メッセージ - 雅歌カテゴリのエントリ
そして立派な花嫁を育てる者へ(雅歌書8:8-14)
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主にある夫婦は、同じ御言葉の養いを受ける兄弟姉妹のよう、しかし性的魅力も失わずに(雅歌書8:1-7)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 雅歌
- 執筆 :
- pastor 2019-5-1 9:40
主にある夫婦は、同じ御言葉の養いを受ける兄弟姉妹のよう、しかし性的魅力も失わずに(雅歌書8:1-7)
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夫婦は成熟していくと、恋人同士、というよりも、どんどん親密な兄弟、姉妹のようになっていく。
Son 8:2 私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。
なお、ぶどう酒もざくろも、男性の性的興奮を促すもので、5節の伏線になっている(後述)。
女性が産みの苦しみをするところ、いのちを生み出すところで。
主の言葉と絡められた人生そのものこそ、主への何よりの捧げ物(雅歌書7章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 雅歌
- 執筆 :
- pastor 2019-4-24 8:50
主の言葉と絡められた人生そのものこそ、主への何よりの捧げ物(雅歌書7章)
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夫をとりこにする妻の姿勢:「わたしは、わたしの愛する方のもの」(雅歌書6章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 雅歌
- 執筆 :
- pastor 2019-4-23 21:00
夫をとりこにする妻の姿勢:「わたしは、わたしの愛する方のもの」(雅歌書6章)
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男と女をひとつへと繋げていく御言葉(雅歌5:9-16)
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エデンの園から追い出されてしまう性質:高慢(雅歌5:1-8)
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花婿の心を射止め、とりこにする花嫁の秘訣(雅歌4:9-16)
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しみやしわやそういった類の一切無い花嫁となるために(雅歌書4:1-8)
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前回は、いよいよ花嫁は花婿の豪華な車に迎えられ、花婿の家へと嫁いでいく様子が記されていた。
人の栄光化は不幸をもたらし、主の栄光化は喜びをもたらす(雅歌3:6-11)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 雅歌
- 執筆 :
- pastor 2019-2-27 6:47
人の栄光化は不幸をもたらし、主の栄光化は喜びをもたらす(雅歌3:6-11)
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今回の箇所は、ソロモン王の贅沢で華やかな有様が記してある。
最近も、セレブの豪奢な日々をつづったドラマは視聴率を得ているが、しかし世においては、そのような贅沢に暮らしている人の裏には、多くの悲しむ人達がいるものである。
ソロモンはこの時、王妃は既に六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。(雅歌6:8)
さらに後には、七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。(1列王記11:3)
このソロモンという男性の背景をみるに、気分が悪くなるような、また、彼に嫁いでいく女性たちを思うに、ある種の切なさを覚えるかもしれない。
しかし私達は、この書を、単に昔の豪華な人達の愛の歌、として読むべきではない。
聖書は、旧約も、新約も、イエスキリストを中心に記されている。
もし聖書を、人間にフォーカスを当てて読むとするなら、人の罪の有様に気分が悪くなっていくが、イエスキリストを中心に見据えてこの書を読んで行くなら、これは私達の喜びと期待、そして私達にとって希望に溢れるものとなる。
ソロモン王が花嫁を迎える有様は、とても豪勢な成り立ちであった。
3:6 没薬、乳香など、商人のもろもろの香料をもって、かおりを放ち、煙の柱のように、荒野から上って来るものは何か。
