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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

詩篇 講解説教

人から来る圧迫のただ中でも平安と喜びを湧き上がらせる方法(詩篇61-62篇)

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詩篇61-64篇の背景は、アブシャロムがダビデに対してクーデターを起こし、ダビデはユダの荒野に逃げざるを得なくなった時のものと思われる。(63篇表題)
強い敵が追い迫って来た時、人から圧迫され続けている時、私達はどのように乗り切るか。その術を、この一連の詩篇から学びたい。
 
詩篇61篇表題『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌』
61:1 神よ、わたしの「叫び(リナー)」を聞いてください。わたしの祈に耳を傾けてください。
 
「叫び(リナー)」とは、金切り声、甲高い叫びである。
ダビデは、金切り声を上げざるを得ないほどの圧迫に瀕していたが、その金切り声を単に響かせるのではなく、主に向かって、叫んだ。
何事も、金切り声さえも、主に向かう事。それこそダビデの道である。
 
詩篇61:2 わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて/わたしの及びがたいほどの高い岩に/のぼらせてください。
61:3 あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです。
61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ
 
アブシャロムに追われて、ユダの荒野にいる彼は、まさに、地の果てにいる心地だったろう。
私達も、圧迫するようなもの、事、状況を前にした時、ダビデのように主に叫び、全ての重荷を主に委ねるなら、そこがたとえ地の果てであろうと、あるいは、いつもの職場や家庭であろうと、そこは主の幕屋となり、また、主の翼の陰となる。
 
詩篇61:5 神よ、あなたはわたしのもろもろの誓いを聞き、み名を恐れる者に賜わる嗣業を/わたしに与えられました。
 
ダビデは宣言した。嗣業は既に与えられました、と。
まだ実体として得ていないのに、主の御言葉を盾にとって、信仰を混ぜて「得た」と宣言する。すると、実際にすぐ与えられた、という証を、信仰者はよくする。
それは確かな事である。次のように書いてある。
『信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』(ヘブル11:1)
 
詩篇61:6 どうか王のいのちを延ばし、そのよわいをよろずよに至らせてください。
61:7 彼をとこしえに神の前に王たらしめ、いつくしみとまこととに命じて/彼を守らせてください。
 
ダビデは、王のいのちを伸ばしてくださいと祈ったが、神の国に生きる王は、世の王とは全く違う。
世の王は、人々の上に立って権力をふるい、好き勝手に支配できるため、誰もが王様になりたがる。
しかし、神の国の王たる者は、そうであってはならない。
イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。
『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
 
私達・主イエスを信じる者は、事実、王である。
王として、民を良い政治を行って幸いにし、神の敵と戦い、悪い者から支配権を奪還し、神の統治をもたらさなくてはならない。
 
ダビデは彼の告白を主に申し上げ、訴えた結果、平安が与えられ、賛美が生まれた。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
彼は告白した。とこしえに神と共に住まい、いつまでも永遠に主をほめたたえる、と。
それだけでなく、地上における残された日々も、いつも主に対しての誓い(ネデル:約束)を果たしていく、と。
これは、うるわしい主に対する私達の告白でもあるべきである。
 
そして、力強い信仰宣言に満ちた62篇へと続く。
 
詩篇62篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌』
62:1 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが救は神から来る。
 
62篇の1,2,4,5,6節は、「アク」というヘブライ語で始まる。
「アク」は肯定の助詞で、日本語では「ただ」「こそ」「まことに」など、強い肯定を表現する。
 
詩篇62:2 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
 
神を「わが岩、わが救、わが高きやぐら」と呼ぶのは、ダビデに特徴的な宣言だが、これを、ダビデだけの宣言で終わらせてはならない。
私達自身の宣言にするべきだ。
詩篇は、全人類が直面するあらゆる問題に対処できる祈りが、記されているからだ。
 
詩篇62:3 あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。
62:4 彼らは人を尊い地位から落そうと「のみ(アク)」はかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。〔セラ
 
ダビデは、このような者によって、苦しめられていた。
人を、尊い地位から落そうとはかり、偽りを喜び、その口では祝福しても心のうちではのろうような者達に。
 
神を恐れぬ者や良心が麻痺している者は、今にも倒れそうな石垣を見ると、倒したい衝動に駆られる。
いじめられっ子がいじめられているのを見たら、嬉しくなって、一緒にいじめに参加するのだ。
それら、破壊したい、殺したい、倒したいという衝動、は、サタンから来る。
 
私達は、忘れてはならない。
主はそのような弱者が虐げられているのを黙って見ておらず、特に、ダビデのように、主に叫び求める者の声を、主は聞いて下さるのだ、と。
ダビデに敵対した者達の末路を見れば、その者達が最後はどうなるかがわかる。
 
詩篇62:5 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが望みは神から来るからである。
62:6 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
62:7 わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
 
この世の中で、最も敵に回してはならない人とは、力ある人でも、お金持ちでもない。
ダビデのように、何かあったらすぐに主に走って行き、泣きつき、訴え、御言葉を宣言する人だ。
ダビデはその事を、人々に模範として示すために詩篇を書いている。
 
詩篇62:8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ
 
これが、真の王が宣言すべき言葉である。
真の王とは、人々の心を、まことの神である主へと向けるようにと、支配する王である。
 
詩篇62:9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
 
ダビデは宣言した。
人は、むなしい。身分が低い人も、高い人も、ともどもに。彼らを全部まとめても、息よりも軽い、と。
そうであるからには、「息よりも軽い」人間による「息よりも軽い」いじめ言葉や、「息よりも軽い」者の嫌がらせに、目を留めても仕方ない。
私達は、永遠に土台として残るイエス・キリストの言葉にこそ目を留め、そこに土台を据えるのだ。
その土台に立つ時、私達は、そうした「軽い」物事は一切、問題ではなくなる。
 
詩篇62:10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
 
しいたげも、かすめ奪う事も、力づくで人を圧迫する事であり、そこに生活基盤を置いてはならない。
圧迫された人が、主に叫ぶ時、主が、その者達に敵対されるからだ。
 
富は、使ってしまえばなくなってしまう。
そのようなものにも、人生の基盤を置いてはならない。
人生の基盤は、永遠のいのちの源である主にこそ置くべきだ。
 
62:11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。
 
話すための口はひとつ、聞くための耳は2つである。
タルムードによれば、神は人を、口を使うよりも神の言葉を耳で二倍聞くように、そのように創造されたという。
私達はただ一つ、神の口から出る言葉をこそ、この二つの耳をよくかたむけて聞くべきである。
最後にダビデは願う。
 
詩篇62:12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって/報いられるからである。
 
もし主が、人のおのおののわざに従って報いていたなら、誰一人、生きながらえる者はいない。
しかし、主イエス様の贖いによって、赦しと救いを得た。
だから私達もダビデのように、ほめたたえるのである。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
主のあわれみ、主の素晴らしさを体験し、味わい、実感し、そうして感動した心をもって、人々に主の素晴らしさ伝え、そして王として、人々に憐れみの統治をしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

ダビデの連戦連勝の陰にあった、彼の葛藤の祈り(詩篇60篇)

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詩篇60篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「あかしのゆり」というしらべにあわせて教のためにうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが、アラムナハライムおよびアラムゾバと戦ったとき、ヨアブがその帰りに、塩の谷でエドムびと一万二千人を殺したときによんだもの』
 
この表題の出来事は、第2サムエル記8章、1歴代誌18章で示されている。
それらの記事を見ると、「ダビデは**と戦った、勝った」と、結果だけが淡々と記されていて、途中どんな葛藤やドラマがあったのかは記されていないので、その箇所だけを見るなら、あたかもダビデは、何の苦労も無く連戦連勝したかのように見えるかもしれない。
しかし、詩篇60篇の内容を見ると、決してそうではなかったのだという事が伺える。
 
