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メッセージ - エゼキエル書カテゴリのエントリ

エゼキエル書講解説教

聖と俗とを区別せよ(エゼキエル42章)

Youtube動画

 
※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
42章では、祭司たちのための施設について、また、聖なる領域について示されており、聖と俗とを区別するべき事が、特に強調されている。
 
1-9節には、内庭の北側に配置するべき祭司のための建物の構成と寸法が示されており、10-12節は、南側の建物について示されている。
南側の建物も、北の建物と、寸法や構成は一緒である。
それらの建物は、北と南が通路で分断された三階建ての建物であり、これらの施設の用途は、13-14節に示されている。
 
42:13 時に彼はわたしに言った、「庭に面した北の室と、南の室とは、聖なる室であって、主に近く仕える祭司たちが、最も聖なるものを食べる場所である。その場所に彼らは、最も聖なるもの、すなわち素祭、罪祭、愆祭のものを置かなければならない。その場所は聖だからである。
42:14 祭司たちが、聖所にはいった時は、そこから外庭に出てはならない。彼らは勤めを行う衣服を、その所に置かなければならない。これは聖だからである。彼らは民衆に属する場所に近づく前に、他の衣服を着けなければならない」。
 
この建物の用途は、主に近づく祭司たちが、最も聖なるささげ物を食べる所、すなわち、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえの、祭司の分を食べるべき所であり、また、祭司が装束を着替えるべき所でもある。
 
つまり、祭司たる者は、食物においても、着物においても、聖別された者として、自分自身をキープしなければならない。
神殿にて、神仕える祭司が食べる捧げものの肉は、単なる食物ではないし、また、その場所において食べる行為は、単なる飲み食いではない。
それは、主へ捧げられた犠牲を覚える、聖なる行為である。
そのために主は、わざわざ、聖なる敷地の一角に、祭司がそれをするための建物を指定されたのだ。
 
私達・キリスト者は、現代の祭司である。
パウロは警告している。
教会において、われ先にと飲み食いして、自分だけ満腹で酔っていて、他の人を、空腹のままにしておくような者に対して。
 
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
 
パウロは続いて、主が制定された聖餐を説明する。
旧約で、祭司は、犠牲の捧げものは定められた聖なる所で食べるように、と、指示されていた。
同様に、新約聖徒は、罪の犠牲となられ、和解のいけにえとなられたイエス様のみからだであるパンを共に食べ、イエス様の流された血であるぶどうの実で作った飲みものを、共に飲むのである。
 
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
 
ここでイエス様が繰り返し言われた、大事な事は、「わたしを覚えて、これを行いなさい」である。
聖餐をあずかるに「ふさわしくない」者とは、イエス様の尊い十字架でのみわざを覚えない者、みからだをわきまえない者である。
 
よく、自分は罪をたくさん犯したから、この聖餐にあずかるにふさわしくない、と、勘違いする人がいる。
もし罪をたくさん犯した、というのであるなら、なおさら、罪人の身代わりに十字架上でみからだを割いてくださったイエス様の肉にあずかるべきであり、罪を清める血にあずかるべきである。
 
だから、私達・新約聖徒は、教会における飲食は、キリストのからだを覚えつつ、わきまえて行うべきである。
そうでない者、すなわち、イエス様のみからだをわきまえないで飲み食いした者は、どうなったか。
 
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
 
コリント教会の中には、みからだをわきまえない飲み食いによって、弱った人や、病気になった人が、大ぜいおり、また眠った(死んだ)者も少なくない、というのは、恐るべき事である。
キリストを覚えず、教会に、単に飲み食いだけのためだけに来ていたような人は、弱くなったり、病につきまとわれたり、さらには、死んでしまったのだ。
だから、パウロは注意している。
 
1コリント11:33 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
11:34 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。
 
 
エゼキエルはさらに、聖と俗の境界を示される。
 
エゼキエル42:20 彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。
 
区別がある。
聖と、俗との。
 
主は、聖なるお方である。
だから、自分自身をきよくしようとしない者は、神を見る事はできない。
 
実際、黙示録で示される天国は、汚れた者は入れない、と書いてある。
また、レビ記には、みずからを清めないまま主の御前に出るなら、打たれてしまった事が、書いてある。
 
神殿は、主と出会う場所であり、汚れた者は、入れない。
エゼキエルに示された神殿は、特に、汚れに対しては、ガードが固かった。
 
私達も、主と出会いたい、という事であるなら、まず自分自身を清める必要がある。
 
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
 
ここの14節で言われている事は、不信者とは一切出会うな、という事ではない。
「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」である。
 
私達は、世に出て、信じていない人を、信じる人とするために、宣教へ出ていくつとめがあるが、それは、自分を不信者の側へと合わせたり、不信者といっしょくたになって、共同で罪を犯したり、不正に手を染めたりしてはならない、という事である。
 
自分をきよくしている人が、汚れた人に触れるなら、相手の汚れがk自分に移って汚されてしまうのである。
人は、罪や汚れに弱いものである。
アルコール依存症の人を救おうとして、彼らの気持ちを理解しようと自分もアルコールを飲むなら、やがて、自分もアルコール依存症になってしまうものだ。
 
唯一の例外は、イエス様である。
長血(不浄の病とされている)に12年もかかっていたある女が、イエス様ならきっと、わたしを救って下さる、という信仰をもちながら、イエス様の衣のふさに触れた。
通常なら、汚れた人がきよい人に触れるなら、触った相手を汚してしまう。
しかしこの時、逆の事が起きた。
イエス様に触れた女のほうが清められ、その不浄の病が癒やされたのだ。
 
イエス様が、この、汚れに満ちた人の世に降りて来られたのは、ただ、一方的な恵みである。
こんなにも罪に汚れて、きよい神とは、ほど遠いような、そんな私達に向かって、イエス様は、天を押し曲げて降りてこられた。
それで私達は、イエス様に出会い、イエス様を信じ、救われたのだ。
 
私達は、イエス様の名前によってこそ、父なる神とお会いする事ができるのだ。
 
それが示された以上、私達は、いつまでも汚れに留まっていてはならない。
イエス様は、つまずきを与える者や、不法を行なう「主のしもべ」を、御国の中からから取り集めて外の暗闇に追い出すので、彼らは泣いて歯ぎしりする、と言われた。
 
聖と俗とを区別し、汚れを捨てて、いつも自分をきよくし、聖なる敷地の中で、聖なる祭司としていつも主と出会い続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エゼキエル書講解説教

天国を思わせる神殿(エゼキエル41章)

Youtube動画

 
※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
41章は、いよいよ、神殿の本堂の中へと入っていく。
 
この度の箇所のように、神殿の詳細を読んでいく時、聖霊の助け無しに読むなら、自分とは何ら関わりのない、無機質な設計図を読んでいるかのような「つまらなさ」を覚えるだろう。
しかし、聖霊という”ツアーガイド”つきであるなら、その情景がありありと浮かび、あたかもそこが、自分がこれから入居する素晴らしい邸宅を内覧しているかのような、うきうきとした喜びに浸しこまれていく。
 
この箇所に限らず、私達は聖書を読む時、聖霊のガイドに従って読めるように、求めるべきである。
 
 
41:1 彼がわたしを拝殿に連れて行って、脇柱を測ると、こなたの幅も六キュビト、かなたの幅も六キュビトあった。
41:2 その戸の幅は十キュビト、戸のわきの壁は、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトあった。彼はまた拝殿の長さを測ると四十キュビト、その幅は二十キュビトあった。
 
神殿の戸の幅は、奥へ入っていくにつれ、どんどん狭くなって行く。
(玄関の幅は14キュビト、聖所は10キュビト、至聖所は6キュビト)
 
この神殿の構造自体が、礼拝者の心を整えて行く構成となっている。
神殿の階段も、外から内へ入るにつれ、どんどん段数が多くなって行ったよう。
階段を登るごとに、礼拝者の心を「上」へと向けさせられ、また、狭い戸をくぐって行くごとに、礼拝者の心は、どんどん低くへりくだらせていく。
 
 
41:3 彼がまた内にはいって、戸の脇柱を測ると、それは二キュビトあり、戸の幅は六キュビト、戸のわきの壁は七キュビトあった
 
至聖所の戸は、6キュビトと、今までの門の中では、一番狭い。
そう、聖なる領域へ入る門は、狭いのだ。
 
イエス様は、心して、せまい門から入りなさい、と言われた。(マタイ7:13)
滅びに至る門は広く、ラクであり、その道を行く人は多いが、その向こうは、聖なる場所ではないし、聖なるお方も、おられない。
その道は、滅びに通じる道だからだ。
 
しかし、イエス様は言われた。
『わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。』(ヨハネ10:9)
 
イエス様という、あまり人々が見いださない「狭い門」から入った向こうには、天国があり、神様との永遠の交わりがあり、永遠の喜びがある。
それ故私達は、イエス様にあって、永遠の祭司となるのである。
 
 
41:4 彼はまた拝殿の奥の室の長さを測ると二十キュビト、幅も二十キュビトあった。そして彼はわたしに、これは至聖所であると言った。
 
至聖所のサイズは、ソロモン神殿と同じである。
ソロモン神殿には、六百タラントに当たる良質の金がかぶせてあったが(2歴代誌3:8)、この神殿は、金や銀などの貴金属や宝石などの飾りについては、一切、触れられていない。
 
 
続いて聖所の外側の、脇間の説明に入る。
 
41:5 彼が宮の壁を測ると、その厚さは六キュビトあり、宮の周囲の脇間の広さは、四方おのおの四キュビトあり、
41:6 脇間は、室の上に室があって三階になり、各階に三十の室がある。宮の周囲の壁には、脇間をささえる突起があった。これは脇間が、宮の壁そのものによってささえられないためである。
 
神殿の外を覆う壁の厚さは、3メートル強で、かなり厚い。
モーセの幕屋の骨組みは、アカシヤ材の板が、基本的な構成物となっていて、板一枚につき2個の銀の台座で支えられていたが、それとは比べ物にならないほど、頑強だ。
 
脇間は、神殿をぐるっと回る回廊状にめぐらされ、1フロアごとに30あり、それが3フロアあるので、合計、脇間は90もある事になる。
そこは、色々なものを保管したり、あるいは、奉仕者が色々な用途に用いる事ができるだろう。
 
天国には、イエス様が用意された部屋が、たくさんある。
イエス様は、言われた。
 
『わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。』(ヨハネ14:2-3)
 
 
バビロン捕囚から帰還した民は、ゼルバベルを中心に、神殿を再建したが、総督であるネヘミヤが不在の時、代行していた者は、神殿の聖なる部屋を、トビヤという、神の民をあざける異邦人のために都合つけ、あてがっていた事が発覚した。(ネヘミヤ記13章)
神の民をけなす者の私物を、聖なる神殿の一室に置く・・・それは、相当根深く隠れたつながりでも無い限り、ありえない事である。
 
『わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。』(ネヘミヤ13:8-9)
 
ネヘミヤは憤って、きよめを遂行したが、私達という神の神殿は、どうだろうか?
罪との隠れた、根深いつながりは、無いだろうか?
私達の心の部屋、頭の部屋には、トビヤの私物を、放置していないだろうか?
 
