メッセージ - 創世記カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:より優れた故郷を目指して(創世記50:22-26):右クリックで保存
神はヨセフに多くの権威と力を任せたが、それは、彼は諸々の試練を通して神の民としての品性を豊かに持つ者となったからである。
ヘブル11章には、信仰の偉人達の列伝が記されているが、ヨセフが人生の中で信仰を最も顕著にあらわした時は、臨終の時だったとヘブル書の記者は記している。
「信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。」(ヘブル11:22)
ヨセフの生涯を学んて来た私達は、ヨセフが信仰を現した所は他にもっとあるだろう、と思うかもしれない。
なぜヘブル書の記者は、ヨセフの臨終の時を、最も顕著に信仰が現している、と判断したのか。
それは彼は、エジプトで為した偉業や人々からの栄光などは全く眼中に無く、それより神の民に加えられる栄光の方が、遥かに優れたものだと、行動を持って示したからである。
『ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた。』(創世記50:24-25)
ヨセフはここで「顧みて」という言葉を二度使っている。
普通聖書で「顧みる」という言葉を使う時は、良くない惨めな状態を神様が「顧みて」、そこから救い出して下さる、というニュアンスで良く用いられる。
ヨセフが死のうとしている時のイスラエル民族は、エジプト・ゴシェンの肥沃な地に定住し、破竹の勢いで増え広がっている真っ最中で、欠ける所も顧みられる必要も、何も無かったはずである。
藤原道長が『「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)』(wikipedia)と詠んだ時のような状態であったはずだ。
しかしヨセフが「顧みて」と言ったのは、イスラエルの民が神の約束された地におらず、エジプトという異国の異教の地にいる事自体、救われる必要のある状態だったと知っており、いかに世の富に溢れ、自民族が強くなり、安泰であっても、神に顧みられてエジプトを脱出する必要があり、そして神は必ずそうして下さると確信していたのだ。
ヨセフはイスラエル民族繁栄の最大功労者であり、エジプトで偉大な功績を残したのに、そのようなエジプトの偉人として偉大な墓に葬られるなど、一切、眼中に無く、ただ彼の望みは、神の用意された約束の地にあったのである。
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:16)
私達も真のふるさと、神の支配される天の王国に戻る事こそ、私達が何にも勝って求めるべきものである。
ヨセフに与えられた奉仕は”たまたま”エジプトの総理大臣だったが、便所掃除の奉仕も、ちり一つ拾うような事さえも、イエスキリストの故に為すなら、尊い奉仕である事には変わりない。
ただ、尊い事に用いられる器、卑しい事に用いられる器は、確かにある。
『神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。』(2テモテ2:19-21)
もし神の御前に尊い事に用いられたいのであれば、不義を離れ、自分自身をきよめる事である。
いよいよ今回で、創世記の学びは最後である。
創世記の3章から黙示録までは、実に、神と人とが永遠に共に住めるまでに整えるための贖いの歴史であり、それは黙示録21章で完成する。
人が神の言葉に逆らって、罪と死の呪いを全被造物に招いてしまった所から、いかに人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエスキリストである。
イエスキリストの預言は、人が堕落した直後、創世記3章15節にて早くから為されている。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)
この「女の子孫」を世に送り出すために、一人の人すなわちアブラハムを神は選び、アブラハムから神に贖われた一つの民族を興し、その民族が、エジプトのゴシェンの地で大いに増え広がりを見せようとする所で、創世記は終わる。
人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。
すなわち、神の言葉に従順して神主体で生きるか、それとも、神の言葉を退け、自分主体で生きるか。
神の民は、自分を退け、神の御言葉を優先させて生きる民であり、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフは、その性質へと整えられ、その品性に生きた。
私達も彼らのように、地上の事は思わず、天の故郷を目指しつつ、神と共にこの地上を生きるのである。
礼拝説教メッセージ音声:どうして私が神の代わりでしょうか(創世記50:15-21):右クリックで保存
創世記50章でヨセフは、2回泣いている。
まずは父が死んだので泣いた(1節)が、17節では、兄達の「過去の事を赦して欲しい」という言葉を聞いて泣いた。
『ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。』(創世記50:15)
ヨセフはもはや兄達の故に負った苦労の日々は、神が忘れさせて下さったのに、兄達は、何十年も前にヨセフにしてしまった事を、未だに引きずっていたのである。
