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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

詩篇講解説教

私達の中の邪悪な性質を追い出して下さるイエス様(詩篇101篇)

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この詩篇は、ダビデによるもので、彼が「このように生きたい」「このように歩みたい」と表明し決心した詩である。
そして同時に、この詩篇は、ダビデの子孫として来られる王の王、イエス・キリストのご性質を、的確にあらわしている詩篇である。
 
詩篇101:1 わたしはいつくしみと公義について歌います。主よ、わたしはあなたにむかって歌います。
 
1節の、前半の「歌い」はシール、「声」で歌う意味で、後半の「歌い」はザーマル、指で弦楽器を弾く事や、歌う事を意味する。
 
何を、歌うのか。
それは、主の恵み(ヘセド)と、さばき(ミシュパト)を、である。
 
ミシュパトは、司法的に宣告された判決、さばきを意味するが、人は誰一人、主の裁きの前に立つ事はできない。
そこで、主の恵み(ヘセド:恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深さ)が必要なのだ。
 
 
父なる神様は、義であられ、罪ある者を罰さざるを得ない。
しかし恵み(ヘセド)深い神様は、そのヘセドのゆえに、御子イエス様を、私達に送ってくださった。
彼の贖いのゆえに、私達はイエス様にあって、父なる神様の前に進み出る事ができるようになった。
それで私達・キリスト者は、主のさばきを「喜び」「慰め」として受け止める事ができる。
それを、私達もダビデのように、歌うのである。
 
しかし、サタンとそれに同意する者は、主のさばきを恐れる悲しむ以外に無い。
だから、誰もが、キリストにあって救われる必要があるのだ。
 
 
詩篇101:2 わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家(ベイト)のうちを歩みます。
 
ダビデのように、「全き道」に、心を留める人は、主が来られる日を、今か、今かと、心待ちにする。
しかし、後ろ暗い事をしている人は、主に、来てほしくない、と思う。
 
ダビデ個人としては、彼は、全き道に心を留め、正しい心で、自分の家の中を歩もう、と、決心し、宣言した。
しかし残念ながら、ダビデは、全き道を歩まなかった。
彼は、彼の家の中で罪を犯し、また、彼の家に生まれた後の子孫も、罪の道を歩み始めてしまった。
 
しかし、だからといって私達は、「ダビデは”直き心をもって、わが家のうちを歩みます”などと言う資格はない」と、断罪することはできない。
 
ダビデはたしかに、罪を犯した。
犯したけれども、彼は、主の前に進み出て、赦しを願い、主に喜ばれる道を歩もうと、もがいた。
 
私達も、もがくべきである。
たとえ罪を犯したとしても。
主に喜ばれる道を歩もうと決心し、宣言し、もがきつつも努力し続けるべきなのだ。このいのちがある限りは。
 
 
ダビデは「全き道に心をとめる」と言ったが、どうしたら、全き道を歩めるか。
 
それは、主の前に歩む事によって、である。
 
創世記17:1  アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 
ここで主が宣言された通り、全能の神の「前(パニーム:面前)」を歩むなら、人は、全き者になれるのだ。
 
人はたとえ、罪の行いを全くせず、品行方正に歩んだ、としても、神と共に歩まないとするなら、彼は、全き者ではない。
人は、単体では、全き者にはなれない。
ただ、全能の神と共に歩む事によってこそ、全き者になれるのだ。
 
アブラハムは、86歳から99歳までの間、神様抜きで、13年歩んだ。
しかし、神様の憐れみが注がれて、神様のほうから彼にあらわれて、わたしと共に歩んで全き者となれ、と言って下さった。
 
ダビデもまた、自分の家の中で、罪を犯したが、彼はそれでも、罪を犯したままの自分を、そのまま主の御前へと持って行った。
罪を犯したからといって、神との歩みを止めなかった。
むしろ、犯したからこそ、その罪ある自分を何とかしてほしい、と主の御前に持って行き、あくまで神との歩みを止めなかった。
だから、彼は主に愛され、主の憐れみを受けたのだ。
 
ダビデは2節で言っている。
わたしは「直き(トム:完璧さ、純粋さ、シンプルさ)」心をもって、わが家のうちを歩みます、と。
 
つまり、主の前の純粋さ、シンプルな心をもって、主の前に歩む人を、こそ、主は憐れんでくださるのだ。
 
そういうわけでダビデは、「主よ来て下さい」、と、何のわだかまりなしに言えたのである。
 
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
彼は、彼自身の前から「ベリヤアル」を、すなわち、邪悪な者を自分の中に置かない、
むしろ自分は、背く者の行いを憎み、それをまとわりつかせない、と、決心し、表明した。
 
罪を犯したダビデが、よくもそんな事が言えるものだ、と、私達は言うことはできない。
私達にも、いつ罪を犯してもおかしくはない「罪のとげ」が刺さっているからだ。
 
私達も、日々、ダビデのように、罪をかなぐり捨てる事の表明をし、競争を耐え忍んで走っていくべきなのだ。
キリストとベリアルは、共生できないからだ。(2コリント6:15)
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
もし、キリストが私達のうちに住んでいない、キリストに住んで欲しい、と、願うなら、
ダビデのように、私達の内のベリヤアルを置かない、と宣言し、それを憎み、それが出ていくまで「イエスの御名によって出ていけ」と宣言し続けるべきである。
 
ヘブル12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 
 
詩篇101:4 ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません。
詩篇101:5 ひそかに、その隣り人をそしる者を/わたしは滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。
 
5節は、「そしる」という意味のラーシャンが、反復強調されている。
この、隣人をそしる性質、高ぶる目、高慢な性質は、サタンの性質である。
 
日本語訳では、ダビデはそのような「者」を滅ぼします、といっているように書かれてあるが、それでは、ダビデは恐怖政治をするつもりなのかというと、そういう事ではない。
原文には元々、「滅ぼし」の対象となる目的の語は無いので、ここはむしろ、わたしは「隣人へのそしり」を滅ぼします、という事だろう。
 
私達も、自分自身の中から、また、自分のグループの中から、サタンの性質を、滅ぼすべきである。
 
ダビデには、それは結局できなかったが、ダビデの子孫・イエス様は、真に、私達の中から、そのような性質を断ち切り、滅ぼしてくださる事が、おできになる方だ。
そしてゆくゆく、イエス様は、悪魔サタンそのものを、断ち滅ぼして下さる。
 
黙示録22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
黙示録22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
 
 
詩篇101:6 わたしは国のうちの「忠信な(アーマン)」者に好意を寄せ、わたしと共に住まわせます。全き道を歩む者はわたしに仕えるでしょう。
 
ここもまさに、イエス様のご性質が、そのまま歌われている。
アーマンは、アーメンの元となった語であるが、イエス様の元には、彼にアーメンする人達が来る。
そして彼に対して「アーマン(忠信)」な人達が、イエス様とともに住み、とこしえにイエス様に仕える事が、黙示録に書かれてある。
 