詩篇60:1 神よ、あなたはわれらを捨て、われらを打ち破られました。あなたは憤られました。再びわれらをかえしてください。
60:2 あなたは国を震わせ、これを裂かれました。その破れをいやしてください。国が揺れ動くのです。
60:3 あなたはその民に耐えがたい事をさせ、人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。
 
ダビデはその時、北のアラム・ナハライム(アラム軍)や、アラム・ツォバ(ダマスコの北東の国)と戦っているさ中で、しかもその時、南からはエドムが蜂起して戦いを仕掛けて来た。
強敵が次から次へとイスラエルに襲いかかって来る。
その時、ダビデは、あたかも神が憤ってダビデを捨てたかのように感じたのだ。
ダビデがここまで弱気な事を書いたからには、この時のイスラエルは、普通の人が見るなら、誰が見ても絶望、と見られる程の、危機的状況だったのだろう。
しかしダビデは、信仰を奮い立たせて、宣言する。
 
詩篇60:4 あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと/あなたを恐れる者のために/一つの旗を立てられました。〔セラ
 
ここは、訳し方が分かれる節である。
原文は以下である。
ナタター(あなたは与えた) リレエイカ(恐れる、打つ) ネス(旗) レヒトノーセス(ひらめく、逃れる) ミペネイ(顔に、〜前に、のために) コシェット(ヘブライ語:真理、アラム語:弓) セラ
 
口語訳や新改訳は、コシェットをアラム語の「弓」と訳したが、KJVや新共同訳は、ヘブライ語の「真理」と訳している。
主は、主をおそれ敬う人達、すなわち主を避け所として、主の御旗の元に集う人の前には、真理(あるいは弓)をもって、偉大な御力をあらわしてくださるのだ。
 
旗には、自分の所属のしるしが記されている。
私達も、自分の所属は、天地を創られた主である、という事を表明するために、主の御旗を掲げるべきである。
どのようにしたら、主の御旗を掲げる事が出来るのだろう。
出エジプト記に、主の旗をかかげて勝利をもたらした記事がある。
 
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
 
手を上げて主に祈る事が、すなわち、主の旗を掲げる事である!
 
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11節)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が「主の旗」となり、それが戦いを左右した。
教会と、世の組織との違いは、祈るか、祈らないか、であり、祈る教会と祈らない教会とでは、大きな違いが出てくる。
世の人は、肉弾戦で戦おうとするが、私達・教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威をもって、戦うのである。
 
出エジプト記17:12 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。
 
このように、霊的指導者の祈りの手が下りないように支える働きは、実戦部隊より重要である。
教会も、牧会者が祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、事務作業において、経済において、支える働き人が必要である。
もし牧会者ひとりが、祈りと御言葉の奉仕をし、その上で事務作業をしたり、日銭を稼いだりしていたら、疲れ果てて、祈りの手が萎えてしまう。
 
出エジプト記17:13 ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。
 
祈りに専念したら、ヨシュアが戦って勝利してくれた。
ヨシュア、ヘブライ語でイエシュア、その意味は「主は救い」。すなわちヨシュアは、イエス様の名と同じである。
私達も、祈りの手を上げて主の旗をかかげるなら、まことのヨシュアであられるイエス様が戦って、勝利をもたらしてくださるのだ。
 
出エジプト記17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、/「主の旗にむかって手を上げる、/主は世々アマレクと戦われる」。
 
「主は世々、戦われる」と書いてある。世々に、という事は、今も、である。
現代の私達も、手を上げて祈る時、主の旗が掲げられ、そうして主は、今も、主の民に敵対する者と戦われるのだ。
 
詩篇60篇は、4節で、セラ(モードチェンジ)が宣言されている。
恐れおののいていたダビデは、主の御旗を掲げた信仰宣言によって、その雰囲気をチェンジする。
 
詩篇60:5 あなたの愛される者が助けを得るために、右の手をもって勝利を与え、われらに答えてください。
 
ダビデは、主の右の手をもって勝利を与えてください、と願った。
主の旗は、世々に渡って勝利を与えて下さる主の手である。
そしてダビデは、主の聖所に入り、主の言葉を聞いた。
 
詩篇60:6 神はその聖所で言われた、「わたしは大いなる喜びをもってシケムを分かち、スコテの谷を分かち与えよう。
60:7 ギレアデはわたしのもの、マナセもわたしのものである。エフライムはわたしのかぶと、ユダはわたしのつえである。
 
シェケムとエフライムはヨルダンの西側、スコテとギルアデはヨルダンの東側の地で、それらの地は元々、創世記15章において、主が「与える」と約束された相続地である。
私達も、祈りの内に主の聖所に行って、主の約束の御言葉を盾にとって祈るなら、それは実現する。
 
詩篇60:8 モアブはわたしの足だらい、エドムにはわたしのくつを投げる。ペリシテについては、かちどきをあげる」と。
 
モアブ、エドム、ペリシテは、神の民に敵対して来た者達であるが、主は、それを足の下に踏みつける、と言われる。
私達も、御言葉を宣言するのだ。
「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。」(ローマ16:20)
 
詩篇60:9 だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。だれがわたしをエドムに導くでしょうか。
60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
60:11 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。
 
ダビデは、北から南からイスラエルを引き裂こうとして来た強敵を前に一度は恐れおののいたが、しかし信仰告白によって奮い立つ。
 
詩篇60:12 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。
 
ダビデは「神によって」と宣言した。
そう、人の力や助けは虚しいが、神にあって私達は強い。
 
ダビデはこの宣言をもって、戦った結果、あっさりと勝利した。
 
サムエル記や歴代誌の記述だけを見ると、あたかもダビデは何の葛藤もなく、あっさりと勝ったかのような印象を受けるが、そうではない。
ダビデにも戦いの毎に恐れがあり、そして主への祈りと信頼があり、そして勝利する度に、主への感謝と賛美があったのだ。
 
この詩篇の表題にある「あかしのゆり」の原語は、シュシャン・エイドゥース。
シュシャンはゆり、エイドゥースは「あかし」で、新共同訳では「定め」「教え」と訳されている。
つまりこの詩は、教えのために作られたものであると考えられる。
 
この詩は、現代の私達にも、教える。
戦いを前に、あるいはコロナウイルスが蔓延る現状に、恐れがあるだろうか。葛藤があるだろうか。
しかし主は、今も、祈りの手を上げて御旗を掲げる人には、イエシュアであられるイエス様が戦ってくださり、勝利をもたらしてくれるのだ。

詩篇 講解説教

好んで悪に加担する者達に殺されそうになった時にダビデが宣言した祈り(詩篇59篇)

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詩篇59篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはサウルがダビデを殺そうとして人をつかわし、その家をうかがわせたときダビデのよんだもの」
 
この時の状況は、1サムエル記19章11節以降に記されている。
ダビデはサウルの元で仕え、戦争の時は千人隊長として真っ先に敵陣に突入して勝利をもたらし、平時はサウルの元で立琴を弾いていたが、サウルは妬みにかられ、悪霊に憑かれて、ダビデに槍を投げた。
ダビデは槍を逃れて、妻ミカルがいる家に逃げ帰ったが、サウルは使者をその家に遣わし、夜があけたらダビデを殺そうとしていた、まさにその夜の状況を、ダビデは詩篇に編纂し、後にダビデが王になった時、聖歌隊にこれを歌わせ、主を賛美した。
 
詩篇の順番は、時系列ではなく、内容順にまとめられており、特に51篇以降、ダビデが「自分自身の罪」という敵に、あるいはサウルやペリシテ人など、あらゆる外的な敵によって苦しめられた時、それらに対し、いかに主と共に克服して行ったかが記されている。
ダビデが危機に陥る都度、彼は主を叫び求め、祈り、そうして心の平安と、そして実際的な助けを得て行った。
これらの詩篇は、全て私たち主の民に対するメッセージであり、私たちも危機的状況に陥った時、どのような祈りをすればよいか、また、主はどのような危機から解決して下さるかを、知る事が出来る。
 
