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主日礼拝

主から多くを任せられるために備えをせよ(イザヤ45:1-8)

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週報/メッセージ(説教)概要

 御言葉は、全て、「その通りになる」と信じて掴む人が、その御言葉の実体を得ている。天の御国は、バプテスマのヨハネが、イエス様こそ救い主だと示して以降、祝福を激しく奪い取ろうとする人によって奪われている。今、私達もイエス様に激しく求め、御言葉の祝福を、日本一勝ち取る者でありますように!
 今日の箇所は、天声では、祈り会ごとに宣言しているが、ここはどういう箇所だろうか。
1節を見ると、これはクロス王に対して語られた言葉だと分かるが、私達・御言葉を信じて宣言する者にもその実体が与えられる。「油そそがれた者」のヘブライ語はマーシーアハ、メシアの事で、イエス様こそ真にメシアであり、そして今、私達イエス様を信じる者も聖霊が与えられ、それぞれが「油注がれた者」である。
 また、この箇所が私たちのものであるという根拠は、「わたしは主(アニ・ヤーウェ)」という「主の印鑑」である。契約を交わす時、双方が自分の名のサインや印鑑を押して「これは確かです」と示すように、「アニ・ヤーウェ」は、神様がご自身本人をあらわす印鑑(サイン)のように用いておられる事を、コーエンで学んだ。
 主の印が押された所に、「わたしも!」と自分の名を入れるなら、その御言葉の効力が「わたし」に対して発揮されるようになる。パウロも、働く牛の口にくつこをしてはならない、という動物規定を、これは牛のためだけでなく、むろん私達のため!と宣言したように、私達も、御言葉の約束を「それ、私の!」と言うべきだ。
  早速、__の部分に自分の名前を入れて、宣言してみよう。『わたしは__の前に行って、諸々の山を平らにし、青銅の扉をこわし、鉄の貫の木を断ち切り、__に、暗い所にある財宝と、密かな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、__の名を呼んだイスラエルの神である事を__に知らせよう。』(2-3節)
 世の仕事も、家庭も、諸々の山のでこぼこ道を進んで行かなくてはならないのが、世の常だが、御約束を信じる神の民は、主があらかじめ平らにして下さった道を進んでいくのだ。世の側が、現実や状況が、どんなに青銅の扉、鉄のかんぬきで固く閉ざしていても、主が先に行って、それらをへし折っていて下さるのだ。
 
 世の中には、主が隠し秘めておられる宝が存在する。それは、世の人には誰も見つけられないが、神の栄光をあらわそうという気持ちがみなぎっている人が得るように、主は取っていて下さっている。その宝をその人が得る理由は、3節後半に書いてある通り、主がアニ・ヤーウェである事を、世に知らせるためだ。
 ただ、やみくもに「下さい、下さい」では、だめである。隠された宝を得たなら、それを全て主に明け渡す覚悟は、できているだろうか??主の側は、これらの宝を、求める神の民にあげたくて、あげたくて、いつでも準備万端なのに、残念ながら、あげるに値するだけの「整えられた人」が、あまりにも、いないのだ。
 その宝を受けた途端、アニ・ヤーウェのために用いる事を忘れ、この宝はわたくしのものです、誰にも渡しません、と、良くない事をしでかす輩が、あまりに多いので、与えられるケースが実に少ないのだ。
準備するべきである!この与えられた宝は、わたしのものでなく、アニ・ヤーウェに栄光を捧げるために用いるものです、と、今の内から、はっきりシュミレーションしておくべきだ。「わたしはあなたに肩書を与える」(4節)とある理由も、「ヤコブのため、イスラエルのため」と書いてある。つまり、神の民のためなのだ。
 
 クロス王は、いとも簡単にバビロンに勝ち、秘められていた財宝を得たが、彼は実に正しくそれを用いた。
『ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたの内、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。』(エズラ1:2-3)
 私達も主から栄光の富を頂いたのであれば、主の宮の復興のために用いるべきだ。そのためにこそ得た肩書きと富である。また、復興する気がある人をこそ援助すべきで、その気がない人は援助すべきでない。
 主が私達に力を帯びさせて下さる理由は、アニ・ヤーウェ以外には神はいない事を、世に知らしめるためだ、と書いてある(5-6節)。今、私達がトランプ大統領が再当選するように祈っているのは、今の所、主が主である事を世界に知らせ、巨大な悪に立ち向かえるリーダーは、主を敬うトランプ以外にいないからだ。
 私達もまた、主こそ神である、という事を、世に知らせていくリーダーとなり、また子育てをして行くべきだ。
 今、私達は、主から多くを任せられるために、準備し、心備えするべきである。その時は、近づいている。
秘められている財宝や、隠された宝が与えられたら、どう御国のために活用すべきか、しっかり今の内から心備えをし、多くを任せられるに値する皆さんとなりますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

大いなる祝福を受ける準備は出来ているだろうか(申命記6:10-19)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今回の箇所は、ユダヤ人が毎日宣言しているシェマー本文(第三テフィリン本文)の直後に記されている、テフィリンを守った人に約束している祝福の内訳である。すなわち、テフィリンする人には、自分で建てていないあらゆる良い物が満ちた町々や家々、掘らなかった井戸、植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得、食べて、満ち足りる…。誰もがうらやむ内容だが、それを得た時こそ、気をつけなくてはならない、と言われている。その祝福が与えられるのは、その人をリッチにして安住させるためではなく、むしろますます主を敬い、主と共に歩み、与えられた良いものを用いて、主の栄光を世界へとあらわし伝えていくためである。
 大きな祝福は、それを受けるに値すると主が判断した人に、すなわち準備が整えられた人に与えられる。
ユダヤ人は毎日テフィリンし、祝福の法則である御言葉を心と脳に刻みつけている。だからこそ、知能が祝福され、大いに富まされ、少人数であるのに、世界をほぼ牛耳っている。それでいて、表舞台で直接支配するでなく、また羽目を外して豪遊するでもなく、むしろ、得ている富を秩序正しく用い、諸々の良い事業や活動で世界に貢献している。それは彼らは、幼い時からテフィリンしていて、「整えられていた」からだ。
 