 
詩篇101:7 欺くことをする者は/わが家のうちに住むことができません。偽りを言う者はわが目の前に立つことができません。
 
イエス様も言っている。
 
啓示録22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
 
 
詩篇101:8 わたしは朝ごとに国の悪しき者を/ことごとく滅ぼし(ツァーマト)、不義を行う者をことごとく主の都から断ち除きます。
 
ダビデ個人としては、そのようにあろうと宣言した。
それを実行できるお方は、まことのダビデの子孫、イエス様お一人である。
私達はイエス様にあって、ダビデのように、日毎、主とともに歩み、全き者の道を歩んでいく者達である。
 
キリストとベリヤルは、共生できない。
だからもし、私達の中に、邪悪な性質がはびこる都度、それに「しょうがないや」と言って妥協したりしてはならない。
都度、ベリヤアルを追い出し、主の前に歩む努力をすべきだ。ダビデがしたように。
そのような日々こそ、主の面前を歩む道、まったき道だから。

詩篇講解説教

喜びに彩られた感謝を主に捧げよ(詩篇100篇)

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詩篇100篇表題「感謝の供え物のための歌」(ミズモール・ラ・トダー)
ミズモールは歌、あるいは音楽。
トダーは、ユダヤ人の「ありがとう」で、すなわち感謝の言葉である。
 
 
この詩篇は、主への感謝で溢れており、1-2節は早速、「喜び」というキーワードで目白押しである。
 
詩篇100:1 全地よ、主にむかって「喜ばしき声をあげよ(ルーア)」。
 
1節で提示されている命令形動詞はルーア、これは、95篇1-2節でも繰り返されている動詞で、「喜び」という感情に脚色された叫び、大声、大きな音を立てる事である。
 
その命令の対象は、コール・ハ・エレツ(地の全て)、つまり私達人間のみならず、全被造物である。
 
 
詩篇100:2a 喜びをもって主に仕えよ(アーバド)。
 
2節の命令形動詞は「仕える(アーバド)」。
それは、奴隷やしもべとして聞き従う事、すなわち、自分の意思を降ろし、相手の意思に服従する事だ。
 
アーバドする事、すなわち、奴隷として仕える事には、苦しみが伴われると思われがちだが、主に限っては、そうではない。
人間は不完全であり、罪があるので、人間に隷属する事には、苦しみが伴うかもしれないが、完全であられる主に仕えるなら、仕えるほど、喜びが湧き起こってくる。
 
 
神の民たる者は、もし、自分の願った事と、主の願っておられる事が食い違っていた場合、すぐに自分は降ろし、主の御旨に従うものであるはずだが、それが成熟して行けば行くほど、従う事の喜びは大きくなっていく。
 
結局、クリスチャンのレベルアップの度合いは、教会に通った年数でも、歩数でもない。
いかに喜びつつ、主の前に自分を降ろせるか、いかに喜んで主に聞き従えるかどうか、それによって計られる。
 
 
詩篇100:2b
歌いつつ(レナーナー)、そのみ前にきたれ(パニーム)。
 
レナーナーとは、喜びの感情によって色どられた叫びや、歌、おどりである。
コンサートで主演者がステージに現れたら、詰めかけたファンに沸き起こる、あれである。
私達は、そうしたファン以上に、主の前にレナーナーする者だろうか?
 
私達がレナーナーしながら行く先が、「主のみ前(パニーム)」である。
パニームとは顔、すなわち、面前で、英語ではプレゼンス(臨在)と訳されている。
主の臨在(面前)に、喜んで行くのが、主の民であり、主の面前に行きたがらないのが悪魔サタンに属する者達である。
 
出エジプトした民は、主のしるしや奇跡を体験したにもかかわらず、主の臨在(パニーム)の前でつぶやき、罪を犯したため、約束の地に入れなかった。
私達キリスト者は、いつでも、主の御前に、主の臨在にいる、という意識を持ちながら、日常を歩むべきである。
 
 
詩篇100:3 主こそ神であることを知れ(ヤーダー)。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
 
3節の命令形動詞は、「知れ(ヤーダー)」である。
何を知るべきか?
主こそ神である事、主が私達をつくられた事、を。
 
 
詩篇100:4a 感謝しつつ(トダー)、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。
 
ここの命令形動詞は「ボー(入れ)」。
入っていく門の先、その大庭とは、主を礼拝する場所である。
 
私達は礼拝するために教会の門をくぐる時、「感謝」と「ほめたたえ」の心をもって、入っているだろうか。
 
 
詩篇100:4b 主に感謝し(ヤーダー)、そのみ名をほめまつれ(バラク)。
 
ここの命令形動詞は「バラク」、祝福する、とよく訳される語であるが、元々は「ひざをつく」である。
主の前にひざをついて自分は低くし、そして主を高めるのだ。
 
 
こうして4節は、トダーと、ヤーダーがセットで示された。
トダー(感謝)は、ヤーダー(知る)が元になっているヘブライ語である。
 
感謝とは、相手を知ってこそ出来るものであり、主を知っていればいる程、感謝が溢れ、賛美に力を入れるものである。
 
もし、主への感謝が、沸き起こって来ない、という人がいるなら、まず、主を「知る」事から、はじめるべきである。
主を知れば知るほど、感謝と喜びが沸き起こってくるからだ。
そして、そのような人がする賛美は、その表情や節々から、喜びが、感謝が、にじみ溢れて来ているものだ。
 
 
詩篇100:5 主は恵みふかく(トーブ)、そのいつくしみ(ヘセド)はかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。
 
主のトーブは、創世記1章において、主の創造のわざに対し、主ご自身が「よし」と言われた語であり、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
続くヘセドは、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。
 
 
詩篇100篇の最後は、この、主のトーブとヘセドで飾られた。
詩篇23篇も、そうだった。
 
詩篇23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵み(トーブ)といつくしみ(ヘセド)とが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
 
今回の詩篇でも、3節で、主を羊飼いとする告白をした。
主を自分の羊飼いとするなら、主のトーブとヘセドが、生涯、追いかけてくるのだ。
 
主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、
人は主の言葉に反して、ことごとく、トーブの逆の実を、すなわち、不完全、醜さ、悪さ、を結ばせて来た。
それらを人生で実らせてきた結果、もたらされたのが呪い、病、死である。
 
しかし、その状態に縛られた人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造のトーブわざが、与えられた。
それが「恵み(ヘセド)」である。
恵みとは、一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に主から与えられる、良きわざである。
 
主の家に住まう事、
主を羊飼いとする事、
それこそ、生涯、トーブとヘセドが追いかけてくる生き方なのだ。

 

 

詩篇講解説教

聖なる、聖なる、聖なる主(詩篇99篇)

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詩篇99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。
 