59:1 わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。
59:2 悪を行う者からわたしを助け出し、血を流す人からわたしをお救いください。
 
わが神(エロハイ)の呼びかけによって、この詩が始まる。
いのちを付け狙う者が目の前にせまっていて、今にも殺されそうな時、ダビデは神を「わが」と呼び、神は自分のもの、と宣言した。
 
私たちもこれを習うべきである。
神は、すべてより頼む者を助けて下さる。
神は、私たちと関係無き存在ではなく、私たちと関係される存在、そして、私の拠り所、と宣言するなら、主が本当に直接関わって下さる。
 
59:3 見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。主よ、わたしにとがも罪もなく、
59:4 わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。
 
ダビデがいのちを付け狙う者達に囲まれているのは、ダビデが悪い事をしたからではなかった。
彼はただ、サウル王の元で、神と、神の民イスラエルに、純粋に仕えていただけだった。
しかしサウルは、ダビデの活躍をねたみ、ダビデは命を狙われる事になってしまった。
 
そこでダビデは、主に、「目」を用いて、この状況を見てください、と願い求めた。
正しい事が行われていない現状です、自分は殺される事などしていないのに、不当にも命が奪われようとしています、と。
私たちも、主に願い求めるのだ。
主よ、どうか今のこの状況をご覧になって下さい!と。
 
59:5 万軍の神、主よ、あなたはイスラエルの神です。目をさまして、もろもろの国民を罰し、悪をたくらむ者どもに、あわれみを施さないでください。〔セラ
 
「もろもろの国々」と訳された語「ゴイーム」は、群生する獣やいなごが元々の意味で、特に、主を知らない異邦の者達のことをいう。
敢えて好き好んで、悪に加担する者達を罰してください、とダビデは主に願う。
その者達が、以下の意図をもって悪を行っているからだ。
 
59:6 彼らは夕ごとに帰ってきて、犬のようにほえて町をあさりまわる。
59:7 見よ、彼らはその口をもってほえ叫び、そのくちびるをもってうなり、「だれが聞くものか」と言う。
 
彼らは、口で(言葉で)、多くの罪を犯しているのだ。
「だれが聞くものか」。
これは、「神はいない」という人生観で、誰も見ていない所では、どんな悪い事を犯してもいい、と思い込んでいる人々だ。
そのような者達には、主が生きておられる事、主は決して嘲られるお方ではない、という事を、知るべきだ。
そのために、ダビデは以下のように祈る。
 
59:8 しかし、主よ、あなたは彼らを笑い、もろもろの国民(ゴイーム)をあざけり笑われる。
59:9 わが力よ、わたしはあなたにむかってほめ歌います。神よ、あなたはわたしの高きやぐらです。
59:10 わが神はそのいつくしみをもって/わたしを迎えられる。わが神はわたしに敵の敗北を見させられる。
 
ダビデは宣言した。
自分は、彼らが軽んじた主が「わが」力である、そして主は、主をないとする者達(ゴイーム)をあざける、と。
さらに主は、ダビデを襲う者達の敗北を見させて下さると。
なぜなら彼らは、何も悪い事をしていないダビデを、不当に追い回し、いのちを奪おうとしており、対してダビデは、主が「わが神、わが避けどころ」と宣言した。主の軍配は、確実に、ダビデに上がるのだ。
 
59:11 どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。
59:12 彼らの口の罪、そのくちびるの言葉のために/彼らをその高ぶりに捕われさせてください。彼らが語るのろいと偽りのために
59:13 憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。〔セラ
 
彼らのように、悪辣な事を平気でする者達が、あまりにも速やかに滅びるとするなら、人々は、すぐに忘れてしまうため、むしろ人々が忘れないように、敢えて彼らが長くさまようようになって、人々がそれを見る時、「確かに悪者はこうなるのだ」「主は確かに生きておられる」と、知るように、とダビデは願った。
義であられる主は、主に逆らって悪を行う者達に、災いを降す事によっても、栄光をお受けになるのだ。
 
59:14 彼らは夕ごとに帰ってきて、犬のようにほえて町をあさりまわる。
59:15 彼らは食い物のためにあるきまわり、飽くことを得なければ怒りうなる。
 
「うなる」と訳された語の元の意味は「とどまる」「ずっとそこにいる」事をあらわしている。
ダビデを狙っていた者は、その晩、一晩中ずっとダビデの家の外で待ち伏せ、夜が明けたらダビデを捕縛して殺そうとしていた。
しかし、ミカルがダビデを窓から吊り降ろして助けてくれたので、ダビデは主の守りの内に逃げる事が出来た。
 
59:16 しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。
59:17 わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。
 
彼は最後、主への喜びの賛美でこの詩を閉じる。
どんなに敵が夕に攻めて来て、一晩中、犬のようにうろつきまわっても、朝には主の守りと平安が来るからだ。
彼は主をやぐらとし、助けとした。
そのような人に対し、主はどのように扱って下さるか。
詩篇91篇に記されている。
 
91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

詩篇 講解説教
あえて真理に耳をふさぎ、喜んで悪に同意し偽りを選択する者に対しての祈り方(詩篇58篇)
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詩篇58篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌」
 
この詩篇には、敢えて不正を好み悪魔サタンに同意するような者に対して、どう祈るべきかが記されている。
 
詩篇58:1 あなたがた力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか。
 
「あなたがた力ある者」と訳された所の原文は「あなたがた、もの言わぬ者」である。
すなわち、さばきの座で、あえて正しい事や公平な事には口を閉ざす者の事である。
 
箴言31章に書いてある。
箴言31:8 あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。
31:9 口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。
 
さばく立場において、私たちの口は、御言葉に基づいて、弱い立場の人が守られるように、ただしいさばきを宣告するために、大いに開くべきである。
それなのに彼らは、敢えて口を閉ざすのだ。
 
正しい事に対し、口を閉ざす彼らは、果たして公平なさばきが出来るのだろうか。「否」である。
 
詩篇58:2 否、あなたがたは心のうちに悪い事をたくらみ、その手は地に暴虐を行う。
58:3 悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生れ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。
 
「暴虐を行う」と訳された語・パーラスは、均一化する、平たくする事の意味である。
彼らは、悪やうそを標準化しようと敢えてたくらんでいる。
もし彼らが御言葉を聞き、叱責を聞いて悔い改めるなら、救われるのだが、残念ながら、彼らはそうではなく、母の胎内にいる時から既に「うそ」で塗り固めていた者だという証明が、4節以降で為されている。
 
詩篇58:4 彼らはへびの毒のような毒をもち、魔法使または巧みに呪文を唱える者の声を聞かない/耳をふさぐ耳しいのまむしのようである。
 
まむしや蛇には、手足が無い、はずなのに、その無い手足を使ってでも、御言葉や叱責を聞く耳を塞ごうと、敢えてするのだ。
彼らは神の言葉も人からの叱責も、意図して、聞かないのである。
 
このように、意図して真理を受け付けない者のために祈る祈りが、6-9節である。
 
詩篇58:6 神よ、彼らの口の歯を折ってください。主よ、若いししのきばを抜き砕いてください。
58:7 彼らを流れゆく水のように消え去らせ、踏み倒される若草のように衰えさせてください。
58:8 また溶けてどろどろになるかたつむりのように、時ならず生れた日を見ぬ子のようにしてください。
 
