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メッセージ - エゼキエル書カテゴリのエントリ

エゼキエル書講解説教

主はここにおられる(エゼキエル48:23-35)

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エゼキエル書の最後は、町(都)の描写をもって閉じている.
 
エゼキエル48:30 町の出口は次のとおりである。北の方の長さは四千五百キュビトである。
エゼキエル48:31 町の門はイスラエルの部族の名にしたがい、三つの門になっている。すなわちルベンの門、ユダの門、レビの門である。
エゼキエル48:32 東の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。
エゼキエル48:33 南の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちシメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。
エゼキエル48:34 西の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちガドの門、アセルの門、ナフタリの門である。
 
この都は、一辺4千5百キュビト(約2キロメートル)の正方形で、四方の城壁にはそれぞれ3つの門があって、合計12の門がある。
そして、それぞれの門には、12部族の名が付けられている。
 
ここにおいて記されるイスラエル12部族の名で、特徴的な事は、ヤコブ(イスラエル)の12の息子の名が、一つも欠けていない事である。
 
聖書の他の箇所でイスラエル12部族が示される時、大抵は、レビとヨセフは除外され、代わりにヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねる場合が多い。
それは、ヤコブが、ヨセフの子マナセとエフライムをヤコブの直接の子としたためであり(創世記48:5)、また、レビにはゆずりの地は無い代わりに、全部族からの全ての十分の一が与えられ、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
 
しかしこの都は、人間的な、地上的な決まり事から、全て解かれ、本来それぞれに与えられたものが回復している。
 
 
そしてエゼキエル書の最後は、都の名前「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」で終わる。
 
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
 
この都の名、「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」の意味は、「主はここにおられる」である。
その名は、インマヌエル(イザヤ7:14,マタイ1:23)と同じく、契約の主の臨在を表している。
 
そして、「主はここにおられる」の究極的成就が、黙示録21章に記されている。
 
黙示録21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
黙示録21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
黙示録21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
黙示録21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
 
この都は、「主が共に」が成就し、永遠に続く都であり、その都の正体は、キリストの妻なる花嫁、すなわち、教会である。
 
黙示録21:9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
 
 
この都にも、エゼキエル書の記述のように、東西南北に門が3つづつあって、それぞれに、イスラエル12部族の名が記されている。
のみならず、12の土台のそれぞれには、新約の、イエス様の12使徒の名が記されている。
 
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
黙示録21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
黙示録21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
黙示録21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
黙示録21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
 
 
都には、神の聖徒たちの名が記されている。つまり、都の構成要素は、私達・聖徒たち、という事だ。
エペソ書にも書いてある。
教会(都)はキリストのからだであり、キリストの花嫁であり、そしてそのかしらは、花婿キリストである。
 
エペソ5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
エペソ5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
エペソ5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
エペソ5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
エペソ5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
エペソ5:30 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
 
 
からだには色々な器官があるように、一人一人のそれぞれの役割は違う。
 
エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
エペソ4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
エペソ4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
 
黙示録3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
 
 
結局、「主がともにおられる」事の成就・完成は、インマヌエルと呼ばれるイエス様にあって、為されるなのだ。
 
その都には、主ご自身がおられ、都のどこでも、主の栄光と臨在で満ちている。
黙示録21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
黙示録21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
 
 
このように、「主がともにおられる」は、神の言葉を守り行う聖徒たちによって、構成される。
出エジプトした民が、荒野において、神の幕屋を中心に行進して行く時も、そうだった。
神の幕屋を中心に、東西南北に3部族ずつ、「十字架」の形で配置された時、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、主がともにおられる事をあらわされた。
 
しかし、主の御言葉を信じず、主の言葉どおりに行わないなら、主は、共にはおられない。
民数記14:43b 「あなたがたがそむいて、主に従わなかったゆえ、主はあなたがたと共におられないからである」。
 
 
エゼキエル書は、イスラエルの民が、度重なる違反を、主の前に積み上げている事に対する警告で始まりった。
しかしイスラエルの民は、その警告を聞かなかった。
 
そうしていると、ついに、「主が共におられる」事をあらわす主の栄光が、神殿から離れ、ついには都から離れてしまった。(10章)
すると、バビロンが来て、都は破壊され、神殿も破壊されてしまった。
 
しかし後に、主はエゼキエルに神殿の幻を見せ、それを、主のはかりざおで正確に測って行くと、主の栄光が帰ってきた。(43章)
出エジプト記においても、神の幕屋についての詳細な様子と寸法が示され、それを寸法どおりに正確に造り、それが完成した時、主の栄光の臨在があらわれ、幕屋に満ちた。(出エジプト記40章)
 
「主がここにおられる」は、聖徒たちが、主の御言葉どおりを正確に行う所に、あらわれるのだ。
 
こうしてエゼキエル書は、「主はここにおられる」という、主の御名が付された町の名前で終わった。
そして、聖書の終わり(黙示録)も、主がともにおられる都によって終わる。
 
結局、私達のこの地上の人生は、主の御言葉を守り行い、「主が共におられる」を礼拝において、そして生活の現場において現すものである。
そうして至る所に神の国を建設し、それが、主の定められた時に至って完成するまで、私達はそれを続けるのみである。

主日礼拝

マゴグとゴグのシナリオと私達の戦い方(エゼキエル38章)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

週報添付資料

 
 ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。入って来るニュースを見聞きする度、心が痛むが、これらの事を主導した者は、時代に働く、霊的な、闇を握った世の主権者、天にいる諸々の悪意を持つ霊的存在達である。これらこそ私達が格闘するべき相手であり、これらに対抗するために、私達が取るべき霊的武具は、「真理」「正義」「平安の福音の準備」「信仰」「救い」、そして「神のことばという御霊の剣」であり(エペソ6章)、その戦いは「ゆずった・ゆずらない」「容認した・容認しない」という、「意思と言葉の場所取り戦争」であり、勝利の鍵は、いかに「しつこく」真理に立ち、祈りと御言葉で攻撃し続けたか、である事を先週学んだ。
 私達は物理的支援はできなくても、祈りと御言葉の宣言によって、闇の霊的な勢力に攻撃をし続けるべきである。なお、今回のロシアの動きは、エゼキエル書や黙示録で予め預言されていた内容に一致する所が多く、今後、私達は大いに注視して祈る必要があると思われたため、今回エゼキエル書を見ていきたい。
 
 エゼキエル書38章には「メセクとトバルの大君(大首長)」「マゴグの地のゴグ」に対する預言が記されている。このマゴグとゴグは、黙示録によると、千年の獄から解放されたサタンが彼らを惑わし、海辺の砂のような数の大軍を召集し、神の都へ進軍するという事が書かれてある(20:7-8)。このマゴグとゴグとは何だろう。
それはイスラエルの「北の果てにある国々」(エゼキエル38:15)である。日本語訳で2節は、「メシェクとトバルの大君」と訳されているが、「大君」のヘブライ語ロシュ(頭、リーダーという意味)は、NKJVや文語訳では固有名詞「ロシュ」と訳されている。ロシュはロシアを、メシェクはモスクワを示しているとするなら、地理的にも、地名的にも、一致している。(別紙を見ると、モスクワは、イスラエルのほぼ真北にある事が分かる。)
 これが、多くの国と連合して、イスラエルへと攻めて来るのだが、その連合する国は、ペルシヤ(イラン)、クシュ(エチオピヤ)、プテ(リビヤ)、ゴメル(カッパドキア)、ベテ・トガルマ(アルメニア)である。(4-7節)
別紙を見ると、それらは、イスラエルを包囲する形で、立地している事が分かる。
 