「主は王である」という表現が、93篇から反復されている。
その王の王とは、「救い(イエシュア)」をもたらして下さる主、イエス・キリストである。
 
ここの「おののけ(ラガツ)」は、激しい感情、特に怒りや恐怖で震える事で、「震えよ(ヌット)」は、震える、 動かされる意味である。
イザヤ6章では、御使いが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と呼び交わす声に地は震え、主の栄光の臨在で満たされた。
主の臨在を前に、地は、震える。
そして終わりの時代、神に愛された都を守るために大地震が起こり、神に敵対する者達は、揺るがされる。(エゼキエル書38:19-20、啓示録8:5, 11:13,19, 16:18)
 
1節の後半では、主は、ケルビムの上のみ座におられる、と書かれてある。
ケルビムとは、いつも主のすぐそばにはべり、聖と俗とを区切り、聖なる領域を炎で守る役割の御使いであり(創世記3:24、エゼキエル1章)、また、主の臨在を運ぶ役割がある。(詩篇18:10)
主は、そのケルビムの間から御声を発し、語られる。(出エジプト記25:22)
 
 
詩篇99:2 主はシオンにおられて大いなる神、主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
詩篇99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を/ほめたたえるであろう。主は聖でいらせられる。
 
ここでは「大いなる」が反復されて、主の「聖」を際立たせられているが、この「聖」という主のご性質が、3節と、5節、9節で反復されている。
 
「聖(カドシュ)」には「切り分けられた」の意味がある。
聖とは、主なる神の、絶対的かつ排他的なきよさで、罪・汚れのある人間が触れるならたちまち死んでしまう程の、恐ろしいご性質である。
 
預言者イザヤも、その「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」を見た時、絶望した。もう自分は死んでしまう、と。
しかし彼は、聖なる祭壇の炭火によって、くちびるの汚れが清められ、罪が贖われたゆえに、主の聖の前で打たれる事なく、主のつとめに入る事ができた。(イザヤ6章)
祭壇には、犠牲のいけにえが燃やされている。
それが触れる事によって、汚れがきよめられ、罪が贖われたように、私達も、犠牲のいけにえとなってくださったイエス様に触れられるなら、罪が贖われ、清められ、主の聖なる臨在の前に大胆に進み出る事ができるのである。
 
 
詩篇99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは/堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
 
ここで反復された語は、ミシュパト(司法的に宣告された判決、さばき)であり、主のさばきの性質は、公平であり、正と義である。
 
この節では「ヤコブ」という名が、取り沙汰されている。
ヤコブ(かかと、掴むという意味)には、イスラエル(神と粘り強く格闘(すったもんだ)する)という、素晴らしい名が与えられたが、その与えられた後も、時々、人・物・事の足を掴む「ヤコブ」に戻ってしまった。
 
私達も、本来、神と「すったもんだ」するべきなのに、時には「ヤコブ」に戻ってしまうが、その中でも、主の憐れみ深いミシュパトによって、私達の中の不義は取り除かれ、ますます義なる性質へと練り清められていく、という幸いがある。
 
 
詩篇99:5 われらの神、主をあがめ、その足台のもとで拝みまつれ。主は聖でいらせられる。
 
あがめて、ひれ伏す理由は、主は聖であるからだ。
 
詩篇99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
 
ここで、祭司としてのモーセとアロンが、また、御名を呼ぶ者としてのサムエルが引用されている。
彼らに共通している事は、主を呼び、そして、主に答えられた事である。
 
私達も、主イエスの御名を呼ぶ者である。
主イエスにあって、祭司たちの中に、私達もいる。
主を呼ぶ者達の中に、私達もいる。
そして私達は、イエス様にあって、預言者であり、そして、王である。
 
私達の分は、主の御名を呼び、神と人との間に立ってとりなし祈り、また、主から御言葉をあずかって、それを人々に届ける事、
そして、主にあって「王」として、治める事である。
 
詩篇99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った。
 
あかし(エダー)は、他にも証人、証言という意味がある。
定め(ホック)は、制定されたもの、戒め、法律である。
終わりの時代において、主人公となる人とは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」である。(黙示録12:17、14:12)
 
 
詩篇99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。
 
「主は答えられた」というキーワードが、反復された。(6節)
主を呼び求めるなら、確かにゆるしが与えられる。
しかし同時に、主は、それぞれの「しわざ」に応じて報いる方である、という事も、忘れてはならない。
 
 
詩篇99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。
 
あがめよ、とは、高くせよ、という事であり、
拝みまつれ、とは、低くなれ、という事である。
すなわち、主を高く上げ、自分は低くなるべきである。
 
なぜなら、主は聖でいらせられるからだ。
 
こうして、詩篇99篇では、「主は聖である」が3回、反復された。
聖なる、聖なる、聖なる主。
 
私達も、イザヤが体験したように、聖なる主の臨在の前に震えおののきつつ、十字架の上で犠牲となられたイエス様よって清められ、贖われ、主のあかし人となり、神と人との間に立つ祭司として取りなし、祈り、また御言葉を伝え、王として統治する者である。

詩篇講解説教

イエスを通して全世界が救われた事をあらわす詩篇(詩篇98篇)

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詩篇98:1 新しき歌を主にむかってうたえ。主はくすしきみわざをなされたからである。その右の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。

 

私達・神の民が、新しい賛美をつくり、新しいメロディを作曲して主をほめたたえる事は、主の命令である。

それは、主が「くすしきみわざ」をしてくださったからだ。

 

「くすしきみわざ(パーラー)は、元々は「分離する、区別する」の意味で、そこから、神にしかできない不思議、奇蹟という意味となった。

ただ主にしか出来ない、差別化された不思議、奇跡である。

それは、主の右の御手と、聖なる腕によってもたらされ、勝利がもたらされた。

 

 

詩篇98:2 主はその勝利を知らせ、その義をもろもろの国民の前にあらわされた。

 

この節をヘブライ語で見ると、実は、新約福音のエッセンスが記されている。

 

直訳すると、

「主は、イエシュア(救い=イエス様)を知らされた。彼の義を公に、ゴイーム(異邦人達、異邦の国々)の目に。」

 

この内容は、まさに、イエス・キリストの福音ではないか!

