メッセージ - 最新エントリー

横浜天声キリスト教会 色々な状況での祈り文 PDF

 

目次

1,親が子どものために祈る祈り 

2,子どもが親のために祈る祈り 

3,夫が妻のために捧げる祈り 

4,妻が夫のために捧げる祈り 

5,将来の結婚相手のための祈り 

6,手に負えない問題にぶつかった時の祈り 

7,心が不安な時に祈る祈り 

9,病気の人の癒やしを願う祈り 

10,人との不和を解決するための祈り 

11,悪霊の攻撃から自由になるための祈り 

12,全ての呪いから解放されるための祈り 

13,新しい家、職場、場所の清めと祝福のための祈り 

14,事業や仕事の祝福のための祈り 

15,自分にあった天職(就職先)を求める祈り 


 

1,親が子どものために祈る祈り

愛と恵みに満ちた神様

今日もあなたに祈ることができる恵みを感謝します。

私の大切な子供のことを覚えて祈ります。

お腹の中にいる時から、そして今に至るまで、ずっと優しく見守り、

育んでくださったことを心から感謝します。

私達のすべてを知ってくださっている神様

今、私の子は、物質的な価値観がものを言う時代に生きています。

心の平和や安らぎを見つけることが難しいこの時代に、

どうか、時代に揺るがされずに生きる力を与えてください。

心と思いをまっすぐに導き、

正しいことを見極める知恵と力を与えてください。

そして、どんな時でも心に平和を持ち、光の道を歩むことができますように、

どうぞ、守り導いてください。


私の子を、この祈りで抱きしめて、

イエス様のお名前によってお祈りします。

アーメン

 

2,子どもが親のために祈る祈り

私たちの家族を愛し、今まで守ってくださった父なる神様。

私たちの家族のすべての営みの中で、

喜ぶ時も悲しむ時も、あなたはいつもともにおられ、

嬉しい時は共に喜び、

悲しい時は私たちを慰めてくださったことを感謝いたします。


 

今、父母のために祈ります。

私を産んではぐくみ育ててくださった私の両親を、

どうか祝福してください。


私のために人知れず流した涙の日々や悩みの日々に

報いることできる子供とならせて下さい。


いつも良いものを私に与えるために、

自分を削って犠牲を惜しまず払ってくださった私の父母です

どうぞ神様、祝福してください。


二人がいつまでも元気でありますように。

また、私が親の恩に報いることができる子供になれますように、

私を成長させてください。

今まで親からしていただいた事の、何分の一でもお返しができますように、

親の恩を忘れない私でいさせてください。

 

父母が願っている通り、心身ともに健やかで、

社会生活も立派に成し遂げる力を与えてください。

私は親を安心させる子供になりたいです。

それこそ、親の喜びだからです。

私をこの父母の元に、

子供として導いてくださったイエス様のお名前によって祈ります。

アーメン

 

3,夫が妻のために捧げる祈り

私たちの人生の要である、愛に満ちた父なる神様。

私にかけがえのない妻を与えてくださったことを感謝します。


彼女が私の伴侶として、共に歩む存在として、

あなたの愛の中で私を支え、

私たちを夫婦として結び合わせてくださった恵みに感謝します。


今、愛する妻のために祈ります。

どうか彼女を祝福し、守り、力づけてください。

日々の生活の中で、彼女が抱える疲れや重荷をあなたが取り除き、

心と体に平安と癒しを与えてください。

彼女の歩む道が、あなたの導きと守りの中で祝福され、

希望に満ちたものでありますように。


神様、私に、彼女をより深く理解する愛と知恵を与えてください。

彼女の喜びや悲しみ、願いを敏感に感じ取り、

必要な言葉や行動で彼女を支えることができますように、助けてください。

私が彼女にとって安心できる存在であり、

愛と信頼を与える夫でありますように、私を導いてください。


この家庭を、神様を中心にいつも営んで行くことができますように、

私たちを祝福してください。

毎日、神様にあって結ばれた夫婦として、彼女を愛し、大切にして、

一つの心で歩ませてください。


彼女は私を愛し、信じて、妻となって下さいました。

どうか、彼女が安心して生活できる環境を備えてください。

そして私が、いつまでも、彼女の誇らしい夫として歩む事ができますように、私を満たしてください。

私達の一生が、イエス様にあって満ち足りた一生でありますように。

私達を結ばせてくださった主、イエス様のお名前によって祈ります。


アーメン

 

4,妻が夫のために捧げる祈り

私を造り、人と人とを出会わせ、

この結婚へと導いてくださった全能の神様。
私を夫の妻とし、また、私たちを1つに結びつけ、

共に歩む恵みを与えてくださったことを感謝します。

 

あなたが私たちに、結婚という尊い志を与え、

家庭を授けてくださったことを覚えます。
これまでの一日一日を守り、導いてくださったことを感謝し、

これからも私たちをあなたの愛の中で歩ませてください。


神様。どうか夫を覚え、守り、導いてください。
日々の生活や仕事の中で受けた心の傷や重荷を取り除き、

あなたの力で癒してください。
毎日があなたの恵みで満たされ、夫の心と体が回復されますように。


どんな困難な状況でも心が折れることなく、

前に進む力と知恵を与えてください。
夫が私の伴侶として、そして子供たちの父として、健康で強く、

平安の中で歩むことができますように、祝福してください。


そして私自身も、夫を支える賢い妻となることができるように

助けてください。
夫の、言葉にできない心の内側によく気づ

必要な慰めと励ましを与えられる、良き妻として導いてください。
私の心と言葉が美しく、夫に平和と喜びをもたらす力となりますように、

愛と知恵を注いでください。

 

夫に必要な良い出会いや、必要な助け、そして祝福を、

あなたの最善の時に備えてください。
 

私たち夫婦が、一つの心となり、あなたの愛と平和の中で共に歩み、

家庭を築いて行くことができますように導いてください。
 

どんな試練があっても、あなたの愛に支えられながら、互いを理解し合い、助け合いながら成長していくことができますように。

 

私たちをあなたの愛で結び合わせてくださったことを、心から感謝し、

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン

 

5,将来の結婚相手のための祈り

全ての人の心をご存知であられる神様。
あなたが私の人生を導き、最善の時に、最善の出会いを備えてくださる事を信じ、感謝します。
 

今、私は、将来の結婚相手のために祈ります。
神様、あなたは御心の中で、私の人生の伴侶を備えておられることを
信じております。
どうか、私の伴侶となるその方が、あなたの愛の中で守られ、
あなたの導きの中で過ごされますように。
その方があなたをよく知り、あなたに信頼し、あなたの光の中で歩むことができますように。