 8-13節には、それらの国々がイスラエルに対して企む謀略が預言されているが、その企みはまさに、今回ロシアが辿った仕方と一致している。すなわち、防備の弱い国に対して色々な悪巧みを設け、あらしのように突然攻め上って、分捕り、腕力を奮ってかすめ奪う、という手法であり、13節を見ると、色々な国がその事に驚き、咎める事が書かれてある。今現在、ロシアにとってイスラエルはまだまだ狙いの外に見えるが、地図を見ると、ロシアはまさに南下を目指しており、そのシナリオが進みつつあるように見える。
 主は、主の民が取り囲まれ、滅ぼされるのをみすみす見過ごすような事は、なさらない(14-16節)。しかし神はなぜ、神の民の敵を「つけあがらせて」、神の民を取り囲む事を許されるのか。それは、「諸国の民の目の前に、主の聖なることを示し、彼らが主を知るため」、と書いてある(16節)。ちょうど出エジプトの時、エジプトの横暴を、敢えて許し、そのエジプトから神の民を救い出す事によって、主が圧倒的な栄光を受けられたのと同じである。 黙示録にも書いてfある。ゴグとマゴグは、聖徒たちの陣営と愛された都を包囲したが、天から火が降ってきて、包囲した者達は一瞬で焼き尽くされた、と。(黙示録20:7-10)  主がゴグとマゴグに報いる日、大地震が起こり(エゼキエル38:19-20)、主は彼らに同士討ち(21節)や、疫病と流血、また、彼と彼の部隊、また彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる事が書いてあり(22節)、そしてこれら全ての事を通して、主が栄光をお受けになる、と書かれてある。(23節)
 
 このように、エゼキエル書や、黙示録で、あらかじめ預言されている内容を見たからには、それらに該当しそうな者達は、その「滅びのシナリオ」に乗らないよう、横暴な事をしないよう気をつけて良いはずだが、悪辣な者達は、神の民にちょっかいを出したがるものである。それは彼らが、書かれてある事を信じないからであり、またサタンが、彼らの神に対する恐れを、麻痺させるからである。彼らは普段から、殺意や暴力、強奪といった、サタンが好む欲求を思い巡らし、それを手放さず、きよく聖であられる神に立ち返る事を、好まないために、サタンのそそのかしに、いともあっさり同意してしまうのだ。今、私達が受けるべきメッセージは、私達はいつも、時代を見張り、目を覚まして祈る必要がある、という事だ。全ては神のコントロール下にあり、最後には、主の勝利が成る事を宣言しつつ、目を覚ましていつも祈り、時代に働く暗闇の勢力を打ち砕き、平和を世にもたらして行く私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

エゼキエル書講解説教

神の民が受ける栄光の相続地とは(エゼキエル48:1-22)

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エゼキエル書48章1-7節では、47章後半において定められていた、イスラエル各部族が受けるべき相続地の、具体的な割り当て方が示されている。
 
主にある相続は、無条件に与えられるものではない。
かつて、イスラエル12部族に、くじによって割り当てられた相続地と、実際に彼らが住む事ができた相続地は、違っていた。
 
むしろ大多数の部族は、くじで割り当てられた「書面上の地」に比べると、実際に彼らが得て住んだ地は、はるかに狭かった。
なぜ、そうなってしまったのか。
その理由は、真理の上では「あなたが主から得たものは、これですよ」と示されていたのに、それを得に行かなかったからだ。
彼らは、「そこに住んでいる民は強い民だ」と言い訳して、戦うことを恐れたり、なまけたり、そこの罪深い原住民と妥協したりしたのである。
それで、元々住んでいた邪悪な人々が力を得て、イスラエルの民を追い出しにかかったのだ。
 
私達は主から、聖書に記されている内容を「書面上の地」として既に受けており、私達はそれを信じて、行って、そこに記されている莫大な祝福を勝ち得ていけば良いだけである。
 
それをしないで、現実を見て、恐れ、何もしなかったり、罪と妥協したりしているなら、結局それを得られないまま、狭い領域の中で細々と生きるしか無いのだ。
 
 
私達が主から与えられた相続地内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いをし続けているなら、かつてイスラエルの土地が、人を吐き出したように、その者は吐き出されてしまう。
 
 
続く8‐22節では、45:1-8で記されている奉納地についての規定が繰り返されており、特に、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保する事であり、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
 
エゼキエル48:9 すなわちあなたがたの主にささげる献納地は長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトとである。
エゼキエル48:10 これが祭司への聖なる献納地である。すなわち祭司の分は、北は二万五千キュビト、西は幅一万キュビト、東は幅一万キュビト、南は長さ二万五千キュビトである。主の聖所はその中にある。
 
神の民の相続地の中心は、聖所である。
すなわち、神の民の中心は、主の栄光の臨在である。
私達の生活の中心も、礼拝を中心に据えるべきであり、主の臨在の中で、日々の生活を歩んで行くのだ。
 
 
エゼキエル48:11 これはイスラエルの人々が迷い出た時、レビびとが迷ったように迷ったことはなく、わが務を守り通したザドクの子孫のうちから、聖別された祭司に属する。
エゼキエル48:12 このようにレビびとの境に沿って、いと聖なる地、すなわち聖なる献納地が、特別な分として彼らに帰属する。
 
ここでは特に、大祭司ツァドクの子孫への相続地が、特別に割り当てられている。
その地は、レビ族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。
 
彼らがこのような特別扱いを受けた理由は、彼らは、イスラエル人が迷い出た時、いっしょに迷い出ず、また、迷い出た他のレビ人達とは違って、聖なる任務を貫き通したからだ。
 
この法則は、現在も同じである。
 
世の人々が、いかに堕落した生活を送っているとしても、あるいは、現代のレビ人である神の国の働き人たちの多くが堕落したとしても、私達は、固く信仰を保ち、今日も、神の国の仕事を忠実に成して行くのみである。
そうするなら、天において受ける永遠の相続は、他よりも偉大なものとなる。
 
イエス様を信じて得られる報酬は「救い」であり、それは誰も彼も分け隔ての無い、同じ報酬である。
しかし、その信仰を用いて行った「行い」の報いは、その行いに応じ、ある人には10、ある人には5、といった「差」が生じる。
しかも、せっかく与えられた聖なる仕事を、何もしないまま、与えられている膨大な年数を使い切っても、なお主人に文句を言っているとするなら、持たされたものは取り上げられ、外に追い出され、泣いて歯ぎしりする事になってしまうのだ。(ルカ19:11-27)
 
 
エゼキエル48:13 レビびとの分は祭司の所有地の境に沿って、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビト、すなわち、そのすべての長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトである。
エゼキエル48:14 彼らはこれを売ってはならない、また交換してはならない、またその大事な分を手ばなしてはならない。これは主に属する聖なる物だからである。
 
レビびと、すなわち、主の働き人が受けた相続は、どの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない、と定められた。
私達も、主にあって得た聖なる仕事、聖なる相続を、決して手放したり、世の何物かと取り替えたりしてはならない事を、示している。
 
 
エゼキエル48:15 その残りの地すなわち幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトは町のため、すみかのため、また郊外のための一般人の地所とせよ。町はその中に置け。
エゼキエル48:16 一般人の地所の広さは次のとおりである。すなわち北の方四千五百キュビト、南の方四千五百キュビト、東の方四千五百キュビト、西の方四千五百キュビトである。
エゼキエル48:17 町は郊外を含む。郊外は北二百五十キュビト、南二百五十キュビト、東二百五十キュビト、西二百五十キュビトである。
 
このように、国土の分割の仕方や、都市や神殿や、それらの付属物の配置は、完全に規則的である。
啓示録において示された天の都も、そうである。
神の国は、秩序正しく、美しく、尊いのだ。
 
 
エゼキエル48:18 聖なる献納地に沿っている残りの地の長さは東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。これは聖なる献納地に沿っており、その産物は町の働き人の食物となる。
エゼキエル48:19 町の働き人は、イスラエルのすべての部族から出て、これを耕作するのである。
エゼキエル48:20 あなたがたがささげる献納地の全体は二万五千キュビト四方である。これは町の所有地と共に聖なる献納地である。
 
聖なる奉納地の残りの地所で収穫したものが、働き人の食物となる事が示されている。
主は、働く牛にくつこをしてはならない、と言われた。
働き人には、食べる分があるのだ。
 
もし働き人が、ひもじい思いをしているとするなら、主に、その保証を堂々と求めるべきであって、やせがまんするべきではない。
 
 
エゼキエル48:21 聖なる献納地と町の所有地との、こなたかなたの残りの地は、君たる者に属する。これは聖なる献納地の二万五千キュビトに面して東の境に至り、西はその二万五千キュビトに面して西の境に至り、部族の分に沿うもので、君たる者に属する。聖なる献納地と、宮の聖所とは、その中にある。
エゼキエル48:22 町の所有地は、君たる者に属する部分の中にあり、そして君たる者の分は、ユダの領地と、ベニヤミンの領地との間にある。
 
エゼキエル書後半において示されている「君たる者(ナーシー)」は、上に立つ者であって、王ではなかった。
彼らは、民に代表して礼拝を捧げる役割がある事が、46章で示されたが、その君主に対しても、特別な割り当てが与えられている。
 