歯や牙は、食べ物を食べるためについてるものだが、そのために用いるのではなく、あえて、人を害するために用いる。
そのような歯や牙は、主が折って下さいますように、と、祈るべきなのだ。
人をあえて傷つけるために込める矢、人を傷つける事において長けた舌という矢を、心の中に蓄えているとするなら、それらは全部へし折って下さい、彼らは水のように流れ去らせ、消え去らせて下さい、元々存在しなかった者のようにしてください、と祈るのだ。
 
詩篇58:9 あなたがたの釜がまだいばらの熱を感じない前に/青いのも、燃えているのも共につむじ風に/吹き払われるように彼らを吹き払ってください。
 
当時は、よく燃えるいばらを着火剤にしてたきぎに火をつけ、釜の中の青物や生物を煮ていたが、ここでは、悪人が悪を計画し、準備し、実行し、悪のうまいものを得るという全工程を、料理の工程にたとえている。
悪人が悪のうまいものを料理しようと、準備し、その着火剤に火をつけたその瞬間に、主が釜も、いばらも、中身の具材も、全部一式、つむじ風で吹き飛ばして下さい、と祈るのだ。
まさに箴言1章後半に書いてある。
 
箴言1:22 「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
1:23 わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
1:29 彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
1:30 わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、
1:31 自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
1:32 思慮のない者の不従順はおのれを殺し、愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
1:33 しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、災に会う恐れもなく、安全である」。
 
彼らが災いに遭った理由は、悔い改めを促す言葉をかけられても、敢えて耳をふさぎ、無視し、その言葉をあなどったからだ。
意図して真理を憎み、主のいましめを軽んじる者には、恐怖があらしのように臨み、災がつむじ風のように臨み、悩みと悲しみとに覆われて、いっぱいいっぱいになる。
彼らは、自分自身が蒔いた種の実を食らうのだ。
 
イエス様は、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と言われた。
しかし、悪い者の悪辣さが祝福されるように祈れ、とは言っていないし、うそつきのうそが成功して不正が成功するように祈りなさい、とも言っていない。
 
もし、私達に害をなしたり迫害する者が、「知らないで」それを行っていて、無知ゆえに、自分に滅びを招くわざをしているとするなら、祈るべきだ。
何が主に喜ばれる事で、何が主に喜ばれない事なのかを知り、また、何が主の前で良い事で何が悪い事であるのかを知って、その呪いを招くわざを止め、祝福の歩みに入るように、と。
しかし、悔い改めの勧めや、叱責の言葉、矯正の知恵を教えても、あえて耳をふさぎ、敢えて悪を選択し、その悪の道を貫くような者に対しては、彼の牙が折られ、その悪のわざがもはや出来ないようにと、祈るべきなのだ。
 
詩篇58:10 正しい者は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗うであろう。
58:11 そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。
 
ここの報いの原語ペリーは、「実を結ぶ」ことである。
正しい者は、正しさの故に結ぶ実を食べる事が出来、しかし悪を行う者は、悪の故の実を食らう。
これは一貫して流れている真実である。

早天礼拝
ほら穴の中で信仰をもって宣言した通りになって行ったダビデ(詩篇57篇)
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詩篇57篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの」
 
この詩篇57篇が創られたのは、おそらく1サムエル記22章にてダビデがアドラムのほら穴にいた時、あるいは、24章でエン・ゲディのほら穴にいた時であろう。
アドラムもエン・ゲディも、ともに死海の西側、洞窟が多い荒涼とした岩砂漠地帯である。
前回56章は、ダビデがペリシテ人に囲まれて気が違ったふりをして、散々な思いで逃れて来た状況だったが、そのすぐ後、彼はたった一人、アドラムのほら穴にいた。
しかし彼は、一人ではかった。彼の信頼する主がそばにおられ、彼はその主を呼び求める。
 
57:1 神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
57:2 わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。
 
どこにも助けが無い、どこにも居場所が無い、そんな状態で彼にできた事は、ただ主に向かって助けを求めるだけだった。
ちょうど鳩が、敵を逃れて岩の隙間に隠れ、ただうめき鳴いているように。
それは拾は、最も幸いな事である。
主を呼び、主に助けを求める者に、主は平安と確信とを送られる。
 
57:3 神は天から送ってわたしを救い、わたしを踏みつける者をはずかしめられます。〔セラ/すなわち神はそのいつくしみとまこととを/送られるのです。
 
ここにセラが、すなわち、モードチェンジの指示がある。
1-2節では、ダビデはただ主に向かってうめくだけだったが、彼はそれによって主が平安と確信を得て、敵に対する報復を宣言する。
 
57:4 わたしは人の子らをむさぼり食らうししの中に/横たわっています。彼らの歯はほこ、また矢、彼らの舌は鋭いつるぎです。
 
4節で「横たわっています」はヘブライ語でシャーカブ、「休む」「寝る」の意味がある。
彼は、ライオンのような敵に囲まれていても、休みが与えられたのだ。
 
57:5 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
57:6 彼らはわたしの足を捕えようと網を設けました。わたしの魂はうなだれました。彼らはわたしの前に穴を掘りました。しかし彼らはみずからその中に陥ったのです。〔セラ
 
ダビデは宣言した。わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
それは真理であり、法則である。箴言にも記されている。
 
箴言1:15 わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。
1:16 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
1:17 すべて鳥の目の前で/網を張るのは、むだである。
1:18 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
1:19 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。
 
もし、罠で捕らえようとする者がいるなら、私達も宣言するのである。
わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
なぜならそれは、真理だから。
 
57:7 神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。
 
「定まる」のヘブライ語は、クーン。奮い立つ、あるいは揺るがない様を表す。
彼は主にあって、心が定まった。
 
57:8 わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。
 
立琴や琴は、元々、ダビデが得意とする賛美の道具であった。
彼はそれまで久しく追われていたため、賛美どころではなかったが、彼は奮い立ったゆえに、賛美を呼び覚まし、あけぼのを呼び覚まそうとした。
なんという復帰力だろうか。
その源泉は、鳩のように主に助けを求める所にある。
 
ダビデは、闇夜の状況に、あけぼのを呼び覚ます。
わが「魂」と訳された原語はカヴォド、元々の意味は肝臓で、肝臓は最も重い臓器である事から「重さ」を表し、また「栄光」を表すため、KJVでは「My glory」と訳されている。
ダビデは、すぐ前はペリシテ人の前で気違いを装い、栄光が地に落ちたかのようであったが、彼は、ほら穴の中で主に呼び求め、主にあって奮い立ち、どん底に落ち込んでしまった彼の栄光に向かって「さめよ」と宣言した。
実際彼は、その後、栄光を回復して行く。
 
57:9 主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。
 
ダビデは、アドラムのほら穴にいた時、たった一人だった。
にもかかわらず、彼は「もろもろの国」を見据え、国々の間で主をほめたたえる、と宣言している。
 
事実、彼が宣言したとおりに、彼はその後、彼の敵は打ち負かされ、サウルに代わって王となり、聖歌隊を編成し、ダビデ自身が作った詩篇を歌わせ、そして多くの国々を占領し、主の栄光をあまねく告げ知らせて行った。
いかに一人ぼっちで、ほら穴に逃げ隠れしていたとしても、主を拠り所とし、主を信頼して、御言葉を宣言するなら、その宣言したとおりになるのである。
 
57:10 あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます。
57:11 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
 
最初は嘆きで始まったが、最後は賛美で終わる。
彼が主にあって確信を得たからだ。
まさに詩篇23篇で彼が記した通りである。
 
詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
 
ダビデはこの後、彼の元に次々と人々が集まって来るようになり、600人の人々の頭領となった。
その彼らがエン・ゲディのほら穴にいた時、ダビデのいのちをつけ狙って来たサウル王は、ダビデのいたほら穴に、自分から一人で来て、彼の無防備な様を、ダビデ達の前にさらした。
主がダビデの手に、敵であるサウル王を渡して下さったのだ。
 
