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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

詩篇 講解説教

人はなぜ神に何度も罪を犯し、神なぜ人を何度も赦し憐れむのか(詩篇78篇)

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詩篇78篇表題『アサフのマスキールの歌』
 
この詩篇には、出エジプトからダビデ時代までの歴史が、それも、主の恵みが注がれたのに、人々はそれに対し、いかに主を無視し失礼を働いて来たか、という歴史が、語られている。
その意図は、北イスラエル王国(エフライム)が、主を軽んじ続けた故に滅んでしまった、その歴史から、教訓を受けて学べ、というものである。
 
詩篇78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
 
養いを受けるのに、真っ先に必要な事は、聞くことである事が、最初に宣言された。
 
詩篇78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
 
これから示されて行く内容は、既に聖書に記されている内容であり、また、ある程度クリスチャンとして教会に通っているなら、既に聞いて来た内容である。
 
聖書には、救われる法則と、呪われる法則とが書いてあるが、それを単に知っているだけ、というのと、実際に祝福を受ける事とは、別物だ。
聞いているから、知っているから、といって、救われるわけではない。
だから、たとえ「それは何度も聞いた」と言えるような事でも、なおも聞く必要があり、そして何よりも、守り行う必要がある。
 
詩篇78:4 われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを/きたるべき代に告げるであろう。
78:5 主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、その子孫に教うべきことを/われらの先祖たちに命じられた。
 
主は御言葉を、すなわち聖書を、ヤコブの内に、すなわち、イスラエルに与えられ、そしてその子々孫々へと受け継がれて行った。
それは、彼らが神の契約(御言葉)を守り行い、そうして世界に救いをもたらすためであった。
 
聖書を、一言であらわすなら、どんな言葉になるだろう。
私は、「主は救い」だと思う。
創世記から黙示録まで、主は、人を救う意図でもって人類に関わり、そしてついに、イエス様をこの世に送られた。
イエスのヘブライ語はイエシュア、すなわち、「主は救い」という意味である。
神は、「主は救い」であられるお方を世に遣わして、彼を通して、全人類に救いをもたらして下さった。
 
詩篇78:6 これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、
78:7 彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。
78:8 またその先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからと/ならないためである。
 
5-6節で「子孫」というキーワードが3度も繰り返されているように、神の御言葉と信仰を、子どもたちへ、子々孫々へと伝授する事は、私達の人生の中で、最も重要な使命の一つである。
 
現代の敬虔なユダヤ人の親は、神の命令に従って、子供に必ず神様の御言葉を教えるべき、という使命感を持っている。
彼らは、親としての責任を全うする道とは、どんな時でも、子供に御言葉を教え込む事で、もし、御言葉に従順して生きるような子供に育て上げる前に、死んでしまうとするなら、それは、親としての責任を全うせずして死ぬ事だ、と思っているという。
 
7節に、重要な3つの動詞が出てくる。
すなわち、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」、であり、それをする理由は、8節の「ならないため」である。
 
何に「ならないため」か。
 
それは、「かたくな」にならないため、
「そむく者のやから」にならないため、
「心定まりが無い者」にならないため、
「魂が神に忠実でないやから」にならないため、
である。
そのために、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」のだ。
 
9節から、イスラエルの歩んだ具体的な歴史が記されている。
 
それはすなわち、神に対する反逆と、それを覆う神の恵みの、何度も何度も繰り返された歴史であり、そして北イスラエル王国が行き着いた滅びの結末、すなわち、主の御言葉をあえて無視し、御言葉を押しのけて、おのが欲望を成し遂げるという事を、改めない事をあくまで続けたゆえに、ついには滅びへと至ってしまった、という歴史である。
 
詩篇78:9 エフライムの人々は武装し、弓を携えたが、戦いの日に引き返した。
 
9節のエフライムとは、北イスラエルの代表的部族であり、北イスラエル王国全体を、象徴的にあらわしている。
北イスラエル王国は、なぜ、戦いの日に引き返し、敗北し、滅んだのか。
その理由は、10-11節に書いてある。
 
詩篇78:10 彼らは神の契約を守らず、そのおきてにしたがって歩むことを拒み、
78:11 神がなされた事と、彼らに示されたくすしきみわざとを忘れた。
 
それにも関わらず神の恵みが注がれているさまが、12節から記されている。
 
詩篇78:12 神はエジプトの地と、ゾアンの野で/くすしきみわざを彼らの先祖たちの前に行われた。
78:13 神は海を分けて彼らを通らせ、水を立たせて山のようにされた。
78:14 昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。
78:15 神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、
78:16 また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた。
 
ここでは特に、出エジプトの出来事を思い起こさせている。
ゾアンとはゴシェンのことで、ナイル川三角州の北西部にあったヒクソス時代の首都である。
 
海が分かれて乾いた所があらわれ、誰も思ってみない所に、道ができる。
イスラエルの民はそれを渡り、しかしエジプト軍は、その海に飲み込まれてしまった。
イスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを照らし、導かれて行った。
岩砂漠地帯において、40年も、200万ほどの民が、一日たりとも水や食料で不足を来たらせる事なく、養われた。
こんなにも、想像し難い奇跡を体験しておきながら、彼らはは背いてしまった。(17-20節)
 
詩篇78:17 ところが彼らはなお神にむかって罪をかさね、荒野でいと高き者にそむき、
78:18 おのが欲のために食物を求めて、その心のうちに神を試みた。
 
想像し難い奇跡を体験しておきながらも、背いてしまう原因は、主に対する敬いと感謝が無い事、それと、18節にある「おのが欲望」である。
どんなに奇跡を見ても、しるしを見ても、
「ふーん、すごいね。でもわたしは肉が食べたい、肉を食べさせてくれないなら、あなたを神として認めない」
というような思考なのだ。
 
結局、17節の「罪」「そむき」とは、それの事である。
彼らは、神が主なのではなく、おのが欲望が主なのだ。
 
神の集会の中で、「おのが欲望」のままに、食べ物で罪を犯す時、本人自身の体に、病気という形で変調があらわれ、そして遂には、死に至るのは、新約においても同じである。
 
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
 
18節後半の「試み」の内訳が、19-20節にある。
 
詩篇78:19 また彼らは神に逆らって言った、「神は荒野に宴を設けることができるだろうか。
78:20 見よ、神が岩を打たれると、水はほとばしりいで、流れがあふれた。神はまたパンを与えることができるだろうか。民のために肉を備えることができるだろうか」と。
78:21 それゆえ、主は聞いて憤られた。火はヤコブにむかって燃えあがり、怒りはイスラエルにむかって立ちのぼった。
78:22 これは彼らが神を信ぜず、その救の力を信用しなかったからである。
 
19-20節で、彼らは「主は**できるだろうか?」と3度も繰り返している。
それが、逆らう事、試みる事、主を憤らせ、怒らせる事である。
これは私達がよく犯してしまいがちな罪ではないだろうか。
「主は**できるだろうか?」と、何度も心で繰り返したりして、いないだろうか。
 
マルコ9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
 
「主を試みてはならない」。
この御言葉は、イエス様が荒野で悪魔の試みを受けた時、宣言した言葉のうちの一つだ。
イエス様はその時、3つの御言葉をもって、悪魔を撃退したが、いずれも、申命記の御言葉であった。
 
たまに、今は新約こそ必要で、旧約はあまり関係がない、と言う人がいるが、旧約律法を軽んじてはならない。
申命記を軽んじる人は、サタンに向かって「イエス様の名前によって出ていけ」と言う時、軽んじていた分だけ、サタンから軽んじられる。
 
詩篇78:23 しかし神は上なる大空に命じて天の戸を開き、
78:24 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。
78:25 人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。
 
人々が神を信じず、また救いの力を信じなかった、にも関わらず、神は彼らに恵みをほどこし、彼らの望みどおり、パンと肉を与えられた。
ここでは、70人訳に従って「天使のパン」と訳されているが、原文ヘブライ語はアビィリーム、すなわち、強き者達、勇者達、という意味である。
 
荒野でマナを食べた民は、強き者だっただろうか?いや、弱い者達だった。
しかし、主が与えてくださる特別の恵みを受ける者は、たとえ弱くても、強い者となる。
なぜなら、彼らが弱くても、彼らを守る主が強いからである。
 
詩篇78:26 神は天に東風を吹かせ、み力をもって南風を導かれた。
78:27 神は彼らの上に肉をちりのように降らせ、翼ある鳥を海の砂のように降らせて、
78:28 その宿営のなか、そのすまいのまわりに落された。
78:29 こうして彼らは食べて、飽き足ることができた。神が彼らにその望んだものを与えられたからである。
 
肉を求める彼らのところに、うずらがおびただしく飛んできた奇跡(民数記11章)が記されている。
しかしである。
 
詩篇78:30 ところが彼らがまだその欲を離れず、食物がなお口の中にあるうちに、
詩篇78:31 神の怒りが彼らにむかって立ちのぼり、彼らのうちの最も強い(マシュマーン:太った、肥えた)者を殺し、イスラエルのうちのえり抜きの者(バフゥル:選ばれた者、若者)を打ち倒された。
 
