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主日礼拝

祈りという捧げ物を猛禽から守り続けよ(創世記15:7-11)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先週、マイケル宣教師を通じてIM宣教会日本センターが立ち上げられ、日本本部としての特権が私達に与えられた。以来、韓国プサン・トーブチームの中高生16人が、主イエスの恵み教会を拠点に学習と宣教の活動をしている。彼らは日頃から御言葉を暗唱し、宣教師としての訓練を受けているため、道行く若者に声をかける事に、全く躊躇が無い。初めての相手にもすぐに打ち解け、惹き込んでいく。そんな彼らは、天才にならざるを得ない。事実、第1期生は、世界200位以内の大学に次々と合格している。そのような素晴らしい教育システムが、突然、向こうから来た。今まで祈り求めて来た事が本当に答えられたのだ!
 
 これからは、今まで慣れ親しんできた生活サイクルを脱出し、全く新しい領域へ、進もうとしている。その際、真っ先に立ちはだかる敵は、「変化に対する拒否反応」「先回りした心配・恐れ」である。出エジプトした民は、そうした拒否反応や恐れを「固持」したゆえに、荒野で40年さまよって死んでしまった。サウル王も、心配のあまりに勝手ないけにえを捧げてしまったため、王として固く立てられる機会を、逃してしまった。
 地図を開いたなら、まず現在地と方向を特定するのと同じように、今、私たちは「主が祈りに応え、導いておられる」という「現在地」を確認し、方向性を主に求めていくべきだ。私達の信仰の父・アブラハムは、主から「本土・親戚・父の家を出よ」という言葉を受けた時、行き先は分からなかったが、75年も生活してきたその地を離れた。拒否反応や心配は、あっただろう。それでも主の言葉という「現在地」を確認し、そこを出た時、次の方向はその都度示され、そうして彼は、信仰の子々孫々を建てあげる栄光の道を一歩一歩、進んで行った。私たちも彼にならい、先が見えなくても信仰によって進むなら、必ず次が示されるのだ。
 
 主は確かに生きておられ、信仰を手放さない者には力強く働かれる事を、最近体験した。私は半年ほど前から、左腕や首筋のしびれと痛みがひどかったが、マイケル先生の集会で、イエス様の血潮による癒しの祈りの時間があって、私も「癒やしてください、痛みを取り除いてください」と祈っていたのだが、祈りの最中、気付かされた。そうした祈りは、「もしおできになるものなら」(マルコ9:22)という、不信仰が込められている、と。「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんな事でもできる!」(同23節) そこで祈りを変えた。
「イエス様の名前によって、今晩、必ず癒やされて帰る!!」 信仰によって、そう宣言し続けたが、状況は全く動じず、痛みは変わらず残り続けた。だんだん祈り疲れ、祈る事に飽きて来たりもした。やっぱりだめかな、という思いも来たが、それでも口で宣言を続け、自分のたましいに言い聞かせ続けた。集会が終わっても、痛みは残っていたので、ますます否定的な思いがよぎった。しかし、アブラハムが主の約束を確かめた時、捧げ物を狙って来た猛禽を追い払ったように、私も主と出会うまでは、そうった「猛禽」を追い払い続けよう、今晩、必ず主と出会い、癒やされて、主の偉大な力を人々にこれから伝えていく!と宣言し続けた。
 結局、頭の中にひっきりなしに巡ってくる、否定的な「はかりごと」や「思惑」、そして「いいわけ」が、信仰という捧げ物を食い散らかす猛禽だったのだ。そうした、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ、従順が完全になる時、あらゆる不従順を罰する用意ができる!と書いてある(2コリント10:5-6)。そうしてあきらめず続けると、ついに帰りの車で癒やされた!
 