私自身も、相手にとって良き伴侶として相応しい者となり、
御前で清く、傷なく成長させてください。

自己中心的な考えを取り除き、愛と思いやりをもってその人を愛し、

その人を支え、共に幸せな家庭を建てあげて行く事ができますように、

お守りください。

その時が来るまで、思いも心も美しく成長させて下さい。

そして、やがてお互いが出会う時、聖書に書いてあるとおり、
この人こそ「わたしの肉の中の肉、骨の中の骨」と
明確に分かるように、あなたの確信としるしを示してください。


その時が来るまで、伴侶ではない異性の誘惑からお互いをお守りください。

 

また、あなたが祝福し与えてくださる将来の子どもたちのためにも祈ります。

まず私達が、その子どもたちを、

あなたの教えと愛をもって育てる事ができる親とならせてください。

その子どもたちがあなたを知り、あなたの愛と守りの中で、健やかに、賢く、聡明に成長できますように。
そして私達の家庭が、愛と平和に満ち、

子どもたちが安心してのびのびと成長できる家庭となりますように。
 

その子どもたちが、あなたのご計画と目的の中で成長し、世の政治、経済、文化、教育のあらゆる分野においてリーダーシップを取って、
神の国と支配をこの世にもたらす、栄光の次世代となりますように、
導いてください。

子ども達が、あらゆる誘惑や悪から守られ、どのような困難にも打ち勝ち、

世の光となる事ができますように、祝福してください。
 

人を男と女とに創造し、
「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を従えよ」と祝福された、
私達の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン

 

6,手に負えない問題にぶつかった時の祈り

わたしのすべての状況をご存知であられる神様。

私は今、自分の力では解決できない問題に直面しております。

これまで、ありったけの力を尽くし、周りの人々にも頼りましたが、

問題は解決しませんでした。

 

あなたは「あなたの思い煩いをすべて神に委ねなさい。

神があなたのことを心配してくださる」と、聖書で約束してくださいました。

その御言葉を信じて、どうにもならないこの問題を背負って

今、あなたの元に来ました。

 

神様、あなたは私の状況を、すべてを知っておられます。

私が直面しているこの問題の原因も、解決の道も、
すべてご存じであると信じます。

どうか私の目を開き、

あなたが備えてくださる解決の道を見つけさせてください。

この問題が私を押しつぶそうとしている時、

どうかあなたの平安で私の心を満たしてください。

不安に囚われることなく、あなたと共に取り組む中で、

私の心を静めてください。

 

あなたは、私を助ける神、全能なるお方です。

私には無いあらゆる力が、あなたにはあります。

あなたの全能なる御力をもって、わたしを助けてください。

 

私はこの問題を、あなたにすべてお委ねしました。

この問題に関わっている人、物、事を動かし、

あなたが確かに生きて働かれる主であられる事を示してください。

 

そして、あなたが確かにこの問題を解決して下さった主である、と、

私達の周りの全てが知り、あなたに栄光と賛美が捧げられますように。

 

全ての問題から救ってくださる主、

イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

アーメン

7,心が不安な時に祈る祈り

 

神様、今、私は目の前が真っ暗で、心は震えています。

今、私はひとりぼっちで、私の周りには誰もいません。

神様、私のため息を、祈りとして受け取ってください。

小さなうめきも失われることなく、私の隅々を知っておられる神様。

私に答えてください。

私は不安で、身も心も、安息の場がありません。


 

人々の「大丈夫だよ」と言う言葉は、数え切れないほどいて来ました。

しかし彼らは言葉だけを残して、結局去って行きました。

ひとりぼっちになった私には、虚しさと失望だけが残っております。

人にはそれぞれの生活があって、私に時間を割く余裕がないことは、
理解しています。

だからこそ今、私は、いつも私のそばにいて心を包み込んでくださる神様、あなたが必要です。


 

あなたは、私を決して見放さず、どんな時でも共にいてくださるお方です。

どうか、私の心にあなたの平安を満たしてください。

あなたの御腕の中で私を抱きしめ、恐れや不安から私を癒し、
健やかにしてください。
あなたは将来に希望を与え、歩むべき道を明るく示してくださる方です。

どうか、その希望に目を向ける力を私に与えてください。

私は、あなたが「主の名を呼ぶ者は救われる」と約束してくださったことを心に刻みます。

その約束を信じて、イエス様を呼び求める信仰を与えてください。

 

あなたが私の保護者であり、避け所であることを信じます。
どうか、私の心の重荷を取り去り、不安と恐れから私を解放してください。


 

あなたが私の保護者となって下さる事を切に願いつつ、

私の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。


 

アーメン

9,病気の人の癒やしを願う祈り


 

癒し主である神様、 今、あなたの癒しの御手に頼ります。

イエス様が私たちの肉体の弱さを受け取り、病を背負ってくださる、と約束して下さったことを信じます。


 

今、私は、病で苦しんでいる〇〇さんの頭から足の先まで

イエス様の流された尊い血潮を注いで包み込み、祈ります。

どうか、命のシェルターの中に〇〇さんを守り入れて、
〇〇さんを苦しめてきたすべての病気から解放してください。

イエス様の癒しの御手を〇〇さんに置き、〇〇さんを蝕んできた病の
原因がすべて完全に取り除かれますように。

全能なるイエス様のその偉大な力で、〇〇さんから病を追い出し、
健やかにしてくださいますように

傷ついた全ての所、痛みのある所も、隅々にまで、あなたの命の御手を伸ばして病を追い払い、あなたの命で満たしてください。


 

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに、打ち勝たなかった」

と言われた主よ。

病という闇を、あなたの栄光の光で照らし、すっかり消し去ってください。


 

癒し主であられる神様

あなたの力は十分であり、私はその御力を信じています。

信じる者に与えられる癒しのしるしが、今、〇〇さんに現され、

あなたが〇〇さんの癒し主であられることを示し、

〇〇さんが、霊肉ともに救われますように。


 

全ての人の癒し主であられる主、

イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

アーメン

 

10,人との不和を解決するための祈り

愛と平和の神様。

私は人との関係でつまずき、トラブルを起こしてしまうことが多くあります。

自分の言葉や行動をどう直せばいいのか、わからずにいます。

どうか私を助け、導いてください。

今までのわたしの言葉の過ちを赦してください。

そして、私の中の不安や恐れによって人を避けてしまう傷を、
癒してください。

神様、あなたの御前で、私は自分自身を振り返ります。

私は知らず知らずのうちに、無配慮な言葉や態度で
人を傷つけてしまうことがあります。

その結果、人とトラブルを起こし、自分の居場所を失ってしまうことが、
今までありました。

どうか、私の心と言葉を清め、配慮と思いやりを持った人へと
造り変えてください。

この口から悪い言葉が一切、出る事なく、
ただ、聞く人を安心させられるような、配慮豊かな口とならせてください。

また、自分の事ばかりでなく、他の人の事も心に留められますように。

相手の気持ちを理解し、愛をもって接することができますように、
私に思慮深さと慎み深さを教えてください。

私の言葉や態度が、人を励まし癒すような、
平和をもたらす者とならせて下さい。

人と人との関係の中で、あなたの平和、あなたの愛を豊かにあらわし、
あなたの品性豊かににじみ出すとならせて下さい

また、私自身もその平和を豊かに受け取ることができますように。

 

