メッセージ - エステル記カテゴリのエントリ
エステル - 王に促されたなら敵を殲滅せよ(エステル9-10章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
今年に入ってから、王の前に相応しく身を整え、宴会を設けるべき事をエステル記から学んでいる。
それをするなら、王がその人を祝福し、敵の面前で宴会が設けられ、勝利し、大いに栄える事を今まで学んで来たが、いよいよ運命の日が訪れる。ハマンが定めたユダヤ人を滅ぼす日、2月13日は、逆に、神の民を滅ぼそうとしていた者達が、滅ぼされた日となった。全ての人はユダヤ人を恐れ、大臣や総督など主だった人達も皆ユダヤ人側についた。なぜならモルデカイが破竹の勢いで勢力を増していたからだ。
その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、今度は王のほうからエステルに、欲しいものは何でも願え、必ず聞き届けられる、と促されて来た。私達も、キリストの御言葉に留まるなら、王なるキリストのほうから、欲しいものは何でも願いなさい、と促される。そこでエステルは、あの優美な口調で王に言う。
「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください。」(13節) 敵は既に首都スサだけでも五百人が殺され、ハマンの子達10人も死んだ。その上なお敵を根絶し、ハマンの子達の死体は木に架けて晒して下さい、と言うのは、やりすぎでは?と思うかもしれない。あの優美なエステルの言葉とは、あまり思えない。
しかし聖書には、容赦せずに、徹底的に滅ぼし尽くすべき事例を、幾つか見つけられるはずだ。
そうすべき時とは、王からの促しがあった場合、すなわち、王なる主が「せよ」と言われた場合である。
そのような時、神の民の敵に対しては、徹底して滅ぼし尽くさなくてはならない。神の民は、やられてもただニコニコ黙っている者ではなく、主に促されたなら、勇敢に戦い、滅ぼすべき相手は滅ぼし尽くすのだ。
その戦いとは、昨今行われている戦争とは全く性質が違う。ほしいままに富や利権を分捕ったり、他を力づくで自分色に塗り替えたりするものではない。実際ユダヤ人は、許されていた分捕りを、しなかった。
神に敵対し、いのちを踏みにじるサタンのわざに対しては、王なる主キリストの許しが得られ、また「滅ぼし尽くせ」と命じられたなら、徹底的に滅ぼし尽くすべきであって、決して容赦してはならないのだ。
そもそもエステルが願ったこの願い、神の民の敵の根絶は、サウル王の時に成されなくてはならなかった。
昔、サウル王が主から命じられた時、その通りにアマレク人を滅ぼし尽くしていたなら、アマレク人の末裔・アガク人ハマンも生まれる事なく、こんな好き勝手をされずに済んでいたのだ。(1サムエル15章)
私達の内から滅ぼし尽くすべき敵とは、肢体に宿る、御霊に敵対する罪や欲望である。(コロサイ3:5-6)
「何もそこまで」「ちょっとくらいは」と思って滅ぼす事を留めていたら、それはすぐに苦い根(ヘブル12:15)を出して蔓延り、サウル王のように取り返しがつかなくなる。サウル王は結局アマレク人にとどめを刺された。
主が滅ぼしなさいと言われたのに滅ぼさないなら、それが罠となり、逆にとどめを刺されてしまう。それは、ヨシュアの時代のアカンがそうだったし、ヨシュア後のイスラエル国も、ヨアシュ王の時代もそうだった。
エステルは、王の前でも敵の前でも、あくまで優美な品性を身に纏い、自分の好む事ではなく王の好む事を為し、そして、王に促しが与えられたなら、大胆に敵の滅びを求めた。私達もそれに見習うべきである。
こうしてエステルの時代、神の民の敵は一網打尽にされ、ユダヤ人は暫く安息と繁栄を享受した。
彼らは安息を得た日12月14日を祝日として定め、プリム祭として現代でも祝っている。
エステル記最後の10章は、後にアハシュエロス王はさらに強力になり、モルデカイも、王の次の位が与えられ、自分の民族のために多くの功績を残した事が記されている。ユダヤ人も安息の内に栄えた。
最後には勝利と、宴会と、永遠の栄光が待っているのだ。その栄誉を受けるための最も最短コースは、へりくだる事であり、神はそのような人を、ちょうど良い時に高くして下さる。モルデカイはまさにそうだった。
安息を得るには、敵を殲滅しなくてはならない。私達の内に住む罪や汚れ、妬みや憎む心など、滅ぼし尽くすべきものが沸き起こった時は、それをキリストにあって捕縛し、服従させなくてはならない。(2コリ10:5)
服従を着る事が、王なるキリストの前に花嫁衣装を着る事である。そして主のために宴会を設けるとは、主の喜ばれるごちそうを用意する事、すなわち「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」事である。
そのようにする人には、敵の面前で油注がれ、宴を設けられ、敵が蓄えた栄誉や富を、そのまま引き渡されるのだ。そのように安息の内に栄える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
一時期低くされても(エステル9:20-10:3):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
容赦してはならぬ時(エステル記9:1-19):右クリックで保存
【概要】