 結局、癒やしも、必要の満たしも、先行きが見えない際の導きも、本当に、本気で信じているかどうか、そして「しつこく」求め続けるかどうかの問題だったのだ。『少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』(ヤコブ1:6-7) 主は、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを、教えられた(ルカ18章)。
 先回り的な心配性や、不信仰、主に逆らって立つはかりごとや思惑、いいわけ、そうした諸々は、イエス・キリストの御名によって縛り、退去命令を出す!そういう「霊的戦い」を、しつこく、しつこく続ける。それこそ、癒やしを体験しキープし、力強い証人になるためのコツなのだ。
 痛みも、病も、経済的不足も、あらゆる不安と思えるような事も、その他、あらゆる立ちはだかる障壁も、全て主に本気で願い求めて、実際に主の偉大な力を、その身に、その人生に働いた経験をたくさん積む皆様でありますように。そうして、ヨシュアのように、ダビデのように、主にあってどんな事でもできる!という確信を身につけ、恐れなく大胆に、祝福と希望に満ちた将来を勝ち取っていく皆様でありますように!
 

 

主日礼拝

恵みの大雨が降る時(ヨエル2:23)

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English Service:The graceful rain of The Spirit(Joe2:23) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 
 今回、マイケル宣教師を通してIM宣教会日本センターが立ち上げられ、しかも、日本本部としての権限が、私達に与えられた。 彼は当初、縁もゆかりもなく、福音を鉄板のように跳ね返す日本を訪問する際、一体どうしたらいいでしょうか、と主に祈った時、主から言われた。日本には既に用意された人達がいる、と。
 彼は今回の訪日で、私達と出会った時、主が言われた事は本当だった事が確認できた、と言っておられた。つまる所、私達は、日本福音化のために「主に用意された人たち」なのだ!
 確かに私達は、普段から祈って来た。栄光の次世代を建てあげる仕組みを下さい、そのために必要な土地、建物、経済、人を与えてください、と。主はこんな小さな交わりで祈られて来た祈りを、聞いておられた。
 同じ時期に主は、韓国でマイケル宣教師を起こし、次世代教育を起こし、私達日本に必要なシステムや人材、教材は、既に彼らを通して用意され、そして、ついに時が満ちたこの時、日本と韓国の群れを一つにし、聖徒達の祈りを、折にかなって答えて下さったのだ!まことに主は素晴らしいお方である!
 
 今月の箇所・ヨエル2:23に書いてある。「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」 主はまさに、豊かな実りをもたらす雨を降らせてくださるが、さらに後の箇所には、どの世代に対しても聖霊が与えられ、全く新しくされる約束が、記されている(28-32節)。
 マイケル先生がよく引用しておられたのは、ダビデに油を注がれた箇所である。『サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。この日から後、主の霊は、激しくダビデの上に臨んだ。』
 聖霊の油が注がれると、主の霊が圧倒的に臨んで充満され、心が全く新たにされる。それまで世の中の思考で生きていた者が変えられ、天の思考で生きるようになる。その思考は、不安に覆い被されたものではない。壁に囲まれて閉塞したような思いではない。万軍の主が共におられる!という確信から来る、開かれた天のような、無限の可能性を秘めた希望から来るワクワク感に満ちた思いであり、主にあっては何でもできる!という確信が、泉のように湧き上がって来るものである。それを今回、感じただろうか。
 
 ダビデはどうして、イスラエルの王として神様から選ばれたのか。それは彼に能力があったからではないし、知恵があったからでもない。事実、彼は、家族の中で一番見下げられていた末っ子であった。彼は、偉大な預言者サムエルを家に迎える、という、エッサイ家にとっては重要な時に、羊の面倒を見る事が命じられたが、神は実に、彼が誰からも顧みられなかった時、既に彼を王として見出していたのである(1節)。
 主が事をなさる時、人のわざは、何も役に立たない。主のわざを為すのに必要な能力も、知恵も、権威も、経済も、天地を創られた全能の主から来るからだ。主は弱いものを勇士とし、貧しいものを富ませてくださるお方である。事実、ダビデも、マイケル先生も、元々は何もなかった。ただ王としての性質は備えていた。
 偉大な王の性質とは何か。それは、主の全能性を信じて疑わない事だ。主には何でもできる!という信念が誰よりも強い人を主は用いる。偉大な王としての性質とは、主の全能性を信じて疑わない事である!
 