あなたの愛と平安によって私を満たし、私を変えてくださることを信じ
救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

アーメン

 

11,悪霊の攻撃から自由になるための祈り

天と地において誰も逆らう事のできない、救い主イエス様。

今、私は見えない悪魔サタンの攻撃にさらされています。

現実ではないものが見えたり、ささやく声が聞こえたり、金縛りにあったり、
怖い夢や幻を見たりと、様々な現象に悩まされております。

 

イエス様は、悪霊に悩まされて苦しんでいる人々を解放し
自由にされた事を、聖書で知りました。

私にも、今、あなたが必要です。

どうかあなたの御力によって、私を救ってください。

 

イエス様、あなたは罪に染まった世界を救うために、
この地上来て下さった救い主です。

今、闇の力に縛られて、平穏な日々を失っているわたしを助けてください。


「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」
という聖書の言葉は、真実です。

あなたは光であり、全ての闇を退けるお方です。

今、私を支配し、攻撃している闇の力を、私から追い出し、
私を自由にしてください。

全ての悪に打ち勝った十字架の力で、わたしを助けてください。

 

私の周囲にあなたの守りを置き、
家族や大切な人々にも、あなたの守りと平安を注いでください。

あなたの平安が私の心を満たし、
怖い時には、イエス様を呼ぶ力をください。

あなたが私の保護者となって、全ての悪から私をお守りください。

 

もはや闇が私に近づく事がないように、
あなたの光で私を包み込んでください。

 

全ての悪に打ち勝った私の保護者であられる、
イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン

12,全ての呪いから解放されるための祈り

愛に富んでおられる父なる神様あなたの愛にすがります。

罪の代価は死である、と聖書には書いてあります。

毎日毎日犯した罪を悲しむ心、罪を悔いる心と、新たに決心して、罪から離れる力を、きよい御霊によって豊かに与えて下さい。


私へと通じていた全ての罪の道を、閉じてください。

罪が道しるべとなって、あらゆる困難やひっ迫、つまずき、倒れ、喪失感、
数え切れないほどの失敗が、わたしの人生につきまとっています。

それらの罪のゆえに、今、生きながらにして死を味わっていることが、
聖書の教えでわかりました。

 

私が関わってきた全ての罪を「無かった事」には、今更できません。

その時に戻ってやり直す事も、今の呪いから逃げるために
別の世界に移り住む事も、できません。

今はただ、あの時やらなければ良かった、という悔いばかりが
残っています。

 

神の子なるイエス様
あなたは、このような私達・全ての人間を憐れんで下さり、
罪の問題を解決してくださるために、天から降りて来てくださいました。

わたしはあなたに信頼し、逃げ道の無い呪いから救われるために、
あなたに身をせます。

今、あなたの赦しとあわれみが、私にも必要です。

わたしを責めて懲らしめている全ての呪いから、わたしを解放してください。

あなたは十字架の上で、「父よ。彼らをお赦してください。
彼らは自分で何をしているのか、自分で分からないのです」と執り成し、
ご自分のいのちを、罪を悔いる者を救うために差し出して下さいました。

この偉大な十字架を覚えて、
罪赦されて自由な者として生きる事ができますように。

どうか今、私を赦して下さい。

罪が赦され、全ての呪いの束縛から解放されて、
縄目が一切無い自由な身となりますように。

私をお救いください。

全ての罪の縄目を打ち砕き、自由にして下さる救い主、
イエスキリストの御名によって祈ります。


 

アーメン

13,新しい家、職場、場所の清めと祝福のための祈り


 

愛と恵みに満ちた神様。

あなたが私たちの歩む道をひらいて、必要なこの場所へと導いて下さった
ことを感謝します。

今、この新しい家(職場・場所)へと導いてくださったことを覚え、
あなたに祈ります。

どうか、この新しい場所で、あなたが与えて下さる恵みと祝福とを
与えてください。

この場所に汚れたものが一切入ってくることの無いように、
あなたの囲いで守り、あなたの平和と幸いで満ちる場所にしてください。

ここにいる皆が安心して、喜びをもって日々を送ることができますように。

また、この場所において、あなたの御心が成りますように
どうか祝福してください。

あなたの御目がいつもこの場所にとどまり、
私達の出ると入るとを、守って下さい。

ここで出会うべき人々と出会わせ、また、あなたの導きによって築かれる関係が、信頼と友情にあふれる関係でありますように。

 

あなたは、「主により頼む者は、失望させられる事がない」と
約束しておられます。

この約束を信じます。


私たちの始まりと終わりを知っておられるあなたに信頼し、
すべての必要を満たして下さる主、
イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン

 

14,事業や仕事の祝福のための祈り

全ての人の手にわざを与え、また知恵を与えてくださる神様。

あなたの御心が天において成るのと同じように、
私のこの事業(仕事)の上にも成りますように。

この事業や仕事が、あなたの栄光を現すものでありますように。

どうか私に、あなたの知恵を与え、御心にかなった適切な判断と運営を

行う力を与えてください。

私がいつも正直で、誠実に働き、周囲の人々や社会に良い影響を与える事ができますように、力をください。

あなたの御言葉に、

「主に信頼し、主の道を歩む者には成功が伴う」とあります。

どのような状況にあっても、よこしまな心にはならず、正しく運営する力を与えてください。

困難や障害があった時こそ、勤勉で怠らない私でありますように。

この事業や仕事が、ただ利益を求めるだけのものではなく、

人や社会に大いに貢献するものとなりますように、導いてください。

取引先やお客様、同僚やスタッフとの関係において、あなたの平和と喜びが、満ち満ちますように。

争いや不信から私達を守り、互いの間に良い信頼関係、また、尊敬し合う関係を築く事ができますように、助けてください。

すべての必要を満たし、必要な資源、時間、人材を備え、

適切なタイミングで与えてくださる主、
イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン

 

15,自分にあった天職(就職先)を求める祈り

この私をつくり、私に才能や能力を備えて下さった神様。

あなたが私の人生を導いて、最善の道を備えておられることを感謝します。

私は今、自分にぴったり仕事を求めて祈っております。

どうか、私にふさわしい天職を見つけることができますように、
助けてください。

神様、あなたは私を特別に造り、才能や能力を備えてくださいました。

どうか、与えられた才能を十分に発揮する事ができ、
たとえ長い時間仕事をしても、それは楽しく感じるような
そして、人や社会にとって有益な仕事へと導いてください。

もし私が今、何かを見落としているなら、今、その目を開いてください。

どの道に進むべきか、あなたの御声を聞き取れるように、
私の耳を清めてください。

あなたが私に与えて下さった才能に気づき、また磨く事ができますように、 「これが道だ。これに進め」という御声を聞かせてください。

あなたが導いてくださっている、と確信し、その道に進む事が
できますように、あなたの御声を聞かせてください。

母の胎内にいる時から私を見ておられ、

私の人生の全てにご計画を立てて下さったあなたにすべてをお委ねし、私を活かしてくださる主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン

主日礼拝

熱いスピリットを起こす秘訣(マタイ5:3-6)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 この度、韓国各所に起こされているIMのセンターを視察するため、韓国をほぼ一周して来た。行った先々で、共通して言われた事は、このIMのシステムおかげで、次世代だけでなく大人もどんどん変えられ、その変えられた彼らの様に驚いた人々が次々と加わり、さらに増え、さらに変えられている。今は今までで一番幸せな働きをしている。日本のために喜んで助けに行くのでぜひ、うちのセンターに頼んで下さい、と。
実際、それぞれのセンターの子どもたちは共通して、素晴らしく秩序があり、礼拝においても賛美においても、ワーシップダンスにしても、伝道にしても、一切の迷いなく、はつらつと行うので、閉塞的だった子供も大人も、ともにイエス様を祝う喜びの渦へと巻き込んで行った。子供たちの学びの場や生活の場も見させて頂いたが、びっくりしたのは、彼らの時間管理と、空間管理の、規律正しさである。とにかく無駄が無い。
そして彼らは、御言葉を暗唱してからでないと、夕食にあずかれない。若い時からそのような習慣が身についているからには、今回、第一期生がアメリカの一流の大学に次々と合格したのも、うなずける。
 
 私達はリバイバルをこの地にもたらすために、強いモチベーション(動機づけ、やる気)が必要である。
ネヘミヤは、エルサレムが廃墟である事に対する深いうめきがモチベーションとなって彼を動かし、わずか52日で城壁を完成させた。ダビデも、神の陣営が40日もなぶられていた事に対する強い憤りに突き動かされて、巨人をたった一つの石で打ち倒した。パウロは福音を伝える事について、返さなければならない負債(ローマ1:14)、どうしてもしなければならない事、もししなかったら災いだ(1コリント9:16)、とまで言った。
 この地にリバイバルをもたらしたい、次世代を起こしたい、といった「モチベーション」が無いとするならそれが私達にとって一番の深刻な問題である。それはつまり、熱いスピリットが無い事を意味しているからだ。
 どうしたら、それを奮い立たせる事ができるだろう。それは自分で奮い立たせられるものではないし、叱られたり、急かされたりして沸き起こるものでもない。これを湧き起こす鍵は、イエス様の山上の垂訓にある。
 
 『心の貧しい人達は、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:3) 「心の貧しい人」とは、原文的には、「霊で自分の貧困を意識する者たち」「自らの霊性で、自分が神の前に無一物、乞食同然であることを知る人々」である。また、「天国」と訳された語は、原文的には「天が支配する領域」である。
 つまり幸いな人とは、自分は霊において自分は何もない、無一文な者だ、自分は乞食のようで、もし恵みを受けられないのなら、生きられない!と自覚する人々の事である。そのように自覚している人こそ天からの援助を受けられ、天の支配が、自分自身へと導入される特権が与えられる、という事を意味しているのだ。
 自分は富んでいる、教えらなくてはならない事など無い、諭されなくてはならない事も一切無い、と思っている人こそ、じつは霊的に麻痺状態で、みじめで、何も持っていないのだ。自分は霊において貧しい者である、次世代が面している危機をうめく心が無い、リバイバルを求める心において自分は貧しい、自分は愛において、親切において、人を顧みる心において心無しで貧しい、自分にはビジョンが無い、主の働きのために必要なものがない…そういった「貧しさ」を涙を流して悲しむ所から「偉大な働き人」への道が始まる。
 
 『悲しんでいる人達は、さいわいである、彼らは慰められるであろう。』(4節) ここの「慰められる」とは「パラカレオー」の受動態で、励まされる、元気づけられる、熱心に説かれる、勧告される、訓戒される、等の意味もある。だから、自分は霊において貧しい!と悲しむ人こそ、それが与えられ、慰められ、励まされ、あるいは慰め主である聖霊(パラクレートス)から、熱心に説かれ、あるいは勧告され、また訓戒される。
 そして、「柔和である事」(5節)こそ、重要である。もし私達が、リバイバル化された日本を、相続したいのなら、柔和さを身につけるべきだ。柔和でない人には、「神の国」化された日本を、相続させてもらえない。
 そして「義」に飢え渇く心も、重要である。自分の中を見、また世の中を見るに、義が無い状況について主に「飢えています!」「渇いています!」と訴える人にこそ、充分に満足する程、与えられるのだ。
 次世代を起こす働きも、この国にリバイバルをもたらす働きも、強いモチベーションが無いなら不可能だ。
それを自身にもたらすには、まず自分が霊において貧しい者である事を自覚し、悲しみ、主の前で涙し、うめき、求めるのである。そうするならパウロのような、ダビデのような、ネヘミヤのような熱いスピリットが与えられ、この時代に立ちはだかる巨人を倒し、霊的な城壁を回復させ、福音のためならいのちをも惜しまない栄光の建て上げ屋になって行く。熱いスピリットをもってこの時代を建て直して行く私達でありますように!
 

 

 

 

主日礼拝

主に向くなら(イザヤ43:18-20)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 1月のカレンダー聖句は、『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』である。今年は「メタモルフォー」、すなわち反転、逆転、変貌、反撃、ひっくり返しの年として、新年が始まったのだが、今月の聖句も同様に、「荒野に道」「荒れ地に川」という反転・逆転が示されていた。全ての事は二人または三人の証言によって確定する、と書いてあるからには、主は今年、全く新しい、良き方向へ導いて下さるだろう。
 
