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メッセージ - 2コリント人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:キリストにあって完全な者となれ(2コリント13:7-13):右クリックで保存
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パウロの願いは、自分が不適格のように見えても、自分が弱くても、コリントの人達が不品行など止め、正しい行いをするようになる事だった。(7,9節)
「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」(8節)
私たちが何事も出来る根拠である真理とは、まことのぶどうの木なるキリストであり、このお方を離れては、何もする事ができない。(ヨハネ15:4-6)
キリスト抜きで何かをした、例えば事業で成功した、と思っても、それは神の前にあるものではなく、やがて消え去る霧、火に投げ込まれてしまう類のものである。

「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」(9節)
そして、完全な者になるとは、キリストの満ち満ちた身の丈まで達する事であり(エペソ4:13)、それには、聖徒達が互いにキリストにあって立て上げる働きをする事以外にはありえない。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エペソ4:16)
それ故、聖徒達がキリストにあって一つとなり、平和を保つ聖徒の交わりが大切である。

「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(11節)
いよいよ手紙の最後の挨拶に入るが、その中で、真っ先に勧められている事は、「完全な者になりなさい」である。(「喜びなさい」と訳したギリシア語の字義は「さようなら」という挨拶の意味もある。)
完全な者になるとは、キリストの満ち満ちた身丈まで成長する事であり、それが大切であるので真っ先に勧められ、その次は「慰めを受けなさい」である。
キリストの力は弱さのうちに完全に働くものであり、私たちが弱さを身にまとうなら、同時にキリストにある慰めも与えられ、それによって、私達はいかなる状況下でも強くなる事ができる。
続いて「思いを一つに」「平和を保ち」これらはエペソ書でも見たように、聖徒達がキリストにあって一つとなり、平和を保ってこそ、完全へと進む事の近道であるためパウロは勧めているのである。
「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。」(12節)
ボアズは、雇い人達と日常的に祝福の挨拶を交わしたため、彼は災い多き時勢にあっても有力者となる事が出来た。(ルツ2:4)
同じように私達も、聖なる挨拶を交わし、互いに祈り合う事によって、ますます祝福され、艱難の世にあっても有力者となって行く事ができるのである。

そして最後に祝祷である。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(13節)
三位格なる神の恵みがあるよう祈る際、真っ先に持ってくるべきお方は、子なるキリストである。
このお方こそ唯一神と人との仲保者、聖霊を与えて下さる保障なるお方である。
キリストの血潮の助けを得てこそ、おりに叶った助けを得るために大胆に御父の前に出る事が出来、キリストの息吹によって私達は聖霊を受け、大胆にキリストを証する働きが出来るのである。

どうか、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、皆さん一同と共にありますように。アーメン!

礼拝説教メッセージ音声:三度目は無い(2コリント13:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

コリント人の中に相変わらず、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあったりしないか、汚れと不品行と好色を悔い改めていないかを、パウロは心配していた。(12:20-21)
「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。」(13:1)
パウロは過去2度の訪問で、そのような者達を戒めていたが、もし今度訪問する際にも改めていないなら、容赦しないと2節で言っている。
容赦しないとは、具体的にどうするのだろうか?

兄弟姉妹が罪を犯した場合、二人また三人が戒め、それでも聞かないなら教会が戒め、それでも聞かない場合は、その者を異邦人や取税人のように扱うよう主は定めている。(マタイ18:15-17)
つまり、聖徒の交わりという祝福された神の囲いから、その者を罷免し、裁きを神に引き渡すのである。
二人また三人のキリストにある集まりには、地上で罷免するなら、天においても罷免される程の権威が与えられている。
このすさまじい権威を、兄弟姉妹をさばくためではなく、建て上げるために用いたいとパウロは願う。(2コリント13:12)

コリント人は、パウロに2度戒められた時、悔い改めるよりもむしろ、パウロがキリストによって語っているのかどうかという証拠を見せよ、と言っていたようであるが、それに対しパウロは、自分がキリストのご性質に沿って来た事を示し(4節)、自分がキリストによって語っている事を伝えた。