主のために特別な役割を果たす者には、特別な割り当てがあるのだ。
 
神の民は、聖なる民であり、私達自身を聖なる者として保ち続けるべきなのだ。(1ペテロ1:15-16)

エゼキエル書講解説教

祝福の相続地を得る人の性質(エゼキエル47:13-23)

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エゼキエル書43章13節以降には、イスラエル12部族の新しい相続地が示されている。
 
エゼキエル47:13 主なる神は、こう言われる、「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、嗣業として土地を分け与えるには、その境を次のように定めなければならない。ヨセフには二つの分を与えよ。
 
まず、相続地について、真っ先に宣言された事は、ヨセフには、二倍の領分が与えられた事だった。
二倍の相続地を得たヨセフは、柔和で、正直で、不正や悪を行う者に対して腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養った。
まさにイエス様が言われた、地を相続する人の性質である。(マタイ5:5)
 
ヨセフは、そのような性質だったから、父ヤコブに愛され、そして、神から愛された。
それで父ヤコブは、臨終の時、ヨセフに素晴らしい祝福を与えている。
 
創世記49:22 ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。
創世記49:26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
 
ヨセフは、父の祝福のとおり、垣根(境界)を超えた領土を得、他の兄弟にまさる祝福を得た。
 
ヨセフの偉大な点は、エジプトの宰相(総理大臣)になった事、ではない。
総理大臣という地位は、最終目標ではなく、手段に過ぎない。
 
最終目標とは、神の国を建て上げる事。
すなわち、70名ほどだったイスラエル一家が、一つの国家へと成長するために、彼らに肥沃な地・ゴシェンの地を備え、そこで、安心して大いに産んで増えて行くための「システムづくり」を、彼にさせるため、神様はヨセフを総理大臣にしたのだ。
エジプトの総理大臣という役職は、たまたま、与えられたに過ぎない。
ちり一つ拾うような奉仕さえ、イエスキリストのために為すなら、神の国の建てあげの尊い奉仕である事には変わりない。
 
ヨセフのように、尊い事に用いられる器もあれば、卑しい事に用いられてしまう器も、厳然として存在する。
自らをきよい器として整えるなら、尊い事に用いられ、汚れに任せたままなら、卑しい事に用いられてしまうのだ。
 
だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
この地において、莫大な経済や地位を得る事が第一ではない。
神の国とその義が為される事を、まず第一に求め、日々、柔和と誠実を養うべきだ。
 
 
エゼキエル47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。
 
神はアブラハムに、この地を永遠に得させる、と、約束しておられた。
その実現を、主は、今回の幻で見せておられる。
続く節では、具体的に領地の境界が示されている。
 
 
エゼキエル47:15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、
エゼキエル47:16 ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。
エゼキエル47:17 海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
エゼキエル47:18 東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。
エゼキエル47:19 南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。
エゼキエル47:20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。
エゼキエル47:21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。
 
 
これはおよそ、ダビデ・ソロモンの時代の領土に相当する。
 
相続地は、無条件に与えられるものではない。
その領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いを続けているなら、かつて土地がイスラエルを吐き出したように、吐き出されてしまう。
 
 
この、新しく示された相続地では、意外な人々も相続が許可されている。
 
エゼキエル47:22 あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。
エゼキエル47:23 在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。――神である主の御告げ。――
 
なんと、異邦人にも、領土が割り当てられるのだ。
それはモーセ五書では考えられない事で、新約的といえる。
 
しかし、この主が聖別された領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
 
エゼキエル書40章以降で、示されていた事は、人間のものさしで計る事ではなく、神が示された聖なるものさしではかる事、そして、聖なる立ち位置を堅固に守り(40章)、聖と俗とをしっかり区別し(42章)、主の聖にならって、聖なる者となり(43章)、礼拝を中心としたきよい生活を送る事(45-46章)だった。
そうするなら、生活の中央に位置する神殿から、いのちの水が川となって流れ出した。(47:1-12)
 
だから、相続地が与えられ住む事のできる異邦人とは、きよい信仰を持っている異邦人だけである。
 
実際、エゼキエルがこの幻が示された後の、エズラ・ネヘミヤの時代、その土地に住んでいた外国人達は、排斥された。
なぜなら、ネヘミヤ記を読めば分かるが、そこの外国人たちは、信仰を持った「きよい異邦人」でなくて、イスラエルの神を拝む、と口では言いつつも、実際に行った事といえば、神殿再建を邪魔し、不正や汚職をイスラエルの指導層に持ち込んで、イスラエルを悩ました事だった。
 
その、異邦人と混じり合って産まれた子どもたちは、ユダヤの言葉がわからなかった。(ネヘミヤ13:24)
ユダヤの言葉が分からない、という事は、律法が読めない、という事であり、早速その代から霊的な汚れが入り込んで、かつての、バビロン捕囚へと突き進んでしまった先祖の、二の舞になってしまう。
それを大いに憂いたエズラやネヘミヤは、痛みの改革を断行し、彼らを追い出した。
 
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の民に加えられた。
それに安住する事なく、神が聖であられるように、私達も、聖を保つべきである。

エゼキエル書講解説教

神殿から流れ出すいのちの水の川(エゼキエル47:1-12)

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47章以降は、イスラエルの新しい相続地が定めれている。
その相続地は、神殿が中心であり、神殿から主のいのちと祝福が流れ出して相続地に住む民を潤し、さらには、全世界を潤すものとなって行く事が今回の箇所で示されている。
 
 
47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
 
水が、神殿の敷居の下から流れ出した。
その水の源は、聖所である。(12節)
それは新約において、イエス様にあって成就し、新天新地において完成する。
 
Rev 22:1  御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 
Rev 22:2  都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
 
もし今、すぐにでもそのいのちの水を享受したいというなら、今すぐにでも、イエス様の名前を呼んで、イエス様に求めるべきである。
なぜなら、まことの神殿は、今生きておられるイエス様だからだ。
 
 
ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
 
「イエス様のからだ」というまことの神殿は、この時点では、まだ壊されていなかったが、十字架において破壊された。
しかし、三日の後、イエス様は復活し、そのいのちの水の川が流れ出て、まず弟子たちを潤し、そしてユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、その川が流れ出て行った。
 
現代の私達も、イエス様を信じた時、湧き出たはずである。
かわきを潤す、いのちの水が。
イエス様は、言われる。
 
ヨハネ7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
 
イエス様が、まだ栄光を受けておられなかった時、すなわち、十字架と復活を経る前は、イエス様を証しイエス様を栄光化する聖霊は、まだなかった。
それはただ、イエス様の中にだけ閉じ込められていた。
 
しかし、イエス様が一粒の麦として地に落ち、死なれ、復活され、天の御父の元に昇られた事によって、助け主・聖霊が与えられるようになった。
その聖霊が、全ての事を教え、またイエス様が話しておいた事を、全て思い起させて下さるのである。(ヨハネ14:26)
 
だから、聖霊を受けると、受けないとでは、大いなる違いが出てくる。
もし聖霊を受けないまま、とするなら、この、いのちを潤す生ける水は出てこないのだ。
だから、聖霊を留めて置いてはならず、聖霊は流れるままに、流しだして行くべきなのだ。
 
 
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。
47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
 
その水は、遠くへ測って行けば行く程、どんどん大きくなって行った。
最初は、足で立つ事が出来て潤される、くらいだったのが、どんどん大きく、広く、深くなって行って、ついには、足では立てない、その流れを泳ぐしかない程までになっていった。
 
この川は、渇いた地を潤して行くに従って、水量は減るのではなく、逆に、もっと増えていく。
これは、イエス様から流れ出てくるいのちの水の特徴を表している。
聖霊に満たされて行くなら、行くほど、そうなっていくものである。
 
最初は、その水に潤された、という感覚的なものから、その流れを足で感じるようになり、さらにどんどん強くなって、ついには、自分で制御できるものではない、流れの中を泳ぎながら、聖霊の流れるままに、任せるまでになって行く。
 
サマリヤの女は「その水をわたしにください」とイエス様に言って、イエス様はその水をくださった。
すなわち、メシヤであられるイエス様ご自身を彼女に示して下さった。
すると彼女は、居ても立っても居られず、もはや、水を溜める水がめなどは置いて、サマリヤの人々へと、その水を流し出して行った。
そして彼女は、その地方の人々をごっそり救い、潤し、いのちの実りが豊かに実った。
 
私達も、イエス様にあって聖霊をいただくなら、流しだして多くの人を潤す者となるのである!
 