 主のメタモルフォーに与れるかどうかの鍵は「主に向く事」であると、第2コリント3:16-18から学んだ。
そこは原文的には、「人が主に振り向く時はいつも、その覆いは取り除かれている」、つまり、主に向き続けている状態なら、いつでも、栄光を遮断する覆いは取り除かれた状態で、逆に、主に向いていない状態なら、いつでも覆いに覆われてしまった状態、という事である。もし主の栄光が見えない、という事なら、主ではないもの(自分、現実、心配事など)に、目が向き続けている、という事だ。しかし主に向くなら…、覆われていた覆いは取り除かれ、主の栄光があらわになり、その栄光の輝きを通して、物事が起きるようになる。
  だから私達は、主のなさろうとする御旨に乗っかって行くべきである。主の御旨をさておきして、自分が思った通りにして欲しい、願い事を叶えて欲しい、と主に突きつけ、拝み倒す「異邦人の祈り」は、実は、主の栄光を邪魔する「覆い」で、自分自身を覆ってしまう事なのだ。もし私達が、物事に自分の手練手管を混ぜ込むなら、それは、その物事に「罪」を交ぜる事になる。 モーセは若い時、たった一人のユダヤ人を自分の方法で助けようとした結果、殺人者となり、ヒーローになるどころか、追われ逃げ隠れる犯罪人となった。
彼は結局、たった一人のユダヤ人さえ助けられず、大いに非難を浴びてしまった。 主が願われる道ではなく、自分の「はかりごと」によって物事を通して行こうとするなら、それ相応して「額に汗」しなければならず、生えてくる茨やあざみへの対応に追われ、ついには「ちり」にかえらなくてはならない(創世記3:17-19)。
 しかしもし、「主に向き続けている状態」であるなら、御霊が与えられる。そして御霊と真理がある所には、自由がある。閉塞感や束縛感にあふれている人こそ、真理なる主に目を向けて、御霊を求めるべきだ。
その人は、覆いが取り除けられた顔で、鏡に映し出されるかのように、主の栄光を見続ける。そうしてその人は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ続けて行く(メタモルフォーの現在形受動態)。
 
 だから主は言われる。先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな、と。そういった、以前のものや、現状のもの、将来のもの、自分のもの、他人のものにではなく、「主に向くなら」、主は新しい事をされ、反転をなさる。道の無い荒野に、道をもうけ、渇き切った荒野に川を設ける。野の獣も、ジャッカルも、だちょうも、主をあがめる、と書いてある。いかにジャッカルのような荒々しく、人を喰いものにするような者も、主をあがめるようになる。だちょうは、自分が産んだ卵を砂の中に埋めて、砂に温めさせる。自分ではどこに産んだのかすら忘れ、自分の足で卵を踏み潰しても何とも思わない。 また、猛獣が目の前に現れると、砂の中に自分の頭を埋める。そうするとダチョウ的には、猛獣が見えなくなるので、猛獣から逃げおおせた、と思い込んでいるのだが、単に猛獣の前に無防備に大きな図体を晒し続けて、じっとしているだけなのだ。
そのように知恵がなく愚かであっても、また、愛情のかけらが無い者でも、主に向くなら反転させて下さる。
ダチョウのような愛情が無い、愚かで、浅はかな自分に、嫌気がさしているだろうか。ジャッカルのような自分に嫌気がさしているだろうか。道が見えないだろうか。渇いているだろうか…。私達が主に向くなら、主がそれを反転させ、逆転させ、メタモルフォーの造り変えをして下さり、道を設け、川を流して潤して下さる。
 
 主はいつも、何もできない人、絶望している人を逆転・反転させて用いられる。イエス様の弟子達は、大した地位があったわけでもないし、知恵があったわけでもなかったが、神は知恵ある者をはずかしめるために、あえてこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた。それは、神の御前でだれをも誇らせないため、ただ主だけを誇るようになるためである(1コリント1:27-30)。
 主は私達を、イエス様の働きへと招いておられる。イエス様が建て上げて行かれる、神の国の栄光の働きに加わるように、と。その働きの向こうには、ただ栄光しかない。イエス様に不可能な事は無く、倒せない敵は存在しない。主に向いて、今までのあらゆる古い覆いを取り除いていただき、人生が良い方向へと反転して行く経験をするこの年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

 

主日礼拝

メタモルフォーの年(2コリント3:16-18)

ニューイヤーズ・イブ礼拝 〜 カウントダウン 〜 新年礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 22年暮れから示され続けている一連の言葉群がある。反転、逆転、変貌、反撃、覆し、ひっくり返し・・・。
古い上着を脱ぎ捨て、全く新しいものを着る。防戦から攻勢に転じる。世の医者が12年治せなかった病が完治する。38年も寂しく病の床にあった人が一瞬で癒やされ、床を担いで歩き出す。生まれつき足が萎えていた40歳の人が一瞬で癒やされ、跳んだりはねたりしながら、憧れていた神殿に入って礼拝する。これらは、私達の主イエス様が実際に為された事で、私達に対して為される事である。主こそ、逆転の主である。
死をいのちに、呪いを祝福に、弱い者を強いものに、貧しい者を富む者に「逆転」させられる。これらを一言で表すギリシア語が「メタモルフォー」である。メタモルフォーを多く体験するこの新年でありますように!
 
 そのためには、主には、全てがおできになると信じ、今までの人生で培ってきた思い込みや固定概念というバリヤを破る必要がある。その向こうには、限りない自由、開放、無限の可能性が、天のように開けた世界がある。『しかし主に向く時には、その覆いは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。私達は皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に「変えられていく(メタモルフォー)」。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)
 メタモルフォーとは、変貌山において、主の姿や形が全く変わった、あの「変貌」である。その時、主の顔は太陽のように輝き、御衣は、世のさらし屋では到底できないほど白く輝いた(マルコ9:3)。主の霊に浸しこまれるなら、日々メタモルフォーして行く。世のさらし屋で消せない汚れはきれいに消えて白く輝き、世の医者では治せない病も癒やされ、臆病だった心は勇士の心にされる。だから主の霊を求めるべきである!
 新幹線と衝突すると体がばらばらになってしまうように、主の霊が圧倒的に臨むなら、自分の意固地な感情、悲しさ、卑屈さ、恐れ、不安、絶望といった、主のものでない感覚は、ちりぢりばらばらにされる。そして、主の「わたしの子よ!」という愛に溢れた意図に圧倒され、細胞の隅々にまで浸透し、神の子にされたという確信によってどんな状況でも揺るぎない平安、喜びが来、そしてどんな事でも主にあって熱心になれる。
 神様の方法は、いつもそうだ。神様が神の国を立てあげる時、力が無い小さい者を、力ある者に反転させ、何もできない人、絶望している人を、主の力で充満した者に逆転させて用いて下さり、私達を通して、イエス様のビジョン行わせて下さる。イエス様は、私達が考え出すビジョンに力添えするお方ではない。私達をイエス様のビジョンの中へと入れ、揺るぎない神の子に引き上げて行って下さる。イエス様に招かれ、イエス様に建て上げられて行くからには、立ちはだかるものがゴリヤテであろうと、どんな病や貧困、また不可能に思える事であろうと、全き平安の内に導かれていく。イエス様が平安の息を吹きかけられたからだ。
 