 初期のソロモン王は、なぜ、豊かな知恵が与えられ、富において、名声において、世界にとどろく”成功者”となったのか。それには理由がある。主が彼に、『あなたに何を与えようか、求めなさい』と言われた時、「知恵」が与えられるよう願って、主に喜ばれた事は知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」であり、彼がそれを求めた動機も、ただ自分のためではなく、王として、神の民を正しく取り仕切り、何が正しく、何が間違っているのかという、わきまえを得るためであった。(1列王記3章)
 知恵の本質とは何か。正しい「取り仕切り」は、どうすればできるか。それは、自前の知性を高めて思考するのではなく、シャマーする心、すなわち、主から聞き、御言葉から聞き、聖霊から聞き分け、聞いたら、それに従う心、である。それによって、私たちに日夜来るさまざまな物事を、正しく取り仕切る事ができるのだ。
 上から与えられる知恵、すなわち主のアドバイスこそ、価値あるものであり、地上に生きる自分由来の判断は、糞土である。パウロは、イエス様の知識の素晴らしさを知ってしまった以上、自分に生まれ持って与えられた、人間的な知恵や血筋、熱心は、損だ、損どころか、糞土のようだ、とさえ言った(ピリピ3:7-9)。
 知るべきである。自分由来の判断や、知恵、知識、経験は、糞土だと。ただ主イエス様に由来する、上からのアドバイスこそベストであり、何よりも尊く、それに「聞き分ける心、従う心」こそ、主に喜ばれる。それを私達も求めるなら、ソロモンのように、こちらが求めてもいないのに、力も、富も、勝利も、主が与えて下さる。
 
 そうして、それらの祝福が与えられたなら、主から離れず、主と共に歩み続けるべきである。『もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで(ハラク)、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。』(1Ki3:14) 主と共に歩み(ハラク)続ける。これこそ、主から知恵や力、富、栄誉が与えられ続ける秘訣である。そうするなら、栄えといのちは長く続く、と主は約束された。
ソロモンは、主の御声に聞き従い(シャマー)、主と共に歩み(ハラク)続ける限り、どんどん栄えて行った。
 しかし残念ながら、彼は、後にイスラエルに偶像礼拝を導入し、虚しさの極みで人生を終わってしまった。
一体何が、彼をそんなに悪くしてしまったのか。それはずばり、異邦の女との結婚である。結婚とは相手と一つからだとなる聖なる契約であり、相手と一つ価値観となり、共に同じように生き、共に同じ永遠の家へ行く決意をもってするべきものだ。だから私達は、一つとなって連合する相手によくよく注意すべきである。
 
 主は、多くのことを任せるに値すると判断した人に、多くを与えられるが、整えられていない人に大きな事を任せる事は、なさらない。聞き分ける心、従う心をもって、小さな事への忠実を積み重ねて行く人に、主は徐々に大きな事を任せ、地位において、富において、富んだものとなって行く。
 しかし、富を得たとたんソロモンのように傲慢になり、欲望に身をまかせ、連合してはならない相手と一つになったり、主に聞き従うのでなく連合相手に聞き従っていくなら、ソロモンのように祝福を失い、全てが虚しくなってしまう。私達は今から、しっかりシュミレーションし準備しておくべきである。自分で建てなかった町々や家々、掘らなかった井戸、植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得た時こそ、それを用いて、さらに主に従順し、大いに栄光を捧げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

主のテフィリン命令(出エジプト記13:1-10)

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週報/メッセージ(説教)概要

 世界で同時に行っているテフィリンは、出エジプト記に入った。このプロジェクトでは、聖書全巻の中から重要な箇所、1189節を抜き出してテフィリンするものであるが、出エジプト記からの箇所は、十戒が宣言された20章と、今実践しているこの13章である。出エジプト記13章が重要な理由は、ユダヤ人が身に着けているテフィリン箱に納められている4つの聖書箇所の内、2つが、この出エジプト記13章にあるからだ。ユダヤ人の子供はモーセ五書5845節を全て暗唱するが、その前にまず、このテフィリン本文を暗唱してからモーセ五書に入る。今回、テフィリン(御言葉暗唱)がいかに重要で、必要であるのかを見ていきたい。
 
 テフィリン本文の第1番目の箇所は、出エジプト記13:1-10で、ここのキーワードは「救い」である。ユダヤ人は、自分達は世とエジプトから「救われた者達」という事を覚え、過越祭で毎年、種を入れないパンと小羊を食べて、また日々、この箇所を暗唱する事によって 主の救いを記念し、感謝を捧げ、そして自分達は、主へと捧げられた民だ、という意識を、いつも持っている。 彼らが御言葉暗唱をするようになったのは、バビロン捕囚以降だった。彼らが捕囚され、離散の民となってしまった理由は、御言葉が体質化されていなかったからだ。御言葉がその人の中に無いと、すぐ主を忘れ、主から離れてしまう性質が、誰にでもある。
そこで、テフィリンが開発されたのだ。開発者はエズラで、彼は、思考や生活と、御言葉とを一体化させる「テフィリン教育」を確立したが、テフィリンの力はすさまじいものだったと歴史が証明している。ユダヤ人はバビロン捕囚以降、2500年もの間、あちこちに離散し、虐待されながら生きて来たのに、むしろその先々で栄え、富を得て、そして1948年、国の再興が2000年ぶりに実現した。これは奇跡としか言いようがない。
 
 ひるがえって、キリスト教は、どうだったか。ヨーロッパはかつて、キリスト教が熱かった時期があったのに、今や廃れてしまった。あれほど熱心に世界中に宣教師を送って伝道し、教会を建てたのに。現在、韓国も同じジレンマに陥っている。弟子訓練の方法や教会学校、バイブルスタディの方法論は非常に洗練されているのに、子供や若者の教会離れが凄まじい。日本も、Youtubeやインターネットを通して、いくらでも有名な先生のメッセージが見聞きできるのに、キリスト者は相変わらず弱いままで、福音が浸透して行かない。
 これは、御言葉暗唱をしない事が一番の原因である。事実、経典を暗唱しているイスラム教やヒンズー教は、どんどん勢力が増していて、方向性にもブレが無いのに、暗唱が無いキリスト教は、生活でも政治でも、御言葉の基準を捨て、世の中のトレンドや、人受けする事に媚びて、身勝手に判断し、同性愛も中絶も良しとし、御言葉からどんどん離れて、子供への信仰継承は崩れ、衰退の一途を辿ってしまっている。
 結局、衰退の理由は、バビロン捕囚前のイスラエルと同じである。御言葉暗唱せず、御言葉と一体化されていないと、どんなに教会のシステムを改善しても、世の誘惑に晒されたら、そちらに行ってしまうし、どんなに頑張っても、スマホやインターネットにある、もっと面白い、誘惑的な情報へと流されていってしまう。
結局、御言葉にではなく、「自分よかれ」に支配されていると、世の誘惑に100%、負けてしまうのだ。
 しかし、テフィリンで御言葉を蓄えている人は、本人の中にある御言葉が、自動防御システムとなり、世の誘惑を自動で跳ね除け、また人生を導くナビゲーションとなり、自動的に成功パターンで生きるようになる。
 事実、暗唱している子供は、世の誘惑を撥ね付け、たとえ自分に不利だと分かっていても正しい事を選ぶようになった。親が四六時中見張っていなくても、彼らの中に入った御言葉が彼らを指導しているのだ。
 御言葉は、光と闇の定義を明確にする。これを日々暗唱すると、世のあらゆる道に対処する術を身に着けられる。事実、イエス様がサタンの誘惑に勝利したのは、奇跡や超自然的パワーによってではなく、全部、御言葉によってだった。これは、私達もそれに倣って御言葉を暗唱して対処するように、と示している。
テフィリンして御言葉の剣を宣言する事こそ、悪魔サタンの惑わしや誘惑に勝利できる唯一の方法なのだ。
 
 テフィリンによって、御言葉が持っている聖なる品性を、私たちの思い、心、意思、感情、霊、魂の中に蓄え、染み着かせ、イエス様の完全な道に歩み、その御言葉の爆発的な力で歩む皆さんでありますように!
また、テフィリンによって蓄えた御言葉の剣を、的確な時・的確な場所で振るい、悪に勝利し、この世を支配していく皆さんでありますように!そうして宣言した御言葉がどんどん実体化して行くのを体感し、勝利パターンを身につけ、それによって織りなされてゆく世界の主人公となっていく皆さんでありますように!

