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真の美しさ(エステル記2:12-23)
メッセージ音声
【概要】
本当の美しさとは、外見ではなく、真の王であるイエス様の喜びとなることを求め、その御心に従うことです。自分の価値観や好みを捨て、ただ主を恐れ敬い、従順であることこそが、神と人からの好意を受ける秘訣です。
【聖書箇所】
エステル2:12-23
箴言31:30
【勧めの言葉】
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自分の好みや価値観ではなく、真の王であるイエス様の御心を第一に求め、その喜びとなることを目指しましょう。
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自分の手柄を主張せず、霊的な指導者の教えや命令に謙虚に従いましょう。
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麗しさや外見の美しさ以上に、主を恐れ敬う心を大切にしましょう。
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たとえ今すぐ報いがなくても、私たちの行いはすべて神の年代記に記録されており、やがて必ず報いられることを信じましょう。
【***詳細***】
皆さん、こんにちは。
今日皆さんと共に見ていきたい御言葉は、エステル記2章12節から23節です。まず、12節をお読みします。「娘たちは女たちの規則に従って十二か月の期間が終わった後、一人ずつ順番に、アハシュエロス王のところにはいっていくことになっていた。準備の期間は、六か月は没薬の香油を、次の六か月は香料と女たちのための化粧品を用いて化粧することで完了するのであった。」アーメン。
愛するイエス様、今、私たちがあなたの御心にかなうもの、美しいものとなれますように。あなたが「さあ、立って出ておいで」と言ってくださるような者となりたいです。主よ、本当の美しさとは何か、外見に勝る美しさとは何かを教えてください。今、取り次ぐ僕を清め、このメッセージを受け取るお一人お一人を整えてください。礼拝に来られない方々の上に、あなたの癒しと導きがありますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒め称えます。
ここ最近、エステル記から「本当の美しさ」とは何かを学んでいます。このエステル記の物語では、まずペルシャ全国から美しい娘たちが集められました。そして、その中からたった一人の王妃が選ばれるのです。たくさんの娘たちが集まりましたが、王妃になれるのは一人だけ。彼女たちは、ある意味で必死だったことでしょう。
今日の箇所、12節にあるように、彼女たちは12ヶ月もの間、徹底的にエステティックなケアを受けていました。最初の6ヶ月は没薬の香油で、次の6ヶ月は香料や化粧品で体を整え、体から良い香りが滲み出るほどでした。
ちなみに、「エステ」という言葉は、このエステル記が語源かと思いきや、実は違うようです。フランス語の「エステティック(美学)」は、元をたどるとギリシャ語の「アイステーシス(感知する、感じる)」という言葉から来ています。一方、聖書のエステルという名前は、ペルシア語で「星(スターラ)」を意味するか、あるいはバビロニアの愛と美の女神「イシュタル」に由来すると言われています。エステルの本来のユダヤ名は「ハダサ」で、これは「ミルトス」という植物を意味します。イザヤ書には「いばらの代わりにミルトスが生え…これが主の記念となる」という言葉があります。いばらのような私たちでも、主にあってミルトス、つまりエステルのように美しい存在になることができるのです。
さて、多くの娘たちが王のもとへ行きます。13節にはこうあります。
「このようにして娘が王のところにはいっていくとき、その娘の願うものはみな与えられ、それを携えて後宮から王宮にいくことができた。」
これはすごい待遇です。一年間、徹底的に美を磨き上げられ、さらに王に会うときには、欲しいものを何でも与えられたのです。彼女たちはきっと、自分の価値観で「これが一番良い」と思う最高の宝石や衣装、香水を求めて、王の前に出たに違いありません。一晩で人生が変わるかもしれない、王の心を射止められるかもしれない、そんなチャンスに全てを賭けていたのです。ハーレム(後宮)は、自分の美しさで王の心を掴もうという女性たちの気迫で満ちていたことでしょう。
しかし、その世界は非常に厳しいものでした。14節を見てみましょう。
「娘は夕方にはいっていき、朝になると第二の後宮に帰ることになっていた。そこはそばめたちの監督官である王の宦官シャアシュガズの管理のもとにあった。その女は王が気に入って指名されるのでなければ、二度と王のところにはいけなかった。」
王に気に入られなければ、二度と会うことはできません。一晩きりで、その後一生召されることなく生涯を終えた女性も多かったでしょう。その夜の王の機嫌や、ほんの偶然によって運命が左右される。多くの女性たちは、その一瞬の偶然に賭けるしかなかったのです。これは、私たちの世界にも通じる厳しさです。たった一度の面接やテスト、タイミングや偶然によって、その後の人生が大きく変わってしまうことがあります。この後宮は、まさにそうしたこの世の厳しさが凝縮された場所でした。
しかし、その中で一人、必死さを感じさせない女性がいました。それがエステルです。15節です。
「さて、モルデカイが引き取って自分の娘とした彼の叔父アビハイルの娘エステルが、王のところにはいっていく順番が来たとき、彼女は、女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。」アーメン。
他の女性たちが自分の好みで飾り立てたのとは対照的に、エステルは自分の価値観を一切持ち出しませんでした。彼女が求めたのは、ただ一つ、「王の宦官ヘガイが勧めたもの」だけでした。ヘガイは、王のことを誰よりもよく知るプロフェッショナルです。王の好み、好きな衣装、色、仕草、言葉遣いまで、すべてを熟知していました。エステルは、「王様は何を求めておられるのだろうか」「何が王様の心を穏やかにするのだろうか」ということだけを追求し、ヘガイの言う通りにしたのです。
そして、「こうして」という接続詞に注目してください。「こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた」。彼女が好意を受けた理由は、プロフェッショナルの言うことに素直に従ったからです。
このエステルの態度は、20節にも表れています。
「エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていたときと同じように、彼の命令に従っていた。」アーメン。
彼女は、霊的な指導者であり、父親代わりであるモルデカイの命令にも従順でした。「おっしゃることは何でもいたします」というこの姿勢こそが、王の心を射抜き、すべての人から好意を得る秘訣だったのです。真の王妃となる人の性質は、自分の好みを押し出さず、ただ王の好みを追求することです。
これは、受験生が自分のやりたいことではなく、受験のプロの言うことを聞けば合格しやすいのと同じです。コンテストでも、専門家のアドバイスに素直に従う人が受賞するのです。
エステルは、見事に王の心を射抜きました。17節です。
「王はほかのどの女よりもエステルを愛した。このため彼女はどの娘たちよりも、王の好意と寵愛を受けた。王は王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。」アーメン。
ここで、元王妃ワシュティの名前が出てきます。ワシュティは王の命令に逆らい、自分の好みを通した結果、王妃の位を追われました。一方、エステルは宦官ヘガイと養父モルデカイの言葉に従いました。この「従順」のゆえに、彼女は王の心を掴んだのです。
さらに、エステルは主を恐れ敬う女性でした。彼女はユダヤ人として、神の民に敵対する者には決して頭を下げないという強い信仰を持つモルデカイに育てられました。冒頭で読んだ箴言31章30節には、「麗しさは偽り。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」とあります。
女性が美しくありたいと努力することは素晴らしいことです。しかし、クリスチャン女性にとって、それ以上に大切なのは、主を恐れ敬うこと、そして真の王であるイエス様の好みは何かを求め、その喜びになりたいと願う心です。
雅歌の中に、男性が女性を褒め称える場面があります。彼は、自分が彼女に贈った金の首飾りや宝石を身につけている彼女の姿を「美しい」と褒めるのです。男性は、自分が飾りたいと思ったものを身につけている女性を、愛おしく、美しいと感じるのです。私たちも、自分の好みではなく、誠の王であり夫であるお方の好みを身につけ、その方に喜ばれる者となりたいです。
さて、物語は21節から23節に進みます。ここに、後の大きな出来事への伏線が記されています。
モルデカイが王の門に座っていた時、二人の宦官が王の暗殺を企てているのを知ります。彼はそのことを王妃エステルを通して王に伝えました。22節には、「王妃エステルは、これをモルデカイの名で王に告げた」とあります。ここでもエステルは、自分の手柄にせず、モルデカイの名を立てています。なんと慎ましい女性でしょう。
この企ては調査され、二人の宦官は処刑されました。そして23節の最後に「このことは王の前で年代記に記録された」とあります。
この時、モルデカイは王の命を救ったにもかかわらず、何のご褒美もありませんでした。「なんで?」と思ったかもしれません。しかし、この記録こそが、後にユダヤ民族全体が危機に陥った時に、彼らを救う重要な伏線となるのです。この時点では彼は無名のままで、その功績に対する賞賛も報酬もありませんでした。
私たちも、今、自分の働きが報われていないと感じることがあるかもしれません。しかし、この物語が示しているように、神様はすべてを見ておられます。
「このことは王の前で年代記に記録された。」アーメン。
皆さんの昨日までの行い、今日の行いは、すべて天の書物に記録され続けています。人が見ていても見ていなくても、イエス様の喜びとなる行動をするとき、それは地上で、あるいは天で必ず報いられます。良いことも悪いこともすべて記録されているのです。今日の一日が、皆さんの行動が王の年代記に記され、将来の祝福の伏線となる一日でありますように。イエス様の御名によって祝福いたします。
【結論】
真の美しさとは、外見的な麗しさではなく、主を恐れ、その御心に従う従順な心にあります。エステルのように、自分の好みや価値観を手放し、ただ真の王であるイエス様が何を喜ばれるかを求めるとき、私たちは神と人からの好意を受け、真に美しい者とされるのです。たとえ今すぐには評価されなくても、私たちのすべての行いは神の書物に記録されており、最も良い時に必ず報いられます。主への従順こそが、私たちを飾る最高の宝石なのです。
真の美しさ—内面の品性と神への誠実
メッセージ音声
【概要】
ワシティ王妃とエステルの「美しさ」の違いを通して、神に喜ばれる真の美しさとは何かを学びます。それは外見的なものではなく、悲しみや痛みを知り、神の言葉によって整えられた内面からにじみ出る品格です。
【聖書箇所】
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エステル2:1-11
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エステル2:7
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エステル2:15
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第一ペテロ3:3-4
【慰めの言葉】
あなたが人知れず耐えてきたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けてきたこと、そのすべてを神様は見ておられ、それを「美しい」と見なしてくださっています。
【励ましの言葉】
今はまだ世のスポットライトを浴びていなくても、神の言葉によって内面を整えられ、誠実に歩むなら、神様はあなたを見出し、やがて時が来ればエステルのように大きく用いてくださいます。
【勧めの言葉】
人の評価や流行に惑わされず、外見の美しさを追い求めるのではなく、神の御言葉を中心とした内面の美しさ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない品性を飾りとしましょう。
***詳細***
エステルといえば「美しい」という言葉が真っ先に思い浮かびます。では、聖書が語るエステルの真の美しさとは何でしょうか。今日は、エステル記の冒頭からその秘訣を読み解いていきたいと思います。
エステル記の最初には、二人の美しい女性が登場します。一人は王妃ワシティ、そしてもう一人がエステルです。二人とも美しいと書かれていますが、ヘブライ語の原語を見ると、その「美しさ」には違いがあります。
まず、ワシティの美しさについて、1章11節にはこう書かれています。王様が王妃ワシティを人々の前に呼び出そうとしたのは、「彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と諸侯たちに見せるためであった」とあります。ここで使われている「容姿が素晴らしかった」「その美しさ」という言葉は、「見る姿が美しい」、つまり外見的な美しさを意味します。王は、自分の権力を飾り、宴会を彩るために、人々に誇示するものとしてワシティの美しさを用いようとしました。彼女の人格よりも、見た目が重視されていたのです。しかし、ワシティはその人格のゆえに、王の命令に従わず、結果として退けられてしまいました。
いつの時代も、人は見られることを強く意識します。特に現代では、SNSなどで自分の美しい姿を見せたいという欲求が強くあります。しかし、人に見せるための美しさを追い求め続けると、「SNS疲れ」という言葉があるように、疲弊してしまいます。無理が生じると、その無理は隠しきれないものです。
では、エステルの美しさはどうだったのでしょうか。2章7節を読んでみましょう。
「モルデカイは叔父の娘ハダサ、すなわちエステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔立ちも良かった。モルデカイは彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた。」(エステル2:7)
ここでエステルの美しさを表す言葉は、ワシティのそれとは異なります。「姿も美しく」という言葉には「整えられた」という意味合いが含まれています。そして「顔立ちも良かった」というのは「見るによい」ということです。つまり、エステルの美しさは、単なる外見の美しさだけではありませんでした。それは、全体の雰囲気、にじみ出る品格、柔らかさ、柔和さといった、人格から来る「整えられた美しさ」だったのです。
聖書は、宮殿の華やかさから視点を移し、一人のユダヤ人モルデカイと、彼に引き取られた孤児エステルに焦点を当てます。エステルの物語は、美しさからではなく、両親を失った悲しみから始まります。捕囚の地で、叔父に引き取られた一人の少女の物語です。聖書は、彼女が美しいということよりも先に、彼女が悲しみを経験したことを記しています。エステルの美しさは、何不自由なく育った華やかなものではなく、悲しみや涙、孤独を知っている美しさ、痛みを通って練られた品性、練られた美しさだったのです。
モルデカイは、彼女を自分の娘として、神を恐れ敬うユダヤ人としての教育を施しました。その中で、エステルは外見だけでなく、人の痛みを理解し、思いやることができる内面の美しさを育んでいきました。彼女には、人を安心させる柔らかさがありました。15節を見ると、「彼女を見るすべての者の好意を得た」とあります。彼女といると誰もが安心し、彼女を助けたいと思うような、そんな魅力があったのです。この「好意」という言葉は、「恵み」とも訳され、「愛される柔らかさ」というニュアンスを持っています。
テレビをつければ、見た目の美しさや若さばかりがもてはやされます。しかし、外見の美しさは永遠には続きません。「美人は三日で見飽きる」ということわざもありますし、英語にも "Beauty is but skin deep"(美しさは皮一枚にすぎない)という言葉があります。外見は文字通り皮一枚のものですが、内面の美しさは違います。むしろ、主と共に歩む中で、その美しさは年を重ねるごとに深まっていきます。