 しかし、せっかく油注ぎを受けても、取り上げられてしまう人もいる。サウルがそうだった。サウルから神の霊が離れると、彼は凡人になってしまい、自分の王座を固持するあまり、あれこれもがいて悪を重ね、恐れ悩んだ挙げ句、死んでしまった。もし神の霊が無いなら、凡人となって、悩みに悩んで命を終えるしか無い。
神の霊とは接点なしに人生を終える人とは、自分の思いを世に嵌めたまま、思いを刷新しない人である。
 『この世の鋳型にはめ込まれてはいけません。かえって、あなたがたは、何が神の御心か、すなわち、何が良いことで神に喜ばれ完全かを識別するために、自分の「思い(ヌース)」の刷新によって、「変えられ続けていきなさい(メタモルフォーの現在受動態命令形)」。』(ローマ12:2 ギリシャ語新約聖書インタリニア)
 私達は、スマホなどを経由して入ってくる、世の側が提供してくる情報、世のスタイル、世が仕掛けてくる「鋳型」に、嵌め込まされてはならない。同化させられてはならない。新しいぶどう酒は、古い皮袋に入れる事はできない。もしそんな事をしたら両方だめになってしまう。私達は、考え方や心構え、意見、決心を刷新し、「新しい皮袋」になるべきである。そうするなら聖霊の新しいぶどう酒に充満され、日々メタモルフォーが推進して行く。たとえ何かが立ちはだかっても、その辺に転がっている石ころ一つで、ダウンさせられる。
 
 全く経験した事の無い領域に入って行く事に、不安を覚えるだろうか。ダビデは、未だかつて経験した事の無いような巨人が立ちはだかっても、主の陣が40日もなぶられた事に、聖なる憤りに充満され、恐れは一切なかった。主の霊に臨まれるなら、恐れも粉微塵になって、主の栄光を表す働きを、何でも出来る!
今までのあらゆる古い覆いを取り除き、あらゆる方面で反転を経験して行く、この新年でありますように!

 

 

主日礼拝

祈りという捧げ物を猛禽から守り続けよ(創世記15:7-11)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 先週、マイケル宣教師を通じてインターナショナルミッション日本センターが立ち上げられ、日本本部としての特権が私達に与えられた。以来、韓国プサン・トーブチームの中高生16人が、主イエスの恵み教会を拠点に学習と宣教の活動をしている。彼らは日頃から御言葉を暗唱し、宣教師としての訓練を受けているため、道行く若者に声をかける事に、全く躊躇が無い。初めての相手にもすぐに打ち解け、惹き込んでいく。そんな彼らは、天才にならざるを得ない。事実、第1期生は、世界200位以内の大学に次々と合格している。そのような素晴らしい教育システムが、突然、向こうから来た。今まで祈り求めて来た事が本当に答えられたのだ!
 
 これからは、今まで慣れ親しんできた生活サイクルを脱出し、全く新しい領域へ、進もうとしている。その際、真っ先に立ちはだかる敵は、「変化に対する拒否反応」「先回りした心配・恐れ」である。出エジプトした民は、そうした拒否反応や恐れを「固持」したゆえに、荒野で40年さまよって死んでしまった。サウル王も、心配のあまりに勝手ないけにえを捧げてしまったため、王として固く立てられる機会を、逃してしまった。
 地図を開いたなら、まず現在地と方向を特定するのと同じように、今、私たちは「主が祈りに応え、導いておられる」という「現在地」を確認し、方向性を主に求めていくべきだ。私達の信仰の父・アブラハムは、主から「本土・親戚・父の家を出よ」という言葉を受けた時、行き先は分からなかったが、75年も生活してきたその地を離れた。拒否反応や心配は、あっただろう。それでも主の言葉という「現在地」を確認し、そこを出た時、次の方向はその都度示され、そうして彼は、信仰の子々孫々を建てあげる栄光の道を一歩一歩、進んで行った。私たちも彼にならい、先が見えなくても信仰によって進むなら、必ず次が示されるのだ。
 
 主は確かに生きておられ、信仰を手放さない者には力強く働かれる事を、最近体験した。私は半年ほど前から、左腕や首筋のしびれと痛みがひどかったが、マイケル先生の集会で、イエス様の血潮による癒しの祈りの時間があって、私も「癒やしてください、痛みを取り除いてください」と祈っていたのだが、祈りの最中、気付かされた。そうした祈りは、「もしおできになるものなら」(マルコ9:22)という、不信仰が込められている、と。「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんな事でもできる!」(同23節) そこで祈りを変えた。
「イエス様の名前によって、今晩、必ず癒やされて帰る!!」 信仰によって、そう宣言し続けたが、状況は全く動じず、痛みは変わらず残り続けた。だんだん祈り疲れ、祈る事に飽きて来たりもした。やっぱりだめかな、という思いも来たが、それでも口で宣言を続け、自分のたましいに言い聞かせ続けた。集会が終わっても、痛みは残っていたので、ますます否定的な思いがよぎった。しかし、アブラハムが主の約束を確かめた時、捧げ物を狙って来た猛禽を追い払ったように、私も主と出会うまでは、そうった「猛禽」を追い払い続けよう、今晩、必ず主と出会い、癒やされて、主の偉大な力を人々にこれから伝えていく!と宣言し続けた。
 結局、頭の中にひっきりなしに巡ってくる、否定的な「はかりごと」や「思惑」、そして「いいわけ」が、信仰という捧げ物を食い散らかす猛禽だったのだ。そうした、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ、従順が完全になる時、あらゆる不従順を罰する用意ができる!と書いてある(2コリント10:5-6)。そうしてあきらめず続けると、ついに帰りの車で癒やされた!
 
 結局、癒やしも、必要の満たしも、先行きが見えない際の導きも、本当に、本気で信じているかどうか、そして「しつこく」求め続けるかどうかの問題だったのだ。『少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』(ヤコブ1:6-7) 主は、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを、教えられた(ルカ18章)。
 先回り的な心配性や、不信仰、主に逆らって立つはかりごとや思惑、いいわけ、そうした諸々は、イエス・キリストの御名によって縛り、退去命令を出す!そういう「霊的戦い」を、しつこく、しつこく続ける。それこそ、癒やしを体験しキープし、力強い証人になるためのコツなのだ。
 痛みも、病も、経済的不足も、あらゆる不安と思えるような事も、その他、あらゆる立ちはだかる障壁も、全て主に本気で願い求めて、実際に主の偉大な力を、その身に、その人生に働いた経験をたくさん積む皆様でありますように。そうして、ヨシュアのように、ダビデのように、主にあってどんな事でもできる!という確信を身につけ、恐れなく大胆に、祝福と希望に満ちた将来を勝ち取っていく皆様でありますように!
 