本日の御言葉は、ユダヤ人が絶望の中から神の守りによって勝利を得られたエステルの御業と、エリシャを通して神の命令に従うことの大切さを示された列王記の御言葉により、神の御業と信仰に基づいた断固たる行動の必要性を教えています。
【聖書箇所】
エステル9:1-19
列王記13:14-19
【慰めの言葉】
どんなに暗く見える状況でも、神は常に御自分の民を守り、絶望の中にも導きと慰めをお与えになります。
【励ましの言葉】
私たちがおのおのの信仰に立ち返り、神から与えられた力と恵みに全幅の信頼を置くなら、どんな強大な敵にも立ち向かえると励まされます。
【戒めの言葉】
神の御命令に従うにあたり、決して妥協や曖昧さを許してはなりません。部分的な従順は、かえって敵を許すことにつながり、私たちの歩みを阻む罠となります。
【勧めの言葉】
教会の兄弟姉妹として、私たちは自らの信仰生活において、徹底的に主に立ち返り、時には勇気をもって敵と向き合い、取り除くべきものを徹底的に排除する態度を持つべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
もし私たちが世俗の妥協や怠惰に流れてしまっているなら、今こそ立ち返り、悔い改めの心を新たにして、神の御前に謙虚に立つことを促します。
【***詳細***】
今日、私たちが聞くのは「エステル9:1-19」の御言葉です。かつて、ユダヤ人の敵は彼らを滅ぼそうと狡猾な策略を巡らせ、王の命令によってユダヤ人が全土で打倒される危機が迫りました。しかし、神はその御手をもって事の流れを逆転されました。敵を害する意図を抱いていたものが、実際にはユダヤ人自身に対して敵対していた者たちを全力で打倒する結果となり、諸州の主官や王の役人までもが、神の力の前にひれ伏さざるを得なかったのです。エステルの勇気ある姿勢、王妃として王に助けを求めたその決断は、ただ単に自己の救いのために留まらず、民族全体の命運を変える重要な瞬間でありました。私たちはここで、障壁を打破し神が定められた救いを、敵に対して断固として立ち向かう決意から受け取るべきであるという教えを得ます。
この御言葉に現れる状況を振り返ると、ユダヤ人が集い武装して敵対勢力に立ち向かった様は、単なる歴史的事件にとどまらず、今日の私たちが信仰の戦いにおいても、神が与えてくださる権限と守りにより、立ち向かうべき敵の存在を象徴しているとも言えます。各人が家族や共同体を守るため、また純粋な信仰を保つために、断固たる姿勢で進む決意は、神が私たちに与えた聖なる使命そのものです。このとき、私たちは神の御名によって召された民として、「敵を徹底的に打倒せよ」という御命令を胸に刻み、現代における霊的戦いにおいても、迷いやためらいを捨てるべきであると教えられます。
また、「列王記13:14-19」に記されている、エリシャ預言者とイスラエルの王との出来事も、徹底した従順の大切さを今に伝えております。エリシャが王に、主の勝利をもたらす矢を掲げるよう命じ、その具体的な行為において徹底されるべき神の意向を示しました。もし、王がエリシャの示された回数通りに矢で地面を打たず、主の命令を完全に遂行しなかったならば、その結果は単なる戦術の失敗だけでなく、国全体に災いがもたらされたことでしょう。部分的な従順は、後に大きな悔いや災厄につながるとエリシャは厳しく戒めました。このことから、私たちは主の御命令を徹底的に実行することの重要性、決して曖昧な態度をとってはならないという戒めを学びます。
歴史の中で、エステルが王に対して恐れず訴え、大胆に敵対勢力に立ち向かったように、またエリシャが神の命令に忠実に対して容赦なく徹底行動を促したように、今日の私たちも神の民として、一切の妥協を許さず、霊的な戦いにおいては強固な姿勢を持たねばなりません。現代社会では、キリスト者に対する迫害や試練、また悪霊やサタンの勢力がまさに顔を出し、私たちの信仰を攻撃しようと試みる状況が見られます。これらの霊的な敵に対して、単なる受動的な姿勢ではなく、断固たる呪いの祈りと、神から賜る権限に基づいた積極的な行動をもって立ち向かうべきであるというメッセージを、私は強く心に刻みました。
ここで、私たちが思い出すべきは、エステル記におけるあの劇的な転換点です。かつて、敵がユダヤ人を侵略し滅ぼさんと企んだ法令が、結果としてユダヤ人に自らの敵を打ち倒すための法令に変わりました。王の命令において、彼らの敵対する者たちは一斉に滅ぼされ、彼ら自身が休みと祝宴の日を迎える結果となりました。神は常に、彼の民を守るための抜本的な変革をもたらされるのです。私たちも、もし心の中に神に敵対する思いや、妥協が存在するならば、むしろそれに立ち向かい、断固として排除する必要があります。そうすることで、私たちは神の完全な守りと祝福の下で、真の繁栄と平和を享受できるのです。
そして、エリシャが示されたエピソードは、私たちに「主の言葉に耳を傾け、忠実に従うこと」がどれほど重要であるかを改めて訴えかけています。王がわずかにしか従わなかったために、後になって多くの災いが起こったように、私たちもまた部分的な信仰や曖昧な従順では、結果として自らの霊的な安全と繁栄を損なってしまいます。聖書は私たちに、決して手を緩めず、主の敵、つまり私たちの心や家族、共同体に害を及ぼすあらゆる霊的な悪と戦い抜く決意を持つように求めています。
私たちは、エステルやエリシャ、サウル王や古のイスラエルの歴史から、神がどのようにして御民を救い、敵を徹底的に打倒されるかを知ることができます。これらの御言葉は、ただ歴史の記録としてではなく、今日の私たちの信仰生活に対する直接の教訓として、より明確に届けられています。もし、今私たちの心に何らかの障害や敵意、世俗への依存があるならば、それはすぐに取り除くべき対象です。神は、私たちが純粋な心で、まっすぐ神に従い、そして主の敵に断固として向かうようにと命じられています。