 私達に主のわざが起きる事を邪魔しているものは、一体何だろう。それは、私達の中の思い込みである。
自分の頭で構築した手段を考案し、第2プラン、第3プランを考え出し、そのレールから外れた事を言われたり、されたりすると、怒ったり、拒否反応を起こしたりし、「無理」「できない」とカテゴリ分けしてしまう。
 その、「できない」という口から出た言葉、あるいは、思考の中で巡らされた言葉が、神様のわざがなされる事を、最も邪魔して来たのである。私達は、ダビデのように、主の全能性を信じ切る必要がある。主は無限なるお方である!と、ダビデのように思考する「偉大な王」の器を持っている人を、主は探しておられる。
そのような人が一人いるなら、主は、この時代に回復のわざを為されるきっかけを得る事ができる。
 
 主は、穀物が無理なく育つように、はじめの雨と後の雨を降らせてくださる。それと同じように主は、私達が無理なく主の働きができるように、必要な主の霊を降り注がせてくださり、そして新しい心を与えて下さる。
 この時代、ダビデのように、主は全ての事がおできになるお方だと信じ切る王の性質を身につけ、主のわざをこの時代、この日本へと導入して行く私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

メガスの信仰と、テラスの奇跡を起こす器(ヨハネ6:28-29)

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週報/メッセージ(説教)概要

 いよいよ今週、マイケル・ジョー宣教師をはじめ、IM宣教会の一行が来日し、諸々の活動を行う。彼の教育法の素晴らしさに、多くの教会や教育者が感銘し、現在、世界70カ国から講演依頼が殺到しているが、先週、韓国コーエンに参加した祭、もう一人の素晴らしい器に、主は出会わせて下さった。釜山ビジョン教会のキム・ソングァン牧師である。キム・ヒョンジョン博士は8年前、キム・ソングァン牧師の招請でウガンダの首都カンパラにて、現地の牧師500人にテフィリン講義をしたのだが、それが種となって今、教会がなんと1221箇所も建設され、さらにキリスト教学校の初等学校、中高校、大学が、40も建てられたのだ!
 彼らのような大きな働きをする器に、共通している点がある。それは、神様は無限なるお方である、と信じ切っており、与えられたみことばに対して「無理」と言った事がない点である。周りから「そんなの現実ではムリ」と言われても、神様には限界が無い、と信じて、実際行動したら、ムリと思われていた事が次々と実体化し、出来上がって行ってしまうのだ。主はいつの時代も、そのような器を通して、大きな働きをされる。
 
 信仰には、大きさがある。御言葉を、そしてイエスキリストを、どれだけ大きく信じてそれにかけたか。それによって生じる神様のわざの大きさが、違ってくる。ツロ・フェニキヤの女は、イエス様から冷たいように思われる言葉に対しても、優れた信仰告白をしたゆえに、『女よ、あなたの信仰は見あげたもの(メガス)である。あなたの願いどおりになるように。』と言われた(マタイ15:21-28)。イエス様は、彼女の信仰はメガス(百万、巨大)だ、と言われた。モーセも信仰が百万(メガス)に成長した時、パロの娘の子として儚い罪の楽しみを受けるよりは、神の民とともに苦しむ事を選び取った。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富とし、その報いはより優れたものだ、と信仰によって受け取ったのだ(ヘブル11:24-26)。 
 「偉大な信仰」とは、神様をどれだけ大きく見るかによって決定づけられる。もし私達が、神様を1で見るなら、1の結果しか帰ってこないが、百万で見るなら、百万の結果で帰ってくるのだ!
 聖書を見ると、信仰によって、百万よりもさらに偉大な結果で帰ってくる事がある。それは、テラスである。
メガスの値は1,000,000であるが、テラスは1,000,000,000,000、1兆である!それは人には一生かかても数え切れない数字、という事で「奇跡」と訳される、人間には到底できない、ただ神のみができるわざである。
それはイエス様の専売特許ではなく、神には限界が無いと信じ切った信仰者によって行われるものである。
 事実、テラスという語は、4福音書には計3回しか出てこないが、使徒行伝には9回も登場する。信じた人はイエス様のわざを行うのみならず、もっと大きなわざをも行う、と言われた通りである。(ヨハネ14:12)
 