「ネヘミヤ」の名の意味は「主の慰め」、すなわち、慰め主・聖霊と同じ名である。
もし私達が、世と妥協し、この私達という宮に、あえて、汚れた情報や思考を取り入れ、蓄えるなら、聖霊は憤られる。
そして、宮をきよめるために、強制力を発動される。
 
私達も、自分自身という宮を見張る事を怠り、トビヤの私物のような汚らわしいものを、自分の中に蓄え、のさばらせているなら、ネヘミヤの時代にあったように、少々、手厳しい扱いを受けるだろう。
ものすごく恥ずかしい思いをするか、何か大きな損失を被るか、、、。
ともかく、大々的な「きよめ」という”霊的ガサ入れ”が入る。
 
 
41:7 脇間は、宮の周囲の各階にある突起につれて、階を重ねて上にいくにしたがって広くなり、宮の外部の階段が上に通じ、一階から三階へは、二階をとおって上るのである。
 
この脇間は、階を上がって行くにつれて、全体的に広くなっていった。
私達という神殿の内部屋、すなわち、私達の思いや心は、礼拝へと登るにつれ、すなわち、天に近づくにつれ、イエス様へと近づいて行くにつれ、どんどん広まって行く。
それまで、「狭い」と思っていた自分自身の心が、内側が、イエス様にあってどんどん解放され、どんどん広く、開放されて行くからだ。
 
 
41:8 わたしはまた宮の周囲に高い所のあるのを見た。脇間の基を測ると、六キュビトの一さおあった。
41:9 脇間の外の壁の厚さは五キュビト、あき地になっている高い所は五キュビトあった。宮の高い所と、
41:10 庭の室の間には、宮の周囲に、広さ二十キュビトの所があった。
 
神殿の脇間は、このように、高い基の上に据えられ、その周囲は広々としていて、開放感がある。
もし、私達がよく見張り、汚れたものを自分に入れず、聖なる様相を保ち続けるなら、私達という神殿の「心」という脇間も、どっかりとした土台の上に据えられ、広々と、開放感がある者となって行くのだ。
 
 
41:12 西の方の宮の庭に面した建物は、幅七十キュビト、その建物の周囲の壁の厚さは五キュビト、長さは九十キュビトであった。
 
この、西側の、すなわち、神殿の後ろ側の、結構大き目の建物は、モーセの幕屋や、ソロモン神殿には、無い建造物である。
 
 
41:13 彼が宮を測ると、その長さは百キュビトあり、その庭と建物と、その壁は長さ百キュビト、
41:14 また宮の東に面した所と庭との幅は百キュビトであった。
41:15 彼が西の方の庭に面した建物と、その壁の長さを測ると、かなた、こなたともに百キュビトであった。宮の拝殿と、内部の室と、外の廊とには、羽目板があった。
41:16 これらの三つのものの周囲には、すべて引込み枠の窓があり、宮の敷居に面して、宮の周囲は、床から窓まで、羽目板であって、窓には、おおいがあった。
 
この神殿の描写は、ソロモン神殿の描写に比べれば、飾りっ気が無く、非常にシンプルである。
 
 
41:17 戸の上の空所、内室、外室ともに、羽目板であった。内室および拝殿の周囲のすべての壁には、同じように彫刻してあった。
41:18 すなわちケルビムと、しゅろとが彫刻してあった。ケルブとケルブとの間に、しゅろがあり、おのおののケルブには、二つの顔があり、
41:19 こなたには、しゅろに向かって、人の顔があり、かなたには、しゅろに向かって、若じしの顔があり、宮の周囲は、すべてこのように彫刻してあった。
41:20 床から戸の上まで、ケルビムと、しゅろとが、壁に彫刻してあった。
 
天国には、2種類の木が登場する。
一つは、いのちの木であり、もう一つは、しゅろ(なつめやし)の木である。(黙示録7:9)
 
聖所の内側の彫刻には、若獅子と、人とが、しゅろの木のほうを向いている。
神殿内の飾りと言えば、ただ、それだけだ。
シンプルといえども、まことに、黙示録を連想させる彫刻である。
 
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』(黙示録5:5)
 
『その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
』(黙示録7:9-10)
 
 
41:21 拝殿の柱は四角であった。聖所の前には、木の祭壇に似たものがあった。
41:22 その高さは三キュビト、長さは二キュビト、幅は二キュビトで、すみと、台と、壁とは、ともに木である。彼はわたしに言った、「これは主の前にある机である」
 
この、聖所の中の、いや、聖所と至聖所に見られる、唯一の器物は、主の前にある「机(シュルカーン:食事などを置くテーブル)」だけである。
その材質は木だけであり、寸法は、高さ150cm強、長さ・幅は、共に60cm強である。
 
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の聖所には、3つのアイテムがあった。
すなわち、供えのパンの机と、香の祭壇と、燭台(メノラー)が。
それに対し、この聖所に置かれたものは、いや、至聖所も含めて、この聖なる神殿の中に唯一、言及された器物は、これだけなのだ
まことに、私達の目には、謎の多い神殿だ。
 
 
41:23 拝殿と聖所とには、二つの戸があり、
41:24 その戸には、二つのとびらがあった。すなわち二つの開き戸である。
41:25 拝殿の戸には、おのおのにケルビムと、しゅろとが、彫刻してあって、それは壁に彫刻したものと同じである。また外の廊に面して、木の天蓋があり、
41:26 廊の壁には、こなたかなたに引込み窓と、しゅろとがあった。
 
聖所と至聖所の間の戸は、折りたたみ式の戸で、そこにも同様に、ケルビムと、しゅろの彫刻が為してある。
 
 
以上、この神殿を探索するに、謎と思える事が、いくつかあった。
 
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の、聖所内の香壇は、金が被せられていたのに、エゼキエルが見たこの神殿には、金や銀など高級品の記述は、一切見られない。
また、寸法と材料は書いてあっても、用途が書かれていないものも幾つかあった。
 
分かっている事は、この神殿は、ガードが非常に固いという事と、豪華絢爛なものは記されていないにしても、ゆったりとしていて、何か、天国を思わせる雰囲気がある。
 
主は言われる。
わたしはすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないよう、あなたの持っているものをしっかり持っていなさい、勝利を得る者を、神の聖所の柱としよう、と。(同11-12節)
 
主イエスの血によって、御前に近付く者は、至聖所の本体に入るのである(ヘブル9:24-25,10:19-22)。

エゼキエル書講解説教

与えられた堅固な神殿の幻(エゼキエル40:5-49)

Youtube動画

 
※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
40章以降は、回復された神殿の完成形が、その用途や寸法まで示されており、まずは外側から内側へと進んで行く方向で、その神殿の説明が進んでいく。
 
5-16節は、神殿の外側を巡る壁と、東向きの門の説明である。
 
40:5 見よ、宮の外の周囲に、かきがあり、その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。彼が、そのかきの厚さを測ると、一さおあり、高さも一さおあった。
 
ここで使われているキュビトは、通常のキュビトに、一手幅加えられたもの、そのキュビトは、52cmほどである。
つまり神殿の外側は、およそ3.1mの高さと幅の壁によって、区切られている事になる。
 
神殿の原型は、荒野でモーセに示された幕屋であったが、モーセの幕屋と比べれば、随分、ゴージャスになっている。
モーセの幕屋は、内側と外側を区切る幕の高さは5キュビト、およそ2,25mなので(出エジプト記27:18)、少し背の高い人がジャンプすれば幕屋の内側が見えてしまう。
また、亜麻の撚糸の布製で、押し入ろうとするなら、押入れてしまいそうな材料でできている。
 
しかし、この神殿の外壁は3m以上の、高さと、幅で仕切られている。
ちょっとした城壁に匹敵するような高さと厚さだ。
またこの神殿には、東、北、南の指定された入口からしか入れず、門も、しっかりしたセキュリティの構造となっている。(後述)
 
40:6 彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その厚さは一さおあり、
40:7 その詰め所は長さ一さお、幅一さお、詰め所と、詰め所との間は五キュビトあり、内の門の廊のかたわらの門の敷居は一さおあった。
40:8 門の廊を測ると八キュビトあり、
40:9 その脇柱は二キュビト、門の廊は内側にあった。
40:10 東向きの門の詰め所は、こなたに三つ、かなたに三つあり、三つとも同じ寸法である。脇柱もまた、こなたかなたともに同じ寸法である。
 
神殿の正面は、東であり、神殿の外庭へと入って行くための玄関の両側には、それぞれ、3つの控え室、合計6つの部屋がある。
これは門衛の詰所であり、神殿に入る人は、そこでしっかりとチェックされる事になる。
 
 
40:11 門の入口の広さを測ると十キュビトあり、門の長さは十三キュビトあった。
40:12 詰め所の前の境は一キュビト、かなたの境も一キュビトで、詰め所は、こなたかなたともに六キュビトあった。
40:13 彼がまたこの詰め所の裏から、かの詰め所の裏まで、門を測ると、入口から入口まで二十五キュビトあった。
40:14 彼がまた廊を測ると二十キュビトあり、門の廊の周囲は、すべて庭である。
40:15 入口の門の前から内の門の廊の前まで五十キュビトあり、
40:16 詰め所と、門の内側の周囲の脇柱とに窓があり、廊の内側の周囲にも、同様に窓があり、脇柱には、しゅろがあった。
 
門という”建物”は、横25キュビト(13m弱)、奥行き50キュビト(25m強)、門柱は60キュビト(30m強。口語訳には記述なし)。
その門という建物の内側には、門衛の詰所が左右3つづつあるので、結構壮麗な門である事がわかる。
 
 
続いて17-19節に、外庭についての説明がある。
 
40:17 彼がまたわたしを外庭に携え入れると、見よ、庭の周囲に設けた室と、敷石とがあり、敷石の上に三十の室があった。
40:18 敷石は門のわきにあり、門と同じ長さで、これは下の敷石である。
40:19 彼が下の門の内の前から、内庭の外の前までの距離を測ると、百キュビトあった。
 