使徒ペテロはこう語っています。
「あなたがたの飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りとしなさい。それこそ神の御前で価値あるものです。」(第一ペテロ3:3-4)
エステルはまさにこのような女性でした。心の中の隠れた人柄が美しかったからこそ、外面的な飾りが加わったとき、さらにその美しさが輝いたのです。
この時点では、エステル自身は、自分が後に王妃となり、民族を救う器になるとは夢にも思っていませんでした。孤児として育てられ、王宮に召され、与えられた場所で誠実に生きていただけです。私たちも今はまだ、世の中からスポットライトを浴びていないかもしれません。しかし、人目のつかないところでの誠実さ、忠実さ、御言葉を大切にする姿を、神様はすべて見ておられます。主は心を見られるのです。
神様は、羊飼いの少年であったダビデの、神を信頼し敬う心を見抜かれました。同じように、神様はエステルの心に目を留めておられました。皆さんが人知れず耐えたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けたこと、そのすべてを主は見ておられ、その忠実さを「美しい」と見ておられるのです。
ワシティの美しさは「人に見せる」美しさでした。しかし、エステルの美しさは「神に見出される」美しさでした。それは、忠実で誠実な、御言葉に沿った美しさです。私たちも、神様への誠実さを最高の飾りとして、この時代に用いられるエステルのような、またモルデカイのような真の美しさを培っていきましょう。
【結論】
神様が価値あるものとされる真の美しさは、外見ではなく、試練や痛みを通して練られ、神の言葉によって整えられた内なる品性です。人に見せるための飾りではなく、神様の前での誠実さを飾りとし、人々の好意を得るような、柔和で穏やかな心を育てていきましょう。そうすれば、時が来たときに、神は私たちをエステルのように用いてくださいます。
エステル記1章12-22節
メッセージ音声
【概要】
王妃ワシティが王の呼びかけを拒んだことで王妃の座を失った出来事を通して、私たちがキリストの花嫁として主の呼びかけにどう応答すべきかを学ぶメッセージ。真の美しさとは外見ではなく、従順で柔和な心であることが示されている。
【聖書箇所】
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エステル1:12-22
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第一サムエル15:22-23
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第一テモテ2:9-11
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エゼキエル28章(ルシファーについて)
【戒めの言葉】
高慢は滅びに先立つ。王妃ワシティのように、立場や美しさのゆえに高ぶることは、神の呼びかけを拒むことにつながり、結果として祝福を失うことになる。
【勧めの言葉】
主の呼びかけに対して、「主よ、はい、ここにおります」と即座に応答する心を持つべきである。エステルのように「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という従順な姿勢が真の美しさである。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは時として、自分の働きや立場を誇り、主に指図するマルタのようになってしまう。自分の使命に心が急ぎ、御言葉に集中している人々を呼び出してしまうこともある。主の御前に謙遜に立ち返る必要がある。
【***詳細***】
エステル記1章12節から22節、初めに12節を宣言します。「しかし、王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った」。
エステル記の1章は、一人の王妃が王の呼びかけに応じなかったということが発端になって、物語が展開していきます。この王妃ワシティは、たった一度の王の招きに応えなかったことが、王妃の冠を失ってしまうほどの結果を招いてしまいました。
本当に私たちにとっての王はイエス様です。この王妃ワシティも、このアハシュエロス(クセルクセス)王も人間の王、人間の王妃でした。しかし私たちにとっての王、少なくとも私たちはキリストの花嫁であり、そしてイエス様が私たちの王です。今日のところにおいて、王が皆さんに呼びかけるとき、皆さんはどのように答えるべきかということを示しております。
このエステル記の1章は、まばゆい宴会から始まりました。このペルシア帝国は、当時インドからクシュ、アフリカのエチオピアの方面まで治める大帝国、127州を治める当時最大級の帝国でした。その王宮の中において物語が始まります。180日もの間、自分の栄光と富を誇るために宴会が開かれ、そしてさらに7日間、この王宮の庭園で全市民を招いての宴会が行われていました。
その宴会7日目のことです。王はぶどう酒で心が陽気になって、それで王妃ワシティを呼びます。王妃の冠をかぶってみんなの前に出なさい。確かにこの時の王様は酔っておられました。けれども、この王が王妃を呼んだ理由は、彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであったというふうに書かれてあります。
私たちの主イエス様は、私たちが贖われた時に、私たちのことを美しいというふうに呼んでくださいます。王冠をかぶらせてくださいます。本当に私たちもイエス様が、美しい花嫁よ、出ておいで、王冠をかぶって出てきなさい、もう嘆き悲しむことはやめて出てきなさい、と画家所の花婿のように呼びかける時、皆さんはしっかりとそのところから出て、王冠をかぶって出てくるべきなんです。
けれどもワシティは、この時王様がその美しさを見せなさい、王冠をかぶって出てきなさいという呼びかけに対して、それを拒みました。拒んだということを王様が聞かされた時、王様は激しく憤って、その怒りが燃え上がったのです。
このワシティとしては、ちょっと気分が乗らなかったかもしれません。なんかまた酒の肴にされるみたいなことを思ったかもしれません。あるいは、この王妃自身も女性たちの中で宴会を開いていた女性たちの間で何か話し合われていたのかもしれません。とにかく彼女は拒みました。王様のこのお言葉を拒否しました。
ここまでは大丈夫だろうという、そういったことをもしかしたら試したのかもしれません。昨日、試みという言葉について聞きましたね。試みというのは、子供が親の「してはなりません」という線にちょっとだけ、半歩だけ出て、それで親を試してみて、親が厳しい態度を取らなかったら「ああ、ここはいいんだ」と、よしここの線は確保したということで線を越え、またさらにその次の線をちょっと試してみる、ということをよくしてきます。王妃ワシティも、王様のこの呼びかけに今日はちょっとそれに応じないことを試してみようか、もしかしたらそういうことだったかもしれませんが、しかしこれが、この一度が王の怒りを招いてしまったんです。
しかも結果的には、これによって会議が召集されて、それで知恵のある人々に王様は聞いて、その会議の中で決定されたことは、この王妃ワシティはとても良くないことを王様にした、王様にしたばかりでなく王国全体に対して良くないことをしました、と。もしこのワシティが王様の呼び出しを拒絶したということが王国中に知れ渡れば、王国中のその妻たちが、王妃ワシティが夫の声を拒否したということで、甚だしい蔑みと怒りが生じるでしょう。なので、ぜひ王様こういうふうにしてください。もう王妃ワシティは王の前に進み出てはならないというお触れを出して、そしてこのことにきっちり対処するのであるならば、王国中のその妻たちは夫を軽んじることをやめるでしょう、ということがこの会議の中で出されました。
それでそれが全員の心にかなったんです。こうしてワシティは、この時もう二度と王の御前に出ることができなくなってしまって、そしてこのことが王国中に触れ広められました。
ここで本当に考えたいです。王妃という、本当に女性として最高の立場にいた人が、その座をなぜ失ってしまったのか。聖書全体を見渡すと、同じ落とし穴に落ちた存在がもう一つあるんです。それはエゼキエル書28章の方を見るとあるんですけども、もともと美の極みであった御使いルシファーです。ルシファーはもともととても美しい天使でした。けれども、その美の極み、それによって高慢になって、自分も神々の座に、神々と同じ立場になろうということで、その心が高慢になったゆえに、彼は投げ落とされたというふうに書いてあります。
本当に私たちはここから悟るべきです。本当にこの高慢が滅びに先立つものです。滅びというものは何か外側の罪というよりも、いつも私たちの内側から湧き上がって、特にこの高ぶり、高慢、これが私たちを滅ぼしてしまうことになります。
美しいこと、これは罪ではありません。立場が高いことも、それは良いでも悪いでもないんです。ただ、その高い立場を用いて、この王のために働くべきではあるんですけども、問題はその立場、美しさ、それのゆえに高慢になってしまって、私はできるから、私は美しいから、それが高慢になってしまって、そのゆえに高ぶった心のゆえに身を滅ぼしてしまうということ。これが本当に私たち自身、気をつけなくてはなりません。
私たちはワシティほど美しくはないかもしれませんけれども、本当にこの高慢というもの、私、優れているからというこの心、私、他の人よりも特別だからというこの心が滅びに先立ってしまうわけです。それでその高慢が、このワシティの高慢は、王様から呼び出された、それに対して私、王妃だよ、私、王様に並ぶ、その右左に並ぶものだよ、というそういう高慢があったんです。それで王様の呼びかけに答えないという形で表に現れました。
この王様は結局怒りに燃えましたけれども、結局このことを通してワシティは王妃という座が取り上げられてしまいました。
冒頭で宣言した言葉が第一サムエル記15章22節から23節なんですけども、そこにおいて宣言しました。「聞き従うことは生贄に勝る。聞き従うことは牡羊の脂肪に勝る。けれども、背くことは占いの罪、また強情を張ることは偶像礼拝に等しい」。強情ですね。これは偶像礼拝に等しいんです。新改訳の方では「まことに背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ」。この従わないこと、これ強情なんです。
強情を貫き通すことは偶像礼拝の罪に等しいということです。私たち、本当にこの御言葉を前にして強情を張ったら、偶像礼拝と等しくなってしまうんです。
私たちにとっての王の王はイエス様です。イエス様は皆さんのその働きっぷりよりも、むしろ従順であること、イエス様は皆さんのことを求めておられ、その従順を美しいというふうに呼んでくださるんです。
マリアとマルタがおりましたね。マルタお姉さんの方は仕事ができる人でした。仕事を優先させて、イエス様の足元に座ってイエス様のお言葉に聞き入っているマリアを指さして、「ちょっとこのマリアが何も働かないで、私だけ働いているの、それなんともお思いにならないのですか。なんか一言言ってあげてください」ってイエス様に進言したら、イエス様は「マルタ、マルタ」って2回も名前を呼んで、「あなたはいろんなことで心を忙しくしているけど、しかしマリアは何よりも一番大事なことを選んだんですよ。マリアからそれを取り上げないでください」っていうふうに言ったんです。
私たち、忙しくなったり、また仕事ができたり、もろもろするとね、本当にイエス様にさえも指図をしてしまうようになってしまう。本当に私たちはよく気をつけるべきです。イエス様は本当に優しいお方で、マルタに「お前は指図するのか」とか、そういうことは言わないで、「マリアから一番いいものを取り上げないでください」っていうふうに、本当に私たちイエス様に習いたいですね。イエス様のお心、習いたいものです。
私たちは何かと、つい「私、これだけしております。これだけの奉仕をしています」っていうことを言いたがりなところはあるかもしれません。けれども、第一テモテ2章9節から11節には書いてあること、それは本当に私たちキリストの花嫁としてどのように立ち居振る舞うべきか書いてあります。「同じように女も慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、派手な髪の形とか金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい」。
本当に良い行い、これが私たちの飾りなんです。真珠や高価な諸々で身を飾るということよりも、主の目に本当に美しい飾りというのは、柔和で穏やかな心を持って良い行いで自分を飾ること。これが主の御前において何よりも美しい飾りなんです。
ですから本当に神様の御前における真の美しさ、それは外見でもない、お化粧でもなく、またあるいは高価な立場でもありません。本当にこの主からお呼びがかかったらすぐにお答えする。「主よ、はい、ここにおります。主よ、おっしゃる通りにいたします」というその心、それが聖書的な美しさです。
エステルにはそれがありました。エステルは一度も王様に「私それしたくありません」とかそういったこと言いませんでした。エステルの口癖は「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という言葉で、エステルはいつも始めたんです。
本当に私たちもイエス様の御前において、「イエス様、もしあなたの御心でしたら、イエス様、あなたが主人です。あなたの御心がなりますように」。それがエステルの美しさ、真の美しさ、このワシティにはない美しさ。それはこの柔和で穏やかな心、従順な心。これは本当にエステルの美しさです。私たちは本当にこのエステルの美しさを身につけるべきです。
聖書は教会のことをキリストの花嫁というふうに呼んでますね。エペソ書でもそういうふうに言ってます。黙示録においても、私たちは花嫁だっていうふうに言っております。私たち、キリストの花嫁であるとするならば、本当に主がお呼びになる時はすぐに御前に従順な心を持って進み出るべきです。
このワシティは本当にこの高慢が先立って身を滅ぼしてしまいました。エステルはこの従順な心ゆえに王様から愛されました。私たちは真の王であるイエス様から、本当にこの従順な心を持って、真の王であるイエス様から愛される、そのたしなみをしっかりと身につけて、本当にイエス様から王冠がかぶせられて、「さあ美しい人よ、さあ出ておいで」、その呼びかけに応じて、イエス様の御前に、本当にこのキリストから与えられた飾り、柔和な飾りを身につけて進み出て、そして本当にイエス様から愛される皆さんでありますように。
【結論】
私たちキリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応答する従順な心を持つべきである。真の美しさとは外見や立場ではなく、柔和で穏やかな心、そして良い行いという飾りである。エステルのように「主よ、もしあなたの御心でしたら」という謙遜な姿勢を保ち、高慢を捨て、主に従順に従う者となることで、主から愛され、王冠を与えられる祝福に与ることができる。
エステル記1章1-12節 説教
メッセージ音声
【概要】
エステル記1章1-12節から、クセルクセス王の豪華な宴会とワシティ王妃の拒絶の物語を通して、神の御言葉の境界線内で生きる真の自由について学びます。人間の栄光ではなく神の栄光を求め、「思いのまま」という誘惑に陥らず、真の王イエス・キリストに従順に歩むことの大切さを説いています。
【聖書箇所】
エステル1:1-12
【戒めの言葉】
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御言葉の境界線を越えた「思いのまま」の自由は滅びに先立つ
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主を試みてはならない。小さな一線越えが大きな堕落につながる
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神抜きで人間の栄光を誇示する生き方は、最後には王の怒りを買う
【勧めの言葉】
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御言葉の秩序の中にとどまることで、真の自由と幸いを得られる
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ワシティではなくエステルのような従順さを求めよう