 

その救いは、1節にある通り、「御手によって」もたらされた。

 

イエシュア(イエス様)の御手には、十字架の釘跡がある。

全人類を贖って救いをもたらした、あの十字架の釘跡が。

 

それ故、黙示録にあるとおり、全被造物は、ほふられた小羊キリストを、こぞってほめたたえるのだ。

 

 

詩篇98:3 主はそのいつくしみと、まこととを/イスラエルの家にむかって覚えられた。地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た。

 

主が覚えておられたのは、主の恵みと真実のゆえである。

人類に罪と死が入ってしまった時、主は、人を救う「女の子孫」をつかわし、彼が蛇のかしら、すなわち、サタンのかしらを踏み砕く、と、約束して下さった。

その恵みと真実を、主はずっと覚えておられ、時至って、イエシュア(イエス様)がこの世に遣わされ、彼によって救いがもたらされた。

 

4節以降に、その故の賛美の命令が記されている。

 

 

詩篇98:4 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、ほめうたえ。

 

人は、全被造物に向かって命令する立場にある。(創世記1:28)

全被造物を命令するに値する人とは、「主にある人」である。

主にない者が、全被造物を支配すると、被造物をうめかせてしまう事になる。

今、まさに被造物は、うめきの中にある。

 

 

なお、ここで反復されている言葉は「喜ばしい声をあげよ」「喜びうたえ」である。

 

私達の中から、主への賛美が沸き起こって来る、その源は、まさに、救われた事の喜びと、主が真実であられる事ゆえだ。

 

賛美は、主の救いの確信に基づいた源があってこそ、できるものである。

たとえ喜べない状況であっても、主を賛美するなら、救いの確信と喜びが沸き起こって来る。(詩篇34篇)

 

もし、賛美によって、怒りや恐れ、悲しみが沸き起こってくる人があるとするなら、その人は、悪霊に憑かれた人である。

その人の中にいる悪霊が、賛美の内に住んでおられる主を怖がり、悲しんでいるのだ。(1サムエル記14章)

 

 

詩篇98:5 琴をもって主をほめうたえ。琴と歌の声をもってほめうたえ。

詩篇98:6 ラッパと角笛の音をもって/王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。

 

ここで反復されている「ほめ歌を歌え(ザーマル)」は、元の意味は「指で打つ」、そこから、弦楽器や鍵盤などを打って、楽器を演奏する、あるいは、声でメロディをかなでる意味となった。

賛美の際には、音に出せ、という事である。

 

礼拝中であろうとなかろうと、賛美をする時は、口パクするべきではない。

主をほめたたえる時は、実際に声に出し、また、色々な楽器をたくみに用いて、メロディを出すように、と、命じられているからだ。

その命令は、全被造物に対して、である。

 

 

詩篇98:7 海とその中に満ちるもの、世界とそのうちに住む者とは鳴りどよめけ。

詩篇98:8 大水はその手を打ち、もろもろの山は共に主のみ前に喜び歌え。

 

海も、川も、山も、実は主をほめ讃え、主の栄光をあらわしている。

人は、人と人との間にいる時に病む事はあっても、自然の中にいると、癒やされ、なごむのは、全ての創造主、愛なる主の栄光があらわれているからだ。

 

 

この詩の最後には、主がさばきのために来られる事を宣言している。

 

詩篇98:9 主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。

 

主の民は、主のさばきを、喜びとして受け止めることができる。

しかしサタンとそれに属するものは、主のさばきを、糾弾材料として、あるいは恐怖や悲しみとして受け止める。

主のさばきは「公正」である、と書いてあり、公正なさばきは、主の民にとっては慰め、不正を愛する者にとっては都合が悪いからである。

 

最終的には、天も、地も、地の下も、その被造物も、また、そこで生きる全ての生き物も、こぞって主をほめたたえる事になる。

 

黙示録5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。

黙示録5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

黙示録5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

黙示録5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

 

 

篇講解説教

主にあって喜び楽しむ神の民(詩篇97篇)

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詩篇97篇は、70人訳聖書の表題には「ダビデのために。彼の地が安定した時に」とある。
バビロン捕囚から帰還した時代背景も考えられるが、この詩篇は、神の国が到来した時にも当てはまり、また、主の再臨の時にも当てはまる内容である。
 
 
詩篇97:1 主は王となられた。地は楽しみ、海に沿った多くの国々は喜べ。
 
「王となられた」は、マーラフという動詞「王となる・王として統治する」の、完了形である。
 
地や島々に対し、楽しみ、喜べ、と命令できる根拠は、義によって統治される主が、王となられ、その統治が及ぶようになったからだ。
 
この詩篇で反復されているキーワードは、この「楽しみ」(1,8節)、「喜べ」(1,8,12節)である。
「楽しむ」(ギール)は元々、くるくる回る事の意味で、「喜ぶ」(サーマフ)は、顔がパーッと輝く様をあらわしている。
雅歌書のおとめも、このギールとサーマフの「二本立て」で喜んだ。
 
雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。
 
「あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)。。。」
これはちょうど、子犬が、大好きな主人を前に喜んで、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、くるくる回りながら、しきりに鳴くような感じである。
花嫁が王の元に嫁ぎ、王が彼女を彼の部屋へとエスコートした時、彼女はそのような喜びを喜んだ。
私達キリスト者も、花婿であられるイエス様が来られて、彼にエスコートされて御国へと入る時、そのような喜びが沸き起こるが、今、もし私達が、イエス・キリストを自分の王としているなら、その喜びはまさに今、味わう事ができるのだ。
 
 
主が王になられる事は、まさに、「神の国」の到来である。
神の国(ギ:バシレイア)とは、神の「支配領域」の事だからだ。
 
 
ルカ17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 
つまり、私達が神の統治に服しているなら、私達の人生が「神の国」の人生であり、また、クリスチャン事業家が、職場を神の統治下に置いているなら、その職場が神の国である。
そして、神の国が私達のただ中にあるなら、私達も主にある「楽しみ(サーマフ)喜ぶ(ギール)」分がある。
 
 
詩篇97:2 雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である。
詩篇97:3 火はそのみ前に行き、そのまわりのあだを焼きつくす。
 
3節の「あだ(ツァル)」は、元々は「狭い所」の意味で、そこから、敵、苦悩の意味となった。
主の「御顔の前の火(直訳)」火は、主の「義と正」の反対を攻勢して来るサタンにとっては、恐ろい火であるが、主とともに歩んでいる私達・主の民にとっては、慰めの火である。
その火が、私達の人生を狭くしている諸々の苦悩や、それをもたらすサタンを、焼き尽くして下さるからだ。
だから私達は、主と共に歩むべきである。
 
4節以降で、主の力と栄光が強調されている。
 
詩篇97:4 主のいなずまは世界を照し、地は見ておののく。
詩篇97:5 もろもろの山は主のみ前に、全地の主のみ前に、ろうのように溶けた。
詩篇97:6 もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た。
詩篇97:7 すべて刻んだ像を拝む者、むなしい偶像をもってみずから誇る者は/はずかしめをうける。もろもろの神は主のみ前にひれ伏す。
 
「刻んだ像」のヘブライ語「ペセル」は、木や石を刻んだもの、すなわち、人間の技術が生み出したものである。
また、「むなしい偶像(エリィール)は、」は、「偶像」「意味の無いもの」、特に、占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを意味する。
 
人間の技術が生み出した、実体の無いものを、誇りとしている者は、やがて「はずかしめをうける」ことになる。。。
この、「はずかしめをうける」と訳された語「ブシュ」は、「青ざめる」「恥ずかしい思いをする」「がっかりする」「うろたえる」「干からびる」などの意味がある。
つまり、人間の技術が作り出した、実体を伴わない仮想の空虚なものや、アイドル(偶像)にうつつを抜かしながら、何十年も過ごしているとするなら、やがて、うろたえ、恥ずかしい思いをし、がっかりする事になってしまう。
 