つまり、神殿の外庭をぐるっと囲む形で、合計30の部屋があるのだ。
また、外側の門から、内庭の外の端までの距離は、100キュビト(50m強)である。
という事は、この神殿の外庭の門から内庭までの間に、モーセの幕屋が、すっぽりそのまま入るような広さである。
(モーセの幕屋の外庭の寸法は、古いキュビトで長さ100キュビト(45m弱)、幅は50キュビト(22m強)。出エジプト記27:18)
 
また、北向きの門については、20-23節に、南向きの門について24-27節に、それぞれ記されているが、それらの門は、寸法も、成り立ちも、東の門と同じである。
 
 
外庭から内庭へと入るには、南、東、北にある「内庭の門」を通らなければならない。(28-37節)
その寸法も成り立ちも、外庭の門と同じであるが、階段の段数が違う。
外庭の門の段数は7段であるが、内庭の門の階段は、8段で、より高い所に内庭があるのだ。(31節)
 
内庭の東の門についての説明は、32-36節にあり、内庭の北の門についての説明は、35-37節にあるが、いずれも寸法は同じで、それぞれの階段の段数は、8段である。
 
 
38-43節では、北側の内門のところに、いけにえを捧げる際に用いる祭具についての説明が続く。
 
40:44 彼はまたわたしを、外から内庭に連れてはいった。見よ、内庭に二つの室があり、一つは北の門のかたわらにあって南に向かい、一つは南の門のかたわらにあって、北に向かっていた。
 
日本語の聖書には無いが、ヘブライ語の聖書では、これら2つの部屋は「歌うたい(ヘブライ語:シィール)」のための部屋、とある。
(KJVでは、chambers of the singers)
 
40:45 彼はわたしに言った、この南向きの室は、宮を守る祭司のためのもの、
40:46 また北向きの室は、祭壇を守る祭司のためのものである。その人たちは、レビの子孫のうちのザドクの子孫であって、主に近く仕える者たちである。
 
ツァドクの子孫こそ、正当な祭司の家系である。
 
ツァドクは、エルアザルの子ピネハスの子孫で(エズラ7:1-5)、ピネハスは、とても主に熱心であった。
イスラエルが、異邦の女と淫らな事をしていた時、それを排除した事によって、主の賞賛を受け、彼の子孫は永遠に祭司職となる、という約束を、主からいただいていた。(民数記25:10-13)
 
ツァドクから生まれた子孫の中には、偉大な指導者・エズラがいる。(エズラ7:1-5)
彼は、バビロン捕囚から帰還した時、信仰伝授教育であるテフィリン教育を指導し、そのおかげで、ユダヤ人の信仰は、世界中に2500年も離散していたにもかかわらず、現代に至るまで、変わらず信仰が伝授され続けて来た。
 
このように、ツァドクの子孫は、主の聖所の任務を忠実に果たした、という賞賛をいただいた故(エゼキエル44:15)、彼らは祭壇のつとめが与えられ、主の近くで主に仕える栄誉にあずかったのだ。
 
 
40:48 彼がわたしを宮の廊に連れて行って、廊の脇柱を測ると、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトであり、門の幅は十四キュビトである。門の壁は、こなたも三キュビト、かなたも三キュビトである。
40:49 廊の長さは二十キュビト、幅は十二キュビトであり、十の階段によって上るのである。脇柱に沿って、こなたに一つ、かなたに一つの柱があった。
 
いよいよ神殿の玄関口の寸法である。
口語訳と新共同訳では、そこの階段は10段、とあるが、それは七十人訳を元にしているもので、ヘブライ語聖書には「10段」という表記は無い。
 
いずれにしても、外庭の門に入るためには7段登り、内庭の門に入るのに、さらに8段登り、そして神殿へと入るには、さらに階段を登らなくてはならない。
神殿の階段が10段だとしたら、外界よりも、25段高い事になる。
 
 
今回の神殿は、城壁のような壁と、いくつもの門衛の詰所によってガードされていた。
ソロモン神殿を建築する箇所では、豪華絢爛さが強調されていたが(2歴代誌1-5章)、信仰のガードが甘かった。
それ故、彼らは、世の汚れた情報や、汚れた宗教の侵入を許して、それを手放さなかったため、ついに主は、神殿にバビロンの侵入を許可し、豪華絢爛なもろもろは、徹底的に破壊されてしまった。
 
この有様から、私達が受けるべき養いは、私達という神殿は、きよい、聖なるものとして、しっかり外界と境界線を引いてガードし、私達自身を、神に受け入れられる、生きた供え物として、捧げるべき事である。
金銀宝石といった豪華絢爛さを求めるよりも、むしろ、ガードする事をこそ、求めるべきなのだ。
私達の、目という門をガードし、耳という門をガードし、世の汚れた情報や言葉を、心の中への侵入を許さず、口という門からは、良い食べものを口に入れ、きよい、いのちの水のような御言葉を語りだす口とするのだ。
 
エゼキエルは、なぜ、こんなにも正確に、神殿の諸々の寸法や用途を、書き残す事が出来たか。
それは、彼が、神様から示されたまぼろしを、よく心に留め、それを頭に心に刻みつけるために、何度も口ずさんで、テフィリン(御言葉暗唱)していたからである。
私達も、主の御言葉を、そして、主から示されたまぼろしを、昼も夜も口ずさみ、それをよく心に留め、頭に刻みつけるべきである。
そのようにしてこそ、私達は神の神殿として、人々にいのちの水を流しだし、救いを流しだして行く事が出来るのだ。

エゼキエル書講解説教

聖なるものを正しく計るものさしを得よ(エゼキエル40:1-5)

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前章までの所では、神に敵対する勢力への最終的なさばきが示され、それによって、神の民に平和が訪れる事が示された。
ここでさらに、新しい幻が与えられる。
それは、新しい神殿の幻である。
 
エゼキエル書は、この40章以降、神殿の詳細な様子や寸法が次々と示されて行く。
さらに神殿に関する規定が示され、祭儀規定が示されて行く。
それらが示されて行った後には、神殿からいのちの水の川が流れ出し、いのちがみなぎっていく幻へと入って行く。
 
そして最後に、神の民の相続地が示されてから、エゼキエル書は終わる。
エゼキエル書の最後の言葉は、以下である。
 
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
 
「主そこにいます(ジェホバ・シャマー)」。
これこそ、エゼキエル書の結論であり、そしてそれは、神殿の完成において、実現する。
 
神殿とは、神と人とが出会い、交わる場所である。
ソロモン神殿がバビロンによって破壊されてしまった理由は、人の側が契約を破り、それを何度も、長年、戒められて来たのに、改めなかった事による。
 
だから、神殿が回復されるのは、ただ、誠実なる主のゆえ、主の一方的な憐れみによるもので、主の契約こそが、まことに真実であったという事が、明らかにされるためである。
 
そして、神殿が回復される事は、神と人との関係が、神と人との交わりが、回復される事を意味する。
何と幸いな事であろうか!
しかも、新約を生きる私達キリスト者は、神の神殿となっており、いつでもイエス様との交わりができるのだ。
この恵みは、どれほど、計り知れない事だろう。
 
エゼキエル40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
 
エゼキエルやダニエル達が、捕囚の民としてバビロンに連れて来られたのは、紀元前597年、そして、エルサレムが陥落したのが、紀元前586年であるので、彼がこの幻を見たのは、それから14年後、紀元前573-572年の事である。
 
なお、その幻が与えられた日は、「その年の初めの月の十日」と書いてある。
年の初めの10日といえば、過越の祭りにおいて、ほふられるべき羊を、家ごと・家族ごとに用意する日である。(出エジプト12章)
主はその、ほふられるべき犠牲の羊を用意する日、エゼキエルに幻を見せて下さったのだ。(後述)
 
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。
 
その神殿は、イスラエルの地の、非常に高い山、と示されている。
神殿はエルサレムのシオンの丘に建てられるものであるが、その場所は、確かに高台ではあるものの、「非常に高い山」とは言えない。
これは、どういう事だろうか。
イザヤ書に書かれてある。
 
イザヤ2:2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、
2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。
2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。
 
つまり、主の家の山が非常に高くなるのは、「終わりの日」なのだ。
もし、これらの預言の直接的な実現は、前章の終わりまでに述べられていた順番通りである、とするなら、まずユダヤ人の改心と回復が行われ、彼らに聖霊の注ぎがあり、ゴグとマゴグの滅亡の後に、行われるのだろう。
 
40:3 神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。
 
ここに、姿は青銅の姿のような人(イシュ:男)が現れた。
このように、通常の人ではない人が、はかりざおを持って現れて、これから起こるべき事が告げられたのは、ゼカリヤも、使徒ヨハネも経験している。(ゼカリヤ2:1、黙示録1:15)
 
エゼキエル40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
40:5 見よ、宮の外の周囲に、かきがあり、その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。彼が、そのかきの厚さを測ると、一さおあり、高さも一さおあった。
 
エゼキエル書は、これ以降、神殿の詳細な様子と寸法が、次々と示されて行く。
出エジプト記においても、神殿の前身である幕屋と、そこに属する諸々の祭具の詳細な様子と寸法が、示されていた。
 
建築物や諸々の道具というものは、正確な寸法が示されないなら、実際に建てる事はできない。
もし建築家が、どんぶり勘定な寸法の設計図が手渡されたなら、叩き返すだろう。
それは、無理もない事である。
 
ところで私達は、「イエス様という神殿の本体」を、どんぶり勘定で測ったりしていないだろうか?
「私達という神殿」の人生設計をする時、私達は、正確な”ものさし”を用いて、正しく寸法を測っているだろうか?
どんぶり勘定など、していないだろうか?
 