 
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。
 
創世記2:10-14では、エデンの園を源とする水が世界へと広く流れ出して行った記述があるが、その事の回復を示している。
 
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
 
アラバはヨルダン渓谷であり、エン・ゲディは、死海の西岸の、南北のちょうど中間に位置し、ダビデはかつて、サウルの手を逃れてエン・ゲディの要害に留まった。
つまり、ここの「海」とは、死海の事である。
 
その死海へ、この生ける水が流れ込むなら、その水は良くなり、生き物が群がるようになって非常に多くの魚がいるようになる、というのだ。
そして、その川の両岸は、漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
まさに、死海のようだったサマリヤの女さえも、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。
私達も、イエス様にあって、そうなるのである!
 
 
47:11 ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。
 
「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」のように、水の流れが無い所、あるいは、人為的に水を貯めて留まらせているの水所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。
私達も、どんなに良質の御言葉が流れて来ても、また、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで流し出さない、とするなら、塩のまま残って、死海のように、いのちがいなくなってしまうのだ。
 
だから、いのちの潤いがともなった御言葉が、流れこんで来たのなら、あるいは、聖霊の促しが流れて来たのなら、それをそのまま留め置いてはならない。
それらは、賞味期限の早い生鮮食品のように、「旬」があるのだ。
それを流しだすべき相手へ、すなわち、それを受けるべき人へと、あるいは、為すべき仕事へと、すぐに流し出して行くべきなのだ。
もし、旬を過ぎてしまうなら、腐ってしまう。
天から与えられた食物であるマナは、拾っても食べないまま器に保管して置いたら、どうなっただろうか。
翌日になると腐って、虫が湧いてしまった。
その事を、思い起こすべきである。
 
 
47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
 
毎月、新しく実がなる。
一体どれだけいのちに溢れみなぎっているのだろうか。
黙示録22章には、その完成形があるが、この地上においても、イエス様を信じた私達は、それを霊的に体験する。
 
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、なにも、頑張らずとも、御霊の実を絶える事なく自然と実らせ続けるものである。
そしてそれは、自分を潤すのみならず、周囲をも潤し、癒やすものなのだ。
 
これらを得るコツは、エゼキエル40章以降に、既に示されている。
すなわち、主から示された神殿(イエス様)を、正しいものさしで計り、きよさに立って、主の教えを自分自身に当てはめて行く事。
人の建てた神殿を測っても、あるいは間違ったものさしで測っても、それはただ渇くだけである。
しかし、まことの神殿・イエス様を、正しい物差しである「御言葉」に従って、正確に測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん湧き出し、溢れ、流れて行くようになるのだ。
 
そのようにして豊かにいのちの水を湧き出させ、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エゼキエル書講解説教

聖なる礼拝を捧げる者であれ(エゼキエル46章)

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かつて、礼拝を軽んじたイスラエルによって、めちゃめちゃにされてしまった礼拝制度の回復すべき事が、40章以降に命じられていた。
この章では、特に、君主(ナーシー:上に立つ者。王ではない。)が、民に代表して捧げる礼拝について、示されている。
 
 
エゼキエル46:1 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、またついたちにはこれを開け。
エゼキエル46:2 君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。しかし門は夕暮まで閉じてはならない。
エゼキエル46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
 
神殿は、外庭の門と内庭の門があるが、外庭の東向きの門は、ただ、君主だけが出入り出来、一般の人は出入りしてはならないため、通常は閉じておく。(エゼキエル44:1-3)
君主は、民に代表してささげ物を祭司へと渡して、祭司は、それを神に捧げる事が役割であるが、そのささげ物の内訳が、以下に示される。
 
 
エゼキエル46:4 君たる者が、安息日に主にささげる燔祭は、六頭の無傷の小羊と、一頭の無傷の雄羊とである。
エゼキエル46:5 また素祭は雄羊のために麦粉一エパ、小羊のための素祭は、その人のささげうる程度とし、麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
ここでは、7日ごとに来る安息日にささげるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示された。
なお1エパは約22リットル、1ヒンは約3.7リットルである。
 
礼拝には、必ず、犠牲が必要である。
 
創世記4章にカインとアベルの礼拝が記されているが、カインが捧げたものは、ヘブライ語「ペリー」の単数形、すなわち「一つのフルーツ」、対してアベルは、(複数形の)羊の群れの、初子たちの中から、最上ものを選びに選んで捧げた。
 
カインは、農業で暮らしていたので、彼自身は日毎、フルーツをふんだんに食べていたのに、主にたいしては、たった一つのフルーツしか捧げなかった。
何万円もある財布の中から、ワンコインを賽銭箱に投げたような感覚だろう。
 
神が、カインの捧げものに、見向きもしなかった理由は、彼の、主の御前にささげる礼拝には、主を敬う心も、犠牲も、なかったからだ。
 
神がそれを見向きもせず、アベルのささげ物にリスペクト(NKJV)を払ったのを見たカインは、怒った。
その怒りはつまり、カインの心の中では、「カインのほうが、神よりも偉大」だったという事を表している。
だから、彼のささげ物は受け入れられなかったのだ。
 
今ここエゼキエル書では、主を敬う礼拝の回復が指示されている。
私達は、神をリスペクトする心をもって、犠牲を捧げるべきであり、そうするなら、神からリスペクトされる。
 
 
エゼキエル46:6 ついたちには無傷の雄牛の子一頭、六頭の小羊および一頭の雄羊をささげよ。これらはすべて無傷のものでなければならない。
エゼキエル46:7 素祭は雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供えよ。また麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
月ごとに来る新月の祭りに捧げるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示されている。
それは安息日に捧げるささげ物に、若い雄牛が追加されている。
 
 
また、8-10節には、礼拝する者たちが、神殿の中で進むべき順路が示されている。
 
エゼキエル46:8 君たる者がはいる時は門の廊の道からはいり、またその道から出よ。
エゼキエル46:9 国の民が、祝い日に主の前に出る時、礼拝のため、北の門の道からはいる者は、南の門の道から出て行き、南の門の道からはいる者は、北の門の道から出て行け。そのはいった門の道からは、帰ってはならない。まっすぐに進んで、出て行かなければならない。
エゼキエル46:10 彼らがはいる時、君たる者は、彼らと共にはいり、彼らが出る時、彼も出なければならない。
 
君主は東向きの門から出入りするが、一般の人は、北の門か、南の門から出入りできる。
その際、出る時は、入る時と同じ門を通ってはならない。
 
礼拝へと向かう足、宮から出ていく足には、規律の正しさ、混乱のなさが要求されるのだ。
 
続いて、君主が民を代表してささげるべきささげ物が規定される。
 
エゼキエル46:11 祭日と祝い日には、素祭として、若い雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供え、麦粉一エパには油一ヒンを加えよ。
 
祭日と祝日は、過越祭や仮庵祭などである。
 
 
エゼキエル46:12 また君たる者が、心からの供え物として、燔祭または酬恩祭を主にささげる時は、彼のために東に面した門を開け。彼は安息日に行うように、その燔祭と酬恩祭を供え、そして退出する。その退出の後、門は閉ざされる。
 
東向きの門が開かれるのは、君主が礼拝を捧げる時だけである。
 
 
エゼキエル46:13 彼は日ごとに一歳の無傷の小羊を燔祭として、主にささげなければならない。すなわち朝ごとに、これをささげなければならない。
エゼキエル46:14 彼は朝ごとに、素祭をこれに添えてささげなければならない。すなわち麦粉一エパの六分の一に、これを潤す油一ヒンの三分の一を、素祭として主にささげなければならない。これは常燔祭のおきてである。
エゼキエル46:15 すなわち朝ごとに常燔祭として、小羊と素祭と油とをささげなければならない。
 
礼拝と犠牲は、毎朝、捧げられるべき事が示されている。
現在、私達には、私達の身代わりにほふられ、血を流してくださったまことの子羊、イエス・キリストがおられるので、私達は、動物を捧げるのではなく、日ごと、週ごと、月ごとに、私達に身代わりにほふられてくださったイエス・キリストを覚えつつ、日々、霊的な礼拝を捧げるのだ。
 