肉をほおばった人の、誰も彼もが打たれたのではない。
肉が与えられても、一切感謝もなく、欲望にかられて、我先にと、肉を口に放り込んだ者、最もマシュマーン(太った、肥えた)な者、選ばれた者(バフゥル)を、狙い撃ちに打たれたのだ。
 
肉欲が強い者、「感謝なさ」において選り抜きの者を、主は狙い撃ちにされたため、そこは、「キブロテ・ハタワワ(欲望の墓)」と呼ばれるようになった。
これは、私達に、欲望のまま・ほしいままにふるまってはならない、肉欲を優先させて主への感謝を忘れてはならない、という警告である。
 
そのような目に遭っても、まだ、人々は懲りない。
 
詩篇78:32 すべてこれらの事があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくすしきみわざを信じなかった。
78:33 それゆえ神は彼らの日を息のように消えさせ、彼らの年を恐れをもって過ごさせられた。
78:34 神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。
78:35 こうして彼らは、神は彼らの岩、いと高き神は/彼らのあがないぬしであることを思い出した。
 
彼らはなおも罪を犯し。なおも信じず、それで災いが送られる。
そして災いに遭って、ようやく神様を求める。
 
こんなにも懲りずに、またまた罪を犯してしまうという、そのどうしようもないまでの理由は、39節にある通り、彼らが肉に過ぎず、また弱い者であるからだ。
 
それでもなお、この詩篇ではもう何度目になるか、という程の「しかし」が繰り返される。
 
詩篇78:36 しかし彼らはその口をもって神にへつらい、その舌をもって神に偽りを言った。
78:37 彼らの心は神にむかって堅実でなく、神の契約に真実でなかった。
 
マソラ学者の計算によれば、この36節は、詩篇の総節(2527節)の真中に当り、
37節は、詩篇の総行(5896行)の真中である。(実用聖書注解)
 
ちょうど詩篇全体の、位置的中心にあたる内容が、なんと、
人々は神にへつらいの口を叩き、偽り、その心は神に対して堅実ではなく、神の契約に対して真実でない、という内容なのだ。
 
なんと象徴的な事だろう。
 
まことに詩篇は、神に逆らい、偽り、堅実でなく、真実でない人間が、神に向かって救いを祈り、叫び求める歌なのだ。
 
詩篇78:38 しかし神はあわれみに富まれるので、彼らの不義をゆるして滅ぼさず、しばしばその怒りをおさえて、その憤りをことごとくふり起されなかった。
詩篇78:39 また神は、彼らがただ肉であって、過ぎ去れば再び帰りこぬ風であることを思い出された。
 
人はなぜ、神にこうも何度も何度も逆らい、何度も何度も同じミスを繰り返すのか。
なぜ神はこうも、そんな人間を、何度も何度も赦し、憐れむのか。
それは39節にある通り、人は肉に過ぎず、そして神はその事を、よくご存知であるからに他ならない。
 
神は、心のうちの真実を喜ばれる。
ダビデが詩篇51篇で告白したように、罪を犯しやすい自分を悲しみ、清められ、癒やされる事を、神に求め、また叫ぶ人を、神は赦し、憐れみ、救ってくださるのだ。
 
しかし、強情になって、罪を改めようとせず、かえって罪に開き直り、改めようとしない者は、やがて滅ぼされる、という事を、この詩篇では教えている。
 
結局、私達は、私達の向きが、天に向っているか、それとも下に向っているかによって、天国に行くか、地獄に行くかが決まるのだ。
神の御言葉に向いている人は、何度倒れても起き上がる。
しかし、自分の欲する事を求める事を改めない者は、あちこちぶつかって痛い思いをした挙げ句、地の下に降っていくのだ。

 詩篇 講解説教

心病ませる「わたし・わたし」の夜想曲と、そこから解放される術(詩篇77篇)

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詩篇77篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたアサフの歌』
 
再びアサフの歌である。前篇と同じく、アッシリヤの時代背景が考えられる。
 
この詩の前半は、弱気で、悲観的な雰囲気である。なぜそのようになってしまうのか?
その理由は、この詩の前半の主語を見れば、わかる。
 
すなわち、この詩の前半の主語は、「わたし」「自分」で埋め尽くされているのだ。
心病んでしまう人の特徴は、心が、「わたし」で埋め尽くされている事が多い。
 
詩篇77:2 わたしは悩みの日に主をたずね求め、夜はわが手を伸べてたゆむことなく、わが魂は慰められるのを拒む。
 
アサフは、この詩篇のはじめの状況は、慰められる事を拒むほど、ひねくれてしまっていた。
なぜ、ひねくれてしまうのか。それは、彼は、自分の悩みについて、主に尋ね求めてはいても「わたし」「自分」を主張しているからだ。
 
いかに「祈り」と名のつく行動をしてはいても、ヨブのように、主の御言葉を聞く事なしに、「自分」の主張ばかりをするなら、主は何も答えてくださらない。
それでも語気を荒げて続けるなら、もっと主が黙っているかのようになり、それをこじらせてしまうと、無益な自問自答や、主の御名が無い、無味な議論討論が、延々と始まる。
実際、ヨブ記3章から37章の長い議論の中には、「主(ジェホバ)の御名」は、1回しか登場しない。
 
結局、主の御名なき人間の自問自答や議論は、ますます、人を病ませてしまう。
祈りとは、主との対話であり、全て問題の解決は、「わたし」の願望を主にごり押しする所にはなく、主の言葉に聞き従う所にあるからだ。
 
詩篇77:3 わたしは神を思うとき、嘆き悲しみ、深く思うとき、わが魂は衰える。〔セラ
 
神を思い起こすと、嘆き悲しみが起きてしまう原因、また、深く思う時に魂が衰え果ててしまう原因は、何だろう。
続く節の内容から、その理由を導き出せる。
 
詩篇77:4 あなたはわたしのまぶたをささえて閉じさせず、わたしは物言うこともできないほどに悩む。
77:5 わたしは昔の日を思い、いにしえの年を思う。
77:6a わたしは夜、わが心と親しく語り
(NKJV:  I call to remembrance my song in the night 私は夜、かつての詩(歌)を呼び起こし)
77:6b 深く思うてわが魂を探り、言う、
 
この、3節だけでも、「わたし」「わが」という主語が、6回も登場する。
「夜」という時間に、自分で作った詩をひもといては、自分の「たましい」に繰り返し自問自答し続けて行くと、悪霊が寄ってきて、云々して来る。
「魂」という漢字は、「鬼が云々する」と書くのは、伊達ではないのだ。
 
心病むためのコツは、夜中じゅう、ずっと「わたしのしたい事」「わたしの現状」「わたしの将来どうなるか」を思い巡し続け、朝になったら、夕方まで寝るだけで、どんなに健全な人でも、心を病ませるのに、一ヶ月はかからない。
 
夜という時間は、安息して休む時間である。
創世記1章にある通り、聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりであり、一日のはじまりをしっかり安息してこそ、朝、力強く働きができ、そうして、神が創造された本来のあり方へと回復する法則が働く。
 
詩篇19:2に書いてある通り、被造物は、昼に活動し成長するが、そうこうしている内に、バランスを崩してしまったり諸々を壊してしまったりするのを、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へ修復するのだ。
 
悩みの解決を、世の中の情報や、インターネットや本で、あるいは友人に電話して求めると、一時的には、気分が晴れたかのような気がするかもしれないが、所詮は神から来るものでなく、真理ではない。
だから、真の解決には至らない。
夜中に、友人に電話して、長々と相談しても、うんざりされるだけである。
 
だから、夜眠れない時は、完全なる御言葉を思い巡らし、宣言し、そして主に「祈り」という電話をするべきである。
天地を創造した力ある御言葉を宣言すると、その人の中で、御言葉が力を持ち、傷つき壊れてしまった心や体は回復し、癒やされていく。
 
この詩篇の作者は、夜に、御言葉ではないもの、自分の思いや、昔創作した詩や歌を呼び出し、思い巡らした結果、以下のような、真理とは真逆の思考へと導かれてしまった。
 
詩篇77:7 「主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。ふたたび、めぐみを施されないであろうか。
77:8 そのいつくしみはとこしえに絶え、その約束は世々ながくすたれるであろうか。
77:9 神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもって/そのあわれみを閉じられたであろうか」と。〔セラ
 
主はとこしえに、捨てられる?
主は恵みを、施されない?
主のいつくしみは、とこしえに絶えた?
主の約束は、世々永く廃れる?
神は恵みを施す事を、忘れた?
神は怒りをもって、その憐れみを閉じられた?
 
全部、御言葉と真逆の内容である!
 