キリストは、人を圧倒的な強制力で無理やり従わせるのではなく、愛と憐れみによって自由に仕え愛するようにと、して下さった。
人々の中には、キリストが無抵抗なのを良い事に、つけあがり、あざけり打つ者もいたが、主はその人さえ憐れみでもって救いたいが為に、打つ者に頬や背を委ねられた。
しかしキリストが再臨される時、与えられた憐れみの期間に悔い改めておらず、行状を改めなかった者には、圧倒的な力で臨んでその者を裁く事になる。
パウロも1度・2度目の訪問の時には「弱々しく」見えるほど柔和に諭したが、三度目に訪問する時には毅然として権威を行使するのだろう。

さらにパウロは、自分達が信仰に立っているかを吟味せよ、と促した。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」(13:5)
他人の事をとやかく言ったり、さばいたりする者の座に着くのではなく、まず自分をキリストにあって吟味し、自分をさばくべきである。
「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(1コリント11:31)

もし私達の内に、争いや、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるとしたら、それはキリストの性質ではない。
即刻悔い改め、キリストに向き直って純度を保つべきである。

礼拝説教メッセージ音声:パウロの期待(2コリント12:19-21):右クリックで保存
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「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」(2コリント12:19)
コリントへの手紙には、パウロが自己弁護しているかのように見える所があり、コリント人はそれを見て、パウロが自分達に媚びて、評価してもらいたいと思っていた節がある。
コリント人は、自分達は評価する側、パウロは評価される側と見なしていたかもしれない。

流されやすい人は、誰かから面接官のような態度で押し込まれると、おどおどしてしまう事もあるが、パウロはおよそ人間の評価を小さな事としていた。
「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」(1コリント4:3-4)

人の目を気にしてしまう傾向を改善するには、キリストにあるアイデンティティを、すなわち、罪赦され、神の子とされ、キリストの懐にしっかりと結び合わされ、キリストと共に天の王座に共に座らされた者であるという事をしっかり確立すれば、改善され、人のどんな罵詈雑言を受けても、なんとも無くなる。
裁くのは主であって、人ではないのだし、もし誰かが我々を攻撃するとすれば、その者はキリストを攻撃している事になる。

しかし、愛する人がこちらの愛を理解せず、その人からあらぬ誤解を受ける場合、心にダメージを受ける。
パウロは父親のようにコリント人を愛し、一人の清純な花嫁として育て上げていたため、コリントの人から心にダメージを受けた。

「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。」(20節)

聖徒の交わりの内に、争いやねたみ、怒り、党派心などがある場合、偽兄弟が入り込んで掻き回されているのであり、キリストの花嫁として汚された状態にある。
パウロはコリントの人達がそのような状態になる事が我慢ならないほど、父親としてコリントの人達を愛していた。

交わりの内から争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などを取り除き、清純なキリストの花嫁として、純粋な交わりを保つ皆さんでありますように。
そしてパウロのように、心から兄弟姉妹を愛する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:求めるのは、あなた(2コリント12:14-18):右クリックで保存
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「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。」(14節)

パウロのコリントの人達への愛は、父親のような強く熱いものである。
同じく、教会における交わりは本来、打算的なものではなく、家族的なものである。
もし牧師や聖徒が、教会の人数や大きさ、献金額、名声など、「人」ではなく「物」を第一に求めているとすれば、表面上は聖徒と優しく接するにしても、もし役に立たないと見なしたら、平気で切ったりする事もありうる。
しかし主の愛は、あくまでモノではなく人に対するものであり、主も、一人の罪人が悔い改めたら、天で大きな喜びが沸き起こる事を、3つのたとえを用いて詳しく説明された。(ルカ15章)

コリントの人達の一部は、そんなパウロの心を悪意へと取りかえ、パウロが金銭面で負担にかけなかった事さえ「実はパウロは悪賢くてだまし取っていた」と吹聴する者や、それを真に受ける者もいた。(16節)
真実なの愛を悪意を持って受け止め、恩をあだで返すような事は、往々にして有り得る事柄である。
それはパウロとコリント人の関係に留まらず、世の親と子の関係も、そして、キリストと人との関係も、まさしくそうである。

「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」(15節)
このパウロの心情吐露は、そのまま、キリストの心である。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:10-12)

キリストの尊い愛を軽んじる者、その愛を受け入れない者は、既にさばかれており、そのまま自分の罪の闇の内に滅びるが、キリストを受け入れる者は、光にあって滅びる事なく、永遠のいのちを保つのだ。(ヨハネ3:16-21)