誰かから受けてしまった災いは、神が慰めて下さる事で忘れられるが、自分が誰かにしてしまった災いは、その人が目の前にいる限り、良心の呵責に悩まされ続ける事になってしまう。
キリストが十字架で裂かれた手足の傷跡は、永遠に残っている。
私達が天の御国でキリストを見、私達がつけたその手足の傷跡を見る度に、主の驚くべき赦しと恵み故、永遠に頭が上がらないのである。
『ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。』(創世記50:19)
裁きは神の領域である。
そもそも、神がヨセフを総理大臣の地位に着かせた理由は、大いなる救いによって父イスラエルの全家族を救うためであった。
それなのに、どうして父が死んだ途端、その父の家族たちを滅ぼすような事ができるだろうか。
それは、神に対する大いなる反逆である。
ヨセフは、豊かに赦した。
ヨセフは、そのような品性であったからこそ、大きな権威と力が与えられたのだ。
もし赦さない者だったら、神が祝福し生かそうとしている兄達とその家族を、その権威でもって滅ぼしていたであろう。
そのような、赦さない者に、どうして神は、御心を行使するための権威を与えられるだろうか。
憐れみの無い者に、どうして神は力を与えるだろうか。
赦す事、それが御国の子の品性である。
赦す事によって、怒りや憎しみの束縛から開放され、より人生を有意義に過ごせる。
『むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ 12:20-21)
赦す事には多くのメリットはあるが、赦さない事は百害あって一利なしである。
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)
私達は、一生働いても返し切れない罪の負債を、主に赦してもらった。(マタイ18:21-35)
多くを赦されたからには、私達も、兄弟姉妹を赦してやるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:いかに生きるかではなく、いかに死ぬか(創世記50:1-14):右クリックで保存
『ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。』(創世記50:1)
ヤコブは子供たちの後の有様を預言して祝福し、そして自分の遺体を約束の地へ戻すよう指示し、最後に足を床に入れて先祖の列に加えられた。
その地上での生涯を閉じる有り様は、あまりに尊厳に満ち溢れ、ヨセフは泣いて口づけした。
「そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。」(同2節)
父の遺言では、彼の遺体はカナンで父祖アブラハムが買った墓地に葬るように、という事だったため、そこへ運ぶ上で腐敗させないように薬を塗らせた。
口語訳では「薬を塗る」だが、この言葉は「ミイラにする」、あるいは「防腐処置をする」とも訳せる。
ミイラにする時は通常、呪術的な儀式も行われていたものだが、ヨセフはそれを避けるため「医者」に防腐処置を施させたのだろう。
ヨセフはパロにねがい出た。
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます。』(同5節)
パロは喜んで送り出した。それも、宮廷の元老である重臣たち全てと、全国の長老たち全て、また、戦車も騎兵も多く共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
その葬儀は、パロが死んだ時に行う国葬に匹敵するレベルのもので、その追悼の式は7日も続き、あまりに荘厳で、それを見ていた現地の人が驚いて「アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)」という名前をその場所につける程だった。
本日の箇所を読むと、なんだか壮大なエジプト流の葬儀を行った、という印象だけが残るが、父ヤコブは「荘厳な葬儀を行なって欲しい」などとは一言も言っておらず、単にマクペラの墓地へ先祖たちと共に葬って欲しい、と言っただけだった。(創世記49:29-32)
そこにはアブラハムと妻サラが、イサクと妻リベカが、また、自分の妻レアが葬られているから、そこに加えて欲しい、と。
七十日もの間喪に服したり、一つの遺体を運ぶ為に、大勢の群衆が500km以上もの距離を戦争さながらの行進をするのは、やりすぎとも思えるかもしれないが、古代エジプト人の「死」に対する姿勢には、他の文明では類を見ないほどのこだわりがあり、それは「死者の書」の詳細かつ膨大な資料や、ピラミッドという墓の巨大さ、ミイラ技術の発達などを見ても、エジプト人の「死」に対する強い恐れとこだわりを見て取る事が出来る。
肉体が死んだ者のために、これだけ大規模な葬儀をするなど、ナンセンスの極みだとヨセフも知っていたでろうが、エジプト人たちの自分達への好意を無駄にしないため、躓かせないために、あえて行ったのだろう。
エジプトの王族が自分の死体をミイラにするのは、神々がよみがえったように自分も将来たましいが戻ってくるための「からだ」を保存しておくためで、それは王族の特権だった。
しかし後の新たな信仰では、生前正しい行いをした者なら誰でもよみがえりの特権が与えられるようになり、死者の書も一般向けに売られ、ミイラ職人も増え、ミイラが安置される墓の壁面には、死後の審判で神々に好印象を持っていただくために、生前に成した「良いこと」がびっしりと記され、それが現在我々が見るエジプトの墓美術である。