これこそ、夜闇の中で「わたし・わたし夜想曲」を巡らした結果であり、闇の考えに侵されてしまった好例である。
サタンはいつでも、御言葉とは真逆の考えを吹き込むものなのだ。
 
結局のところ、「わたし」の思い巡らしは、主の御言葉の真実をねじ曲げてしまう結果となるのだ。
サタンが人を堕落させるやり方は、エデンの園の時から変わっていない。御言葉をねじ曲げる事だ。
 
以上、9節までの内容がしっくりくる、という人は、心病ませるパターンに、はまってしまっている。
そこから抜け出すには、10節以降の対処をする必要がある。
 
詩篇77:10 その時わたしは言う、「わたしの悲しみは/いと高き者の右の手が変ったことである」と。
 
ここは、日本語訳は、意訳となっている。
英語の聖書KJVでは、
And I said, This is my infirmity: but I will remember the years of the right hand of the most High.
すなわちヘブライ語原典には、元々、「いと高き者の右の手が変わった」は、無い。主の右の手は、決して変わらない。
むしろ、「これが私の弱さです。しかしわたしは、いと高き方の右の手の日々を思い起こします。」が、10節の正しい内容である。
 
詩篇77:11 わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからの/あなたのくすしきみわざを思いいだす。
 
作者は、この10-11節で、方向転換し、詩の雰囲気ががらっと積極的になる。
なぜなら、この節以降、主語が「わたし」から、「神」「あなた」に変わり、そして、彼がこれから思い起こしていくのは、「自分」ではなく、主の右の手のわざの日々、御言葉に記されている事だからだ。
 
詩篇77:12 わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。
77:13 神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。
77:14 あなたは、くすしきみわざを行われる神である。あなたは、もろもろの民の間に、その大能をあらわし、
77:15 その腕をもっておのれの民をあがない、ヤコブとヨセフの子らをあがなわれた。〔セラ
 
主語が、自分から神に変わった事で、そして主のなされた事を思い起こしていく事によって、それまで問題だと思っていたものは、どんどん、問題ではなくなっていく。
全ての問題を解決して下さる救い主を、自分自身の中へと、招き入れるからだ。
 
アサフは特に、出エジプトの記事を思い巡らし、そして主をほめたたえたが、そのように、私達も、聖書に記されている主のわざを思い巡らす時、それはまことに、私達の心を喜ばせていく。
 
詩篇77:16 神よ、大水はあなたを見た。大水はあなたを見ておののき、淵もまた震えた。
 
出エジプト記において、神がモーセに、彼の杖を海に向かって差し伸べるよう指示を与え、その御言葉どおりにすると、水は左右に分かれ、海の中に道が出来た。
 
なお、淵と訳されたヘブライ語「テホム」は、創世記1:2に登場する「大水」あるいは「深淵」である。
人はおおげさに、わたしの煩いは深淵よりも深い、と言うかもしれない。
しかし、たとえ本当にその人の煩いの深さが、深遠ほどであったとしても、神は、暗闇の深淵に「光があれ」と御言葉で命じ、光を創造し、大水の真っただ中に、空を創られたお方である。(創世記1:1-8)
 
『「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。』(2コリント4:6)
 
詩篇77:17 雲は水を注ぎいだし、空は雷をとどろかし、あなたの矢は四方にきらめいた。
77:18 あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、あなたのいなずまは世を照し、地は震い動いた。
 
主は自然を動かされるお方である。
私達の主イエス様は、あらしの中、大波に揺れ動く小舟にも、水の上を歩いて来られるお方。
主は雷、雲、つむじかぜをもって、エジプトをかき乱したように、呼び求める私達の煩いをも、薙ぎ払ってくださる。
 
詩篇77:19 あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった。
77:20 あなたは、その民をモーセとアロンの手によって/羊の群れのように導かれた。
 
イスラエルの民にも、またエジプトにとっても、まさか、海の中に、神の民が通るべき道があったとは、誰も予想だにしなかった。
そして、その海の中に出来た道は、神の民でない者が追いかけてきても、かえって海は、その者を飲み込むのである。
 
主が備えておられる道、人の目に隠されて、ただ主の他にのために用意しておられる道は、みなそうである。
ただ主の民だけが通り、それ以外の者は、入ってはならない。
 
そして主は、神の民のために、世の人々が誰も見いだせない隠された宝を、また、秘められている財宝を用意し、蓄えておられるのである
イザヤ45:3 あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだ/イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
 
詩篇77:1 わたしは神にむかい声をあげて叫ぶ。わたしが神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる。
 
私達は、主を呼び求める時に、「自分」「わたし」を主張してしまうような間違いを犯してしまうが、少なくとも、神に向かって声をあげているなら、それは祈りとなり、主はそのような過ちを正して、正しい道へと戻して下さる。
 
いつも主の御言葉を思い巡らし、健やかな、真昼のような人生の歩みである皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

尊い命を、戯れや気まぐれでひねり潰すような事は、決してお許しにならない主(詩篇76篇)

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詩篇76篇表題は、『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたアサフの歌、さんび』であるが、70人訳の表題には「アッシリヤについて」という説明が付けられており、この詩篇は、アッシリヤがエルサレムを包囲した、ヒゼキヤ王の時代が、背景にあると考えられる。
 
詩篇76:1 神はユダに知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大である。
76:2 その幕屋はサレムにあり、そのすまいはシオンにある。
 
ユダ、イスラエルは、いずれも神の民であり、サレム、シオンは、いずれも神の民が住む聖なる都、現代でいう、教会である。
なぜなら、教会と訳されたギリシア語・エクレシアは、元々「召し出された者達」という意味であり、すなわち教会とは、建物や場所というよりも、むしろ、神様から呼び出された人々をあらわすからだ。
 
なお、サレムはエルサレムの古い呼び名で、アブラハムの時代、サレムはメルキゼテクという神様の祭司が、王として治めていた事が、創世記14章に記されているが、ヘブル書によると、メルキゼデクはイエス・キリストである事を示している。
教会は、イエス・キリストが王として、また祭司として治める神の民、また場所なのだ。
ゆえに、この詩篇は、現代の私達・神様を礼拝する教会と、その聖徒たちに直接関わる内容である。
神様は、昔も今も変わらず、圧倒的な力をもって、神様を恐れ敬う人々を救い、しかし主の敵に対しては、恐ろしいお方だ。
 
詩篇76:3 かしこで神は弓の火矢を折り、盾とつるぎと戦いの武器をこわされた。〔セラ
 
神様は、神の民に敵対する、あらゆる兵器を破壊される。
そして神様は、私達・神の民にとっては、鋭い矢であり、盾であり、剣であられる。
実際、神様は、アッシリヤの18万5千の軍勢を、たった一人の御使いを遣わして、たった一晩で滅ぼした。
 
詩篇76:4 あなたは永久の山々にまさって/光栄あり、威厳があります。
 
「永久の山々」は、70人訳での表記で、ヘブライ語聖書では「えじきの山」となっている。
何が「えじき」となったのか。それは、アッシリヤだ。
なぜアッシリヤは、えじきとなったのか。
それなりの理由があるからだ。
 
アッシリヤは当時、残虐な方法で諸国を震え上がらせ、恐怖によって国々を支配して来た。
一時は、預言者ヨナの警告でへりくだり、悔い改めたが、すぐ、その心をひるがえして傲慢になり、ヒゼキヤ王の時代には、イスラエルの神様に対して大口を叩くまでになった(イザヤ36-37章)。
それで神様は、アッシリヤを、「えじきの山々」で裁かれると言われる。
 
イザヤ14:25 わたしはアッスリヤびとをわが地で打ち破り、わが山々で彼を踏みにじる。こうして彼が置いたくびきは/イスラエルびとから離れ、彼が負わせた重荷は/イスラエルびとの肩から離れる」。
 
主は確かに、ヒゼキヤのように、主に助けを呼び求める人々に、答えてくださる。
たとえ、アッシリヤのような、圧倒的な力と残虐さを持って向かって来ても、その人が、主に助けを呼び求めるなら、主は助け、救って下さる。
 
詩篇76:5 雄々しい者はかすめられ、彼らは眠りに沈み、いくさびとは皆その手を施すことができなかった。
76:6 ヤコブの神よ、あなたのとがめによって、乗り手と馬とは深い眠りに陥った。
 
エルサレムを包囲したアッシリヤの軍勢18万5千だったが、この節によると、その軍勢が滅ぼされた時、彼らは眠りこけるように横たわっていたようだ。
それも、人間だけでなく、馬までも。
 
6節の「深い眠り」は、ヘブライ語ではラーダム、原意は「気絶させる」事で、速やかに深い睡眠へと、あるいは、死へと落とし込まれる事を意味する。
ちなみに、創世記2:21にて、神様がアダムに深い眠りで眠らせ、彼の脇腹を元にして女を造られた場面では、「ラーダム」から派生した「タルデマール」(昏睡状態、トランス状態的な深い眠り)が用いられている。
 
詩篇76:7 しかし、あなたこそは恐るべき方です。あなたが怒りを発せられるとき、だれがみ前に立つことができよう。
 
原文では「あなた(アター)」が反復され、「あなた(神様)」の恐ろしいまでの力が、強調されている。
 
確かに神様は恐るべきお方であるが、気まぐれや戯れで簡単に人を殺したりするようなお方ではない。
 
映画や、ゲーム、マンガ等では、魔法や超能力的な力を持った者が、大勢の人々を一瞬で次々殺すような場面を、目にするかもしれない。
言うまでもなくその創作物は、人の想像の中にあるだけで、現実世界には決して起こらない。
なぜなら、いのちを大切にしておられる主は、生きておられ、たとえ、誰かが超能力を得たとしても、神様の尊い似姿である命を、戯れや気まぐれにひねり潰すような事は、決して、お許しにならないからだ。
 