最後に、現代という時代においても、我々の周囲には信仰に逆らう勢力が渦巻いております。しかし、歴史の中で神が示された御業と、エステルやエリシャのような聖なる生き方が、今日の私たちへの強い励ましとなっています。私たちは、この御言葉にあるように、主の命令に従い、断固たる信仰と行動をもって、世の中の悪に立ち向かいます。そして、敵に対しては決して妥協せず、神から与えられた権限を信頼して、全力で取り除く努力を惜しまないよう誓いましょう。主がもし、私たちに具体的な行動を促されるならば、その御命令に即座に従い、内にある不信仰や妥協する心を断ち切るよう、真摯な悔い改めの姿勢を保つよう努めなければなりません。
このように、エステルの勇気とエリシャの厳しい戒めは、今日のクリスチャンにとっても普遍的な霊的戦いの模範であり、私たちの内に潜む霊的な障害を根絶するための確固たる指針となります。どんな時も主の導きに信頼し、逆境の中でさえも神の守りと戦いの力を信じ、歩み続けるその姿勢こそ、私たちが目指すべき真の信仰であると確信いたします。
【結論】
エステルとエリシャを通して示された御業は、私たちに神の守りと御命令に徹底的に従うことの大切さを改めて教えてくださいます。どんな困難や霊的な敵が現れようとも、主の力に信頼し、妥協せず徹底的に立ち向かう姿勢を持つならば、私たちは必ずや祝福と勝利の中に歩むことができるのです。アメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
法則のカウンターパンチ(エステル8:9-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰を用いて理不尽な法に勝つ(エステル記8:1-8):右クリックで保存
【概要】
本日のメッセージは、エステル記8章1節から8節の御言葉を通して、神の御計画の中で信仰と勇気がどのように働くかを学ぶものです。私たちはまた、信仰により罪と死の呪いに対抗できる力が与えられていることを確信します。
【聖書箇所】
・エステル8:1-8
・ヘブル11:1
・マタイ16:15-19
【慰めの言葉】
私たちが絶望の淵にあっても、神は必ず救いの道をお示しくださいます。どんな取り消しの効かぬ罪の法則の中にも、イエス・キリストという救いのカウンター法令が確かに働いています。
【励ましの言葉】
エステルが自らのためだけでなく民族のために勇気ある一歩を踏み出したように、私たちも日々の信仰において立ち上がり、神の与えられた権威を信じ、行動すべきです。神はあなたに天の御国の鍵をお与えになっておられます。
【戒めの言葉】
一度発せられた罪の法則は取り消しができないと聖書は教えています。しかし、私たちが何も行動せず、ただ流されるならば、罪の罠に陥ってしまいます。今一度、心を引き締め、信仰の権利証書に正しく記された御言葉に従うよう戒めます。
【勧めの言葉】
神が私たちに与えてくださった貴重な信仰の実印を、惜しみなく用いてください。王がエステルに指輪を託し、自由に法令を書き換えるよう命じたように、私たちもイエス・キリストの御名にあって、罪と死の呪いに対抗する権威を積極的に宣言し、実践しましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
もしも今、信仰を働かせることなく日々を過ごしているなら、自らの心を省みてください。罪に満ちた古い自分を悔い改め、救いと祝福に満ちた新しい霊の法則に立ち返る時です。悔い改めを通して、神の恵みと救いの計画に再び立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日の御言葉は、まずエステル記8章1節から8節に見るように、**「エステル8:1-8」**の中で、アハシュシュ王が王妃エステルを通してユダヤ人に対する迫害を企んだ者たちの法令を取り消すため、王の指輪と実印を授けられた出来事に端を発します。エステルは自らの危険を顧みず、愛する民族のために立ち上がり、悩み苦しむ民の声を代弁しました。神の御心が働かれるその瞬間、エステルの深い信仰と決意が、取り消すことのできない法令に対して、対抗法令を授ける王の権威と結びつけられたのです。
この出来事において、王の指輪――すなわち実印が持つ権威は、私たちにとって大きな象徴です。聖書は「エステル8:8」において、王の指輪で印を押された文書は「誰も取り消すことができない」と強調しています。これは、私たちが何かあるべき姿、すなわち神の祝福や救いに関して、信仰によって確固たる権利証書を得るという確信に重ね合わせることができます。罪と死の法則は、人間の力では取り消すことのできない厳然たる現実ですが、天の父なる神は、イエス・キリストを通してその呪いに対抗するためのカウンター法令を与えてくださいました。
そして、筆者はここで、信仰とは「望んでいる事柄の権利証書」とも言えると説いています。これは、**「ヘブル11:1」**の御言葉にあるように、「信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。私たちの信仰は、まさにこの保証、あるいは権利証書として、天においても地上においても有効なものです。もし、信仰を働かせ、神が与えてくださった実印――すなわちイエス・キリストの救いの権威――を用いるならば、どんな困難な状況であっても、神の救いの計画に基づく祝福を宣言し、罪と死に対して立ち向かうことができるのです。