 
詩篇97:8 主よ、あなたのさばきのゆえに、シオンは聞いて喜び(ギール)、ユダの娘たちは楽しむ(サーマフ)。
詩篇97:9 主よ、あなたは全地の上にいまして、いと高く、もろもろの神にまさって大いにあがめられます。
 
シオンと、ユダの娘たちにも、ギールとサーマフの二本立ての喜びが、沸き起こった。
彼女たちは、神の民であり、全ての神々をはるかに超えて高きお方が、さばきを実行されたからだ。
 
キリストの花嫁である教会も、花婿キリストが来られる時、そのように喜ぶのである。
 
 
詩篇97:10 主は悪を憎む者を愛し、その聖徒のいのちを守り、これを悪しき者の手から助け出される。
 
主は「”悪”を憎む者を」愛する、と言われた。
「”悪人”を憎む者を」、ではない点がポイントである。
 
キリスト者は、悪人が火で焼かれることを望む者たちではない。
悪人と会うとするなら、その人から”悪”をとり除いて、”人”を救い出すのが、キリスト者の本来であり、それがイエス様のご性質である。
 
詩篇97:11 光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。
 
原文は、光は、正しい人のために「種蒔かれる(ザーラア)」と書いてある。
種は、良い地に落ちれば、100倍の実を結ぶが、その良い地とは、正しい良い心で御言葉を聞いて、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人の事である。(ルカ8:15)
私達がそうなるなら、私達は光の子供として、世のいたる所に光を届ける者となっていく。
 
 
詩篇97:12 正しき人よ、主によって喜べ(サーマフ)、その聖なるみ名に感謝せよ。
 
パウロも言っている。
ピリピ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
 
私達は、主を信じる信仰によってこそ正しくされ、この主にあって、真に喜ぶ(サーマフ)事が、すなわち、喜びによって顔がパーッと明るく輝く事ができるのだ。

詩篇講解説教

全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)

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詩篇96:1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
 
最初に反復されている言葉は「主にむかってうたえ(シールゥアドナイ)」、ヘブライ語の朗読を聞くと、1-2節にかけて「シールゥアドナイ(主に歌え)」が3回、テンポよく続いている。
詩篇95-100篇は、そのようなテンポの良い反復が続いて、賛美の歌詞としてとても適している事が分かる。
 
この詩篇の作者は、誰に向かって「主にうたえ」と言っているか。
それは、「全地(コール・ハ・エレツ:地の上にある者の全て)」を相手取って、命令形で、命じている。
 
一体、この作者は、何さまなのだろうか?
 
それは「人間さま」である。
 
 
主は元々、人間に、全地を支配し、治めるべき役割と責任を与えられた。(創世記1:28)
 
人は、全地を「主にあって」、正しく治めるべきである。
その「正しく治める」とは、全地も人も、こぞって創造主であられる主をほめたたえさせる方向性で、である。
 
残念ながら今、自然界は、人の好き勝手に、それぞれの自己中心的な欲望の赴くままに、搾取し、破壊しているため、被造物は、うめいている。
 
ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
 
私達は、任されている被造物を、主に栄光を捧げる方向性にて治め、全地が主に向かって喜び賛美できるよう、正しく管理し、治めるべきなのだ。
 
 
詩篇96:2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
詩篇96:3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
 
私達が、被造物に対して、最もなすべき事は、この2-3節で示されている通り、主を宣べ伝える事である。
 
イエス様は昇天される前、私達に命じられた。
 
マルコ16:15  「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 
 
福音を宣べ伝えるべき相手は、人間には限らず、「すべての造られた者」である事に、注目すべきである。
私達は、被造物に対しても、主が救い主となられたという「福音」を宣言し、呪いを解いてやることもまた、使命なのだ。
 
 
なお、2節の「宣べ伝えよ」はバーサル、喜びに満ちた、明るいニュースを告げる事であり、3節の「あらわし」はサーファル、集計や記録として印をつける事が元の意味で、すなわち、一つももらさず正確に伝える事を意味する。
 
だから、主の栄光を伝える際には、
1,喜びに満ちた表情で明るい救いのニュースを伝える
2,御言葉は、一つも漏らさず、正しく伝える
という、二本立てが必要であり、そのどちらも欠かしてはならない。
 
イエス様は、福音を告げるべき命令を、私達人間に託された。
 
1コリント1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
 
十字架の福音という宣教のことばは、愚かに聞こえるかもしれない。
死者の復活や、永遠のいのちなど、世の人が聞くなら、信じられない、と言うかもしれないが、しかし私達の分は、喜びつつ、そして、一つも漏らさず、正しく伝える事であって、伝えた福音を受け入れるか、受け入れないかは、私達の責任ではなく、相手の責任である。
 
 
詩篇96:4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。
詩篇96:5 もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。
 
ここで反復されている語は「もろもろの神(エロヒーム)」であるが、それは、異邦の神々の事である。
それらの神々は、天地を創造された主と比較するなら、むなしい。
そもそも、天地を創造された主を置いて、ほかに神々はいないのだが、主は、地の人々が「神々」と呼んでいるものに比較して、抜きん出て力があり、栄光に満ちたお方である。
 
 
詩篇96:6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
 
主の栄光は全地に満ちており、至る所が、主の御前である。
私達はその「御前」において、どのような態度であるべきか。
7節以降に書かれてある。
 
 
詩篇96:7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
詩篇96:8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
 
7-8節では「主に帰せよ(ハヴゥ・アドナイ:主に与えよ)」が、3回反復されている。
 
私達の分は、主に与える事、捧げる事であり、捧げるものは栄光と力である。
特に、「栄光(カーボード)」を捧げよ、と、2回繰り返されている。
カーボードは元々「重い」という意味である。
すなわち、主に栄光を捧げる、とは、主を重んじる心を捧げる、という事である。
 
8節後半から9節は、礼拝という場において持つべきこころざしが記されている。
 
詩篇96:8b 供え物を携えてその大庭にきたれ。
詩篇96:9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
 
つまり私達は、手ぶらで主の庭に入ってはならない。
出エジプト記34:20にも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない、と書いてある。
 
だから、主の前に出る時には、
1,手ぶらではなく捧げものをたずさえて
2,聖なる装いをして
進み出るべきなのだ。
 
だから礼拝に出る時、身を清めもせず、寝起きのままのような適当な格好で、手ぶらで出る事は、主を軽んじる事なのだ。
 
 
詩篇96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
詩篇96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
 
天や地に、海に対し、喜べ、と命じている。
私達は天に向って、台風は来るな、とか、明日は雨が降るな、といった祈りをよくするかもしれないが、むしろ、「喜べ」と命じたほうが良い。
 