ダビデはいつでもサウル王に手を下す事はできたが、それをしなかった。
それは、ダビデが大好きな主が、サウルに油を注いで下さったからだ。
そしてダビデは知った。
主により頼むなら、主はいつでも、自分の敵を手に渡して下さる、自分は、主にあって安全に守られるのだ、と。
 
今、コロナが流行っているこの時勢、私達も鳩のように、ただ家の中に閉じこもって主に向かって呼ばわるだけかもしれない。
しかし、そのような時期に、主を呼び求める事は、実は幸いな一時である。
それによって主は、平安と確信を送ってくださり、暁を呼びささます者とし、ゆくゆくは信じて宣言した言葉のとおりに栄光が与えられるからだ。

詩篇 講解説教
主によって黒歴史は感謝の歴史へ変わり、賛美へと変わる(詩篇56篇)
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詩篇56篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「遠き所におる音をたてぬはと」のしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの」
 
この状況は、1サムエル記21:10-16に記されている。
ダビデはサウル王から追われ、イスラエルに居場所がなくなったために、ペリシテのガテへと逃れ、ペリシテの王の元に身を寄せようとした。
ところがガテは、彼が倒したペリシテ人ゴリヤテの故郷であり、ダビデは、そのゴリヤテの剣を身に帯びていた。
結果どうなるか、大体創造できそうなものであるが、ダビデは恐れに取り憑かれ、焦って、そこまでの判断が出来なかったのかもしれない。
自国から遠く離れたペリシテの敵地に、たった一人でいて、敵に囲まれ、うめく声もあげられない状態、まさに「遠き所におる音をたてぬはと」の状況の中、作った詩である。
 
1サムエル記21:11 アキシの家来たちはアキシに言った、「これはあの国の王ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして、/『サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した』/と言ったのは、この人のことではありませんか」。
 
ペリシテ人らはダビデを「王」と呼び、そして彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っている。さらに悪い事に、彼はゴリヤテの剣を身に帯びていた。
まさに彼の命は風前の灯、ダビデが恐れるに十分だった。
そんなダビデには、もはや、一択しか残されていなかった。
すなわち、いつでも彼とともにおられる主に助けを求める、という事を。
 
詩篇56:1 神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。
56:2 わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。
 
「ひねもす」(新改訳では「一日中」)と訳されたヘブライ語は、「コール・ハイ・ヨム」。コールは「全」、ヨムは「日」の他に、「期間」の意味がある。
ダビデがペリシテにいた期間、ずっと、ひっきりなしに、ダビデはペリシテ人から責め立てられ、虐げられつづけたのかもしれないし、あるいは、サウル王に追われ続けたて来たこの期間、ずっと、そのような心境だったのかもしれない。
 
詩篇56:3 わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。
56:4 わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。
56:5 彼らはひねもすわたしの事を妨害し、その思いはことごとくわたしにわざわいします。
 
 
実に素晴らしい、かっこ良い告白であるが、ダビデがその時、自分のいのちを救うために取った行動は、かっこ良くなかった。
 
1サムエル記21:12 ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れたので、
21:13 人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。
 
彼の人生一番の黒歴史かもしれない。
主にあって自分自身を御言葉でふるい立たせ、「恐れません」と告白しても、結局は恐れて、恥ずかしい行動を取ってしまう。
 
それは私達にもあるかもしれない。
せっかく、苦しみの中で信仰を奮い立たせ、素晴らしい信仰告白をしても、弱いゆえに、あるいは恐れ混乱したゆえに、格好悪い事をしてしまう事が。
あの偉大なダビデでさえ、そこを通って来たのだ。
 
しかしダビデは、その事を隠さず、むしろその出来事を詩にして、聖歌隊に賛美させた。
なぜなら、ダビデは、彼を救い出して下さった主への感謝と喜びが、あまりに大きいために、自分の恥さえ喜んでさらして、主を賛美したかったからだ。
だからこそ主は、彼を高め、大きな栄誉を与えたのだ。
 
自分自身の、恥の黒歴史は、主が働く事によって感謝の歴史へと変わり、そして賛美へと変わる。
 
56:8 あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。
 
ダビデは弱さのゆえに信仰宣言した通りに凛々しく振る舞えなかった事を悲しみ、涙を流した。
しかし主は、私達・信仰者が、主のゆえに労苦したさすらいの日々を数えておられ、主の書物に記しておられる。
そして、主のゆえに労苦して流した全ての涙を、皮袋にたくわえておられる。
 
ダビデは主の前に凛々しく立ち続けられなかったゆえに流した涙が、無駄にはならず、なおも主により頼んだ故に、確信をいただく。
 
56:9 わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。
56:10 わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえ、主によってそのみ言葉をほめたたえます。
 
ダビデはこの詩篇で、合計、3度も「御言葉をほめたたえた」。(4,10節)
だから、御言葉が彼の盾となり、城壁となって、彼を守る事になる。
いかに敵地の真ん中で、敵に囲まれ、ひっきりなしに責めたてられるような、危機的状況であったとしても。
御言葉は、千万の敵を前にしても決して揺るがされない完全な防護壁である。
だからダビデは、この詩を、賛美で終わらせている。
 
56:11 わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。
56:12 神よ、わたしがあなたに立てた誓いは/果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。
56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。
 
ダビデはまだ、死ぬような時ではない。
彼はこれから、王としてイスラエルを導き、主の御名を褒め称える賛美をたくさん作り、神殿を建て、主の栄光を多くの人々に伝え残して行かなくてはならないからだ。
主はダビデを守ったように、主は、全て主に従おうとする人々を、あらゆる災いから守られる。
 
ダビデがこの危機的状況から脱出した時に作った、もう一つの詩が、詩篇34篇である。
 
詩篇34篇表題「ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌」
34:1 わたしは常に主をほめまつる(バラク)。そのさんび(テヒラー)はわたしの口に絶えない。
34:2 わが魂は主によって誇る(ハラル)。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ(ガダル)、われらは共にみ名をほめたたえよう(ルーム)。
 
ダビデは、言葉を変えて色々な表現で主を賛美している。
彼のいのちが助け出された時の、彼の立ち居振る舞いが、いかに恥かしいものであっても、彼は真実な主を褒め称えたい故に、そして、多くの人々にこの主の素晴らしさを知ってほしいから、この詩を公開したのだ。
 
詩篇34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
 
あの敵地の只中、敵に囲まれたさ中にあっても、ダビデが守られたのは、目には見えない御使いが陣営をはってダビデを囲み、守っていたからである。
無数の御使いがダビデを守った理由は、ダビデが御言葉を3度もほめたたえ、御言葉を城壁としたからだ。
彼が信仰をまぜて御言葉を宣言し、御言葉を重んじたから、神はダビデを重んじ、御使いたちを遣わして彼を守らせたのだ。
 
主はすべて、御言葉を重んじ、御言葉をほめたたえる人に、御使いの陣営を遣わし、守ってくださる。
そして主は、主のゆえに労苦する信仰者の日々を数えておられ、その記録を主の書物に記しておられ、そして主のゆえに労苦して流した全ての涙を全て、たくわえておられる。
しかし主は、主のゆえでない涙、たとえば罪の楽しみができなかったゆえに流した涙や、騙しが通じなかったゆえに流した涙などは、数えてはおられない。
 
ダビデは常日頃、主により頼んでいたから、敵地の真ん中でも救われた。
しかし、常日頃から御言葉を軽んじている者は、いざという時に助けを求めても、何の答えも助けも無い。
 
箴言1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
 
常日頃から主により頼み、どんな艱難の時代でも主から守られ、やがてダビデのように大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