また、イエス・キリストが語られた**「マタイ16:15-19」**の御言葉において、「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てる」と語られたことは、私たち一人ひとりが信仰告白の上に立ち、またその信仰の告白を通して、天の御国への鍵を授かっていることを象徴しています。イエスは、ペテロに天の御国の鍵を託し、地上で「つなぐ」もしくは「解く」権威を与えました。これは、私たちにも同様に、信仰の宣言をもって、呪いに対抗し、祝福を宣言する特権が与えられていることを示しているのです。
エステル記のこの物語は、ただ歴史上の出来事として語られるのではなく、現代に生きる私たちに対しても深いメッセージを投げかけています。今の時代、私たちは日々の生活の中で、身体的な病や試練、経済的な困難、または精神的な葛藤にさらされることが多々あります。しかし、これらの状況は決して偶然のものではなく、罪の法則が働く現実の反映です。しかし、同時に、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神の御国の権威に参与しているのです。
信仰を働かせるということは、自らの意思で神の与えてくださった権威の実印―つまり、霊的な証書―に記された約束を宣言することです。たとえば、私たちが何か問題に直面した時、「この病はイエス・キリストが追い払ってくださった」と信じ、宣言するならば、その信仰は確固たる権利証書となり、天の御国においても実態を伴った祝福として現れるのです。エステルが自らの民族を救うために立ち上がったように、私たちも信仰をもって困難に打ち勝つ、あるいは神の祝福を引き寄せる力が与えられているのだという確信を新たにしましょう。
また、ここで気をつけるべきは、神が与えてくださった実印をただ所有するだけではなく、それを積極的に活用することの大切さです。もし、モルデカイが王から授かった実印を用いなかったなら、ユダヤ人の危機は免れなかったでしょう。これは、私たち自身も同様に、神の権威に預かりながら日常の中で信仰を宣言し、実践しないならば、罪の中に沈んでしまう危険性を示しています。したがって、私たちは決して受動的な信仰者に留まらず、積極的に神の御言葉に従い、日々の生活の中でその権威を発揮する努力を怠ってはならないのです。
このように、エステル記、ヘブルの御言葉、そしてイエスが語られた御言葉は、私たちに「信仰を働かせよ」という強いメッセージを送っています。信仰は、ただの心の状態ではなく、積極的な力の働きであり、宣言すれば現実になる霊的な権利証書なのです。私たちがイエス・キリストを信じ、その救いの福音に立脚するならば、どのような取り消しのできぬ呪いの法則にも対抗でき、むしろ神の恵みと祝福が確固たる形で現れるのです。
どうか、皆さんもこの日のお言葉を胸に刻み、生命に満ちた信仰の歩みを日々実践してください。受動的な存在ではなく、エステルやペテロ、そしてモルデカイのように、神の定められた役割と権威を喜んで担い、どんな困難にも立ち向かう勇気ある信仰者となることを切に願います。天の御国の鍵があなたの手にあることを思い出し、言葉と行いによってその偉大な権威を現す日々となりますように。
【結論】
私たちの信仰は、エステルの勇気やペテロの告白に象徴されるように、天の御国への確かな権利証書です。日々の生活の中で、イエス・キリストの御名による権威と実印を積極的に働かせ、罪と死の呪いに対抗する信仰の宣言を実践していきましょう。愛する主イエスの御名によって、私たちは必ず勝利し、永遠の祝福に満たされるのです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪者は墓穴に入る(エステル記7章):右クリックで保存
【概要】
エステル記7章の中に現れる勇気ある王妃エステルの告白と、神の救いのタイミングの奇跡を通して、私たちは主への信頼と謙虚な心の大切さを学びます。主は正しい者を守り、悪者の策略を必ず退けられると約束されています。
【聖書箇所】
-
エステル記 7章1節〜10節
-
詩篇37編(特に32節以降:「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」)
-
箴言16章 17節〜19節(「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」)
【慰めの言葉】
どんなに困難な状況にあっても、主は必ず正しいもののそばにおられ、悪者の思惑をお打ち砕きくださいます。主にすがるならば、その憂いは希望と救いに変わります。
【励ましの言葉】
エステル王妃が自らの命と民族の救いを求めたように、私たちも恐れず主に立ち向かい、心からの信頼をもって御声に応じる勇気を持ちましょう。主はその一歩一歩に、確かな栄誉と祝福を与えてくださいます。
【戒めの言葉】
高ぶりや傲慢は必ず自らの破滅を招きます。箴言16章にあるように、心の高慢は倒れに先立つという戒めを真摯に受け止め、常に謙虚な態度で歩むよう注意しましょう。
【勧めの言葉】
日々の祈りと断食を通して主に近づき、御言葉にしっかりと立脚した生活を送りましょう。信仰による正しい道は、私たちを悪の罠から救い、真の平安へと導いてくださいます。