私達は、正確な寸法を計るために、真正の「ものさし」を使わなければならない。
その真正のものさしとは、何か。
 
ここで、「さお」と訳されたヘブライ語は「カーネ」、「カノン」の元の言葉で、全ての基準、また規範を表わす言葉である。
まことのカノン、すなわち、全ての完全なる基準は、神の御言葉以外の、何者でもない。
 
ところで、エゼキエル40章においては、当時用いられていたキュビトに、一手幅が追加されたキュビトが用いられている。
 
当時のイスラエルで用いられていたキュビトは、ひじから指先までの長さ(およそ44.5)であったが、ここでは、一手幅が追加されたキュビト(およそ51.9僉砲、神殿やそれに付随する聖なるものを計る基準として、用いられているのだ。
エゼキエルに示された幻の神殿は、この、従来のキュビトに一手幅を足したものさしを用いて、計られていく。
 
では、一手幅が加えられる事には、何の意味があるのだろうか。
 
この幻は、いつ与えられたか。
それは、ほふられるべき犠牲の羊を、準備するべき日に、だった。
ほふられるべき犠牲の羊は、十字架でほふられるイエス様をあらわしている。
だから、ここに足された一手幅は、まさにイエス様の御手をあらわしているのではなかろうか。
 
神殿の本体はイエス様であり、そして、現代の私達キリスト者は、イエス様を宿らせた、神の神殿である。
 
私達が、イエス様を測る時、そして、私達クリスチャン自身を測る時、旧約のトーラーという、従来の古いものさしだけで測っても、正確なはかりは出来ない。
私達・人間は、旧約のトーラーだけで計ると、どうしても目方が足りない、不完全な者であり、イエス様の十字架抜きの旧約聖書は、ユダヤ人が今そのジレンマに陥っている通り、救いは無い。
 
十字架のキリストの手が加えられたものさしで計らなくては、「聖なるもの」を、正しく計測出来ないのだ。
 
ユダヤ人は、トーラーという、古いものさしは持っているものの、「十字架の手」は持っていない。
また、キリスト者は、「十字架の手」は持っているものの、多くは、トーラーという「ものさし」を軽んじている。
 
ユダヤ人は結局、手幅の足りないものさしで計り続けているため、救いを得られないし、また、クリスチャンも、もし旧約聖書を軽んじているとするなら、彼らは「手幅」だけで測っているようなものである。
 
だから私たちは、旧約聖書と、十字架の手の、両方を兼ね備えた「ものさし」で、計るべきである。
終わりの時代において、主人公となる人とは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」と書かれてある。(黙示録12:17、14:12)
 
だから、旧契約と、新契約の御言葉を、そのまま暗唱し、テフィリンする事が大事なのである。
それによって、正しいものさしを、私達の心に、脳に、刻みつける事が出来、その人は、「歩く正しいものさし」になれるのだ。
その人は、行く所どこでも栄え、何をしても成功する。(詩篇1篇、ヨシュア記1:8)
 
エゼキエルは、この、正しいものさしを持っているお方が、次々と神殿を計測して、その計測結果が与えられれば、与えられる程に、主からの示しや預言が次々と与えられて行く。
このはかりで測るなら、測るほど、いのちを生き返らせる水が、さらに深く、深くなって行き、そのいのちの川を、測って行けば行く程、潤いが増し、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行き、漁師までも住む場所となって行く。
 
ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。
 
主の栄光を、全地に満たして行くのは、誰だろう。
それは、旧新約の御言葉をテフィリンした事によって、正しいはかりを手にする、私達テフィラーである。
 
エゼキエルのミッションは、以下だった。
 
エゼキエル40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
 
イエス様も、言われる。
イエス様にあって見たこと、聞いたことを、あかししなさい、と。
全世界に出て行って、福音を伝えなさい、と。
 
イエス様は既に、いっさいの権威が、与えられ、そして彼は、世の終わりまで、いつも私たちと共におられる。
 
海が水で覆われているように、 主の栄光をさらにこの地へと満たして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エゼキエル書講解説教

ゴグに対するさばきとイスラエルの回復(エゼキエル39章)

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38章につづき、神の民の敵であるゴグに対するさばきが述べられている。
ゴグは、終末の時、神の民イスラエルに敵対し連合する国々の長である。
 
今の世界の情勢を見ても、聖書の言葉に反し、キリスト者に敵対する、一連の者達がいる。
彼らは、平和を標榜しつつも、武器をもって人々を圧迫したり、暴力を振るったり、殺したり、と、好き放題に暴虐を行っている。
 
なぜ彼らは、いとも簡単に、嘘をつくのか。
なぜ彼らは、いとも簡単に、人を殺すのか。
イエス様がその理由を言っている。
 
『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
 
彼らは普段から、頭の中で、ふつふつとした欲求、すなわち、殺したい、暴れたい、盗みたい、支配したい、そういった暴力的な欲求があって、あるきっかけを通して、それができるようになると、彼らの頭の中にあったものを、たちまち彼らの手で現実化させるのだ。
終わりの時に、ゴグとマゴクがそのような事をするのは、サタンがそそのかしたからではあるが(黙示録20:8)、結局、サタンに用いられる”取っ掛かり”となるものを我が物として握りしめていたのは、彼らである。
すなわち、殺意や暴力、強奪といった、サタンが好む欲求を彼らは普段から思い巡らし、それを手放さず、きよく聖であられる神に立ち返る事を、好まなかったため、サタンのそそのかしに、いともあっさり同意してしまうのだ。
 
そのような彼らの、思いの中に秘められた悪が「あらわ」にされるために、主は彼らを、イスラエルの山々に連れてこさせる。
 
エゼキエル39:1 人の子よ、ゴグに向かって預言して言え。主なる神はこう言われる、メセクとトバルの大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。
39:2 わたしはあなたを引きもどし、あなたを押しやり、北の果から上らせ、イスラエルの山々に導き、
 
ゴグがイスラエルを攻撃するのは、ゴグをさばかれる主の御手による。
主がモーセの時代、イスラエルを奴隷として、虐待し、頑として手放さなかったエジプトを、かえって、主の栄光のために用いられたのと同じように。
 
彼らは、様々の武器をもって、好き放題の暴虐を行おうとするが、主ご自身が彼らの武器を叩き落とし、彼らを倒される。
 
39:3 あなたの左の手から弓を打ち落し、右の手から矢を落させる。
39:4 あなたとあなたのすべての軍隊およびあなたと共にいる民たちは、イスラエルの山々に倒れる。わたしはあなたを、諸種の猛禽と野獣とに与えて食わせる。
39:5 あなたは野の面に倒れる。わたしがこれを言ったからであると、主なる神は言われる。
 
ゴグの軍隊は全滅し、大量の死体が放置される。
主は、攻めてきた軍隊だけでなく,ゴグの連合軍の国、そのものもさばかれる事が、以下、記されている。
 
39:6 わたしはゴグと、海沿いの国々に安らかに住む者に対して火を送り、彼らにわたしが主であることを悟らせる。
39:7 わたしはわが聖なる名を、わが民イスラエルのうちに知らせ、重ねてわが聖なる名を汚させない。諸国民はわたしが主、イスラエルの聖者であることを悟る。
39:8 主なる神は言われる、見よ、これは来る、必ず成就する。これはわたしが言った日である。
 
主は、イスラエル現地に攻めてきた軍隊のみならず、本国にも、さばきの手をのばす。
ここで主は、「わたしが主であることを悟らせる」と、2回も語られた。
すなわちこれらの事は、主の聖なる御名が、イスラエルと諸国の民に、大いに証しされるために行われるのである。
 
39:9 イスラエルの町々に住む者は出て来て、武器すなわち大盾、小盾、弓、矢、手やり、およびやりなどを燃やし、焼き、七年の間これを火に燃やす。
39:10 彼らは野から木を取らず、森から木を切らず、武器で火を燃やし、自分をかすめた者をかすめ、自分の物を奪った者を奪うと、主なる神は言われる。
 
さらに記されているのは、イスラエルの民が、七年間もかけて敵の残した武器を、たきぎ代わりに火で燃やす事だ。
それは、敵の武器がいかに多かったかを物語っており、そしてこれからは、こうした武器は、もはや必要がなくなる事を示している。
また、自分をかすめた者をかすめ、自分の物を奪った者を奪う、と書いてある通り、神の民は、あらゆる奪われたものを取り戻す。
 
さらに11-16節には、攻め寄せて来たゴグの連合軍の死体を片付ける、イスラエルの人々について、記されている。
 
39:11 その日、わたしはイスラエルのうちに、墓地をゴグに与える。これは旅びとの谷にあって海の東にある。これは旅びとを妨げる。そこにゴグとその民衆を埋めるからである。これをハモン・ゴグの谷と名づける。
 
海とは死海の事であり、ハモン・ゴグとは、「ゴグの群衆」の意味である。
 
39:12 イスラエルの家はこれを埋めて、地を清めるために七か月を費す。
 
敵の死体を埋めるのに、7ヶ月もかかる。
それは、敵の数が、どんなに多かったかを示している。
 
39:13 国のすべての民はこれを埋め、これによって名を高める。これはわが栄えを現す日であると、主なる神は言われる。
39:14 彼らは人々を選んで、絶えず国の中を行きめぐらせ、地のおもてに残っている者を埋めて、これを清めさせる。七か月の終りに彼らは尋ねる。
39:15 国を行きめぐる者が行きめぐって、人の骨を見る時、死人を埋める者が、これをハモン・ゴグの谷に埋めるまで、そのかたわらに、標を建てて置く。
39:16 (ハモナの町もそこにある。)こうして彼らはその国を清める。
 
ハモナは、大群衆を意味する。大群衆のような死体の数々を埋めるのだ。
彼らは、国の中から死体を見つける担当を立てて、注意深く死体を探し、そして見つけたなら、それをハモン・ゴグの谷に持っていって、埋める。
それは、「きよめ」のためである。
死体は汚れをもたらせるからだ。
 
39:17 主なる神はこう言われる、人の子よ、諸種の鳥と野の獣とに言え、みな集まってこい。わたしがおまえたちのために供えた犠牲、すなわちイスラエルの山々の上にある、大いなる犠牲に、四方から集まり、その肉を食い、その血を飲め。
39:18 おまえたちは勇士の肉を食い、地の君たちの血を飲め。雄羊、小羊、雄やぎ、雄牛などすべてバシャンの肥えた獣を食え。
39:19 わたしがおまえたちのために供えた犠牲は、飽きるまでその脂肪を食べ、酔うまで血を飲め。
39:20 おまえたちはわが食卓について馬と、騎手と、勇士と、もろもろの戦士とを飽きるほど食べると、主なる神は言われる。
 
実に凄惨な光景だ。
これと同じ光景は、黙示録19:17-18にも、示されている。
黙示録とエゼキエル書の両方に示された、という事は、この事は、確かに起こる、という事である。
 
これを見て「そのような事をする神はひどい」と思う人は、そう言う事によって、自分自身を、定めてしまっている。
自分は神に敵対する者だ、と定め、自分自身は神の民を食い物にしようと企む者だ、という事を定め、そしてやがて、主ご自身によって返り討ちにあい、自分の死体は、空の鳥や、野の獣に、食われてしまう側の者、として、定めてしまっている。
 
私達・神の民は、むしろこれを見て、自分が忍耐して行っている主わざは、やがて報われるのだ、と確信するべきである。
そして、自分がクリスチャンだ、という事で、迫害している人達が、やがてこのようになってしまうのだ、という事を思い、彼らがそうならないように、ますます執り成し祈るべきだ。
 