3:7 見よ、あれはソロモンの乗物で、六十人の勇士がそのまわりにいる。イスラエルの勇士で、
3:8 皆、つるぎをとり、戦いをよくし、おのおの腰に剣を帯びて、夜の危険に備えている。
7節で「乗り物」と訳されているのは、KJVではベッド、NKJVではカウチと訳されている。
つまり屈強な人々に担がれながら、ソロモンはで女性と一緒にその移動式ベッドにねそべって移動していたのだ。
ソロモンは屈強の勇士60人をかかえて来る。ダビデの時代は戦争がたくさんあったが、彼についていたのは30勇士だった。しかしソロモンは、平和の時代なのに、60人もの勇士を抱えている。
ソロモンの時代は平和であるので、夜襲に備えての屈強な勇士達は元々いらないはずだが、それでも60人も武装したボディーガードがいつもついている、という事は、ソロモン自身、後ろ暗い所があったのかもしれない。
3:9 ソロモン王はレバノンの木をもって、自分のために輿をつくった。
3:10 その柱は銀、そのうしろは金、その座は紫の布でつくった。その内部にはエルサレムの娘たちが、愛情をこめてつくった物を張りつけた。
9節にも輿と言う言葉が出てくるが、これは7節とは違う輿であり、KJVではチャリオット、すなわち戦車である。
ソロモンは、自分のために豪華な戦車をつくり、そこを飾る織物は、エルサレムの娘たちが愛情をこめてつくったものである。
3:11 シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見よ。彼は婚姻の日、心の喜びの日に、その母の彼にかぶらせた冠をいただいている。
多くの娘たちの愛がこめられている戦車や、屈強な男たちに担がれた移動式カウチに乗って移動する。このような、豪華絢爛な有様で女性を迎えに来る光景は、華やかさがあり、人々の羨望の眼差しがあるかもしれないが、果たしてソロモンの周囲の人々は全員が全員、喜びにあふれていただろうか。
ソロモンは、若い頃は純粋な信仰持っていたが、周りから担がれている内に、そして女も金もふんだんに手に入って行く中、彼は、多くの女たち、エジプトの女や、いろいろな国々の女たちを抱え、彼女たちの声を聞いていくうちに、どんどん彼は霊性が汚されて行く。
列王記や歴代誌は語る。彼がイスラエルの神に背く行いをしていった結果、祝福は離れ、人々は重税に苦しみ、敵対する者が現れていった。
私たちがは、ただ御言葉に聞くべきである。異邦の女を囲うのではなく、御言葉に基づいた叱責をしてくれる人をこそ囲い込み、御言葉に基づいた歩みをしていないならば、ソロモンのようになってしまう。
この記述は、表向きはきらびやかで豪華絢爛であっても、その背後を見ると、多くの女性たちの、また多くの子供たちの悲しい思いが秘められている。
この地上では、1人の男に、複数の女性が嫁ぐなら、必ず不公平と怒り、悲しみがつきものである。聖書を見ると、その事に例外はなかった。
しかしキリストにおいては、それはない。
キリストはやがて、私達を迎えに来る。
ソロモンより遥かに多くの天の軍勢を従え、はるかに光り輝く栄光に包まれて。
1テサロニケ4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
私たちは、その日その時、一挙に引き上げられる。空中に引き上げられ、雲の中で、キリストと対面する。そして、まことの婚礼と導かれていく。
ソロモンの車は、エルサレムの多くの娘たちの愛情が込められた飾りで飾られていたが、私たちは今、イエス様を愛する心をもって、良い行いという飾りを作っているようなものである。
私達が御霊にあって良い行いをする時、そして愛、喜び、平安など、御霊の良い実を結んで行く時に、イエス様を美しい飾りで飾らせていくのだ。
雅歌書は、キリストを除いて読むなら、セレブの祭りに参加してる恋愛小説のようになってしまうが、その裏では、多くの涙や悲しみがあった。
ソロモンの周りでは、ドロドロの恋愛愛憎劇や、性的に汚れた有り様が展開されているかもしれない。
しかしキリストにあっては、ただ栄光に満ちた喜びしかない。
ソロモンは、多くの女性を抱えていたが、多くの女性や子供たちが涙を流し、悲しみ、叫んだ。
しかし、キリストの花嫁である教会には、世界中の多くの人々がいるが、彼ら全ての涙はすっかり拭われ、誰も悲しんだり叫んだり苦しんだりする事は無い。永遠の天国において、永遠の慰めを得るのである。
私たちの花婿キリストは、完全なるお方である。
ソロモンは女性を捨てたりする事があるかもしれないが、私たちの花婿キリストは決して見放すさず、見捨てない。
それ故、私達はキリストと言うまことの夫を意識し、まことの結婚式に向けて、自分自身を整えなくてはならない。
イエス様はよく、天の王国を、結婚にたとえた。
花婿を待ち望む10人の花嫁のたとえの中では、5人は愚かで、5人は賢かった。
花婿が迎えに来る時のために、彼女たちはともしびを整えていたが、5人は愚かで、油を用意しておかなかった。
賢い花嫁たちは、花婿がいつ来ても良いように、油も用意していた。