御霊が無い人は、願望する。憎たらしい相手を、思いのままに、一瞬にして、むごたらしい方法で、抹殺できないだろうか、と。
しかし、現実世界で、そんな事はできない。できない理由は、神様が許可しておられないから、であるが、その事を彼らは知らない。
できないから、それを、デザイナーやクリエイターは、映画やゲーム、マンガなどで表現する。
それは、人を貶めたい欲求を持つサタンが、彼らに吹き込んだ、偽りのイマジネーションである。
クリエイターを目指す人は、特に、そういう方面の闇に、陥りやすく、それを創作する人も見る人も共々、それを見る事で、鬱積した情緒の解放が起こり、また、怖いもの見たさを求める心情もあって、そういったホラーもの、残虐ものというジャンルが、いつの時代でも流行るものである。
 
そして、そのような、悪魔サタンの願望と、常に同調している人は、悪魔や、悪霊からインスピレーションを浴び続け、悪霊との交流をいつも続けているために、霊的・身体的な障りが起こったり、その人の運命にも、どんどん不調があらわれ、ついには、悲惨な死へと導かれてしまう。
反キリスト的な、あるいはホラーもののアーティストやクリエイターに、悲惨な、あるいは不可解な死が多いのは、そのためなのだ。
 
そこから唯一、救い出せるお方がおられる。
救い主イエス・キリストであり、そして、まことのクリエイターであられる神様である。
 
愛であられる主、すなわち、全被造物のまことのデザイナーであり、クリエイターであられる主は、人に、神様の似姿としての尊厳を与えられた。
創世記1:27 神様はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神様のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
 
その故に、神様は、人の命の尊厳を汚したり、いたずらに殺す事は、お許しにならない。
創世記9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神様は人を神様のかたちにお造りになったから。
 
天地を創られた主は、いかに悪辣な人であっても、悔い改めて主に立ち返る事を望んでおられ、気まぐれや戯れで人の命をもてあそぶなど、一切、心に無いお方なのだ。
エゼキエル18:31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからです。――神様である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。
 
しかし、たまにある種の人を、殺さざるを得ないくなる時がある。
それは、あまりに悪辣な人で、多くの人々を罪へと不幸へと陥れ、その人を生かしていたら、もっと多くの人を罪に陥れ、また地獄へ導いてしまうような。
そういう者を、殺さなければならない場合でも、主は、天上会議をわざわざ開いて、そうそう簡単に殺すという事はしない。(1列王記22章)
 
 
詩篇76:8 あなたは天からさばきを仰せられました。神様が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙しました。〔セラ
 
ヒゼキヤ王は、常に神様に信頼し、祈り求め続けた故に、神様は救いの行動を起こされ、アッシリヤの軍勢を滅ぼされた。
諸国の民はそれを聞いた時、イスラエルとヒゼキヤ王を恐れた。
 
76:10 まことに人の怒りはあなたをほめたたえる。怒りの余りをあなたは帯とされる。
 
いかに力強い相手が、怒り狂いつつ、神の民を攻撃するとしても、神様は、その怒る者をも用いて、今まで御力と栄光を現して来られた。
当時のアッシリヤに対して、そうだったし、また、エジプトのパロに対しても、そうだった。
 
76:11 あなたがたの神様、主に誓いを立てて、それを償え。その周囲のすべての者は/恐るべき主に贈り物をささげよ。
76:12 主はもろもろの君たちのいのちを断たれる。主は地の王たちの恐るべき者です。
 
「もろもろの君たちのいのちを断たれる」の「いのち」はヘブライ語でルアッハ、すなわち、霊である。
主は、地の支配者たちの誇り高ぶった精神様を打ち砕かれるお方であり、また、肉体だけでなく、たましいも、霊も、共にゲヘナに投げ込む権威を持っておられるお方である。
実際、黙示録に、それが記されている。
 
黙示録20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲しました。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられる。
 
今の時代、映画やゲーム、マンガなどに、邪悪なイマジネーションを吹き込み、多くのクリエイターや、その作品を視聴する人たちを惑わした、悪魔や、悪霊は、永遠に、火と硫黄の池に、投げ込まれる、と書いてある。
主は、人の尊厳をけなす悪霊やサタンや、主に敵対する、全ての者に対しては、まことに恐ろしいお方であるが、愛であられる主は、悪人が救われるように、悔い改めて主に立ち返るようにと、忍耐をもって、待っておられる。
主は実に、ノアの洪水を起こすまでに千年以上も待たれたが、結局世界には、悪辣ではない人はノアの家族8人しか残らなくなってしまった故、彼らを救うために、大洪水を起こされた。
主は、誰も滅びる事を望んではおられない。
この世界を、また多くの人々を、主の御言葉に従って救うために、主と豊かに交わり、主の御心を行う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

何のために主の御名は近くにあるのか(詩篇75篇)

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詩篇75篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたアサフの歌、さんび』
 
この詩篇では、主は、悪しき者がいつまでも栄えてほしいままにふるまう事は許さず、やがて必ず公正な裁きをして下さる、という事を示している。
続く76篇の表題は、70人訳聖書では「アッシリヤについての歌」とあるため、この75篇も、ヒゼキヤの時代のアッシリヤが、傲慢にも主を侮ったものの、たった一晩で主に打ち砕かれた事を背景としているのかもしれない。
 
預言者ハバククも、悪い者がいつまでも力を振るって栄え、弱い人々がいつまでも虐げられている状況について、主に叫んだ時、主は答えられた。
 
ハバクク2:2 主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
2:3 この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
2:4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
2:5 また、酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって、飽くことなく、万国をおのれに集め、万民をおのれのものとしてつどわせる」。
 
悪い者が永遠に栄え、弱い者が永遠に虐げられ続ける、という事は、ない。
主のさばきは、必ず来る。
世の歴史でも、悪がいつまでも永遠に栄えた歴史は、無かった。
 
その理由は、まさに、裁き主である神が、生きておられるからだ。
もしも神がいない、とするなら、この世は、騙しにおいて、卑怯さにおいて、腕ずくにおいて、強い者が、延々と延々と栄え続け、弱い人々は、延々と虐げられ、搾取され続ける、という世界がずっと広がり、酷い状況になっているはずだが、そうなっていないのは、悪を裁かれる神が生きておられるからだ。
神を知らない世の人も「正義は必ず勝ち、悪は必ず滅びる」と言っている通りである。
 
もし、悪しきものが延々とはびこっている、とするなら、その国民全体が「神はいない」とする共産主義国であったり、偶像崇拝国であったりする場合だ。
主は、そのような、主を呼び求めない人には、救いの御手を伸ばしようがない。
しかし、主に救いを求める人に、主は確かに答えてくださる。
 
そこで1節では、先取りして、主に感謝が捧げられている。
 
75:1 神よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。「われらはあなたのみ名を呼び」、あなたのくすしきみわざを語ります。
 
この「われらはあなたのみ名を呼び」の部分は、新共同訳では「御名はわたしたちの近くにいまし」、KJVでは「thy name is near」である。
 
そう、主の御名は、近くにあるのだ。
 
何のために、主の御名は、近くにあるのか?
 
それは他でもない。
 
私達が、すぐに、主の御名を呼ぶため、である。
 
アッシリヤの王セナケリブが、主に対して驕り高ぶり、神の民イスラエルに向かって傲慢な汚しごとをわめき散らした時、また、傲慢な手紙を送りつけて来た時、ヒゼキヤ王はそれをそのまま、主のもとに差し出し、主の御名を呼んで祈った。
すると、主が動いて下さり、アッシリヤの軍勢18万5千人を、たった一晩で全滅させた。
主は、主の御名を呼び求める人に答え、助けを送ってくださるが、神に逆らう者に対しては、裁き主として現れてくださる。
 
2節以降、主こそ裁き主であり、そのさばきの時と方法は、主が定めておられるという事が、記されてある。
 
75:2 定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく。
 
主は、定めておられる。御手を動かして裁かれる時を。
 
75:3 地とすべてこれに住むものがよろめくとき、わたしはその柱を堅くする。〔セラ
 
地が揺れ動く、という時がある。
それは実際に、地震という形かもしれないし、あるいは、悪辣な勢力が、地を轟かすような形で世を動かしている形であるかもしれない。
しかし、御言葉をもって天地の基を造られた主は、御言葉という「柱」でもって、揺れ動く地に対しては秩序を固く立て、地を轟かせている悪辣な者達は、平定してくださる。
 
75:4 わたしは、誇る者には「誇るな」と言い、悪しき者には「角をあげるな、
75:5 角を高くあげるな、高慢な態度をもって語るな」と言う。
 
高慢な者は、何も起きないと、どんどんつけあがって高慢になって行く。
それが、強力な国家の元首であったりするなら、世の人は、全く手がつけられない。
しかし主が「誇るな」「角をあげるな」「高慢な態度をもって語るな」と命じられるなら、その者達は、退場せざるをえない。
次のように書いてあるとおりである。
『神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。』(ダニエル2:21)
 