さらに、21‐29節には,イスラエルの回復が記されている。
 
39:21 わたしはわが栄光を諸国民に示す。すべての国民はわたしが行ったさばきと、わたしが彼らの上に加えた手とを見る。
39:22 この日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを悟るようになる。
39:23 また諸国民はイスラエルの家が、その悪によって捕え移されたことを悟る。彼らがわたしにそむいたので、わたしはわが顔を彼らに隠し、彼らをその敵の手に渡した。それで彼らは皆つるぎに倒れた。
39:24 わたしは彼らの汚れと、とがとに従って、彼らを扱い、わたしの顔を彼らに隠した。
 
バビロン捕囚という事件が起きたのは、主が無力でイスラエルを助けられなかったから、ではない。
むしろ、神の民が主の契約に反し、罪をを犯し、多くの預言者を通して警告が為されても、その行いを改めなかったために、ついに起こされた神の裁きだった。
それを、神の民も、そうでない人達も、明らかにそれを知るために起こされたのだ、という事を、彼らがわかるようになるためだと書いてある。
 
39:25 それゆえ、主なる神はこう言われる、いまわたしはヤコブの幸福をもとに返し、イスラエルの全家をあわれみ、わが聖なる名のために、ねたみを起す。
 
主が捕われ人を帰らせ、イスラエルの全家を憐れむのは、主の聖なる名のための熱心による。
イスラエルが回復するのは、イスラエルが何かいいことをするからではなく、ただ、主ご自身が締結した、主の聖なる契約の故に、である。
 
39:26 彼らは、その国に安らかに住み、だれもこれを恐れさせる者がないようになった時、自分の恥と、わたしに向かってなした反逆とを忘れる。
39:27 わたしが彼らを諸国民の中から帰らせ、その敵の国から呼び集め、彼らによって、わたしの聖なることを、多くの国民の前に示す時、
39:28 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを悟る。これはわたしが彼らを諸国民のうちに移し、またこれをその国に呼び集めたからである。わたしはそのひとりをも、国々のうちに残すことをしない。
 
主は宣言される。
主の民を全世界から集め、しかも、ひとりも国々の内に残される者はない、という「徹底的な回復」を。
その全ては、ただ100%、主のわざによる。
 
39:29 わたしは、わが霊をイスラエルの家に注ぐ時、重ねてわが顔を彼らに隠さないと、主なる神は言われる」。
 
主は、39章の最後で、「わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と宣言された。
結局、主とその民との正常な関係の回復は,「主の御霊」の働きによるものである。
 
今、2021年現在、確かにイスラエルの一部の人々は、かの地へと戻って来た。
しかしそれは、完全な回復ではないし、また、彼らの有様を見ていると、ただ単に人が戻ってきた、というだけで、彼らはイエス様を信じていない。
また、私達がパレスチナ地方で行われている物事を見るに、とてもそれらのわざは、きよく聖なる神の霊による、とは見えない。
 
彼らが全世界から集められた事は、確かに奇跡は奇跡である。
しかしそれは、散り散りになってしまった骨々が、集まって、人の形を回復しただけに過ぎない有様である。
 
エゼキエル書37章に、枯れた骨々に満ちた谷の預言が示されていたが、そのイスラエル全家の回復は二段階である、という事が、示されていた。
最初は、散らばっていた骨々が集まり、それが人の成り立ちを回復する様が預言されていたが、第一段階では、まだ、神の息は無く、人の形をしたマネキン集団のようだった。
しかし、主の息が四方から吹いて来て、それが彼らの中に入ると、それは息を吹き返し、主の御前における大軍団、グレイト・アーミーとなった。
 
やがて、世界中に散らされたイスラエルの人々がさらに集まって、彼らに主の霊が吹き付ける時が来る。
今、そのように、主の霊が吹き付けられ、イエス様を信じたユダヤ人が多数いる。
コーエン大学総長の、ゲイリー・コーエン博士も、その一人だ。
 
結局、これらの事が起きるのは、主が全国民に対して主の栄光を現すためなのだ。
 
イザヤ45:5 わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。
45:6 これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを/知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。

エゼキエル書講解説教

マゴクとゴグによるイスラエル包囲(エゼキエル37:15-28)

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36-37章では、全世界に散らばったイスラエルの民が、帰還し復興する事が語られ、そして、
まことのダビデであるイエス・キリストが、羊飼いとして牧する事が示された。
続く40章以降では、新しい神殿の幻が示される。
 
しかし、それにはさまる形で、神の民はなお、敵対する強大な勢力に囲まれ攻撃される事が、預言されている。
しかし最終的には、主ご自身が、それらの敵を圧倒的に一掃し、主の民を救って下さり、結局、主の栄光と力が大いに示される。
 
38:1 主の言葉がわたしに臨んだ、
38:2 「人の子よ、メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグに、あなたの顔を向け、これに対して預言して、
38:3 言え。主なる神はこう言われる、メセクとトバルの大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。
 
ここにマゴクとゴグが登場した。
それは、ヨハネの黙示録20章にも登場する。
 
20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
 
ゴグとマゴク、これらの国々は、一体どこだろう。
それは、イスラエルから見て「北の果てにある国々」と、エゼキエル38:15に書いてある。
だから、それはイスラエルの周辺諸国ではなく、もっと遠くの、北の国という事で、特にロシアと見られている。
 
なお、日本語訳で「メセクとトバルの大君」の「大君」は、ヘブライ語ではロシュという語で、「頭」とか「リーダー」という意味であるが、それはNKJVやASV、文語訳では、固有名詞「ロシュ(ロシ)」と訳されている。
文語訳:「ロシ、メセクおよびトバルの君たるマゴグの地の王ゴグ」
 
ロシュはロシアを、メシェクはモスクワを示している、とするなら、地理的にも、地名的にも、一致している。
それがイスラエルに、多くの連合国を連れて、大軍で攻め寄せてくるのだ。
 
38:4 わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。
38:5 ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
38:6 ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。
38:7 備えをせよ。あなたも、あなたのところに集められた全集団も備えをせよ。あなたは彼らを監督せよ。
 
ペルシヤは今のイラン、クシュはエチオピヤ、プテはリビヤである。
ゴメルはカッパドキア、ベテ・トガルマはアルメニアと考えられている。
 
38:8 多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる
 
まさに現在のイスラエルが、それに近いだろう。
イスラエルは久しく廃墟だったが、剣の災害から立ち直り、国々から連れ出され、
1948年、イスラエルが独立宣言した。
その直後、周囲の諸国が攻めて来て、第一次中東戦争や六日戦争など、危機的状況に陥ったが、いずれも、イスラエルが勝利した。
 
私達・異邦人から見れば、イスラエルはまだまだ「安心して住んでいる」とは見えないかもしれないが、本人達としたら、20世紀に比べて、遥かに安心して住んでいるし、これから後、さらに同盟を結ぶなどして平安になって行く事も大いにありうる。
 
しかしやがて、北の国々が連合し、大軍をもってイスラエルを囲む事になる。
 
38:9 あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。
 
黙示録16章には、終わりの時代の戦争において、ユーフラテス川が枯れて、王たちは軍隊を率いて、その渇いた所を通り、ハルマゲドンと呼ばれる所に終結する事が書かれてある。
 
ハルマゲドンの意味は「メギドの山」であり、軍隊が召集される広い平地(黙示録20:9)は、カルメル山の裾野に広がっているメギドの平野であると思われる。
そこは、エジプトから東方トルコへと通じ、ヨーロッパからエジプトへと行く道の要所で、歴史的に戦争が多かった地である。
 
38:10 神である主はこう仰せられる。その日には、あなたの心にさまざまな思いが浮かぶ。あなたは悪巧みを設け、
38:11 こう言おう。『私は城壁のない町々の国に攻め上り、安心して住んでいる平和な国に侵入しよう。彼らはみな、城壁もかんぬきも門もない所に住んでいる。』
38:12 あなたは物を分捕り、獲物をかすめ奪い、今は人の住むようになった廃墟や、国々から集められ、その国の中心に住み、家畜と財産を持っている民に向かって、あなたの腕力をふるおうとする。
 
北からの軍隊が、イスラエルを攻めようとする動機は、イスラエルはその時、とても肥沃で潤った地となり、経済的にも潤った国として彼らの目に映り、しかも、無防備で、攻めこみやすい地、として映るからだ。
 
38:13 シェバやデダンやタルシシュの商人たち、およびそのすべての若い獅子たちは、あなたに聞こう。『あなたは物を分捕るために来たのか。獲物をかすめ奪うために集団を集め、銀や金を運び去り、家畜や財産を取り、大いに略奪をしようとするのか。』と。
 
周辺の国々は、北の国々がイスラエルを攻め込んで来る事を驚き、咎める。
確かに、2021年現在の情勢では、ロシアがイスラエルを攻め込む理由など全く考えられないし、それはあまりに突飛な事と思える。
しかし今後、どういう情勢になるのか、私達には分からないにしても、やがて、その事は起きる。
なぜならサタンが、ゴグとマゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集するようにさせる、と書いてあるからである。(黙示録20:8)
 
38:14 それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。
38:15 あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。
38:16 あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
 
私達が注目すべきは、主は、主の民が取り囲まれ、滅ぼされるのを、みすみす見過ごすような事はしない、という事だ。
 
なぜ神は、神の民の敵を、つけあがらせ、神の民を取り囲む事を、許されるのか。
それは、「諸国の民の目の前に、主の聖なることを示し、彼らが主を知るため」である、と書いてある。
 
ちょうど出エジプトの時、エジプトの横暴を、敢えて許可し、そのエジプトから神の民を救い出す事によって、主が、当時の世界において、圧倒的な栄光を受け取られたように。
 
38:17 神である主はこう仰せられる。あなたは、わたしが昔、わたしのしもべ、イスラエルの預言者たちを通して語った当の者ではないか。この預言者たちは、わたしがあなたに彼らを攻めさせると、長年にわたり預言していたのだ。
 
この事が起きる、と、エゼキエル書や黙示録に、確かに預言された事を、現代の私達は見る事ができる。。
今や、世界中の人が手にとって読める、世界のベストセラー・聖書である。
世界中の人々が、あらかじめ、この事が起きる、と、かなり具体的に読んだ。
啓示録にも書いてある。
 
20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
 
そうであるからには、これらの預言が、自分に当てはまりそうな国々や人々は、気をつけて、自分が滅びないように、イスラエルに攻め込まないように気をつけてもいいはずである。
(なお、ロシアのプーチン大統領は今でも、エゼキエル38章を開いていて、これは自分達のことについて書かれてある事を肝に銘じている、と、コーエン韓国の授業で聞いた。)
 