早天礼拝
親しい友に裏切られた時の詩(詩篇55篇)
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詩篇55篇表題「聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌」
 
マスキールはサーカル(指示する、教示する、理解する)が元になっていると思われる。この詩は、私達に教訓を与えてくれる詩篇である。
 
ダビデは特に、親しい友人に裏切られた時の心情を、主に激しく吐露し、祈っている。
一体誰が彼を裏切ったのか、その裏切り者の名は記されていないが、この詩の内容は、第2サムエル記15章の記事、すなわち、彼の息子アブシャロムがクーデターを起こし、彼の有能な議官アヒトフェルほか、彼に親しかった者達がこぞってアブシャロムについた記事によくあてはまる。
 
アブシャロムは年月をかけて人々の心にダビデへの不平不満を植え込んだ。
アブシャロムは親しげに民衆に語りかけ、時にはハグし、口づけして人心に取り込みつつ、ダビデ王は人心を汲み取ってはくれない事、自分のほうこそ王に相応しい器だ、という事を、じっくりゆっくりと人々の心に浸透させていった。
このように巧妙に闇の中で下準備を整え、そして4年目のある日、満を持して王を名乗り、多くの民衆がアブシャロムについた。
ダビデは息子アブシャロムがクーデターを起こしたと聞いたが、彼はいつも、主を助けとした。
 
詩篇55:1 神よ、わたしの祈に耳を傾けてください。わたしの願いを避けて身を隠さないでください。
55:2 わたしにみこころをとめ、わたしに答えてください。わたしは悩みによって弱りはて、
55:3 敵の声と、悪しき者のしえたげとによって/気が狂いそうです。彼らはわたしに悩みを臨ませ、怒ってわたしを苦しめるからです。
 
この詩の最初の3節において、ダビデは神に切に求めている。
祈りを耳に入れて下さい、身を隠さないで下さい、御心を留めてわたしに答えてください、と。
ダビデはこの時の心情を、続く節で表しているが、それはかなり激しい。
 
詩篇55:4 わたしの心はわがうちにもだえ苦しみ、死の恐れがわたしの上に落ちました。
55:5 恐れとおののきがわたしに臨み、はなはだしい恐れがわたしをおおいました。
 
彼は死の恐れ(複数形)が彼の上に落ちた、と言った。
愛する子アブシャロムに裏切られ、また親しかった人々がこぞって彼から離れて行った時、死ぬほどの苦しみと恐れを、いくつも感じたのだ。
 
詩篇55:6 わたしは言います、「どうか、はとのように翼をもちたいものだ。そうすればわたしは飛び去って安きを得るであろう。
55:7 わたしは遠くのがれ去って、野に宿ろう。〔セラ
55:8 わたしは急ぎ避難して、はやてとあらしをのがれよう」と。
 
鳩は、その鳴き声から、うめく鳥と言われている。
彼は翼をかって、遠くに逃げ去りたい、と願った。
彼はアブシャロムのクーデターを聞いた時、真っ先にしたのは、速やかに野のほうへ逃れて行った事だった。
彼は息子には手をかけられないし、また、もし戦争となったら、戦場は国内の町々やエルサレムでの市街戦となり、多くの同胞たちが、同士討ち同然の戦いで死ぬ事になってしまうからだ。
ただ、逃げるしか無い。
このように行き場を失った時の彼の心情が、この詩篇によく現れている。
 
55:9 主よ、彼らのはかりごとを打ち破ってください。彼らの舌を混乱させてください。わたしは町のうちに暴力と争いとを見るからです。
55:10 彼らは昼も夜も町の城壁の上を歩きめぐり、町のうちには害悪と悩みとがあります。
55:11 また滅ぼす事が町のうちにあり、しえたげと欺きとはその市場を/離れることがありません。
 
彼は「彼らのはかりごとを打ち破ってください。彼らの舌を混乱させてください。」と祈っている。
その祈りは第2サムエル記15章においてダビデが祈った内容と一致している。
 
2サムエル記15:31 時に、「アヒトペルがアブサロムと共謀した者のうちにいる」とダビデに告げる人があったのでダビデは言った、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください」。
 
私達も、祈るべきである。
現在、韓国において、まさにダビデの時代に起きたクーデターのような事が起きている。
戦後、韓国では共産主義者たちが密かに、そしてじっくりと政界に浸透し、長年かけて教育業界に共産主義者たちを送り込み、子供たちに、共産主義を何か良いもの、かっこいいものであるかのように教育し、そうして長年浸透して来たある日、ムン・ジェイン政権が立ち上がり、そして4月15日の選挙では多数の議席を獲得してしまった。
もし韓国が北朝鮮に併合されるような形で共産化してしまったら、日本はロシア、中国、そして朝鮮半島と、共産国に囲まれ、孤立してしまい、大いに危険な立場に立たされてしまう。
 
共産主義とは、神無しとする思想であり、共産化された国は、一部の特権階級が搾取し、その国の多くの人々があえぐようになってしまっているのは、共産国の現状を見れば明らかである。
 
私達も、ダビデのように祈るべきである。
彼ら・共産主義者たちの計略が、愚かなものになり、彼らのはかりごとを打ち破って下さい、彼らの舌を混乱させてください、わたしは町のうちに暴力と争いとを見るからです、と。
 
詩篇55:12 わたしをののしる者は敵ではありません。もしそうであるならば忍ぶことができます。わたしにむかって高ぶる者はあだではありません。もしそうであるならば身を隠して/彼を避けることができます。
55:13 しかしそれはあなたです、わたしと同じ者、わたしの同僚、わたしの親しい友です。
55:14 われらはたがいに楽しく語らい、つれだって神の宮に上りました。
55:15 どうぞ、死を彼らに臨ませ、生きたままで陰府に下らせ、恐れをもって彼らを墓に去らせてください。
 
一緒に育ち、一緒に学び、一緒に多くの時間を過ごし、しかも一緒に礼拝を捧げた人が、神に喜ばれない卑劣な手段で裏切った。
それは、単に悪人にののしられたり圧迫されるより、はるかに心のダメージが大きい。
私達はそのような苦しみに遭った時、どうくぐり抜けるか。
 
ダビデは、決して裏切らない主への心情吐露と、祈りと、信仰告白によって切り抜けた。
彼が真っ先に行った事は、主に対する心情吐露であった。
その次は、祈りによって心を整え、そしてその後、彼は信仰告白の宣言に入る。
 
詩篇55:16 しかしわたしが神に呼ばわれば、主はわたしを救われます。
55:17 夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます。
55:18 たといわたしを攻める者が多くとも、主はわたしがたたかう戦いから/わたしを安らかに救い出されます。
55:19 昔からみくらに座しておられる神は/聞いて彼らを悩まされるでしょう。〔セラ/彼らはおきてを守らず、神を恐れないからです。
55:20 わたしの友はその親しき者に手を伸ばして、その契約を破った。
55:21 その口は牛酪よりもなめらかだが、その心には戦いがある。その言葉は油よりもやわらかだが、それは抜いたつるぎである。
 
主は全て、真実に主に求め祈る人に、聞いて下さる。
そして、主に忌み嫌われる事を敢えて行う人、戒めても聞かない人に対し、主は敵対される。
主は、心の真実な人を喜ばれる。詩篇15篇に記されている。
 
詩篇15:1 主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。
15:2 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、
15:3 その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、
15:4 その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、
15:5 利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。
 
ダビデはさらに、三人称の視点で記して、自分自身を奮い立たせ、また、この詩を読む全ての人に対し、断言する。
 
詩篇55:22 あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。
55:23 しかし主よ、あなたは彼らを/滅びの穴に投げ入れられます。血を流す者と欺く者とは/おのが日の半ばも生きながらえることはできません。しかしわたしはあなたに寄り頼みます。
 