75:6 上げることは東からでなく、西からでなく、また荒野からでもない。
75:7 それはさばきを行われる神であって、神はこれを下げ、かれを上げられる。
 
「上げること」(ルーム)は、高く上げる事の意味で、KJVではプロモーションと訳されている。
プロモーションといえば、自分のものを広く知らしめる活動、として知られているが、他にも、進級や昇進などの意味がある。
私達を世においてプロモーションし、高く上げて下さるのは、主である。
 
その、高く上げる事は、東からでなく、西からでなく、また、荒野からでもない。
東(モーツァー)の原意は、出ること、噴出することで、そこから、太陽が出てくる東となった。
西(マアラーブ)は、陰る事の意味から、太陽が沈む西を意味するようになった。
荒野(ミドバル)は、KJVでは「南」と訳されており、牛を放牧する地、荒野の意味がメインである。
私達を高くする事の源は、東西南北のどこからでもないし、また、世の何者によってでもない。ただ、主が源である。
高く上げられる事も、低くされることも、またプロモーションも、全てをさばかれる、主から来るのだ。
 
75:8 主の手には杯があって、よく混ぜた酒があわだっている。主がこれを注ぎ出されると、地のすべての悪しき者は/これを一滴も残さずに飲みつくすであろう。
 
杯は、聖書では多く登場するキーワードで、主に、災いや裁きを意味している。(エレミヤ25章、黙示録14:10,16:19)
主は、地のすべての悪しき者に、さばきの杯を飲ませる。
 
イエス様は、十字架につけられる前の晩、
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)
と祈られた。
 
イエス様は、父なる神から与えられた災いとさばきの杯を、私達の代わりに、飲み尽くして下さった。
それは、全て罪を持つ全人類の、身代わりとして、十字架にかかられるためであり、そのイエス様を、救い主として信じる人は、もはや、裁きにあう事はなく、永遠のいのちを得て、救われるのである。
 
75:9 しかしわたしはとこしえに喜び、ヤコブの神をほめうたいます。
75:10 悪しき者の角はことごとく切り離されるが/正しい者の角はあげられるであろう。
 
作者はこの詩篇の最後にも、主は救いを与えてくださる事の故に、先取りして、賛美を捧げている。
 
主の御名は、近くにある。
 
なんのために近くにあるのか?
 
それは、いつでも、どこでも、私達が呼び求めるため、であった。
 
悪がはびこる場面に出くわす度に、また、悪しき者が政権を取って、不当な政治を行っているのを見聞きする度に、主の御名を呼び求めるのだ。
主は、公正に裁かれるお方である故に。
 
イエス様に贖われ、救われ、王かつ祭司とされた者として、積極的に主を呼び求め、私達の身の回りに、そしてこの時代に、世界に、主のさばきと助け、そして、主の支配を呼び込む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 詩篇 講解説教

敵が聖所をほしいままに汚している有様を主に訴えよ(詩篇74篇)

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詩篇74篇表題『アサフのマスキールの歌』
 
この詩篇では、敵によって聖所が汚され、破壊され、神の民が苦しめられている事を、主に執り成し、訴えている。
バビロン捕囚の内容を彷彿させる内容であるため、いつ、誰が記した詩篇であるのか、議論はあるが、この詩篇は、礼拝生活が破壊され、神の民の敵が大手を振って歩いている状況に対する祈りとして、非常に効果的な祈りである。
私達は、この詩篇から、私達自身への直接の養いをいただき、また、今この時代を執り成し祈るのだ。
 
詩篇74:1 神よ、なぜ、われらをとこしえに捨てられるのですか。なぜ、あなたの牧の羊に怒りを燃やされるのですか。
74:2 昔あなたが手に入れられたあなたの公会、すなわち、あなたの嗣業の部族となすために/あがなわれたものを思い出してください。あなたが住まわれたシオンの山を/思い出してください。
 
「あなたの牧の羊」「昔あなたが手に入れられた」「あなたの公会」「あなたの嗣業の部族となすためにあがなわれたもの」。。。
作者は、苦しめられている民を執り成す際、「あなたの」という言葉を何度も用いて、執り成す相手が、主のものである、という事を強調している。
 
私達・人間は、あやふやな存在でしかないし、自分で自分を救う力も、権威も、分も無い。
しかし、そんな私達でも、イエス・キリストにあって、自分たちは主の民である、と宣言し、天地を創造された主を拠り所とするなら、一転して、私達はしっかりした土台がある者、救いの根拠を持っている者となる。
私達はいつでも、主と自分との関係を思い起こし、また主の前で宣言して、主に思い起こしていただき、主が具体的に、私達の生活や職場で働き、助けて下さる機会を、呼び込む事が出来る。
 
3-5節において、敵が勢いづいて、森の中で斧をふるうかのように、聖所を破壊し、さけび、聖なる所に、彼らのしるしとなるようなものを掲げて、猛威をふるっている有様が記されている。
彼らは、手おのと鎚とをもって、聖所の彫り物をことごとく打ち落し、聖所に火をかけ、御名の住まい(ミシェカーン:幕屋)を、地にまで倒し、そのようにして汚した。(6-7節)
 
74:8 彼らは心のうちに言いました、「われらはことごとくこれを滅ぼそう」と。彼らは国のうちの神の会堂をことごとく焼きました。
 
神の会堂(英:シナゴーグ)と訳された語の原語は「モエド」、すなわち、約束された時間と場所の事である。
定められた時間と場所における礼拝が、敵によって阻害され、汚されてしまっている状況である。
 
この日本においては、そのような状況が、多々あるかもしれない。
偶像礼拝する家族によって、あるいは、主日も出勤を強いる職場によって。
それを「家族が礼拝を止めるのだからしょうがない」「仕事だからしょうがない」と言って、そのまま受け入れていないだろうか。
もし礼拝が阻害されているような状況なら、アサフのように、悲しみ、主に切に訴えるべきだ。
 
74:9 われらは自分たちのしるしを見ません。預言者も今はいません。そしていつまで続くのか、われらのうちには、知る者がありません。
 
自分たちのしるし、すなわち、礼拝者として、クリスチャンとしてのしるしが、この国の中から、また、自分の家の中から取り除かれてしまっているとするなら、胸をたたいて悲しみ、悔いて、主に叫び訴えるべき状況である。
祈るべきである。
10節以降、その状況を、いつまでものさばらせておかないように、という祈りが続く。
 
74:12 神はいにしえからわたしの王であって、救を世の中に行われた。
 
彼は、神を「いにしえからわたしの王」と、宣言し、自分と、主との関係を表明した。
私達は、主との関係を、いかなるものと見ているだろう。
主は、どのようなお方で、そのお方が、今の私達と、関わりを持っておられるだろうか。
 
74:13 あなたはみ力をもって海をわかち、水の上の龍の頭を砕かれた。
74:14 あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
74:15 あなたは泉と流れとを開き、絶えず流れるもろもろの川をからされた。
 
レビヤタンは海の巨獣であり、また、神に逆らう神話的怪獣として(ヨブ3:8)、あるいは、神に裁かれるべき神に敵するアッシリヤやバビロン(イザ27:1)を象徴している箇所もある。
 
この詩篇では、御力をもって海を分け、また、もろもろの川を枯らされた内容から、ナイル川の恩恵で栄え、神の民を苦しめたエジプトおよびパロをあらわしているものと思われる。
神は大いなる救いの手をもって、エジプトから、神の民イスラエルを救い出された。
 
神の民をエジプトから救い出された神は、昼と夜の法則を定め、光と太陽を設けられ、夏と冬の時を定め、地のもろもろの境界を定められたお方。(16-17節)
その神が「わたしの神」である、と、私達の主イエス・キリストにあって宣言し、この主に、訴えるのだ。
 
74:20 あなたの契約をかえりみてください。地の暗い所は暴力のすまいで満ちています。
 
「契約をかえりみてください」、と祈る祈りは、根拠がしっかりした祈りである。
今、私達が持っている神との契約の書とは、新契約聖書および旧契約聖書、すなわち、聖書である。
私達が、聖書の御言葉を盾にして祈る時、その祈りはもはや根無し草のような祈りではなく、どっしりとした岩のような揺るぎない根拠のある祈りとなる。
 
主は、神の民と、契約を結ばれた。
その契約の言葉の中に、書かれてある。
もし、人々が、主との契約を破り、その自分自身の罪のために遠くの地へ捕らえ移され、そこで悔い改めて主に祈る時、主は答えてかえりみてくださる、と。(1列王記8:46-53)
また、イスラエルの民が神との契約が記されている書、レビ記にも書いてある。
 
レビ記26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、
26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。
26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。
26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。
26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。
26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」
 
キリスト者である私達にも、過去、自分自身の罪や咎のために、捕囚されるような状況があったかもしれない。
しかしその時、主イエス様の名を呼び求めた時、主は答えてくださったはずだ。主は生きておられるから。
 
そして今、もし主と共に歩んでいると言うなら、この詩篇において、アサフが執り成したように、私達も、この時代のために執り成し祈るべきである。
 
主は、いつの時代でも、憐れみ深い。
主に、いつでも望みをかけるべきだ。
 
哀歌3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。
3:34 地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
3:35 いと高き者の前に人の公義をまげ、
3:36 人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。
3:37 主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
3:38 災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。
3:39 生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。