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礼拝の姿勢、言葉、時間の使い方において御言葉の境界線を保とう
【悔い改めの促しの言葉】
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自分の心の中の「思いのまま」を点検し、一線を越えていないか吟味せよ
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もし自分の中にワシティに似た面があるなら、それを認めて悔い改めて捨てよ
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記の1章1節から12節です。
エステル記1章1-12節では、はじめに1節から4節を宣言します。
「クセルクセスの時代、クセルクセスがインドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で王座についていた頃、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシアとメディアの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、180日に及んだ。」(エステル1:1-4)アーメン。
今朝も我らは御前に進み出ました。どうか我らにお語りください。御言葉をもって我らを生かし、御言葉によって清め、御言葉の道、その真実の道に歩ませてくださいますように。そうして私たちがこの邪悪な世の中においてイエス・キリストの光を輝かせることができますように助けてください。
ハレルヤ!素晴らしい主の御名をほめたたえ賛美いたします。エステル記の公開説教、エステル記に入りました。前回はこのエステル記という書の全体を眺めました。不思議な書でしたね。この神様の名前、主の御名が一切出てこないけれども、確かにこのページの行間、行間に、一文字一文字の間に神様が働いておられるのを見ました。隠れた私たちの王の御手が私たちを守っているんですね。それがエステル記を通してわかるんですけども、今日は早速その本文の中に一歩ずつ入っていきたいと思います。
この物語の始まり、今日は1章1節から12節までなんですけども、ここにおいてはまだエステルは登場しません。モルデカイとか、また悪いハマンもまだ姿を見せないんですけども、けれどもこの最初の場面、ここにおいて、これから始まる壮大なドラマの伏線が全部仕込まれているんですね。物語には伏線というものが仕込まれているものですけれども、今日の箇所において、この幕開け、現代私たちはどのようにして生きるべきか、その私たちに対して何を語りかけているのか、それが今日の箇所から見ていけるんですけども、まず、この物語はクセルクセス王、新改訳第三版でアハシュエロス王、その治世から始まるんですね。
彼はこのインドからエチオピアまで127州を治める巨大な帝国の王様でした。そしてその首都がスサというところです。スサ、王様はこの治世の第3年に王宮で大規模な宴会を開くんですけども、それがなんとも桁違いな常識外れな宴会なんですね。なんと180日にも及びました。ですからおよそ半年ぐらいですね、ずっと王様はこの王の栄光とまた富を示すためにずっと、この諸国の高官たちに見せ続けてきたんですね。王の栄光、王はこんなにも富んでいるよ、こんなにも気前がいいんだよっていうのをずっと見せ続けました。
そしてその後、それが終わった後に、この首都に住むすべてのものを集めて7日間の宴会を開きました。この王宮の庭には白と紫の幕が飾られていて、大理石の柱とか銀の長椅子、金の杯、それも全部趣向が違っていて、どれもこれも素晴らしいものだったんですね。この王様の豊かな栄光、またその勢力の輝きというふうに4節を見ますとわかるんですけども、でもこれ結局神の栄光ではなくて人間の栄光なんですね。神様抜きで人のこのきらびやかさが輝くと、それは永遠のきらびやかさではないものなんですね。
私たちが今生きているこの世界も同じです。一見きらびやかに見えるところがありますね。このスマホを開くと、多くの人々がSNS上できらびやかな自分を見せておりますね。こんなにも美味しいものを食べている、こんなにもゴージャスなところに行っている、それを自慢している様がたくさんあります。でもキラキラ輝いているその有様のその大半は、神様抜きで人間が作り上げている栄光ですね。問題は、それが輝いて見えれば見えるほど、その背後に隠されている薄暗いところが実はあるものですね。エステル記は、そのきらびやかな幕の裏側を、これから容赦なく見せつけていくことになります。
特にこの8節の方を見てみたいんですけども、8節にこう書いてあります。
「しかし、飲酒は強要しないことという法に従っていた。誰でもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと王が宮廷のすべての長に命じていたからである。」(エステル1:8)
王様はそれぞれ自分の思いのままにさせるよっていうふうに言ってたんですね。強要しない。一昔前はお酒の席に先輩が、上司が注ぐ酒は必ず飲まなければならないという空気がありましたけども、最近は強要しないという空気になってきました。
王様、それぞれ自分の思いのままにさせるというふうに、王様がすべての長に命じていたと8節に書いてありますね。一見、優しい王様の心配りに聞こえますね。これが王様の気前の良さ、また寛大さを表しておりました。けれどもここに落とし穴が潜んでおります。望む通りにしなさい、思いのままにしなさいっていうふうに言われた時、人間はどういうふうに振る舞うか。神様を知らない人間、好きなようにしていいよというふうに、御言葉を知らない神様を知らない人間に言うとどういうふうにすることが目に見えているか。
お酒、好きにしていいよと言われた時に、あ、じゃあ節度を持って適度に飲みますって言って、節度を持って適度に飲むのが人間でしょうか。食べ物、節度を持って健康にいいように食べるでしょうか、太らないように食べているでしょうか。互いに節度を持って節度を持った口調で、また言葉遣いでお話をしたり振る舞ったりしているでしょうか。まあ、ほとんどの場合、そうではないですね。良い方向には進みません。だから街中見ると、成人病を患っている人がたくさんおりますね。限度を超えて、下品なおしゃべりがまかり通ったりして節度を超えて振る舞っているわけです。
ですから、この御言葉の秩序を構築しないままで、いいよ、好きなふうにやっていいよ、自由だからっていうふうにそういう空気を作ってしまうと、いつの間にか何をしてもいいんだっていうそういう空気に変わっていってしまいます。思いのままを許すこの空気の中において、この王様自身もこのお酒に身を委ねて節度を越えていってしまいます。そしてその流れがこの王妃ワシティにも移って、王妃にも移り、宮殿の中に移り、女たちの中に移りということがつながっていきます。
この現代社会もまさにこの思いのままが美徳とされていて、そしてそれがまかり通っていくような時代ですね。思いのままに振る舞っていいんだ。自分らしく、したいことをすればいい、誰にも強制されない。それ自体は何か一見するといいような言葉に聞こえるんですけども、けれども、神様を中心に見据えない思いのまま振る舞っていいっていうところは、必ずどこかしら暴走をしていってしまうものですね。自分は男、女、どっちでもいいんだ。今日は男、明日は気分が乗ってるから女みたいな、そういう自由にしていい、したいことをすればいいということがはびこった結果、どういうふうになるか。本当にこの社会が混乱してしまい、また子どももどういうふうに自分が自分のアイデンティティを確立すればいいのかわからなくなってしまっております。
この誰にも強制されない、自分らしく、これは美しく聞こえる言葉ですけれども、けれども、結局、自由であること、自由であることの幸いというものは、この秩序の中にとどまってこそ、真にこの自由の幸いが輝くわけですね。神様の御心のまま、神様のこの節度の中、御言葉のこの囲いの中にいてこそ、本物の幸い、幸せ、自由はあるんですけども、この神様の御言葉の囲いを超えたところにおける自由気まま、これが滅びに先立ってしまうものになってしまいます。
もう一度言いますと、神様の御言葉の囲いからはみ出た自由、これは自分の身に滅びを招いてしまうものです。
このアハシュエロス王、クセルクセス王の宴会180日、それプラス7日ずっと続いておりました。そのアハシュエロス王の宴会の目的は結局4節に書いてあるんですけども、王様自身のこの栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示すこと、これは人々に示すことでした。見せること、これが目的だということが4節見ると分かります。私はこんなに偉いんだ、私はこんなに気前がいいんだ、こんなに偉いんだって、こんなに金持ちなんだ、それを誇示するための宴会だったんですね。
それで王様はこの心が酔った時にふと思いつきます。そうだ、いろいろと富を見せてきた。じゃあ今度は自分の妻、王妃ワシティがどんなに美しいか見せよう。で、王妃ワシティを呼んでこさせようということで呼んでくるんですけども、けれどもここはクライマックスなんですね。自分の富を見せ、宮殿の豪華さを見せつけて、それでもまだ足りなかった。本当にSNSで自分を見せる時、美しく、なんか美しい自撮りができるような、そういうアプリもありますね。それは自由に加工もできます。なんかこういう風に横が大きいの太いのを縦長にすることもできますし、また何かお化粧しているかのようにも見せることもできますね。
このように自分を美しく見せることのたどり着く先は、実は醜くなってしまうんですね。高ぶりは滅びに先立ちます。心の高慢は倒れに先立つ、箴言に書いてありますね。悪魔サタンはなんで、もともと天使だったのが、サタンに堕落してしまったか。これ、自分の美しさ、これを誇示して神よりも上に立とうとしたからですね。結局、自分の美しさ、自分の素晴らしさ、これを誇示する先には滅びが待っているんです。この王の気前の良さ、それは神様抜きであるとするならば、結局、自分自身を本当に嫌な思いをさせてしまうものになってしまいます。
12節の方を見ますと、この王妃ワシティを呼んだんですけども、けれど、どういう風になったか。
「王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。王は激しく怒り、その憤りは彼の内で燃え立った。」(エステル1:12)
ワシティは王の呼び出しに対して「ノー」をつけました。これわざわざ王様からの7人の宦官、名前が記されている7人の宦官を通して王妃は呼び出されたにもかかわらず、王妃は自分の宴会をこの女たちの間で開いていて、そしてこの7人の宦官の呼び出し、王様からの呼び出しを「いいえ、行きません」ってそれを突きつけたんですね。
聖書がここで示している事実がはっきりしています。大切な原則が隠れています。結局、自分の好き勝手に振る舞って、高ぶって、王の命令さえも拒むものであるならば、最後には王の怒りを買ってしまうということです。私たちが真の王であるイエス様、御言葉、この限度を超えて振る舞うのであるならば、結局最後は、主の怒りを買ってしまうことになってしまいます。
本当に現代の私たちも本当にありがちな話です。ワシティはこの時いきなり「いいえ」を突きつけたのかどうか。おそらく違うはずですね。この拒む、「ノー」を突きつけるという行動の前に、もっと小さな積み重ねがあったんですね。王妃ワシティはこの何をしてもいいよっていう180日がなければ、その前だったらおそらくこういうことはしなかったはずですけども、けれども好きにしていいよという180日の後に、これがあったんですね。
本当に人間、私たち全員含めてです。何をしてもいいよ、好きに振る舞っていいよ、御言葉の範囲、範疇外で自分の思いのままでは、本当にこの王妃ワシティの罠に陥ってしまうことがあります。
聖書に試みるという言葉があるんですけども、「あなたの神である主を試みてはならない」悪魔サタンに対してイエス様が言った言葉です。試みというものは、ここまでいいよという限度、リミットがある。そのリミットを少しずつ超えて、このリミット、白黒はっきりしているリミットですけど、しかし試みというのはグレーゾーンに足を踏み入れて、それで、ここで大丈夫だったらさらにもう一歩踏み越えて、それでもなお何か許されそうな感じであるならばさらに大きな一歩を踏み越えて、そういうふうにちょっとずつちょっとずつほんの小さな線を越えていく。
最初は誰にも叱られない。叱られないということを子どもが経験すると「あ、ここは大丈夫なんだ」って言ってもう少し一歩踏み込んでくる。それでこれも大丈夫、大人は怒らないでいるとするならば、子供はどんどん大胆に大きく踏み外していってしまうようになってしまうんですね。最初だったら絶対に超えなかった線を平気で超えていってしまうようになってしまう。これは試み。子供が親を試みることを積み重ねた結果でしたね。
このワシティもおそらくその積み重ねの結果だったんじゃないかと思うんですね。少しずつ主人である王を軽んじる心が芽生えた。女たちの宴会を開いていた女たちの間で、王様ってさあ、ちょっとあれあれだよねって、そういうふうに盛り上がっていて、その女たちの宴会の世界の中でどんどん蔑む心、傲慢な心、それがどんどん芽生えていく。で、そして境界線がずらされていって、そしてその積み重ねがあの決定的な踏み外しになってしまったんです。
イエス様は荒野で悪魔から試みられた時、はっきりこう言われました。「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。アーメン。
私たちは王の王である主に対して、ここまではいいかなっていうのを繰り返してはならないですね。許されてきたじゃないか、だから自分は大丈夫なんだって、そういうふうにしていってしまうと、どんどんこの歯止しがつかなくなってしまいます。御言葉がやめなさいと告げていること、これぐらいだったらと思って、少しずつ超えていく。言葉の秩序がどんどん乱れていく。お金の使い方が乱れていく。携帯、スマホの使い方がどんどん乱れていく。そして礼拝の順守、それが乱されていく。
本当にこの試みが好きな子供、あるいは人というものが確かにおります。ここまではこうやっていいよ。そういう人はチャレンジングな言葉、チャレンジングな態度をするんですね。そのような人は本当に滅びに先立ちやすいものです。
本当に私たち、特に実際教育をしております。本当にこの御言葉の秩序、これをしっかりと保たなくてはなりません。今、私たちは神様から与えられている自由裁量があります。それを皆さんはどのように使っているでしょうか。神様、確かに私たちを奴隷としてではなく、自由人として扱ってくださっておりますけれども、その自由をどのように皆さんは使っているでしょうか。この自由は神様抜きで好き勝手していいという自由ではありません。しっかりとこの御言葉の境界線の内側で生きる本物の自由、それがあるんですね。これをしっかりと実際に伝えていかなくてはなりませんね。
本当の自由の喜び、これはこの御言葉の境界線の内側、イエス様のその守りの御翼の陰においてこそ、本当の守りと自由があるのであって、それを乗り越えた自由というものは、それは滅びが待っている自由になってしまいます。
私たちは今、主を試みてはいないでしょうか。この主を、主の権威を試みてはいないでしょうか。礼拝の姿勢や、また自分自身の口から出る言葉、あるいは自分のスマホで見るもの、時間、神様との時間、それをしっかりと皆さんは境界線を持って保っているでしょうか。強制されていないからっていうのを理由にして、少しずつ乗り越えていないか、点検したいと思います。
この本当にしっかりと御言葉の境界線を保っている人は、このワシティの結末を避けられる人ですね。ワシティはこの一件によって王妃という地位を失ってしまいました。聖書はこの空いた王妃の座に全く違うタイプの女性を、王妃に据えるということが読み進めていくとわかるんですね。エステルです。
エステル記の物語で、本当にこのまずワシティのこの拒否する、本当に試みに試みて、そして一線を越えてしまったというところの後ろ暗さから始まりました。だから、その後に来るエステルという王妃のこの従順という性質の美しさが際立っていくんですね。2章以降、本当にこのエステルの美しさが際立つのは、このワシティのこの王に対する拒否があったからなんですね。
次回以降、13節から進んでいくんですけども、本当にこの今日、まず私たちは自分の心の中の思いのまま、小さなこの一歩一線を越えてしまうという、これをしっかり点検しましょう。そして本当にこの神様の栄光ではなく、自分の栄光、これをあのサタンやこのワシティの道に倣うことなく、本当にそれはしっかりと十字架の前に置いて、そしてエステルのごとく、真の王の前に対して従順という美しさを、それを輝かせる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