詩篇96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も/主のみ前に喜び歌うであろう。
 
植物に対しては、主の前で栄光の花を咲かせ、喜びつつ豊かな実りを主の前で実らせよ、と、命じるのだ。
実際、植木や生花に対して、人が、祝福の言葉をかけてやると、その木は豊かな実りを実らせ、花は長生きする。
逆に、呪いの言葉をかけ続けるなら、すぐに枯れてしまう。
 
私達は、被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけてやるべきである。
 
 
詩篇96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
 
13節は「来る(ボー)」と、さばく(者ファット)が繰り返されている。
主が来られる事と、主のさばきは、主を待ち望んでいる神の民には、慰めであるが、悪者にとっては、それはおそろしい日である。
 
だからこそ、福音を伝えるべきである。
そして被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけ、全て主に創造された者たちが、主に栄光をささげるようにしてやるべきなのだ。

詩篇講解説教

礼拝する民への勧めと警告(詩篇95篇)

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詩篇95篇から100篇までは、主の栄光を褒め称える賛美が続き、これらの箇所では、「主の御前」「主の大庭」における心構え、すなわち、礼拝という場において私達はいかなる心や態度で臨むべきかが、示されている。
 
詩篇95:1 さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:2 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:3 主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。
 
1-2節で反復されている言葉は、「喜ばしい声をあげよう(ルーア)」である。
そのヘブライ語ルーアの元の意味は「(耳を)裂く」、そこから、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す、という意味となっている。
また、1節前半の「歌う(ラーナン)」も、同じ意味で、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す事である。
 
喜びの声を上げることが、反復して命じられている。
 
礼拝では、御言葉に聞き入るという「インプット」と、賛美や祈りという「アウトプット」をするが、アウトプットの場面においては、主に向かって声を上げ、また色々な楽器を奏でて、主を賛美し、また声に出して祈る事が、本来のあり方だ。
 
どなたに向かって、声に出し賛美をするか。
それは、「われらの救の岩にむかって(レ・ツゥル・イシュエヌー)」、と書いてある。
イシュエヌーは「わたしの救い」、すなわち、わたしのイエシュアに、わたしのイエス様に!である。
 
わたしの主イエス様こそ、救いの岩なるお方、われらの大いなる神、すべての神々にまさって、大いなる王であられる。
この主に向かって、声に出して賛美せよ、と、1-3節で語られているのだ。
 
 
詩篇95:4 地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。
詩篇95:5 海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。
詩篇95:6 さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。
 
下は地の深みから、上は山々の頂きまで、すなわち、下から上まで「全部」が、主のものであり、主の御手がつくられた。
 
国々の間では、よく、国境の境界線の問題が取り沙汰されているが、主が言われている事は、地は上から下まで、山々の頂も、海も、島々も、全て主のものである、という事である。
だから私達は、貪欲さをむき出しにして、土地や財を獲得しようとしてはならないし、不当に搾取されてもならない。
 
ルカ12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
 
だから私達の分は、6節にある通りである。
地をつくられ、海を造られ、そして私達を造られた主を拝み、ひれ伏し、御前にひざまずくのである。
 
7節以降には、神の民として分を超えてはならない事が警告されている。
 
 
詩篇95:7 主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。
 
私達は、主の羊である、と、宣言された。
羊の「分」は、何か。
それは、羊飼いについて行く事、その御声に聞いて、その通りにする事であり、私達は「主の羊」としての分を、超えてはならない。
 
 
詩篇95:8 あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
 
マサは「試み」(出エジプト記17:1-7)、メリバは「争い」(民数記20:1-13)を意味する。
 
マサの出来事は、出エジプトしたばかりの時に、メリバの出来事は、荒野での40年の最後に起きた出来事だ。
いずれも、人にとって必要な水が無いという事で試された事件である。
 
マサの時、人々は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた
メリバの時には、主が導いておられる道すがらなのに、ここは穀物や果物が育つような所ではなく水もない、自分たちは死んでいれば良かった、と言って主と争った。
そのように心を「かたくな」にしてはならない、と、命じられている。
 
 
詩篇95:9 あの時、あなたがたの先祖たちは/わたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。
詩篇95:10 わたしは四十年の間、その代をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。
詩篇95:11 それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。
 
この箇所は、ヘブル人への手紙で引用され、しかも、反復強調されている。
 
ヘブル3:7 だから、聖霊が言っているように、/「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
3:8 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
3:9 あなたがたの先祖たちは、/そこでわたしを試みためし、
3:10 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、/いきどおって言った、/彼らの心は、いつも迷っており、/彼らは、わたしの道を認めなかった。
3:11 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息に/はいらせることはしない、と誓った」。
 
彼らは、御声を聞いた事がない、のではない。
御声を聞いていて、その上で心をかたくなにして、そむいたのである。
 
安息へと入らないためのコツ、主が「共におられなくなる」ためのコツは、心かたくなにする事、うなじをこわくする事である(出エジプト記33:5)。
かたくなさ。
それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
 
 
そうならないためのコツは、聖徒の交わりの中にいて、ともに励まし合う事である、と、続く節で語られている。
 
ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
 
「きょう」という言葉が繰り返し強調された。
 
今、私達は、主から何か御言葉が与えられているだろうか。
主の御旨にかなった、あの事をしなさい、と、言われているだろうか。
捧げ物を滞らせていないだろうか。
あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を、止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。
怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するあの習慣、兄弟姉妹を悲しませているあの性質から、離れなさい、と言われているだろうか。
 
もし語られているなら、顔を背けず、それに服従すべきである。
いつ?
それは、「きょう」、すなわち、「今すぐ」である。
 
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
 
結局、安息に入る条件とは、聞いた御言葉を、信仰によって結びつけ、それに従順する事である。
御言葉を聞いたなら信じ、信じたなら、きょう、自分の意図を捨てて、御言葉のほうに服従する事。
安息に入るためには、それをするに尽きる。

詩篇講解説教

主に正しいさばきを求めるべき神の民(詩篇94篇)

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94:1 あだを報いられる神、主よ、あだを報いられる神よ、光を放ってください。
 
この詩篇は、「あだを報いられる神」という、主への呼びかけの反復によって始まる。
悪がまかり通っていて、その者たちがして来た悪に対しては何の報いも受けないまま、のさばっている現実に対して、主に「復讐の神」として現れて下さる事を求めている。
 
復讐、というと、抵抗を感じるクリスチャンは多いかもしれない。
しかし、クリスチャンは、無抵抗主義であるべきではない。
 
ただし、復讐は、私達が遂行するものではなく、主がしてくださるものである。
私達がすべきは、義をもってさばいてくださる主に、願い求める事だ。
 
ローマ12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 
イエス様が言われた「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という言葉は、無抵抗であれ、という意味ではない。
イエス様はその言葉の前に、「悪い者に手向かってはいけません」と、言われている。
 
すなわち、右の頬を打たれた時、左の頬を差し出す事よって、相手は「悪い者」であると認定し、そして、自分は悪い者をさばく事を自分ではせず、主のさばきにすべて委ねるものである、と、態度で表明するのだ。
 