詩篇 講解説教

聖所に入る時、私達は真理をさとり、あらゆるしがらみから解放される(詩篇73篇)

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詩篇第三巻に入った。
詩篇の構造は、モーセ五書(トーラー)と同じく、五巻から成り立っていて、詩篇第三巻は、聖所と礼拝がテーマで、それはトーラー第三巻の、レビ記に相当する。
詩篇は生活密着型トーラー、リビングトーラーである、と、コーエン大学総長のポールガン博士は言ったが、聖所と礼拝を重んじるなら、あるいは、軽んじるなら、そ人はどうなるか、この73篇で早速示されている。
 
詩篇73篇表題『第三巻 アサフの歌』
 
アサフは、ダビデが編成した聖歌隊において、シンバルを鳴り響かせる楽長である。
ダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた日、この聖歌隊が編成され、彼は楽長としてダビデに任命された。(1歴代誌16章)
 
73:1 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
 
全くそのとおりである。
神は神の民に、心のきよい人達に対し良くしてくださり、恵み深い。
イエス様も、心の清い人は幸いである、彼らは神を見る、と言われた(マタイ5:8)。
 
ところが、聖歌隊の指揮者で、教会の賛美リーダーのようなポジションであるアサフが、真逆な事を、言い出してしまう。
 
73:2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
 
賛美リーダーや、教会の重要なポジションの人が、つまづくばかりの人生、足がすべるばかりになってしまう、とすれば、その理由が、3節につづられている。
 
73:3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
 
聖所から目を離し、礼拝から遠ざかって、世の悪しき者の栄えるのをじっと見つめ、悪どい者が高くなっているのを、ねたむ、とするなら、どんなにアサフのような素晴らしい賛美リーダーであっても、また教会指導者であっても、つまづくばかりの人生、すべるばかりの人生になってしまうのだ。
 
すなわち、1節に記されている真実から離れ、2-3節をしてしまうと、4-16節に記されている、苦々しい、みじめな思いを味わい続けてしまう事になる。
 
以降、4-12節に、世で栄えている悪者の有様が列挙されている。
 
73:4 彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、
73:5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
73:6 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。
73:7 彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。
73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。
73:9 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
 
高慢な者、神に逆らう者の特徴は、以下である。
 
73:10(新共同訳) (民がここに戻っても/水を見つけることはできないであろう。)
73:11(新共同訳) そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
73:12(新共同訳) 見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。
(口語訳の10節は、あまりに原文から離れた訳し方をしている、と感じたので、新共同訳を引用。)
 
「神よりも自分を高く」。これがサタンの本性であり、サタンの、人をそのように仕向けようとする本質である。
そして、悪を為す人が栄えるのを大々的に見せて、神に喜ばれる生き方を損であるかのように思わせるのである。
その価値観で世を見てしまったアサフは、13-16節にて、その虚しさを吐露している。
 
73:13 まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
73:14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
73:15 もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
73:16 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
 
彼は13節で、心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗う事をむなしいかのように言ったが、1節こそ真実である。
「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。」。
 
しかし、世の悪が栄えている事に目を向け、世は不条理だ、と自分の中で結論づけてしまうと、その人は、朝ごとに懲らしめを受け、心の苦痛から抜け出せない。
この、終わりのない堂々巡りから脱出するコツが、17節である。
詩篇73篇の転機は、17節である。
 
73:17 わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
 
アサフが、聖所に入った時。
その時、その者達の最後を彼は悟り得て、解決へと導かれる。
 
思い出してほしい。
詩篇73篇からはじまる第三巻は、聖所と礼拝がテーマであり、レビ記に相当する箇所であった事を。
レビ記は、私達には関係が遠い書のように感じるかもしれないが、詩篇はまさに、現代を生きる私達の思い、心、現状と実に密接する、生活密着型トーラーなのだ。
 
レビ1:1 主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、
 
主から呼ばれ、主の聖所に導かれ、主の聖所から語られる言葉に聞く。
この原点に立ち返る時、「きよい者は神を見る」と書かれてあるとおり、神の視点で、物事の真理を悟る事ができる。
その時、目の覆いが取り除かれる。
それまで、悪人の悪行によって覆い隠され、くらまされてしまっていた真理が、見えて来る。
そして、真理を知る時、私達は自由になる。
 
18節以降、悪どい者が行き着く先を、彼は真理の目で見て、悟った内容を、列挙する。
 
73:18 まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
73:19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
73:20 あなたが目をさまして/彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。
 
これは、弱い者の願望ではなく、真実である、という事は、歴史が証明している。
悪と嘘に長けた卑怯な者が、ずっと成功し続け強くなり続けて永らえた歴史は、無い。もしそうだったら、とっくに今、全世界は強大な悪に支配されているはずだ。
そうなっていないのは、義なる神が、そうならないように歴史を支配しておられる故だ。
 
結局、神なしで好き放題出来る、などという思いは、一時の夢である。
目を覚ました時、またたくまの滅びが一気に襲う。
彼は告白する。
 
73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
 
目を神からそむけ、けもののような人間を妬むなら、心が痛み、苦しみ、けもののようにもだえ吠えるしかない。
私達は、そのようないらぬ痛みに苦しみ悶え、けもののようになっていないだろうか。しかし、主は、ずっと手を取って導いて下さった。
主はさとしつつ導かれる。弱い私達を。
後に、栄光にあずからせて下さるために!
なんと恵み深い神であろうか。
 
そして彼は、結論づける。
 
73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
 
彼は聖所に戻ってきた。
すると彼は、真理を知り、全ての世のしがらみや不条理から解放され、心底、主をほめたたえるに至った。
 
私達は、イエス様を信じ、いつもイエス様を見続けているなら、私達こそが神殿、聖所である。
いつも主を見続けて、自分自身を、いつも聖所として保ち、あらゆる世の不条理から自由な皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

キリストにある王族の祭司たちへの、祝福を求める祈り(詩篇72篇)

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・詩篇72篇は、全5巻ある詩篇の、第2巻の最後の詩篇である。
・それで18-19節は第2巻をしめくくるにふさわしい祝祷で終わり、そして最後の20節は「エッサイの子ダビデの祈は終った。」という言葉で締めくくられる。
 
詩篇72篇表題『ソロモンの歌』
・この表題は、ヘブライ語では「リ・シロモーホ」、「ソロモンのために」「ソロモンについて」「ソロモンによる」のいずれとも訳す事が出来る。なおKJVでは、「for Solomon 」である。
・この詩篇は、ソロモンの父・ダビデが、息子ソロモンがこのような王であってほしい、という祈りを込めた詩であると考えられる。それと同時に、私達キリスト者が、このような王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた者として歩むように、という、私達自身が祈る模範的な祈りともなる。
 
72:1 神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください。
 
・「あなたの」とは当然、神であられる主のことであり、私達が祈るべきは、まず主の公平と主の義が私達に与えられ、それをもって、この世を支配できるように、という事である。私達が王になるとしたら、自分判断の公平や義によって支配するのではなく、神の義、主の公平によって、である。
 
72:2 彼は義をもってあなたの民をさばき、公平をもってあなたの貧しい者をさばくように。
72:3 もろもろの山と丘とは義によって/民に平和を与えるように。
72:4 彼は民の貧しい者の訴えを弁護し、乏しい者に救を与え、しえたげる者を打ち砕くように。
 
・この詩篇の祈りを、自分のための祈りにするとするなら、「彼」と書かれてあるところに、自分の名前を代入し、あるいは、自分の子やとりなしたい相手のために祈るとするなら、その人の名を代入して祈るのだ。
 
72:5 彼は日と月とのあらんかぎり、世々生きながらえるように。
72:6 彼は刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、地を潤す夕立のごとく臨むように。
72:7 彼の世に義は栄え、平和は月のなくなるまで豊かであるように。
 
・太陽、月、星は、しるしのため、季節のため、日のため、年のために創られた(創世記1:14)。それがなくなるまで、とは、この世界の秩序がもはや必要なくなるまで、すなわち、神が創造される新天新地に至るまでである。
・その時至るまで、神が立てた王、すなわち、私達・神の民による、恵みの雨のような憐れみに満ちた支配が、ずっと及びますように、という祈りである。
 
72:8 彼は海から海まで治め、川から地のはてまで治めるように。
72:9 彼のあだは彼の前にかがみ、彼の敵はちりをなめるように。
72:10 タルシシおよび島々の王たちはみつぎを納め、シバとセバの王たちは贈り物を携えて来るように。
 
・タルシュシュはスペインの南西タルテスースで、港と船で有名。島々とは地中海の島々。シバはアラビヤの南東の富んだ国、セバはエチオピヤの首都と考えられる。
・彼ら・神の民の王による支配が、東西南北全地まで及ぶように、という祈りである。
 
72:11 もろもろの王は彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕えるように。
 
・「もろもろの王は彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕える」ためには、12-14節の条件が必要である。
 
72:12 彼は乏しい者をその呼ばわる時に救い、貧しい者と、助けなき者とを救う。
72:13 彼は弱い者と乏しい者とをあわれみ、乏しい者のいのちを救い、
72:14 彼らのいのちを、しえたげと暴力とからあがなう。彼らの血は彼の目に尊い。
 