それを考えると、私達はイエス・キリストの父なる神に感謝がこみ上げてくる。
私達キリスト者は、何も荘厳な追悼式を行わなくても、ミイラになって将来生き返る準備をしなくても、また、大勢の人を動かして、遺族やしもべを使って巨大な墓を建てさせる必要も、全く無い。
地上は執着するような所ではなく仮の住まい、地上では旅人であり寄留者である。
よみがえりは一部の特権階級のものではなく、信じる者には誰でも与えられる特権であり、信じる私達の国籍は天にあり、天の故郷に思いを寄せつつ、地上での歩みを為すのだから。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰にあるアブラハムの子孫、すなわちキリスト者は、死に対してなんと楽観的になれる事だろう。
アブラハムが地上で買い取った土地は、墓地だけだった。同じように、私達も地上で必要なのは、墓地だけである。
どういう事かというと、私達の信仰生活は、キリストと共に十字架で死ぬ事から始まり、日々十字架を負って自分に対して死ぬ事でキリストが私達の内に生き、キリストのいのちにあって、私達は日々生きるからである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
結局、この地上では、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが大事なのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存
イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)
彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。
『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。
パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)
私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。
信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)
信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。
『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。
百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言3(創世記49:22-27):右クリックで保存
前回同様、イスラエルの子達への預言が続き、今日はラケルの二人の子達への預言である。
『ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。』(創世記49:22)
ヨセフの結んだ実は、実際に垣根を越えて広がる枝のように、イスラエルの子達家族全てを養い、それだけでなく、神を知らない異国の多くのいのちをも救った。
祝福されたヨセフは攻撃も受けたが、それでも神は守られた。
『射る者は彼を激しく攻め、/彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、/彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、/イスラエルの岩なる牧者の名により』(創世記49:23)
ヨセフは、兄弟達の悪意に対して悪を返すことをせず、ポティファルの妻に陥れられ牢に入れられても、その先々で権威に忠実に従うスタンスを捨てたりしなかった。
彼はいつでも「神は」が口ぐせで、どんな事があっても自分の手柄にはしなかった。
そのヨセフの性質の故に、神が彼を守り、彼の敵に神が弓を射返し(詩篇64篇)、流れのほとりに植えられた木のように、時が来た時には垣根を越えて広がる程の、豊かな実を結ばせるに至ったのだ。
私達も、イスラエルの岩なる牧者・イエスキリストに拠り頼む事によって、あらゆる悪から守られる。
まさしく詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』
『あなたを助ける父の神により、/また上なる天の祝福、/下に横たわる淵の祝福、/乳ぶさと胎の祝福をもって、/あなたを恵まれる全能者による。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』(創世記49:25-26)
ここでヤコブはヨセフに「あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり」と、言葉上はアブラハムやイサクに勝る祝福を与えているわけだが、ヨセフの子達が果たしてその通りの祝福を実際受けたかというと、そうでもない。
その人が実際に祝福されるかどうかは結局、祝福を父から受けた後、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているからだ。
さて、末っ子のベニヤミンである。