主日礼拝

イエス様の復活によって完成した完全な安息(創世記2:1-3)

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週報/メッセージ(説教)概要

 『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。』(創世記2:1) 完成と訳された語カーラー כָּלָהには「完了した」「完成した」「終わった」の意味がある。神様が創造した全被造物は、あらゆる点において完璧であったが、最後に人を創造して被造物の中へ入れられた時、神は「非常に良い!(トーブ・メオド)」と大喜びされ、ついに完成を宣言し、安息に入られた。神様は、人が、神様が創造した素晴らしき被造物の中、御言葉を守る「完全な者」として、神様と共に歩む時、「非常に良い」と言って安息されるのである。
 しかし悲しいことに、その完成し完了したものは、人が神様の言葉を破った故に、破壊されてしまった。
人が神様の言葉を破って、善悪を知る木から食べた故に、被造物も呪われてしまい、土地は茨やあざみを生えさせ、人は一生、額に汗し、労しながら糧を得なくてはならなくなってしまった。こうして人と全被造物は「非常に良い」から離れてしまい、いのちの木への道も封鎖された。この呪われてしまった被造物と人間を、完全な、欠点の無い状態にする事ができるものは、天にも、地にも、地の下にも、誰一人いなかった。
 しかし、ユダ族から出たしし、ダビデの根であられるイエス様が、十字架上でほふられた事によって勝利を得られた。彼はほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、神のために彼らを王国とし、祭司とされ、地上を治めるようにされたのである。(黙示録5章)
 
 イエス様は、十字架上でほふられ、彼の地上における贖いの働きが完成した事を知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われ、酸いぶどう酒を受けられた。この酸いぶどう酒は、人の有り様を示している。神様が六日かけて素晴らしい世界を構築し、その”ぶどう園”に人を置き、彼らが甘い実を結ぶのを期待されたのに、人は罪を犯し、神様に対して酸いぶどうを実らせるようになってしまった。(イザヤ5章)
 イエス様は、罪を犯して酸っぱくなってしまった私達の人生を、すっかり飲みつくされた。彼は酸いぶどう酒を受けられた時、「完了した(テテレスタイ)」と宣言をされた(ヨハネ19:30)。このテテレスタイというギリシア語は、あの創世記二章の宣言、すなわち、神様が全被造物を欠けのないものとして創造し、完成された時の宣言と同じであり、「完了した、」「成就した」「終わった」「(借金などを)完済した」等の意味がある。
 イエス様は、人の酸っぱくなってしまった有り様も、被造物の酸っぱくなってしまった有り様も、十字架の上で、全て受けられた。そして「完了した」と宣言し、安息された。そうして十字架の日・第六日目は、日没となり、第七日目・安息日が始まった。そして夕があり、朝があった。そして第八日目、新たな事が起きた。
 第八日目、すなわち日曜日、主日。イエス様は、復活された!以前のものは過ぎ去り、もはや、この世界の時間や空間に制約されない、全く新しいいのちとして。以降、主は、主日に現れるようになる。週の初めの日(日曜日)、主は弟子達やトマスと会い、ヨハネは主日に主から啓示を頂き(黙示録1:10)、また初代教会の聖徒達も主日に主の名の元に集い、パンを割き、御言葉を聞き、聖徒の交わりを行った(使徒20:7)。
それで私達も、主日に、主と会うために集い、礼拝し、御言葉を聞き、パンを割き、主と共に安息するのだ。
律法の決まり事や安息日は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのだ(コロサイ2:16-17)。
 
 この世界の、最初の天地創造のみわざは、既に「終わっている」(ヘブル4章)。終わってしまっているからには、人がひと度破壊してしまったこの天地万物に、新たに修正を加える事は、できない。そこで神が取られた方法は、この、修復不能の天地万物はもはや過ぎ去らせ、もはや呪われるべきものの一切ない、新天新地を創る事である。そこには、神の言葉を意図的に反する人は一人も入れない。ただイエス様を主とし、主を愛し、自由意志をもって主の血の贖いを受け入れ、神のことばを守った人だけが入れる世界である。
彼らは、信仰によってイエス様を受け入れ、自分の善悪判断のわざを終え(止め)て安息に入った人である。
 それで私たちは、この世で六日働き、七日目の主日に主を覚え、礼拝し、安息するのだが、日々、善悪判断を捨てて、自分のわざを終え、全て主に明け渡すなら、毎日が、瞬間瞬間が、主にある安息である。
 安息日の休みは、神の民のためにまだ残っている。その神の安息に入った者なら、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずである。だから私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が一人もいないようにするべきだ(ヘブル4:9-11)。
 古い肉による生き方ではなく、イエス様にある新しいいのちの、新天新地の思考パターンで生き、安息して歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

御霊に従い、解放された人生を生きよ(ガラテヤ5:16-18)

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週報/メッセージ(説教)概要

 テフィリン(御言葉暗唱)の創世記箇所が終わり、先週はその復習期間だった。御言葉は良いものであり、礼拝も賛美も祈りも、神様と共に歩む生活も、喜ばしく良いものである。しかし時に、テフィリンする事や、そうした聖なる物事が、何か重い、喜んでできない、あるいは神様がいるという実感が持てない、といったジレンマに陥るかもしれない。どうしたらいつも、御言葉が喜びとなれるか。どうしたら日々、必要の満たしや病の癒やしなど、「祝福の実体」を得る日々となり、神様と喜びの交わりの日々となるか。その秘訣を得たい。
 