パウロがここまでも艱難に耐え、大きな事を為し、捧げる愛に満たされていたのは、キリストがパウロの内に宿り、彼の内で働いていたからに他ならない。
私達の内に、元々愛は無い。
しかしキリストに満たされる時、私達はキリストのわざを為し、キリストの愛を流し出すのだ。

打算によってではなく、キリストの愛によって交わりを保ち、キリストの愛を流し合う皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:肉体のとげ、サタンの使い(2コリント12:7-13):右クリックで保存
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パウロは素晴らしい啓示を披露し、その直後、弱さを誇っている。
「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(7節)
この「とげ」が何を意味するのかには色々な説があり、彼の目の病ではないか、あるいは「サタン」から来る絶え間ない試練や誘惑、あるいはパウロを邪魔して止まない誰か人ではないか、など言われている。

第三の天にまで上げられ、多くの人を癒し、多くのサタンのわざを砕いてきた、あのパウロが、病か何か「サタンから送られた使い」に苦しみ、しかも主に3度願っても、主はそれを去らせてくださらない。
この矛盾にも見える事の意味は、一体何だろう。

この「とげ」が与えられた事の理由は、まず「思い上がることのないように」(7節)である。
また9節、『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』

つまり、キリストの力の表れとは、木や石で出来た偶像が人間の力によって立て上げられ担がれるのとは真逆で、キリストが弱い人間を建て上げ、担ぎ上げ、そうしてキリストの力が、弱い人間を通して働かれるのである。
人が徹底的に人間由来の力をあきらめ、全てをキリストに委ねる時、キリストの力が大いに働くのである。

私達にも、常に何らかの形で痛めつける「とげ」が刺さっているかもしれない。
それは病かもしれないし、誘惑かもしれないし、名前を挙げられる誰か人かもしれないし、与えられた環境かもしれない。
これさえ無ければ私はもっと自由になれるのに、もっと活躍できるのに、と思うかもしれない。
しかし、それらが与えられている理由は「思い上がることのないように」「キリストの恵みが弱さの中で十分に発揮されるために」「キリストの力がわたしの内に宿るために」である。
病が癒されるとしたらキリストの栄光のため、病が与えられるとしてもキリストを頼りとするためであり、キリスト抜きの病は意味の無い苦しみ、キリスト抜きの癒しは大いなる機会損失でしか無い。

「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(10節)
パウロは多くの弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを体験して来たが、それでも彼の命が長らえ、キリストへの信仰も守られてきたのは、それらを受けるたびキリストへと持って行き、キリストが働き、パウロ個人の人間業では決して出来ない救いが都度、キリストから与えられてきたからである。

結局、全てはキリストへと向かう事によって、意味を為すのだ。
日々キリストに全てを委ね、キリストを体現し、人々にキリストをあらわす皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい神秘的な体験の意味(2コリント12:1-6):右クリックで保存
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パウロは自分の弱さを誇った後、第三の天に行くという奇跡的な体験を初披露した。
「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれない」(12:6)
もしパウロが体験してきた、奇跡的・不思議な体験に焦点を当てて、沢山披露したとしたら、人々はパウロをカリスマ教祖のよう扱うかもしれない。
しかしながら、そうした数々の奇跡的体験も、多くの苦難に耐えて来られたのも、全て、自分の努力によるではなく、神様からの一方的な力添えと、憐れみによるものである為、彼は決して誇る事は出来ない。

パウロは2節以降で、第3の天にまで引き上げられた事を第三者的に書いているが、それは、パウロにとってあたかも他人事のように思えるからだ。
本当にキリストにあって生きている働き人は、自分の関わってきた働きそのものが、あたかも他人事のように、第三者的に見えるものである。
なぜならその働きは、自分のものではなく主の為してくださったものだからである。
確かに自分がその働きをした事には間違い無いのだが、あたかも、自分ではなく他の強く大きな方がそれをして下さって、自分はそれに手を添えていただけ、という感じがするものであるため、その業について、自分は誇りようが無いものなのだ。

彼は14年前、パラダイスにまで引き上げられ、人には語る事が出来ないほどの、素晴らしい体験をした。
どの場所でその体験をしたのかには色々な説はあるが、その一つに、パウロがルステラで石打に遭った時ではないか、という考えもある。
「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。」(使徒14:19-20)
人々から石を当てられ、死んだかのようになっても尚生きているのは人間業ではないが、もっとすごいのは、その直後、自分を石打にした人達のいる町の中へと、再び入って行った事だ。
人には語ることの出来ないほどの素晴らしい事が天において用意されている、その光景をこの時見てきたのではないか、というのも、うなずける。