【悔い改めの促しの言葉】
もし自らの傲慢や過ちに気づいたなら、深い悔い改めと謙虚な心で神に立ち返りましょう。主は、真心から悔い改める者に対して、必ず救いの手を差し伸べてくださいます。
【***詳細***】
本日お読みする箇所はエステル記7章です。先週の受難週を経て、2週間ぶりとなるこの説教では、エステルがどのように王の前に立ち、イスラエル民族の危機を告げる勇気を振り絞ったか、その瞬間の圧倒的な真実が語られています。宴会の席で、王とともに杯を交わす中、エステル王妃は神の導きにより、**「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私に命を与え、私の民族にも命を与えてください」**と、素朴ながらも力強い言葉を王に伝えました。彼女のその一言には、己の命だけでなく、民族全体の未来を賭ける深い決意と信仰が感じられます。
ここで私たちは、かつてのエステル記の情景を思い起こすとともに、現代においても、神が正義をもって悪を裁かれるという御約束を確信せずにはいられません。旧約聖書の中でも、モルデカイに対し迫害を企てたハマンは、50キビトの高い柱を用意し、彼を吊るし上げようと計画しました。しかし、王の前で大胆にも振るわれたエステルの告白と、突然立ち上がった王の怒りにより、ハマンは己の罠に嵌り、破滅への道を歩むこととなりました。これは、**「悪者は自らが掘った穴に陥る」**という神の裁きの生きた証拠であり、私たちにとって大いなる励ましとなるのです。
また、聖書は私たちに慰めの言葉も届けています。詩篇37編には、**「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」**と記され、正しい者に対する主の保護と、悪に対する厳しい裁きが確約されています。この御言葉を心に留めるとき、たとえ私たちの周りに偽りの友や悪意ある者が増えたとしても、主が必ず真実と正義をもって報いてくださると信じることができます。
さらに、箴言16章においては、**「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」**と明言されています。ハマンの姿は、この戒めの通り、自らの誇りと傲慢に溺れた結果、破滅への道を辿るものであり、私たちにとっても、謙虚さと誠実な心で歩むことの重要性を教えてくれます。私たちが日常の中で、時に誘惑や権力に目が眩むことがあっても、主の前では常に謙虚さを忘れず、誠実な信仰の道を選び続けるべきであると改めて示されています。
エステル王妃がまず自身の命を、そして後に民族全体の救いを願い出たその賢明かつ勇敢な姿勢は、私たちに重大なメッセージを投げかけています。それは、単に自らを救うのではなく、私たちの周りにいる愛する人々、家族、そして共同体全体を守るためには、まず自分自身の弱さや罪に正直になり、悔い改めることが必要であるという教えです。イスラエル民族が3日間の断食を通して主に身を避けたように、私たちもまた、日々の生活の中で自分を見つめ直し、神に従う決意を新たにするべきです。
現代社会において、私たちは数多くの誘惑や虚偽、さらには偽預言者に左右されがちです。しかし、神は常に正しいもののために戦われ、真実の光をもって悪を打ち砕かれるお方です。エステル記、詩篇37編、そして箴言16章に描かれるこの御業は、どんなに困難な状況にあっても、主に信頼し従うならば救いと栄誉を受けるという確固たる約束であります。
今日の説教を通して、私は皆さんに、エステルのような勇気と、モルデカイのような忍耐、そして謙虚な心を持って、どんな試練にも主に頼む生き方を勧めたいと思います。私たちが心から主に立ち返り、祈りと断食、そして真摯な信仰をもって歩むならば、主の手が決して私たちを離すことはなく、悪者は必ず自らの罠に捕らわれると信じております。
イエス様のお名前のもと、主の恵みと救いが私たち一人ひとりの人生に豊かに注がれることを、心から願い、感謝する次第です。私自身も、エステル王妃の勇気に学び、日々の生活の中で主への信頼を新たにしながら、皆さんとともに歩む覚悟を固めております。主の奇跡的な御業に励まされ、正しい道を着実に進むために、どうかこの御言葉を胸に刻んでいただければ幸いです。
【結論】
エステル王妃の勇気と、主が悪を打ち砕かれる奇跡的な働きを通して、私たちはどんな危機の中でも主に信頼することの大切さと、謙虚な心で生きる喜びを学びます。今日からも、悔い改めと祈りを絶やさず、主に導かれる正しい道を歩んでいく決意を新たにしましょう。イエス様のお名前によって、皆さん一人ひとりに祝福がありますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主は報いを忘れない(エステル記6章):右クリックで保存
【概要】
本日はエステル記6章を通して、神の御手が忠実な者に如何に逆転の栄誉を与えられるか、その力強いメッセージをお伝えします。困難な状況にあっても、主に信頼する者には必ず報いがあるという希望の御言葉です。
【聖書箇所】
・エステル記 6章1-14節
・イザヤ書 61章3節
・伝道者の書 2章26節
【慰めの言葉】
どんなに苦しい時であっても、主は私たちの叫びに耳を傾け、必ず救いと癒しをもたらしてください。
【励ましの言葉】
モルデカイのように、日々誠実な信仰を守り続ける者には、予期せぬ形で神の栄誉と祝福が与えられることを信じましょう。
【戒めの言葉】