だからもし、兄弟姉妹と言われている身内の中で、暴力を平気で行うような性質が芽生えているなら、左の頬を差し出している場合ではない。
神のさばきがその兄弟姉妹に及ばないよう、きっちりと戒めるべきなのだ。
 
 
94:2 地をさばかれる者よ、立って/高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
94:3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
 
悪者どもはレシャーイーム、1:1の「悪者」と同語である。
そこを見ると、悪を行う者たちは、風が吹き飛ばすもみがらのように散らされ、それに引き換え、主のおしえを喜びとし、昼も夜も御言葉をくちずさむ人は、水路のそばに植えられた木のように栄えて、廃れる事は無く、何をしても栄える、という法則が書かれてある。
 
4節以降に、この悪者どもは、何をして来たのか、どういう性質であるのかが、具体的に列挙されている。
 
 
94:4 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
 
つまり彼らは、悪い事をするのに、一切の躊躇が無い、どころか、悪びれもせず、その悪をしている事をむしろ自慢するのである。
 
 
94:5 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
 
彼ら神の民を打ち砕き、主の嗣業(ナハラー:相続)の内に生きる人を、狙い撃ちにして来る。
 
 
94:6 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
94:7 彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
 
彼らは、ヤコブの神、と言っている。
つまり、まことの神について、キリスト教について、ある程度知っていながらにして、まことの神をあざけり、その民に対して暴挙をしている、確信犯である。
 
そのような者の、反キリスト敵な言動は、放置してはならない。
放置するなら、その者の悪事に同意している事になってしまう。
 
私達は、それに対して、「神の御言葉はこうである」、と宣言するべきであり、本人を前にそれを言う勇気や立場が無いとするなら、この詩篇の作者のように、主に義のさばきを訴え、主の報復が成る事を祈り求めるべきである。
 
 
94:8 民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
 
「鈍き(バーアル)」は、元は、火が燃え上がる、食い尽くす事の意味で、「愚か者(ケセイル)」は、元は「太った」「脂肪づいた」という意味である事から、「鈍い」「おろか者」、という意味となる。
つまり彼らは、火が燃え上がるような貪り食い尽くすような者で、なおかつ、心に分厚い脂肪がついたかのような、良心が鈍い者である。
彼らの貪りの行いによって、悲鳴を上げている人々を、彼らが見ても、聞いても、そんな事を何とも思わない者たちだ。
 
そのような者に対しては、「気づけ」「悟れ」と言う。
そう、気づかせるべきである。
 
何を気づかせ、悟らせるべきか。
それは、すべて正しいさばきをされる、全能の神について、である。
 
 
94:9 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
94:10 もろもろの国民を懲らす者は/罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
94:11 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
 
ここで彼は、宣言している。
神は人をつくられ、そのはかりごとを、心の隠れた隅々まで知っておられる、という事を。
そして、主は、全世界のさばき主であられる、という事を。
 
クリスチャンは、罵詈雑言は言うべきではないが、黙っているべきではない。
もし黙っているなら、何も動かない。
主は、いかなるお方であるのかを彼らに宣言するべきであり、そして、神に訴えるべきなのだ。
 
そうするなら、物事が動き出す。
どう動き出すかが、12節以降に記されている。
 
 
94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
94:13 あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまで/その人に平安を与えられます。
 
12節に、私達のするべき分が書かれてある。
すなわち、主のおきてによって教えられ、時には主から懲らされ、そうして、主の道を歩む事である。
そうするなら、13節にあるとおり、災いから逃れさせ、平安が与えられ、かつ、その間には悪者のために穴が掘られるのである。
 
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
94:15 さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
 
「さばきは正義に帰り」とはどういう事か。
主は、この世を、義によって固く建てられた。
世は、形状記憶合金のように、義へと戻るように造られているのである。
だから、いかに悪者がさばきを曲げ、法律を変えようとも、結局は義へと帰るようにできているのである。
 
94:16 だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。
94:17 もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
 
もしも、と、仮定法が使われている、という事は、結局最後は、主が助けとなって下さり、たましいは救いを得、さいわいを得た、という事である。
 
94:18 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。
94:19 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
 
彼は祈り、そして宣言した。
「足がすべる」と思った時、主のいつくしみが支えて下さった、と。
ここの「支える」は未完了形で、すなわち、今まで支えて下さった、のみならず、これからもずっと支え続けてくださる、という告白である。
 
また、思い煩いが満ちる時、主の慰めが、魂を「喜ばせ(シャァアー)」た、と告白しているが、シャァアーは、かわいがる、あやす事の意味があり、これも、ここでは未完了形である。
つまり、思い煩いが満ちて主に求めるなら、その都度、主はあやして下さり、かわいがってくださる、今までそうだったし、これからもずっとそうである、という告白である。
 
 
94:20 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は/あなたと親しむことができるでしょうか。
94:21 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。
 
「定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者」は、法律を自分に都合がいいように改定する、悪どい者である。
しかも、「彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告」する。
そのような者に対し、主は、決して親しむ事はなさらない。
 
94:22 しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。
94:23 主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。
 
この詩篇は、主こそ自分にとっての守りであり、そして主は、彼らの不義は彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされる、という宣言で、終える。
 
この詩篇は、「あだを報いられる神」という呼びかけの反復で始まり、最後は「主は彼らを滅ぼされる」という宣言の反復で終わった。
こうして、この事はたしかに成就する、と、印が押された。
 
私達も、世においてまかり通っている悪を見たなら、この詩篇のとおりに、主に義のさばきを願い求め、また、主の復讐の日を宣言するべきだ。

詩篇講解説教

主の主権を強調し賛美する詩篇たち(詩篇93篇)

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この詩篇は、詩篇100篇に至るまで続く、神様の主権と支配を告白し賛美する一連のグループのはじまりで、特に、神の王権と支配を、ヘブライ語の繰り返しによる強調表現を駆使して賛美している。
 
93:1 主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。まことに、世界は堅く立って、動かされることはありません。
 
1節で、繰り返しによる強調は、「主はまとう」である。
まとう(לָבַשׁラバシュ)は元々巻きつけるという意味で、そこから、覆う、着る、という意味になる。
主は、何をまとわれるのか?
それは、みいつ(尊厳、英語ではmajesty、גֵּאוּתゲウト)であり、この表現によって強調された動詞は、主が「王として治めている」事である。
日本語は「王となり」と訳されているが、これは「王(メレク)」という名詞ではなく、「王として治める(マーラク)」という動詞である。
 
 
93:2 あなたの位はいにしえより堅く立ち、あなたはとこしえよりいらせられます。
 
この節では、同じ語による繰り返しはないが、「いにしえ」「とこしえ」という似た意味が繰り返されて、主の御座が「固く立つ(クンכּוּן)」事が、強調されている。
主は、とこしえからとこしえまで、御座におられ、そこから、主の統治を発される。
 
