヘブライ語「ペセル」は、木や石を刻んだもの、すなわち、人間の技術が生み出したものである。
また、「むなしい偶像(エリィール)は、」は、「偶像」「意味の無いもの」、特に、占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを意味する。
 
人間の技術が生み出した、実体の無いものを、誇りとしている者は、やがて「はずかしめをうける」ことになる。。。
この、「はずかしめをうける」と訳された語「ブシュ」は、「青ざめる」「恥ずかしい思いをする」「がっかりする」「うろたえる」「干からびる」などの意味がある。
つまり、人間の技術が作り出した、実体を伴わない仮想の空虚なものや、アイドル(偶像)にうつつを抜かしながら、何十年も過ごしているとするなら、やがて、うろたえ、恥ずかしい思いをし、がっかりする事になってしまう。
 
 
詩篇97:8 主よ、あなたのさばきのゆえに、シオンは聞いて喜び(ギール)、ユダの娘たちは楽しむ(サーマフ)。
詩篇97:9 主よ、あなたは全地の上にいまして、いと高く、もろもろの神にまさって大いにあがめられます。
 
シオンと、ユダの娘たちにも、ギールとサーマフの二本立ての喜びが、沸き起こった。
彼女たちは、神の民であり、全ての神々をはるかに超えて高きお方が、さばきを実行されたからだ。
 
キリストの花嫁である教会も、花婿キリストが来られる時、そのように喜ぶのである。
 
 
詩篇97:10 主は悪を憎む者を愛し、その聖徒のいのちを守り、これを悪しき者の手から助け出される。
 
主は「”悪”を憎む者を」愛する、と言われた。
「”悪人”を憎む者を」、ではない点がポイントである。
 
キリスト者は、悪人が火で焼かれることを望む者たちではない。
悪人と会うとするなら、その人から”悪”をとり除いて、”人”を救い出すのが、キリスト者の本来であり、それがイエス様のご性質である。
 
詩篇97:11 光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。
 
原文は、光は、正しい人のために「種蒔かれる(ザーラア)」と書いてある。
種は、良い地に落ちれば、100倍の実を結ぶが、その良い地とは、正しい良い心で御言葉を聞いて、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人の事である。(ルカ8:15)
私達がそうなるなら、私達は光の子供として、世のいたる所に光を届ける者となっていく。
 
 
詩篇97:12 正しき人よ、主によって喜べ(サーマフ)、その聖なるみ名に感謝せよ。
 
パウロも言っている。
ピリピ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
 
私達は、主を信じる信仰によってこそ正しくされ、この主にあって、真に喜ぶ(サーマフ)事が、すなわち、喜びによって顔がパーッと明るく輝く事ができるのだ。

詩篇講解説教

全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)

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詩篇96:1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
 
最初に反復されている言葉は「主にむかってうたえ(シールゥアドナイ)」、ヘブライ語の朗読を聞くと、1-2節にかけて「シールゥアドナイ(主に歌え)」が3回、テンポよく続いている。
詩篇95-100篇は、そのようなテンポの良い反復が続いて、賛美の歌詞としてとても適している事が分かる。
 
この詩篇の作者は、誰に向かって「主にうたえ」と言っているか。
それは、「全地(コール・ハ・エレツ:地の上にある者の全て)」を相手取って、命令形で、命じている。
 
一体、この作者は、何さまなのだろうか?
 
それは「人間さま」である。
 
 
主は元々、人間に、全地を支配し、治めるべき役割と責任を与えられた。(創世記1:28)
 
人は、全地を「主にあって」、正しく治めるべきである。
その「正しく治める」とは、全地も人も、こぞって創造主であられる主をほめたたえさせる方向性で、である。
 
残念ながら今、自然界は、人の好き勝手に、それぞれの自己中心的な欲望の赴くままに、搾取し、破壊しているため、被造物は、うめいている。
 
ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
 
私達は、任されている被造物を、主に栄光を捧げる方向性にて治め、全地が主に向かって喜び賛美できるよう、正しく管理し、治めるべきなのだ。
 
 
詩篇96:2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
詩篇96:3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
 
私達が、被造物に対して、最もなすべき事は、この2-3節で示されている通り、主を宣べ伝える事である。
 
イエス様は昇天される前、私達に命じられた。
 
マルコ16:15  「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 
 
福音を宣べ伝えるべき相手は、人間には限らず、「すべての造られた者」である事に、注目すべきである。
私達は、被造物に対しても、主が救い主となられたという「福音」を宣言し、呪いを解いてやることもまた、使命なのだ。
 