ルステラでこの体験をしたかどうかは分からないが、ルステラの事に限らず、彼は、四十に一つ足りない鞭打ちという死刑にも等しい重い刑罰を5度も受け、幾度も死線をさまよっている。
それでもパウロがキリストを告白してやまないのは、彼はそれらを遥か上回る、素晴らしい恵みや慰めを受てきたからではないだろうか。
そのような神秘的な体験が与えられる理由は、決して誇るためではなく、私たちが大きな艱難を乗り越えられるようにという、神様からの慰めではないだろうか。

私にはそうした体験は無いが、それは今までそのような苦難から守られていたため、必要が無かったからと思う。
もし私達が、死に至るまで証を守り、殉教する分があるのなら、その時は、パウロやステパノのように、圧倒的な主の栄光を、パラダイスにおいて備えられた慰めの大きさを示され、殉教さえも、余りある喜びへと変えられるであろう。
主からの慰めが無ければ、誰もそのような艱難に耐えうる人間はいないだろう。

いずれにせよ、自分には殉教など艱難が待っているのだろうか、という心配は無用である。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリ10:13)
そして、明日のための心配は無用である。明日のことは明日が心配し、労苦はその日その日に、十分あるからである。(マタイ6:34)

日々キリストに全てを委ね、キリストを体現し、人々にキリストをあらわす皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:キリストの僕の誇り(2コリント11:22-33):右クリックで保存
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パウロは、生まれも学歴も、実績からしても、人間的に誇れる所は多くあったはずです。
しかし彼が誇ったのは、彼自身がキリストの名の故に受けてきた、労苦と困難でした。

パウロは22節で、ユダヤ人である事やアブラハムの子孫である事は彼らと同様であると語っていますが、自分が「キリストのしもべであるかどうか」という事に関しては、狂ったように、彼ら以上にそうであると、絶対に譲れないかのような勢いで強調しております。(23節)

私達はミニストリーをする時、何を誇りにしたいでしょうか。
有名神学校を出る事を誇りにしたいでしょうか。
社会活動の実績を積んで、有名な慈善活動家になる事を誇りたいでしょうか。
あらゆる知識や奥義に通じ、預言や奇跡を成す事を誇りたいでしょうか。
パウロはそういった事は一切話題に出さず、自分は「キリストのしもべである」事を、狂ったように誇ったのです。

23節から27節までを読むと、パウロはキリストの故に、本当に多くの苦難を経てきた事が分かります。
四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度あり、難船したことが三度、一昼夜海上に漂った事もあるなど、使徒行伝に記録されたパウロの苦難は、ほんの一部だったようです。
なぜパウロは、鞭打たれた事とか難船した事などを誇る材料としたのでしょうか。
人を承服させるためには、むしろ、生まれや学歴、為してきた実績を根拠に出す方が、説得力があるように見えます。

では質問ですが、主に仕えるビジョンがあって、人に誇れる程の有名神学校を出たとしても、一体、どこまで、そのビジョンを捨てないでいる事ができるでしょうか。
鞭打たれても、石打にされても、難船しても、捨てないでいれるでしょうか。
四十に一つ足りない鞭打ちとは、死刑に等しい重い刑罰で、ショック死する人も出た程です。
幾度もの死刑に等しい苦しみを前にして、捨てずにいる事は出来るでしょうか。

しかしパウロは、キリストの愛の広さ高さ深さを深く味わってしまい、永遠の救いと滅びの道を前にして、この救いを伝えない事は災いであるとして、そのような困難を前にしても、伝えずにはいれなかったのです。
そしてパウロが経験して来たのは、それら外的な苦難ばかりではありません。

 「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(28節)
誰かが躓いて、福音から離れてしまったり、あるいは福音を伝えきれないまま死んで行ってしまった人達を思って、どれほど悩み、苦しみ、涙を流して来たでしょうか。
このような心労が重なってダウンしてしまう牧師も多くおります。

一体私達は、血を流すまでに罪に抵抗した事はあるでしょうか。
どんなに些細な事で怒ったり、どんなケチな自尊心を鼓舞するために誇って見せたり、キリストに習うと言いつつ、どれほど聖徒達の事を気遣って来れたでしょうか。
パウロを思うと、全く私達の方が恥じ入るばかりです。