ダビデは、血を流す者と欺く者とは、そのいのちの日の半ばも生きながらえられない、と宣言した。
いのちの日は、それぞれ、神によって量り与えられている。
敢えて血を流す者、欺く者は、もし80年の命が量り与えられていたとしても、40年も生きる事ができないようにされるのだ。
 
この詩篇は最初、子供が親に泣きつく「泣き言」のような祈りで始まったが、しかし最後は凛々しい信仰告白と宣言で終わった。
前知識が無い人が詩篇を見ると、ダビデという人物は、いつも泣いて呻いて神に祈っていて、ずいぶん弱々しいのかな、と思われそうだが、サムエル記におけるダビデの勇士然とした有様と、また彼の英雄的な行動は、主と彼との親密な交わりの中に秘訣がある。
私達も、主の前では幼子のように親しく交わり、何かあったら何でも主の前に泣きつき、そうして主から慰めと力を得たなら、凛々しく世に立って出ていき、勇士となり勝利し、英雄となって行くのである。

 

詩篇 講解説教
主の御名の力(詩篇54篇)
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詩篇54篇表題「聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはジフびとがサウルにきて、「ダビデはわれらのうちに隠れている」と言った時によんだもの」
 
この表題の出来事は、1サムエル記23:19-29である。
ダビデがサウル王に追われていた時、ダビデが隠れている場所を、ジフ人がサウルに告げ口した。
それでサウル王は喜んで、ジフ人に言った。
「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。」(1サムエル記23:21)
 
ジフ人は、ダビデを差し出す事によって、時の権力者・サウルに気に入られ、地位なり富なりを得たかったのだろう。
対してダビデは、誰から救いを得ようとしたか。
 
詩篇54:1 神よ、み名によってわたしを救い、み力によってわたしをさばいてください。
54:2 神よ、わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください。
 
ダビデは、まず神を呼び求め、「御名」によって救って下さい、と祈った。
この詩篇54篇は、最初と最後(1節と6節)が、「御名」によってサンドイッチされており、その間に「神は」「主は」と、主のご性質を宣言しており、全体を通して、神の「御名」による救いが主題となっている。
 
名。
それは、その相手を識別し、相手の身元を明らかにするものであり、相手の本質を表していることばである。
ダビデはそれを宣言し、主はいかなるお方であるのかを表明して行く。
 
54:3 高ぶる者がわたしに逆らって起り、あらぶる者がわたしのいのちを求めています。彼らは神をおのが前に置くことをしません。〔セラ
 
「高ぶる者」と訳された語ザールは「ほかの者」「異邦人」とも訳せ、特に、主の民を迫害する者、神を否定する者の事である。
ジフ人は、サウル王が主の祭司たちを虐殺したり、明らかに主の御旨に逆らう事をして来たにもかかわらず、サウルに媚びて、ダビデを売り渡そうとした。
彼らは、サウルを拠り所としたが、それに対し、ダビデは主を拠り所として宣言した。
一体どちらがいのちを長らえ、栄えるか。主はダビデに軍配をあげた事を、歴史は証明している。
 
ダビデはここで「セラ」を宣言した。
「セラ」は、雰囲気を変えなさい、転調しなさい、休みなさい、という意味で、今までは受身的・防御的な内容だったのが、ここからは積極的・攻撃的に変わる。
 
詩篇54:4 見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。
 
ダビデは、神は助け主、と告白したが、それはイエス・キリストによって成就した。
イエス、ヘブライ語ではイエシュア、その名の意味は「主は救い」、そのヘブライ語は「ישוע」(ユッド、シン、ヴァヴ、アイン)であるが、「ユッド」は「手」の意味、「シン」は「聖なる」あるいは「破壊された」、「ヴァヴ」は「釘」、「アイン」は「目」、の意味がある。
これをつなげると、聖なる、破壊された御方の、手の釘を、その目で見よ、という意味になる。
だから私達が「イエスよ」と呼び求める時、イエス様の十字架の贖いを見据え、救いを求めているのである。
だから、イエス様の御名の中に、この詩篇54:1-4でダビデが宣言し求めた内容は、全部、含まれているのである。
 
イエス様は言った。
ヨハネ14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
 
だから私達は、イエス様の御名によって、大胆に父なる神様に求める事が出来る。
『その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。』(ヨハネ16:23-24)
 
詩篇54:5 神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。
 
主の真実、それは、神を恐れぬ者、主の民を迫害する者に、力強い御腕で報いを与える。
 
54:6 わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。
54:7 あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。
 
ダビデは最後に、御名をもって、感謝をもって結んだ。
そして、敵の敗北を宣言した。
 
私達は祈る時、イエス様の御名によって、祈りを閉じるが、御名を単なる「閉じ言葉」にしていないだろうか。
私達はいつでも御名を呼び求め、積極的に御名によって宣言すべきである。
そうするなら、御名に込められた力強い力が私達のうちに現れるのだ。

 

神を尋ね求める者を救われる主(詩篇53篇)
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詩篇53篇表題「聖歌隊の指揮者によってマハラテのしらべにあ わせてうたわせたダビデのマスキールの歌」
53:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。

愚かなもの(ナバール)は、不純なこと、悪辣な事をあえてする人で、そんな彼らの根底に流れている人生観が「神はいない」である。
神を敬う人であるなら、たとえ一人でいる時でも、悪と見られる事に躊躇を覚える。
どこでも見ておられ、全てを知っておられるお方を敬っているからだが、愚かな者たちは何の呵責もなく悪を為し、利得をむさぼり、破滅の海原へと躊躇なく飛び込んでいくが、それは勇気や強さではなく、愚かさと無知の故だ。

「腐りはて」と記されている語「シャカァス」は自己破滅の状態で、まさに洪水前の世界の状態である。

創世記6:11  時に世は神の前に乱れて(シャカァス)、暴虐が地に満ちた。
6:12  神が地を見られると、それは乱れていた(シャカァス)。すべての人が地の上でその道を乱した(シャカァス)からである。
6:13  そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう(シャカァス)。

上記合計3節で4回も「シャカァス」が登場する。
すなわち人が破滅の行いをし、神の目に破滅状態で、そして世は、破滅した人によって破滅されてしまった状態であった。
これが「神はいない」の価値観を持った人間が増殖してしまった世界の、成れの果てである。

53:2 神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。

神は、天から、じっくりと、見ておられる。賢い者、神を尋ね求める者がいないかを。
ここで「賢いもの」と訳された語「サハール」のヒフィル(使役)態は、じっくり見る、注意を払って観察する、洞察力を持っている等の意味である。
神が私達にもとめておられることは、自らすすんでじっくりと神を尋ね求め、神を観察する事である。

ノアの時代の以前、ノアとその家族以外の全ての人々が腐れはて、憎むべき不義をおこなった。

53:3 彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。

神は当時、目を皿のようにして地をご覧になられ、ノアを見出し、そして彼らを救って新しい世代を起こされた。

53:4 悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物(レヘム:パン)食うようにわが民を食らい、また神を呼ぶことをしない。

彼らは神の民を喰らい尽くす事において、パンを食べるがごとく、躊躇もなく、良心のとがめもない。
しかしあいにく、彼らが食う「神の民」は、パンとは違い、祈る民、神に言いつける民である。
神の民が神にむかって叫ぶ時、神が働かれる。
そこで神が彼らのために動き出し、彼らを救い、悪人にはさばきをもたらされる。

53:5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。

この出来事の典型例が、ヒゼキヤ王の時代に起きた事だろう。
かの時代、アッシリアが台頭し、セナケリブ王がイスラエルへと攻めてきて、神の民と、そしてイスラエルの神である主をなじった。

2歴代誌32:10 「アッシリヤの王セナケリブはこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。
32:11 ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリヤの王の手から私たちを救い出される。』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。
・・・
32:15 今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」