 鍵は、御霊(聖霊)である。もし「あれはいい、これはダメ」というような善悪判断システムが稼働しているなら、神は見いだせず、御言葉を理解できず、命も喜びも見いだせない。パウロは常々言っていた。御霊によって歩みなさいと。もし御霊によって歩まないなら…。御言葉はその人の血肉とならず、自分生来の知性の限度内でしか御言葉を理解できず、さらに、御言葉そのものさえ、自分の善悪で判断してしまい、聖なる御言葉と一体化できない自分に落胆するのみならず、自分を縛り、他人を縛りながら生きえざるを得ない。
御霊抜きには、満たされる事も解放される事も、無いのだ。律法学者やパリサイ人が、まさにそうだった。
 ユダヤ人は確かにテフィリンしていて、世的には祝福されているかもしれない。しかし、御霊の根源であられるイエス様を信じない彼らは、結局、自前の善悪判断システムの範囲内でのみ御言葉を理解し、御霊ならぬ、肉によって律法を適用し続けているため、心底の解放も、喜びもない。肉によって律法を成就しようとする事は、無理なのだ。律法の行ないによる人々は、すべて、呪いのもとにあるからだ。(ガラテヤ3:10)
 パリサイ人で律法の教師だったニコデモは、その解決を求めてイエス様の元に来た時、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(ヨハネ3:5)。水と霊によって新しく生まれる!それが、答えである。水は死を意味するが、今までの善悪判断に生きてきた生き方、すなわち「魂」に対しては、水へ浸し込んで死に明け渡し、御霊によって生きる生き方へ生まれ変わるのだ。人、モノ、コトについて、的確に、神の判断出来るのは、御霊しかない。
 神は霊であり、神が望んでおられるのは、私たちが霊とまことによって礼拝し、霊において祈り、霊において御言葉(すなわち神)と交わりをしながら、生きる事だ。御霊によって歩む時、肉に生きていた人は、今まで味わった事の無い、完全なる解放を味わい、今までに無かった大きな喜びが沸き起こる。
 結局、全て人生をややこしくし、罪に苦しみ、汗を流して労苦している根源は、あの、エデンにおいてアダムとエバが食べてしまった、善悪を知る知識の実にある。この、善悪判断・・・。「わたしは正しい」「あの人は間違っている」「自分が欲するままにしたい」「わたしが立てた計算に従いなさい」などなど、自分が神のようになって善悪判断する道こそ、「必ず死ぬ」道であり、この「善悪判断システム」が思いっきり稼働している人生は、肉欲に暴走し、あちこちぶつかりながら、あれこれ間違えながら、全身傷だらけの人生を生きる以外に無い。全て、「キリスト抜き」に生きて、自分流の善悪判断で生きている人は、その呪いの下にある。
 彼らは、真実なる御言葉を知らず、それを聞かされても、知識で善悪判断し、それを理解せず、従えない。
 しかし、「御霊判断システム」の中で生きると、御言葉すなわちイエス様がその人の中で稼働し、その人の霊を起こし、霊が蘇生し、たましいが霊に従い、御言葉に従順できるようになって真に解放されるのだ!
 
 神の息、神の霊が入っていない人は、所詮ちりである。人の組成は、酸素、水素、炭素、窒素、カルシウムで98%を占め、まさに「ちり」に過ぎない。成分単体では数千円の価値しか無いのに、なぜ人は尊いか。
それは、神に似たものとして創造され、御口から息吹かれた神の息が入ったゆえである(創世記2:7)。もし、人に神の息が無く、神の言葉に反するなら、人はただの「歩くちり、蛇のエサ」に過ぎない。(創世記3:14)
 御霊をいただいている新約聖徒である事は、何と幸いであろうか!バプテスマのヨハネは、女が産んだ中で最も偉大であるが、御国においては、最も小さいものである、と、主は言われた。旧約の律法も、預言者も、バプテスマのヨハネまでである。私たちが、彼が示した救い主イエス様を信じて、御霊をいただいているなら、私たちはバプテスマのヨハネより偉大であり、パリサイ人や律法学者の義に勝っているのだ。
 結局、全て問題の根源は、善悪判断である。神から離れた善悪判断がどれほど大変な事か。神は「それは食べるな!取って食べる時、死ぬ、死ぬ!」と、厳重に言われた点からも分かる。心してそこから離れ、御霊によって歩む事を、日々、選択する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します! 

 

主日礼拝

神の「非常に良かった」を回復する私たちキリスト者(創世記1:31)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先週は、「霊的世界史」に残るような記念すべき週だった。2千年前の教会発足以来、初めて、色々の国のキリスト者が、一丸となって、色々の言語で、創世記の天地創造の御言葉暗唱を、完走したからだ。
 これまで、ユダヤ人は会堂においてトーラーを暗唱してきたものの、キリスト者が組織的に御言葉暗唱をした事は、ただの一度も無かった。しかし神の子となったキリスト者が、天地創造以来初めて組織的に暗唱を開始し、先週、天地創造の箇所をテフィリンし終えた。天においてどれほど喜びが沸き起こっただろう。
そのような瞬間に、リアルタイムで参加し、日本語の言語でその一端を担えた事は、なんと栄誉な事だろう。
本日、私達はこの幸いを噛み締めつつ、主の「非常に良かった」の法則に、共にあずかりたい。
 
 「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記1:31) 神様は人を、ご自身のかたちに創造し、天の下にある全てのもの、植物、全ての生き物を支配するように、と、創造された。そしてついに時至って、最後に人が創造され、その被造物の中に人が組み入れられた時、神は見て、見よ!非常に良い!素晴らしい!と感嘆し、大喜びされた。
 しかし現代、この世界を見るに、「非常に良い」とは見えない。自然界は人に脅威をもたらし、今年は特にコロナという疫病や、大雨、ばったの被害に悩まされている国々がある。これはひとえに、彼らが神の言葉をあなどり、意図してそれを破っているからだ。地は、人が神の言葉を破った故に呪われ、人を労苦させるために、わざわざ、茨やあざみを生えさせ、人は一生、額に汗し、労苦しながら糧を得なくてはならない。
 
 罪とは、神の御言葉を違反し、神が建てた創造の秩序を破壊する事である。人が御言葉に逆らったり混ぜものをする時、 神が創られたあらゆる「非常に良し」が、割られてしまい、効力を失ってしまう。人が創造秩序を割ってしまったため、自然界は「非常に良かった」から離れ、呪われてしまい、疫病や洪水などの「茨やあざみ」を産出するようになった。それで被造物は今、うめきつつ、神の子の現れを待ち望んでいる。
 呪われてしまった被造物を回復するには、どうしたらいいか? 御言葉に「逆らった」故に、秩序が割られてしまったからには、御言葉に「従順する」事によって、創造当初の「非常に良い」が、帰ってくるのである。
 『主の「おきて(トーラー)」は完全であって、魂を「生きかえらせ(シューブ)」』(詩篇19:7a) シューブとは「帰る」という意味で、トーラーは、神の言葉そのものである。完全な神の言葉、「良し」の根源そのものである御言葉は、罪によって割られてしまった、あらゆる人、もの、事から、神の「良し」を帰らせるパワーがある。
私達の中に御言葉をどんどん浸透させて行くと、創造当初の「非常に良し」がどんどん帰って来るのである。
 御言葉を暗唱して行く内に、まず魂が回復される。御言葉を1節1節繰り返して宣言し暗唱して行くごとに、罪と肉に埋もれてしまった魂は、神の息を吹き返し、耳が、脳が、心が、霊が、どんどん蘇生して行く。
 主の「おきて(トーラー)」は完全であると書いてあった。完全なる主の御言葉が、世界を創造し、そして御言葉であられるキリストによって、全宇宙も、全被造物も、全生物も、存続している。だから、テフィリンする事によって、御言葉であられるキリストが、私達の内に刻み込められ、魂の生き返り(シューブ)が行われ、罪によってぼろぼろになってしまった人生に、神の「非常に良かった」が息吹かれ、再構築されて行くのだ。
事実、テフィリンによって体の癒やしが起き、必要が満たされ、家族の救いが起きた報告がなされている。
 