『ベニヤミンはかき裂くおおかみ、/朝にその獲物を食らい、/夕にその分捕物を分けるであろう」。』(創世記49:27)
ベニヤミンは戦いにおいて非常に強くなる祝福が与えており、実際にそうだった。
どれほど強かったかというと、士師記の時代、イスラエル他の11部族を相手に戦って、2度も勝利する程だった。(士師記20章)
なぜイスラエル部族同士が喧嘩するようになってしまったのか。
それは、ベニヤミン族は自分達の中にソドムと全く同じ罪を犯す邪悪な者達がいたのに(士師19章)、その者達を罰して悪を除き去るどころか、逆に自分達の強さに驕り高ぶり、その者達を守るためにイスラエル全体を相手取って戦ったからだ。(士師20:13-14)
士師記の時代のイスラエルは、御言葉に従わず、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っていたが、そのためにこの時代は祝福を受けず、他国から侵略され分捕られる事の多い、非常に殺伐とした時代だった。
自分の目に正しいと見える事を行う事、それは諸悪の根源である。
結局、自らの力に驕り高ぶって、自分達の怒りや欲望の赴くままを行なっていたベニヤミン族は、女子供は全て殺されてしまい、民数記の時代は男子45,600人を誇っていた一族も、たったの600人のみとなってしまった。
「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」(士師記21:15)
ベニヤミンは、自分の牙に頼った結果、自分自身を裂き、兄弟達をも深く切り裂いてしまったのであった。
いただいた祝福は祝福として、神のために、兄弟姉妹のために用いるべきであって、決して自らの心の赴くままに驕り高ぶってはならないのだ。
ヤコブはこの章で、ある兄弟を祝福し、ある兄弟を呪い、ある兄弟を叱責したが、必ずしも父が願った人が祝福されたり呪われたり、とは限らない。
結局のところ、祝福を実際的にその人のものとできるかどうかは、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言2(創世記49:13-21):右クリックで保存
前回に続き、イスラエルの子達への預言の箇所である。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13)
ゼブルン族は、海に近い所に相続地を得た。
ゼブルン族の中には、この祝福の通りに、海洋貿易で富を得た人はいたのかもしれないが、結局その領地は、海にもシドンにも、至らずじまいだった。(ヨシュア記19章)
モーセは後の時代に次のように祝福している。
『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。』(申命記33:18)
キリスト者の中にも、世に出て行って商いをし、富を得、教会に富をもたらす賜物を持った兄弟姉妹がいるのと同じである。
「イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。」(創世記49:14)
イッサカル部族は豊かな土地の相続地を得たが、なまけて安逸をむさぼった。
「彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(同15節)
この言葉の通り、後にはカナン人やアッシリアなど他国に税金を収めたり、ろばのように苦役を課せられる事になってしまった。
キリスト者の中にも、富を得て油断し、信仰になまけ癖がついてしまい、安逸をむさぼった結果、敵に蹂躙され、奴隷としてこきつかわれてしまう者もいる。
祝福を受けたからと言ってなまけ者になってはならない。怠けてしまうと、すぐに以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。』(創世記49:16)
ダンの名前は「さばく」という意味であり、ヤコブは、さばく人は道に隠れたへびのようだと、たとえている。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(同17節)
「悪魔」のギリシヤ語「ディアボロス」の原意は、元々、中傷する者、けなす者の意味であるが、兄弟姉妹をさばく人は、へびやまむしのようであり、それは悪魔の性質である。
ヤコブは、裁く人について、「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」(18節)と、主に助けを求めている。
『ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。』(同19節)
ガド部族は戦いに強い部族で、エリコを攻略する前にヨルダン川の東に相続地を先に得たが、ガドの勇士達は民の先頭に立ってカナンを侵略した。(民数記32章、申命記33:20)
兄弟姉妹の先頭に立って戦い相続を得させる役割が与えられたキリスト者もいるが、ガド部族はそのようである。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
アシェルの名は幸いという意味である。
神から食料を豊かに提供され、それを兄弟姉妹に、そして王なるキリストに、豊かにごちそう提供する人は、幸いである。
キリストの食物とは、神の御心を行い、それを成し遂げる事である。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