エステル記1章は、神の名が一度も登場しないにもかかわらず、神の御手が確かに働いている書の幕開けです。クセルクセス王の180日に及ぶ豪華な宴会と、「思いのまま」という自由の中で、ワシティ王妃は王の命令を拒否し、その地位を失いました。
この箇所から私たちが学ぶべき大切な真理は、神の御言葉の境界線の内側でこそ真の自由と幸いがあるということです。「思いのまま」「自分らしく」という現代社会の価値観は美しく聞こえますが、神様抜きの自由は必ず暴走し、滅びに先立ちます。
私たちは主を試みることなく、小さな一線越えを積み重ねることなく、御言葉の秩序の中で生きるべきです。ワシティの高慢と拒否ではなく、次章に登場するエステルの従順と美しさを目指しましょう。神様から与えられた自由裁量を、御言葉の囲いの中で正しく用い、真の王イエス・キリストに従順に歩む者となりましょう。
エステル記概要 - エステル記から学ぶ神の摂理
メッセージ音声
【概要】
エステル記は神の御名が一度も登場しない不思議な書でありながら、異教の地ペルシア帝国で生きるユダヤ人を通して神の確かな働きを示す物語である。紀元前480年頃、民族存亡の危機からの救いを描き、日常の「たまたま」の中に働く神の精密な御手を示している。
【聖書箇所】
エステル4:14、エステル1-10章(全体)、サムエル記(聞き従うことに関する箇所)
【励ましの言葉】
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神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられないストーリーの中で、礼拝も自由にできないそういうところにおいても、神様は確かにおられ、働いておられる
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私たちの日常生活の中で、突然の奇跡や声が聞こえなくても、ごく普通の出来事、日常の中において神様は臨在しておられる
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神様は見えなくても確かに働いておられる
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あなたが今いる場所には、確かに神様の意味がある
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「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」(エステル4章)
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人生を振り返れば、神様の歯車がカチッと合っていたことがわかる時が来る
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イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です
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イエス様の名前で祈ったことを、主が実行してくださると約束されています
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主は敵の前で宴を設けてくださる方です
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長年報いが受けられていなかったかもしれないが、天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来る
【戒めの言葉】
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残してはならない悪がある
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自分の中のハマンの性質(弱い者いじめ)を根っこごと引き抜く必要がある
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中途半端な従順は、後に大きな災いの根を残す
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「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪」(サムエル記より)
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悪の芽は小さいうちに摘み取ること
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悪を憎め
【勧めの言葉】
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この時代のエステル、モルデカイとして歩むこと
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それぞれの場所で誠実に働きをなすこと
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神の民として覚悟を持って立つこと
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子どもたちに惜しまずにキリストを届ける者でありましょう
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この時代において選ばれた栄光の次世代を担う者として立ちましょう
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へりくだって主の御心を行使する者となりましょう
【***詳細***】
前回までネヘミア記を公開説教のような形で一章ずつやってきました。今日は、公開説教の後、詩編をやりたかったんですね。詩編の101編でずっと止まって、もうここ数年ぐらい公開説教が滞っていたので、続きをやろうかなと思っていたところ、そこに甲斐先生が突然「あなた今何してるの」って。それで「まあ今公開説教、今度詩編にしようと思ってるんだけど」って言ったら、なんか「エステル記」っていう声が隣の部屋から聞こえてきて、まあ、神学生宣教師がそういうリクエストしたんですけど、「うん」って思って。まあ確かにネヘミア記の次はエステル記だけどもなんて。
で、甲斐先生に言ったら、なんか突然その順番を乱すようなことするんじゃないみたいなこと言われて。それでまあ確かにネヘミア記の次はエステル記だし、まあリクエストもあったから、まあこれが導きだろうと思いまして。ということで、エステル記を今度はまた公開説教をしていきたいと思います。
今日はエステル記の概要的なところを見ていきたいと思うんですけども、まあ、エステル記を一言で表す箇所といえばどこだろうな、と思ったところ、この4章14節ですね。エステル記の4章14節をちょっと宣言したいと思います。
エステル4:14「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない。」
アーメン。一言お祈りします。父なる愛する主よ、エステル記から恵みをいただきたいと思います。あなたが確かにこの箇所へと導かれました。主よ、本当に折にかなった言葉があなたからいただきますことを期待し、感謝いたします。どうか取り次ぐしもべの唇、また聞く一人一人の耳を清め、通りよくしてください。あなたの御旨、それを豊かに悟ることができますように助けてください。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒めたたえ賛美いたします。このエステル記なんですけども、非常に不思議な書でして、この他の書物とは決定的に違うところがあるんですけど、それはですね、何が不思議かというと、実はね、「神」という言葉、「主」という言葉が一言も出てこないんですね。この初めから終わりまで一切出てきません。ヘブライ語でのユダヤ、ヤーウェ、主の御名が出てきませんし、またエローヒムも登場しないんですね。「神がこう仰せられた」とか、「主が現れた」、「神様が答えた」、はっきり書かれてありません。
けれども、それにもかかわらず、このエステル記を読み終わった時には、確かに神が生きて働かれたのだということを、それは確信できる書でもあるんです。このエステル記から、これから一緒に恵みを受けていきたいんですけども、まずね、このエステル記の物語はいつどういう時代であるのかを押さえておきたいんですけども、この時代としてはおよそ紀元前480年頃で、場所は紀元前480年当時の世界の一番の大国である、ペルシア帝国においての物語です。
で、その時の王様の名前は、まあ、アハシュエロス王、まあ、新改訳第三版の方でアハシュエロス王、けれども、歴史上では、クセルクセス王という名前です。新改訳2017ではクセルクセスというふうに記されております。で、その領土はインドからエチオピアまで127の州に及んでいた。それほどの超大国の、その王宮の真っ只中においての物語になるんですけども。
で、エステルが王妃になったのは、およそ紀元前479年頃と言われてます。で、ネヘミアの時代とはまあどうなのか。まあ若干かぶってないんですね。ネヘミアがエルサレムに来たのは、だいたい紀元前445年ですので、エステルの時代はネヘミアよりも一世代前の方なんですね。ですから若干遡る時系列です。
ここで思い出したいのは、ユダヤ人はなんでこのエルサレムから遠く離れていたところにいたのか。これですね。まあ、留学していたわけでもないし、観光していたわけでもないし、バビロン捕囚ですね。この国、エルサレムが滅ぼされて、遠く異国の地に強制的にもう縛られて連れて行かれて、それで行ったその子孫たちがこのエルサレムから遠く離れたペルシアの方に行ったんですね。その子孫たちが、バビロンからペルシアの時代になった。そして故郷に帰ってもいいという許可もおりました。
けれども、このエステル記の時代、まだ城壁が再建されない、その92年の間のストーリーなんですね。ネヘミアとかエズラに率いられて、一部の人々はその時エルサレムに帰りはしたんですけども、けれども、帰れなかった人たちが大勢いたわけです。このエステルとかモルデカイ、まさにその帰れなかった側の人々なんですね。
ここで留めておいていただきたいのは、このエステル記は神殿があるこのイスラエル、エルサレム、神の都の中の物語ではありません。むしろそこから遠く離れざるを得なかった、異教の帝国のど真ん中で生きる人々の物語なんです。神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられない、ストーリーの中で礼拝も自由にできない。そういうところにおいての物語。果たして神様はそこにおられるのか。エステル記は「果たして神様はそこにおられるのか」という問いに対して、「おられる、確かに神様は働いておられる」というストーリーなんですね。このエステル記は。
で、エステル記はですね、もう一つ面白いエピソードは、聖書として選ばれるまで非常に揺れた一冊でもあったということですね。まあ、その理由は、この神様の御名が一つも出てこない。エローヒムも出てこない、ヤーウェも出てこない、一度も出てこない。果たしてこれ、聖書と呼べるんだろうかって昔の人々も悩んだんですね。
また、興味深いことに、あの死海のほとりで、死海写本がたくさん見つかったんですけども、で、旧約聖書39巻のうち、ただ一冊だけ、このエステル記だけが死海写本の中に一つも出てこなかったですね。で、後の時代、あの宗教改革者のマルティン・ルターもですね、このエステル記、一体どういうふうに扱うべきか、果たして本当に聖書と呼べるんだろうかって悩んだ。そういう人もまたいたんですけども、けれども、エステル記はしっかりと聖書のうちの一冊として受け止められたんですね。
それは、ユダヤ人がプリム祭というものを行っているんですね。プリム祭というのは、このエステル記に起源がある祭りです。プリム祭、民族が皆殺しの危険にあった、そこから救われた、それを祝う祭りですね。そして本当にこの神様が確かに働かれて、この民族の危機を救ってくださった、民族の危機、そこから救ってくださった。ですから、ユダヤ人としてはもう民族の記憶そのものだったんです。
で、もう一つ、さらに深い理由。それは神様の御名が書かれていないということ自体が、神様に関する重要なメッセージだということを、それを私たちに訴えてるんだということですね。私たち、今このつくばみらいという場所において信仰生活をしてるんですけども、何か奇跡が突然、空から降ってくるわけでもありませんね。神様の声が聞こえてきたわけではないですね。なんで私たちがここにいるのかって。ここを歩いていたら、阿部先生夫婦に、阿部夫婦、「この土地が主の御心の地だ」って声が聞こえたわけではなかったですね。ごく普通の出来事、日常の中において神様が臨在をして、確かにここが神様の御心の場所だって、そういうふうに確信した。
エステル記は、聖書の中でも非常にユニークな書物です。この書物の最大の特徴は、神様の名前が一度も登場しないということです。しかし、神様の名前が出てこないからといって、神様が働いておられないわけではありません。むしろエステル記は、見えない神様が確かに生きて働かれるということを、私たちに力強く示しているのです。
私たちの日常もエステル記に似ています。神様の声が聞こえるわけでもない。何か、すごい奇跡が起こるわけでもない。そんな日常の淡々とした日々の最中に、神様が確かに生きて働かれるということを、まさにこのエステル記は示しているのです。
エステル記を読み進めていくと、「たまたま」という言葉が何度も出てきます。たまたま、王妃がエステルになった。そしてたまたまユダヤ人の危機が起こった。ユダヤ人たちが断食して神様に祈った。たまたま王様が眠れなかった。たまたま王様が持ってこさせた書物が、このユダヤ人の危機を回復させる手がかりになった。たまたまエステルが王妃になっていて、そして王様に訴えることができた。
王妃エステルは命がけで断食した上で、王様の御前に進み出たところ、王様の快諾を得た。そうした「たまたま」の積み重ねの上に、確かに見えない神様の御手が働いておられたのだということを、このエステル記は訴えているのです。
この聖書66巻が皆さんの手元にあるのは、人間が選んだということではありません。神様が選んで、そしてこの聖書66巻がこうしてあるのです。そして2000年ずっと、この皆さんの手元にある聖書が聖典として皆さんの手元にあるわけです。今、神様は見えません。しかし、見えない神様は、確かに今この時、精密に緻密に働いておられる。エステル記そのものがそれを証明しているわけです。
このエステル記を起承転結的に四つに分類して見てみましょう。
まず「起」、これは1章から3章です。民族危機の種が蒔かれるところから始まります。華やかな宴会の場所から物語が始まります。王妃ワシティが王様の呼びかけに対してそれを無視するのです。そしてそれが原因になってワシティは王妃から退けられて、たまたまこのバビロン捕囚民のエステルが王妃として選ばれるのです。
その一方でハマンが力をつけてきます。悪役です。このハマンに対してユダヤ人モルデカイ、このエステルの叔父にあたるモルデカイがハマンに対して跪かない。ただそれだけの理由で、この民族全体を滅ぼしてしまおうという殺意に変わるのです。
次に「承」の部分、それは4章から5章のところです。この大きな危機の中においてモルデカイがエステルに直訴するのです。王様に直接訴えられるのはあなただけだ、と。けれどもエステルはそれを躊躇します。お呼びがかかっていない時に王様のところに行くことは、死刑になる確率が非常に高いからです。
しかしそこにおいて、聖書の中においても本当に屈指の名言が語られます。「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」。エステルは覚悟を決めます。「もし私が死ななければならないのでしたら死にます」と言って、3日の断食の後に御前に命がけで進み出ます。
そして「転」、6章から7章です。すべてがひっくり返すのです。まさに「転」、物語が本当にクライマックスを迎えるのは、王様がたまたま眠れなくなったところです。そのたまたま眠れなくなった夜、退屈しのぎに記録の書を持ってこさせて朗読させたところ、モルデカイの話が出てきました。モルデカイに対して功績があるのに、彼に対して十分な報いが与えられていなかったのです。