 神のわざには、限界が無い。無限大である。無から有が創造される・・・闇だった所に、光が存在するようになる・・・むなしく茫漠とした所に、愛の意図に満ちたいのちが溢れる・・・。これらは全て、はじめからあったみことば、はじめからおられた神のことばによって成就した。この世に満ちている被造物は全て、はじめに神がことばによって、創造された。『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。』(ヘブル11:3)
 人間は唯一、そのわざに参加できる存在である。神に似た者として、神のかたちとして。闇に光をもたらし、むなしい所に愛といのちで満たすわざに。それがキリスト者の仕事である。そのわざに参加する方法は、イエス・キリスト、すなわち神のことばを信じる事である。( 神のわざ = 神のことば(キリスト) × 信仰 )
 『そこで彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、私達は何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神が遣わされた者(イエスキリスト)を信じる事が、神のわざである」。』(ヨハネ6:28-29)
 
 主には、おできにならない事は、何も無い。その信仰に立つ時、神の無限大のわざが為される。一番の敵は、私達の中の「それは無理だ」「どうせ出来ない」「現状のままでいい」といった思いである。主が用意しておられる無限な将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。主のビジョンを、ケチケチしてはならない。今、主は、主は無限なるお方であるとする人の現れを待っておられる。主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人が実に少ない。今、私達求めるべきである!信仰によって、望んで活用するなら、必ず成功の報いがある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに稼ぎ、優れた支配をしていく私達でありますように!

 

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

知識もなく摂理を覆い隠して来たわたし(ヨブ記42章)

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 金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

癒やしに必要な罪の告白(マルコ9:14-29)

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 主日礼拝

テフィリンした人に与えられる祝福(申命記6:10-14)

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English Service:Take your sandals off(Exo3:4-5) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 私達は、テフィリン(御言葉暗唱)を土台とした教育機関を立てて、ダニエルやヨセフのように頭の先から爪先まで、御言葉によって神の知恵と能力が備わった、栄光の次世代を起こすビジョンが与えられている。
 前回は、ユダヤ人が最も大切にしている申命記6:4-9の「テフィリン本文」から養いを受けたが、今回はその続きの箇所より、テフィリンした人に与えられる祝福の素晴らしい内訳と、注意すべき事を確認したい。
 
 その祝福の内訳は、10節以降に記されている。すなわち、自分で建てていない町々や良い物が満ちた家々、掘らなかった堀り井戸、自分で植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を、得て、食べて、満ち足りる、というものであるが、それは決して、他人が労して構築したものを、奪い取ったり、強奪する事ではない。
 御言葉を昼も夜も口ずさんでテフィリンした人は、何をしても栄えるため(詩篇1篇)、周囲にいる人々が、その人を持ち上げて、自分の家や畑をその人に任せるようになる。ちょうどイザヤ45:14にある通りである。
 ヨセフは奴隷だった時、彼がする事は何でも祝福されたので、やがてその家の支配人となり、紆余曲折は経たものの、ついにはエジプト全体の支配人へと、仕立て上げられた。そして彼が面倒を見た国政(家)も、農業(畑)も、大いに祝福され、民は喜んで彼に支配権を譲渡した。ダニエルも、バビロンやメド・ペルシヤの王達が自ら進んで彼に支配権を委ねた。被造物は、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでおり(ローマ8:19)、そして神の子が支配権を得て行使する時、人々も被造物にも、平安が来るのだ。
 