 
エゼキエル46:16 主なる神は、こう言われる、君たる者が、もしその嗣業から、その子のひとりに財産を与える時は、それはその子らの嗣業の所有となる。
エゼキエル46:17 しかし彼がその奴隷のひとりに、嗣業の一部分を与える時は、それは彼の解放の年まで、その人に属していて、その後は君たる人に帰る。彼の嗣業は、ただその子らにだけ伝わるべきである。
エゼキエル46:18 君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである」。
 
ここでは特に、君主たる者は、相続地を、相続以外の形で他人に譲渡してはならない、という規定が定められている。
君主たるものに求められる事は、正しさであり、「虐げないこと」なのだ。
 
 
エゼキエル40章以降にて示されて来た、君主たる者への指示は、政治的な命令はほとんど無かった。
ただ、一般人に代表して礼拝を捧げる、捧げ方だけが、細かく指示されており、唯一、君主に要求された政治的な命令といえば、以下だけであった。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
君主たる者に、最も要求されるのは、政治手腕よりもむしろ、誰より主に対して正しく礼拝を捧げるたしなみなのだ。
元々、イスラエルには人間の王は、本来、いらない。
主だけが唯一、王であり、そして人の上に立つ君主の役割は、人々に代表して、主に礼拝を捧げる事だ。
 
 
エゼキエル46:19 こうして彼はわたしを連れて、門のかたわらの入口から、北向きの祭司の聖なる室に、はいらせた。見ると、西の奥の方に一つの場所があった。
エゼキエル46:20 彼はわたしに言った、「これは祭司たちが愆祭および罪祭のものを煮、素祭のものを焼く所である。これは外庭にそれらを携え出て、聖なるべきことを、民にうつさないためである」。
 
19-20節で示された、内庭にある料理場は、祭司だけが食べることが出来る罪のためのいけにえと、罪過のためのいけにえを料理する場所である。
 
 
エゼキエル46:21 彼はまたわたしを外庭に連れ出し、庭の四すみを通らせた。見よ、庭のこのすみにも庭があり、また庭のかのすみにも庭があった。
エゼキエル46:22 すなわち庭の四すみに小さい庭があり、長さ四十キュビト、幅三十キュビトで、四つとも同じ大きさである。
エゼキエル46:23 その四つの小さい庭の内部の四方には、石の壁があり、周囲の壁の下に、物を煮る所が設けてあった。
エゼキエル46:24 彼はわたしに言った、「これらは宮の仕え人たちが、民のささげる犠牲のものを煮る台所である」。
 
外庭にある料理場(21-24)は、民が食べることの出来るいけにえを料理する料理場である。
 
なお、23節の「物を煮る所」、すなわち「料理場(新改訳)」と訳された「メバシェラー」は、旧約聖書ではここに1度しか登場しない。
モーセの幕屋や、ソロモン神殿で示されなかった、この神殿のユニークな特徴の一つとして、神殿の敷地内に、調理場が示された事も、挙げられる。
 
「食べる事」もまた、礼拝の中の大切な要素である事が、強調されているのだ。
 
旧約においては「和解のいえにえ」が、神と祭司と礼拝者の3者が、共に同じいけにえを食べるものであり、新約でも、共に同じパンを割いて食べる事が、礼拝のひとつである。
私達は、食べるにしても飲むにしても、キリストを覚え、感謝していただくものである。
パウロは、教会を単なる飲み食いの場としてしまった者たちを叱責した。
 
 
エゼキエル40章以降に示されたこの神殿で、特徴的な事は、きよさにおいて、また汚れを持ち込まない事において、特に注意すべきだった。
かつてイスラエルは、神殿に汚れを持ち込んでしまった故に、バビロン捕囚の憂き目に遭って、豪華絢爛な神殿は、破壊されてしまった。
新約を生きる私達もまた、イエス・キリストにあって、聖である事が求められているのだ。
 
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 

エゼキエル書講解説教

神様を中心とした土地と支配、生活(エゼキエル45章)

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神の民は、聖であるべき事、神様を中心とした歩みをするべき事が、続いて示される。
 
エゼキエル45:1 あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。
エゼキエル45:2 そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。
 
ここでは、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保しなさい、という事であるが、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
 
まず、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、聖所と至聖所のため、そして、そこで仕える祭司のためのものとし(3-4節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、はその周辺で奉仕をするレビ人のものとし(5節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅0.5万キュビトの地を、イスラエルの全家のものとして(6節)、
それらの土地を聖別し、確保するべき事が命じられている。
 
神の民にとって、聖として確保された地の中心は、聖所、すなわち礼拝である。
神の民たる私達が、ここから学ぶべき事は、私達も、主のために聖別された時間、空間を確保し、礼拝を中心にした歩みをするべきだ、という事である。
 
 
エゼキエル45:7 また君たる者の分は、かの聖地と町の所有地との、こなたかなたにある。すなわち聖地と町の所有地に沿い、西と東に向かい、部族の分の一つに応じて、地所の西から東の境に至り、
 
君たる者(ナーシー:上に立つ者、王ではない)のための土地も、確保されている。
それは、この聖別された土地の西側と東側、どちらも、国境に至るまで延びる広大な土地である。
 
エゼキエル45:8 その所有の地所はイスラエルの中にある。わたしの君たちは、重ねてわたしの民をしえたげず、部族にしたがってイスラエルの家に土地を与える。
 
以上のように、主の聖所と、祭司やレビ人、イスラエルの全家に割り当てるべき、聖別された地が、そして、君主に対する土地が定められた。
 
地は、本来、主のものであって、主から人々へゆだねられたものとして、割り当てられる。
それ故、人は土地を勝手に自分のものとするべきものではない。
この地上で、旅人である私達が、仮の住まいとして生きるべき、主からの借地なのだ。
 
9-17節に、君主たる者のつとめが示されている。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
それまでの、イスラエルの歴代の王たちは、暴虐と暴行によって人々を支配し、重税で追い立てていた。
その取り立てて集めた富を、王たちが、わがものとし、おのおのの欲望のままに使うためであった。
しかし、そのような汚れた暴虐の行いゆえに、主はバビロンを通して、全て破壊してしまった。
だから、このエゼキエルに示された神殿や、定められた定めは、ことさら、きよめに立つこと、汚れを持ち込んではならない事が、重点的に示されているのである。
 
神の民は、主から土地を相続地としてゆだねられているからには、主の聖さを汚すことはあってはならない。
また、民の上に立つべき者には、主の聖さを保ちつつ、正しく治める責任が、任されている。
 
上に立つ者は、確かに民から物品を集めるが、それは、君主たちの欲の赴くままに使い込むためではない。
民に代表して、それを、神様の元へと持って行って捧げるためである。
 
エゼキエル45:10 あなたがたは正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを用いよ。
エゼキエル45:11 エパとバテとは同量にせよ。すなわちバテをホメルの十分の一とし、エパもホメルの十分の一とし、すべてホメルによって量を定めよ。
エゼキエル45:12 一シケルは二十ゲラである。五シケルは五シケル、十シケルは十シケルとせよ。一ミナは五十シケルとせよ。
 
ここでは、正しいはかりを基準にしなくてはならない事が、あらためて示されている。
以前は、異なるはかりを用いて、社会に不正や混乱をもたらしていたが、相手や状況によって異なる秤を用いる事を、主は忌み嫌われる。
 
箴言20:10 互に違った二種のはかり、二種のますは、ひとしく主に憎まれる。。
 
 
さらに13-15節には、民が君主に納めるべき割合が示されているのだが、民から集めたそれらは、君主が代表して主にささげるものである、という事が、重要である。
 
主の民には、本来、人間の王は、無いはずである。(1サムエル記8章)
神が王であり、人々の上に立つ君主は、人々が「主にささげる」という行いを促すために人々から集め、人々に代表してそれを主に捧げる、という役割をする者に過ぎない事が分かる。
だから、ここでは「王」ではなく「君主」という言葉が使われているのである。
 
 
18節以降、イスラエルの祭りに関する規定が続く。
 
エゼキエル45:18 主なる神は、こう言われる、正月の元日に、あなたは無傷の雄牛の子を取って聖所を清めよ。
エゼキエル45:19 祭司は罪祭の獣の血を取って、宮の柱と祭壇のかさねの四すみ、および内庭の門の柱に塗れ。
 