皆さんも長年報いが受けられていなかったかもしれません。それを天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来るでしょう。モルデカイに対しては、ある時、報いが与えられて、その報いがたまたまその夜だったからこそ、ユダヤ人滅亡の危機が回避されたわけです。すべての神様の歯車がカチッと合う時が来て、しかもこのユダヤ人、神の民に対して滅亡を企んだハマンが逆に首をかけられて、自分が立てた25mほどのポールにハマン自身がかけられて、墓穴に自分で落ちたのです。
そして「結」、8章以降です。この嘆きが喜びに変わります。このハマンが下した死の法令が、ペルシアの法令においては取り消せないところがありますが、しかしそこでモルデカイがその死の法令に勝る命の法令を発布するのです。身を守って良いという法令を新たに発布して、こうして滅亡の日は逆に勝利と解放の日に取って代わりました。嘆きの日が喜びの日に変わる。これがエステル記の見事な起承転結なのです。
この古い物語は、今、私たちに新しく命を吹き込んで、三つのことを力強く語りかけています。
まず第一に、神様は見えなくても確かに働いておられるのだということです。私たちの毎日もエステル記に似ております。神様の声を直接かけてくれるわけでもありません。奇跡が起こるわけでもない。仕事があり、家事があり、毎日食事作りがあり、毎日学校の仕込みがあり、淡々と地味な日々が続いていくように見えます。
しかし神様は確かに私たちの中に働いておられます。「たまたま」の連続の中において、私たちにとって必要な物事が起こされていきます。たまたまあのことが起きた。たまたまこの子が来た。たまたまこの授業でこれが必要になってきた。そうした連続の中に、神様は確かに働いておられるということ、これが第一です。
第二は、皆さんが今いるこの場所、それは確かに意味があるのだということです。モルデカイは、「あなたが今、王妃になっているのは、私たちが今ここにいるのは、まさにこの時のためかもしれない」と言いました。今、皆さんがつくばみらいにいるのは、まさにこの時のために神様が置いたのです。
エステルが王妃の座についたのは、このエステルの野心があったからではありません。「ぜひ私が王様のハートを射抜いてやろう」といったことは一切なしでした。まさにこのような時のためだったのです。皆さんが今いる場所、家庭、職場、学校、もろもろの場所、そこにいるのは偶然ではないのです。
一見つまらなく見える、なんで自分がこの役職なんだって戸惑うような場面であったとしても、神様は今まさにこのような時のためにここに置いておられるのだということです。それが二番目です。
三番目。それは皆さん、エステル記を通して皆さんが学ぶべきは、残してはならない悪があるということです。悪を憎め、神様は聖書において書いてあります。
このハマン、実はこのエステル記の時代よりもはるかずっと昔、サウル王の時代、サムエルが、滅ぼし尽くしなさいと言われているアマレク人のその子孫だと言われているのです。サウルが「ちょっとぐらいいいや」って、もったいないから滅ぼし尽くさなかった。ちょっと中途半端に従ったゆえに、この災いの根っこがもうずっと残って、何百年も後にこうしてハマンという悪の実が結んだわけです。
本当にサムエルが言ったこと、それは「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪だ」という言葉が重要になってきます。私たちは本当にこの自分の中の悪、皆さん自身の中のハマンの性質、皆さんを悪どい方向に持っていく、そういったもろもろはもう根っこごと引っこ抜いて、そして残してはならないのです。
このアマレクの性質、これを一言で言えば弱い者いじめです。アマレク、この出エジプトをしていたイスラエルの民、後ろから、弱い者を、落伍した者たちを略奪して、そういう性質です。これはサタンの性質そのものです。
私たちの心の中にも、放置しておけば、この民族を滅ぼしかねないような、そういう悪の根っこ、これ小さい根っことしても残しておいてはならないのです。芽は摘み取っておかなくてはなりません。
このエステル記、神様の名前は一度も出てこないのですけども、でも皆さんにも隠れた王がおられます。イエス様です。このエステル記、神様の名前が出てこないとしても、けれども、この全ページを通して、上から見たら、確かに神様が生きて働かれておられた。神の民を愛しておられた。ということを見ることができます。
私たちの人生も同じです。毎日毎日、1日1日見れば、神様果たしているのかな、神様の御手が見えない時期が続くかもしれません。けれども、人生を上から読み返して見返してみれば、確かに神様が生きて働かれたのだ。このすべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれたんだな、仕込んでおられたんだ、だから今、あの時、あの時期があったんだ、とわかる時が来ます。
神様は今まさに皆さんをこのような時のために、このつくばみらいに、横浜において、あるいはそれぞれの場所、場所においておられます。どうか皆さんはこの神様、見えないかもしれなくても、それでも神様のその御手がちゃんと働いておられるということをはっきりと見て、皆さんも今ここに置かれたエステルとして、あるいはモルデカイとして、このところにおいてしっかりと根ざして、それぞれの働き、誠実になしていきましょう。
どうか皆さんお一人お一人がこの時代のエステルとなり、モルデカイとなり、また本当にこの聖書におけるヒーローとして歩んでいく皆さんでありますように。
さらに、世界を民主主義で、イエス・キリストにある自由民主主義で再編することができますように、あなたがお守りください。トランプ大統領の心が驕り高ぶることがないように。イエス様、あなたがいつも導いてください。そして、へりくだって、主の御心を行使することができますように。
主よ、あなたが祝福してください。イランが何らかの形で、もう本当に今回落ち着いて、そして昔のペルシアに戻ってほしいと思います。なぜならペルシアはイスラエルを助けた実績がある国です。昔の本当に和気あいあいと愛し合った、助け合ったその時代の友情を戻すことができますように。
そしてイランが解放されて、今隠れクリスチャンがどんどん増えているイランが、公においてたくさんの教会が立ち、そしてイエス様を褒め称えることができますように。主よ、あなたが助けてください。
その未来、キリスト教会に、また宣教教会に、栄光の礼拝者、栄光の働き人、栄光の伝道者、栄光のリーダーを送ってください。そして、共に時代を担っていくことができる、イエス様に選ばれた働き人の集まり場所でありますように、主よ祝福してください。
子どもたちに惜しまずにキリストを届ける一人一人でありますように。そして、この時代において選ばれた栄光の次世代がどんどん運ばれてきて、そしてキリストを賛美することができますように。主よ、あなたが祝福してください。
今日一日を主にお祈りいたします。主を敬うべき人と出会わせ、そして良き御言葉に満ちた一日となりますように。私たちがイエス様に会って、良き出会いがありますように。そしてイエス様に会って土地との出会いがありますように。建物との出会いがありますように。主よ、祝福してください。
今、ICUに入っているパク執事のために祈ります。主よ、阿部先生の肺の水を抜いてくださった主よ。私の肺の水を抜いてくださった主よ。彼の肺の水も抜いてください。枯らしてください。呼吸を穏やかにし、イエス・キリストにあって立ち上がりますように。敵の前で宴を設けてくださる主にあって回復しますように。主よ祝福してください。
私の名によって祈るならば、父が聞いてくださる、私が実行すると約束してくださったイエス様のお名前で祈りました。
この時間、祈りの課題をもって主に祈っていきたいと思います。イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です。イエス様の名前を呼びます。
【結論】
エステル記は神の名前が一度も登場しない書物ですが、その全編を通して見えない神様の精密な御手が働いていることを示しています。私たちの日常も同じです。「たまたま」の連続のように見える出来事の中に、神様は確かに働いておられます。
私たちが今いる場所は偶然ではなく、「このような時のため」に神様が置かれた場所です。同時に、自分の中の悪(ハマンの性質)を根っこから取り除く必要があります。中途半端な従順は後に大きな災いを生みます。
見えない王イエス・キリストが、私たちの人生の全ページを通して確かに働いておられることを信じ、この時代のエステル、モルデカイとして、それぞれの場所で誠実に歩んでいきましょう。人生を振り返る時、すべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれていたことがわかる時が来ます。
イエス・キリストの復活と真理の光(マタイ28:11-15)
メッセージ音声
【概要】
イエス様の復活という真実を嘘で覆い隠そうとした祭司長たちの姿から、私たちの中にある罪を隠す性質を見つめ直し、光の子として真理に立つことの大切さを学びます。
【聖書箇所】
マタイ28:11-15
ヨハネ1:5
【戒めの言葉】
自分の間違いや都合の悪いことを認めず、嘘で覆い隠そうとする罪の性質に注意しなければなりません。
【励ましの言葉】
どれほど闇が真理を覆い隠そうとしても、光である真理は決して消えることはなく、必ず闇に打ち勝ちます。
【勧めの言葉】
私たちは光の勇士として立ち上がり、暗闇に覆われたこの世界に、イエス・キリストの復活の希望の光を届けていきましょう。
【***詳細***】
マタイによる福音書の28章11節から15節を、新改訳2017年版の聖書で朗読します。皆さんもそれぞれの聖書で確認してください。
「彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。『「弟子たちが夜やって来て、我々が眠っている間にイエスを盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。』そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。(マタイ28:11-15)」
アーメン、ハレルヤ。イエス様、あなたの復活は確かに起こりました。それが真実であることを感謝します。世の中はその事実を塞ごうとしています。今もなおその力が働いており、今日までユダヤ人の間だけでなく、世界中にこの偽りが広まっています。このつくばみらいの地もそうです。どうか、あなたが真理の光を照らしてくださいますように。今から御言葉を取り次ぐ私の唇を清め、聞く人々の耳を清めてください。私たち全員の体調も霊的な状態も整えられ、御言葉の光の前で大いに恵まれ、癒やされ、祝福されますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
2026年4月6日の月曜日にメッセージを担当した際、私は聖書ソフトで新改訳2017年版を選んで使いました。以前は第三版がよく使われていたのですが、その月曜日に2017年版を使ったところ、阿部先生から「林先生、2017年版を使ってくださって嬉しいです」と言葉をかけられました。次世代の教育をしているのだから、古い版ではなく新しい版へ移行していくのが神様のみこころなのだと感じ、これからは順次2017年版を使っていこうと思っています。
今日の箇所は、イエス様の復活の場面の一つです。しかし、ここに登場するのはイエス様を信じる弟子たちではありません。イエス様の復活を聞いてもそれを受け入れず、反発する反対勢力の人たちの物語です。
イエス様の復活は紛れもない事実です。実際に地震が起き、重たい墓の石が動かされ、天使が降りてきました。その驚くべき場面に立ち会ったのは、イエス様を信じていた人たちではなく、ローマの兵士2人だったのです。兵士たちはその光景を見て震え上がり、死人のようになってしまいました。
女性たちが天使からイエス様の復活を聞き、弟子たちのところへ走っていく間に、兵士たちは我に返りました。そして、彼らがいち早く向かった先は、真実を語るべき場所ではなく、祭司長たちのところでした。
兵士たちは祭司長たちに、起こったことをありのままに報告しました。見張りをしていたら突然地震が起き、天使が降りてきて墓の石を転がし、墓の中が空っぽになってしまったという事実です。イエス様ご自身がそこに現れたかどうかは書かれていませんが、とにかく墓が空になったという出来事を伝えました。弟子たちにどう伝えるべきか迷うほどの真実を、兵士たちは祭司長たちにそのまま伝えたのです。
この報告を聞いた祭司長たちは、どうしたでしょうか。もし彼らがイエス様の復活など全く信じていなかったのなら、「何を馬鹿なことを言っているんだ。酒でも飲んでいたんだろう。顔を洗って帰れ」と追い返したはずです。しかし、祭司長たちはそうしませんでした。なんと、兵士たちに多額のお金を渡し、口裏合わせをさせたのです。お金を渡して嘘をつかせたということは、祭司長たちは兵士たちの報告を「信じた」ということです。
これはとても不思議な逆転現象です。イエス様に出会った女性たちから復活の知らせを聞いた弟子たちは、最初それを信じませんでした。それなのに、イエス様を十字架につけた祭司長たちは、イエス様の復活を信じてしまったのです。
私たちクリスチャンも、これに似たところがないでしょうか。教会の中では「イエス様は確かに復活されました」と信じると言いながら、教会から一歩外に出ると、まるで信じていないかのように、イエス様の復活の力などないかのように振る舞ってしまうことはないでしょうか。
祭司長たちや宗教指導者たちは、兵士たちの様子を見て「イエス様は本当に復活されたんだ。どうしよう」と慌てて議論したことでしょう。しかし彼らが選んだ道は、「真実をなかったことにする」という選択でした。真理が目の前で起きたのに、それをなかったことにしようとする力は、今の世の中にも働いています。悪魔サタンは、真理を嘘で覆い隠し、なかったことにするということを昔からずっと続けてきました。
実際にあった社会の出来事を例に挙げましょう。三菱自動車のリコール隠しの問題です。1980年代から、車に欠陥があることを会社はずっと隠していました。事故やクレームがあってもリコールをせず、事故を「なかったこと」にする体質が会社の中で当たり前になっていました。
では、隠したことで欠陥という真実は消えたのでしょうか。いいえ、欠陥は確かにそこにありました。ただ、覆い隠されていただけで、根本的な解決は何もされていなかったのです。
そして2002年、横浜で母と子が犠牲になる痛ましい死傷事故が起きました。大型トラックのハブが壊れたことが原因でした。この事故によって人命が失われ、20年近くも会社ぐるみで欠陥を隠し続けていたという真実がついに発覚しました。結果として会社の社会的な信用は失墜し、より大規模なリコールが必要になり、経営危機に陥ってしまいました。
もし最初の段階で間違いを認め、悔い改めて対処していればよかったのです。しかし、嘘で覆い隠し、対処しないまま放置し続けた結果、問題はどんどん蓄積され、最後には裁きの火の燃える炭火が自分たちの頭の上に重くのしかかってきたのです。
今日の聖書箇所で起きていることも同じです。イエス様の復活は真実であり、兵士たちはその真実を伝えました。しかし、それに対する反対勢力も確かに働くということを私たちは知っておくべきです。
自分にとって都合の悪い真実を覆い隠そうとする人間の性質は、人類の最初、アダムとエバの時代から始まっています。彼らは神様の言いつけを破り、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。その結果、自分たちが裸であることに気づき、真っ先にした行動は、いちじくの葉を綴り合わせて自分たちの体を覆い隠すことでした。自分の恥ずかしい部分、失敗した部分を「なかったこと」にしようとする性質は、最初の人類からずっと続いているのです。
私たちの中にも、この肉体を持っている限り、失敗を言葉や行動で巧みに覆い隠そうとする性質が残っています。しかし、それはしてはいけないことです。なぜなら、隠したものはやがて必ず、より大きな形で明るみに出るからです。たとえこの地上で誰にも見つからなかったとしても、神様はすべてをご存知です。
復活は確かに起こりました。それは真理です。兵士たちはそれを伝えましたが、祭司長たちは、多額のお金を渡してそれを覆い隠そうとしました。兵士たちはお金を受け取り、祭司長たちに言われた通りの嘘を人々に広めました。その結果、ユダヤ人の間で、そして全世界で「イエス様の復活はなかった」という嘘が広まってしまったのです。