このように豪語した者はどうなったか。

2歴代誌32:20 そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。
32:21 すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮にはいったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。
32:22 こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。

まさに詩篇に記されていたとおり、彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れ、このよこしまな者たちの骨を散らされ、彼らは神をなじった故に大いに恥をこうむった。
神は確かに生きておられる。
たかだか100年ほどしか生きられない人間が、どんなに神はいないと吠えようとも、永遠に生きておられる神は、その高ぶる者たちを倒し、そして悩む民が主に呼ばわったとき、その声を聞かれ、実際に働かれたお方。

53:6 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。神がその民の繁栄を回復される時、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。

私達ダビデのように救いを求め、回復と繁栄を求め、全て主の民が喜び楽しむことを、イエス・キリストの御名によって求めることができる。
なぜなら私達にはイエス・キリストがおられ、おりにかなった助けを得るために大胆に恵みの御座へと近づく事ができるからだ。

悪の力でのし上がって行こうとする者、対、主により頼む者(詩篇52篇)
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詩篇52篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはエドムびとドエグがサウルにきて、「ダビデはアヒメレクの家にきた」と告げたときにダビデがよんだもの」

この表題の出来事は、1サムエル記21-22章にある。
ダビデがサウルから逃れて祭司アヒメレクのところに行った場面である。
命を狙われたダビデが、主を慕い求めるために礼拝の場に行ったのだが、そこに表題のドエグという者がいた。

『その日、その所に、サウルのしもべのひとりが、主の前に留め置かれていた。その名はドエグといい、エドムびとであって、サウルの牧者の長であった。』(1サムエル記21:7)

エドム人とは、エサウの子孫、すなわち、一杯の食物と引き換えに尊いものを売った者の子孫である。
彼は主を慕うために主の前にいたではない。何かの訳あって、そこに置かされていたのだが、彼は主を敬う心は全く無かった。

サウルは、主の御胸でないことを次々にして行く内に、どんどん悪霊に満たされ、どんどん人格が崩壊して行くが、ドエグはサウル王という権力者に気に入られるためには、通常の神の民には到底できないような物事も平気で行う。
『そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。』(1サムエル記22:18-19)
剣で殺したのだから、返り血も浴びただろう。
エポデを着た祭司達の、血まみれの死体八十五体が累々と横たわる様を見ても全く動じず、むしろそこ(ギブア)からわざわざ祭司の町・ノブまで出向いて、祭司の妻や女子供、乳飲み子ばかりでなく、家畜までも、殺し尽くしたのだ。

このようなことをしたのが、ドエグである。
ダビデは、ドエグがした事を聞いて、この詩篇52篇を記した。

なお、この詩篇52篇もV字キアズム構造を為しており、表題(A)が9節(A')に、1節(B)は8節(B')に、2−4節(C)が6-7節(C')に、そしてV字構造の真ん中が、5節(D)である。

詩篇52:1 力ある者よ、何ゆえあなたは/神を敬う人に与えた災について誇る(ハラル)のか。あなたはひねもす人を滅ぼすことをたくらむ。
KJV: Why boastest thou thyself in mischief, O mighty man? the goodness(ヘセド) of God endureth continually.

この者は、神を敬う人に与えた災について「誇った(ハラル)」。
ヘブライ語のハラルは、有名な語「ハレルヤ」の元で「ほめたたえる」、あるいは「明確にする」「高く上げる」意味がある。
彼は、悪である事を高くあげ、狂気の王サウルにおもねる事によって、力や富を得て行った。

その者は、主を礼拝する場にいながらにして、主を求めず、むしろ暴虐を求めた。
ダビデはドエグを「力ある者」と言ったが、残虐な事や冒涜的な事を躊躇なく行う意味での「力ある者」であるが、しかし、神のgoodness(ヘセド)は、いつでも注がれ続けている。

詩篇52:2 虚偽を行う者よ、あなたの舌は鋭いかみそりのようだ。
52:3 あなたは善(トーブ)よりも悪を好み、まことを語るよりも偽りを語ることを好む。〔セラ
52:4 欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。

2節と4節に「舌」のキーワードが出て来る。
彼らは舌によって善人を切り刻もうとし、神のみわざの「善(トーブ)」よりも、サタンの悪というわざを好み、神に属する真理よりも、サタンに属する偽りを好んだ。
その時点で、主の御まえにおいて勝負ありである。
なぜなら神は悪魔サタンを圧倒的力で永遠の災いを降し、偽りは真理の光の前に消え去る以外にはないからだ。
そういうわけでダビデは、そのような者を呪う。

詩篇52:5 しかし神はとこしえにあなたを砕き、あなたを捕えて、その天幕から引き離し、生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ

私達も真理に立って、「呪うべきもの」を見た時は、真理の御言葉を盾に取って、呪うべきだ。
「呪うべきもの」とは、ドエグのように自分の強さにより頼み、卑しい利得を得るためには、正しい者を訴え、罪なき者を虐げるような、嘘・偽り・破壊活動・卑怯な事を行う悪魔サタンのわざである。
それらは、主イエスの御名によって廃れて行き、むしろ真理が、いのちのわざが、健やかさが、また弱いものが助けられる事が広がっていくよう祈り求めるのだ。

5節まではドエグのような劣悪な者に対しての宣言だったが、6節以降は、正しい者についての宣言である。

詩篇52:6 正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7 「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、その宝に寄り頼む人を見よ」と。

2-4節では悪しき者が舌を用いて正しい者を陥れる者達について語られた。対して6-7節では、正しい者達はむしろそのような者達を笑う。
神を避け所とせず、富をたのみにしている者こそ、まことに滅びが近い事を知っているからだ。
そのような卑怯なものが富や権力を得ても、恐れてはならない。

詩篇49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。
49:18 たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19 彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。

そしてダビデは宣言する。

詩篇52:8 しかし、わたしは神の家にある/緑のオリブの木のようだ。わたしは世々かぎりなく神のいつくしみを頼む。

ダビデはこの時、サウル王に追われる国家的な指名手配をされているような状況だったのに、「わたしは神の家にあるオリーブの木のように茂っていく」と宣言できた根拠は、彼は「世々かぎりなく神のいつくしみを頼」んでいる事だ。
次のように書いてある。

詩篇147:7 主に感謝して歌え、琴にあわせてわれらの神をほめうたえ。
詩篇147:8 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、
詩篇147:9 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。
詩篇147:10 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。
詩篇147:11 主はおのれを恐れる者とそのいつくしみ(ヘセド)を望む者とをよみせられる。


人は、馬や力を得て、強制力を得て自分の欲望を満たそうとするが、そもそも、その馬に草を与えるのは主である。
主は、自分の強制力で欲望を満たそうとする者を喜ばれない。
むしろ主が喜ばれるのは、主のいつくしみ(ヘセド)を待ち望む人である。

主は、山に草を生えさせ、動物や鳥たちに食べ物を豊かに備えてくださる方。
それに引き換え、悪人は、悪辣な王に取り入ってでも、卑怯な事をしてでも富や力を得ようとし、腕力や悪賢さを鍛え、嘘偽りの力でそれを保持して行かなくてはならない。
主により頼む人達と、悪人。勝敗はどちらにつくか、明白である。

詩篇52:9 あなたがこの事をなされたので、わたしはとこしえに、あなたに感謝し、聖徒の前であなたのみ名をふれ示そう。これはよいことだからである。

ドエグはダビデをサウル王に告げ口したが、ダビデは主を褒め称え、主に感謝をささげ、ドエグを主に告げ口した。
私達は、世の強者や権力者におもねる者ではなく、全てを豊かに与えて下さる主から豊かに与えられる者として、主に賛美と感謝をささげ、主のヘセドを求め栄えていく者達である。

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