 
93:3 主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。
93:4 主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです。
 
3節では、「大水は声をあげました。」、という言葉が、3回も繰り返されている。
「大水は声をあげました。」とは、どういう事だろう。それが3回も繰り返されたのは、どういう事か。
 
「大水(ナーハールנָהָר)」は、川という意味のほかに、流れ、洪水、海の意味があるが、ナーハールは特に、エジプトのナイル川や、アッシリヤのユーフラテス川を指す事が多い。
 
また、「声をあげている」と訳された語ナーサーנָשָׂאは、持ち上げる、掻き立てる、という意味である。
 
エジプトやアッシリヤといった、主を知らず、主の民を圧迫する大国の、文明の源と言える川さえも、主によって創造されたものであり、主によって掻き立てられ、主によって平定されるのだ。
主を知らず、主に逆らう大国も、結局は、主の支配の下にあるのだ。
 
そして4節では「まさって力強い(アディールאַדִּיר)」が繰り返されている。
アディールは、広い、大きい、という意味から、力強い、という意味となった。
主は全世界を、王として統治され、主を知らない人が多い、この日本をも、主は掻き立て、また平定される。
 
93:5 あなたのあかしはいとも確かです。主よ、聖なることはとこしえまでもあなたの家にふさわしいのです。
 
この節には、繰り返しによる強調表現はないが、メオド(とても)という言葉によって、「あかしが(エダーעֵדָה)が、確か(アーマンאָמַן)」である事が、強調されている。
アーマンは、アーメンの元となった語である。
 
私達は、聖書という主の「証言」によって、たましいが生き返り、賢くされ、喜びを感じ、見えていなかったものが見えるようになって来る。
それによって、主は確かに生きて働かれる、という事を知ることができる。
 
また、この天地万物の主の御手のわざからも、主はおられる、という「あかし」を、私達は見て取る事ができる。
主のあかしは、まことにアーマン、すなわち、確かなのだ。
 
詩篇19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
 
まことに、主の御言葉は、それらは金よりも好ましく、はちみつよりも甘い。
人を生き返らせ、物事を見えるようにし、また目を輝かせる。
御言葉によって戒めを受け、またそれを守るなら、報いは大きいのだ。

詩篇講解説教

安息日を大切にする人への祝福(詩篇92篇)

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表題には、安息日のための歌、と、書いてある。
 
主は、安息日を特別扱いしなさい、と、十戒で定められた。
なぜなら安息日は、主の創造のみわざが完成し、主がその日に休んで安息した日であるからである。
 
ユダヤ人は、安息日を中心に1週間を過ごしている。
なぜなら、主が命じられた事は、六日間は働いて仕事にいそしみ、第七日目は、主の安息をおぼえて、どんな仕事もしてはならない、と、十戒において命じられたからだ。
主は、六日間働いて、全てのものを造り、七日目に、休まれたからだ。
 
安息日にするべき事が、1-2節において、3つの動詞で、示されている。
 
92:1 いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
92:2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、
92:3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。
 
3つの動詞とは、
 
1,感謝する(ヤーダー)
元々は「手を使う」事で、投げる、弓を放つ、といった意味となった。
主に向かって投げるべきは、感謝であり、賛美であり、私達自身の冠である。
 
2,歌う(ザーマル)
ザーマルの意味は、「歌う」の他、賛美する、楽器を奏でる事の意味である。
表題の「歌(ミズモール)」は、ザーマルの名詞形である。
3節では、色々な楽器を用いて主に賛美を捧げる事は、良いことだ、と書いてある。
だから礼拝では、極力、色々な楽器を用いて賛美を捧げた方が良い。
 
3,あらわす(ナーガド)
意味は、告げる、知らせる、教える、言い表す、を意味する。
すなわち、口でもって、表明するのだ。
何を表明するのか。それは、主の恵み、主の真実を、である。(2節)
 
それらは、良いこと(トーブ)である。
トーブとは、パーフェクト、ビューティフル、グッドである。
主を覚え、主を安息するべき日に、主に感謝し、賛美を捧げ、また信仰を口で表明する事こそ、パーフェクト、ビューティフル、グッドなのだ。
 
92:4 主よ、あなたはみわざをもって/わたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。
 
この詩篇の作者は、主のみわざを喜んでいる。
全て、神の民は、主がなさった創造のすばらしいわざと、その完成を喜ぶものであるが、同時に、主の聖徒一人一人は、おのおのの人生に主が降りて来て下さった事、主が不完全で欠けた私達を、癒し、不当な虐げを強いてきた敵を裁き、満ちたらせ、やがては完全なものとさせて下さる事を、喜ぶものである。
 
 
92:5 主よ、あなたのみわざは/いかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、
92:6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。
 
「鈍い者(バアル)」は、元々は「食べ物」を意味するが、そこから、家畜のような愚かさ・残忍さなど、聖なる性質の一切無い、肉欲の現れである。
「愚かな者(ケシール)」は、太ったもの、鈍い者の意味である。
 
すなわち、世の楽しみや諸々の心配事によって、心の脂肪がついて、霊的感性が鈍感になってしまった人、また、家畜のように食べ物や残忍さしか求めない、肉欲だけで生きているような人は、主が大いなるみわざを行った事に対して、何の感動も、感謝もない。
彼らは、主に対する期待も、邪悪な者に対するさばきも、一切関心が無い。
 
私達の中から、そのような「鈍さ(バアル)」や「愚かさ(ケシール)」は、イエス様の名前によって踏みつけ、取り除くべきだ。
 
92:7 たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。
92:8 しかし、主よ、あなたはとこしえに/高き所にいらせられます。
92:9 主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。
 
7節を見ると、悪人がもうじき滅びる前兆とは、悪人が「繁栄している事」である事が分かる。
エステル記や詩篇73篇も、そのパターンであった。
だから悪人がはびこっているのを見た時、私達は、その先が短い事を知り、エステルのように見を慎んで祈り、詩篇73篇のアサフのように、主の聖所に入って祈るのである。
 
そうするなら、次の事が起きる。
 
92:10 しかし、あなたはわたしの角を/野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。
92:11 わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの/破滅を聞きました。
92:12 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
 
主は、礼拝すべき日には礼拝を遵守し、主の御業に思いを馳せて信頼する者を、このように守り、高く引き上げて下さる。
さらに、
 
92:13 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
 
主の家に植えられる、とは、主の目が常に注がれた特別な地に移し変えられ、特別保護の中で栄えるのである。
 
92:14 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
92:15 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
 
年老いてもなお実を結び、生気に満ちている、とは、誰もが望む所である。
実際、アブラハムも、モーセも、カレブも、年老いてなおそのようだった。
 
私達も、安息日を覚えてこれを聖とし、主を大切に覚え、礼拝から離れないなら、そのような尊厳に満ちた生涯を送る事ができるのだ。

 

 
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