 以下、テフィリン教育の第一人者・キム・ヒョンジョン博士の言葉である。御言葉なるキリストが、その人の中に、千節も満たされると、悪魔サタンはその人に入れなくなる。コーエンで学んだある宣教師は、毎日六百回宣言していると、罪を犯す事が苦しくて苦しくてたまらない、と言っていた。御言葉なるキリストが、心や思いに、脳に満たされるなら、罪も、悪霊も、また、どうしても止められなかった罪の習慣さえ、居られなくなって出ていく。キリストとベリアルは、共生できないからだ(2コリント6:15)。さらに二,三千節の御言葉が入ると、見たものが写真を撮ったかのように、聞いたことが録音したかのように、覚えられるようになる。
そして旧新約が五千節も入ると、主がその人の手を取って国を変える働きをするようになり、手で触れたものがことごとく自分のものに、足で踏んだ所がことごとく御国のものになっていく。使徒パウロがそうだった。
 パウロは、旧約だけでなく、新約の御言葉もテフィリンされた人だった。旧約だけテフィリンしたユダヤ人は多くいるが、パウロは彼らとは比べものにならない働きをした。彼が手ぬぐいを人に当てただけで、その人の病や悪霊は出て行き、彼が足で踏んだ所はリバイバルが起き、二千年も続く教会が次々と建てられた。
 パウロは、表向きは囚人として護送されて行っただけなのに、彼が行かされた先々では、いつの間にか彼が主導権を取っており、奇跡が、救いが、次々と起こされて行った。御言葉が染み込んでいる人は、御霊がその人に、霊の帯で縛って、引いて行き、行く先々で主の働きが起きる。パウロがまさにそうだった。
 自分はただ導かれて行っただけなのに、主のスピーカーとして用いられ、自分はただ手を置いただけなのに、主が為したい癒やしのわざや奇跡を起こり、自分はただ聖霊に縛られ、引きずり回されただけなのに、行った先々で悔い改めが起こり、救いが起こり、教会が建って行く、という、パウロのわざが起きるのだ。
 
 だから、自分のものではないものが、次々と与えられた時にこそ、「気をつけよ」と、今回の御言葉は警告する(12節)。自分のものでない物質が次々に与えられる理由は、「わたし」が物持ちになったり、欲望のままに貪るためではない。ヨセフやダニエルのように、それを用いて全地に主の栄光をもたらすためなのだ。
 それらが与えられた時こそ、神である主を恐れ、主に仕え、御名によって「誓わなければならない」と書いてある(13節)。「誓う(シャーヴァ)」の意味は「7にする」「完全にする」「成人するまで育てる」といった意味があり、主を恐れ仕える事において、過ちを犯さない程に成人するまで、御言葉で養い育て続けよ、という事なのだ。そしてその時、世で成功したからと言って、世の神々に逆戻りするな、と警告されている(14節)。
成功した時、過ちに陥ってしまった人が、数多いる。それらを得た時こそ、真価が問われるスタートなのだ。
  今、世界では続々とテフィリンによる働きが起こされており、日本でもTIA(テフィリン・インターナショナル・アカデミー)が起こされ、立て上げの活動がはじまっている。まずは私達自身がテフィリンし、あらゆる面で祝福され、栄光の次世代を育て上げ、主の栄光を、全世界へと伝播して行く私達でありますように!