まずは年初に、礼拝場所のきよめをしなくてはならない。
 
エゼキエル45:20 月の七日に、あなたがたは、過失や無知のために罪を犯した者のために、このように行って宮のためにあがないをなせ。
 
あやまって罪を犯した者や、わきまえのない者がいる。
彼らは、それを罪とは知らず、意図せずに罪を犯すのだが、しかし、「知りませんでした」で済むものではない。
その贖い・償いを、きっちりしなくてはならず、そのために、犠牲の血が流されなくてはならない。
 
イエス様は、知らずに罪を犯した私達のために、十字架上で血を流し、「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と言って、執りなし祈って下さった。
 
21-25節では、過越祭や種無しパンの祭り、仮庵の祭りの規定が示されるが、そこでも、君主が民に代表して捧げるべき事が書かれてある。
 
以上のように、人の上に立つ者は、神と人との間に立って、民に代わって主に捧げる事、そして、神から託された御言葉を、民に守り行わせるべき事が使命である事が示された。
神の国における「偉い人」「人の上に立つ者」は、世のそれとは違う。
決して、世の王たちがしているように、むさぼりの心をもって民草を虐げてはならない。
 
マタイ20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
マタイ20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
マタイ20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 
 
神の民は、聖である事が、きよさを中心に生活する事が、要求されている。
 
1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1ペテロ1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
2コリント6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
2コリント6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
2コリント6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
2コリント6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
2コリント7:1 愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。

エゼキエル書講解説教

聖なる任務を帯びる祭司に求められること(エゼキエル44:15-31)

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エゼキエル44:15 しかしザドクの子孫であるレビの祭司たち、すなわちイスラエルの人々が、わたしを捨てて迷った時に、わが聖所の務を守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血とをわたしにささげるために、わたしの前に立てと、主なる神は言われる。
エゼキエル44:16 すなわち彼らはわが聖所に入り、わが台に近づいてわたしに仕え、わたしの務を守る。
 
通常のレビ人は、もはや、この新しい神殿の聖所での奉仕には預かれない事が、前回示された。
その理由は、彼らは本来、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を、教えなければならなかった、はずなのに、彼らはそれを教えず、むしろ、民の罪、民の俗っぽさに、染まってしまかったからだ。
 
しかし、ツァドクの祭司の子孫は、そのようでなく、主の前に誠実を尽くした。
それで、ツァドクの子孫が永遠に、主の御側近くで祭司の務めをするものとして、栄光の任務が与えられた。
 
今回の箇所は、ツァドクの子孫が、祭司として、聖所で仕える際に気をつけるべき事が定められている。
ここに記されている規定は、出エジプト記やレビ記からいくつかピックアップされているが、その内訳は、特に、祭司たる者は、きよさと聖を保つべき事、汚れを帯びないようによく気をつけるべき規定に、特化されている。
 
なぜなら、祭司たるものは、主の最も近くで奉仕する者であり、人々の前で、主の聖であられる事を表し、主の栄光を示さなければならないからである。
彼らはもはや、以前、レビ人達が犯した過ちを、もう繰り返さないようにしなくてはならない。
 
エゼキエル44:17 彼らが内庭の門にはいる時は、麻の衣服を着なければならない。内庭の門および宮の内で、務をなす時は、毛織物を身につけてはならない。
エゼキエル44:18 また頭には亜麻布の冠をつけ、腰には亜麻布の袴をつけなければならない。ただし汗の出るような衣を身につけてはならない。
 
祭司が務めに入るために、聖なる領域に足を踏み入れる際、その聖なるつとめ専用の服に着替えてから入るべき事が示されている。
そこでは、毛織物を、すなわち、世の方法で血が流されて作られた着物を、身に着けてはならない。
 
動物の血が流されるようになったのは、エデンの園において、人が主のたった一つの戒めを破って以来だった。
また、人が、汗を流して土地を耕さなければならなくなった、というのも、人が神のことばに逆らい、女の言葉に従った故だった。
 
祭司は、人の前には神の代理として立ち、また、人の代表として神の前に立つ故、エデンで犯した神の言葉に対する違反の刈り取りを、身に帯びて、その務めに入ってはならない。
彼らは、罪のいけにえによって、贖われ、清められた状態で、つとめに入るからだ。
 
エゼキエル44:19 彼らは外庭に出る時、すなわち外庭に出て民に接する時は、務をなす時の衣服は脱いで聖なる室に置き、ほかの衣服を着なければならない。これはその衣服をもって、その聖なることを民にうつさないためである。
 
神の民は、確かに聖なる民ではあるが、この祭司の服は、さらに聖なるものである。
「聖」とは「切り分けられた」事の意味がある。
神の民は、世から切り分けられた者たちであり、そして祭司は、その中からさらに切り分けられた者たちであり、特に、聖所における働きは、そうである。
 
その、聖なる服を身につける事によって、聖所に入ることが出来るほどの「切り分けられた」服を着たままで、世の、俗なる者たちの前に出て、民を聖なるものとしてしまうなら、どうなるか。
祭司のように、聖と俗をわきまえない者たちが、聖別されてしまったとしたら、彼らがその身で俗なる所に行き、罪を犯し、その聖さを冒すなら、彼らが咎を負う事になってしまう。
 
 
エゼキエル44:20 彼らはまた頭をそってはならない。また髪を長くのばしてはならない。その頭の髪は切らなければならない。
 
男子が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであると、自然自体が教えている。(1コリント11:14)
また、頭を剃る行為は、死人を悼む行為と直結している。(後述)
エゼキエル44:21 祭司はすべて内庭にはいる時は、酒を飲んではならない。
 
アロンの子ナダブとアビフは、おそらく、ぶどう酒に酔った状態で聖所に入って、主の前に異なる火を焚き、主の前で焼き殺されてしまった事が、レビ記10章から見る事ができる。
 
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。
10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。
10:5 彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。
10:6 モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。
10:7 また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。
10:8 主はアロンに言われた、
10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。
 
以上のように、祭司は、聖なるつとめに入る際、「死ぬ事の無いように」、ぶどう酒や濃い酒を飲んではならない。
主は、「わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現す」と言われたからだ。
祭司は、聖なる油注ぎを受けた故、聖なる場、聖なる位置を離れてはならないし、また、死んだ行いや、死んだ者に、関わってはならない事が、レビ記10章に書かれてある。
 
エゼキエル44:22 また寡婦、および出された女をめとってはならない。ただイスラエルの家の血統の処女、あるいは祭司の妻で、やもめになったものをめとらなければならない。
 
この事は、レビ記21:7にも書かれている。
『彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。』
 
祭司は、神に対して聖(切り分けられた者)であるので、きよさを保たなければならない。
一般のやもめや、一般の離婚された女は、既に、以前の「一般の男」を知っており、すなわち、既に世俗と結合されてしまっているので、「聖」である事が要求される祭司には、嫁ぐ事はできない。
だから、もしそれが祭司のやもめであるなら、めとってもよい、と言われている。
 
祭司はなぜ、ここまで、きよさを追求しなければならないのか。
その理由が以下に示されている。
 
エゼキエル44:23 彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない。
 
ここでは「教えなければならない」というキーワードが、2回繰り返し強調されている。
そう、祭司たるものは、神の言葉、律法を「教え」なくてはならないからだ。
 
祭司こそ、一番、聖なるものと俗なるものを切り分け、汚れたものときよいものとの区別しなくてはならない存在である。
前回の所では、それをしなければならないはずのレビ人が、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせ、そうして聖なる領域に汚れを持ち込んでしまった故に、彼らにはペナルティが課せられた。
 
本来、聖と俗を切り分け、汚れたものときよいものの切り分けを、教えるべき立場の者が、俗物となり、また汚れていたなら、会衆全体が、聖さを見失い、俗物となってしまう。
だから、祭司は、特に、きよさと聖を身に着けなくてはならないのだ。
 
エゼキエル44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭の時は、彼らはわが律法と定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない。
 
祭司が、世の裁判官の役割をする理由は、彼らが神の法律を一番知っているからである。
神の民は、世の仕方、世の裁判、人間の思考で、世の裁判官にさばきを委ねてはならないのだ。(1コリント6章)
 
エゼキエル44:27 彼は聖所に入り、内庭に行き、聖所で務に当る日には、罪祭をささげなければならないと、主なる神は言われる。
 
祭司は、罪のためのいけにえを捧げて、罪の問題を解決したからこそ、聖なる務めに入ることができるのだ。
 
エゼキエル44:28 彼らには嗣業はない。わたしがその嗣業である。あなたがたはイスラエルの中で、彼らに所有を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。
 