それにもかかわらず、悪辣な者達は、神の民にちょっかいを出したがるのである。
それは、彼らが、書かれてある事を信じないからであり、また、サタンが、彼らの神に対する恐れを、麻痺させるからである。
 
38:18 ゴグがイスラエルの地を攻めるその日、――神である主の御告げ。――わたしは怒りを燃え上がらせる。
38:19 わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。
38:20 海の魚も、空の鳥も、野の獣も、地面をはうすべてのものも、地上のすべての人間も、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、がけは落ち、すべての城壁は地に倒れる。
 
終わりの時代に大地震が起こって、神に敵対する者達を脅かす事は、黙示録でも複数箇所に記されている。(8:5, 11:13,19, 16:18)
 
38:21 わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる。――神である主の御告げ。――彼らは剣で同士打ちをするようになる。
38:22 わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる。
 
敵同士を剣で同士討ちさせる事は、主の、敵を滅ぼす常套手段であり、疫病や豪雨、雹や火や硫黄は、主のさばきの手段である。
結論として、これら全ての事を通して、主が栄光をお受けになるのである。
 
38:23 わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
 
イスラエルも、また私達も、神様から祝福されると、何かと「自分の力でやった」と高慢になりやすい。
そのような時、神様は、どうにもこうにもできない絶望的な状況へと陥れ、もはや助けを求めるのは神様しかいない、という、ぎりぎりの状況へと持ち込み、そこに、主が、人には思いもよらない、主がして下さったとしか言いようが無いような、奇跡的な助けの手を差し伸べ、そうして、否が応でも、主があがめられる、という事を、なさるのである。
 
本当に、私達は、はじめから高慢になったりせずに、いつも主に栄光を捧げ、絶えず感謝を捧げる者であるべきである。

エゼキエル書講解説教

主が聖別して下さった故に(エゼキエル37:15-28)

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4-5章において、主は、エゼキエルによる「実演」を通しての預言を与えられた。
粘土板に包囲されたエルサレムの町を彫って、自分とこの粘土板との間に鉄の平なべを立てたり、左わきを下にして横たわったり。
その時は、バビロン捕囚前で、それらの実演は、イスラエルの民に警告を与えるための、実演の預言だった。
 
そしてバビロン捕囚後、久しぶりの、実演による預言をするよう、主は、エゼキエルに指示された。
その内容は、希望に満ちたものだった。
 
37:15 主の言葉がわたしに臨んだ、
37:16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。
37:17 あなたはこれらを合わせて、一つの木となせ。これらはあなたの手で一つになる。
 
ユダは、南ユダ王国を代表する部族、エフライムは、北イスラエル王国を代表する部族である。
それを象徴する2つの木を、彼の手の中で、ひとつにしなさい、と言われた。
 
なお、ここの「木」は、ヘブライ語で「エツ」、意味は、木、棒、杖で、新改訳では「杖」と訳されている。
日本語で「杖」と訳されるヘブライ語は、他にも「シェベット(19節)」、「マテー(創世記38:18)」があるが、いずれも、一族や部族、権威のしるし、という意味も持っている。
 
創世記38章では、ユダの息子嫁タマルは、彼の子シェラが夫として与えられないのを見ると、彼女は遊女の格好をして、ユダの前に現れた事が記されているが、彼女を遊女だと思ったユダは、彼女と寝る報酬の証拠のひとつとして、「ユダの杖」を預けた。
タマルは、この時に身ごもり、ユダの部族は、この時タマルから生まれた子達を通して広がって行き、ついには、支配の杖を持つダビデ王が出て、さらには、鉄の杖をもって全世界を治めるイエス・キリストが出るまでに至った。
 
37:20 あなたが文字を書いた木が、彼らの目の前で、あなたの手にあるとき、
37:21 あなたは彼らに言え。主なる神は、こう言われる、見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
37:22 その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。
 
それが起こるとしたら、人間わざにはできない、神業と言わざるを得ない。
なぜなら北王国は、BC722年にアッシリヤによって滅ぼされ、全世界に散らされたが、アッシリアの政策は、戦争で捕虜とした国民を自分の文化に同化・吸収させていたため、今や、北イスラエル王国10部族はどこに行ってしまったのか分からなくなってしまっており、「失われた10部族」と言われている。
 
それでも、主は「する」と言っておられる。
主が「する」といっておられる、からには、その預言はやがて実現し、全世界は、神こそ主である事を知るようになるだろう。
 
それ以上に、散り散りになったイスラエル民族を集める、というのは、単に、血肉のイスラエルを集める以上の意味がある事を、続く節から知ることができる。
すなわち「新契約」によって、全世界から神の民がひとりの牧者、イエス・キリストの元に集められる約束である。
 
37:23 彼らはまた、その偶像と、その憎むべきことどもと、もろもろのとがとをもって、身を汚すことはない。わたしは彼らを、その犯したすべての背信から救い出して、これを清める。そして彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる。
 
この事は、新契約によって与えられる新しい心がなせるわざである。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。』(エゼキエル36:26)
さらに、まことの牧者が彼らを治める約束が与えられる。
 
37:24 わがしもべダビデは彼らの王となる。彼らすべての者のために、ひとりの牧者が立つ。彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う。
37:25 彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む。これはあなたがたの先祖の住んだ所である。そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永遠に住み、わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となる。
 
34章の「しもべダビデ」が、再び言及された。
良き「しもべ(エベド)」とは、主人の意向をそのまま行う人で、主の意向をそのまま行う「しもべ」こそ、神の国における良きリーダーである事を学んだ。
イエス・キリストこそ、父なる神から仰せられた事を、そのまま行い、十字架の死に至るまで、従順を貫かれた。
それで、父なる神は、すべてに勝る名を彼にお与えになったのである。
 
主の言葉への従順の度合いが、高ければ高いほど、すなわち、「主のしもべ」の度合いが、高ければ高いほど、主から多くを任せられ、より多くを支配するのである。
 
そして26節以降に、永遠の契約、新契約が預言されている。
 
37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。
37:27 わがすみかは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。
 
主は、契約によって彼らを祝福し、増やし、そしてなんと、彼らの中に聖所を置く、というのだ。
新約においてはまさに、私達こそ神の神殿であり、私達の内に、キリストが住み、聖霊が住んでおられる。
主が「聖別」して下さるからである。
 
37:28 そしてわが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟る」。
 
「聖別」のヘブライ語は「カダシュ」であるが、聖別には、二つの意味がある。
 
一つは「委任する」という意味である。
主は、その民に、これこれの事をする者として任命してくださる。
主からの任命があるなら、知恵と力とわざが泉のように湧き上がり、疲れない。
油注ぎもないのに、また任命もないのに、その仕事に勝手なあこがれをもって、しようとすると、何も思い浮かばず、また力も沸かない、ただ苦痛な日々を送るしかない。
逆に、任命が与えられたのにそれをしないとするのも、同じくただ苦痛な日々を送るしかない。
 
「聖別」の 二つ目の意味は、「聖とする」である。
聖別とは、簡単に言えば「分離」であり、けがれた者からきよい者へ、悪どい者から良い者へ、俗なる者から聖なる者へ、主から遠かった者が、主に近い方向性で、どんどん分離して行くのだ。
 
主の御名のうちの一つに、「聖別する主(Jehovah Mekaddishkem ジェホバ・メカディシケム)」がある。
それは、出エジプト記31:13において示されている。
 
出エジプト記31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。
31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。
 
聖別された民にとって必須の条件は、安息日を守ること、すなわち、創世記1−2章にある通り、主が全てを完成し、安息に入った事を、私達もおぼえる事である。
もし、主の安息を覚えず、敢えてその日に世の仕事をして、主の完成してくださった事が、あたかも不完全であるかのようにみなすなら、その者は、神の民から絶たれる事が書かれてある。
 
主は、主を羊飼いとする人には、油を注いで、聖別し、また任職して下さる。
それも、敵の面前で。
『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。』(詩篇23:5)
 
主を敬わない敵と、主を敬う主の民を、主がご覧になる時、主は、主を敬う側に御顔を向け、敵の面前で彼らに食宴を設け、そして油を注いで下さるのだ。

エゼキエル書講解説教

ひからびた骨がグレイト・アーミーへ(エゼキエル37:1-14)

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エゼキエル37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。

 
エゼキエルは、久しぶりに幻をいただいた。
最後に幻が与えられたのは、11章だった。
11章の幻の最後で、主の栄光は、エルサレムの真中から上り、東の門から出て山の上にとどまり、こうして主の栄光は、町の外へ去ってしまった。
その後、ネブカデネザル王が攻めて来て、城壁は破壊され、栄光の神殿も破壊され、イスラエル全家は全地に散り散りに散ってしまった。
まさにそのような、とても暗い状況の中である。
 
37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
 
ひからび尽くしてしまった、骨、骨、骨。
これらの骨は、11節にある通り、殺されたイスラエルの民をあらわす。
まさに当時のイスラエルの状況が、それである。
ダビデ王が建てた堅牢なエルサレム城壁も、そして、彼らの霊的よりどころであった、金銀でふんだんに飾られた豪華絢爛な神殿も、ネブカデネザルによって破壊しつくされ、生き残ったイスラエルの民も、散り散りバラバラにされてしまった。
 
その、破壊されてしまった原因は、神の民たる聖徒が、主の契約に違反して、主から離れ、上から下まで堕落し、預言者たちからの警告を受け続けて来たにもかかわらず、それを改めなかったためだ。
 
それで、主の栄光はエルサレムから離れ、その後、ネブカデネザルの軍団が攻めて来て、打ちのめされてしまった。
それが、この、ひどく干からびた骨々の状況である。
 
主は問われる。
 
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
 
そうである。
枯れてしまった骨々のような人が、生き返るかどうか。
その答えについて、私達には、Yesの分も、Noの分も、ない。
ただ、主にかかっている。
干からびた骨となってしまったような人生が、よみがえって、人の成り立ちを取り戻し、また、主の大勇士、大軍団となるかどうかは。
 
エゼキエルは主から「人の子(ベン・アダム)」という特別な呼ばれ方で呼ばれている。
私達も、人の子である。
主は、エゼキエルのみならず、私達という「人の子」にも、命じられるのだ。
 
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
 
「息」のヘブライ語はルーアハ、「息」のほかに、「霊」「風」を表す。
私達も、主のおおせられた言葉、すなわち、聖書の御言葉を、信じて、そのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。
干からびた骨のような相手、状況、あるいは、干からびた骨のような、自分自身にも。
 