誇りや策略に心を奪われ、自己の力だけに頼ることなく、常に謙虚に主の導きを求める生き方を戒めます。
【***詳細***】
愛する兄弟姉妹の皆さん、
本日の説教では、エステル記6章の物語に込められた神の計略と、そこにあらわれる貴重な信仰の真理について深く考えていきます。エステル記6章1節から14節には、ある夜、王が眠れずに記録の書を御前に読み上げさせたところ、王の2人の宦官が王を殺そうと企んでいた情報が記されていました。神は、この危機的な状況の中で、一見何の報いも受けずにいた忠実なモルデカイに、栄誉と昇進という形で報いを与えようとしておられたのです。
聖書はこう語ります。
「その夜、王は眠れなかったので、記録の書を持ってくるように命じ、王の前でそれを読ませた…」
そして、王は問いただす時、心の中で「王が栄誉を与えたいと思われる人は、私以外に誰があろう」と思い、自らの計略を用いて栄誉を得ようと企みました。しかし、神の御心は常に動かず、最終的にはモルデカイへとその栄誉が移されるという大逆転の出来事が起こります。
ここに現れるのは、神が忠実な者をどう見捉え、またどのように賞賛されるかという御業の素晴らしさです。たとえ私たちが、世の権力者や自分自身の知恵、策略に頼ろうと試みても、神の計略の前ではすべてはうまくいかないのです。エステル記のこの出来事は、誠実に主に従う者たちは、どんなに自分の行いが人に認められずとも、最後には必ず神のご加護と報いを得ることを教えています。
また、預言者イザヤは「シオンの悲しむ者たちに、肺の代わりに頭飾を、悲しみの代わりに喜びの油を与える」と記されています(イザヤ書61章3節)。この御言葉は、救い主イエス・キリストの到来を予表すると同時に、困難と悲しみの中にある者たちに与えられる希望と慰めの証です。神は、どんな試練の中にも、いつかは喜びに満ちた栄誉と再生をもたらすと約束してくださっているのです。
さらに、伝道者の書2章26節では、「神は御心にかなう人には知恵と知識と喜びを与え…」と述べられており、悪しき策略に満ちた人間の試みは、ついには神の御前では無力であるという真理を示します。ハマンは自らの高慢と策略により、栄誉を自分のものにしようと企てましたが、結果としてその計略は裏目に出て、逆にモルデカイへと栄誉が移るという結果になりました。この出来事は、誠実に信仰を保つ者たちに対する神の守りと報いの証です。
私たちが日常生活の中で直面するさまざまな困難や不条理も、時としてハマンのような策略に見えるかもしれません。しかし、エステル記の物語が教えている通り、神はどんなときにも、主に信頼している者からは目を離しません。たとえ人々が非情な策略や誇り高い行動に走ろうとも、最終的には真摯に主に従い、祈りと断食をもって歩む者に、逆転の栄誉が与えられるのです。
思い出してください。イスラエル民族は、迫害の危機に晒された時、主にのみ頼り、断食と祈りを捧げ続けました。その結果、神は彼らを助け、王の前で栄誉をもたらし、民族として再び立ち上がらせてくださいました。私たちもまた、家庭や職場、社会で困難にぶつかったとき、自らの知恵に頼りすぎるのではなく、真心から主に信頼し、助けを求めるべきです。
神は私たちの避けどころであり、盾であり、いつも共に歩まれる真の味方です。たとえ、血が変わり山々が海中に没すると聞かされるような厳しい状況でも、神がそばにいてくだされば、私たちは決して揺るがされないと、旧約の御言葉は力強く語っています。私たち信仰者は、誇りや自己中心的な思いに陥るのではなく、常に謙虚に主に心を向け、導きを仰ぐ生き方を選びましょう。
今日のこの説教を通して、私は皆さんに、たとえ周囲の状況がどうであっても、自らの信仰を揺るがさず、ただ主に心を寄せるよう励ましたいと思います。私たちは、モルデカイが示したように、正しい歩みと主への絶対的な信頼によって、そのときには見えなかった栄誉や救いを受けるのです。困難に直面したとき、喜びに溢れる時も、すべて主に感謝し、祈りを絶やさず歩むならば、神は必ずや最も適した方法で私たちを高みに引き上げ、その計画を成就してくださいました。
どうか、私たち一人ひとりがこの御言葉を心に刻み、日々の生活の中で主の御前に低くたれ、誠実な信仰を保ちながら歩むことができますように。主イエス・キリストのお名前によって、私たちの歩みが祝福され、真の平安と栄誉が与えられることを信じ、力強く進んでまいりましょう。
【結論】
神は、忠実に主に従う者たちに必ず逆転の栄誉と祝福を授けてくださいます。どんな苦境の中にあっても、私たちは謙虚に主への信頼を絶やさず、常に祈りと断食をもって主に従い続けるべきです。主イエス・キリストのお名前によって、皆さんの信仰が確かなものとなり、これからの人生に豊かな恵みと救いが満ち溢れますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
証1:右クリックで保存
はびこる悪に(エステル5:9-14):右クリックで
【概要】
本日のメッセージは、エステル記の5章9節から14節の出来事を中心に、ハマンの誇り高く堕落した心とそれに対し揺るがぬ信仰を持つモルデカイ、そして賢明なエステルの行動から、神の御業と御計画を深く読み解くものです。私たちも、どんなに悪がはびころうとも、神の正義と義人の栄光が必ず実現するという希望を見出すよう努めましょう。
【聖書箇所】
・エステル記 5章9節〜14節
・信玄の四章 14節〜27節(※本文中の引用。原典は神の戒めを示す御言葉として理解します。)
・詩篇 73篇 1節〜17節
【慰めの言葉】