 

主日礼拝

恵みの大雨が降る時(ヨエル2:23)

第一礼拝 Youtube動画

English Service:The graceful rain of The Spirit(Joe2:23) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 
 今回、マイケル宣教師を通してインターナショナルミッション日本センターが立ち上げられ、しかも、日本本部としての権限が、私達に与えられた。 彼は当初、縁もゆかりもなく、福音を鉄板のように跳ね返す日本を訪問する際、一体どうしたらいいでしょうか、と主に祈った時、主から言われた。日本には既に用意された人達がいる、と。
 彼は今回の訪日で、私達と出会った時、主が言われた事は本当だった事が確認できた、と言っておられた。つまる所、私達は、日本福音化のために「主に用意された人たち」なのだ!
 確かに私達は、普段から祈って来た。栄光の次世代を建てあげる仕組みを下さい、そのために必要な土地、建物、経済、人を与えてください、と。主はこんな小さな交わりで祈られて来た祈りを、聞いておられた。
 同じ時期に主は、韓国でマイケル宣教師を起こし、次世代教育を起こし、私達日本に必要なシステムや人材、教材は、既に彼らを通して用意され、そして、ついに時が満ちたこの時、日本と韓国の群れを一つにし、聖徒達の祈りを、折にかなって答えて下さったのだ!まことに主は素晴らしいお方である!
 
 今月の箇所・ヨエル2:23に書いてある。「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」 主はまさに、豊かな実りをもたらす雨を降らせてくださるが、さらに後の箇所には、どの世代に対しても聖霊が与えられ、全く新しくされる約束が、記されている(28-32節)。
 マイケル先生がよく引用しておられたのは、ダビデに油を注がれた箇所である。『サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。この日から後、主の霊は、激しくダビデの上に臨んだ。』
 聖霊の油が注がれると、主の霊が圧倒的に臨んで充満され、心が全く新たにされる。それまで世の中の思考で生きていた者が変えられ、天の思考で生きるようになる。その思考は、不安に覆い被されたものではない。壁に囲まれて閉塞したような思いではない。万軍の主が共におられる!という確信から来る、開かれた天のような、無限の可能性を秘めた希望から来るワクワク感に満ちた思いであり、主にあっては何でもできる!という確信が、泉のように湧き上がって来るものである。それを今回、感じただろうか。
 
 ダビデはどうして、イスラエルの王として神様から選ばれたのか。それは彼に能力があったからではないし、知恵があったからでもない。事実、彼は、家族の中で一番見下げられていた末っ子であった。彼は、偉大な預言者サムエルを家に迎える、という、エッサイ家にとっては重要な時に、羊の面倒を見る事が命じられたが、神は実に、彼が誰からも顧みられなかった時、既に彼を王として見出していたのである(1節)。
 主が事をなさる時、人のわざは、何も役に立たない。主のわざを為すのに必要な能力も、知恵も、権威も、経済も、天地を創られた全能の主から来るからだ。主は弱いものを勇士とし、貧しいものを富ませてくださるお方である。事実、ダビデも、マイケル先生も、元々は何もなかった。ただ王としての性質は備えていた。
 偉大な王の性質とは何か。それは、主の全能性を信じて疑わない事だ。主には何でもできる!という信念が誰よりも強い人を主は用いる。偉大な王としての性質とは、主の全能性を信じて疑わない事である!
 
 私達に主のわざが起きる事を邪魔しているものは、一体何だろう。それは、私達の中の思い込みである。
自分の頭で構築した手段を考案し、第2プラン、第3プランを考え出し、そのレールから外れた事を言われたり、されたりすると、怒ったり、拒否反応を起こしたりし、「無理」「できない」とカテゴリ分けしてしまう。
 その、「できない」という口から出た言葉、あるいは、思考の中で巡らされた言葉が、神様のわざがなされる事を、最も邪魔して来たのである。私達は、ダビデのように、主の全能性を信じ切る必要がある。主は無限なるお方である!と、ダビデのように思考する「偉大な王」の器を持っている人を、主は探しておられる。
そのような人が一人いるなら、主は、この時代に回復のわざを為されるきっかけを得る事ができる。
 
 主は、穀物が無理なく育つように、はじめの雨と後の雨を降らせてくださる。それと同じように主は、私達が無理なく主の働きができるように、必要な主の霊を降り注がせてくださり、そして新しい心を与えて下さる。
 この時代、ダビデのように、主は全ての事がおできになるお方だと信じ切る王の性質を身につけ、主のわざをこの時代、この日本へと導入して行く私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

メガスの信仰と、テラスの奇跡を起こす器(ヨハネ6:28-29)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 いよいよ今週、マイケル・ジョー宣教師をはじめ、インターナショナルミッションの一行が来日し、諸々の活動を行う。彼の教育法の素晴らしさに、多くの教会や教育者が感銘し、現在、世界70カ国から講演依頼が殺到しているが、先週、韓国コーエンに参加した祭、もう一人の素晴らしい器に、主は出会わせて下さった。釜山ビジョン教会のキム・ソングァン牧師である。キム・ヒョンジョン博士は8年前、キム・ソングァン牧師の招請でウガンダの首都カンパラにて、現地の牧師500人にテフィリン講義をしたのだが、それが種となって今、教会がなんと1221箇所も建設され、さらにキリスト教学校の初等学校、中高校、大学が、40も建てられたのだ!
 彼らのような大きな働きをする器に、共通している点がある。それは、神様は無限なるお方である、と信じ切っており、与えられたみことばに対して「無理」と言った事がない点である。周りから「そんなの現実ではムリ」と言われても、神様には限界が無い、と信じて、実際行動したら、ムリと思われていた事が次々と実体化し、出来上がって行ってしまうのだ。主はいつの時代も、そのような器を通して、大きな働きをされる。
 
 信仰には、大きさがある。御言葉を、そしてイエスキリストを、どれだけ大きく信じてそれにかけたか。それによって生じる神様のわざの大きさが、違ってくる。ツロ・フェニキヤの女は、イエス様から冷たいように思われる言葉に対しても、優れた信仰告白をしたゆえに、『女よ、あなたの信仰は見あげたもの(メガス)である。あなたの願いどおりになるように。』と言われた(マタイ15:21-28)。イエス様は、彼女の信仰はメガス(百万、巨大)だ、と言われた。モーセも信仰が百万(メガス)に成長した時、パロの娘の子として儚い罪の楽しみを受けるよりは、神の民とともに苦しむ事を選び取った。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富とし、その報いはより優れたものだ、と信仰によって受け取ったのだ(ヘブル11:24-26)。 
 「偉大な信仰」とは、神様をどれだけ大きく見るかによって決定づけられる。もし私達が、神様を1で見るなら、1の結果しか帰ってこないが、百万で見るなら、百万の結果で帰ってくるのだ!
 聖書を見ると、信仰によって、百万よりもさらに偉大な結果で帰ってくる事がある。それは、テラスである。
メガスの値は1,000,000であるが、テラスは1,000,000,000,000、1兆である!それは人には一生かかても数え切れない数字、という事で「奇跡」と訳される、人間には到底できない、ただ神のみができるわざである。
それはイエス様の専売特許ではなく、神には限界が無いと信じ切った信仰者によって行われるものである。
 事実、テラスという語は、4福音書には計3回しか出てこないが、使徒行伝には9回も登場する。信じた人はイエス様のわざを行うのみならず、もっと大きなわざをも行う、と言われた通りである。(ヨハネ14:12)
 