結局の所、私達には何一つ誇れるものは、存在しません。
「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(30節)
皆さんは、弱いでしょうか。
どうか、弱さの内に働いて下さるキリストを誇りとしてください。
また、自分で何かやろうとしているのであれば、それは投げ捨てるべきです。
キリストに委ねる以外に道が無い時、私達は幸いです。なぜならキリストご自身が弱い私達を通して働き、御業をなして下さるからです。

キリストに全てを委ね、キリストの力を大いに体現する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:愚か者は愚かになって救い出せ(2コリント11:16-22):右クリックで保存
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コリント人がパウロを量ったように、どうしても人間的・肉的な評価でしか人を判断できない人はいる。
例えば、あの牧師はどこの神学校を出て、誰先生の下で学んだのか、預言や癒しは出来るのか、等といった、表向きの事に気を取られるあまり、その牧師の口から語られる言葉が、どれほど御言葉に立っているのか、その真理の純度はどれほどのものなのかが判断出来ず、表向きな事を誇張している偽使徒や偽兄弟達に、多くの時間やお金、エネルギーを、泥棒されていたりするのだ。

パウロとしては、そのような罠に陥っているコリント人達を、汚れの無いキリストの花嫁に仕立てたいと願っているために、敢えて彼自身も愚かな次元に降りて、彼らを説得させようとした。

箴言には、以下の言葉がある。
「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな/あなたが彼に似た者とならぬために。愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。」(26:4-5)
もし愚か者と同じレベルで対処するなら、愚か者になってしまうが、パウロは敢えて自分もそのレベルに降りてくる事によって、いかにコリントの人達が愚かな判断をしていたのかを、思い知らせようとしたのである。

どれほどコリント人は愚かだったか。
「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。」(11:20)

自分達の上に立って指導してくれる王を欲しがる人達は、パウロのように、愛と知恵に溢れている人よりも、むしろ声が大きくて暴力的であっても、行動や意志が明確な人についていきたがる習性がある。
たとえ、そのリーダーの為す事が、愚かだな、と思ってはいても、その人の明確すぎる意思や行動に、つい委ねてしまい、そうして彼らは、そのような偽使徒の愚かなリードに従って、奪われたり食い物にされたり、暴力をふるわれたりして、めちゃくちゃにされてきた。

「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。」(18節)
普通、誇るのであれば、自分は何名を救いに導いたとか、どこで誰に学んだか、どんな不思議をして来たかなど、いかに自分が大きな事をしてきたかを誇るだろう。
そういう事なら、パウロはいくらでも誇る所はある。
彼はガマリエルの元でパリサイ派の教育を受け、教会をいくつ建てたか分からない程だし、自分の前掛けを病人に置くだけで病人は癒され、悪霊を何匹追い出したか分からない。

しかしパウロが誇ったのは、なんと、弱さだった。
そして、キリストの故に、いかにこの身に苦難を負ってきたかを、誇った。

『イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』(ルカ22:25-26)

人間的な何かを誇って自分が大きくなるのではなく、自分を低くし、キリストにあって高く上げられ、キリストの力を帯び、キリストに働いていただいて、キリストのわざが大いになされる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:みずぼらしかった理由(2コリント11:7-15):右クリックで保存
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今日の箇所は、パウロの反対者達が、パウロのみずぼらしさや困窮している様を攻撃材料としている事えの、パウロの抗弁である。
パウロはなぜ、コリントにおいて金銭面で困窮していたのか。

まず彼は、コリントでの伝道活動を、コリントから一切報酬を受ける事無く行い(7節)、伝道のための必要な資金はコリント外の教会が、すなわち、マケドニヤの教会が補ってくれていた。(8,9節)
また、本日の箇所には言及すらされていないが、使徒18:3を見ると、パウロはコリントにおいて天幕作りの仕事をし、得た収入を伝道活動に投入していた。

パウロは、福音伝道の報酬を得る権利は、当然あった。(1コリント9章)
しかしその権利をコリントにおいて用いなかったのは、福音伝道に少しの妨げもあってはならないためだと、同12節に書いている。
恐らく、コリントの人達から金銭援助を得る事は、彼らにとって何らかのつまづきとなり、福音伝道の妨げになると判断していたのだろう。