・以上のように、貧しい者、乏しい助けなき者を助ける人は、以下の祝福を得る条件が整う。
 
72:15 彼は生きながらえ、シバの黄金が彼にささげられ、彼のために絶えず祈がささげられ、ひねもす彼のために祝福が求められるように。
72:16 国のうちには穀物が豊かにみのり、その実はレバノンのように山々の頂に波打ち、人々は野の草のごとく町々に栄えるように。
72:17 彼の名はとこしえに続き、その名声は日のあらん限り、絶えることのないように。人々は彼によって祝福を得、もろもろの国民は彼をさいわいなる者と/となえるように。
 
・これはイザヤ58章の、主が喜ばれる断食と同じである。そのようにする人には、必ず主がかえりみてくださる。
 
・ソロモンの前半人生は、ダビデが祈った通り、憐れみの支配をし、まことに広大な土地を支配し、セバの女王をはじめ、国々が贈り物を携え来て、黄金をふんだんに集め、地の産物もふんだんに祝福されたが、安逸を貪って傲慢になり、後半人生は主から離れた故に祝福が離れ、人々から重税を取り立て、貧しい人々を苦しめる者となり、晩年は、伝道者の書に記されている通り、全てが虚しい人生となってしまった。
・私達はキリストにある王族の祭司として、神の言葉どおりを生き、貧しい人を顧み、この詩篇に記されている祝福を生涯、勝ち取り続ける人生でありたい。

 詩篇 講解説教

自分は主にあっていかなる立場であるかという宣言に基づいた祈り(詩篇71篇)

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・珍しく、この詩篇に表題は無い。なお、70人訳は「ダビデによる.ヨナダブの子らと最初に捕囚になった者たちによって歌われた詩篇」という意味の表題が付けられている。
 
71:1 主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。
71:2 あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。
71:3 わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。
 
・作者は、自分は、主に寄り頼む者である、と、まず宣言した。主が自分にとって、のがれの岩、わが城である、と。
・そして彼は、主に「あなたの義をもってわたしを助け」救い出して下さい、と祈り求めた。世の者が横暴さや卑劣さをもって自分の意を成し遂げようとする時、主の義が、神の民にとって救いとなる。
・神が支配し、同時に悪魔も働いているこの世において、自分は主にあって何者であるか、どの立場を取るのか表明するなら、主の義が、働いて下さる。
 
71:4 わが神よ、悪しき者の手からわたしを救い、不義、残忍な人の支配から、わたしを救い出してください。
 
・彼は4節で、特に悪しき者からの救いを願い、そして5-8節では、彼自身と、主との関係を、宣言している。
 
71:5 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの/わたしの望み、わたしの頼みです。
71:6 わたしは生れるときからあなたに寄り頼みました。あなたはわたしを母の胎から取り出されたかたです。わたしは常にあなたをほめたたえます。
71:7 わたしは多くの人に/怪しまれるような者となりました。しかしあなたはわたしの堅固な避け所です。
71:8 わたしの口はひねもす、あなたをたたえるさんびと、頌栄とをもって満たされています。
 
・彼は、若い時から主との交わりの中で生きて来て、彼の口にはいつも賛美があった。
・それで多くの人々は、彼の周りであまりに主が働かれるので、多くの人に驚き怪しまれるような者となった。私達も、いつも主を賛美し、主との交わりの中で生きるなら、多くの人々にとって奇跡と思われるようになる。
 
71:9 わたしが年老いた時、わたしを見離さないでください。わたしが力衰えた時、わたしを見捨てないでください。
・歳をとって衰えるような事があっても、主に求めるなら、主が働き、悪い者の手から助けて下さる。
・10-14節において、彼は、彼にあだする者、損なおうとする者が、災いに遭う事を、主に求めている。なぜなら、主の民を噛みつき、損なおうとする者にとっての祝福とは、彼らののぞみ通りになる事ではなく、むしろ、その悪のわざが失敗し、痛い目にあって、もはや悪のわざを止め、主の栄光をほめたたえるようになる事だからだ。
 
71:15 わたしの口はひねもすあなたの義と、あなたの救とを語るでしょう。わたしはその数を知らないからです。
71:16 わたしは主なる神の大能のみわざを携えゆき、ただあなたの義のみを、ほめたたえるでしょう。
 
・彼は17-20節において、神が今までどのようにして来て下さったか、その体験から、15-16節において主はいかなるお方であるのかを宣言している。
 
71:17 神よ、あなたはわたしを若い時から教えられました。わたしはなお、あなたのくすしきみわざを宣べ伝えます。
71:18 神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に/宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。
 
・まさにイザヤ書に書いてある通りである。
イザヤ46:3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
46:4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。
 
・そう、主は主の民を、背中に負って運んで来られたのだ。
・以降、彼はこれから、その主に対して、どのようにして行くのかという表明をして、詩篇を閉じる。
 
71:19 神よ、あなたの大能と義とは高い天にまで及ぶ。あなたは大いなる事をなされました。神よ、だれかあなたに等しい者があるでしょうか。
71:20 あなたはわたしを多くの重い悩みに/あわされましたが、再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。
71:21 あなたはわたしの誉を増し、再びわたしを慰められるでしょう。
71:22 わが神よ、わたしはまた立琴をもって/あなたと、あなたのまこととをほめたたえます。イスラエルの聖者よ、わたしは琴をもってあなたをほめ歌います。
71:23 わたしがあなたにむかってほめ歌うとき、わがくちびるは喜び呼ばわり、あなたがあがなわれたわが魂もまた/喜び呼ばわるでしょう。
71:24 わたしの舌もまたひねもす/あなたの義を語るでしょう。わたしをそこなわんとした者が/恥じあわてたからです。

詩篇 講解説教

幸いを得る主の民と、災いが降る神を蔑む者(詩篇70篇)

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詩篇70篇表題『聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの記念の歌』
・「記念の歌」と訳された語レ・ハズキール(原型ザカール)は、「覚える」事の意味。
・1歴代誌16:4には、ダビデがエルサレムに契約の箱を運び入れた時、主を「覚えて(レ・ハズキール)」聖歌隊を初めて編成した記述があり、以降、詩篇をもって、主の前にいつも賛美が捧げられるようになった。
 
・ダビデは1節で、主に対し、すみやかな救いを求めて、最後の5節で繰り返している。それにサンドイッチされた”中身”は、2-3節と4節で分けられる。
・この詩篇70篇は、ダビデ一人のものではなく、全て、主を助けとし、救い主とする人達(5節)のものである。
 
・2-3節において、ダビデは、彼に良くない事をする者どもが、**となるように、という祈りを3つしている。すなわち、
1,彼ののいのちをたずね求める者どもが、恥じ慌てるように。
2,彼の損なわれる事を願う者どもが、うしろに退かせ、恥を負わせられるように。
3,彼に向かって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもが、自分の恥によって恐れおののかせられるように。
 
・これは、ダビデに嫌な思いをさせる者に災いが降るように、といった、単純な負け犬の遠吠えのようなものと考えてはならない。
・イエス様は、敵の祝福のために祈るように、と言われたが、例えば、神を蔑む者にとっての祝福は、神への蔑みが成功する事だと思っているであろうが、彼にとっての真の祝福は、永遠の滅びに至らないために、神への蔑みや、呪いをもたらすわざを、止める事である。
・神の民ののいのちをたずね求める者どもが、恥じ慌てる事、また、神の民の損なわれる事を願う者どもが退かせられ、恥を負わせられる事、また、神の民に向かって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもが、自分の恥によって恐れおののかせられる事が、実は、彼らにとって、祝福なのだ。それによって、彼らが永遠の滅びに通じる性質を止めるようになるからであり、それによって、主が蔑まれる事がなくなるからだ。
・だから私達も、神が侮られないために、神の民に敵対する者に対し、積極的にダビデのような祈りをするべきなのだ。
 
・4節では、主の民の祝福を2つ祈っている。すなわち、
1,すべてあなたを尋ね求める者は、主によって喜び楽しむように。
2,あなたの救を愛する者は、常に「神は大いなるかな」ととなえるように。
・主の民が祝福され、高められていく事、そして、主を蔑む者達が災いに遭う事は、すなわち、父なる神が、栄光をお受けになる事である。次のように書いてある。
 
イザヤ65:13 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わがしもべたちは食べる、しかし、あなたがたは飢える。見よ、わがしもべたちは飲む、しかし、あなたがたはかわく。見よ、わがしもべたちは喜ぶ、しかし、あなたがたは恥じる。
65:14 見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ。
65:15 あなたがたの残す名は/わが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。
65:16 それゆえ、地にあって/おのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせるからである。
 
・最後にダビデは、自分が主に属する者であると告白し、1節の祈りを繰り返している。
詩篇70:5 しかし、わたしは貧しく、かつ乏しい。神よ、急いでわたしに来てください。あなたはわが助け、わが救主です。主よ、ためらわないでください。
 