 

 

 

主日礼拝

御言葉教育がもたらす祝福(申命記6:4-9)

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週報/メッセージ(説教)概要

 私達には、ビジョンが与えられている。テフィリン(御言葉暗唱)を土台とした教育機関を立てて、頭の先から爪先まで御言葉が染み付いた、ダニエルやヨセフのような栄光の次世代を起こし、御言葉によって知恵と能力が研ぎ澄まされた彼らを通して、政治、経済、文化、教育のリーダーシップを取り、この時代に神の国をもたらす、というビジョンを。そこで、テフィリン教育の根幹を今一度、よく理解するため、テフィリン教育の本家であるユダヤ人が最も大切にしている今回の箇所(テフィリン本文)から、極意を得て行きたい。
 
 敬虔なユダヤ人であるなら、「シェマー(聞きなさい)」から始まる今回の申命記6:4-9の一文を、必ず朝夕宣言する。戦争中の兵士であっても「シェマー・イスラエル」だけは宣言する程、大切なこの箇所である。
 その最も大切な命令、「シェマー」は、単なる「聞け」という意味には留まらない。耳を傾け、心して聞こう、そして聞いたなら、それが何であっても従順しよう、という「意思」をフル可動させつつ、主の御言葉に耳を傾ける、という意味であり、これこそ、私達・神の民が、神の言葉と向き合う時に必須の心構えである。
 さらに5節には、全身全霊をもって主を愛する事が、命令されている。それでは一体、「主を愛する」とは、具体的に、どうする事だろう…。私達は、なんとなく、漠然と「これが主を愛する事」だと、根拠なしに行動してしまいがちであるが、ユダヤ人はその点、御言葉の根拠を置いているので、正確である。では、「神を愛する手段」とは、正確に、どうする事だろうか?その答えは、続く6-9節であり、彼らは6-9節に記されている「神を愛する手段」を、2500年前から今に至るまで、忠実に実践して来た。それで彼らは祝福されたのだ。
 6節には、主の御言葉を刻み込みなさい、とあるが、原意は「御言葉を溢れるばかりに存在させよ」である。
御言葉をテフィリンしたなら、家にいる時も、会社にいる時も、バカンス中でも、心に刻まれた御言葉が、常に心から溢れ、行動として流れていくため、何をするにも、御言葉に沿った祝福の法則どおりを、自動的に躊躇なく行い、呪いの法則を、自動的に躊躇なく排除しながら生きる。なんと祝福された生き方だろうか!
 7節には、御言葉を子どもたちに「よく教え込む(シャナン)」事が、命じられている。シャナンとは、ノミなどでコツコツ彫刻する事。つまり、御言葉をテフィリン(暗唱)する事は、芸術家が荒削りの木をノミで彫刻し、意味無いものに意味を与え、価値が無いものに、尊い価値あるものへ彫り込んで行くように、御言葉を何度も反復宣言する事によって、その子から、愚かな要らない性質が削ぎ落とされ、まことのアーティストであられる主が本来付与された、素晴らしい賜物を、その子に浮き上がらせ、素晴らしい性質を現して行くのだ。
 さらに、家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい、と命じられているが、それは「論じ合う」事である。彼らは、その御言葉を守って来た故に、小さい頃から、論じ合いディベートする”くせ”をつけて来たので、会話を聞いて理解する能力や、意思疎通能力、説得力や交渉力が高い。
 また8-9節では、御言葉をあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとしなさい、と命じられているが、これは現在も「テフィリン」という箱を手や額に結びつけながら、御言葉暗唱の祈りをする形で、守られている。また、家の入口の柱と門とに、わたしの命令を書きしるしなさい、という命令は、家の入口の柱や門に「メズーザー」という御言葉の箱を打ち付ける事で、実践している。しかし大事な事は、御言葉の箱といったモノではなく、御言葉の内容を自分の生活や生き様に、そのまま実体化する事である。
 