パウロは、自分が金銭的必要を覚えている事を、一切公表しなかったし、コリントの人達に要求もしなかった。
しかし、コリントの人達は反対者に惑わされ、彼が貧相だとか、困窮している様子を逆に攻撃材料としてしまったため、このように「低レベルな話」をしなくてはならなくなってしまったわけである。
それでもパウロがコリントに金銭的負担をかけない事を、今後もし続けると言っているのは、偽使徒たちが誇ろうとする機会を断ち切ってしまうためである。(12節)
コリント人達も偽使徒達も、パウロのこの状況を聞いて、恥をこうむるべきである。

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(13-15節)
このような偽使徒、偽兄弟達は、サタンの使いで、働き人を装って教会に入り込む事を、よく覚えておきたい。

偽使徒・偽兄弟の見分け方は、その結ぶ実を見る事によって、可能である。
ガラテヤ5章に、肉の行いの実のリスト(19-21節)と、御霊の実のリスト(22-23節)が出てくるので、そのリストと照らし合わせれば良い。

例えば、その人が来た事によって、分裂や分派、敵意などがは広がったとしたら、それは偽兄弟だとわかる。
二人または三人によって幾度か戒めても改善しないようなら、交わりから排除すべきである。
しかし、もしその人が来た事によって、愛や喜び、平安が溢れてきたなら、その人は御霊にあって働く、正しい働き人である。
このように、結ぶ実によって働き人を見極める事が出来る。

御霊によって歩み、よき実を結ぶ働き人として大いに用いられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:清いキリストの花嫁として(2コリント11:1-6):右クリックで保存
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「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」(1節)
彼は、雄弁な言葉や誰彼から受けた推薦といった、人間的な根拠を元に、自分は誰々先生よりも優位である、などといった比較や、自己推薦は、愚かである、と、前もって伝えていた(10章12節)。
しかし、コリントの人たちの目があまりに塞がれているため、彼らを納得させるためには、敢えてそのような愚かな土俵に立たないといけないと感じ、これから自分も使徒としての正当性を主張する「愚か」を我慢してもらいたい、と、前もって断ったわけである。

その前にパウロは、コリントの人達をいかに深く愛しているかを伝えた。
「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(2節)

ここの熱心という言葉は、妬むほどに、とも訳せる。
妬む、という言葉で思い出すのは「わたしは妬む神である」という旧約の言葉である。
神の愛は、言葉だけの絵に描いた餅のような愛ではなく、激しい感情を伴った、実際的な愛である。
神は人を愛しているからこそ、滅びに向かっているようであれば懲らしめてでも取り戻す神である。
パウロはそれと同じように、熱情を持ってコリント人達を愛したからこそ、コリントの人達をほうっておけないのである。

またパウロは、キリストを伝えた霊的父親として、コリント人達を、キリストの花嫁として整えていた。
当時の父親は、娘を、嫁ぐ花婿にふさわしからぬところが無いよう、純潔に育て上げていた。
父親は花嫁に、別の男と肉体関係を持って良いなどとは教えないし、嫁ぐべき相手を差し置いて、何でも好き放題にして良い、などとは教えない。
世の中の男性も、「夫は優しいから、妻が別の男の所に行っても赦す」とか「夫は優しいから、夫を放って置いて自分は好き放題できる」などと思い込んでいる女性とは、普通なら結婚したがらないように、キリストもまた同じように、他の神に走る者は赦さないし、夫たるキリストをほったらかしにして好き放題する者を、主は必ず取り扱われる。

コリントに来た偽使徒達は、別のイエスを伝えたと4節にあるが、たとえば、イエス様以外でも救いがあるとか、何でもかんでも自分の好きな事をして良い、などと、御言葉に反する内容をイエス様の名を使って語っているとしたら、それは別のイエス、別の福音を伝えているわけである。

コリントの人達をキリストに嫁がせる花嫁としているパウロは、彼らがそのように思いが汚されキリストへの純潔を失っている様が、耐えられなかったのである。

私達もパウロのように、霊的な息子・娘がいるのなら、キリストに嫁がせる清い花嫁として育み、どうすればキリストは喜ばれ、どうすればキリストは嫌われるかを、きっちり教えるべきである。
そして私たち自身が、キリストの清純な花嫁として、自らをさらに清めるべきである。

そのように、ますますキリストの花嫁として整えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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