キリストはきっとまだ来ないだろう、と思って、ぼんやり過ごしていたりする人は多いが、ぼんやりしていてはならない。平和な時は、ぼんやりしている時ではなく、備えをすべき時である。
花婿が来られた時、どうしたら花婿が喜ぶだろうか、花婿がいつ来ても良いように備えをしよう、と、いつも考えているべきである。それをしていないなら、いざ花婿が来るときに、慌てふためくことになる。
賢い乙女と愚かな乙女の違いは、何だったか。
愚かな乙女たちは、自分の時間で動き、自分の考えで動いていた。
それに対し賢い花嫁は、花婿の時間、花婿のために動いていた。
私も、花婿を中心に考えるなら、今なすべきことがわかるはずである。どうすれば花婿が喜ぶか。花婿がいつ来るか、その間何を整えるべきか。
私達は、まことの花婿キリストを迎えるまで、しっかり御言葉に親しみ、花婿の喜ばれる飾りを身につけて、みことばの灯を掲げておくべき。
御言葉には、聖霊の油と言う燃料が必要である。聖霊によってみことばを語るのでなければ、ただの剣である。
その油は、自分をおろし主を第一にする事によって、どんどん溜まって行く。ゲッセマネは、油絞りと言う意味だが、イエス様はそこにおいて自分の心ではなく父の御心が成りますように、と祈った。
私達も、この「油絞り」の祈りによって、日々、油は貯蓄されていく。
かの日は、必ず来る。その日が来た時、慌てないように、日々しっかりと自分をおろし、祈りを捧げ、賛美を捧げ、花婿は今日にでも来るかもしれないと言う意識を持ち、そうして油を貯金して歩むべきだ。
御言葉を蓄えましょう。真心込めて口から告白する時、キリストは、ああ、また一歩花嫁として整えられた、と喜んでくださる。
イエス様の喜びは何か、どうしたら花婿を喜ばせられるか、という思いを持ちつつ、キリストの花嫁として整えられていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
愛する方の手を握って奥の間へと導くまで(雅歌3:1-5)
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この箇所では、花嫁たる女性が、夜床についても、それでもなお、彼女の愛する方、花婿を探し求める姿がある。
雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。
原文では、「私の魂が愛する方」を、私は探しています、とある。
彼女は、夜、床についているが、魂が愛し慕い求め、安息できるお方が、すぐとなりにいない状態である。
この状況は、今、私達が魂が愛するお方・イエス様を慕い求める姿勢にも似ている。
私たちは、夜眠れない時、平安を求めてもなかなか見つからない時、どうすべきか。
雅歌3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
彼女は実際に、探しに出かけて行ったが、行った先は「町をまわり歩き、街路や広場」で、そこを探しても、見つからなかった。
私達もまた、御言葉の根拠なしに、あるいは聖霊の助けなしに、真理を探し求めても、見つからない。
彼女のように、ただ通りや広場をフラフラさまよい歩いているようなものである。
そしてもし、イエス様以外に目を向けて、安息を求めようとしても、過去のあの事この事が思い出され、怒りがこみ上げて来たり、悲しい思いを繰り返したり、自分の至らなさを繰り返し見たり、あるいは将来の不安が大きくなったりと、とにかく夜、イエス様以外を思いめぐらすなら、必ず良くない思いが、湧き立っていく。
詩篇63篇に、夜における「正しい思い巡らし方」が記されている。
詩篇ユダの野にあったときによんだダビデの歌
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
ダビデはこの時、ユダの荒野にいたが、彼の人生の闇夜の時、慕い求めたのは、主だった。
彼は、何を求めて気を失うばかりだったかと言うと「あなたを慕い求めて」気を失うばかりだった、と告白した。
詩篇63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:6 (5節に合節)
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
雅歌の女性が、夜、たましいが慕い求めるお方を探しに行ったように、ダビデもまた主をあえぎ求め、慕い求め、聖所という礼拝の奥の場へと進んだ結果、彼の渇きは癒やされ、不安は取り除かれ、喜びの賛美が溢れるようになった。
そしてダビデは、女性が男性の懐の中で腕にくるまれている時のような安心感を得た。
私達も、夜闇の不安な時は、主を慕い求めるのである。
彼女は慕わしい方を探し求める行動をした結果、町を行き巡る夜回りに見つけられる。
雅歌3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
街を行きめぐる夜回りが私を見つけました。私の愛してる人を見かけになりませんでしたか?