37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
 
4節で命じられていた事は、骨に向かって預言し、主のことばを聞かせる事だった。
確かに骨はつながり、人の成り立ちにまでは戻った。
しかし、その中に「息(霊)」は無かった、と書いてある。
 
主の言葉を宣言するなら、確かに、干からびた骨のような人、モノ、コト、状況を、人並みの状態へと戻される。
そのようにされたキリスト者は、大勢いる。
 
しかし、御言葉を聞いて、人並みになったとしても、神の息、すなわち、聖霊がまだ無い状態であるなら、神の御前においては、マネキンのように、動けない、死んだも同然の状態なのだ。
 
マネキンが、力強い軍団へとなるためには、神の息、聖霊が必要である!
私達も、この口をもって、聖霊を求めるべきだ。
イエス様は言われた。
 
ルカ11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
・・・
11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
 
人の子である私達も、聖霊が四方から吹いて来るように、語るべきである。
 
37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
 
10節の「集団(ハイル)」は、KJVでは「great army」と訳されている。
ハイルは、軍団、勇士、厳粛な者、富んだ者、という意味であり、そしてこのハイルは、有力者ボアズに、厳粛な女ルツに、勇士ギデオンに、ダビデに与えられた称号である。
弱く臆病な者は強くされ、貧しく何も無かった者は、富んだ者とされ、異邦生まれの者が、栄光の王族の家系へと組み入れられた。
それが、ハイルである。
マネキンのような人間であったとしても、主の霊が吹き付けるなら、ハイルへと、すなわち、全世界を福音へと導くグレイト・アーミーとなり、有力者となり、勇士とされるのだ。
 
37:11 そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。
 
この骨は、イスラエルの全家の事である、と書いてある。
 
37:12 それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
37:13 わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
37:14 わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。
 
主はまさに、イスラエルに、その通りにしてくださった。
バビロン捕囚によって国が失われ、2500年ほども全世界に散り散りバラバラにされてしまったイスラエルを、再び、かの地へと戻して下さった。
 
私達も、同じである。
私達キリスト者は、イスラエルへと接ぎ木された者達だからだ。(ローマ11章)
主は、私達をも、このような”エグい”までによみがえらせ、墓から引き上げ、神の息を与えて、ハイルとしてくださり、そしてやがて、天のまことのエルサレムへと導かれるお方だ。
 
もし、御言葉と礼拝をおろそかにし、主がしてはならないと言われていた悪い事をし続け、警告を受け続けても、改めないなら、彼らのように、散り散りバラバラの、ひからびた骨になってしまう。
彼らに起こったことは、私達に対する警告なのだ。
 
しかし、たとえそうなってしまったとしても、主には、おできになる。
ひからびた骨となってしまった者を、グレイト・アーミーにする事を。
 
だから私達も、神の息、聖霊を求めるべきである。
イエス様の弟子達は、聖霊降臨の前は、大した事のできない、烏合の集団だった。
人の形はしていても動けないマネキンのようだった。
しかし、聖霊降臨以降、彼らは死をも恐れない、力強い神の軍団となり、全世界に出て行き、ローマ帝国を席巻し、ヨーロッパ、アジア、地の果てにまで、福音を広めて行った。
 
イスラエルは、人から出た名前ではなく、かかとを掴む者・ヤコブに、主から新しく与えられた、新しい名であった。
しかし彼は、主にしつこく掴む信仰の故に、主から「イスラエル」という名を頂いて、祝福してもらった。
 
主にしつこく求め、掴み、イスラエルとして建て上げられ、栄光のグレートアーミーとなる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エゼキエル書 講解説教

主の聖なる御名の回復によって始まる、祝福の回復(エゼキエル書36:16-38)

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イスラエルの回復が預言されているが、今回の箇所では特に、荒れ果てた土地の回復と、物質の回復と、人の回復と、そして、彼らの心と霊の回復が、預言されている。
 
ここで忘れてはならないのは、主人公は、人ではなく、主こそがイニシアチブを取られる主人公である、という事である。
 
それ故、人の回復の前に、まず回復しなければならないのは、主の御名であり、その事が、この節で、再三強調されている。
 
36:16 主の言葉がわたしに臨んだ、
36:17 「人の子よ、昔、イスラエルの家が、自分の国に住んだとき、彼らはおのれのおこないとわざとをもって、これを汚した。そのおこないは、わたしの前には、汚れにある女の汚れのようであった。
36:18 彼らが国に血を流し、またその偶像をもって、国を汚したため、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、
 
主はまずイスラエルの汚れた行いとわざを思い起こさせた。
なぜなら、罪を犯した人が回復されるためには、まず、自分がした事を、思い起こし、それを悲しみ、もう二度とそれをしない、という思いが起こされ、悔い改める事が、必要だからだ。
 
彼らは、 行ないとわざとによって、その地を汚した。
その行ないは、主の御前では、さわりのある女のように汚れている、と言われた。
さわりのある女は、彼女に触れる人も、彼女が触れたものや、座ったりしたものに触れるものも、汚れてしまう事が、律法において示されている。
 
彼らは、どんな行いとわざによって、その土地を汚したか。
それは、流した血と、偶像によってである。(18節)
 
その故に、主は、憤りを彼らに注いで、彼らは諸国の民の間へと散らされ、国々に追い散らされた。
主は、彼らの行ないとわざとに応じて、さばかれたのだ。(19節)
 
追い散らされた彼らは、行った先の国々でも、主の聖なる名を汚した。(20節)
そこで、主は、彼らによって汚されてしまった、主の聖なる御名を回復するために、事を起こされる。
 
主が事を起こされる理由は、イスラエルの人々のためでは無い。
彼らには、そのような分は、一切、無い(22節)。
ただ一方的に、主の御名の聖である事を、異邦人に、全世界に、知らしめるのである。
 
36:21 しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。
36:22 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。
36:23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。
 
この、21-23節には、主の御名の「聖(コデシュ)」である事が、何度も繰り返されている。
コデシュとは、神聖である事、別物である事、切り離されたものである事を意味する。
主の御名は、世のあらゆる名前や言葉とは、切り離して、神聖なものとして、特別視しなくてはならない。
 
主の御名が、初めて示されたのは、出エジプト記3:14である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』
 
「イェヒエ」は、存在をあらわすbe動詞「ハヤー」の、一人称単数未完了形である。
ヘブライ語で、未完了形は、動作が未だ終わっておらずにずっと続いている事をあらわす。
 
すなわち、神の「在る」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
それが、主の名前であり、アイデンティティである。
 
私達にとっての主の御名は、イエス様の名である。
イエス様は言われた。父とわたしは、一つです、と。
そして、わたしの名によって求めることは何でも、それをする、それは、御父が子によって栄光をお受けになるため、と、繰り返して言われた。(ヨハネ14:13-14)
 
これほどに尊い主の御名は、汚されてはならない。
特別視しなくてはならない。
 
しかし、神の民によって汚されてしまった。
それを主は、聖なる御名の回復のために、ご自身が事を起こされる。
 
そのために主がなされる事が、続く箇所において示されている。
 
まずは、神の民を、諸国の民の間から連れ出し、全ての国々から集め、彼らを、彼らが住むべき地へと、連れて戻す事。(24節)
そして彼らに、きよい水を振りかけ、清める事である。(25節)
 
イエス様は、十字架の上で、血と水を流して下さった。
私達は、それによって清められ、全く新しく創り変えられた。
新しく創り変えられた結果、何が与えられるか?
 
それは、新しい心、新しい霊である。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。』(26節)
 
イエス様の種まきのたとえ話に、岩地に蒔かれた種の話が出てくるが、岩地は、根っこがそれ以上伸びず、蒔かれた御言葉は、根を出してもすぐに枯れてしまう。
そのように、イスラエルは、御言葉が与えられても、すぐに罪を犯し、懲らしめられ、戒められても、すぐにまた罪を犯す歴史を、繰り返して来た。
 
主は、その、石の心を取り除き、いつまでも主に仕えられる「新しい心」「新しい霊」を与える、と、約束して下さった。
それが与えられるなら、主の言葉どおりに歩み、行動できるようになる。
 
36:27 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
 
さらには主は、その土地へ戻し、その地に住まわせ、物質的祝福をも、賜って下さる。
 
36:29 わたしはあなたがたをそのすべての汚れから救い、穀物を呼びよせてこれを増し、ききんをあなたがたに臨ませない。
36:30 またわたしは木の実と、田畑の作物とを多くする。あなたがたは重ねて諸国民の間に、ききんのはずかしめを受けることがない。
 
物質の回復において必要な条件は、心と霊の回復であり、心と霊の回復に必要な条件が、「主の御名こそ聖である」ことの回復である。
そして、主の御名が聖である事を、思い知るために、必要なものが、自分の罪を恥じ入る心である。
以下に記されている。
 
36:31 その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む。
36:32 わたしがなすことはあなたがたのためではないと、主なる神は言われる。あなたがたはこれを知れ。イスラエルの家よ、あなたがたは自分のおこないを恥じて悔やむべきである。
 
私達も、回復したいのであれば、自分の悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分の不義と、忌みきらうべきわざを心底恥じ、悔やむ感性が必要である。
罪や汚れを「恥じ入る」心があるなら、自分をきよくしようという努力が湧いて、生活が回復されて行くが、恥じ入る心が無いなら、それが沸き起こって来ず、生活を回復しようともしない。
日本人の高い道徳性は、この「恥」の感性が高いからであろう。
 
それが回復する時、主は、荒れ果てた地を回復される事を約束される。
 
36:33 主なる神はこう言われる、わたしは、あなたがたのすべての罪を清める日に、町々に人を住ませ、その荒れ跡を建て直す。
36:34 荒れた地は、行き来の人々の目に荒れ地と見えたのに引きかえて耕される。
36:35 そこで人々は言う、『この荒れた地は、エデンの園のようになった。荒れ、滅び、くずれた町々は、堅固になり、人の住む所となった』と。
36:36 あなたがたの周囲に残った諸国民は主なるわたしがくずれた所を建て直し、荒れた所にものを植えたということを悟るようになる。主なるわたしがこれを言い、これをなすのである。
 
実際、1948年、イスラエルが再建国し、ユダヤ人が戻ってきた。
それ以前は、沼地や荒れ地だったが、彼らが戻ってきた時、彼らはアブラハムにならって、ぎょうりゅうの木を植えた。
その結果、結果、そこはさかんに作物を産出する地となった。
土地の面積としては、四国ほどしか無いのに、たくさんの農産物を外国へ輸出するほどに産物が採れるようになったのだ。
 