 一人の罪人が悔い改めて、神に帰る時、天において大きな喜びが沸き起こり(ルカ15:7,10)、神が人を創造した当初の、「見よ!非常に良い!」という感嘆が、湧き起きる。先週、世界において同時に、多くのキリスト者が天地創造箇所を暗唱し、宣言する、という快挙を成し遂げた。天において、どれほど大きな喜びが沸き起こっただろう。天においてばかりでない。被造物の間にも、どれほど喜びが沸き起こっているだろう。
 私たちは、御言葉によって神に似せて造られ、「非常によかった」「素晴らしい」と、神様から大喜びされてしまっている一人一人である。そして、御言葉によって、地を支配する者である。
 私たちは、主が創造してくださった「非常に良い」を、的確に探り当てる「センサー」をフル活動させ、毎日の生き方の中で大いに感動し、感情表現を宣言しつつ、神と交わりをして行くべきである。
 御言葉の中で生き、さらに御言葉を人々に伝え、神の「非常に良かった」を多くの人々に、そして、全被造物へと、もたらして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

神の似姿として神と交わり、神といのちを共に生きる(創世記1:26-28)

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週報/メッセージ(説教)概要

 7月から始まった世界同時テフィリンは、2ヶ月で創世記1章を終えた。ほんの1章を暗唱しただけで、神様はこんなにも被造物を尊く創られたのかという感動と、多くの悟りを得た。テフィリンをすると神様の御思い、意思、感情を感知する感受性が格段に豊かになる。今まで御言葉を1聞いて1理解していたのが、10も20も理解できるようになる。今回も、主は私達をどんなに尊いものとして造られたかを、確認したい。
 
 遠い昔、世界の基がまだ置かれる前から、神様は私たちをキリストの内に選んでおられ、御前で聖く、傷のない者にしようと定めておられた。ただ御心のままに、私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ、天にある全ての霊的祝福をもって祝福しておられた(エペソ1:3-12)。そしてついに時が満ち、三にして一であられる神が、思いと意見を一つにして御心を実行に移された。『さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて』(創世記1:26) こうして人は造られ、男と女とに創造された。
 神は人を、ご自身のかたちとし、またご自身に似せて創造され、地の全ての生き物を支配するようにと造られた(26節)。さらに、人を祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(28節) 私達は、他のどんな被造物とも違い、神ご自身の似姿としての権威、力、尊厳を帯びた、尊い尊いご性質と、そして、神ご自身の美しい品性が、与えられた。
 そして特別な使命として、地を従え、全ての生き物を支配する任務が与えられられ、さらには、私たちを、神ご自身との愛の交わりの内に、価値観を共にし、喜びの体験を共に分かち合うものとしてくださった。
 あたかも夫婦が共に生活し、共に同じものを見、共に感動し、いのちの喜びを共に分かち合うかのように、イエス様は、私たちが創られる前から、共にいのちの喜びを分かち合う相手として、定めておられたのだ。
 
 神様は、私たちに託された地の全てのもの、全ての生き物を、神様の愛と品性と尊厳をもって、イエス様にあって見守り、支配するようにと願っておられるだけでなく、全被造物もまた、切実な思いでそれを願っている。私たちのような神の子が現れ、支配する事を。今、人は罪を犯し、神から離れてしまっている故に、被造物はうめき、産みの苦しみをしつつ滅びの束縛から解放される事を待ち望んでいる。(ローマ8:19-22)
 だから私たちは、イエス様がするように、造られしものの幸福のために、大切に支配し治めるべきである。
 
 現代、家庭内暴力(DV) が問題になっているが、暴力的な力による支配は、イエス様の愛の支配の真逆である。イエス様の愛(アガペー)は、相手を大切にする無私の愛であり、その統治は、愛の思いやりに満ちた統治である。もし今、私たちが、暴力的な支配や、わいろを取る等の不正や、神が配分されたものを、ごっそり我が物とするような支配が、はびこっているのを見るとしたなら、それはイエス様の名によって、足の下に踏みつけ、征服し、支配権を分捕り返さなくてはならない。神は次の命令をしておられるからだ。
 『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ(カーバシュ)。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ(ラーダー)。』(28節) カーバシュも、ラーダーも、それぞれ「踏む」「征服する」「支配する」の意味があるが、私たちは暴力で踏みにじるやり方ではなく、イエス様のように、死はいのちによって飲み込み、愛で覆い、愛で征服するのである。一体、そのような支配は、どうしたら出来るのだろう。
 それは御言葉を暗唱する事で、体得できるものである。なぜなら御言葉は、神の意図そのものだから。
御言葉なる神と直接交わり、その意図を知り、実感し、そうこうしている内に、神の聖なる感覚が、自動的に流れ込んで来る。創世記を共にテフィリンして来た方は、その感覚が流れ込んできた事を実感したはずだ。
 御言葉が刻み込まれていくと、創造の当初、主が人に備えてくださった統治する権威と力は、自然と身につく。その仕方も、仕草も。私たちは「統治する」というと、何か力んで意気込んでしまいがちだが、そうなる必要は、一切無い。テフィリンしていれば自然に、イエス様のように安息して、余裕で統治するのだ。
 
 創世記1章をテフィリンしたら、神様の意図をこんなにも実感できたのだから、さらに他の箇所もすれば、どれほど、増し加えられるだろう。テフィリンは、生活実践型、生活密着型の福音を、いとも単純に得られる手段である。人を創ったパワーのある御言葉が、人を造り変えるのだ。テフィリンによって、ますます神様の御思いを知り、正しい統治者となっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

主日礼拝

三位一体の神が、人を尊く創られた物語(創世記1:26)

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週報/メッセージ(説教)概要

 『神(エロヒーム)は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』(創世記1:26a) 7月から始まった世界同時テフィリンは、天地創造の佳境に入り、いよいよ、人を創って祝福する段に入った。今回、私たち人間は、どんなに神様から尊いものとして造られたか、この節から確認したい。
 