神は正しい者を決して見捨てることなく、絶えず守り導いてください。困難な状況や悪に満ちた日々の中でも、神の約束は変わらず、希望と救いをもたらしてくださいます。
【励ましの言葉】
私たちは、どんな権力や富におびえることなく、信仰によって立ち上がるモルデカイの姿を見習いましょう。時には周りの環境に逆らいながらも、神に歩みを委ねるその勇気こそが、真の力となります。
【戒めの言葉】
ハマンのように、自身の誇りや些細なことで心を乱され、悪を追求する態度は決して許されるものではありません。小さな妬みや心の高ぶりが、やがて自らを滅びに導くことを深く戒められています。
【勧めの言葉】
私たちは日々、神の御言葉に耳を傾け、エステルの賢明な判断と忍耐を実践することを勧めます。焦らず、時には立ち止まり、祈りと断食を通して神の御心に沿う生き方を一層求めるべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
今一度、自分の心の中にある傲慢さや、些細な不満に囚われる自分を省みる時です。神の前にへりくだり、真の悔い改めを通して、より清く正しい歩みを始める決意を持ちましょう。
【***詳細***】
今日の説教の中心は、エステル記の5章9節から14節に記された一幕にあります。本文には、ハマンが王妃エステルの宴会において、自身の豊かな富、複数の子どもたち、そして王に高く評価され、栄誉を授かったという誇示的な言葉が並びます。しかし、その裏に隠された心の闇、すなわち、王の門にいるイスラエルの指導者モルデカイに対する激しい憤りが描かれています。聖書はこう記しています。
「ハマンはその日喜び、上機嫌で出て行った。ところが、王の門にいるモルデカイが、たとえ立ち上がろうともせず、自分に少しも恐れを抱かないその姿を見たとき、ハマンの心はモルデカイに対する憤りと嫉妬で満たされた。」(エステル記 5章9節〜14節)
この御言葉は、権力や栄光を手にしているにもかかわらず、内心の中で自己中心的な怒りと虚栄に溺れる姿勢を断固として戒めるものです。ハマンは、自分の立場や世間からの評価にすがり、ほんの些細な相手の態度ですら、自身の心を支配される愚かさを露呈しました。その結果、神の計らいにより、彼の誇りはむしろ自らの敗北と滅亡へと転じるのです。
一方、モルデカイの心には、どんな高位の権力にも屈せず、神に対する堅固な信仰が宿っていました。断食や祈りに身を捧げ、イスラエル民族の危機にあっても、動揺することなく毅然と立ち向かいました。その姿は、私たち信者にとって模範とすべきものであり、個々がどんなに圧倒的な悪に囲まれていても、心の奥で神の御声に従い歩む決意が何より大切であると教えてくれます。
また、エステル自身は非常に知恵深い御婦人として知られています。王妃としての身分や立場を活かしながらも、決して自らの民族の危機を軽んじることなく、時を見計らって行動するという慎重さを持っていました。具体的には、既に王との面会が30日間途絶えていたという状況の中、突如として王の前に現れることが命取りであると分かっていたからこそ、彼女は宴会という場を利用するという形で、安全かつ効果的に神の導きを信じたのです。彼女の慎重さは、私たちにとっても日常生活の中での「時を待つ」知恵として学ぶべき点が大きいと言えます。エステルは自らの危機感と同時に、神への信頼を決して揺るがせず、むしろその信仰を盾に、王に対する毅然たる態度を貫いたのです。
続いて、説教では「信玄の四章 14節〜27節」と引用された御言葉にも触れています。ここでは、悪者の道に足を踏み入れてはならないとし、その道が決して安らぎをもたらさず、むしろ絶えず罪に溺れて破滅へ向かうものであることが強調されています。聖句はこう語っています。
「悪者どもの道を歩むな。それを無視せよ。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ眠りが得られない。義人の道は曙の光の如く輝き、悪者の道は暗闇のようだ。」(信玄の四章 14節〜17節)
これらの言葉は、ハマンのような道を歩む者が、いかに自己中心的な生活の中で道を誤り、最終的には突然の災いによって滅びる運命にあるかを教えています。私たちは、どんなに外面的には一見成功しているように見える人であっても、その心が悪に染まっているならば、決して栄光に導かれることはないのです。
そして、ご覧いただいた詩篇73篇1節〜17節の御言葉は、まさにこの現実を補強する励ましとなっています。詩篇には、義人たちが迫害され、悪者が一時的に栄えている現実の中で、神が最後に正義をもたらし、悪は必ずその報いを受けるという確固たる真理が宣言されています。詩篇はこう語ります。
「まことに、神はイスラエルに心の清い人たちに慈しみ深い。しかし、私自身は、誇り高ぶるものを妬み、悪者が栄えるのを見たために、私の歩みはしばしば揺れ動いた。… だが、あなたは彼らを滑りやすい所に置き、やがては霧のように彼らを滅ぼされる。」(詩篇 73篇 1節〜17節)
この御言葉から、私たちは、悪が一時的な栄光を得たとしても、神の正義は確実に働かれるという、深い慰めと希望を受け取ることができます。悪の道に惑わされることなく、ただ神に身を委ね、忍耐強く信仰の歩みを進めることこそが、最終的に真の救いと栄光へと繋がるのです。