 
なお、2節の「宣べ伝えよ」はバーサル、喜びに満ちた、明るいニュースを告げる事であり、3節の「あらわし」はサーファル、集計や記録として印をつける事が元の意味で、すなわち、一つももらさず正確に伝える事を意味する。
 
だから、主の栄光を伝える際には、
1,喜びに満ちた表情で明るい救いのニュースを伝える
2,御言葉は、一つも漏らさず、正しく伝える
という、二本立てが必要であり、そのどちらも欠かしてはならない。
 
イエス様は、福音を告げるべき命令を、私達人間に託された。
 
1コリント1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
 
十字架の福音という宣教のことばは、愚かに聞こえるかもしれない。
死者の復活や、永遠のいのちなど、世の人が聞くなら、信じられない、と言うかもしれないが、しかし私達の分は、喜びつつ、そして、一つも漏らさず、正しく伝える事であって、伝えた福音を受け入れるか、受け入れないかは、私達の責任ではなく、相手の責任である。
 
 
詩篇96:4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。
詩篇96:5 もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。
 
ここで反復されている語は「もろもろの神(エロヒーム)」であるが、それは、異邦の神々の事である。
それらの神々は、天地を創造された主と比較するなら、むなしい。
そもそも、天地を創造された主を置いて、ほかに神々はいないのだが、主は、地の人々が「神々」と呼んでいるものに比較して、抜きん出て力があり、栄光に満ちたお方である。
 
 
詩篇96:6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
 
主の栄光は全地に満ちており、至る所が、主の御前である。
私達はその「御前」において、どのような態度であるべきか。
7節以降に書かれてある。
 
 
詩篇96:7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
詩篇96:8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
 
7-8節では「主に帰せよ(ハヴゥ・アドナイ:主に与えよ)」が、3回反復されている。
 
私達の分は、主に与える事、捧げる事であり、捧げるものは栄光と力である。
特に、「栄光(カーボード)」を捧げよ、と、2回繰り返されている。
カーボードは元々「重い」という意味である。
すなわち、主に栄光を捧げる、とは、主を重んじる心を捧げる、という事である。
 
8節後半から9節は、礼拝という場において持つべきこころざしが記されている。
 
詩篇96:8b 供え物を携えてその大庭にきたれ。
詩篇96:9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
 
つまり私達は、手ぶらで主の庭に入ってはならない。
出エジプト記34:20にも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない、と書いてある。
 
だから、主の前に出る時には、
1,手ぶらではなく捧げものをたずさえて
2,聖なる装いをして
進み出るべきなのだ。
 
だから礼拝に出る時、身を清めもせず、寝起きのままのような適当な格好で、手ぶらで出る事は、主を軽んじる事なのだ。
 
 
詩篇96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
詩篇96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
 
天や地に、海に対し、喜べ、と命じている。
私達は天に向って、台風は来るな、とか、明日は雨が降るな、といった祈りをよくするかもしれないが、むしろ、「喜べ」と命じたほうが良い。
 
詩篇96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も/主のみ前に喜び歌うであろう。
 
植物に対しては、主の前で栄光の花を咲かせ、喜びつつ豊かな実りを主の前で実らせよ、と、命じるのだ。
実際、植木や生花に対して、人が、祝福の言葉をかけてやると、その木は豊かな実りを実らせ、花は長生きする。
逆に、呪いの言葉をかけ続けるなら、すぐに枯れてしまう。
 
私達は、被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけてやるべきである。
 
 
詩篇96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
 
13節は「来る(ボー)」と、さばく(者ファット)が繰り返されている。
主が来られる事と、主のさばきは、主を待ち望んでいる神の民には、慰めであるが、悪者にとっては、それはおそろしい日である。
 
だからこそ、福音を伝えるべきである。
そして被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけ、全て主に創造された者たちが、主に栄光をささげるようにしてやるべきなのだ。

詩篇講解説教

礼拝する民への勧めと警告(詩篇95篇)

Youtube動画

詩篇95篇から100篇までは、主の栄光を褒め称える賛美が続き、これらの箇所では、「主の御前」「主の大庭」における心構え、すなわち、礼拝という場において私達はいかなる心や態度で臨むべきかが、示されている。
 
詩篇95:1 さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:2 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:3 主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。
 
1-2節で反復されている言葉は、「喜ばしい声をあげよう(ルーア)」である。
そのヘブライ語ルーアの元の意味は「(耳を)裂く」、そこから、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す、という意味となっている。
また、1節前半の「歌う(ラーナン)」も、同じ意味で、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す事である。
 