普通ここで夜、夜回りに見つけられたなら、不審者として捉えられるところでしょうけれども、しかし彼女は、正当な探し求め方をしていた。彼女が夜回りに行き当たった後、まもなく、彼女は見つけることになる。彼女の慕い求めている人。この夜回り、見張り人は、一体何者だろうか。
イザヤ書62章の6節から。
"エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。
主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。
取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」"
イザヤ書 62章6〜9節
ここにも、見張り人がいた。
彼らに対する命令は、昼も、夜も、決して黙っていてはならない。主に覚えられている者よ、黙り込んではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない、というものだった。
主に覚えられている者であり、主が慰めて建て上げ栄誉を回復させるまで、決して黙り込まず、主に叫び続ける者。それは、取り成す者である。
現代の私達にとって、私達が建て直され回復するまで昼も夜も休まずに主に叫び続ける者は、聖霊である。
そして私たちも、黙っていてはならない。この時代の、この国の、見張り人として。
この時代が、この国が、霊的なはずかしめを受けている状況から回復し、建て直されるまで取り成し祈り続けるべきである
3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、「わたしを産んだ者のへや(ヘデル・ホラティ)」にはいった。
彼女は、その夜回りの見張り人に会った直後、彼女の慕い求めるお方をついに見つけた。
私達も、主をしたい求めて歩くなら、いつも見張っておられる聖霊が私たちを見つけ、そしてまことの夫であられるキリストの元へと導いてくださる。
主は、全て慕い求めるたましいがいないかどうかを、夜昼見張り、そして彼らに聖霊を遣わして、真の救い主の元へと導いて下さるのだ。
そのようにして、まことのたましいの救い主、イエス様の所へと導かれた私達は、安息を得、さらに私達自身も働き人となって、この国のために、この時代のために、昼となく夜となく、主に祈り求め、執り成して行く祭司となっていくのだ。
彼女は、この御方をつかんで手放さず、ついに「わたしを産んだ者の部屋(ヘデル・ホラティ)」へと導いた。
ヘデルは「(最奥の)小部屋」、ホラティ(原形ハラハ)は「妊婦になる」「身ごもる」の意味である。
彼女は愛する花婿を、女性の最奥の小部屋、いのちを産み出す小部屋へと導いて、そして言う。
3:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
(KJV: I charge you, O ye daughters of Jerusalem, by the roes, and by the hinds of the field, that ye stir not up, nor awake my love, till he please.)
KJVで見ると、「愛」が人格を持っているかのようで、愛なるお方が目覚めたいと思うその時まで、かきたてたり、目覚めさせたりしないで、ずっとそのままで置いてください、というようなニュアンスも感じる。
男性と女性とは、このように愛の営みをし、いのちを生み出す営みをして、代々、いのちを繋いで行って、今、こうして私達がいる。
これは霊的な面においても、そうである。
私達キリスト者にも、かつて、私達を霊的に産み出した霊的な”母”がいて、彼女がイエス様を自分の最奥の間へと導き、そこでイエス様との親密な交わりと祈りによって、私達・新しいキリストにあるいのち達が生み出されていった。
そして私達もまた、イエス様との愛の交わりの内に、また、うめきの祈りによって、さらに新しい霊的ないのちを生み出して行くのだ。
イエス様は言われる。
黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
今回の箇所では、女性の側が一方的に主人である男性を求め、行動し、そしてついに出会い、奥の間へとお連れして、そこで親密な交わりに至った。
私たちも彼女のように、あるいはダビデのように、真の夫であられるお方を熱心に求め、探し、この御方を見つけたなら、決して手放さず、いのちを生み出す親密な交わりへと導き、いのちを生んで増えて地に満たしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!