 神様はご自身を、「われわれ」と、複数形で表現された。神をあらわす語エロヒーム אֱלֹהִיםは、エロアーאֱלוֹהַּ(崇高なるお方)」の複数形で、「崇高なる方々」とも訳せる。唯一であられるはずの神は、なぜ複数形で表現されたのか…。聖書の最初、創世記1:1の原文は「べレシート・バラー・エロヒーム(はじめに、創造した、崇高なる方々が)」であるが、ここは複数形名詞・エロヒームに対し、単数形動詞のバラー(創造する)が当てられており、これは文法ミスとも思える(例えばThey is GODと書くような)尋常でない表現である。
 ユダヤ人の至宝であり、全人類の真理である聖書が、最初から文法ミスを犯しているのだろうか?いや、人がどう見ようと感じようと、ヘブライ語聖書は、一点一画で、真理そのものを正確に表現しているのだ。
 神は、本質としては一でありながら、人格(パーソン)は、三であられる。これをすなわち三位一体という。
 その三の人格(本来は「位格」)の第一は「父」、全てを企画設計するお方であり、第二は「子」、御父が企画設計した事を、実行するお方、そして第三は「聖霊」、御子が実行された事を助け、保全・保護される。
 そして父、御子、御霊が、天地創造の場面で唯一、志を一つにして言われた事は、「さあ人を造ろう」であった。それも、「われわれの形として、われわれに似せて」。神は人を、実に、特別な存在として創られた。
 
 神は、特に心して造られた人間に、どのような役割・どのような目的を与えられたか。『彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(ラーダー )するように。』(創世記1:26b)
 「ラーダー」の原意は、「踏み固める」、そこから「征服する」「支配する」の意味となる。つまり人は、本来、悪しき者や、御心にかなわない事がはびこる時、それを踏みにじり、征服し、全被造物が健全に安息を保つよう、正しく統治するための支配権が、委任されている。私たちはこの事を、しかと心に留めるべきである。
私達は、罪人の支配に押されているべきではないし、世の隅でひっそり清貧に生きている場合でもない。
世をキリストにあって正しく支配し、罪や汚れが起こった時は、しっかり足の下で踏み、征服すべきである。
 この正しい統治とは、キリストの権威の下に服してこそ、可能である。私たちは与えられている分を超えて、自分が神のようになろうとしてはならない。聖書の中で、三位一体の神が一丸して人間に反対されたケースは、善悪を知った人間が、いのちの木にまで手を伸ばす危険があった時、また、バベルの塔を築いて名をあげようとした時であった(創世記3:22, 11:7)。いずれも、罪ある人間が神のようになろうとした時である。
 神が三位一体として全力で人をバックアップする時とは、宣教のため全世界へ人を遣わされる時である(イザヤ6:8、マタイ28:19)。神はそれ程、救いの働きを尊ばれた。父・御子・御霊が、公に人前に現れたのは、イエス様が水のバプテスマを受けられた時で(マルコ3:16-17)、イエス様こそ、全人類の救いの中心、福音の働きの中心である、と、全力で強調された。父・御子・御霊は、様々な賜物や奉仕、働きの根源であり(1コリント12:4-6)、そしてバプテスマも、祝祷も、父・子・聖霊の御名による(マタイ28:19,2コリント13:13)。
 このように三位一体の神は、イエス様こそ生ける神の御子キリストであると強調され、また救いの働きを全力で助け、働き人を支え、救いのわざ、神の国の仕事に参加する事を、全面的にバックアップされる。
 
 遠い昔、天地万物は、父なる神が設計し、御子キリストにあって創られた。三にして一であられる神は、心と思いを意思を一つにし、「さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて」と言われ、人が創られる前から人を愛し、人を喜び、人のために次々とこの世を構築して行き、そしていよいよ最終段階に入った時、全てのものを治めるように、と、神に似たものとして、人を創られた。人が男と女として創られ、彼らが全被造物の中におさまった時、神は、はなはだ喜び、とても良い!と評価された。
サタンが人をそそのかし、罪と死の奴隷にしてしまった時、神は早速、救いのご計画を発動し、御子イエスキリストご自身が、自ら犠牲となって救いのわざを達成された。そして聖霊は、弱い私たちを助け、私たちが神の子として御国を受け継ぐまで、助けておられる。そんなにも人は、神から尊ばれた存在なのだ。この本質を理解し、その本質の中に生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 詩篇 講解説教

敵が聖所をほしいままに汚している有様を主に訴えよ(詩篇74篇)

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詩篇74篇表題『アサフのマスキールの歌』
 
この詩篇では、敵によって聖所が汚され、破壊され、神の民が苦しめられている事を、主に執り成し、訴えている。
バビロン捕囚の内容を彷彿させる内容であるため、いつ、誰が記した詩篇であるのか、議論はあるが、この詩篇は、礼拝生活が破壊され、神の民の敵が大手を振って歩いている状況に対する祈りとして、非常に効果的な祈りである。
私達は、この詩篇から、私達自身への直接の養いをいただき、また、今この時代を執り成し祈るのだ。
 
詩篇74:1 神よ、なぜ、われらをとこしえに捨てられるのですか。なぜ、あなたの牧の羊に怒りを燃やされるのですか。
74:2 昔あなたが手に入れられたあなたの公会、すなわち、あなたの嗣業の部族となすために/あがなわれたものを思い出してください。あなたが住まわれたシオンの山を/思い出してください。
 
「あなたの牧の羊」「昔あなたが手に入れられた」「あなたの公会」「あなたの嗣業の部族となすためにあがなわれたもの」。。。
作者は、苦しめられている民を執り成す際、「あなたの」という言葉を何度も用いて、執り成す相手が、主のものである、という事を強調している。
 
私達・人間は、あやふやな存在でしかないし、自分で自分を救う力も、権威も、分も無い。
しかし、そんな私達でも、イエス・キリストにあって、自分たちは主の民である、と宣言し、天地を創造された主を拠り所とするなら、一転して、私達はしっかりした土台がある者、救いの根拠を持っている者となる。
私達はいつでも、主と自分との関係を思い起こし、また主の前で宣言して、主に思い起こしていただき、主が具体的に、私達の生活や職場で働き、助けて下さる機会を、呼び込む事が出来る。
 
3-5節において、敵が勢いづいて、森の中で斧をふるうかのように、聖所を破壊し、さけび、聖なる所に、彼らのしるしとなるようなものを掲げて、猛威をふるっている有様が記されている。
彼らは、手おのと鎚とをもって、聖所の彫り物をことごとく打ち落し、聖所に火をかけ、御名の住まい(ミシェカーン:幕屋)を、地にまで倒し、そのようにして汚した。(6-7節)
 
74:8 彼らは心のうちに言いました、「われらはことごとくこれを滅ぼそう」と。彼らは国のうちの神の会堂をことごとく焼きました。
 
神の会堂(英:シナゴーグ)と訳された語の原語は「モエド」、すなわち、約束された時間と場所の事である。
定められた時間と場所における礼拝が、敵によって阻害され、汚されてしまっている状況である。
 