なぜ祭司長たちは真実を隠したのでしょうか。もしイエス様の復活が本当だと認めてしまえば、自分たちが間違っていたことを認めなければならないからです。それはプライドが許さない、恥ずかしい、自分の正しさを貫きたいという心理が働いたのです。人間は、自分の罪や間違いを認めるよりも、真理のほうを歪めてしまう道を選びやすいという弱さを持っています。
私たちも、神様に従うべきだということ、イエス様の復活が真理だということは分かっています。それでも、都合が悪くなるとそれを覆い隠してしまおうとする弱さがあるかもしれません。
しかし、私たちは知るべきです。真理を消すことは絶対にできません。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」と聖書にある通りです。
私たちは、イエス様が復活されたという真理の土台に、しっかりと立ち続けるべきです。イエス様は「全世界に出て行き、福音を伝えなさい」と言われました。弟子たちはその言葉通りに福音を伝えていきましたが、彼らが行く先々には、必ず「イエス様は復活しなかった。弟子たちが夜中に遺体を盗んだのだ」という嘘も入り込んできました。
しかし、少し考えればそれが嘘であることは分かります。2026年4月8日の水曜日に先生がおっしゃった通り、あんなに重たい墓の石を夜中にゴロゴロと動かしたら、見張りをしていた兵士たちが絶対に気づくはずです。また、狭い墓の中から何人かで担架か何かに乗せて遺体を運び出そうとすれば、絶対にバレてしまいます。色々と無理があるのです。
それでも、嘘を信じたい人は嘘のほうを信じてしまいます。自分より偉い王様が存在しては困ると考えたヘロデ王も、イエス様を亡き者にしようとしましたが失敗し、その後すぐに亡くなりました。
イエス様が復活して生きておられると困る人、「神様がいては困る」「裁きがあっては困る」「自分の罪を認めて悔い改めなさいと言われるのは嫌だ」と思う人は、祭司長たちの側につき、嘘を広める側に立ってしまいます。
現代でも、共産圏の国々などでは、真実を隠すために多額のお金が使われることが多々行われています。イエス様の存在をなかったことにしようとする動きは、今の日本のマスメディアの中にもあります。インタビューでイエス様のことを証ししても、必ずカットされてしまうような力が働いています。
けれども皆さん、真理を消すことは絶対にできません。光と闇の戦いにおいて、光であるからには必ず光の側が勝つのです。一時的に闇が覆い尽くしたように見えても、後になってその闇は必ず、大規模で恥ずかしい形で崩壊し、光が必ず輝きを放ちます。
私たちは、光の側に立ちましょう。皆さんは、光の勇士たちです。光の勇士として行動し、このつくばみらいの地に、イエス・キリストの復活という希望の光を力強く伝えていってください。暗闇に覆われたこの土地に、まだ福音がない場所に、福音の光をもたらす皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します。アーメン。
愛するイエス様。あなたは真の光であり、光は必ず闇に勝利することを感謝します。この世界は初め、暗闇に包まれていましたが、神様が「光、あれ」と言われると光ができました。神様は光を良しとされました。神様は闇よりも光を望んでおられます。
私たちも今、このつくばみらいの地や、子どもたち、次世代に向けて光をもたらす働きをしています。どうか、あなたが私たちの間を明るく照らし、進むべき道と方向を示してください。今日もまた、あなたの光の勇士として歩むことができますように。今日という一日、そして私たちが始めている働きを感謝し、愛する主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【結論】
イエス・キリストの復活という真理は、いかなる権力や嘘によっても覆い隠すことはできません。私たちは、自分の罪や弱さを隠そうとする性質を退け、真理の光の上に堅く立ち、暗闇の世に希望の光を届ける「光の勇士」として歩んでいくことが求められています。
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復活のイエス・キリストと福音を伝える使命(マタイ28:1-10)
メッセージ音声
【概要】
死を打ち破り復活されたイエス・キリストが、「恐れるな」「喜べ」と私たちに語りかけ、共にいてくださる恵みと、次世代へ福音を伝える使命について語られたメッセージです。
【聖書箇所】
マタイ28:1-10
【慰めの言葉】
悲しみや死の力に打ちひしがれている時でも、世の中の誰よりも早く主を慕い求める者には、イエス様が真っ先に出会ってくださいます。
【励ましの言葉】
死のカテゴリーを打ち破り永遠に生きておられるイエス様が、「恐れることはありません」「今、喜べ」と私たちに力強く語りかけておられます。
【勧めの言葉】
私たちはイエス・キリストにあって命に属する神の家族とされました。主が常に共にいてくださることを信じ、全世界に出て行き、次世代の子どもたちへ福音を伝えていきましょう。
【***詳細***】
さて、今朝のメッセージで恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書28章1節から10節です。まずは1節と2節にこのように書かれています。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の使いが天から下って来て、石をわきへ転がして、その上に座ったからである。」(マタイ28:1-2)
イエス様は十字架にかかって死なれましたが、安息日が明けた日曜日、つまり週の初めの日に復活されました。イエス様が復活して一番最初に出会ってくださったのは、この女性たちでした。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かう時、ヨハネ以外の弟子たちは皆、恐れて逃げてしまいました。しかし女性たちは、自分たちには何もできなくても、ただ泣きながらイエス様の後をついて行きました。そして日曜日の明け方、まだ太陽が昇りきらない暗いうちから起き出し、イエス様の遺体に防腐のための油を塗るために墓へと向かったのです。彼女たちはイエス様が復活したとは信じておらず、死んだままだと思い込んでいました。それでも、イエス様を心から慕って早朝から行動しました。現代の私たちも同じです。世の中の多くの人たちがまだ眠っている早朝から、イエス様を慕って御前に進み出ています。そのように慕い求める私たち一人ひとりに、イエス様は必ず出会ってくださいます。
彼女たちが墓に着くと、大きな地震が起こりました。主の使いが天から降りてきて、墓の石を脇に転がしたからです。イエス様はすでに復活しておられたので、たとえ御使いが石を転がさなくても、墓の外に出ることはできました。鍵のかかった部屋にさえ自由に入ってこられる方だからです。それにもかかわらず、御使いがわざわざ石を転がしたのは、私たち人間や弟子たち、そして世の中の人々に対して「確かにイエス様は墓の中にはいない」ということをはっきりと見せて証明するためでした。
御使いの姿は稲妻のようで、衣は雪のように白く、それは天国にいる者の姿そのものでした。墓を番していた兵士たちは、その姿を見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまいました。しかし、イエス様を慕って来た女性たちはそうはなりませんでした。御使いは彼女たちにこう語りかけます。
「恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」(マタイ28:5-6)
今日の箇所では「恐れることはありません」という言葉が何度も繰り返されます。御使いが石を動かして墓の中を見せたのは、死人が葬られる「死」のカテゴリーの中に、もはやイエス様はおられないことを示すためです。ブッダやムハンマドといった歴史上の人物たちは、皆「死」のカテゴリーの中に留まっています。しかし、私たちの主イエス様は死の力を打ち破り、永遠に生きておられる「命」のカテゴリーにおられます。そして、イエス様を信じる私たちもまた、同じ「命」のカテゴリーに属しているのです。
イエス様は十字架にかかる前から、「三日目によみがえる」と何度も弟子たちに伝えていました。しかし、弟子たちの誰一人としてそれを信じていませんでした。これは、現代を生きる私たちにとっても同じことが言えます。聖書には、世の終わりに何が起こるか、そしてイエス様が再び来られる(再臨される)ことが前から書かれています。イエス様は十人の乙女の例え話を通して、盗人が夜にいつ来るか分からないように主の日も来るのだから、目を覚まして備えているようにと教えられました。私たちはこの御言葉を信じ、イエス様が来られるその良い日のために、自分自身をしっかりと整え、準備をしておくべきです。
御使いはさらに女性たちに告げます。
「さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って、弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか。私は確かにあなたがたに伝えました。」(マタイ28:6-7)
不思議なことに、神様は震え上がって隠れている弟子たちに直接御使いを送るのではなく、女性たちを通してキリストの復活を伝えるという方法をとられました。パウロが「宣教の愚かさ」と表現したように、神様はあえて人間を通して御言葉を伝えることを選ばれたのです。女性たちは、「イエス様が死人の中からよみがえられたこと」、そして「弟子たちより先にガリラヤへ行き、そこで会えること」を伝える大切な役割を託されました。
私たちにも同じように伝える役割が与えられています。私たちは聖書を通して直接神様から言葉を受け取っています。ですから、私たちの生きる場所や、全世界に出て行って福音を宣べ伝える使命があるのです。そして、すべての権威を与えられたイエス様が、いつも共にいて働いてくださるという約束をいただいています。
続いて、8節と9節にはこう書かれています。
「彼女たちは、恐ろしくはあったが、大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると、見よ、イエスが『おはよう』と言って彼女たちの前に現れられた。彼女たちは近寄って、その足を抱き、イエスを礼拝した。」(マタイ28:8-9)
弟子たちはガリラヤに行かなければイエス様に会えませんでしたが、この女性たちは墓から走って行く途中、すぐにイエス様ご自身と直接出会うことができました。これは早朝から主を慕い求めたことの大きな幸いです。イエス様は「おはよう」と声をかけられましたが、これは当時の挨拶で「喜べ」という意味を持つ言葉です。しかも、現在形であり、能動態の命令形が使われています。つまり、「今、現在、喜びなさい」という復活の主からの力強い命令なのです。「恐れるな」、そして「喜べ」。これがイエス様からの大切なメッセージです。
10節でイエス様はさらにこう言われます。
「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」(マタイ28:10)
ここでも「恐れることはありません」と繰り返されています。イエス様は今、このつくばみらいキリスト教会に集う私たちにも「恐れることはありません」と語りかけておられます。私たちが祈りながら歩み、探し求めた結果、阿部先生ご夫婦を通して神様の導きがあり、この教会堂の場所が与えられました。世の中の不動産会社の競争を乗り越えて、とても良い条件でこの建物を手に入れ、内装や外装の工事も驚くほど順調に進んできました。しかし、ここで終わりではありません。イエス様はこの場所でこれからさらに素晴らしい計画を進めてくださいます。私たちは復活の主の力がここで豊かに働くことを心から期待しています。
イエス様は弟子たちのことを「わたしの弟子たち」ではなく「わたしの兄弟たち」と呼びました。十字架と復活を経て、弟子たちは単なる従者から、イエス様を長男とする「神の家族の兄弟姉妹」へと格上げされたのです。やがてイエス様が再び来られる時、私たちはキリストの花嫁となります。私たちはイエス様によってすべての必要が備えられ、主を慕い求めるなら必ず出会ってくださいます。
そして、イエス様は私たちに命じられます。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、わたしが命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」
今、私たちはイエス様と共にいます。そして、福音を伝える役割が託されています。だからこそ、私たちは次世代の子どもたちに御言葉を伝え、育てる働きを一生懸命に進めているのです。どうかイエス様の力と導きがこの働きの上に豊かにあり、私たちがこの時代において、イエス様を伝える大切な役割を果たしていくことができますように。
(祈り)
愛するイエス様。今、私たちの内に働き、共にいてくださる恵みを感謝します。復活の主はよみがえられました。もはや死の中にはおられず、永遠に生きておられます。私たちもその永遠の命に組み込まれていることを感謝します。すべての権威が与えられ、アルファでありオメガであるイエス様が、この場所を備え、私たちの働きを導いておられます。どうか、私たちが歩むべき道を示し、そこを進ませてください。
主よ、本来なら塵(ちり)に帰るしかない私たちに、新しく命の息を吹き込んでくださることを感謝します。罪を犯し、神様から離れるしかなかった私たちを取り戻すため、イエス様は天の御座を捨てて来てくださいました。ご自身の命を裂き、必ず死ななければならない私たちを贖って(あがなって)くださったことを感謝します。イエス様は私たちを買い戻してくださった権利者です。
このつくばみらいの地にこの教会が買い戻され、私たち一人一人が買い戻されました。さらに多くの魂を買い戻すために、神様が私たちをここに置いてくださっていることを心から感謝します。私たちはもはや死のカテゴリーにいる者ではなく、イエス・キリストの命に連なる者となりました。私たちの心に、死に打ち勝ったイエス様と共に生きる信仰を与えてください。イエス様が十字架で全うしてくださったことによって、あらゆる呪いと死は私たちから離れ去りました。私たちの死は、イエス様の命に飲み込まれました。
私たちが遣わされているこの土地にはびこっているあらゆる暗闇や死の力を、イエス・キリストの御名による命で飲み込み、打ち破ることができますように。この土地に住む人々、そして次世代の子どもたちが、死から命へと移されますように。今日も私たちを、よみがえりの命の中に入れてくださったことを心から感謝し、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【結論】
イエス・キリストは死の力を打ち破り、永遠に生きておられる復活の主です。墓を訪れた女性たちに真っ先に出会い「恐れるな」「喜べ」と語りかけられたように、主を慕い求める者に今日も豊かに出会ってくださいます。私たちはキリストによって死から命へと移された「神の家族」として、主が世の終わりまで共にいてくださるという約束を固く握り、次世代の子どもたちや全世界の人々に、この喜びの福音を伝えていく尊い使命を与えられています。
ゲツセマネの祈りと十字架の恵み(マルコ14:32-42)
メッセージ音声
【概要】
イエス・キリストがゲツセマネの園で捧げられた苦難の祈りと、誘惑に負けて眠ってしまった弟子たちの姿を通して、十字架の贖いの恵みを深く覚え、目を覚まして主と共に祈り歩むことの大切さを説いたメッセージです。
【聖書箇所】
マルコ14:32-42
【慰めの言葉】
罪を知らないイエス様が、私たちの身代わりとなってすべての罪を背負い、父なる神様からの断絶という想像を絶する深い悲しみと苦しみを味わってくださったからこそ、私たちは罪赦され、神の子供とされる恵みをいただきました。
【励ましの言葉】
私たちの肉体は弱く、すぐに誘惑に負けてしまう存在ですが、イエス様はそんな私たちをも受け入れ、十字架の上で「完了した」と宣言して救いを全うしてくださいました。イエス様が共にいてくださるので、私たちは自分に与えられた十字架を負って最後まで歩み抜くことができます。
【戒めの言葉】
祈るべき大切な時に祈らず、居眠りをしてしまう弟子たちの姿は、現代を生きる私たちの姿でもあります。大切な時が過ぎ去ってから後悔することのないよう、霊的に目を覚ましている必要があります。
【勧めの言葉】
心は燃えていても肉体は弱い私たちだからこそ、誘惑に陥らないように目を覚まして祈り続けましょう。私たちの願いではなく、神様の御心がなることを第一に求めていくのです。