 神のわざには、限界が無い。無限大である。無から有が創造される・・・闇だった所に、光が存在するようになる・・・むなしく茫漠とした所に、愛の意図に満ちたいのちが溢れる・・・。これらは全て、はじめからあったみことば、はじめからおられた神のことばによって成就した。この世に満ちている被造物は全て、はじめに神がことばによって、創造された。『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。』(ヘブル11:3)
 人間は唯一、そのわざに参加できる存在である。神に似た者として、神のかたちとして。闇に光をもたらし、むなしい所に愛といのちで満たすわざに。それがキリスト者の仕事である。そのわざに参加する方法は、イエス・キリスト、すなわち神のことばを信じる事である。( 神のわざ = 神のことば(キリスト) × 信仰 )
 『そこで彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、私達は何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神が遣わされた者(イエスキリスト)を信じる事が、神のわざである」。』(ヨハネ6:28-29)
 
 主には、おできにならない事は、何も無い。その信仰に立つ時、神の無限大のわざが為される。一番の敵は、私達の中の「それは無理だ」「どうせ出来ない」「現状のままでいい」といった思いである。主が用意しておられる無限な将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。主のビジョンを、ケチケチしてはならない。今、主は、主は無限なるお方であるとする人の現れを待っておられる。主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人が実に少ない。今、私達求めるべきである!信仰によって、望んで活用するなら、必ず成功の報いがある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに稼ぎ、優れた支配をしていく私達でありますように!

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

知識もなく摂理を覆い隠して来たわたし(ヨブ記42章)

Youtube動画

 金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

癒やしに必要な罪の告白(マルコ9:14-29)

Youtube動画

 

 

 

 主日礼拝

テフィリンした人に与えられる祝福(申命記6:10-14)

第一礼拝 Youtube動画

English Service:Take your sandals off(Exo3:4-5) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 私達は、テフィリン(御言葉暗唱)を土台とした教育機関を立てて、ダニエルやヨセフのように頭の先から爪先まで、御言葉によって神の知恵と能力が備わった、栄光の次世代を起こすビジョンが与えられている。
 前回は、ユダヤ人が最も大切にしている申命記6:4-9の「テフィリン本文」から養いを受けたが、今回はその続きの箇所より、テフィリンした人に与えられる祝福の素晴らしい内訳と、注意すべき事を確認したい。
 
 その祝福の内訳は、10節以降に記されている。すなわち、自分で建てていない町々や良い物が満ちた家々、掘らなかった堀り井戸、自分で植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を、得て、食べて、満ち足りる、というものであるが、それは決して、他人が労して構築したものを、奪い取ったり、強奪する事ではない。
 御言葉を昼も夜も口ずさんでテフィリンした人は、何をしても栄えるため(詩篇1篇)、周囲にいる人々が、その人を持ち上げて、自分の家や畑をその人に任せるようになる。ちょうどイザヤ45:14にある通りである。
 ヨセフは奴隷だった時、彼がする事は何でも祝福されたので、やがてその家の支配人となり、紆余曲折は経たものの、ついにはエジプト全体の支配人へと、仕立て上げられた。そして彼が面倒を見た国政(家)も、農業(畑)も、大いに祝福され、民は喜んで彼に支配権を譲渡した。ダニエルも、バビロンやメド・ペルシヤの王達が自ら進んで彼に支配権を委ねた。被造物は、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでおり(ローマ8:19)、そして神の子が支配権を得て行使する時、人々も被造物にも、平安が来るのだ。
 
 以下、テフィリン教育の第一人者・キム・ヒョンジョン博士の言葉である。御言葉なるキリストが、その人の中に、千節も満たされると、悪魔サタンはその人に入れなくなる。コーエンで学んだある宣教師は、毎日六百回宣言していると、罪を犯す事が苦しくて苦しくてたまらない、と言っていた。御言葉なるキリストが、心や思いに、脳に満たされるなら、罪も、悪霊も、また、どうしても止められなかった罪の習慣さえ、居られなくなって出ていく。キリストとベリアルは、共生できないからだ(2コリント6:15)。さらに二,三千節の御言葉が入ると、見たものが写真を撮ったかのように、聞いたことが録音したかのように、覚えられるようになる。
そして旧新約が五千節も入ると、主がその人の手を取って国を変える働きをするようになり、手で触れたものがことごとく自分のものに、足で踏んだ所がことごとく御国のものになっていく。使徒パウロがそうだった。
 パウロは、旧約だけでなく、新約の御言葉もテフィリンされた人だった。旧約だけテフィリンしたユダヤ人は多くいるが、パウロは彼らとは比べものにならない働きをした。彼が手ぬぐいを人に当てただけで、その人の病や悪霊は出て行き、彼が足で踏んだ所はリバイバルが起き、二千年も続く教会が次々と建てられた。
 パウロは、表向きは囚人として護送されて行っただけなのに、彼が行かされた先々では、いつの間にか彼が主導権を取っており、奇跡が、救いが、次々と起こされて行った。御言葉が染み込んでいる人は、御霊がその人に、霊の帯で縛って、引いて行き、行く先々で主の働きが起きる。パウロがまさにそうだった。
 自分はただ導かれて行っただけなのに、主のスピーカーとして用いられ、自分はただ手を置いただけなのに、主が為したい癒やしのわざや奇跡を起こり、自分はただ聖霊に縛られ、引きずり回されただけなのに、行った先々で悔い改めが起こり、救いが起こり、教会が建って行く、という、パウロのわざが起きるのだ。
 
 だから、自分のものではないものが、次々と与えられた時にこそ、「気をつけよ」と、今回の御言葉は警告する(12節)。自分のものでない物質が次々に与えられる理由は、「わたし」が物持ちになったり、欲望のままに貪るためではない。ヨセフやダニエルのように、それを用いて全地に主の栄光をもたらすためなのだ。
 それらが与えられた時こそ、神である主を恐れ、主に仕え、御名によって「誓わなければならない」と書いてある(13節)。「誓う(シャーヴァ)」の意味は「7にする」「完全にする」「成人するまで育てる」といった意味があり、主を恐れ仕える事において、過ちを犯さない程に成人するまで、御言葉で養い育て続けよ、という事なのだ。そしてその時、世で成功したからと言って、世の神々に逆戻りするな、と警告されている(14節)。
成功した時、過ちに陥ってしまった人が、数多いる。それらを得た時こそ、真価が問われるスタートなのだ。
  今、世界では続々とテフィリンによる働きが起こされており、日本でもTIA(テフィリン・インターナショナル・アカデミー)が起こされ、立て上げの活動がはじまっている。まずは私達自身がテフィリンし、あらゆる面で祝福され、栄光の次世代を育て上げ、主の栄光を、全世界へと伝播して行く私達でありますように!

 

 

 
メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest