メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
イエス・キリストの復活と真理の光(マタイ28:11-15)
メッセージ音声
【概要】
イエス様の復活という真実を嘘で覆い隠そうとした祭司長たちの姿から、私たちの中にある罪を隠す性質を見つめ直し、光の子として真理に立つことの大切さを学びます。
【聖書箇所】
マタイ28:11-15
ヨハネ1:5
【戒めの言葉】
自分の間違いや都合の悪いことを認めず、嘘で覆い隠そうとする罪の性質に注意しなければなりません。
【励ましの言葉】
どれほど闇が真理を覆い隠そうとしても、光である真理は決して消えることはなく、必ず闇に打ち勝ちます。
【勧めの言葉】
私たちは光の勇士として立ち上がり、暗闇に覆われたこの世界に、イエス・キリストの復活の希望の光を届けていきましょう。
【***詳細***】
マタイによる福音書の28章11節から15節を、新改訳2017年版の聖書で朗読します。皆さんもそれぞれの聖書で確認してください。
「彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。『「弟子たちが夜やって来て、我々が眠っている間にイエスを盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。』そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。(マタイ28:11-15)」
アーメン、ハレルヤ。イエス様、あなたの復活は確かに起こりました。それが真実であることを感謝します。世の中はその事実を塞ごうとしています。今もなおその力が働いており、今日までユダヤ人の間だけでなく、世界中にこの偽りが広まっています。このつくばみらいの地もそうです。どうか、あなたが真理の光を照らしてくださいますように。今から御言葉を取り次ぐ私の唇を清め、聞く人々の耳を清めてください。私たち全員の体調も霊的な状態も整えられ、御言葉の光の前で大いに恵まれ、癒やされ、祝福されますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
2026年4月6日の月曜日にメッセージを担当した際、私は聖書ソフトで新改訳2017年版を選んで使いました。以前は第三版がよく使われていたのですが、その月曜日に2017年版を使ったところ、阿部先生から「林先生、2017年版を使ってくださって嬉しいです」と言葉をかけられました。次世代の教育をしているのだから、古い版ではなく新しい版へ移行していくのが神様のみこころなのだと感じ、これからは順次2017年版を使っていこうと思っています。
今日の箇所は、イエス様の復活の場面の一つです。しかし、ここに登場するのはイエス様を信じる弟子たちではありません。イエス様の復活を聞いてもそれを受け入れず、反発する反対勢力の人たちの物語です。
イエス様の復活は紛れもない事実です。実際に地震が起き、重たい墓の石が動かされ、天使が降りてきました。その驚くべき場面に立ち会ったのは、イエス様を信じていた人たちではなく、ローマの兵士2人だったのです。兵士たちはその光景を見て震え上がり、死人のようになってしまいました。
女性たちが天使からイエス様の復活を聞き、弟子たちのところへ走っていく間に、兵士たちは我に返りました。そして、彼らがいち早く向かった先は、真実を語るべき場所ではなく、祭司長たちのところでした。
兵士たちは祭司長たちに、起こったことをありのままに報告しました。見張りをしていたら突然地震が起き、天使が降りてきて墓の石を転がし、墓の中が空っぽになってしまったという事実です。イエス様ご自身がそこに現れたかどうかは書かれていませんが、とにかく墓が空になったという出来事を伝えました。弟子たちにどう伝えるべきか迷うほどの真実を、兵士たちは祭司長たちにそのまま伝えたのです。
この報告を聞いた祭司長たちは、どうしたでしょうか。もし彼らがイエス様の復活など全く信じていなかったのなら、「何を馬鹿なことを言っているんだ。酒でも飲んでいたんだろう。顔を洗って帰れ」と追い返したはずです。しかし、祭司長たちはそうしませんでした。なんと、兵士たちに多額のお金を渡し、口裏合わせをさせたのです。お金を渡して嘘をつかせたということは、祭司長たちは兵士たちの報告を「信じた」ということです。
これはとても不思議な逆転現象です。イエス様に出会った女性たちから復活の知らせを聞いた弟子たちは、最初それを信じませんでした。それなのに、イエス様を十字架につけた祭司長たちは、イエス様の復活を信じてしまったのです。
私たちクリスチャンも、これに似たところがないでしょうか。教会の中では「イエス様は確かに復活されました」と信じると言いながら、教会から一歩外に出ると、まるで信じていないかのように、イエス様の復活の力などないかのように振る舞ってしまうことはないでしょうか。
祭司長たちや宗教指導者たちは、兵士たちの様子を見て「イエス様は本当に復活されたんだ。どうしよう」と慌てて議論したことでしょう。しかし彼らが選んだ道は、「真実をなかったことにする」という選択でした。真理が目の前で起きたのに、それをなかったことにしようとする力は、今の世の中にも働いています。悪魔サタンは、真理を嘘で覆い隠し、なかったことにするということを昔からずっと続けてきました。
実際にあった社会の出来事を例に挙げましょう。三菱自動車のリコール隠しの問題です。1980年代から、車に欠陥があることを会社はずっと隠していました。事故やクレームがあってもリコールをせず、事故を「なかったこと」にする体質が会社の中で当たり前になっていました。
では、隠したことで欠陥という真実は消えたのでしょうか。いいえ、欠陥は確かにそこにありました。ただ、覆い隠されていただけで、根本的な解決は何もされていなかったのです。
そして2002年、横浜で母と子が犠牲になる痛ましい死傷事故が起きました。大型トラックのハブが壊れたことが原因でした。この事故によって人命が失われ、20年近くも会社ぐるみで欠陥を隠し続けていたという真実がついに発覚しました。結果として会社の社会的な信用は失墜し、より大規模なリコールが必要になり、経営危機に陥ってしまいました。
もし最初の段階で間違いを認め、悔い改めて対処していればよかったのです。しかし、嘘で覆い隠し、対処しないまま放置し続けた結果、問題はどんどん蓄積され、最後には裁きの火の燃える炭火が自分たちの頭の上に重くのしかかってきたのです。
今日の聖書箇所で起きていることも同じです。イエス様の復活は真実であり、兵士たちはその真実を伝えました。しかし、それに対する反対勢力も確かに働くということを私たちは知っておくべきです。
自分にとって都合の悪い真実を覆い隠そうとする人間の性質は、人類の最初、アダムとエバの時代から始まっています。彼らは神様の言いつけを破り、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。その結果、自分たちが裸であることに気づき、真っ先にした行動は、いちじくの葉を綴り合わせて自分たちの体を覆い隠すことでした。自分の恥ずかしい部分、失敗した部分を「なかったこと」にしようとする性質は、最初の人類からずっと続いているのです。
私たちの中にも、この肉体を持っている限り、失敗を言葉や行動で巧みに覆い隠そうとする性質が残っています。しかし、それはしてはいけないことです。なぜなら、隠したものはやがて必ず、より大きな形で明るみに出るからです。たとえこの地上で誰にも見つからなかったとしても、神様はすべてをご存知です。
復活は確かに起こりました。それは真理です。兵士たちはそれを伝えましたが、祭司長たちは、多額のお金を渡してそれを覆い隠そうとしました。兵士たちはお金を受け取り、祭司長たちに言われた通りの嘘を人々に広めました。その結果、ユダヤ人の間で、そして全世界で「イエス様の復活はなかった」という嘘が広まってしまったのです。
なぜ祭司長たちは真実を隠したのでしょうか。もしイエス様の復活が本当だと認めてしまえば、自分たちが間違っていたことを認めなければならないからです。それはプライドが許さない、恥ずかしい、自分の正しさを貫きたいという心理が働いたのです。人間は、自分の罪や間違いを認めるよりも、真理のほうを歪めてしまう道を選びやすいという弱さを持っています。
私たちも、神様に従うべきだということ、イエス様の復活が真理だということは分かっています。それでも、都合が悪くなるとそれを覆い隠してしまおうとする弱さがあるかもしれません。
しかし、私たちは知るべきです。真理を消すことは絶対にできません。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」と聖書にある通りです。
私たちは、イエス様が復活されたという真理の土台に、しっかりと立ち続けるべきです。イエス様は「全世界に出て行き、福音を伝えなさい」と言われました。弟子たちはその言葉通りに福音を伝えていきましたが、彼らが行く先々には、必ず「イエス様は復活しなかった。弟子たちが夜中に遺体を盗んだのだ」という嘘も入り込んできました。
しかし、少し考えればそれが嘘であることは分かります。2026年4月8日の水曜日に先生がおっしゃった通り、あんなに重たい墓の石を夜中にゴロゴロと動かしたら、見張りをしていた兵士たちが絶対に気づくはずです。また、狭い墓の中から何人かで担架か何かに乗せて遺体を運び出そうとすれば、絶対にバレてしまいます。色々と無理があるのです。
それでも、嘘を信じたい人は嘘のほうを信じてしまいます。自分より偉い王様が存在しては困ると考えたヘロデ王も、イエス様を亡き者にしようとしましたが失敗し、その後すぐに亡くなりました。
イエス様が復活して生きておられると困る人、「神様がいては困る」「裁きがあっては困る」「自分の罪を認めて悔い改めなさいと言われるのは嫌だ」と思う人は、祭司長たちの側につき、嘘を広める側に立ってしまいます。
現代でも、共産圏の国々などでは、真実を隠すために多額のお金が使われることが多々行われています。イエス様の存在をなかったことにしようとする動きは、今の日本のマスメディアの中にもあります。インタビューでイエス様のことを証ししても、必ずカットされてしまうような力が働いています。
けれども皆さん、真理を消すことは絶対にできません。光と闇の戦いにおいて、光であるからには必ず光の側が勝つのです。一時的に闇が覆い尽くしたように見えても、後になってその闇は必ず、大規模で恥ずかしい形で崩壊し、光が必ず輝きを放ちます。
私たちは、光の側に立ちましょう。皆さんは、光の勇士たちです。光の勇士として行動し、このつくばみらいの地に、イエス・キリストの復活という希望の光を力強く伝えていってください。暗闇に覆われたこの土地に、まだ福音がない場所に、福音の光をもたらす皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します。アーメン。
愛するイエス様。あなたは真の光であり、光は必ず闇に勝利することを感謝します。この世界は初め、暗闇に包まれていましたが、神様が「光、あれ」と言われると光ができました。神様は光を良しとされました。神様は闇よりも光を望んでおられます。
私たちも今、このつくばみらいの地や、子どもたち、次世代に向けて光をもたらす働きをしています。どうか、あなたが私たちの間を明るく照らし、進むべき道と方向を示してください。今日もまた、あなたの光の勇士として歩むことができますように。今日という一日、そして私たちが始めている働きを感謝し、愛する主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【結論】
イエス・キリストの復活という真理は、いかなる権力や嘘によっても覆い隠すことはできません。私たちは、自分の罪や弱さを隠そうとする性質を退け、真理の光の上に堅く立ち、暗闇の世に希望の光を届ける「光の勇士」として歩んでいくことが求められています。
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復活のイエス・キリストと福音を伝える使命(マタイ28:1-10)
メッセージ音声
【概要】
死を打ち破り復活されたイエス・キリストが、「恐れるな」「喜べ」と私たちに語りかけ、共にいてくださる恵みと、次世代へ福音を伝える使命について語られたメッセージです。
【聖書箇所】
マタイ28:1-10
【慰めの言葉】
悲しみや死の力に打ちひしがれている時でも、世の中の誰よりも早く主を慕い求める者には、イエス様が真っ先に出会ってくださいます。
【励ましの言葉】
死のカテゴリーを打ち破り永遠に生きておられるイエス様が、「恐れることはありません」「今、喜べ」と私たちに力強く語りかけておられます。
【勧めの言葉】
私たちはイエス・キリストにあって命に属する神の家族とされました。主が常に共にいてくださることを信じ、全世界に出て行き、次世代の子どもたちへ福音を伝えていきましょう。
【***詳細***】
さて、今朝のメッセージで恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書28章1節から10節です。まずは1節と2節にこのように書かれています。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の使いが天から下って来て、石をわきへ転がして、その上に座ったからである。」(マタイ28:1-2)
イエス様は十字架にかかって死なれましたが、安息日が明けた日曜日、つまり週の初めの日に復活されました。イエス様が復活して一番最初に出会ってくださったのは、この女性たちでした。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かう時、ヨハネ以外の弟子たちは皆、恐れて逃げてしまいました。しかし女性たちは、自分たちには何もできなくても、ただ泣きながらイエス様の後をついて行きました。そして日曜日の明け方、まだ太陽が昇りきらない暗いうちから起き出し、イエス様の遺体に防腐のための油を塗るために墓へと向かったのです。彼女たちはイエス様が復活したとは信じておらず、死んだままだと思い込んでいました。それでも、イエス様を心から慕って早朝から行動しました。現代の私たちも同じです。世の中の多くの人たちがまだ眠っている早朝から、イエス様を慕って御前に進み出ています。そのように慕い求める私たち一人ひとりに、イエス様は必ず出会ってくださいます。
彼女たちが墓に着くと、大きな地震が起こりました。主の使いが天から降りてきて、墓の石を脇に転がしたからです。イエス様はすでに復活しておられたので、たとえ御使いが石を転がさなくても、墓の外に出ることはできました。鍵のかかった部屋にさえ自由に入ってこられる方だからです。それにもかかわらず、御使いがわざわざ石を転がしたのは、私たち人間や弟子たち、そして世の中の人々に対して「確かにイエス様は墓の中にはいない」ということをはっきりと見せて証明するためでした。
御使いの姿は稲妻のようで、衣は雪のように白く、それは天国にいる者の姿そのものでした。墓を番していた兵士たちは、その姿を見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまいました。しかし、イエス様を慕って来た女性たちはそうはなりませんでした。御使いは彼女たちにこう語りかけます。
「恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」(マタイ28:5-6)
今日の箇所では「恐れることはありません」という言葉が何度も繰り返されます。御使いが石を動かして墓の中を見せたのは、死人が葬られる「死」のカテゴリーの中に、もはやイエス様はおられないことを示すためです。ブッダやムハンマドといった歴史上の人物たちは、皆「死」のカテゴリーの中に留まっています。しかし、私たちの主イエス様は死の力を打ち破り、永遠に生きておられる「命」のカテゴリーにおられます。そして、イエス様を信じる私たちもまた、同じ「命」のカテゴリーに属しているのです。
イエス様は十字架にかかる前から、「三日目によみがえる」と何度も弟子たちに伝えていました。しかし、弟子たちの誰一人としてそれを信じていませんでした。これは、現代を生きる私たちにとっても同じことが言えます。聖書には、世の終わりに何が起こるか、そしてイエス様が再び来られる(再臨される)ことが前から書かれています。イエス様は十人の乙女の例え話を通して、盗人が夜にいつ来るか分からないように主の日も来るのだから、目を覚まして備えているようにと教えられました。私たちはこの御言葉を信じ、イエス様が来られるその良い日のために、自分自身をしっかりと整え、準備をしておくべきです。
御使いはさらに女性たちに告げます。
「さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って、弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか。私は確かにあなたがたに伝えました。」(マタイ28:6-7)
不思議なことに、神様は震え上がって隠れている弟子たちに直接御使いを送るのではなく、女性たちを通してキリストの復活を伝えるという方法をとられました。パウロが「宣教の愚かさ」と表現したように、神様はあえて人間を通して御言葉を伝えることを選ばれたのです。女性たちは、「イエス様が死人の中からよみがえられたこと」、そして「弟子たちより先にガリラヤへ行き、そこで会えること」を伝える大切な役割を託されました。
私たちにも同じように伝える役割が与えられています。私たちは聖書を通して直接神様から言葉を受け取っています。ですから、私たちの生きる場所や、全世界に出て行って福音を宣べ伝える使命があるのです。そして、すべての権威を与えられたイエス様が、いつも共にいて働いてくださるという約束をいただいています。
続いて、8節と9節にはこう書かれています。
「彼女たちは、恐ろしくはあったが、大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると、見よ、イエスが『おはよう』と言って彼女たちの前に現れられた。彼女たちは近寄って、その足を抱き、イエスを礼拝した。」(マタイ28:8-9)
弟子たちはガリラヤに行かなければイエス様に会えませんでしたが、この女性たちは墓から走って行く途中、すぐにイエス様ご自身と直接出会うことができました。これは早朝から主を慕い求めたことの大きな幸いです。イエス様は「おはよう」と声をかけられましたが、これは当時の挨拶で「喜べ」という意味を持つ言葉です。しかも、現在形であり、能動態の命令形が使われています。つまり、「今、現在、喜びなさい」という復活の主からの力強い命令なのです。「恐れるな」、そして「喜べ」。これがイエス様からの大切なメッセージです。
10節でイエス様はさらにこう言われます。
「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」(マタイ28:10)
ここでも「恐れることはありません」と繰り返されています。イエス様は今、このつくばみらいキリスト教会に集う私たちにも「恐れることはありません」と語りかけておられます。私たちが祈りながら歩み、探し求めた結果、阿部先生ご夫婦を通して神様の導きがあり、この教会堂の場所が与えられました。世の中の不動産会社の競争を乗り越えて、とても良い条件でこの建物を手に入れ、内装や外装の工事も驚くほど順調に進んできました。しかし、ここで終わりではありません。イエス様はこの場所でこれからさらに素晴らしい計画を進めてくださいます。私たちは復活の主の力がここで豊かに働くことを心から期待しています。
イエス様は弟子たちのことを「わたしの弟子たち」ではなく「わたしの兄弟たち」と呼びました。十字架と復活を経て、弟子たちは単なる従者から、イエス様を長男とする「神の家族の兄弟姉妹」へと格上げされたのです。やがてイエス様が再び来られる時、私たちはキリストの花嫁となります。私たちはイエス様によってすべての必要が備えられ、主を慕い求めるなら必ず出会ってくださいます。
そして、イエス様は私たちに命じられます。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、わたしが命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」
今、私たちはイエス様と共にいます。そして、福音を伝える役割が託されています。だからこそ、私たちは次世代の子どもたちに御言葉を伝え、育てる働きを一生懸命に進めているのです。どうかイエス様の力と導きがこの働きの上に豊かにあり、私たちがこの時代において、イエス様を伝える大切な役割を果たしていくことができますように。
(祈り)
愛するイエス様。今、私たちの内に働き、共にいてくださる恵みを感謝します。復活の主はよみがえられました。もはや死の中にはおられず、永遠に生きておられます。私たちもその永遠の命に組み込まれていることを感謝します。すべての権威が与えられ、アルファでありオメガであるイエス様が、この場所を備え、私たちの働きを導いておられます。どうか、私たちが歩むべき道を示し、そこを進ませてください。
主よ、本来なら塵(ちり)に帰るしかない私たちに、新しく命の息を吹き込んでくださることを感謝します。罪を犯し、神様から離れるしかなかった私たちを取り戻すため、イエス様は天の御座を捨てて来てくださいました。ご自身の命を裂き、必ず死ななければならない私たちを贖って(あがなって)くださったことを感謝します。イエス様は私たちを買い戻してくださった権利者です。
このつくばみらいの地にこの教会が買い戻され、私たち一人一人が買い戻されました。さらに多くの魂を買い戻すために、神様が私たちをここに置いてくださっていることを心から感謝します。私たちはもはや死のカテゴリーにいる者ではなく、イエス・キリストの命に連なる者となりました。私たちの心に、死に打ち勝ったイエス様と共に生きる信仰を与えてください。イエス様が十字架で全うしてくださったことによって、あらゆる呪いと死は私たちから離れ去りました。私たちの死は、イエス様の命に飲み込まれました。
私たちが遣わされているこの土地にはびこっているあらゆる暗闇や死の力を、イエス・キリストの御名による命で飲み込み、打ち破ることができますように。この土地に住む人々、そして次世代の子どもたちが、死から命へと移されますように。今日も私たちを、よみがえりの命の中に入れてくださったことを心から感謝し、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【結論】
イエス・キリストは死の力を打ち破り、永遠に生きておられる復活の主です。墓を訪れた女性たちに真っ先に出会い「恐れるな」「喜べ」と語りかけられたように、主を慕い求める者に今日も豊かに出会ってくださいます。私たちはキリストによって死から命へと移された「神の家族」として、主が世の終わりまで共にいてくださるという約束を固く握り、次世代の子どもたちや全世界の人々に、この喜びの福音を伝えていく尊い使命を与えられています。
ゲツセマネの祈りと十字架の恵み(マルコ14:32-42)
メッセージ音声
【概要】
イエス・キリストがゲツセマネの園で捧げられた苦難の祈りと、誘惑に負けて眠ってしまった弟子たちの姿を通して、十字架の贖いの恵みを深く覚え、目を覚まして主と共に祈り歩むことの大切さを説いたメッセージです。
【聖書箇所】
マルコ14:32-42
【慰めの言葉】
罪を知らないイエス様が、私たちの身代わりとなってすべての罪を背負い、父なる神様からの断絶という想像を絶する深い悲しみと苦しみを味わってくださったからこそ、私たちは罪赦され、神の子供とされる恵みをいただきました。
【励ましの言葉】
私たちの肉体は弱く、すぐに誘惑に負けてしまう存在ですが、イエス様はそんな私たちをも受け入れ、十字架の上で「完了した」と宣言して救いを全うしてくださいました。イエス様が共にいてくださるので、私たちは自分に与えられた十字架を負って最後まで歩み抜くことができます。
【戒めの言葉】
祈るべき大切な時に祈らず、居眠りをしてしまう弟子たちの姿は、現代を生きる私たちの姿でもあります。大切な時が過ぎ去ってから後悔することのないよう、霊的に目を覚ましている必要があります。
【勧めの言葉】
心は燃えていても肉体は弱い私たちだからこそ、誘惑に陥らないように目を覚まして祈り続けましょう。私たちの願いではなく、神様の御心がなることを第一に求めていくのです。
【悔い改めの促しの言葉】
主がこれほどの苦しみの中で祈っておられた時、私たちは無関心でいなかったでしょうか。主にのみ十字架を負わせたまま、知らない顔をして生きてはいないでしょうか。自らの弱さと罪を認め、イエス様の尊い血潮による清めを求めて祈りましょう。
【***詳細***】
私たちは初めに、マルコによる福音書14章の32節を宣言したいと思います。
「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。』」(マルコ14:32)
愛する私たちの主イエス様は、このゲツセマネの園において、深く悲しみながら祈られました。しかし、それに引き換え、弟子たちは居眠りをしてしまい、誰一人としてイエス様の祈りに最後まで参加することはできませんでした。そのことを思うとき、本当に心が痛みます。しかし、十字架の御業が成し遂げられた後、イエス様はいつも祈り、私たちを力づけてくださっています。この受難週において、私たちがしっかりとイエス様にとどまり続け、死に至るまでも忠実であり、親密な交わりのうちに歩み通すことができるよう、神様が一人ひとりの心を整え、これから取り次ぐ御言葉を通して助けてくださることを祈ります。
イエス様が祈られた「ゲツセマネ」という場所の名前には、「油搾り」という意味があります。オリーブの木から採れた実を機械で圧搾し、そこからオリーブ油が滴り落ちていく、そういう場所です。このゲツセマネにおいて、イエス様ご自身がまるでオリーブの実のように極限まで圧縮され、押しつぶされ、油が滴るような、あるいは血の汗が滴るような、壮絶な祈りを捧げられました。
イエス様は弟子たちにこう言われました。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14:34)
イエス様も、深く悲しまれました。イエス様は神の御子です。この世界が始まる前から、父なる神様の懐深くで、いつも親密な交わりを持っておられました。皆さんも、心から信頼できる親しい人と断絶してしまったら、どれほど悲しいか想像できるでしょうか。イエス様にとって、父なる神様との永遠に親密な交わりが断絶され、神様から完全に拒絶されるということは、宇宙で一番深く、苦しく、悲しいことでした。イエス様は、その恐るべき体験をいよいよ迎えようとしていたのです。
本来、神様から断絶され、罪の処罰を受けて永遠の苦しみを味わうべきなのは、罪を犯した私たち人間のほうです。しかし、罪を全く知らない清らかなイエス様が、私たちの身代わりとなって全人類の罪を背負い、ご自身が「罪そのもの」とされて、父なる神様からの断絶を受けられました。これは、私たちには到底計り知れないほどの深い悲しみと苦しみです。私たちが受けるべき処罰を、イエス様が身代わりに受けてくださるために、イエス様は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃるほどに苦しまれたのです。
イエス様は、神様であると同時に、私たちと同じ「人」としてこの世に来られました。人として来られたからこそ、鞭で打たれれば当然痛いですし、手足に釘を打たれればとてつもない激痛を感じます。そして、最も親しい父なる神様から引き離されることは、死ぬほど悲しいことでした。私たちは時々、「イエス様は神の御子だから、私たち人間ほどには痛みや悲しみを感じなかったのではないか」と勘違いしてしまうことがあるかもしれません。しかし、決してそうではありません。イエス様は、私たち人間の罪を救い、私たちの身代わりとなるために、私たちと全く同じように痛みを感じ、悲しむことのできる「人」として天から降りてきてくださったのです。人間として罪の処罰を引き受け、神様と断絶されるために来られたからこそ、これほどまでに深く悩み悲しまれたのです。
だからこそ、イエス様は弟子たちに「ここを離れないで、目をさましていなさい。私のために祈っていてください」とお願いされました。その後、イエス様は少し進んで地面にひれ伏し、祈り始められました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)
イエス様はここで、「この杯を取りのけてください」と祈りました。この「杯」とは、全人類の罪を背負って十字架につけられ、父なる神様から完全に断絶されるという恐ろしい苦しみのことです。イエス様は「父よ、あなたにおできにならないことはありません」と祈りました。父なる神様には不可能なことはありませんから、イエス様を十字架にかけずに人類の罪を取り除く方法も、おできにならないはずはないと考えられたほどの苦悩でした。
しかし、イエス様はご自身の願いを押し通すことはしませんでした。祈りの最後に「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と付け加えられたのです。私たちも、神様にどんなことでも正直に願い求めることができます。しかし、私たちが常に忘れてはならないのは、最後に「私の願いではなく、神様の御心がなりますように」と祈ることです。神様の御心こそが、私たちにとって常にベストであり、最善だからです。
この時、イエス様がご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、十字架にかかってくださったからこそ、黙示録に記されているように、全被造物から「屠られた小羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」と褒めたたえられるのです。イエス様が屠られてくださったおかげで、私たちの罪はイエス様と共に十字架に釘付けにされ、私たちはイエス様の尊い血潮によって買い取られ、神の子供とされるという素晴らしい身分を与えられました。私たちはこのゲツセマネでの祈りと、イエス様の苦しみを決して忘れてはなりません。
イエス様が祈りを終えて戻って来られると、なんと弟子たちは眠ってしまっていました。そこでイエス様はペテロにこう言われました。
「シモン、眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:37-38)
弟子たちは、たった一時間も祈り続けることができませんでした。それが10分だったのか、20分だったのか、40分だったのかはわかりません。しかし、イエス様が血の汗を滴らせるほどの最大の苦しみの中で祈っているその瞬間に、彼らは目を覚まして共に祈ることができなかったのです。
ここでイエス様が注意されたのは、「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい」ということでした。私たちは、祈るべき時に祈りに集中できず、眠気という誘惑や、テレビ番組、買い物のことなど、別の楽しいことに心を奪われてしまう誘惑にとても弱いです。心の中では「神様のために祈りたい」と燃えていても、私たちの肉体は本当に弱いものです。困難に耐えることよりも、自分を気持ちよくさせる誘惑の方に流されやすいのです。だからこそ、イエス様は「誘惑に陥らないように、霊的に目を覚まして祈り続けなさい」と警告されました。
その後、イエス様は再び同じ言葉で熱心に祈られました。そして戻って来ると、弟子たちはまたしても眠っていました。彼らはひどく眠気がさしていて、イエス様にどう言い訳してよいのかもわからない状態でした。イエス様がたったお一人で苦しみもだえて祈っているのに、弟子たちは肉体の誘惑に負けてしまったのです。
イエス様は三度目に祈りに行き、また戻って来られました。しかし、弟子たちはまだ眠っていました。最も一緒に祈ってほしかった大切な場面で、彼らは三回も眠ってしまったのです。そこでイエス様は言われました。
「もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」(マルコ14:41)
私たちにも、誘惑に負けて居眠りをしてしまい、祈るべき時に祈れず、そのまま「時が来てしまう」ことがあります。祈り会に最初から最後まで居眠りをしてしまい、終わりの時間が来てしまう。その時、皆さんは「ああ、祈り会に参加できてよかった」と思えるでしょうか。それとも「ああ、また居眠りしてしまった。イエス様と共に過ごすことができなかった。イエス様の苦しみを少しでも共に背負うことができなかった」と深く後悔するでしょうか。
「時が来ました」とイエス様が言われた直後、裏切る者と、イエス様を捕らえに来た者たちによって、イエス様は連行されていきます。この時、イエス様は天から御使いの十二軍団を呼び寄せて、捕らえに来た者たちをいとも簡単に追い払うこともできました。しかし、イエス様はあえてそうはされませんでした。なぜなら、それは父なる神様の御心ではなかったからです。イエス様が全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、命を落とし、父なる神様から断絶されること。それこそが、父なる神様の御心だったからです。だから、イエス様は完全に服従して、あえて捕らえられていかれたのです。
今日、私たちはイエス様の十字架と復活の後の時代を生きています。だからこそ、私たちは目を覚まして祈り続けるべきです。この十字架の激しい苦しみを覚え、復活の命をいただき、私たちのために屠られた小羊であるキリストに、栄光と賛美を捧げるべきなのです。私たちの肉体は確かに弱いです。しかし、この地上において、イエス様と共に歩む人生を全うできるように祈りましょう。
「主にのみ十字架を負わせまつり、我知らない顔にどうしてあるべきだろうか」という賛美歌があります。私たちは、イエス様にだけ十字架を負わせて、自分は関係ないというような「知らない顔」をして生きていてはいけません。イエス様が全人類の罪を負う十字架を背負ってくださったのですから、私たちは、自分自身の生き様を神様に捧げるという、自分に与えられた十字架を背負いながら、この人生を歩んでいくべきなのです。
イエス様は、あの十字架の上で「テテレスタイ」、すなわち「完了した」と宣言してくださいました。私たちが負うべきすべての処罰を身代わりに受け、ご自身の命を差し出して、私たちが必ず死ななければならないその死を全うしてくださったのです。さらにイエス様は、十字架の上でご自身を十字架につける者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。自分がどれほどわからずやであるかさえも気づいていない私たちのために、イエス様はとりなしてくださったのです。
今日、私たちは、十字架のイエス・キリストを記念し、仰ぎ見ます。イエス様の尊い血潮によって清められ、罪赦されて、新しく贖われた者として、私たちはここにいます。この受難週において、イエス様が全人類の罪の赦しのためになされたこの偉大な御業を思い出し、深く心に刻みましょう。そして、許しの十字架の御許にいる者として、目を覚まして祈り、人々にこの福音を証ししていくことができるよう、神様の助けを求めて祈り歩んでいきましょう。
【結論】
イエス・キリストは、ご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、私たちが受けるべき罪の処罰と神からの断絶という想像を絶する苦しみを、十字架の上で引き受けてくださいました。私たちは肉体の弱さゆえに、弟子たちのように祈るべき時に誘惑に負けてしまう者ですが、主の尊い血潮によって完全に赦され、贖われています。だからこそ、ただ主にのみ十字架を負わせて傍観するのではなく、霊的に目を覚まして祈り続け、自らに与えられた十字架を背負って、主と共に歩む人生を最後まで全うしていきましょう。
ペテロの回復 - イエス様のとりなしと悔い改め(ルカ22:31-34)
メッセージ音声
【概要】
イエス様は私たちが弱く失敗することをご存知でありながら、信仰がなくならないように今も天でとりなして祈ってくださっています。私たちは自分の弱さを認めて悔い改め、主の祈りに支えられて立ち直り、互いを力づける者へと変えられていくというメッセージです。
【聖書箇所】
ルカ22:31-34
ルカ22:54-62
ヘブル7:25
ルカ23:34
【慰めの言葉】
イエス様は私たちの思いも心も肉体も弱いことをご存知であり、失敗して倒れるような時であっても、天において四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。
【励ましの言葉】
たとえ自分の弱さゆえに失敗したとしても、イエス様の祈りによって立ち直ることができます。立ち直ったならば、今度は自分が兄弟たちを力づける存在へと変えられていきます。
【戒めの言葉】
自分の力や覚悟を過信してはいけません。私たちの内に潜む自己中心的な思いやプライドは、ふるいにかけられて取り除かれなければならず、自分の肉の力に頼ることをやめる必要があります。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちが神様が喜ばれることを知りつつも、自分の好むことを優先して罪を犯してしまうたびに、涙とともに心を悔い改め、イエス様に立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日は、ルカによる福音書22章31節から34節までの御言葉を見ていきます。新改訳聖書第3版で共に確認しましょう。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
これに対し、シモンはイエス様に言いました。「主よ。ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟はできております。」
しかし、イエス様は言われました。「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
まことに私たち人間は弱いものです。心の中でどんなに強い覚悟を決めたとしても、私たちの思いも心も肉体も弱いのです。しかし、イエス様がずっと私たちのためにとりなして祈っていてくださることを感謝します。イエス様は今もなお、私たちのためにとりなして祈っておられます。その祈りによって、弱い私たちは強められ、立ち直り、つくばみらいの地に福音を届け、弟子たちを起こす働きができるようになります。
イエス様は、本当に良き友であり、私たちの主人です。最後の晩餐という重要な場面において、イエス様がこれから十字架につけられるということが宣言されたにもかかわらず、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論をしていました。イエス様の苦しみや御言葉を誰も心に留めず、ただ自己中心的な思いがはびこっていたのです。
そのような場面において、イエス様はシモンに対して語りかけました。この時、イエス様は「ペテロ」という名前ではなく、生まれながらの名前である「シモン」と二度呼びかけました。シモンという名前には、ヘブル語で「聞く」という意味があります。「よく聞きなさい」という思いが込められているのです。耳を傾け、よく聞く人は、立ち直り、他の弟子たちを力づけることができるようになっていきます。
イエス様は、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」と言われました。サタンは神様から独立した同等の権威を持っているわけではなく、神様の許可がなければ何もできません。しかし、ここでは聞き届けられました。それは、本物と偽物を振るい分け、また霊と肉とを振るい分けるためです。この時の弟子たちは、シモンも含めて全員がまだ自分の「肉」の力に頼っていました。十字架の出来事の前、彼らは自分の力でイエス様に仕えようとしていたのです。ふるいにかけられることで、自分たちが人間の力に頼るしかない弱い存在であり、本当に十字架の死と復活が必要であることを示すためでした。私たちも、自分のプライドや願いといった「肉」の部分がふるいにかけられ取り除かれて初めて、復活したイエス様の命にあって働くことができるのです。
結局、この時弟子たちは全員イエス様を見捨てて逃げてしまいます。シモンに関しては、イエス様のことを知らないとはっきりと否定してしまいます。けれども、ルカ22:32でイエス様は「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。「立ち直ったら」という言葉は、ギリシャ語では上方向に方向転換することを意味します。下を向いていた状態から、上を向いて立ち直ったならば、兄弟たちを力づけなさいということです。
シモンは「牢であろうと死であろうと覚悟はできております」と言いましたが、イエス様は「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と予言されました。そして実際に、夜が明ける前、ペテロは三度イエス様を知らないと言ってしまいます。
その時の様子は、ルカによる福音書22章54節から次のように記されています。
人々はイエス様を捕らえ、大祭司の家に連れて行きました。ペテロは遠く離れてついて行きました。人々が中庭の真ん中で火を焚いて座り込んだので、ペテロもその中に混じって腰を下ろしました。すると、女中が火明かりの中にペテロが座っているのを見つけ、「この人もイエスと一緒にいました」と言いました。ところがペテロはそれを打ち消して、「いいえ、わたしはあの人を知りません」と言いました。しばらくして、別の男が「あなたも彼らの仲間だ」と言いましたが、ペテロは「いや、違います」と否定しました。それから一時間ほど経つと、また別の男が「確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリラヤ人だから」と言い張りました。しかしペテロは、「あなたの言うことはわたしには分かりません」と言いました。
ペテロがまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。主が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは、「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた主の御言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。
私たちも、日々の生活の中で何度同じような過ちをしてきたことでしょうか。だからこそ、この場面は私たちの心に深く刺さります。けれども、イエス様はずっと祈っておられました。十字架の上の激しい痛みと苦しみの最中でさえ、ずっと私たちのためにとりなして祈っておられたのです。鶏が鳴いた瞬間、イエス様はペテロを振り向かれましたが、その時もペテロのためにとりなしておられました。
ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」とあります。イエス様は天において永遠の大祭司として生きておられ、朝も昼も夜も、四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。十字架の上でも、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と、ルカ23:34にあるように、とりなして祈り続けておられました。
そして「立ち直ったならば、兄弟たちを力づけてやりなさい」とイエス様が言われた通り、実際にペテロが立ち直る時が来ます。「使徒行伝」に記されているように、ペテロは他の弟子たちを力づけ、教会の柱と呼ばれるような存在になりました。これはペテロ自身の力ではなく、イエス様がとりなして祈っておられたからです。伝承によれば、ペテロは最終的に逆さ十字架にかけられて殉教します。彼は十字架刑が求刑された時、「自分がイエス様と同じ死に方をするのはもったいない、申し訳ない」と自ら願い出て、逆さ十字架につけられたと言われています。生涯をかけてイエス様の祈りに応え、信仰を貫いたのです。
現在、ペテロは天国におりますが、私たちはこの地上で生きています。イエス様は、地上で生きる私たちのために、今もなおとりなして祈ってくださっています。私たちは、イエス様の十字架の死と復活、そして天に昇られて今も祈り続けておられることを覚え、感謝をもって歩んでいくべきです。
何度も裏切り、イエス様を知らないと言い、神様が喜ばれることを知りつつも自分の好むことを行い、罪を犯してきた私たちです。しかし、その都度涙とともに心を悔い改め、いつも主に立ち返ることができますように。イエス様の祈りに支えられ、信仰の翼を広げて凛々しく羽ばたき、主の働きを進めていくことができるよう歩んでいきましょう。
【結論】
イエス様は私たちの弱さをすべてご存知の上で、私たちの信仰がなくならないように天において常に祈り続けてくださっています。私たちは自分の弱さに絶望するのではなく、その都度悔い改めて主に立ち返り、イエス様のとりなしの祈りに支えられながら立ち直り、周囲の人々を力づけながら凛々しく信仰の歩みを進めていきましょう。
聖餐式と十字架の恵み - 受難週のメッセージ(1コリント11:23-32)
メッセージ音声
【概要】
受難週において、イエス様が最後の晩餐で制定された聖餐の意味を深く学びます。イエス様の裂かれた肉と流された血潮を通して、私たちに与えられた天国への道、罪の赦し、神の子としての値が与えられたことを覚え、感謝をもって歩むことが勧められています。
【聖書箇所】
第一コリント11:23-32
【慰めの言葉】
イエス様の十字架の血潮を通して、私たちの罪は清められ、神の子としての値が付けられました。悪魔サタンに対しては完璧に勝利したものとして歩むことができます。
【励ましの言葉】
罪を犯してきたからこそ、イエス様の贖いに感謝をもって預かるべきです。聖餐式を拒否するのではなく、イエス様の裂かれた肉と流された血潮により一層預かり、感謝をもって歩みましょう。
【勧めの言葉】
受難週だけでなく、日々イエス様の十字架を覚えて感謝を持ち、イエス様に交わり続けること。聖徒の交わりから決して離れず、共にイエス様と共に天の御国に入る恵みにあずかることが勧められています。
【戒めの言葉】
聖餐式にふさわしくないままで預かること、つまりイエス様を覚えないままで食卓に預かることは、自分を裁くことになります。自分自身をしっかりと吟味し、イエス様の十字架の贖いを覚えて預かるべきです。
【***詳細***】
2026年3月31日の朝、恵みをいただく御言葉は第一コリント11章23節から32節です。初めに皆さんと共に23節から26節を宣言します。新改訳の第三版にて宣言いたします。
「私は主から受けたことをあなた方に伝えたのです。すなわち主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝を捧げて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は私の血による新しい契約です。これを飲むたびに、私を覚えてこれを行いなさい。』ですから、あなた方はこのパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(第一コリント11:23-26)
愛する主よ、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださった恵みを感謝いたします。あなたのその身代わりの死によって、私たちの罪は十字架に釘付けにされました。あなたを信じることによって、それが私たちのものとなることを感謝いたします。あなたは復活されたことを感謝します。それゆえに私たちは永遠の命の望みが与えられました。今、主よ、この受難週の中において、あなたのその十字架の死と復活を覚えることができますように。
今週は受難週です。特に今日見ていきたいのは、イエス様がその最後の晩餐において制定されたこの聖餐についてです。当時はですね、この最後の晩餐、西洋の絵画などでは、イエス様はテーブルに座って、みんな椅子に座って、その最後の晩餐に預かっている場面がよく描かれるんですけども、けれども当時のユダヤの習慣としては、みんな地べたに座って、それで寝っ転がって、それでお食事を取るという、そういう感じでした。
ヨハネがイエス様の横に横たわっていたとあるんですけども、ですからちょうどパッションという映画のような感じで、こうやってあぐらをかいて、テーブルを囲んで、それでパンが裂かれて弟子たちに配られた、そういう有様だったんですね。
その最後の晩餐において、イエス様は特に、イエス様が苦しみを受けられる前に、どんなにあなた方と一緒にこの過越しの食卓につきたかったことかとおっしゃいました。イエス様は本当にこの弟子たちを愛して、そして私たちをも愛して、私たちのためにこのイエス様ご自身が過越しの子羊となられたわけです。イエス様は十字架の上で血を流された。その血潮をもって私たちの罪を贖い、また肉を裂かれた。それは私たちの身代わりになってです。
それと同時にですね、この裂かれたことについて、キム先生が言われましたね。スキゾーというギリシャ語、これ裂く、引き裂くことによって、天国がイエス様を通して現れたんですね。イエス様という肉体、その十字架の上で裂かれた肉体という幕、その幕が裂かれたことによって天国があらわにされました。イエス様が十字架の上で息を引き取られた時、神殿の幕が真っ二つに裂かれて、そしてその至聖所、いわば神様のご臨在が露わにされたんですね。イエス様が十字架の上で肉を裂かれたゆえに、私たちに向かって天国が露わにされたわけです。
そしてイエス様はそのことを覚えるために、その十字架の苦しみを受けられる前の晩に、その聖餐式を制定されたんですね。イエス様は渡される夜、パンを取り、感謝を捧げて後、それを裂いて、引き裂いて、そして言われましたのが「これはあなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい」と言われました。「私を覚えて」です。杯をも同じようにして言われたのは「これを飲むたびに私を覚えてこれを行いなさい」。
この「覚える」というのはですね、何も思い出として残しておきなさいということではなくて、むしろね、これを行うたびに、あたかもこの当時イエス様がその肉体を裂かれて、十字架の上でそれを裂かれたことを、あたかも目の前で見るかのようにしてそれを覚えなさい、そしてそれを行いなさいということです。ですから私たちはこの聖餐式に預かる都度、あるいは聖徒たちが共に集まってパンを裂く都度、また共に同じその飲み物を飲む都度、このことを覚えなさいということです。
ですからクリスチャンのこの集い、聖餐式のみならず、主の御名の交わり、特にこの第一コリント11章は、あなたがたはこの私の名前、イエス様の名前によって集まるその集いの中において、ふさわしくない状態だと言っています。ある人は我先にこの集いに集まって、我先にそこにある食べ物を食べて、それで後から来た人たちのために残っていない。またある人たちは先にもうぶどう酒を飲み尽くして、それで後から入ってきた人たちには残っていなくて、あなた方はもう酔っ払っている始末だ。このような交わりは果たしてふさわしいことでしょうか。
パウロは叱りました。「あなた方はこの点においては褒めるわけにはいきません」と。ですから、集う時においてはどういうふうに集うべきかというその話の流れで、このイエス様のこの最後の晩餐の場面がパウロを通して語られて、そしてその後にパウロは、だからあなた方が集まる時には、しっかりと前もって打ち合わせて、同じ時に集まって、そして食事を食べなさいということが語られたわけです。
ですから、私たちが、この初代教会以降、本当に私たちの信仰の先人たちが共にしてきたように、私たちは同じ場所に集まって、イエス様の名前によって集まって、そしてそこにおいて共に祈り、共に交わり、共にパンを裂き、これが使徒の時代からずっと続けられてきたわけですね。
私たちがですから、集まる都度、イエス様が十字架の上で肉体を裂かれたこと、また血を流されたこと、これをあたかも目の前で記念して覚えるがごとく、そのように私たちも集う都度、イエス様のその死と復活を私たちは覚えるべきなんです。イエス様は御体を十字架の上で裂かれました。そして、このイエス様が十字架で裂かれた肉を覚えるようにと言ってパンを与えられました。私たちはその聖餐の都度、また主を覚える都度、私たちはそれを覚えるべきです。
その肉体が裂かれたことは、私たちの身代わりとなって苦しまれるためです。そしてそれと同時に、イエス様の裂かれた肉体を通して、天国が私たちに向かって明らかになるため、私たちが天国に入るために、イエス様が十字架の上で肉体を裂かれたからこそ、天国への道が、その幕が裂かれて、そしてその入り口が開かれて、私たちはイエス様の裂かれた肉を通して天国に入ることができるのだということを覚えるべきです。
またイエス様の血、血潮は力があります。血潮は命そのものです。血潮は叫びます。私たちに対しては弁護を叫び、悪魔サタンに対しては罪定めを叫びます。この十字架の血潮を通して、私たちは悪魔サタンに対しては、私たち自身もイエス様の血潮を宣言して「出て行け」と訴えることができ、また私たちはこの血潮、イエス様の命そのものであられる血潮、このイエス様の命が与えられた血潮でもって、私たちもイエス様と同じ値が付けられた神の子として、永遠の命を受けたものとしての値が付けられたものであることを、根拠をもって主張できるんです。
ですから私たちはこのイエスの肉、またイエスの血、これを覚えるべきです。そして、「もしふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲むものがあれば、主の体と血に対して罪を犯すことになる。ですから、自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい」と言われてるんですけども、自分を吟味する、果たして自分がこのパンと杯をいただくにふさわしいものかどうか、吟味しなさいと言われてるんです。
よくですね、聖餐式で誤解されるのが、「私はいっぱい罪を犯してきたから、だから、このパンと杯に預かるにふさわしくないんだ。だから聖餐を受け取りません」ということですね。そんなことを言う人はですね、牧師先生に叱られるんですね。「やめなさい」ってね。むしろ罪を犯してきたからこそ、私たちはこのイエスの裂かれた肉により一層預かるべきであり、その血潮により一層預かるべきなんです。
自分自身が本当にこの罪を犯してきた、だからイエス様のその贖いが必要なんだ。イエス様が本当にこの十字架の上で裂かれた、血を流されたから、だから私はこれに感謝を持って預かりますと預かるべきなんです。それを拒否する人、霊的な状態が良くない人がよく拒否するんですけども、本当にこのイエス様の贖い、これを拒否してはならないんです。イエス様の贖いを、むしろ私たちは感謝を持っていただくべきなんです。
そして、もしそうしたイエス様を覚えるということ、イエス様を覚えている人がふさわしい人です。ふさわしくないままでというのはどういう状況か、イエス様を覚えないままでということですね。イエス様を覚えないまま、この聖徒と共に預かるべき食卓、これをただ単に食欲を満たすために、我先にと、そういうのはふさわしくないままですから、その飲み食いが、自分を裁くことになるということですね。
恐ろしいことはですね、この聖徒の食卓をね、これを軽んじて、主を軽んじて、主を覚えないで、その聖徒たちが持ち寄ったものをね、我先に食べる人ね。30節見ると恐ろしいんですね。「そのために、そんな飲み食い、ふさわしくないままで飲み食いした人が多いから、だから、その中に弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います」(第一コリント11:30)。
しかし、「もし私たち自身が自分を裁くなら、裁かれることはありません」(第一コリント11:31)。ですから、私たち自身、自分自身をしっかりとね吟味し、イエスキリストにあって、本当にこの自分は罪がある人ですけれども、イエス様にあって、この十字架の贖いを通して罪が贖われるものです。だから、それを覚えるために、この食卓に、このパンに預かり、この杯に預かります。
ですから、私たちは集う都度、イエス様の十字架を覚えるべきです。イエス様の復活を覚えるべきです。そして、イエス様への感謝をいつも私たちは心のうちに持っておくべきです。私たちはこの受難週において、いや、受難週だけでなく、本当に日々イエス様の十字架を覚えて、感謝を持って、イエス様にいつも交わり、そしてまたこの聖徒の交わりから決して離れず、共にこのイエス様の復活の恵み、共にイエス様と共に天の御国に入る恵みにあずかる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。
【結論】
イエス様は最後の晩餐で聖餐式を制定され、私たちに「これを私を覚えて行いなさい」と命じられました。聖餐式に預かる都度、また聖徒が集まる都度、私たちはイエス様の十字架の死と復活を覚えるべきです。イエス様の裂かれた肉は、私たちの身代わりの苦しみであり、同時に天国への道を開くものでした。イエス様の流された血潮は、私たちの罪を清め、悪魔サタンに対して勝利を宣言し、私たちに神の子としての値を与えました。罪を犯してきたからこそ、イエス様の贖いに感謝をもって預かるべきであり、イエス様を覚えることがふさわしい姿勢です。受難週だけでなく、日々イエス様の十字架を覚えて感謝を持ち、聖徒の交わりから離れず、共に天の御国に入る恵みにあずかりましょう。
「できるものなら」という言葉の裏にあった不信仰(マルコ9:14-29) 早天祈祷会 2026年3月27日(Fri)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-3-27 18:30
「できるものなら」という言葉の裏にあった不信仰(マルコ9:14-29) 早天祈祷会 2026年3月27日(Fri)
Youtube動画
【概要】
イエス様が山から降りてこられると、弟子たちが悪霊を追い出せず律法学者と議論していた。イエス様は不信仰を嘆かれ、「信じる者にはどんなことでもできる」と宣言され、父親の「不信仰な私をお助けください」という祈りに応えて子どもを癒された。この種のものは祈りと断食によらなければ追い出せないと教えられた。
【聖書箇所】
マルコ9:14-29(特に9:23-24を宣言)
【励ましの言葉】
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イエス様は今も生きて働かれており、私たちの髪の毛の数まで数えておられる
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イエス様には全ての権威が与えられており、どんなことでもできる
-
からし種ほどの信仰があれば、山も移る
-
イエス様に話すならば、すべての問題が解決される
【戒めの言葉】
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不信仰はイエス様を我慢させてしまう
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問題が起きた時に議論するのではなく、すぐに祈るべき
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「できるものなら」という不信仰な祈りではなく、信仰を混ぜた祈りをすべき
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いらない言葉を口から出さず、口を覆うべき(断食の意味)
【勧めの言葉】
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何か困ったことが起きたら、すぐにイエス様の御名を呼ぶべき
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「イエス様、助けてください」と祈る習慣を身につける
-
思案せずに何事もイエス様に話す
-
祈りと断食によって霊的な戦いに臨む
【***詳細***】
今朝、私たちが恵みをいただく御言葉はマルコ9:14-29です。まず初めに皆さんと共に9:23-24を宣言します。
「するとイエスは言われた。できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。するとすぐにその子の父は叫んで言った。信じます。不信仰な私をお助けください。」
私たちこそ助けが必要な者です。不信仰な私たちを助けてください。主の御業を阻害しているものは何でしょうか。主の奇跡が起こらないことはなぜでしょうか。不信仰な私たちのゆえです。どうか私たちを助けてください。
素晴らしい主の御名をほめたたえ、賛美いたします。主は今も生きて働かれておられる主です。生きているんです。今、皆さんのことを見ておられます。知っておられます。皆さんの髪の毛の数も数えられておられます。それほど皆さんのことをよくご存知なのが主イエス様です。
この福音書の時代に生きておられたイエス様、そのイエス様が十字架の死を通して復活して、今や全世界、この日本の地においても、全世界どこにおいても、主を呼び求める者には助けを与えてくださる主です。本当にここ最近の私たちにとってのキーワードは、「イエス様、助けてください」ですね。
今まで私たちが何かとあれこれと何でもかんでもして、そして何か困ったことが起きても、なかなかイエス様を呼ばないで、それで自分であれこれしたり、あるいは時には誰が悪い、彼が悪いと問題をほったらかしといて、困った人がそこにいるにもかかわらず、そういう議論に陥って、結局問題がこじらされて、悪魔サタンが背後で高笑いしているような、そういう状況が多々あるんです。
今日開いた御言葉の箇所が、まさにそういう場面から始まります。イエス様はその前、高い山に登って、シモンペトロとヨハネとヤコブを連れて、そこでエリヤとモーセと会合しておりました。そこから降りてきた場面から始まります。
イエス様が降りてきたら、何か他の12弟子と律法学者たちが何か論じ合っていました。そこに周りに大勢の群衆が取り巻いている状況でした。イエス様が「一体何を議論しているのですか」と聞くと、その中の一人が答えます。
「先生、口をきけなくする霊に憑かれた私の息子を、先生のお弟子さんのところに連れてきたんですけども、けれども、このお弟子さんたちには、この霊を追い出すことができませんでした。」
イエス様はそれを聞いて、「ああ、不信仰な世代だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないでしょう。いつまであなた方に我慢していなければならないのでしょう。その子、私のところに連れてきなさい」と言われました。
もし皆さんがイエス様から「いつまであなた方に我慢しなければならないのでしょうか」と言われるとするならば、それは不信仰なんです。皆さん、イエス様を我慢させてはならないんです。信じることによってイエス様を喜ばせることができる。イエス様が「ああ、不信仰な世代だ」と嘆くとするならば、皆さんが不信仰な状態になってしまう。イエス様を我慢させてしまうことになります。
ここにおいて、この弟子たちの有様、本当に問題がそこにあるのに、子どもが悪霊に取りつかれて、そして困っている父親が弟子たちのところに連れてきたけど、弟子たちに追い出すことができなかった。この問題が起こって、それで解決できなくて、それで議論が沸き起こって、ああだこうだして、そして大勢の群衆がそれを見つめて、「ああ、イエス様の弟子たち、大したことないんだな」そういうふうにして、イエス様の御名が貶められてしまっている。そういう状況です。
私たちはどうするべきであるのか、何をするべきであるのか。この当時、イエス様はまだ十字架を経験しておりません。昇天しておりませんでしたから、一人の肉体を持った人間として、イエス様はこの当時おりましたから、どこにでもいるというわけではありませんでした。
けれども、今この時代において、何か困ったことが起きたとするならば、すぐにイエス様の御名を呼んで、イエス様に来ていただくということが、今この時代はもうそれができる時代になりました。この当時は、すぐにイエス様を呼ぶということはできなかったかもしれませんけれども、少なくともイエス様の御名を預かった弟子たちです。このイエス様の御名によって、本当に祈りを持って、この対処できたはずなんですけど、しかし、祈ることをしないで論じ合うということをしてしまいました。
相手が議論を吹きかけてきたから、相手が悪いからという言い訳をしがちではあるんですけど、しかし、私たちは本当にすぐに祈る、すぐにイエス様を呼ぶということをするべきなんです。
この子どもがイエス様のところに連れてこられて、イエス様のところに来たその子ども、悪霊につかれております。その霊はすぐにその子どもを引きつけさせて、地面に倒れさせて泡をふかせ、転げ回らされました。イエス様はそれを見てすぐに癒すかと思いきや、イエス様はその子から目を離して、父親の方に向き直ります。
「この子がこんなになってからどのくらいになりますか」
イエス様はなぜすぐに癒さないんでしょう。イエス様はこの子どもから父親の方に向き直りました。子どもがもう悪霊に憑かれてひどい有様。すぐに癒すのではなく、なぜ父親の方に向いたのか。これはイエス様は見抜いていたんです。この子どもがこういう風になった、その問題は父親の方にあったんです。
父親は答えます。「幼い時からです。この霊は彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください。」
父親はこのイエス様の質問に対して、このように答えました。「ただ、もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください。」ここにこの父親の問題が浮き彫りにされたんです。「もしおできになるものなら」なんです。
イエス様、それに対して答えます。「できるものならというのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」
皆さん、「どんなことでもできる」と書いてありました。どういう者に対して?信じる者にはどんなことでもできるのです。イエス様を信じる者に対しては、イエス様がすべての、どんなことでもイエス様がしてくださるんです。
私たちは何もすることができない。唯一できること、それはイエス様に話す、イエス様を呼び求めることです。イエス様、助けてください。イエス様に祈るするならば、どんなことでもできるようになるんです。信じるならば。信じるならばです。
からし種ほどの信仰があるならば、この山に向かって「あそこに移れ」、あの木に向かって「海の中に入れ」と言えば移るというふうにイエス様はおっしゃいましたね。信じるならば、それもからし種ほど。どのくらいの大きさがからし種の大きさか。ボールペンでこの紙の先をチョンってついた、そんなチョンぐらいの大きさがからし種です。それぐらいの信仰がでもあれば、あの問題の山は「海に移れ」と言えば移るんです。
この不信仰、イエス様が本当に「ああ」って叫ばれたのは不信仰な世代だということでした。皆さんは信仰、これを持つべきです。イエス様にならどんなことでもできる。イエス様に話すならば、どんなことも取り除かれる。
先ほど484番賛美しましたね。「心に悶えあらばイエスに話せ。イエスに話せ。悲しみ、憂いあらばイエスに話せよ。イエスに話せ。良き友なるイエスに話せよ。思案せずに何事をもイエスに話せよ。」
どんなことでもイエスに話せって書いてあります。思案せずにイエスに話せと書いてあります。何か不安な物事、何か問題の物事起きたら、あれこれあれこれ、ああなんです、こうなんですって、人に話すよりもイエスに話すということをするべきなんです。そしてイエスに話して、イエス様が何か言われたらそれに聞く。こちらは黙ってそれに聞く。それをすればいいんです。
私たちはこのイエス様に話すということ、これをするべきです。イエス様にこの父親は話しました。問題が浮き彫りにされました。信じていなかったんです、この父親は。「もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助けください」。この言葉の中には信仰がありません。
もしあなたにできるんだったら、できない弟子たち、つまらないよね、役に立たない。イエス様、あなたにおできになるだったら、もしおできになるものなら、そういった感じがあって、信仰も何もないんです。イエスには何でもできるというこの信仰があるんでしたら、もっと、あの百人隊長のようにね、「あなたはお言葉をくださいすれば、しもべは治ります」って、そういった信仰を混ぜた言葉で、イエス様を信頼したその前提でイエス様に話しかけるんですけども、しかし、この父親は「できるものなら」ということでした。
皆さんのお祈りは、こういう「できるものなら」祈りになっていないでしょうか。イエス様には何でもできるという信仰を混ぜ込まないで、あれしてください、これしてください。その背後に「できるものなら」という不信仰が隠されていないでしょうか。
イエス様、あなたにはこれがおできになります。この問題を解決することがイエス様、あなたにおできになります。イエス様、あなたはこの病を癒すことがおできになります。そうです。イエス様は癒し主だから。そして福音書にもういくらでも病の癒しの事例は書いてありますので、イエス様にはおできになる。このイエス様、あなたにおできになりますから、私はあなたに願い求めます。イエス様、癒し主であり、イエス様、どうか私を癒してください。どうかこの問題を解決してください。イエスに話すんです。イエスに話す。思案せずに何事をもです。
イエス様は「できるものだというのか。信じる者にはどんなことでもできるのです」と言いますと、その父親は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
信じますと答えました。信じる。イエス様にはどんなことでもおできになるということを信じます。イエス様にはこの子を癒すことがおできになると信じます。イエス様、この悪霊を追い出すことができる。どんな霊的な問題をもイエス様には解決できるということを信じます。
イエス様はそうです。そういうお方です。イエス様は今や天においても地においても一切の権威が与えられました。この全権威が与えられたイエス様にお願いするならば、イエス様がすべて物事を動いてくださり、すべて最善な道へと導いてくださいます。
イエス様、ここにおいて群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊を叱って言われます。もう群衆が駆けつけてきて、どんなことだろうかと野次馬的に駆けつけてきて、そして物事をもっと混乱させてしまう。その前にイエス様、この汚れた霊を叱って言われます。
「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。私がお前に命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
父親は、この子どもに悪霊が入ってる、どんな霊かと言って、マルコ9:17を見ますと、父親は「口をきけなくする霊」というふうに言っております。父親は単に口をきけなくする霊、この子ども、口をきけなくさせている霊だっていうふうに言うんですけど、しかし25節でイエス様が言われたのは、「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」というふうに言われました。見抜きました。この子、耳が聞こえないということを。父親は見抜いていなかったんです。
けれども、イエス様はこの子、耳を聞こえなくさせる霊によって、耳が聞こえなくさせられていた。だから、父親がどんなことを言っても、周りがどんなことを言っても、この子には通じないで、そしてこの火の中、水の中へとこの子を投げ込んでいってしまったんです。けれども、イエス様はそれを見抜きました。
さあ、皆さん、耳を聞こえない人に対して何か言っても耳は聞こえないですね。耳が。でもイエス様が言われた対象は、この耳を聞こえなくさせられた子どもに対して言ったんじゃなく、耳を聞こえなくさせる霊に対して言いました。霊に対しては有効なんです。耳を聞こえない人に対しては手書きでなんか書かなければ通じないですけども、しかし皆さんは霊に対しては宣言しております。
毎回祈祷会においては、この霊に対する、悪霊に対する「出て行け、地獄へ行け」という祈りをしております。人に対してしてるんじゃないんですよ。よくこの教会は怖いと、なんかそんな祈祷会を見た方から言われるんですけど、しかし私たちが叱りつけてるのは誰か人間ではなくて、霊に対してです。この時代をおかしくさせる霊、人をおかしくさせ、不幸に陥れる霊、そのような霊に向かって私たちもこの叱り祈り、そしてこのイエス様の業を、悪霊追い出しの業をしております。
けれども、私たちもただ単に口で宣言しただけでは霊は出て行かないということ、この事例のようにあります。私たちもまた祈りと断食を持ってでなくては、この種のものは出て行かないという、そういった種の霊もまたいるわけです。
イエス様はこの霊に向かって「この子から出て行け。二度とこの子に入るな」そういうふうに言うと、霊は叫び声をあげて、その子を激しく引きつけさせて出て行きました。人々は子どもが倒れて動かなくなったのを見て、この子は死んでしまったと多くの人々がそういうふうに言いました。
本当に人々というものは現象だけを見て、そして悪い方向に考えてということにありがちですけど、しかし、イエス様がその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。正常な子どもになりました。
イエス様はすべての問題を解決してくださる方です。人々がどんなマイナスなことを言ったとしても、現象がどんなに何か解決できなさそうになったとしても、このようなすべての問題を解決してくださるイエス様に話すのであるならば、イエス様が動いてくださいます。イエス様がすべての物事を良しとしてくださいます。
イエス様がその後、家に入られると、弟子たちが集まってくるんです。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが」。するとイエス様は言われます。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
この種のものは祈りによらなければ。日本語では祈りとしか書いてないんですけども、聖書の原典の方では、祈りと断食なんです。キングジェームズのバージョンでは、Prayer and Fastingって書いてあります。祈りと断食。祈り、本当に熱心に祈り求めるということ。イエスに話すということ。祈りはイエス様に話すことです。祈りはイエス様との会話です。このイエス様との会話なしにはその種の霊は出ていきません。
またそればかりじゃなく、断食。ヘブライ語の原典では、ツームって言うんですけども、ツームのもともとの意味は、口を覆うということです。口を覆う。そこから、食べる口、これを覆って食べない、そこから断食なんです。
それのみならずです。皆さん、本当にいらない言葉、本当にこの最初の場面はその群衆たちや弟子たちは本当に全く口で、もういらないことががわあわあ、「この子は死んでしまった」とか、「どうでしょうか」とか、「できるものなら」とか、そういういらない口を叩く者ですけど、本当にそうしたいらない口を覆うべきなんです。いらない口を語らす口。この私たちはですから、この唇はどのように用いるべきか。
まずイエスに話す祈り。祈り。二番目は断食、口を覆う。このいらない言葉を口から出さない。そしてなおかつ「イエス様、助けてください。イエス様、助けてください」祈るべきです。
今この時代はもうイエス様が十字架につけられ、よみがえられ、天に昇られた時代。いつでも、どこでも、どんな時でも、どんな案件でも、イエスに話して、イエス様に祈ったら、生きておられるイエス様が生きて働かれ、そして皆さんの代わりに動いてくださる、そのような時代です。どこでもいつでもそれができます。イエス様に話しましょう。あの問題、この問題、イエス様に話しましょう。
心に問題がありましたら、イエス様に話して、そしてすべてイエス様に取り扱っていただいて、すっきりして、そして本当にこの時代において、どんな時においても、どんなことにおいても、イエスに話し、幸いを得ていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。
イエス様、あなたが今のこの時代も生きて働かれる主であらゆることを感謝いたします。イエス様にあの問題、この問題を話します。イエス様、今この時代、特に幼子、子どもたちが本当に育ちづらい、健全に育ちづらい時代です。会堂の中において、子どもたちが本当に母親の腕の中において息も絶え絶えに「パンとぶどう酒はどこにありますか」とそのように叫んでいる時代。パンとぶどう酒、それは礼拝において主に捧げるべきもの。本当にこの時代、主に捧げるべき礼拝は一体どこですかと幼子たちが息も絶え絶えに叫んでいる、そういう時代です。