【悔い改めの促しの言葉】
主がこれほどの苦しみの中で祈っておられた時、私たちは無関心でいなかったでしょうか。主にのみ十字架を負わせたまま、知らない顔をして生きてはいないでしょうか。自らの弱さと罪を認め、イエス様の尊い血潮による清めを求めて祈りましょう。
【***詳細***】
私たちは初めに、マルコによる福音書14章の32節を宣言したいと思います。
「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。』」(マルコ14:32)
愛する私たちの主イエス様は、このゲツセマネの園において、深く悲しみながら祈られました。しかし、それに引き換え、弟子たちは居眠りをしてしまい、誰一人としてイエス様の祈りに最後まで参加することはできませんでした。そのことを思うとき、本当に心が痛みます。しかし、十字架の御業が成し遂げられた後、イエス様はいつも祈り、私たちを力づけてくださっています。この受難週において、私たちがしっかりとイエス様にとどまり続け、死に至るまでも忠実であり、親密な交わりのうちに歩み通すことができるよう、神様が一人ひとりの心を整え、これから取り次ぐ御言葉を通して助けてくださることを祈ります。
イエス様が祈られた「ゲツセマネ」という場所の名前には、「油搾り」という意味があります。オリーブの木から採れた実を機械で圧搾し、そこからオリーブ油が滴り落ちていく、そういう場所です。このゲツセマネにおいて、イエス様ご自身がまるでオリーブの実のように極限まで圧縮され、押しつぶされ、油が滴るような、あるいは血の汗が滴るような、壮絶な祈りを捧げられました。
イエス様は弟子たちにこう言われました。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14:34)
イエス様も、深く悲しまれました。イエス様は神の御子です。この世界が始まる前から、父なる神様の懐深くで、いつも親密な交わりを持っておられました。皆さんも、心から信頼できる親しい人と断絶してしまったら、どれほど悲しいか想像できるでしょうか。イエス様にとって、父なる神様との永遠に親密な交わりが断絶され、神様から完全に拒絶されるということは、宇宙で一番深く、苦しく、悲しいことでした。イエス様は、その恐るべき体験をいよいよ迎えようとしていたのです。
本来、神様から断絶され、罪の処罰を受けて永遠の苦しみを味わうべきなのは、罪を犯した私たち人間のほうです。しかし、罪を全く知らない清らかなイエス様が、私たちの身代わりとなって全人類の罪を背負い、ご自身が「罪そのもの」とされて、父なる神様からの断絶を受けられました。これは、私たちには到底計り知れないほどの深い悲しみと苦しみです。私たちが受けるべき処罰を、イエス様が身代わりに受けてくださるために、イエス様は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃるほどに苦しまれたのです。
イエス様は、神様であると同時に、私たちと同じ「人」としてこの世に来られました。人として来られたからこそ、鞭で打たれれば当然痛いですし、手足に釘を打たれればとてつもない激痛を感じます。そして、最も親しい父なる神様から引き離されることは、死ぬほど悲しいことでした。私たちは時々、「イエス様は神の御子だから、私たち人間ほどには痛みや悲しみを感じなかったのではないか」と勘違いしてしまうことがあるかもしれません。しかし、決してそうではありません。イエス様は、私たち人間の罪を救い、私たちの身代わりとなるために、私たちと全く同じように痛みを感じ、悲しむことのできる「人」として天から降りてきてくださったのです。人間として罪の処罰を引き受け、神様と断絶されるために来られたからこそ、これほどまでに深く悩み悲しまれたのです。
だからこそ、イエス様は弟子たちに「ここを離れないで、目をさましていなさい。私のために祈っていてください」とお願いされました。その後、イエス様は少し進んで地面にひれ伏し、祈り始められました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)
イエス様はここで、「この杯を取りのけてください」と祈りました。この「杯」とは、全人類の罪を背負って十字架につけられ、父なる神様から完全に断絶されるという恐ろしい苦しみのことです。イエス様は「父よ、あなたにおできにならないことはありません」と祈りました。父なる神様には不可能なことはありませんから、イエス様を十字架にかけずに人類の罪を取り除く方法も、おできにならないはずはないと考えられたほどの苦悩でした。
しかし、イエス様はご自身の願いを押し通すことはしませんでした。祈りの最後に「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と付け加えられたのです。私たちも、神様にどんなことでも正直に願い求めることができます。しかし、私たちが常に忘れてはならないのは、最後に「私の願いではなく、神様の御心がなりますように」と祈ることです。神様の御心こそが、私たちにとって常にベストであり、最善だからです。
この時、イエス様がご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、十字架にかかってくださったからこそ、黙示録に記されているように、全被造物から「屠られた小羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」と褒めたたえられるのです。イエス様が屠られてくださったおかげで、私たちの罪はイエス様と共に十字架に釘付けにされ、私たちはイエス様の尊い血潮によって買い取られ、神の子供とされるという素晴らしい身分を与えられました。私たちはこのゲツセマネでの祈りと、イエス様の苦しみを決して忘れてはなりません。
イエス様が祈りを終えて戻って来られると、なんと弟子たちは眠ってしまっていました。そこでイエス様はペテロにこう言われました。
「シモン、眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:37-38)
弟子たちは、たった一時間も祈り続けることができませんでした。それが10分だったのか、20分だったのか、40分だったのかはわかりません。しかし、イエス様が血の汗を滴らせるほどの最大の苦しみの中で祈っているその瞬間に、彼らは目を覚まして共に祈ることができなかったのです。
ここでイエス様が注意されたのは、「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい」ということでした。私たちは、祈るべき時に祈りに集中できず、眠気という誘惑や、テレビ番組、買い物のことなど、別の楽しいことに心を奪われてしまう誘惑にとても弱いです。心の中では「神様のために祈りたい」と燃えていても、私たちの肉体は本当に弱いものです。困難に耐えることよりも、自分を気持ちよくさせる誘惑の方に流されやすいのです。だからこそ、イエス様は「誘惑に陥らないように、霊的に目を覚まして祈り続けなさい」と警告されました。
その後、イエス様は再び同じ言葉で熱心に祈られました。そして戻って来ると、弟子たちはまたしても眠っていました。彼らはひどく眠気がさしていて、イエス様にどう言い訳してよいのかもわからない状態でした。イエス様がたったお一人で苦しみもだえて祈っているのに、弟子たちは肉体の誘惑に負けてしまったのです。
イエス様は三度目に祈りに行き、また戻って来られました。しかし、弟子たちはまだ眠っていました。最も一緒に祈ってほしかった大切な場面で、彼らは三回も眠ってしまったのです。そこでイエス様は言われました。
「もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」(マルコ14:41)
私たちにも、誘惑に負けて居眠りをしてしまい、祈るべき時に祈れず、そのまま「時が来てしまう」ことがあります。祈り会に最初から最後まで居眠りをしてしまい、終わりの時間が来てしまう。その時、皆さんは「ああ、祈り会に参加できてよかった」と思えるでしょうか。それとも「ああ、また居眠りしてしまった。イエス様と共に過ごすことができなかった。イエス様の苦しみを少しでも共に背負うことができなかった」と深く後悔するでしょうか。
「時が来ました」とイエス様が言われた直後、裏切る者と、イエス様を捕らえに来た者たちによって、イエス様は連行されていきます。この時、イエス様は天から御使いの十二軍団を呼び寄せて、捕らえに来た者たちをいとも簡単に追い払うこともできました。しかし、イエス様はあえてそうはされませんでした。なぜなら、それは父なる神様の御心ではなかったからです。イエス様が全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、命を落とし、父なる神様から断絶されること。それこそが、父なる神様の御心だったからです。だから、イエス様は完全に服従して、あえて捕らえられていかれたのです。
今日、私たちはイエス様の十字架と復活の後の時代を生きています。だからこそ、私たちは目を覚まして祈り続けるべきです。この十字架の激しい苦しみを覚え、復活の命をいただき、私たちのために屠られた小羊であるキリストに、栄光と賛美を捧げるべきなのです。私たちの肉体は確かに弱いです。しかし、この地上において、イエス様と共に歩む人生を全うできるように祈りましょう。
「主にのみ十字架を負わせまつり、我知らない顔にどうしてあるべきだろうか」という賛美歌があります。私たちは、イエス様にだけ十字架を負わせて、自分は関係ないというような「知らない顔」をして生きていてはいけません。イエス様が全人類の罪を負う十字架を背負ってくださったのですから、私たちは、自分自身の生き様を神様に捧げるという、自分に与えられた十字架を背負いながら、この人生を歩んでいくべきなのです。
イエス様は、あの十字架の上で「テテレスタイ」、すなわち「完了した」と宣言してくださいました。私たちが負うべきすべての処罰を身代わりに受け、ご自身の命を差し出して、私たちが必ず死ななければならないその死を全うしてくださったのです。さらにイエス様は、十字架の上でご自身を十字架につける者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。自分がどれほどわからずやであるかさえも気づいていない私たちのために、イエス様はとりなしてくださったのです。
今日、私たちは、十字架のイエス・キリストを記念し、仰ぎ見ます。イエス様の尊い血潮によって清められ、罪赦されて、新しく贖われた者として、私たちはここにいます。この受難週において、イエス様が全人類の罪の赦しのためになされたこの偉大な御業を思い出し、深く心に刻みましょう。そして、許しの十字架の御許にいる者として、目を覚まして祈り、人々にこの福音を証ししていくことができるよう、神様の助けを求めて祈り歩んでいきましょう。
【結論】
イエス・キリストは、ご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、私たちが受けるべき罪の処罰と神からの断絶という想像を絶する苦しみを、十字架の上で引き受けてくださいました。私たちは肉体の弱さゆえに、弟子たちのように祈るべき時に誘惑に負けてしまう者ですが、主の尊い血潮によって完全に赦され、贖われています。だからこそ、ただ主にのみ十字架を負わせて傍観するのではなく、霊的に目を覚まして祈り続け、自らに与えられた十字架を背負って、主と共に歩む人生を最後まで全うしていきましょう。
ペテロの回復 - イエス様のとりなしと悔い改め(ルカ22:31-34)
メッセージ音声
【概要】
イエス様は私たちが弱く失敗することをご存知でありながら、信仰がなくならないように今も天でとりなして祈ってくださっています。私たちは自分の弱さを認めて悔い改め、主の祈りに支えられて立ち直り、互いを力づける者へと変えられていくというメッセージです。
【聖書箇所】
ルカ22:31-34
ルカ22:54-62
ヘブル7:25
ルカ23:34
【慰めの言葉】
イエス様は私たちの思いも心も肉体も弱いことをご存知であり、失敗して倒れるような時であっても、天において四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。
【励ましの言葉】
たとえ自分の弱さゆえに失敗したとしても、イエス様の祈りによって立ち直ることができます。立ち直ったならば、今度は自分が兄弟たちを力づける存在へと変えられていきます。
【戒めの言葉】
自分の力や覚悟を過信してはいけません。私たちの内に潜む自己中心的な思いやプライドは、ふるいにかけられて取り除かれなければならず、自分の肉の力に頼ることをやめる必要があります。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちが神様が喜ばれることを知りつつも、自分の好むことを優先して罪を犯してしまうたびに、涙とともに心を悔い改め、イエス様に立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日は、ルカによる福音書22章31節から34節までの御言葉を見ていきます。新改訳聖書第3版で共に確認しましょう。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
これに対し、シモンはイエス様に言いました。「主よ。ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟はできております。」
しかし、イエス様は言われました。「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
まことに私たち人間は弱いものです。心の中でどんなに強い覚悟を決めたとしても、私たちの思いも心も肉体も弱いのです。しかし、イエス様がずっと私たちのためにとりなして祈っていてくださることを感謝します。イエス様は今もなお、私たちのためにとりなして祈っておられます。その祈りによって、弱い私たちは強められ、立ち直り、つくばみらいの地に福音を届け、弟子たちを起こす働きができるようになります。
イエス様は、本当に良き友であり、私たちの主人です。最後の晩餐という重要な場面において、イエス様がこれから十字架につけられるということが宣言されたにもかかわらず、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論をしていました。イエス様の苦しみや御言葉を誰も心に留めず、ただ自己中心的な思いがはびこっていたのです。
そのような場面において、イエス様はシモンに対して語りかけました。この時、イエス様は「ペテロ」という名前ではなく、生まれながらの名前である「シモン」と二度呼びかけました。シモンという名前には、ヘブル語で「聞く」という意味があります。「よく聞きなさい」という思いが込められているのです。耳を傾け、よく聞く人は、立ち直り、他の弟子たちを力づけることができるようになっていきます。
イエス様は、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」と言われました。サタンは神様から独立した同等の権威を持っているわけではなく、神様の許可がなければ何もできません。しかし、ここでは聞き届けられました。それは、本物と偽物を振るい分け、また霊と肉とを振るい分けるためです。この時の弟子たちは、シモンも含めて全員がまだ自分の「肉」の力に頼っていました。十字架の出来事の前、彼らは自分の力でイエス様に仕えようとしていたのです。ふるいにかけられることで、自分たちが人間の力に頼るしかない弱い存在であり、本当に十字架の死と復活が必要であることを示すためでした。私たちも、自分のプライドや願いといった「肉」の部分がふるいにかけられ取り除かれて初めて、復活したイエス様の命にあって働くことができるのです。
結局、この時弟子たちは全員イエス様を見捨てて逃げてしまいます。シモンに関しては、イエス様のことを知らないとはっきりと否定してしまいます。けれども、ルカ22:32でイエス様は「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。「立ち直ったら」という言葉は、ギリシャ語では上方向に方向転換することを意味します。下を向いていた状態から、上を向いて立ち直ったならば、兄弟たちを力づけなさいということです。
シモンは「牢であろうと死であろうと覚悟はできております」と言いましたが、イエス様は「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と予言されました。そして実際に、夜が明ける前、ペテロは三度イエス様を知らないと言ってしまいます。