さらに主は、人を戻し、人を増やす約束をも、しておられる。
 
36:37 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。
36:38 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
 
主が戻される人々は、「羊」の群れのよう、と繰り返されている。
例祭の時の羊は、主へと捧げられるいけにえである。
そのような主に捧げられた民が、大挙をなして、戻ってきて、廃墟であった町々に住むようになるのである。
とても素晴らしい事である。
 
しかし、これらの事をなされる理由は、「あなたのためではない」と言われた。
それは異邦人に、つまりは全世界に、主の栄光をあらわすためである。
主が異邦人に栄光をあらわされる理由は、異邦人を救いへと導くためなのだ。
 
この、素晴らしい事をして下さった主の御名こそ、大いにほめたたえられるべきである。

講解説教

土地から吐き出される者と、歓迎される者(エゼキエル36:1-15)

Youtube動画

今回の箇所は、イスラエルの人々に対して、ではなく、イスラエルの山々や丘々、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、見捨てられた町々に、である。
つまり、あちらこちらに動く人間に対して宣言されたのではなく、不動の土地に対して、である。
 
イスラエルの土地は、悪い人々によって荒廃してしまった。
その土地にとっては、悲むべき状況であったが、そこに、本来住むべき、神を畏れ敬う民が戻ってきて、再び、イスラエルの土地は礼拝によって回復される事が、示されている。
 
このような、イスラエルの山々に向けての預言は、6章にもあった。
6章の時点では、まだバビロン捕囚前、災が降る前だったが、そこを見れば、なぜイスラエルの山々が荒廃してしまったのかが、良くわかる。
 
エゼキエル6:1 主の言葉が、わたしに臨んで言った、
6:2 「人の子よ、あなたの顔をイスラエルの山々に向け、預言して、
6:3 言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は山と丘と、谷と川に向かって、こう言われる、見よ、わたしはつるぎをあなたがたに送り、あなたがたの高き所を滅ぼす。
6:4 あなたがたの祭壇は荒され、あなたがたの香の祭壇はこわされる。わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。
 
ここを見ると、イスラエルの山々において、偶像礼拝が行われ、主のねたみを起こしていた事がわかる。
主は度々、預言者を遣わして警告して来たが、民は、止めなかった。
警告を与えても、止めないなら、主は、強制的に、偶像礼拝が出来ないように、破壊しにかかられる。
それは、これに懲りて、二度と偶像礼拝をしないように、ただ、主だけをを礼拝するようにするために、である。
 
私達も、あまりに、主に忌み嫌われる事を止めないなら、あるいは、隠れてそれを行って誰も注意する人がいないなら、主ご自身が、それができないように、強制的に働きかけられる。
 
6:5 わたしはイスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、骨をあなたがたの祭壇のまわりに散らす。
6:6 すべてあなたがたの住む所で町々は滅ぼされ、高き所は荒される。こうしてあなたがたの祭壇はこわし荒され、あなたがたの偶像は砕かれて滅び、あなたがたの香の祭壇は倒され、あなたがたのわざは消し去られる。
6:7 また殺された者はあなたがたのうちに倒れる。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。
 
受けた災いの原因は、特に、偶像礼拝であった事が示されている。
偶像礼拝は、十戒の第二戒にある程、重要な禁止事項であるが、偶像とは、何も、神社仏閣に限ったものではない。
 
偶像礼拝とは、神ならぬものを、神以上に、神とする事だ。
つまり、お金や誰か人間、特定のイデオロギーなどを、神様以上に優先させているなら、それが、偶像礼拝状態である。
 
コロサイ3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
 
神ならぬものを、神以上に頼る時、主のねたみを引き起こす。
神様と私達の関係は、結婚関係と同じである。
それが、以下の節で分かる。
 
6:8 わたしは、あなたがたのある者を生かしておく。あなたがたが、つるぎをのがれて国々の中におり、国々に散らされる時、
6:9 あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した悪のために、みずからをいとうようになる。
6:10 そして彼らはわたしが主であることを知る。この災を彼らに対して下すと、わたしが言ったのは決してむなしい事ではない」。
 
主から離れるのは、姦淫の心であり、偶像を慕う目は、姦淫の目である事が、ここで示されている。
結婚とは、自分自身を結婚相手に対し、唯一・排他的な”異性”として、コミットする事である。
つまり、女性であるなら、相手の男性にとって唯一・専属的な「女」となり、男性であるなら、相手の女性にとって、唯一・専属的な「男」となる事である。
それ以外の相手に対し、自分を「男」「女」とするなら、それは、ねたみを引き起こす。
 
それと同じく、神様との契約関係は、自分自身を神様に対し唯一専属的な「民」とし、そして、神様を自分にとって、唯一専属的な「神」とするものである。
だから、偶像礼拝は、許されないのだ。
 
バビロン捕囚の前、神様はすぐには災いを下さず、預言者を通して何度も警告し、わたしに戻れ、戻れ、と言った。
しかし彼らは、霊的姦淫を止めなかった。
それでついに、時が満ちて、その災いの預言が実現してしまった。
それで彼らが、捕囚先で悔い改め、主に立ち返った時、幸いの預言が発せられる。
それが、36章である。
 
36:1 人の子よ、イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ、主の言葉を聞け。
36:2 主なる神はこう言われる、敵はあなたがたについて言う、『ああ、昔の高き所が、われわれのものとなった』と。
 
日本語には訳されていないが、英語の聖書では、2節の主の言葉は because(ヘブライ語ではヤアン、すなわち、「***なので」)で始まり、それを受けて、3-7節は全部、「それゆえ(ケン)」で始まっている。
つまり、2節を受けての、3-7節なのだが、それだけ、イスラエルをあざけって荒廃させた国々への「ねたみと憤り」(6節)の激しさを、主は示しておられる。
 
36:3 それゆえ、あなたは預言して言え。主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたを荒し、四方からあなたがたを打ち滅ぼしたので、あなたがたは他の国民の所有となり、また民の悪いうわさとなった。
36:4 それゆえ、イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と、丘と、くぼ地と、谷と、滅びた荒れ跡と、人の捨てた町々、すなわちその周囲にある諸国民の残った者にかすめられ、あざけられるようになったものに、こう言われる。
 
イスラエルは、徹底的な災いを受けて、民の語りぐさとなり、そしりとなった事が、書かれてある。
神の民が、災いのサンプルとして、語り草になる…。
そう、いかに、神の民といえども、神様以外のものを神とし、神のねたみを引き起こさせ、戒められても止めないなら、徹底的に打ちのめされ、語り草となってしまうのだ。
それは、私達にはあってはならない。
 
36:5 主なる神はこう言われる、わたしはねたみの炎をもって、他の国民とエドム全国とに対して言う、彼らは心ゆくまで喜び、心に誇ってわが地を自分の所有とし、これを奪い、かすめた者である。
36:6 それゆえ、あなたはイスラエルの地の事を預言し、山と、丘と、くぼ地と、谷とに言え。主なる神はこう言われる、見よ、あなたがたは諸国民のはずかしめを受けたので、わたしはねたみと怒りとをもって語る。
36:7 それゆえ、主なる神はこう言われる、わたしは誓って言う、あなたがたの周囲の諸国民は必ずはずかしめを受ける。
 
ここから、神様の燃えるねたみと憤りは、神の民をあざけり強奪した国々へと移行する。
神様は、確かに、神の民を打った。
しかしそれは、喜んでではなく、悲しみつつであった。
ちょうど、親が、子を懲らしめる時のように。
 
イスラエルが、神様から打たれているのを見て、調子に乗って、さらにボコボコにするなら、今度は、神のねたみと憤りは、その者達へと向けられる。
そしてイスラエルには、その土地の回復が宣言される。
 
36:8 しかしイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。この事の成るのは近い。
36:9 見よ、わたしはあなたがたに臨み、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種をまかれる。
 
土地は、再び、本来そこに住むべき神の民が、帰って来て、住むようになる。
今までは、異邦の民に、蹂躙されていた。
なぜなら、本来、神様を礼拝すべき民が、礼拝せず、偶像礼拝に耽り、行いが悪かったからだ。
そういう時、土地は、その者を吐き出して、土地は、安息を得る。
 
36:10 わたしはあなたがたの上に人をふやす。これはことごとくイスラエルの家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される。
36:11 わたしはあなたがたの上に人と獣とをふやす。彼らはふえて、子を生む。わたしはあなたがたの上に、昔のように人を住ませ、初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施す。その時あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
 
土地の繁栄は、豊かな実りは、主の契約に基づく。
偶像は、強制的に打ち捨てられ、もはや偶像礼拝ができなくなり、ただ、主を敬う事、礼拝する事が帰るなら、契約の祝福が来る。
レビ記26章に記されているとおりである。
 
26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
26:3 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、
26:4 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。
26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。
 
ここを見て明らかなように、祝福の基本は、2節にある通り、主を敬い、主を礼拝する事だが、それ以前に、真っ先に、偶像を礼拝してはならない事が、1節で示されている。
主の御言葉に聞き従い、それを守り行うなら、主は、豊かな実りを、大地に命じて下さる。
 
36:12 わたしはわが民イスラエルの人々をあなたがたの上に歩ませる。彼らはあなたがたを所有し、あなたがたはその嗣業となり、あなたがたは重ねて彼らに子のない嘆きをさせない。
36:13 主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたに向かって、『あなたは人を食い、あなたの民に子のない嘆きをさせる』と言う。
 
土地が、人を食らう、と言われてしまうようになったのは、なぜか。
それは偶像礼拝の故であり、契約を破った事の、のろいによる。(レビ26:16,20, 申命記28:38-40)
この状態がなくなる事が、14節以降に示されている。
 
36:14 あなたはもはや人を食わない。あなたの民に重ねて子のない嘆きをさせることはないと、主なる神は言われる。
36:15 わたしは重ねて諸国民のはずかしめをあなたに聞かせない。あなたは重ねて、もろもろの民のはずかしめを受けることはなく、あなたの民を重ねてつまずかせることはないと、主なる神は言われる」。
 
土地は、そこに住む人々が神を畏れ敬うなら、土地は喜んで作物を出すが、もし、そこに住む人々が汚れた事を行うなら、やがて土地は、その者達を吐き出して、そうして安息を得る。
被造物は、神の子のあらわれを待ち望んでいる。
もし私達が、イエス様を信じ、御言葉の通りに生きるなら、行く先々の被造物からウエルカムされる者となる。
私達は、神の子としてふさわしく歩み、そうして、あらゆる被造物から歓迎される者となるべきである。
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