祭司が受け継ぐ、相続の土地は、この地上には、無い。
主ご自身が、相続地であるからだ。
彼らは畑を耕したり、海に出て漁をして食料を得るものではない。
神の働きをして、食を得る者である。
 
エゼキエル44:29 彼らは素祭、罪祭、愆祭の物を食べる。すべてイスラエルのうちのささげられた物は彼らの物となる。
エゼキエル44:30 すべての物の初なりの初物、およびすべてあなたがたのささげるもろもろのささげ物は、みな祭司のものとなる。またあなたがたの麦粉の初物は祭司に与えよ。これはあなたがたの家が、祝福されるためである。
 
ここに、「あなたの家に祝福が宿るため」と書いてある。
祭司の食物を絶やさないなら、祭司は立派に務めあげる事が出来、心置きなく祝福を祈る事ができるからである。
イサクが心置きなく祝福できたのは、おいしい食で満腹したからだった。
 
エゼキエル44:31 祭司は、鳥でも獣でも、すべて自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べてはならない。
 
祭司が食べて良い動物は、ただ、主に捧げられるためにほふられたもの、である。
世の方法で血を流し、殺したものは、祭司は食べてはならない。
 
以上、主の御そば近くで仕えるべき者の標準は、世の標準とは全く違っていた。
私達もまた、王族の祭司とされた者として、自らをきよめ、聖別するべきである。
 
1ペテロ
1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
 
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

 

エゼキエル書講解説教

主の働き人として採用される人と、そこから除外されてしまう人(エゼキエル44:1-14)

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前回までの所で、主は、新しい神殿の寸法や構成を示し、聖と俗とを切り分けるべき事を、示された。
その、聖と俗とを切り分ける領域は、外庭のさらに外側の、縦横五百さおの正方形の領域であった。(エゼキエル42:20)
それが定められると、東向きの外門から、神の栄光が入ってきた。(43章)
 
エゼキエル44:1 こうして、彼はわたしを連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった。
エゼキエル44:2 彼はわたしに言った、「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれもはいってはならない。イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ。
エゼキエル44:3 ただ君たる者だけが、この内に座し、主の前でパンを食し、門の廊を通ってはいり、またそこから外に出よ」。
 
東向きの門(外庭の東向きの門)を、閉じたままにしておかなければならない理由は、イスラエルの神・主が、ここから入られたから、である。
そこでは、ただ、君主(民の上に立つ者)だけが特別に、主の前でパンを食べるために座る事ができる。
 
エゼキエル44:4 彼はまたわたしを連れて、北の門の道から宮の前に行った。わたしが見ていると、見よ、主の栄光が主の宮に満ちた。わたしがひれ伏すと、
エゼキエル44:5 主はわたしに言われた、「人の子よ、主の宮のすべてのおきてと、そのすべての規定とについて、わたしがあなたに告げるすべての事に心をとめ、目を注ぎ、耳を傾けよ。また宮にはいることを許されている者と、聖所にはいることのできない者とに心せよ。
 
神殿には、主の栄光が満ちている。
主の臨在があり、主の栄光がある神殿における「おきて」と「規定」について、主は、「心」に留め、「目」を注ぎ、「耳」を傾けて、「心せよ」、と言われたからには、私達も心するべきである。
 
続く節から、その内訳を要約すると、その神殿において、念入りに注意すべき事とは、汚れが入り込まないように、という事であり、その宮に入って奉仕ができる者と、宮に入れても、聖所には入れない者の区別が示されており、そして、なぜ「入れない」者が出たのかの理由が、以下に示されている。
 
エゼキエル44:6 また反逆の家であるイスラエルの家に言え。主なる神は、こう言われる、イスラエルの家よ、その憎むべきことをやめよ。
エゼキエル44:7 すなわちあなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とがささげられる時、心にも肉にも、割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った。
 
イスラエルの家全体は、神殿の中に、あらゆる忌み嫌うべき事を持ち込んで、主の怒りを引き起こした。
その様は既に、8章で示されていた。
そして、それらを持ち込んだ者とは、「心にも肉にも割礼を受けていない異邦人」であった。
 
その異邦人は、何が聖であり、何が俗であるのかもわきまえず、何が主に忌み嫌われるのか、という知識も無いため、主への恐れも無く、また御言葉に違反しているということも気づかないまま、大盤振る舞いして、神の忌み嫌うものを持ち込み、忌み嫌うべき事を行ったのだ。
しかも、異邦人が神殿で仕事をしてよいと許可したのは、最も神殿のきよさを守らなければならないはずの、レビ人だった。
 
現代の教会で、罠に陥りやすい事として、世の中では有能であっても、聖書の内容を知らず、神を恐れるという事を知らない人を、教会の要職につけてしまう、という事がある。
私達は、心の割礼を受けていない、肉に従って判断し行動する人を、教会の要職に据えてはならない。
そうでないと、なまじ「できる人」の説得力ある言い分によって、御言葉が阻害され、どんどん霊的にあさってな方向へ進ませ、気づいた時にはエゼキエル8章の状態になりかねないからだ。
 
神の国の事柄において、重要な事は、仕事のできる・できないではなく、神を恐れる心を持っているか・いないかである。
パウロは、肝心なのは「御霊による心の割礼」である、と書いている。
 
ローマ2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
 
現代の教会における奉仕において重要な事は、肉に従うのではなく、御霊によって突き動かされる奉仕である。
その誉れは、人に依らず、神から来る。
 
エゼキエル44:8 あなたがたは、わが聖なる物を守る務を怠り、かえって異邦人を立てて、わが聖所の務を守らせた。
 
本来、レビ人、すなわち、主の働き人が、果たさなければならない聖なる務めを、彼らは果たさず、その代わり、割礼を受けていない異邦人を、働きに据えてしまったのだ。
 
エゼキエル44:9 それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、心と肉とに割礼を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない。
 
現代、私達は、御霊による心の割礼が無い人を、奉仕者に立てたりして、礼拝を汚してはならない。
 
以上のように、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせて、聖なる領域に汚れを持ち込ませたレビ人に対してのペナルティが、続く節に記されている。
 
エゼキエル44:10 またレビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪を負わなければならない。
 
本来、神から迷い出た人を、真っ先に連れ戻すべきは、レビ人たちなのに、彼ら自身が、主から迷い出て、離れて行ってしまったのだ。
それでレビ人たちは、その罪を負わなければならなくなってしまった。
 
エゼキエル44:11 すなわち彼らはわが聖所で、仕え人となり、宮の門を守る者となり、宮に仕えるしもべとなり、民のために、燔祭および犠牲のものを殺し、彼らの前に立って仕えなければならない。
エゼキエル44:12 彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって、罪のつまずきとなったゆえ、主なる神は言われる、わたしは彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない。
 
彼らは本来、11節のとおり、主の宮の門を、汚れた者からガードしなければならない、はずだった。
しかし彼らはガードせず、汚れた者・無割礼のものを素通りさせ、その結果、主の宮は偶像礼拝だらけになり、8章のような惨憺たる有様になってしまったのだ。
 
私達は、教会という「主の宮」を、ガードしなければならない。
もし、ある兄弟姉妹が、教会や交わりに、汚れを持ち込もうとするなら、主の働き人である私達は、ガードするべきである。
そして、私達自身という「神殿」を、私達自身が、ガードしなければならない。
主の宮である私達自身の家庭や職場に、人間関係に、また、私達の電子機器の中に、汚れを持ち込ませてはならない。
 
そのガードをしないで、神殿を魑魅魍魎の温床にしてしまったレビ人に対するペナルティ内容が、以下にある。
 
エゼキエル44:13 彼らはわたしに近づき、祭司として、わたしに仕えることはできない。またわたしの聖なる物、および最も聖なる物に、近づいてはならない。彼らはそのおこなった憎むべきことのため、恥を負わなければならない。
エゼキエル44:14 しかし彼らには、宮を守る務をさせ、そのもろもろの務と、宮でなすべきすべての事とに当らせる。
 
レビ人は、主の宮の雑務に当ることは許されるが、祭司として、聖所で仕えることは出来ない。
私達も、汚れをガードしないままであるなら、主の働きの主要部分を任される事は、決して、無い。
たとえ人がそれを許しても、主が、その人を跳ね除けてしまわれるのだ。
 