ここの「美しい子じかを生むであろう」は「美しいことば(歌)を生むであろう」とも訳す事ができる。
ナフタリはガリラヤ湖北の山地に相続地を得、他から解き放たれた雌鹿のように自由であり、士師デボラとバラクはイスラエルに勝利をもたらし、美しい歌を歌った。(士師記4,5章)
主を賛美する事は私達の力であり、勝利をもたらすものである。
このようにヤコブの子らは、色々な役割が与えられバラエティに富んでいた。
同じように、キリスト者にも色々な賜物を与えられた兄弟姉妹が、それぞれ、バラエティに富んだ役割を果たす。
祝福されて怠け者になったり、目を凝らして裁いたりする者にはならず、有用でいのちを増やす働きをする皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言(創世記49:1-12):右クリックで保存
ヤコブは自らの死を目前にして、子たちを、すなわち、イスラエル12部族の父祖たちを呼び寄せ、彼らの今後を預言した。
その内容は、今を生きる私達にも関係があり、これこれのタイプの人はその後どうなっていくのかを知る上で、有用な手がかりとなる。
まずは長男のルベンから。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。』(創世記49:3)
彼は長男であったが、気まぐれで、中途半端であり、ヨセフやベニヤミンを長男として守ろうとしたものの、最後まで責任を持つ事はせず、途中で放棄してしまった。
「しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。」(4節)
彼は水のように奔放で、父のそばめビルハと寝た(35:22)ため、長子の権利を剥奪されてしまった。
父の寝床に上るような不品行で奔放な者は、呪われてしまう。(申命記27:20、1コリント5:1)
ルベンのように、性的にも感情的にも奔放で、気まぐれで、最後まで責任を負わない者は、一見、得な性格に見えるかもしれないが、他を凌ぐことは有りえない。
たとい長子の座にいたとしても、剥奪されてしまうのだ。
「シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。」(5節)
この二人はかつて、シェケムの男達を「割礼」をネタにして虐殺し、略奪した。
ヤコブはそんな彼らに厳しい。
「わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。」(6節)
彼らのように、怒りに身を任せるような者は、人々がその”つどい”いに連なることはなく(箴言1:15-16)、そして呪われてしまう。
「彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。」(7節)
事実、彼らの部族は後にカナンの中で散らされてしまう。
シメオン族はユダ部族の相続地中で散らされ(ヨシュア19:1,9)、レビ族は祭司の一族として色々な所に分散して住む事となり(ヨシュア21:1-45)、いずれもヤコブの言葉どおりになった。
ユダという名は「ほめたたえる」という意味だが、その名の通り父に褒め称えられている。
「ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。」(8節)
彼は、長男ルベンが為すべきだった事、すなわち、父が愛した弟を守り、ベニヤミンの保証人として彼が身代わりとなったため、父にたたえられ、祝福された。
その祝福のとおりに、彼の子孫から王家が生まれ、敵は彼の手中へと渡され、兄弟達は彼に膝をかがめられるようになった。
「ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。」(9節)
ユダはライオンのように強く、権威があり、その子孫から王族が生まれ、メシヤであるイエスキリストが生まれ、イエスがサタンを筆頭とするこの世のあらゆる悪に、死に対しても勝利し、人には誰も解く事の出来なかった封印を解く事になる。
「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5:5)
「つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」
ユダの杖は、一度は遊女の報酬の抵当のために手放してしまったが、タマルとの一件でしっかりと学び、もはや彼は欲望のためではなく、イスラエル一族を守るために、支配の杖を用いるようになった。
彼の家系から代々の王族が生まれ、後にはシロ(平和、メシヤの意)が現れ、メシヤであるキリストによって永遠の支配が確立される所まで、イスラエルは預言した。
「彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、/その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。」(11節)
イエス様は雌ろばの子の子ろばに乗り、王として、エルサレムに迎えられた。(ゼカリヤ9:9、ヨハネ12:15)
イエス様をお乗せする私達は、まことのぶどうの木であるイエス様につながれるのである。
「彼はその衣服をぶどう酒で洗い、/その着物をぶどうの汁で洗うであろう。」(11節)
主は、ろばの子を用いられる柔和で憐れみに満ちたお方であるが、来るべきさばきの時には、力強く、敵に対しては恐ろしい有様で来られる。(黙示14:17-20)