主よ、あなたが動いてください。イエス様、助けてください。イエス様、私たちがなすべき務め、教えてください。本当にこの時代において、子どもたちをあなたのもとに引き寄せる、その働きをしている働き人たち、お一人お一人に力を与えてください。どうか今、私たち自身も本当に「イエス様、助けてください」と祈るたしなみをしっかりと身につけて、からし種ほどの信仰でもあなたに助けることができますように。どうか助けてください。
あなたが本当に私たちの呼び声に応えてください。祈りに応え、助けてくださるお方であることを感謝いたします。
【結論】
信じる者にはどんなことでもできる。イエス様には全ての権威が与えられており、どんな問題も解決できる方である。私たちは「イエス様、助けてください」とすぐに祈り、イエス様に話すことを習慣にすべきである。「できるものなら」という不信仰ではなく、「イエス様にはおできになります」という信仰を持って祈る時、イエス様が動いてくださる。この種のものは祈りと断食によらなければ追い出せない。いらない言葉を口から出さず(断食=口を覆う)、ただイエス様に話し続けることで、すべての問題が解決される。今の時代、いつでもどこでもイエス様を呼び求めることができる恵みの時代に生きていることを感謝し、どんな時もイエス様に話して幸いを得ていく者となろう。
諦めない「巨大な信仰」(マタイ15:21-28) 早天祈祷会 2026年3月26日(Thu)
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- 執筆 :
- pastor 2026-3-26 17:10
諦めない「巨大な信仰」(マタイ15:21-28) 早天祈祷会 2026年3月26日(Thu)
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【概要】
真の神であるイエス様を救い主として信頼し、どんなに厳しい状況でも諦めずに「助けてください」と叫び求め続ける「巨大な信仰」を持つことの重要性を説いたメッセージです。
【聖書箇所】
マタイ15:21-28
ルカ18:1-8
創世記25:21
【慰めの言葉】
【励ましの言葉】
【勧めの言葉】
【悔い改めの促しの言葉】
【***詳細***】
2026年3月26日の礼拝において、私たちが恵みをいただく聖書の言葉は、マタイによる福音書15章21節から28節です。はじめに、27節と28節を確認しましょう。
「しかし、女は言った。『主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:27-28)
ハレルヤ、愛するイエス様。今も生きて働かれるイエス様が、かつての時代にこの娘を治してくださったように、今、私たちをも癒やし、私たちの家族や事業をも治してくださいます。イエス様が救い主であり、助けを求めるなら必ず答えてくださる方であることを私たちが深く知り、実際に助けをいただいて問題を解決していただく力を引き出すことができますように。
イエス様は今も生きておられる主です。この世には神々と呼ばれるものや、木や銅でできた偶像がたくさんありますが、それらは命を持たない物体にすぎません。しかし、真の神様は生きて働かれる方であり、私たちと人格的な関わりを持ちたいと願っておられます。天地を創造し、私たち一人ひとりの成り立ちや髪の毛の数さえもご存知である神様は、私たちがご自身に信頼し、助けを求めて祈ることを待っておられるのです。
2026年3月25日の夜の祈り会で、私たちに示された悔い改めがあります。それは、私たちがこれまで「イエス様に助けを求める」ということを、本当の意味でしてこなかったということです。私たちは聖書の言葉を宣言したり、綺麗な言葉で祈りを繕ったり、教会で奉仕をしたりして、神様との関わりを持っているつもりでした。しかし、「イエス様は実際に私を助けてくださる方である」ということを、心の底から認めて頼ることは少なかったのです。「イエス」というお名前には「神は救い」という意味があります。イエス様は私たちを救い、助けてくださる救い主です。それなのに、私たちがその力を信じず、頼りも求めてもこなかったことは、本当に悔い改めるべきことです。
聖書には、イエス様が助けを求める人に豊かに力を現してくださった記録がたくさんあります。その一つが、今日お話しするツロとシドンの地方に住んでいたカナンの女の信仰です。
イエス様はユダヤの地を離れ、異邦人の住む田舎であるツロとシドンの地方に行かれました。救いはまずユダヤ人から始まり、やがて全世界へと広がる計画でしたが、この時はまだ全世界へ福音が届けられる前の段階でした。そこに、一人のカナンの女が叫びながらイエス様のところにやって来ました。
「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」(マタイ15:22)
彼女は異邦人であり、ユダヤ人からは偶像礼拝をする罪深い者として忌み嫌われる存在でした。それでも彼女は、自分の立場を気にすることなくイエス様を頼ってきました。彼女が「ダビデの子よ」と呼んだのは、イエス様こそが聖書に預言されたメシア(救い主)であると認めていたからです。
彼女の抱えていた問題は、娘が悪霊に取り憑かれていることでした。偶像礼拝が蔓延する場所では、悪霊が働きやすくなります。彼女はこの問題を解決できるのはイエス様しかいないと信じて近づきましたが、イエス様は彼女に一言もお答えになりませんでした。彼女が叫び続けても無言のままで、ついには弟子たちまでが「あのように叫びながら後からついて来るのですから、彼女を帰らせてやってください」(マタイ15:23)と冷たく言い放ちました。
彼女の目には、この状況がどのように映ったでしょうか。頼りにしていたイエス様は何も答えてくれず、周りの弟子たちも冷たい。まさに完全に孤立した「アウェイ」な状況です。「やっぱり罪深い私の言うことなんて聞いてくれないのだ」と諦めて立ち去ってもおかしくない場面でした。しかし彼女は、娘の問題を何としてもイエス様に解決していただきたいという強い執念を持っていました。皆さんは、自分の抱える問題を「何としてもイエス様に解決していただきたい」と本気で求めているでしょうか。「イエス様に迷惑だから自分で解決しよう」などと諦めてはいないでしょうか。
沈黙を続けるイエス様は、ついに彼女にこう言われました。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには、遣わされていません。」(マタイ15:24)
この言葉を聞いて、彼女は帰ってしまったでしょうか。いいえ、違います。
「しかし、女は来てイエスの前にひれ伏し、『主よ、私をお助けください』と言った。」(マタイ15:25)
どんなに突き放されたように感じても、彼女は「主よ、助けてください」と食い下がりました。あれこれと思案せず、ただひたすらにイエス様に助けを求める。この信仰がとても大切なのです。
すると、イエス様はさらに厳しい言葉を口にされました。
「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(マタイ15:26)
子どもたちとはイスラエルの民のことであり、小犬とは異邦人である彼女のことを指しています。イエス様の使命はまずイスラエルの民を養うことであり、その恵みを異邦人に与えるのは良くないと、彼女を小犬呼ばわりしたのです。普通なら、ここで傷ついて怒り、引き下がってしまうでしょう。しかし彼女は違いました。
「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:27)
彼女はイエス様の言葉を逆手に取りました。「おっしゃる通り、私は小犬です。でも、小犬には小犬としての権利があります。主人の食卓から落ちるパンくずをいただく権利です」と言ってのけたのです。彼女は自分のプライドを捨て、イエス様を「主人」と認め、その主人から与えられる恵みを決して諦めませんでした。
私たちは今、十字架の後の時代に生きています。イエス様の救いは異邦人である私たちにも大きく開かれています。私たちがイエス様のお名前によって祈り求めることを、イエス様は決して咎めたりはなさいません。ただ、「助けてください」と素直に求めるべきなのです。
彼女のこの祈りに対し、イエス様はこう答えられました。
「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように。」(マタイ15:28)
イエス様は彼女から豊かな信仰を引き出されました。ここでの「立派」という言葉は、ギリシャ語で「メガス(巨大な)」という意味です。イエス様は感嘆の声を上げて、「ああ、あなたの信仰は巨大ですね!」と彼女を褒め称えたのです。周りにいたどの弟子たちよりも、この女性の信仰が最も巨大でした。
私たちも、この巨大な信仰を持つべきです。巨大な信仰とは、たとえ答えが遅くても、周りから冷たくされても、自分のプライドが傷ついても、イエス様を決して手放さず、「主よ、助けてください」と呼び求め続けることです。
イエス様は、ルカの福音書で「不正な裁判官のたとえ」を語られました。ある町に、神を恐れず人を人とも思わない不正な裁判官がいました。そこに一人のやもめが来て、「私の訴えを取り上げて、裁判をしてください」と何度も頼みました。裁判官は最初は取り合いませんでしたが、彼女があまりにも何度もやって来てうるさく頼むので、「このやもめはうるさくてたまらないから、願いを聞いてやろう」と言いました。
イエス様はこのたとえを通して、こう教えられました。
「神は、昼も夜もご自分に向かって叫ぶ、選ばれた者たちのために、さばきを行わないでいつまでも放っておかれるでしょうか。」(ルカ18:7)
神様とは真逆の性質を持つ不正な裁判官でさえ、求め続ければ願いを聞き入れるのです。ましてや、天の父なる神様が、昼も夜も叫び求める子どもたちの祈りに答えてくださらないはずがありません。もし、物事が思うように進まなかったり、願いが叶えられていないと感じるなら、私たちも何度も何度もイエス様に「どうか助けてください」と訴え続けるべきなのです。神様は、私たちがご自身に関わり、求め続けることを望んでおられます。
旧約聖書に登場するアブラハムと、約束の子であるイサクの例を考えてみましょう。アブラハムの子孫が星の数ほど増え広がるという約束がありましたが、イサクが結婚してから子どもができるまで、なんと20年もの歳月がかかりました。約束の民であるということにあぐらをかいて、「神様がそのうち与えてくれるだろう」と中途半端な気持ちで過ごしていたのかもしれません。しかし、ついにイサクは「主にお願いした」(創世記25:21)とあります。彼が真剣に神様に助けを求めて祈ったとき、ようやく子どもが与えられたのです。約束の民でさえ祈り求める必要があったのですから、ましてや私たちはなおさら祈り求めるべきです。
今日のメッセージはとてもシンプルです。「求め続けるべき」ということです。「イエス様、助けてください」と、ただその祈りを求め続けてください。病の癒やし、問題の解決、次世代の救いなど、どんなことでも諦めずに求め続けるなら、主は必ず答えてくださいます。
イエス様は不正な裁判官のたとえの最後に、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)と言われました。今の時代、私たちが求め続けることをやめてしまえば、敵の罠に陥ってしまいます。まるで答えがないように見えても、昼も夜も求め続けるなら、皆さんの信仰は巨大になっていき、主は必ず祈りに答えてくださいます。イエス様が生きて働かれることを、皆さん一人ひとりが豊かに体験できますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
(続いて、礼拝での応答の祈り)
ハレルヤ。天のお父様、感謝いたします。愛するイエス様、あなたは生ける神の御子であり、私たちの救い主です。これまで、私たちが綺麗な言葉を並べるだけで、本気で「イエス様、助けてください」と頼ってこなかったことをお赦しください。どうか私たちの問題を解決し、あなたが確かに生きて働かれる方であることを体験させてください。
今、牧師のメッセージを通して、魂がわななき震えるような思いです。イエス様が再び来られる時、私たちは賢い乙女たちのように油の備えをしているでしょうか。助けを呼び求めない中途半端な信仰ではなく、本気で悔い改めて、主の御名を呼び求める信仰を与えてください。2026年3月25日の夜遅くまで、皆で祈り悔い改めたように、これからも「助けてください」というシンプルな信仰を握りしめて歩みます。
スロ・フェニキヤの女のように、イエス様の言葉を盾に取り、決して諦めない「メガス(巨大)なる信仰」を働かせていきたいと願います。「ああ、あなたの信仰は巨大です。願い通りになるように」という主の御言葉を引き出すまで、私たちは祈り続けます。イエス様、どうか助けてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【結論】
イエス様は、私たちがご自身を真の「救い主」「主人」として頼り、諦めずに「助けてください」と叫び求めることを待っておられます。たとえ答えが遅く感じられても、プライドを捨てて食い下がる「巨大な信仰」を持ち、絶えず祈り求め続けることで、私たちは主の生きた御業と解決を体験することができます。
残り物を主に捧げていないだろうか?(ローマ12:1-2)
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【概要】
あなたがたが盲目のものをいけにえとして捧げる。それは悪い事ではないのか? 足なえや病気のものを捧げるとき、それは悪くないのか? さあ、それをあなたの総督に差し出してみよ。 彼はあなたを喜び、あなたを受け入れるだろうか? 万軍の主は言われる。 (マラキ1:8直訳)
ローマ12:1-2
創世記2:3
マラキ1:6-13
ヨハネ4:21-24
ルカ6:38
マタイ13:8
詩篇37:1-2
【戒めの言葉】
自分の好きなことで疲れ切った状態や上の空の状態で礼拝の場に臨むなど、余り物や不完全なものを神様に捧げるような形だけの礼拝をしてはいけません。
【勧めの言葉】
この世の価値観という鋳型にはめ込まれるのではなく、御言葉によって心を一新し、自らを神様に喜ばれる生きた供え物として捧げましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
神様よりも自分の用事や世の中のことを優先し、足のなえた動物を捧げるような怠けた態度で礼拝に出ていなかったか、今一度自分の心を点検し、悔い改めましょう。
【***詳細***】
礼拝の初めに、皆でローマ12:1-2の御言葉を宣言しました。
「そういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖なる、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
そして、礼拝の時間を最高のものとして過ごせるよう、私たちの思いや心、体を主にお捧げし、神様からの恵みをいただけるよう祈りから始まりました。