・主は言われた。心の貧しい者(原文:霊においてこじきである者)はさいわいである、天の王国は、その人のものだから、と。なぜなら彼らは、自分の力ではなく、ただ主により頼んでいるからである。ダビデは、自分が貧しく乏しい、だから主よ、あなたが必要です、と告白した。主は、そのような人にこそ、助けを送ってくださる。
・ダビデは、主に、急いで来てください、と祈った。これは全て聖徒たちの祈りである。
 
黙示録22:17 御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
・・・
22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
 

 詩篇 講解説教

不当な者から理不尽なそしりを受けた時の対処法(詩篇69篇)

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詩篇69篇表題『聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたダビデの歌』
・詩篇69篇は、ダビデが彼の信仰と主への忠実さゆえに人から苦しみや迫害を受けた事を主に訴えたものであるが、これはイエス様が通られた道であり、私達信仰者も必ず通る道である。
・だからこの詩は、新約において何度か引用されており、それも特に、イエス様の十字架の場面でよく引用されている。
 
・まずはダビデの窮状の訴えから始まる。
69:1 神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました。
69:2 わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました。わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました。
69:3 わたしは叫びによって疲れ、わたしののどはかわき、わたしの目は神を待ちわびて衰えました。
69:4 ゆえなく、わたしを憎む者は/わたしの頭の毛よりも多く、偽ってわたしの敵となり、わたしを滅ぼそうとする者は強いのです。わたしは盗まなかった物をも/償わなければならないのですか。
・4節はヨハネ15:25でイエス様が引用している。キリスト者も、そして私達の主イエス様も、神の敵から、ゆえなく憎まれる事は定まっている。
 
・ダビデは、何も悪い事はしておらず、ただ、神に仕えている、というだけで、そしりを受けている。そんなダビデによる、信仰者のためにとりなす、とりなしの祈りである。
・その内容は、人々が、迫害されているダビデを見て、ああ、自分も神に仕えるなら、ダビデのようになってしまうのか、と恐れて、彼らが信仰から離れてしまわないように、という祈りである。
69:5 神よ、あなたはわたしの愚かなことを/知っておられます。わたしのもろもろのとがは/あなたに隠れることはありません。
69:6 万軍の神、主よ、あなたを待ち望む者が/わたしの事によって、はずかしめられることのないようにしてください。イスラエルの神よ、あなたを求める者が/わたしの事によって、恥を負わせられることのないようにしてください。
69:7 わたしはあなたのためにそしりを負い、恥がわたしの顔をおおったのです。
 
69:8 わたしはわが兄弟には、知らぬ者となり、わが母の子らには、のけ者となりました。
・イエス様はまさに、肉親の兄弟からも理解されず、またイスラエルの同胞からも、のけものにされた。
69:9 あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりが/わたしに及んだからです。
・ここはヨハネ2:17で引用されている。主を思う熱心のあまり、直情的な行動をして、それが人々からの攻撃材料になってしまう。その行動が、たとえイエス様のように正当であったにしても、あるいは、愚かさや浅はかさの故だったにしても。
・ダビデは5節で、自分の愚かしさを告白している。しかしそれが、義人達の攻撃材料にならないように、と、とりなし祈っている。
 
・10-12節では、ダビデが、迫害する者達から具体的にどんな行為を受けているのかを挙げている。
69:10 わたしが断食をもってわたしの魂を悩ませば、かえってそれによってそしりをうけました。
69:11 わたしが荒布を衣とすれば、かえって彼らのことわざとなりました。
69:12 わたしは門に座する者の話題となり、酔いどれの歌となりました。
・ダビデは主のためにあるいは誰かをとりなすために断食したり、粗布をまとっても、それがそのまま、ダビデをばかにする材料となり、酔いどれの歌のネタにされている。
 
・そこで、救いを求める祈りを主に祈る。それが13-18節。
 
69:13 しかし主よ、わたしはあなたに祈ります。神よ、恵みの時に、あなたのいつくしみの豊かなるにより、わたしにお答えください。
69:14 あなたのまことの救により、わたしを泥の中に沈まぬよう助け出してください。わたしを憎む者から、また深い水からわたしを助け出してください。
69:15 大水がわたしの上を流れ過ぎることなく、淵がわたしをのむことなく、穴がその口をわたしの上に閉じることのないように/してください。
69:16 主よ、あなたのいつくしみの深きにより、わたしにお答えください。あなたのあわれみの豊かなるにより、わたしを顧みてください。
69:17 あなたの顔をしもべに隠さないでください。わたしは悩んでいるのです。すみやかにわたしにお答えください。
69:18 わたしに近く寄って、わたしをあがない、わが敵のゆえにわたしをお救いください。
 
・以上、いわば防戦の、受け身の祈りだったが、19節以降は、攻撃の、賛美の、積極的な祈りに転換する。
 
69:19 あなたはわたしの受けるそしりと、恥と、はずかしめとを知っておられます。わたしのあだは皆あなたの前にあります。
・義人に対する迫害も、主を敬うゆえにばかにされた全ての事も、全ては、主の目の前で行われていた。主は見ておられた。その事を宣言する。
69:20 そしりがわたしの心を砕いたので、わたしは望みを失いました。わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰める者を求めたけれども、ひとりも見ませんでした。
69:21 彼らはわたしの食物に毒を入れ、わたしのかわいた時に酢を飲ませました。
・イエス様が十字架上で、誰からもかえりみられず、酸いぶどう酒を差し出された。その事は、4福音書に記されている。
 
・22-28節は、敵に対する徹底的な呪いの祈りである。これは詩篇109篇に通じる。
69:22 彼らの前の食卓を網とし、彼らが犠牲をささげる祭を、わなとしてください。
69:23 彼らの目を暗くして見えなくし、彼らの腰を常に震わせ、
69:24 あなたの憤りを彼らの上にそそぎ、あなたの激しい怒りを彼らに追いつかせてください。
69:25 彼らの宿営を荒し、ひとりもその天幕に住まわせないでください。
69:26 彼らはあなたが撃たれた者を迫害し、あなたが傷つけられた者をさらに苦しめるからです。
69:27 彼らに、罰に罰を加え、あなたの赦免にあずからせないでください。
69:28 彼らをいのちの書から消し去って、義人のうちに記録されることのないようにしてください。
・こんな祈りをしても良いのか?!と思うかもしれない。しかし主は、私達の心を全てご存知である。「あ、こんな事を祈ったら主は喜ばれないかもしれない、だから、これは祈らないでおこう」という、心の一言一句さえも。
・だから、怒り悲しみ苦しみ嘆き、全て、主に吐き出すべきなのだ。ちょうど幼子が親に何もかも正直に感情をぶつけるように。
・もし、心に抱えているそれらを、主にではなく、人にぶちまけるなら単なる愚痴となって人を汚してしまい、また主にも人にもぶちまけず、一人抱えてしまうなら、精神を病んでしまう。
・しかし、主に吐き出すなら、それは訴えの祈りとなって、主に立ち上り、問題は主に移ったという事で、心に平安が来る。
 
・29-33節では、主に全てを打ち明けた事で心に平安が来たダビデの、救われる事への確信が表明されている。
69:29 しかしわたしは悩み苦しんでいます。神よ、あなたの救が/わたしを高い所に置かれますように。
・28節以前、主へ訴えをしていた時は、鬱憤に満ちた濁った感情があったが、全てを主にぶちまけた後、心がすっきりしている。
69:30 わたしは歌をもって神の名をほめたたえ、感謝をもって神をあがめます。
69:31 これは雄牛または角とひずめのある雄牛にまさって/主を喜ばせるでしょう。
・彼は主に、クリアな心で、賛美と感謝を捧げている。濁った心のままで賛美を無理矢理捧げるよりも、主に全てをぶちまけたほうが良い。
 
69:32 へりくだる者は、これを見て喜べ。神を求める者よ、あなたがたの心を生きかえらせよ。
69:33 主は乏しい者に聞き、その捕われ人をかろしめられないからである。
・5-7節では、そしりを受けているダビデを見た人達が試みに遭わないよう、とりなし祈っていたが、ここでは既に確信を得ている。
・それで彼は、へりくだる者、神を求める者には、主はちゃんと報いて下さるから、喜ぶように、心を生き返らせるようにと勧めている。
 
・34節以降、最後までは、確信に満ちた賛美で閉じている。
69:34 天と地は主をほめたたえ、海とその中に動くあらゆるものは主をほめたたえよ。
69:35 神はシオンを救い、ユダの町々を建て直されるからである。そのしもべらはそこに住んでこれを所有し、
69:36 そのしもべらの子孫はこれを継ぎ、み名を愛する者はその中に住むであろう。
・主は、主を敬う人をどうしてくださるか。動詞に着目すると、主は救い、建て直し、住み、所有し、受け継ぎ、住めるという報いが与えられる。その事をダビデは、確信をもって宣言し、主をほめたたえている。
 
・結局、人から受ける理不尽の悩みの時、主に全てを訴えるのである。そうするなら主は平安と確信を与え、そして実際に、主の救いが来るからだ。
・ダビデも、イエス様も、不当な苦しみを受けたが、最終的には父なる神に全てを打ち明ける事によって、勝利した。私達すべての信仰者も、それにならうべきである。
・この詩篇69篇の結論的な内容が、1ペテロ2:19-21に記されている。
 
1ペテロ2:19 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。
2:20 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

 

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