この日本においては、そのような状況が、多々あるかもしれない。
偶像礼拝する家族によって、あるいは、主日も出勤を強いる職場によって。
それを「家族が礼拝を止めるのだからしょうがない」「仕事だからしょうがない」と言って、そのまま受け入れていないだろうか。
もし礼拝が阻害されているような状況なら、アサフのように、悲しみ、主に切に訴えるべきだ。
 
74:9 われらは自分たちのしるしを見ません。預言者も今はいません。そしていつまで続くのか、われらのうちには、知る者がありません。
 
自分たちのしるし、すなわち、礼拝者として、クリスチャンとしてのしるしが、この国の中から、また、自分の家の中から取り除かれてしまっているとするなら、胸をたたいて悲しみ、悔いて、主に叫び訴えるべき状況である。
祈るべきである。
10節以降、その状況を、いつまでものさばらせておかないように、という祈りが続く。
 
74:12 神はいにしえからわたしの王であって、救を世の中に行われた。
 
彼は、神を「いにしえからわたしの王」と、宣言し、自分と、主との関係を表明した。
私達は、主との関係を、いかなるものと見ているだろう。
主は、どのようなお方で、そのお方が、今の私達と、関わりを持っておられるだろうか。
 
74:13 あなたはみ力をもって海をわかち、水の上の龍の頭を砕かれた。
74:14 あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
74:15 あなたは泉と流れとを開き、絶えず流れるもろもろの川をからされた。
 
レビヤタンは海の巨獣であり、また、神に逆らう神話的怪獣として(ヨブ3:8)、あるいは、神に裁かれるべき神に敵するアッシリヤやバビロン(イザ27:1)を象徴している箇所もある。
 
この詩篇では、御力をもって海を分け、また、もろもろの川を枯らされた内容から、ナイル川の恩恵で栄え、神の民を苦しめたエジプトおよびパロをあらわしているものと思われる。
神は大いなる救いの手をもって、エジプトから、神の民イスラエルを救い出された。
 
神の民をエジプトから救い出された神は、昼と夜の法則を定め、光と太陽を設けられ、夏と冬の時を定め、地のもろもろの境界を定められたお方。(16-17節)
その神が「わたしの神」である、と、私達の主イエス・キリストにあって宣言し、この主に、訴えるのだ。
 
74:20 あなたの契約をかえりみてください。地の暗い所は暴力のすまいで満ちています。
 
「契約をかえりみてください」、と祈る祈りは、根拠がしっかりした祈りである。
今、私達が持っている神との契約の書とは、新契約聖書および旧契約聖書、すなわち、聖書である。
私達が、聖書の御言葉を盾にして祈る時、その祈りはもはや根無し草のような祈りではなく、どっしりとした岩のような揺るぎない根拠のある祈りとなる。
 
主は、神の民と、契約を結ばれた。
その契約の言葉の中に、書かれてある。
もし、人々が、主との契約を破り、その自分自身の罪のために遠くの地へ捕らえ移され、そこで悔い改めて主に祈る時、主は答えてかえりみてくださる、と。(1列王記8:46-53)
また、イスラエルの民が神との契約が記されている書、レビ記にも書いてある。
 
レビ記26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、
26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。
26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。
26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。
26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。
26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」
 
キリスト者である私達にも、過去、自分自身の罪や咎のために、捕囚されるような状況があったかもしれない。
しかしその時、主イエス様の名を呼び求めた時、主は答えてくださったはずだ。主は生きておられるから。
 
そして今、もし主と共に歩んでいると言うなら、この詩篇において、アサフが執り成したように、私達も、この時代のために執り成し祈るべきである。
 
主は、いつの時代でも、憐れみ深い。
主に、いつでも望みをかけるべきだ。
 
哀歌3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。
3:34 地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
3:35 いと高き者の前に人の公義をまげ、
3:36 人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。
3:37 主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
3:38 災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。
3:39 生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。

主日礼拝

アブラハムの「思い切りの良さ」を身に着けよう(創世記12:1-15:1)

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週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムは、全ての信仰者の父である。彼の素晴らしさは、何と言っても、主の言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」である。普通の人が聞けば、「えっ」と思えるほど、大胆に行動してしまう。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた時などは、その翌朝、早速その場所に出かけた程だ。
今回、彼の御言葉に対する思い切りの良さと、それによって受けた祝福の法則から、恵みをいただきたい。
 
 彼は75歳の時、主から「父の家を離れよ」と言われた時、彼はつべこべ言わず、すぐ離れ(12:4)、次の節では、もう約束の地カナンに入ってしまった。実に思い切りが良いが、彼はそこから、主から許容された範囲外へと行ってしまった(9節)。そこではききんに遭い、その不足を満たすために、さらに主が示した地から遠くエジプトへと降ってしまった。そこに神を恐れる文化は無く、みんな弱肉強食の価値観で生きていた。
彼は恐れ、媚びて、悪知恵を働かせ、彼の美しい妻サラを、妹だと言う事によって良い待遇を受けられるだろうと思案し、実行した。結果、サラはパロに召し入れられ、その代わり彼は多くの家畜や資産、男女の奴隷を得た。神は彼を責めるのではなく、パロを責め、サラは返って来た。パロは彼を恐れたので、エジプトの財はそのまま持たせ、彼は、神が指定された地に戻る事が出来た。これは、神の一方的な恵みである。
 私達・神の民が栄える方法は、結局、主が行けと言われた所に行き、主が留まれと言われた場所に留まる事である。そうするなら主が雨を降らせ、百倍を実らせ、敵を恐れさせ、自動的に栄えさせてくださるのだ。
 
 13章でも、彼の思い切りの良さが発揮される。アブラムと甥のロトは互いに持ち物が増え、それぞれの羊飼いの間で争いが起きるようになった。しかし彼は気前よく、目下のロトに、先に、行きたい所を選ばせる。
 クリスチャンは何かと、和解・共存しようとしがちだが、「ソドムを良い所」と判断して行ってしまうような者と、同じ財産を共有してはならない。たとえ肉親でも、霊性が違う人、種類が違う人には、気前よく与えてでもして、離れるべきなのだ。事実、ロトと別れたとたん、主からの祝福の言葉が怒涛のように来た。この地の東西南北を永久に与える、子孫を地のちりのようにならせる、その地を縦横に歩き回りなさい、と(13:14-17)。
 