私たちは神様のものになりました。私たちが受け継ぐ財産、つまり私たちにとっての最高のご褒美は、お金や土地のようなものではなく、神様ご自身です。このことを深く知り、実感していくべきです。何億円というお金や不動産を得ることよりも、神様ご自身を受け継いでいることのほうが、どれほど幸せなことでしょうか。このことを実感すればするほど、お金や老後の安心などをはるかに超えた平安と安息を得て、「今ここにいていいんだ」という確信に満たされるはずです。神様がいない人は、実績やお金の残高がないと不安になり、右往左往してしまいます。そして、頑張らなくてもいいところに力を注いで、結果的に無駄遣いをしてしまうのです。ですから、私たちは何が本質なのかをしっかりと捉え、イエス様を中心とする生活を送るべきです。
イエス様を礼拝することが、私たちの生活の中心にならなければなりません。神様は天地を創造された時、7日目を安息日として聖なる日と定められました(創世記2:3)。この世のあらゆるゴタゴタやトラブルは横に置いて、神様との完全な交わりと平安を守る日です。現代の私たちにとっては、日曜日が主を礼拝すべき主日です。この日には、世の中のさまざまな事情を置き去りにして、神様を第一に覚え、神様と交わるべきです。そうすれば必ず祝福されます。
しかし、日曜日に世の中の仕事を持ち込み、「6日働いて1日休むより、7日全部働いた方が稼げる」と考えた人たちは、どんどん衰退していきました。アメリカがかつて右肩上がりで発展したのは、日曜日に行う礼拝を忠実に守ったからです。しかし、その礼拝をおろそかにし始めた時から、国に影が見え始めました。私たちも、神様を第一にして礼拝を捧げることを、何よりも優先しなければなりません。
ローマ12:1-2には「霊的な礼拝」という言葉が出てきます。これは原文の意味からすると「理にかなった礼拝」「筋の通った礼拝」という意味です。では、何が筋の通った礼拝なのでしょうか。それは、私たちの体を神様に受け入れられる、清く生きた供え物として捧げることです。ここで言う「体」とは、肉体だけでなく、魂も心も霊も含めた全身全霊のことです。ですから、ただ体が礼拝の場にいるだけでは不完全です。思いも心もすべて神様に向け、神様への愛をお捧げすることが重要なのです。
また、「この世と調子を合わせてはいけません」と言われています。これは、世の中の鋳型にはめ込まれてはいけないということです。溶けた金属を鋳型に流し込むと、その形の像が出来上がります。世の中は、「子どもはこうあるべき」「社会人はこうあるべき」といった鋳型に私たちをはめ込もうとします。もしそれが神様に敵対するような鋳型であるなら、決してはめ込まれてはいけません。私たちは、キリストに似た姿へと作り変えられることを求めるべきであって、この世の鋳型を優先してはならないのです。
何が完全であり、何が神様に喜ばれることなのかをわきまえ知るために、心を一新して自分を変えなさいと言われています。世の中の考え方を一新し、御言葉を中心とした新しい志を持ちましょう。
「自分を変えなさい」という言葉は、原文では受動態で書かれており、「変えられ続けていきなさい」という意味です。つまり、心を一新させれば、あとは受動的に変えられ続けていくのです。私たちの責任は、世の中の邪悪な考え方を捨て、御言葉を中心とした考え方に自分を当てはめ続けることです。自分の力で自分を変えることはできません。御言葉に自分を当てはめていくことで、変えられ続けることが可能になるのです。「自分で変わらなきゃ」と努力するよりも、「御言葉にこう書いてあるから、それに自分を当てはめよう」と考える方が、何百倍も効果的です。真の礼拝者とは、自分のやりたいことではなく、御言葉に何と書いてあるか、神様が喜ばれることは何かを求め、そこに自分を当てはめていく人のことです。
一方で、神様が「このような礼拝はダメだ」と指摘された例が、マラキ書の1章(マラキ1:6-13)に書かれています。神様は、「もし私を父とし、主人としているなら、私への尊敬はどこにあるのか」と問いかけられました。当時の人々は「ちゃんと礼拝を捧げています」と言い訳しましたが、神様はこう言われました。「あなた方は祭壇に汚れたパンを捧げている。目が見えない動物や、足のなえた動物を捧げているではないか。そんな不完全なものを総督にプレゼントして、喜ばれるだろうか」。人間でさえ喜ばないような不完全なものを、神様の御前に捧げていることを咎められたのです。
神様はそのような形だけの捧げ物を喜ばれません。「誰か、祭壇の火を消してくれる者はいないのか。そんな捧げ物は私の祭壇に持ってくるな」とまで怒られました。心の中では「良い動物は自分のために取っておいて、価値のないものを捧げよう」と考えていることを、神様は見抜いておられたのです。マラキ1には、余り物や盲目のものを神様の御前に捧げてはならない、それは喜ばれないと明確に記されています。
私たちも同じようなことをしていないでしょうか。自分の好きな動画やスマートフォンを見続けて目が疲れ切り、霊的にも盲目になったような状態で礼拝に来ていないでしょうか。自分の好きなことには体力を使い果たし、いざ礼拝の時間になると上の空になったり、忙しいからと礼拝から離れてしまったりしていないでしょうか。それは、余り物を神様に捧げているのと同じです。
イエス様は、真の礼拝についてヨハネ4:23-24でこう言われました。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
また、ローマ12:1-2にあるように、全身全霊を清い供え物として捧げるのが理にかなった礼拝です。自分の好きなことを散々やって、その残りカスのような状態で、うつらうつらと居眠りしながら捧げる礼拝を、神様は喜ばれません。生きておられる神様に対して、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛を捧げることこそ、求められている真の礼拝なのです。
マラキ書の時代には、自分の方が清くて礼拝の場が汚れているかのように振る舞ったり、戒められると「なんとうるさいことか」と心の中で軽蔑したりする人々がいました。彼らは盗んだものや足のなえたものを捧げていましたが、神様がそれを喜んで受け取られるはずがありません。
皆さんが今、礼拝の場にいる態度は、果たして神様の御前に届くものでしょうか。もし世の中の偉い総理大臣などと対面する時の態度のほうが、神様と向き合う時の態度よりも立派であるなら、それは神様よりも世の中を優先していることになります。神様の御前では、心を尽くして愛する礼拝を捧げるべきです。
イエス様は、サマリヤの女からの質問に対して「この山でもなく、エルサレムでもない」と答えられました。形式や場所ではなく、四六時中いつでも「霊とまこと」をもって神様を敬っているかどうかが問われているのです。神様は私たちの心の内をご覧になり、神様と一つになっている人に目を留め、その人をこの時代の立役者にしてくださいます。ふさわしい心を持つ人には、多くのことが任されるようになり、忠実に果たすことでさらに多くの働きが委ねられていきます。
「この程度でいいや」「適当にやって他の人に任せよう」という怠け心は一切捨て去りましょう。
神様が求めておられるのは、私たちの思い、心、体、感情のすべてを委ねる礼拝です。すべてを捧げたら自分のものがなくなって損をする、などと考えてはいけません。ルカ6:38にあるように、神様は「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに」して与えてくださるお方です。マタイ13:8にあるように、私たちが1を捧げれば、神様は30倍、60倍、100倍にして返してくださいます。
心から神様にすべてを捧げ、神様からさらなる祝福を与えられ、尊い働きに用いられる喜びに満たされますように。そして多くの富や人々が託され、神様の働きを進めていく者となれますように祝福します。
【結論】
私たちの全存在(霊・魂・心・体)を神様に喜ばれる生きた供え物として捧げることこそが、真の礼拝です。世の中の価値観という鋳型にはめられることなく、常に御言葉に自らを当てはめて心の一新を図りましょう。疲弊した状態の余り物や不完全なものを捧げるのではなく、「霊とまこと」をもって最上の礼拝を捧げる時、神様は私たちに豊かな祝福と大いなる使命を委ねてくださいます。
キリストにあって圧倒的な勝利者である私達(ローマ8:28-39) 早天祈祷会 2026年3月25日(Wed)
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- pastor 2026-3-25 6:20
キリストにあって圧倒的な勝利者である私達(ローマ8:28-39) 早天祈祷会 2026年3月25日(Wed)
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【概要】
神様は私たちを深く愛し、御子イエス・キリストを惜しみなく与えてくださいました。いかなる困難や被造物も、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできず、私たちは主にあって圧倒的な勝利者となることができます。
【聖書箇所】
ローマ8:28-39
創世記15:1
【***詳細***】
本日は、ローマ8:31-39の聖書箇所から神様の恵みを受け取っていきます。はじめに、皆さんと共にローマ8:31-32の言葉を確認します。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
愛するイエス様が、いつも私たちと共にいてくださり、私たちをじっと見つめ、愛し、そして常に私たちのために祈り、とりなしてくださっていることを心から感謝します。私たちは今、神様の御前に出て、御言葉をいただくためにここにいます。神様が直接語りかけてくださり、私たちがしもべとしてしっかりと耳を傾けることができるように、そしてその言葉が私たちの耳から心へ、そして体全体へと豊かに蓄えられていくようにと祈ります。
皆さんは、イエス様を自分自身の主として受け入れているでしょうか。もしそうであるならば、この地上に存在するいかなるものも、皆さんをイエス様から引き離すことはできません。神様の愛と導きから離れてしまうことは決してないのです。
ローマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。神様は、私たちの人生に起こるすべての出来事を、まるでひっくり返すようにして「益」へと変えてくださいます。たとえ皆さんの過去やこれまでの人生が真っ黒に思えたとしても、イエス・キリストという存在が皆さんの心の中に投げ込まれるなら、すべては雪のように真っ白になります。
オセロゲームを想像してみてください。盤面がすべて真っ黒な石で埋め尽くされていたとしても、キリストという白い石が隅にしっかりと置かれるなら、オセロのルール以上に強力なイエス様の力によって、盤面は次々と白く塗り替えられていきます。皆さんがイエス様を信じ、キリストが皆さんの内におられるなら、過去のどんな暗闇や罪も、キリストによってすべて白く変えられるのです。神様は、世界の初めに暗闇があった時、「光、あれ」と宣言され、その光を見て「良し」と言われたお方です。神様の御心は、皆さんの人生が黒や闇のままであることではなく、白く光り輝くことです。
その神様が皆さんを愛し、ご自身の御子であるイエス様をさえ惜しむことなく、私たちのために十字架の死へと渡してくださいました。このキリストの愛が皆さんの心の中に満ちあふれ、とどまり続けているならば、その愛から皆さんを引き離すことができるものは何一つありません。もちろん、皆さん自身がその愛を拒絶してしまうなら話は別です。しかし、皆さんがしっかりとキリストにつながっている限り、キリスト・イエスにある神の愛から引き離されることは絶対にないのです。
神様は、あらかじめご自身の計画に従って人々を召し出してくださいました。ローマ8:29-30にはこのように書かれています。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
神様は、あらかじめ皆さんを知り、あらかじめ皆さんをご自分の子どもとなるように、そして雪のように白く清らかな存在となるように定めておられました。それは、御子であるイエス様が、多くの兄弟姉妹たちの中で長男のような存在となるためです。ですから、皆さんはキリストの弟や妹であり、私たちは皆、主にある兄弟姉妹なのです。
神様はあらかじめ定めた人々を召し、義と認め、さらに栄光をお与えになりました。これらはすべて、過去にすでに完了していることであり、決して変わることのない真理です。神様の側ではもうすでに確定しているのです。皆さんがこの約束の言葉を信じ、しっかりと握って手放さないでいる限り、この恵みは皆さんの人生において有効であり続けます。
しかし、神様は私たちに自由な意志を与えておられます。そのため、神様を掴み続ける自由もあれば、手放してしまう自由もあります。もし皆さん自身が「そんなことはない」「自分はダメだ」とこの真理を手放してしまうなら、それは皆さんが宣言した通りの結果になってしまいます。皆さんは、決して神様を手放してはいけません。神様によって召され、義とされ、神の子どもとされたという事実を、しっかりと信じ続けてください。
神様は、私たちが時として弱くなる存在であることをよくご存知です。だからこそ、今日の御言葉が与えられています。神様は御言葉を通して、「大丈夫だよ、私はこんなにもあなたを愛しているよ、しっかりとあなたを掴んでいるよ」と私たちに語りかけてくださっているのです。
ローマ8:32には、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とあります。神様は私たちすべてを愛するがゆえに、御子イエス・キリストを惜しむことなく十字架の死へと渡されました。そして、イエス様は死んで終わったのではなく、私たちのために復活されました。私たちもまた、キリストと共に復活の命にあずかり、御子の光の中で生きていくようにと、神様は定めておられるのです。
今年の初めに、私たちは「主ご自身が私たちの報酬である」という言葉を確認しました。創世記15:1には、「これらのことの後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい』」と記されています。この言葉の本当の意味は、主を信じたらこの世の報酬がたくさんもらえるということではなく、「主ご自身が私たちにとって最大の報酬である」ということです。イエス様が皆さんのご褒美であり、皆さん自身の内にすでにおられるのですから、皆さんはこの地上で必要な助け、癒し、経済的な支えなど、すべてのものをすでに得ていることになります。イエス様を通して、すべての問題は解決され、必要なものが与えられていくのです。
私たちが生きていく中で、悪魔やサタン、あるいは自分自身の弱い心が、「お前は罪深い」「お前には価値がない」と囁き、訴えかけてくることがあるかもしれません。しかし、ローマ8:33-34にはこうあります。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
もし心が暗闇の声に引き寄せられそうになったら、この御言葉の真理を宣言してください。神様が私たちを義と認めてくださっています。そして、天の右の座におられるイエス様が、私たちのことをじっと見守り、私たちが打ちひしがれている時も、喜んでいる時も、常に私たちのためにとりなしてくださっているのです。イエス様が私たちの味方となり、「これが歩むべき道だよ」と導いてくださっています。