ユダの性質は、兄弟のために弁護者として立ち、身代わりとなって罪の責を負う、イエスキリストの気高く尊い性質である。
この性質を持つ者は、ほめたたえられ、祝福され、王権と支配が約束される。
私達はルベンでも、シメオンやレビのようでもなく、ユダのようでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:実際に祝福される者とは(創世記48:8-22):右クリックで保存
『ところで、イスラエルはヨセフの子らを見て言った、「これはだれですか」。ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。』(創世記48:8)
ヨセフとしては、長男マナセに、より大きな祝福を与えたいがため、マナセを父の右手側に連れて来たのだが、父は意外な行動を取った。
『すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。』(創世記48:14)
なんと父は、わざわざ手を交差させて、長男マナセを左手で祝福し、次男エフライムを右手で祝福した。
右手は力や権力をあらわすため、普通なら長男を右手で祝福するものだが、イスラエルは意図的にそのようにしたのだ。
『そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。父は拒んで言った、「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」。』(創世記48:18)
イスラエルの父・イサクも、老齢で目がかすんだ時、彼が愛した子エサウを祝福しようとしたが、彼が祝福を受けて欲しいと願った子の祝福は、弟ヤコブによって奪われてしまった。
ヤコブもまた老齢となり、目がかすみ、死を前にして子を祝福したが、彼が望んだ通りに、エフライムがその後祝福されていったかというと、そうでもなかった。
民数記には、1章と26章にて2回の人口調査が行われたことが記されているが、第一回目の人口調査では、マナセ部族は32200人、エフライム部族は40500人で、ヤコブの祝福どおり、エフライムのほうが多かった。
しかし、2回目の人口調査(26章)では逆転し、マナセ部族は52700人、エフライム部族は32500人。
エフライム部族の数は、12部族中、ワースト2位になってしまう程、荒野で減ってしまった。
エレミヤ書を見ると、エフライムは早い時代に主に背き、懲らしめを受け、恥じて後悔い改め、その後、主の憐れみを受けたようだ。
『わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ。――』(エレミヤ31:18)
必ずしも、父が願った人が、祝福されるとは限らない。
また、聖書では、長男が衰え、末っ子が栄える、というパターンが多いが、だからといって、長男は宿命的に祝福を受けられない、とは限らないし、末っ子なら自動的に祝福されるわけでもない。
元々、イスラエルの長男はルベンだが、彼は奔放過ぎた行動の故にその権は剥奪され、父はヨセフに長子の権を与えたが、実際は、兄弟達の長となり王達が生まれたのは、ユダ族だった。
『イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――』(1歴代5:1-2)
結局のところ、その人が実際に祝福されるかどうかは、祝福を受けた後、どのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
エジプトではなくカナン、世ではなく天(創世記47:27-48:7)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 創世記
- 執筆 :
- pastor 2012-10-11 22:58
礼拝説教メッセージ音声:エジプトではなくカナン、世ではなく天(創世記47:27-48:7):右クリックで保存
『さてイスラエルはエジプトの国でゴセンの地に住み、そこで財産を得、子を生み、大いにふえた。』(創世記47:27)
イスラエル全家は、ゴシェンの地にてヨセフに養われ、この一族はそこで大いに栄え、増えて行った。
イスラエルの息子・娘達が生んだ孫やひ孫も数を増していき、愛する息子ヨセフもここエジプトで盤石の地位にいる。
もはや十分に生き、この世界で思い残す事は無い、とも思えるようなイスラエルであるが、彼の心には焦燥させられるものがあり、ヨセフを呼び寄せて、ある事を誓わせた。
『もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか手をわたしのももの下に入れて誓い、親切と誠実とをもってわたしを取り扱ってください。どうかわたしをエジプトには葬らないでください。』(創世記47:29)
手を腿の間に入れての誓いは、最も厳粛な誓いで、かつてアブラハムも、イサクの嫁探しの時、しもべに誓わせた。(創世記24:2)
この厳粛な誓いをさせた、イスラエルにとっての最重要事項とは、彼をエジプトには葬らせない事。
彼が眠りについたなら、先祖達の墓に葬ってもうらう事である。
イスラエルはエジプトで増え、ヨセフもエジプトで地位を得たのに、彼らの思いは、富と権力の頂点を取ったエジプトには、無かった。
彼らにはエジプトの栄華は一切眼中に無く、思いはいつも神に向けられ、心の置所はいつも、神が示された地・カナンにあった。