 14章では、現イラク周辺の4人の王が、現イスラエル周辺の5人の王達に戦いを挑んで勝った記事が記されているが、その時、ソドムに住んでいたロトが捕らえられてしまった。アブラムは、思い切りが良い事に、それを聞いた時、彼の家で生まれた僕たち318人を引き連れて行き、次の節では打ち破っており、さらに次の節では、もう取り返している(14:14-16)。普通、こんな破竹の勢いの強力な王達に、わずかな手勢で戦いを仕掛けるなど、無謀の極みだが、彼は、主の約束を、握りしめていたのである。主は必ず自分に子孫を下さる、自分を祝福する者を主は祝福し、呪う者を呪ってくださる、という聖なる計算をしたのだ。
 実際、主は彼を祝福し、勝利させた。彼は9人の王の上に君臨できたはずであるが、そんな事は一切興味を示さず、靴紐一本ももらわない、と言った。なんという気前の良さだろう。主が勝利を与えて下さったとはいえ、そんな財産を、彼は得てはならなかったのだ。その王達は今まで、人から分捕り、人を泣かせて所有したものである。そんなものは靴紐一本でももらったら、悪いものがつきまとってしまう。私達は確かに世において王であっても、イエス様のように、大切に、いつくしみ深く、楽しく、統治し支配するべきである。
 アブラムはむしろ、サレム(平和)の王、メルキゼデク(義の王)から、パンとぶどう酒を受け、祝福を受けた。
このメルキゼデクこそ、イエス様であり(ヘブル5-7章)、アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げた。
 
 その後、主は言われた。「わたしがあなたの盾、そしてあなたへの飛び抜けて素晴らしい報酬である」と(15:1原意)。 主の祝福とは、莫大な富や栄誉などをもらうという次元ではない。主ご自身こそ私たちの莫大な報いであり、それは、世のいかなる栄光や富にはるかに勝る報酬である。主ご自身こそ、私達キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける「相続」なのだ。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)
 アブラムの祝福の源は、主の言葉を即実行に移す「思い切りの良さ」と、主の言葉を握りしめた故の平安から来る「気前の良さ」であった。また、彼の失敗は、主の言葉の範囲を超え、世を見て、恐れ、媚びた事だった。世の富や栄光より、主イエス様ご自身を慕い求め、御言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」を身につけ、地上において栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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アブラハムの「思い切りの良さ」を身に着けよう(創世記12:1-15:1)
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週報/メッセージ(説教)概要
 メッセージ概要
 
 アブラハムは、全ての信仰者の父である。彼の素晴らしさは、何と言っても、主の言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」である。普通の人が聞けば、「えっ」と思えるほど、大胆に行動してしまう。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた時などは、その翌朝、早速その場所に出かけた程だ。
今回、彼の御言葉に対する思い切りの良さと、それによって受けた祝福の法則から、恵みをいただきたい。
 
 彼は75歳の時、主から「父の家を離れよ」と言われた時、彼はつべこべ言わず、すぐ離れ(12:4)、次の節では、もう約束の地カナンに入ってしまった。実に思い切りが良いが、彼はそこから、主から許容された範囲外へと行ってしまった(9節)。そこではききんに遭い、その不足を満たすために、さらに主が示した地から遠くエジプトへと降ってしまった。そこに神を恐れる文化は無く、みんな弱肉強食の価値観で生きていた。
彼は恐れ、媚びて、悪知恵を働かせ、彼の美しい妻サラを、妹だと言う事によって良い待遇を受けられるだろうと思案し、実行した。結果、サラはパロに召し入れられ、その代わり彼は多くの家畜や資産、男女の奴隷を得た。神は彼を責めるのではなく、パロを責め、サラは返って来た。パロは彼を恐れたので、エジプトの財はそのまま持たせ、彼は、神が指定された地に戻る事が出来た。これは、神の一方的な恵みである。
 私達・神の民が栄える方法は、結局、主が行けと言われた所に行き、主が留まれと言われた場所に留まる事である。そうするなら主が雨を降らせ、百倍を実らせ、敵を恐れさせ、自動的に栄えさせてくださるのだ。
 
 13章でも、彼の思い切りの良さが発揮される。アブラムと甥のロトは互いに持ち物が増え、それぞれの羊飼いの間で争いが起きるようになった。しかし彼は気前よく、目下のロトに、先に、行きたい所を選ばせる。
 クリスチャンは何かと、和解・共存しようとしがちだが、「ソドムを良い所」と判断して行ってしまうような者と、同じ財産を共有してはならない。たとえ肉親でも、霊性が違う人、種類が違う人には、気前よく与えてでもして、離れるべきなのだ。事実、ロトと別れたとたん、主からの祝福の言葉が怒涛のように来た。この地の東西南北を永久に与える、子孫を地のちりのようにならせる、その地を縦横に歩き回りなさい、と(13:14-17)。
 
 14章では、現イラク周辺の4人の王が、現イスラエル周辺の5人の王達に戦いを挑んで勝った記事が記されているが、その時、ソドムに住んでいたロトが捕らえられてしまった。アブラムは、思い切りが良い事に、それを聞いた時、彼の家で生まれた僕たち318人を引き連れて行き、次の節では打ち破っており、さらに次の節では、もう取り返している(14:14-16)。普通、こんな破竹の勢いの強力な王達に、わずかな手勢で戦いを仕掛けるなど、無謀の極みだが、彼は、主の約束を、握りしめていたのである。主は必ず自分に子孫を下さる、自分を祝福する者を主は祝福し、呪う者を呪ってくださる、という聖なる計算をしたのだ。
 実際、主は彼を祝福し、勝利させた。彼は9人の王の上に君臨できたはずであるが、そんな事は一切興味を示さず、靴紐一本ももらわない、と言った。なんという気前の良さだろう。主が勝利を与えて下さったとはいえ、そんな財産を、彼は得てはならなかったのだ。その王達は今まで、人から分捕り、人を泣かせて所有したものである。そんなものは靴紐一本でももらったら、悪いものがつきまとってしまう。私達は確かに世において王であっても、イエス様のように、大切に、いつくしみ深く、楽しく、統治し支配するべきである。
 アブラムはむしろ、サレム(平和)の王、メルキゼデク(義の王)から、パンとぶどう酒を受け、祝福を受けた。
このメルキゼデクこそ、イエス様であり(ヘブル5-7章)、アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げた。
 
 その後、主は言われた。「わたしがあなたの盾、そしてあなたへの飛び抜けて素晴らしい報酬である」と(15:1原意)。 主の祝福とは、莫大な富や栄誉などをもらうという次元ではない。主ご自身こそ私たちの莫大な報いであり、それは、世のいかなる栄光や富にはるかに勝る報酬である。主ご自身こそ、私達キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける「相続」なのだ。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)
 アブラムの祝福の源は、主の言葉を即実行に移す「思い切りの良さ」と、主の言葉を握りしめた故の平安から来る「気前の良さ」であった。また、彼の失敗は、主の言葉の範囲を超え、世を見て、恐れ、媚びた事だった。世の富や栄光より、主イエス様ご自身を慕い求め、御言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」を身につけ、地上において栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

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