その時の様子は、ルカによる福音書22章54節から次のように記されています。
人々はイエス様を捕らえ、大祭司の家に連れて行きました。ペテロは遠く離れてついて行きました。人々が中庭の真ん中で火を焚いて座り込んだので、ペテロもその中に混じって腰を下ろしました。すると、女中が火明かりの中にペテロが座っているのを見つけ、「この人もイエスと一緒にいました」と言いました。ところがペテロはそれを打ち消して、「いいえ、わたしはあの人を知りません」と言いました。しばらくして、別の男が「あなたも彼らの仲間だ」と言いましたが、ペテロは「いや、違います」と否定しました。それから一時間ほど経つと、また別の男が「確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリラヤ人だから」と言い張りました。しかしペテロは、「あなたの言うことはわたしには分かりません」と言いました。
ペテロがまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。主が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは、「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた主の御言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。
私たちも、日々の生活の中で何度同じような過ちをしてきたことでしょうか。だからこそ、この場面は私たちの心に深く刺さります。けれども、イエス様はずっと祈っておられました。十字架の上の激しい痛みと苦しみの最中でさえ、ずっと私たちのためにとりなして祈っておられたのです。鶏が鳴いた瞬間、イエス様はペテロを振り向かれましたが、その時もペテロのためにとりなしておられました。
ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」とあります。イエス様は天において永遠の大祭司として生きておられ、朝も昼も夜も、四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。十字架の上でも、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と、ルカ23:34にあるように、とりなして祈り続けておられました。
そして「立ち直ったならば、兄弟たちを力づけてやりなさい」とイエス様が言われた通り、実際にペテロが立ち直る時が来ます。「使徒行伝」に記されているように、ペテロは他の弟子たちを力づけ、教会の柱と呼ばれるような存在になりました。これはペテロ自身の力ではなく、イエス様がとりなして祈っておられたからです。伝承によれば、ペテロは最終的に逆さ十字架にかけられて殉教します。彼は十字架刑が求刑された時、「自分がイエス様と同じ死に方をするのはもったいない、申し訳ない」と自ら願い出て、逆さ十字架につけられたと言われています。生涯をかけてイエス様の祈りに応え、信仰を貫いたのです。
現在、ペテロは天国におりますが、私たちはこの地上で生きています。イエス様は、地上で生きる私たちのために、今もなおとりなして祈ってくださっています。私たちは、イエス様の十字架の死と復活、そして天に昇られて今も祈り続けておられることを覚え、感謝をもって歩んでいくべきです。
何度も裏切り、イエス様を知らないと言い、神様が喜ばれることを知りつつも自分の好むことを行い、罪を犯してきた私たちです。しかし、その都度涙とともに心を悔い改め、いつも主に立ち返ることができますように。イエス様の祈りに支えられ、信仰の翼を広げて凛々しく羽ばたき、主の働きを進めていくことができるよう歩んでいきましょう。
【結論】
イエス様は私たちの弱さをすべてご存知の上で、私たちの信仰がなくならないように天において常に祈り続けてくださっています。私たちは自分の弱さに絶望するのではなく、その都度悔い改めて主に立ち返り、イエス様のとりなしの祈りに支えられながら立ち直り、周囲の人々を力づけながら凛々しく信仰の歩みを進めていきましょう。
聖餐式と十字架の恵み - 受難週のメッセージ(1コリント11:23-32)
メッセージ音声
【概要】
受難週において、イエス様が最後の晩餐で制定された聖餐の意味を深く学びます。イエス様の裂かれた肉と流された血潮を通して、私たちに与えられた天国への道、罪の赦し、神の子としての値が与えられたことを覚え、感謝をもって歩むことが勧められています。
【聖書箇所】
第一コリント11:23-32
【慰めの言葉】
イエス様の十字架の血潮を通して、私たちの罪は清められ、神の子としての値が付けられました。悪魔サタンに対しては完璧に勝利したものとして歩むことができます。
【励ましの言葉】
罪を犯してきたからこそ、イエス様の贖いに感謝をもって預かるべきです。聖餐式を拒否するのではなく、イエス様の裂かれた肉と流された血潮により一層預かり、感謝をもって歩みましょう。
【勧めの言葉】
受難週だけでなく、日々イエス様の十字架を覚えて感謝を持ち、イエス様に交わり続けること。聖徒の交わりから決して離れず、共にイエス様と共に天の御国に入る恵みにあずかることが勧められています。
【戒めの言葉】
聖餐式にふさわしくないままで預かること、つまりイエス様を覚えないままで食卓に預かることは、自分を裁くことになります。自分自身をしっかりと吟味し、イエス様の十字架の贖いを覚えて預かるべきです。
【***詳細***】
2026年3月31日の朝、恵みをいただく御言葉は第一コリント11章23節から32節です。初めに皆さんと共に23節から26節を宣言します。新改訳の第三版にて宣言いたします。
「私は主から受けたことをあなた方に伝えたのです。すなわち主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝を捧げて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は私の血による新しい契約です。これを飲むたびに、私を覚えてこれを行いなさい。』ですから、あなた方はこのパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(第一コリント11:23-26)
愛する主よ、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださった恵みを感謝いたします。あなたのその身代わりの死によって、私たちの罪は十字架に釘付けにされました。あなたを信じることによって、それが私たちのものとなることを感謝いたします。あなたは復活されたことを感謝します。それゆえに私たちは永遠の命の望みが与えられました。今、主よ、この受難週の中において、あなたのその十字架の死と復活を覚えることができますように。
今週は受難週です。特に今日見ていきたいのは、イエス様がその最後の晩餐において制定されたこの聖餐についてです。当時はですね、この最後の晩餐、西洋の絵画などでは、イエス様はテーブルに座って、みんな椅子に座って、その最後の晩餐に預かっている場面がよく描かれるんですけども、けれども当時のユダヤの習慣としては、みんな地べたに座って、それで寝っ転がって、それでお食事を取るという、そういう感じでした。
ヨハネがイエス様の横に横たわっていたとあるんですけども、ですからちょうどパッションという映画のような感じで、こうやってあぐらをかいて、テーブルを囲んで、それでパンが裂かれて弟子たちに配られた、そういう有様だったんですね。
その最後の晩餐において、イエス様は特に、イエス様が苦しみを受けられる前に、どんなにあなた方と一緒にこの過越しの食卓につきたかったことかとおっしゃいました。イエス様は本当にこの弟子たちを愛して、そして私たちをも愛して、私たちのためにこのイエス様ご自身が過越しの子羊となられたわけです。イエス様は十字架の上で血を流された。その血潮をもって私たちの罪を贖い、また肉を裂かれた。それは私たちの身代わりになってです。
それと同時にですね、この裂かれたことについて、キム先生が言われましたね。スキゾーというギリシャ語、これ裂く、引き裂くことによって、天国がイエス様を通して現れたんですね。イエス様という肉体、その十字架の上で裂かれた肉体という幕、その幕が裂かれたことによって天国があらわにされました。イエス様が十字架の上で息を引き取られた時、神殿の幕が真っ二つに裂かれて、そしてその至聖所、いわば神様のご臨在が露わにされたんですね。イエス様が十字架の上で肉を裂かれたゆえに、私たちに向かって天国が露わにされたわけです。
そしてイエス様はそのことを覚えるために、その十字架の苦しみを受けられる前の晩に、その聖餐式を制定されたんですね。イエス様は渡される夜、パンを取り、感謝を捧げて後、それを裂いて、引き裂いて、そして言われましたのが「これはあなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい」と言われました。「私を覚えて」です。杯をも同じようにして言われたのは「これを飲むたびに私を覚えてこれを行いなさい」。
この「覚える」というのはですね、何も思い出として残しておきなさいということではなくて、むしろね、これを行うたびに、あたかもこの当時イエス様がその肉体を裂かれて、十字架の上でそれを裂かれたことを、あたかも目の前で見るかのようにしてそれを覚えなさい、そしてそれを行いなさいということです。ですから私たちはこの聖餐式に預かる都度、あるいは聖徒たちが共に集まってパンを裂く都度、また共に同じその飲み物を飲む都度、このことを覚えなさいということです。
ですからクリスチャンのこの集い、聖餐式のみならず、主の御名の交わり、特にこの第一コリント11章は、あなたがたはこの私の名前、イエス様の名前によって集まるその集いの中において、ふさわしくない状態だと言っています。ある人は我先にこの集いに集まって、我先にそこにある食べ物を食べて、それで後から来た人たちのために残っていない。またある人たちは先にもうぶどう酒を飲み尽くして、それで後から入ってきた人たちには残っていなくて、あなた方はもう酔っ払っている始末だ。このような交わりは果たしてふさわしいことでしょうか。
パウロは叱りました。「あなた方はこの点においては褒めるわけにはいきません」と。ですから、集う時においてはどういうふうに集うべきかというその話の流れで、このイエス様のこの最後の晩餐の場面がパウロを通して語られて、そしてその後にパウロは、だからあなた方が集まる時には、しっかりと前もって打ち合わせて、同じ時に集まって、そして食事を食べなさいということが語られたわけです。
ですから、私たちが、この初代教会以降、本当に私たちの信仰の先人たちが共にしてきたように、私たちは同じ場所に集まって、イエス様の名前によって集まって、そしてそこにおいて共に祈り、共に交わり、共にパンを裂き、これが使徒の時代からずっと続けられてきたわけですね。
私たちがですから、集まる都度、イエス様が十字架の上で肉体を裂かれたこと、また血を流されたこと、これをあたかも目の前で記念して覚えるがごとく、そのように私たちも集う都度、イエス様のその死と復活を私たちは覚えるべきなんです。イエス様は御体を十字架の上で裂かれました。そして、このイエス様が十字架で裂かれた肉を覚えるようにと言ってパンを与えられました。私たちはその聖餐の都度、また主を覚える都度、私たちはそれを覚えるべきです。
その肉体が裂かれたことは、私たちの身代わりとなって苦しまれるためです。そしてそれと同時に、イエス様の裂かれた肉体を通して、天国が私たちに向かって明らかになるため、私たちが天国に入るために、イエス様が十字架の上で肉体を裂かれたからこそ、天国への道が、その幕が裂かれて、そしてその入り口が開かれて、私たちはイエス様の裂かれた肉を通して天国に入ることができるのだということを覚えるべきです。
またイエス様の血、血潮は力があります。血潮は命そのものです。血潮は叫びます。私たちに対しては弁護を叫び、悪魔サタンに対しては罪定めを叫びます。この十字架の血潮を通して、私たちは悪魔サタンに対しては、私たち自身もイエス様の血潮を宣言して「出て行け」と訴えることができ、また私たちはこの血潮、イエス様の命そのものであられる血潮、このイエス様の命が与えられた血潮でもって、私たちもイエス様と同じ値が付けられた神の子として、永遠の命を受けたものとしての値が付けられたものであることを、根拠をもって主張できるんです。
ですから私たちはこのイエスの肉、またイエスの血、これを覚えるべきです。そして、「もしふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲むものがあれば、主の体と血に対して罪を犯すことになる。ですから、自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい」と言われてるんですけども、自分を吟味する、果たして自分がこのパンと杯をいただくにふさわしいものかどうか、吟味しなさいと言われてるんです。
よくですね、聖餐式で誤解されるのが、「私はいっぱい罪を犯してきたから、だから、このパンと杯に預かるにふさわしくないんだ。だから聖餐を受け取りません」ということですね。そんなことを言う人はですね、牧師先生に叱られるんですね。「やめなさい」ってね。むしろ罪を犯してきたからこそ、私たちはこのイエスの裂かれた肉により一層預かるべきであり、その血潮により一層預かるべきなんです。
自分自身が本当にこの罪を犯してきた、だからイエス様のその贖いが必要なんだ。イエス様が本当にこの十字架の上で裂かれた、血を流されたから、だから私はこれに感謝を持って預かりますと預かるべきなんです。それを拒否する人、霊的な状態が良くない人がよく拒否するんですけども、本当にこのイエス様の贖い、これを拒否してはならないんです。イエス様の贖いを、むしろ私たちは感謝を持っていただくべきなんです。
そして、もしそうしたイエス様を覚えるということ、イエス様を覚えている人がふさわしい人です。ふさわしくないままでというのはどういう状況か、イエス様を覚えないままでということですね。イエス様を覚えないまま、この聖徒と共に預かるべき食卓、これをただ単に食欲を満たすために、我先にと、そういうのはふさわしくないままですから、その飲み食いが、自分を裁くことになるということですね。
恐ろしいことはですね、この聖徒の食卓をね、これを軽んじて、主を軽んじて、主を覚えないで、その聖徒たちが持ち寄ったものをね、我先に食べる人ね。30節見ると恐ろしいんですね。「そのために、そんな飲み食い、ふさわしくないままで飲み食いした人が多いから、だから、その中に弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います」(第一コリント11:30)。
しかし、「もし私たち自身が自分を裁くなら、裁かれることはありません」(第一コリント11:31)。ですから、私たち自身、自分自身をしっかりとね吟味し、イエスキリストにあって、本当にこの自分は罪がある人ですけれども、イエス様にあって、この十字架の贖いを通して罪が贖われるものです。だから、それを覚えるために、この食卓に、このパンに預かり、この杯に預かります。
ですから、私たちは集う都度、イエス様の十字架を覚えるべきです。イエス様の復活を覚えるべきです。そして、イエス様への感謝をいつも私たちは心のうちに持っておくべきです。私たちはこの受難週において、いや、受難週だけでなく、本当に日々イエス様の十字架を覚えて、感謝を持って、イエス様にいつも交わり、そしてまたこの聖徒の交わりから決して離れず、共にこのイエス様の復活の恵み、共にイエス様と共に天の御国に入る恵みにあずかる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。
【結論】
イエス様は最後の晩餐で聖餐式を制定され、私たちに「これを私を覚えて行いなさい」と命じられました。聖餐式に預かる都度、また聖徒が集まる都度、私たちはイエス様の十字架の死と復活を覚えるべきです。イエス様の裂かれた肉は、私たちの身代わりの苦しみであり、同時に天国への道を開くものでした。イエス様の流された血潮は、私たちの罪を清め、悪魔サタンに対して勝利を宣言し、私たちに神の子としての値を与えました。罪を犯してきたからこそ、イエス様の贖いに感謝をもって預かるべきであり、イエス様を覚えることがふさわしい姿勢です。受難週だけでなく、日々イエス様の十字架を覚えて感謝を持ち、聖徒の交わりから離れず、共に天の御国に入る恵みにあずかりましょう。