ローマ8:35には、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」とあります。使徒パウロの時代には、命に関わる現実的な迫害がありました。今の日本にはそのような直接的な迫害は少ないかもしれませんが、この時代特有の患難があります。それは、人々の心がキリストの愛を知らず、霊的な飢え渇きの中にあり、御言葉を伝えても無関心であったり、拒絶されたりすることです。時には、家族から反対されることもあるかもしれません。
しかし、どのような患難や苦しみ、迫害があったとしても、ローマ8:37が教えるように、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」という真理は変わりません。たとえ目の前に危険が迫り、困難が取り囲もうとも、かろうじて勝つのではなく、イエス様にあって「圧倒的な勝利者」となるのです。野球で言えばゼロ対十以上のコールドゲームのような、比べ物にならないほどの完全な勝利を、イエス様と共にいる皆さんはすでに手にしているのです。
最後に、ローマ8:38-39の確信の言葉を見ましょう。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
死であろうと命であろうと、目に見えない霊的な存在であろうと、皆さんの報酬としてイエス様がともにおられるなら、皆さんを神の愛から引き離すことは絶対にできません。イエス様が味方であるなら、私たちは圧倒的な勝利者であり、この世のどのような恐ろしい存在であっても、私たちに勝つことはできないのです。
ですから、私たちはいつもイエス様をしっかりと捉え続け、とどまり続けなければなりません。教会から一歩外に出た途端に、世の中の荒波や厳しい現実に目を奪われ、イエス様を呼ばなくなってしまえば、波に飲み込まれてしまいます。弟子であったペテロは、水の上を歩く際、イエス様を見つめている間は沈みませんでしたが、波や風を見た途端に沈み始めました。私たちも同じです。世の中の荒波を見るのではなく、イエス様だけをしっかりと見つめ続け、イエス様と共に歩み続ける者でありたいと願います。
ハレルヤ。神様が私たちの友として、いつも共にいてくださることを感謝します。過去のどんな罪も、私たちが犯してきた過ちも、神様の愛から私たちを引き離すことはありません。なぜなら、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださり、私たちを贖い、雪よりも白く清めてくださったからです。この地上に存在するいかなる悩みも、苦しみも、剣も飢えも、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。
私たちが世の荒波に目を向けて沈んでしまうのではなく、イエス様から決して目を逸らさず、どんな困難な状況であっても安定した歩みを続けることができますように。あなたご自身が私たちの盾となってくださり、イエス様を甚だ大いなる報酬として与えてくださっていることを覚えて、心から感謝いたします。
【結論】
神様は私たちに御子イエス・キリストを惜しみなく与えてくださるほど、私たちを深く愛しておられます。この世のいかなる患難も苦しみも、目に見えない力も、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。私たちは自らの弱さや世の荒波に目を向けるのではなく、常に私たちをとりなしてくださるイエス様を見つめ続けることで、すべてのことにおいて圧倒的な勝利者として歩むことができるのです。
主にあってひとつも無駄な事は無いこの人生(ローマ8:28-30) 早天祈祷会 2026年3月24日(Tue)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-3-24 5:40
主にあってひとつも無駄な事は無いこの人生(ローマ8:28-30)
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【概要】
神様のご計画に従って召された人々にとっては、人生のどんな苦難や一見無駄に思えることもすべてが益となり、御子イエス様の姿へと作り変えられるための大切な過程であるというメッセージです。
【聖書箇所】
ローマ8:28-30
ローマ8:31
ローマ8:38-39
【慰めの言葉】
自分自身の過ちや、他人の悪意によって人生が台無しになったように思える時でも、神様を愛しているならば、神様がすべてのことを働かせて益に変えてくださいます。
【励ましの言葉】
私たちの人生に無駄なことは一つもありません。今の苦しみや困難は、やがてより大きな神様の働きをするためのトレーニングであり、私たちが御子の姿に作り変えられるための大切なプロセスです。
【勧めの言葉】
今任されている仕事や、目の前にある困難な状況から逃げることなく、将来の大きな希望を見据えて、イエス・キリストにあって忠実に走り抜けましょう。
【***詳細***】
2026年3月24日の朝に与えられた恵みの御言葉は、ローマ8:28-30です。まず、神様を愛する人々、すなわち神様のご計画に従って召された人々のためには、神様がすべてのことを働かせて益としてくださることを確認し、祈りから始まります。神様に連なっている人々にとっては、身の回りに起こるすべての物事、そして私たち自身が神様の姿に作り変えられていくためのあらゆる経験が、すべて益であることを感謝します。この礼拝に参加する一人ひとりが豊かな恵みを受け取り、御言葉を取り次ぐ者の口を通して、神様の御座から流れる命の御言葉を豊かにいただき、神様を心に蓄えて共に歩むことができるようにと祈ります。
私たちキリストを信じる者の人生は、間違ったまま、あるいは不幸なままで終わるということは決してありません。「自分の人生は暗く、どん底だった」と振り返るような時期があったとしても、人生の途中の段階で「自分の人生はこういうものだ」と決めつけてはいけません。なぜなら、その先には必ず神様が用意された続きがあるからです。神様の御心は、私たちの人生が不幸せなままで終わることではありません。神様は私たちを、ご自身の姿形に似せて作ってくださいました。私たちは神様に深く愛されており、私たちが母親の胎内に宿るはるか前から、神様はすでに私たちの人生が幸せで有意義なものになるように設計しておられたのです。エペソ人への手紙にも書かれているように、世界の基が置かれる前から、私たちは神様の御前でしみやしわのない、きよいものとして選ばれて作られていました。ですから、私たちの人生には確かな意味があります。
今、私たちはそれぞれの人生の途中にいます。神様は完全なご計画を持って、私たちの人生を導き進めておられます。私たちは神様の壮大な計画の全体を知らないため、人生の途中で起こる出来事だけを見て「自分の人生は不幸だ」「失敗だった」と決めつけてしまいがちです。しかし、神様に愛されている私たちは、すべてのことが働かせて益となるという事実を知るべきです。「これまでの人生は無駄だった」と思えるような時期も確かに存在しますが、決してそれだけで終わるわけではないということを、今日の聖書箇所は明確に示しています。
ローマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」と記されています。ここに、すべてのことが益となるための重要な条件が書かれています。それは「神様を愛する人々である」ということです。私たちが神様を愛しているならば、この御言葉の約束の範囲内に入っています。それは例えるならば、手厚い保険に入っているようなものです。保険の適用範囲内であれば、たとえ自分が何かミスをしてしまったとしても、保険によって守られます。たとえば、ある人がアパートの自分の部屋でうっかり水漏れを起こし、下の階の部屋に被害を与えてしまったとします。しかし、保険に入っていたおかげで、自分のお金で全額を賠償して生活が立ち行かなくなるような事態は避けられました。神様を愛する人々は、このような神様の確かな守りの範囲内にいるのです。
そもそも、なぜ私たちが神様を愛することができるのでしょうか。それは、私たちが自発的に神様を愛したからではなく、神様がご自身の計画に従って私たちをあらかじめ召してくださったからです。2026年3月24日の今日、こうして早天礼拝に参加しているのも、御言葉を聞きたい、神様を賛美したい、礼拝を捧げたいという思いがあるからです。あるいは、たまたま動画配信を見てこのメッセージに出会った人もいるかもしれません。どのような形であれ、神様のご計画に従って召された人々のために、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます。勝手に、あるいは自然に状況が良くなっていくわけではありません。私たちが神様を愛しているなら、神様ご自身が背後で働いて、すべての出来事を益へと作り変えてくださるのです。
たとえ自分自身の罪や無知、愚かさのせいで人生を台無しにしてしまったと感じたとしても、それでも神様を愛するなら、神様はそれを益へと作り変えてくださいます。先ほどの水漏れの話のように、自分に落ち度があったとしても、神様の守りの範囲内にいるなら致命的な損害にはなりません。同じように、自分の罪によって人生に損害が出た場合でも、あるいは自分には何の落ち度もないのに他人の悪意や意地悪によって人生が壊されてしまった場合でも、神様の愛の手の中にあるならば、それはすべて益へと変えられていくのです。
旧約聖書に登場するヨセフの人生がまさにそうでした。ヨセフ自身には何の落ち度もなかったにもかかわらず、兄たちの嫉妬と悪巧みによって、エジプトへ奴隷として売られてしまいました。その状況だけを見れば、絶望しかありません。「私の人生は真っ暗だ」と嘆いても仕方のない状況でした。しかし、ヨセフは非常に前向きで誠実な人でした。奴隷として売られた見知らぬエジプトの地でも、任された仕事を忠実にこなしました。すると、彼がすることすべてが成功していきました。エジプト人の主人は、神様がヨセフと共におられるのを見て、彼に家のすべての管理を任せました。私たちの人生においても、どんなに理不尽で、奴隷として売られたような絶望的な思いがする状況であっても、神様が共におられるなら、その置かれた場所ですべてが益へと作り変えられていきます。
神様が共におられるからこそ、その働きは祝福されます。そして、その置かれた場所で私たちは鍛えられていくのです。後に神の国の働きのために大いなる活躍をするために、今受けている苦しみや困難、不本意な状況のすべてを、私たちは自分を成長させるトレーニングとして受け止めるべきです。ヨセフは奴隷として忠実に働いた結果、祝福されました。しかしその後、主人の妻から嘘の告発を受け、今度は無実の罪で犯罪人として牢屋に入れられてしまいます。それでもヨセフは不満や愚痴を漏らしたという記録はありません。牢屋の中でも忠実に働き、そこでも神様が共におられたので、牢屋の番人から多くの責任を任されました。奴隷として、そして囚人として鍛えられ、彼がどんな状況でも忠実さを貫いた結果、やがて時が来たとき、神様はこのヨセフという人物にエジプト国中を任せることになります。そして、神の民であるイスラエルを飢饉から救うためにエジプトに呼び寄せ、一つの家族から一つの国家へと成長するための土台作りをヨセフが担ったのです。これらはすべて、神様の計画に従い、神様の御心が成就するために行われたことでした。
ローマ8:29には、「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」とあります。私たちキリストを信じる者の最終的な目標は、御子イエス様と同じ姿になることです。私たちの人生の目的は、単に毎日が楽しくてハッピーになることではありません。イエス様と同じ性質へと成長していくことなのです。ですから、人生の途中で起こる苦しいことや悲しいこと、無駄に思えるような出来事は、決して無駄ではありません。その苦難の中で、私たちは着々と御子の姿へと作り変えられていきます。私たちの中にある不要な性質や不純物が、どんどんと取り除かれていくのです。だからこそ、すべての出来事は益であり、意味があるのです。「あの時期の自分の人生は無駄だった」ということは決してありません。御子の姿に作り変えられるための大切な過程なのです。今、少しでも以前よりイエス様の性質に近づいているのなら、これまでの人生は一切無駄ではありません。
続くローマ8:30には、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と記されています。これらはすべて、すでに過去に完了したこととして書かれています。神様が私たちを召し、義と認め、栄光を与えることは、すでに定まっている確かなことなのです。私たちがこれから何をしようと、この神様の計画が変更されることはありません。神様が私たちを召し出してくださったのは、私たちが義と認められるためです。私たちには罪があり、そのために人生に悲惨なことが起こり、周囲に不幸をもたらすこともあるかもしれません。しかし、キリストにあって私たちは義と認められ、さらに神様の栄光が与えられるようになるのです。今こうして礼拝に参加し、御言葉を聞いているのも、すべて神様の計画によるものです。
ローマ8:31には、「では、これらのことからどう言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」とあります。そして、ローマ8:38-39にはこう書かれています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 この世にあるどんなものも、目に見えない霊的な力も、私たちをキリスト・イエスにある神様の愛から引き離すことは絶対にできません。イエス・キリストこそがすべてなのです。
ですから、私たちの人生に無駄なことは一つもありません。「自分が今やっていることに何の意味があるのだろうか」「全く成果が出ないではないか」と悩むことがあるかもしれません。しかし、私たちは確実に御子イエス様の姿へと作り変えられています。そして、将来さらに大きな栄光の働きをするために、今日なすべきことがあるのです。今日なすべき一つ一つのことが、やがて神の国の働きのために私たち自身を整え、準備するトレーニングとなっています。ヨセフの奴隷としての仕事も、牢屋での仕事も、決して無駄ではありませんでした。それは神様に対する誠実さを育むためのトレーニングの場でした。今、自分が何かをしているなら、それはトレーニングです。やがてより大きな舞台に立ち、より大きな働きをするために、今鍛えられている最中なのです。
神様のご計画に従って召され、今いる場所でトレーニングを受け、やがてより大きな栄光の舞台で魂を救い、福音を伝える働きのために備えられています。どうか希望を持って、今の仕事や目の前の状況から逃げ出さずに、イエス・キリストにあって走り抜けてください。愛する神様、世の始まる前から私たちを選び、御前できずのない者として定めてくださったことを感謝します。今日与えられている務めを、御子イエス様の姿に作り変えられていくという大きな目的のために果たしていきます。私たちが元気を失うことなく、キリストにあって将来に希望を持ち、今日2026年3月24日も、明日2026年3月25日も、そしてこれからも、神様によって幸いを勝ち取っていくことができますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
【結論】
神様を愛する者にとって、人生に無駄なことは一つもありません。すべての困難や日常の務めは、私たちを御子イエス様の姿へと作り変え、将来のより大きな働きのために備えるためのトレーニングです。神様の愛から私たちを引き離すものは何もないという確信を持ち、今置かれた場所で希望を持って忠実に歩み続けましょう。