 このように彼らは、体や行動、家や生活全般において、神の言葉を打ち付け、結びつけ、御言葉の命令の「制限」の中で生き続けている。その制限こそが、彼らを守る防護壁となり、祝福をもたらしているのだ。
 こうして、神の言葉が入った子どもは、脳が祝福され、非常に短時間で多くを学ぶ事が出来る。ユダヤ人学校は、午前中はもっぱら御言葉をテフィリンし、昼食後の三時間程を、世の学校と同じ一般教育を学ぶ。
彼らは、入っている御言葉ゆえに、知恵・知識が祝福されているので、世の、普通の学校で学んでいる同年代の子ども達に比べ、一般教育を学ぶ時間が遥かに少ないにもかかわらず、遥かに優れた成績を出している。実際、アメリカの名門大学に入学する若者は、ユダヤ人であるパーセンテージが大きい。
 申命記6:4-9の御言葉を守る人には、10節以降の祝福が約束されている。すなわち、自分で建てていない良い物が満ちた町々や家々、掘らなかった堀り井戸、自分で植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得て、食べて、満ち足りるという祝福である。私達も、新旧約の御言葉を暗唱し、ユダヤ人以上にそれらの祝福を受け、栄光の次世代を育て上げ、主の栄光を全世界へ伝播して行く私達でありますように!
 

 

 

 

 

 

あの方のすべてがいとしい(ヨハネ12:1-3)

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マルタ、マルタ(ルカ10:38-42)

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ルカ10:38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
ルカ10:39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
ルカ10:40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
ルカ10:41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
ルカ10:42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 
マルタ、名前の意味は、聖書人名辞典では「苦しくなる、痛くなる」
Strong辞書では、Probably of Chaldee origin (meaning mistress)
(マルタはおそらくカルデヤ語が元で、女主人あるいは妾。)
 
女性は、聖書的には、主人たるお方に、保護され、養われるべき存在。
妾という意味だとしても、妾という存在は、どうしても、妻という存在にはかなわない。
 
しかし彼女は、素晴らしい働きをする人である。
 
ルカ10:38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
ルカ10:39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
 
このベタニヤの家は、マルタが色々な気遣いをして、整えたので、イエス様がお気に入りの家となり、イエス様は何度かこの家に滞在するようになる。
ラザロは、イエス様から愛された友となった。(ヨハネ11章)
 
それぞれ、タラントがあるのだ。
ただ、物事には、
するべき時もあれば、してはならない時もある。
 
ルカ10:40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
 
マルタはこの時、心忙しくなって、とりみだした。
女主人となって、イエス様というまことの主人に意見するような事を言った。
私達も、そういう罠に陥ることがある。
 
マルタの目から見れば、マリヤがなまけ者、自分は働き者、と映った。
だから女主人となって、イエス様にさえ、指示する。
マリヤに、座って聞いていないで立って働くようにと。
私の言うことはきかないかもしれないけれど、イエス様の言う事なら、聞くかもしれない、と思ったのだろう。
 
しかしイエス様は答えて言われた。
 
ルカ10:41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
 
マルタ、マルタ、と繰り返した。
マルタの意味は聖書人名辞典では「苦しくなる、痛くなる」だった。
今あなたは、苦しいのだろう、痛いのだろう、、、
いろいろなことを心配して、気を遣って。
 
ルカ10:42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 
この箇所から語られるメッセージでは、よく、マルタは悪者、マリヤは良い者的な、事が語れることもあるが、
イエス様は、そういった事は一切言っていない。
 
マルタ、あなたがいましている事を止めて足元に座って聞きなさい、などとは言っていない。
 
イエス様が言われたのは、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。
だった。
 
一番必要な事は、イエス様の言葉に、聞き入ること。。。
 
マリヤは、それをしていた。
だから彼女は、誰よりもイエス様の御旨を悟って、
誰にもできない、永遠の記念になるほどの奉仕を、成し遂げた。(ヨハネ12章)
 
私達はキリストのからだ。
おのおのはその器官、役割が違う。
 
マルタのように、色々なことに気遣って用意を整えて、イエス様のお気に入りのベタニヤ・ハウスを建てる人が、いなくなってはならないし、
かといって、手足を動かすことが第一になってしまって、御言葉に聞き入るをやめてはならない。
 
1コリント14:40  ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。

 

 

 

霊の状態に気をつけなさい(ルカ9:51-62)

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