神の国で、重要な働きを許可される人とは、たとえ、周囲がどんなに堕落したとしても、本人自身は、主に誠実を尽くし、忠実を尽くした人、のみである。
ツァドクの子孫であるレビの祭司が、まさにそうだった。
彼らは、イスラエル全体がいかに堕落しても、忠実に主に仕えたため、彼らだけは、聖所に入って重要な奉仕をする事ができる。(エゼキエル44:15-16)
 
私達は、時代がどうあれ、ツァドク一族のように、御言葉に記されている事を誠実に守り行うべきだ。
そうするなら、この終わりの時代、神の国を建て上げるために大いに、用いられる器として、用いられる用意が整うからだ。

 

エゼキエル書講解説教

わたしが聖であるように、あなたも聖であれ(エゼキエル43章)

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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
 
エゼキエル43:1 その後、彼はわたしを門に導いた。門は東に面していた。
43:2 その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた。
43:3 わたしが見た幻の様は、彼がこの町を滅ぼしに来た時に、わたしが見た幻と同様で、これはまたわたしがケバル川のほとりで見た幻のようであった。それでわたしは顔を伏せた。
43:4 主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、
43:5 霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
 
エゼキエルに再び、主の栄光の幻が示された。
エゼキエルが、最初にその幻を見た時の有様は、1章に記されている。
 
彼はその時、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら来たのを見た。
その火の中央には、青銅の輝きのようなものがあり、4つの生き物と、そのそばに車輪があるのを見た。
その火からは、いなずまが出ていて、一つの輪が、他の輪の中にあるようで、輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。
 
最初の幻の時、このような圧倒的な臨在の幻の中から語られた内容は、イスラエルの罪を指摘するものであり、そして、警告であった。
 
エゼキエルは、その他にも、多くの警告が主から与えられ、それを伝え続けたが、結局、イスラエルはそれらを無視し、罪を離れず、好き放題の事をし続けた。
 
そのため、ついに、主の栄光が神殿から離れ、その後、エルサレム神殿は、悲惨なまでに、徹底的に破壊されてしまった。
それは、彼らの汚れが徹底的に拭い去られ、きよめられるためであった。
 
主の栄光が無い神殿は全く無意味であるのと同様に、私達という神の宮も、主の霊が宿っていないとするなら、全く無意味である。
だから私達は、聖霊を求めて祈るべきである。
 
しかし、彼らの汚れが、徹底して打ち砕かれ、清められた後、新しい神殿の幻が示され、そこに、主の栄光が戻って来た。
 
 
エゼキエル43:6 その人がわたしのかたわらに立った時、わたしはひとりの人が、宮の中からわたしに語るのを聞いた。
 
それまでは、手に、はかりざおを持った「ある人」が、この神殿の”ツアーガイド”をしていたが、それ以降、彼ではなく、主ご自身がツアーガイドとなって下さる。
 
 
エゼキエル43:7 彼はわたしに言った、「人の子よ、これはわたしの位のある所、わたしの足の裏の踏む所、わたしが永久にイスラエルの人々の中に住む所である。またイスラエルの家は、民もその王たちも、再び姦淫と、王たちの死体とをもって、わが聖なる名を汚さない。
 
主に聞き従わないで、偶像礼拝や不正を持ち込んだ汚れた王たちの死体が、エルサレムに葬られたことによって、そこは汚されてしまった。
ここに記されている通り、神殿は、栄光の主の玉座がある所であり、そこは、主の足の踏む所であり、そして、主が永遠に住むべき所、である。
 
私達という神の宮も、そうである、という自覚を持つべきであり、淫行や、死んだ行いによって汚されないように、気をつけるべきである。
かつての神殿は、淫行や高き所の王たちの死体で汚され、その汚れをきよめず、むしろ、淫行と汚れに留まり続けたため、主の栄光が離れ、神殿は破壊し尽くされてしまったからだ。
 
汚れた者達の汚れた行いによって汚されてしまったそれらは、一度、徹底的に破壊されてから、清められる必要があった。
 
エゼキエル43:8 彼らはその敷居を、わが敷居のかたわらに設け、その門柱を、わが門柱のかたわらに設けたので、わたしと彼らとの間には、わずかに壁があるのみである。そして彼らは、その犯した憎むべき事をもって、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって、これを滅ぼした。
 
ここに記されている具体的な内容、すなわち、イスラエルの民や長たちが、いかにして神の御住まいを汚したかの詳細が、8章で示されている。
 
8章で示された幻の中で、彼らは、北の祭壇の門の入口に、ねたみの偶像を置き、そこで女たちは、タンムズのために、泣きながら座っていた。
また、庭の入口の壁の中に入って行くと、そこには、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が回りの壁一面に彫られていて、イスラエルの七十人の長老が、その暗い所で礼拝していた。
さらには、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間にいた人々は、主の宮の本堂に対して背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。
 
それで主は言われた。
エゼキエル8:18 それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。
 
神殿が徹底的に破壊された理由は、これだけではなく、さらに多くの、汚れた事を彼らが行ったゆえだった。
 
エゼキエル43:9 今彼らに命じて姦淫と、その王たちの死体を、わたしから遠く取り除かせよ。そうしたら、わたしは永久に彼らの中に住む。
 
淫行と、死体を、取り除かなければならない、と言われたように、私達の中からも、死んだ行いと、主の御前における淫行を、取り除かなくてはならない。
取り除くなら、「わたしは永遠に彼らの中に住もう」と、9節で言われている。
 
 
エゼキエル43:10 人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ。彼らはその悪を恥じるであろう。
43:11 彼らがその犯したすべての事を恥じたら、彼らに、この宮の建て方、設備、出口、入口、すべての形式、すべてのおきて、すべての規定を示せ。これを彼らの目の前に書き、彼らにそのすべての規定と、おきてとを守り行わせよ。
 
主が神殿を計らせ、その正確な寸法を示された理由が、ここに示された。
すなわち、彼らが、自分たちの不義を恥じ入るようになるためである、と。
 
実際、神殿の構造は、あらゆる点において、主の聖さが示されており、また、汚れた者は入れない事、そのガードがとても固い事が、示されていた。
 
私達も、きよく聖である主の宮を示されて、それに引き換え、自分自身の汚れた様も示され、恥じ入るとしたなら、それは、主の御心である。
それは、主の宮と神の臨在から、ますます離れさせるためではなく、むしろ、そこに近づくため、自分自身の不義を捨てさせるため、である。
 
 
43:12 「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである。山の頂の四方の地域はみな最も聖である。見よ、これは宮の「規定(トーラー)」である。
 
12節という節は、何気に、とても重要な事が書いてある。
『「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである』という宣言でサンドイッチされた、その中身は、「山の頂の四方の地域はみな最も聖である」。
「最も神聖」とは、「コデシュ(聖)」という語の反復強調である。
 
「宮」と訳された語ベイトは、元々の意味は「家」、あるいは「住む所」であり、すなわち、主の家、主のすみかである。
私達も、主が住まわれる宮であり、また、私達が住んでいる家やマンションについても、その場所やその周囲も、「聖」であるべき事が、強調されている。
 
 
13節以降には、祭壇のデザインと寸法が記されている。
祭壇は、神に受け入れられるべき犠牲を捧げる所であり、そこは、人の罪が清められ、神に受け入れられる者とされる所である。
 
また18節以降には、祭壇が建てられた際に、祭壇が「機能」するために、最初に為すべき7日間に渡るきよめの規定が、示されている。
そして、きよめのために必要なものは、傷のない動物の、犠牲の血である。
 
 
今、新約の時代における祭壇は、イエス様がかかられた十字架である。
罪や傷のないイエス様が、十字架の上で犠牲の血を流された事によって、私達は罪が清められ、神に受け入れられる者とされた。
 
43:27 彼らがこれらの日を満たしたとき、八日目から後は、祭司たちは、あなたがたの燔祭と、酬恩祭とを祭壇の上に供える。そうすれば、わたしは、あなたがたを受けいれると、主なる神は言われる」。
 
祭壇の贖いが済んだ後には、全焼のいけにえと、和解のいけにえが捧げるべきである事が示されている。
私達も、イエス様の十字架上での贖いを受けた後には、神との和解が成立し、その故に感謝をささげ、そして、私達自身を、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物として捧げるべきである。
 
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
以上、神殿の構成が示されたのは、それまでの罪や汚れを犯してきた私達が恥じ入り、イエス様の贖いと和解を受け入れ、私達自身が、聖となり、聖なる民として、聖なる道を歩み続けるためである事がわかる。
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