喜びの声を上げることが、反復して命じられている。
 
礼拝では、御言葉に聞き入るという「インプット」と、賛美や祈りという「アウトプット」をするが、アウトプットの場面においては、主に向かって声を上げ、また色々な楽器を奏でて、主を賛美し、また声に出して祈る事が、本来のあり方だ。
 
どなたに向かって、声に出し賛美をするか。
それは、「われらの救の岩にむかって(レ・ツゥル・イシュエヌー)」、と書いてある。
イシュエヌーは「わたしの救い」、すなわち、わたしのイエシュアに、わたしのイエス様に!である。
 
わたしの主イエス様こそ、救いの岩なるお方、われらの大いなる神、すべての神々にまさって、大いなる王であられる。
この主に向かって、声に出して賛美せよ、と、1-3節で語られているのだ。
 
 
詩篇95:4 地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。
詩篇95:5 海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。
詩篇95:6 さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。
 
下は地の深みから、上は山々の頂きまで、すなわち、下から上まで「全部」が、主のものであり、主の御手がつくられた。
 
国々の間では、よく、国境の境界線の問題が取り沙汰されているが、主が言われている事は、地は上から下まで、山々の頂も、海も、島々も、全て主のものである、という事である。
だから私達は、貪欲さをむき出しにして、土地や財を獲得しようとしてはならないし、不当に搾取されてもならない。
 
ルカ12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
 
だから私達の分は、6節にある通りである。
地をつくられ、海を造られ、そして私達を造られた主を拝み、ひれ伏し、御前にひざまずくのである。
 
7節以降には、神の民として分を超えてはならない事が警告されている。
 
 
詩篇95:7 主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。
 
私達は、主の羊である、と、宣言された。
羊の「分」は、何か。
それは、羊飼いについて行く事、その御声に聞いて、その通りにする事であり、私達は「主の羊」としての分を、超えてはならない。
 
 
詩篇95:8 あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
 
マサは「試み」(出エジプト記17:1-7)、メリバは「争い」(民数記20:1-13)を意味する。
 
マサの出来事は、出エジプトしたばかりの時に、メリバの出来事は、荒野での40年の最後に起きた出来事だ。
いずれも、人にとって必要な水が無いという事で試された事件である。
 
マサの時、人々は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた
メリバの時には、主が導いておられる道すがらなのに、ここは穀物や果物が育つような所ではなく水もない、自分たちは死んでいれば良かった、と言って主と争った。
そのように心を「かたくな」にしてはならない、と、命じられている。
 
 
詩篇95:9 あの時、あなたがたの先祖たちは/わたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。
詩篇95:10 わたしは四十年の間、その代をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。
詩篇95:11 それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。
 
この箇所は、ヘブル人への手紙で引用され、しかも、反復強調されている。
 
ヘブル3:7 だから、聖霊が言っているように、/「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
3:8 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
3:9 あなたがたの先祖たちは、/そこでわたしを試みためし、
3:10 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、/いきどおって言った、/彼らの心は、いつも迷っており、/彼らは、わたしの道を認めなかった。
3:11 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息に/はいらせることはしない、と誓った」。
 
彼らは、御声を聞いた事がない、のではない。
御声を聞いていて、その上で心をかたくなにして、そむいたのである。
 
安息へと入らないためのコツ、主が「共におられなくなる」ためのコツは、心かたくなにする事、うなじをこわくする事である(出エジプト記33:5)。
かたくなさ。
それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
 
 
そうならないためのコツは、聖徒の交わりの中にいて、ともに励まし合う事である、と、続く節で語られている。
 
ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
 
「きょう」という言葉が繰り返し強調された。
 
今、私達は、主から何か御言葉が与えられているだろうか。
主の御旨にかなった、あの事をしなさい、と、言われているだろうか。
捧げ物を滞らせていないだろうか。
あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を、止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。
怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するあの習慣、兄弟姉妹を悲しませているあの性質から、離れなさい、と言われているだろうか。
 
もし語られているなら、顔を背けず、それに服従すべきである。
いつ?
それは、「きょう」、すなわち、「今すぐ」である。
 
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
 
結局、安息に入る条件とは、聞いた御言葉を、信仰によって結びつけ、それに従順する事である。
御言葉を聞いたなら信じ、信じたなら、きょう、自分の意図を捨てて、御言葉のほうに服従する事。
安息に入るためには、それをするに尽きる。
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