イスラエルは死期が近いと悟った時、彼の信仰の原点であり、神が初めて彼と出会ったルズ(ベテル)で語られた事を、ヨセフに話した。
『わたしはおまえに多くの子を得させ、おまえをふやし、おまえを多くの国民としよう。また、この地をおまえの後の子孫に与えて永久の所有とさせる。』(創世記48:4)
あの時神が言われた通り、今やイスラエルはまさにここエジプトで、数多く増えようとしている。
しかし、神があの時言われた「この地」とはエジプトではない。カナンである。
『エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします。』(5節)
エフライムとマナセをイスラエルの直接の子とするという事は、彼らを「イスラエル12部族」として、カナンに相続地を得る権利を与える事を意味する。
イスラエルは、エジプトで満ち足りて大往生しようとしているのに、ヨセフとの会話では、エジプトの栄光は全くもって話題になっておらず、あたかも、これからカナンで歴史の続きが始まるような話しぶりである。
彼の思いはエジプトには一切無く、地上の富や栄光にも無く、ただカナンに、神が示された約束の地にあった。
私達も、思いは地上に向けるのではなく、天に向けるべきである。
『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』(マタイ6:19)
『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。』(コロサイ3:1-3)
礼拝説教メッセージ音声:憐れみ深い政策がもたらすもの(創世記47:13-26):右クリックで保存
世界的な飢饉の時、ヨセフは最初は銀で食料を売っていたが、銀が底をついてしまった人には家畜で物々交換し、それも底をついてしまった人には、その人の農地を引き取って、食料を与える事とした。
そうして得た銀や家畜、土地をパロに収めたので、パロの家はますます豊かになり、必然的に土地も家畜もこの時国有化された。
ヨセフの政策は、とても憐れみ深い。
『収穫の時は、その五分の一をパロに納め、五分の四を自分のものとして田畑の種とし、自分と家族の食糧とし、また子供の食糧としなさい」。』(創世記47:24)
つまり、税率20%の小作農である。
日本の平均的な家庭、年収430万円世帯の税率は、所得税と住民税を合わせると約30%であり、法人税は40%である。(2009年時点)
現代日本と比べても、ヨセフの政策が民にやさしかった事が分かる。
『彼らは言った、「あなたはわれわれの命をお救いくださった。どうかわが主の前に恵みを得させてください。われわれはパロの奴隷になりましょう」。』(創世記47:25)
普通なら、飢饉になると人々は暴動を起こし、政府転覆を狙うのが歴史の常だが、ヨセフ治世のエジプトはその逆で、人々は自ら奴隷になろうと進み出るのである。
それ程ヨセフの政策は優れ、人々の支持を得、その後この税率がずっとエジプトで続いた。(26節)
ヨセフはなぜそんなに優れた政策が出来たのか。それは、神から知恵を頂いていたからである。
ヨセフの行動はまさしく、イザヤ58章そのものである。
『わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。』(イザヤ58:6-7)
人は祝福を頂きたくて断食を行うが、主の喜ばれる断食とは、これである。
ヨセフは、食料が無くて困った人の足元を見て税率を跳ね上げたり、貧しい者をそのまま飢え死にさせるような事はせず、憐れんでやったからこそ主に喜ばれ、彼の行いは光のように輝き、正義が常に彼を先導し、主の栄光が、彼のしんがりを守ったのだ。
『あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。』(同9-10節)
ヨセフは、彼の兄弟や、ポティファルの妻など、指をさして訴えたり呪いの言葉を吐いたりしても良さそうな人達はいたが、決してそのような事はせず、むしろ、苦しんでいる兄弟達に心を配り、彼らを憐れみ、彼らの願いを叶えてやる素養があったからこそ、ヨセフが無実だった事も彼の良い性質も明らかにされ、真昼のように輝いたのだ。
『主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。』(同11-12節)
もし私達もそのようになりたいのであれば、すなわち、主にいつも導かれ、焼けつく地で渇きがいやされ、骨に力が与えられたいのであれば、また、潤された園のように、水の枯れない泉のようになりたいのであれば、
あるいは、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ばれたいのであれば、私達もヨセフのように、うしろ指を指す事や、兄弟姉妹を訴える言葉を口から捨て去り、苦しんでいる兄弟姉妹達に心を配り、彼らの願いを叶えてやるべきである。
ヨセフは神から示された事をしっかり受け止め、来るべき飢饉に備えて穀物をひたすら備蓄した。
私達にも、霊的な飢饉が来ることが聖書に示されているのだから、いや、既に到来しているのだから、今、霊的な食物である御言葉をたっぷりとイエス様からいただいて、蓄えるべきである。
私達が御言葉をしっかり蓄えておくなら、やがて霊に飢えた人々が土地や家畜を携えて全世界から集まり、私達に蓄えられた御言葉を慕い求めて来るのである。