説教の中で、ハマンがその夜、上機嫌で宴会場を後にする描写や、自らの富や栄誉を友人たちに自慢する様子、そして妻であるゼレ氏が提案した高さ50キビットの柱にモルデカイの姿を吊るし上げようとする行動は、悪が自己崩壊へと向かう象徴的なエピソードです。これは、どれほど恵みや運にあふれた人であっても、心に悪が根ざせば必ず自らの滅亡につながることを示しています。正に、現代の私たちにおいても、細かな不満や小さな嫉妬に捉われることなく、常に神の御心に従い、謙虚さと清き心を保つべきであると教えられるのです。
また、エステルが最初から勢いに任せて突如王に近づかず、慎重に時を待った姿勢は、現代においてもビジネスや対人関係において急がず冷静な判断を持つことの重要性を示しています。神は、焦る者や短絡的な決断を好みません。むしろ、深い祈りと断食で霊的に磨かれ、慎重に時を計る者に、いつか必ず大いなる恵みと救いを与えてくださるのです。
これらの聖書御言葉は、私たちがどんなに誘惑や困難に直面しようとも、揺るぎない信仰と神への忠実な歩みを持つことの大切さを強く訴えています。ハマンのような誇示と怒り、そして自己中心的な行いは必ずや堕落と破滅につながるのに対し、モルデカイのような謙遜と信仰、エステルのような賢明さは、最終的に神の計らいによって大いなる栄光と祝福に変えられるのです。私たちの生活の中で、どんなに小さな侮辱や悩みであっても、それに心を乱されることなく、神の御言葉に立ち返り、正しい道を歩む決意を新たにする必要があります。
また、詩篇の中で語られる悪者の最期と義人の栄光は、私たちに大いなる希望と慰めをもたらしてくれます。どんなに悪が力を増し、一時的に栄光しているように見えたとしても、神の正義は必ず働かれ、悪は暗闇の如く消え去るのです。私たちは毎日の生活の中で、たとえ周囲に不正や不義が蔓延していたとしても、神の絶対的な正義が働くと信じ、忍耐と信仰を持って生きるべきです。
最後に、主イエス・キリストのお名前によって、私たちがどのような状況にあっても、義人としての歩みを堅持し、神の御前で誠実に生きることが、永遠の栄光と祝福に繋がるという確信を新たにしましょう。悪に惑わされることなく、正しい道を歩むことが、この世の苦難を乗り越える唯一の道であると心に留め、日々の信仰生活に励むよう、共に祈り求めましょう。
【結論】
神は、悪を行う者の傲慢と罪深さを必ず自らの滅亡へと導かれるよう御計画の中におられます。一方、義と信仰に生きる者には、試練を乗り越えた先に必ず栄光と救いが約束されています。私たちは、ハマンのような虚栄に流されることなく、モルデカイやエステルのように謙虚で、神の御心に従った生き方を実践し、日々の生活の中で神の正義と慈愛を信じ歩むべきです。主イエス・キリストのお名前によって、皆様に祝福と平安が豊かに注がれますように。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
語らぬべき時(エステル5:3-8):右クリックで保存
【概要】
本日の説教では、エステル記5章3節〜8節の場面を通して、エステルの慎み深さと絶妙なタイミング、そして神の御導きの中で信仰者としてどのように行動すべきかを学びます。
【聖書箇所】
・エステル記 5章3節〜8節
・伝道者の書 5章1節〜3節、7節(関連箇所として参照)
【戒めの言葉】
・自らの唇を節制し、焦って不用意な言葉を発しないよう戒めます。
・神の御前では言葉に重みがあり、軽率な発言は霊的危険を招くことを心に留めてください。
【励ましの言葉】
・エステルが示したように、正しい時と場面では謙虚な姿勢で神と人とに向き合うことが大切です。
・焦らず、神の導きとタイミングを信頼することで、必ず救いへの道が開かれると励まされます。
【***詳細***】
本日の箇所であるエステル記5章3節〜8節は、神の御計略の中にある人間の立ち回りや心の持ち方について、多くの示唆を与えてくれます。物語は、エステルが王に呼び出されるという非常に緊迫した状況から始まります。王は「どうしたのだ、王妃エステル。何が欲しいのか。王国の半分でもあなたにやれるのだが」と尋ねます。ここでまず私たちが注目すべきは、王の寛大な言葉と同時にエステルの慎重な態度です。エステルは、王の好意に甘えるのではなく、断固としてイスラエルの救いという使命を果たすために、自らの口を極力制しながらも、タイミングを見極めた上で発言することを選びました。
エステルは、30日間王と直接会わず、断食と祈りに励む中で、神の御導きを求め、また自分の立ち位置とその言葉の重みを深く考えたことが伺えます。彼女の心情や行動を通して伝えられるのは、「焦って不用意に物事を語らず、まずは状況を見極め、神の与えられた時にのみ行動すべきである」という教えです。私たちもまた、日常生活の中で多くの選択を迫られたとき、また上司や大切な人との対話において、エステルのように自らの言葉に慎重になり、まずは相手の状況を尊重する姿勢を持つことが求められます。
エステル記の中で、エステルは王に対していきなり求めを述べるのではなく、まず「もしも王様がお許しになられ、今日私が設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください」という一見柔らかい言葉から切り出しました。聖書にも「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしくて私の願いを許し、私の望みを叶えていただけますなら」という言葉が強調されているように、相手の意向やその時の空気を読み、そして適切な言葉を選ぶことの大切さが示されています。これは、私たちが大切な場面で語るべき言葉を熟考し、状況に応じた柔らかい表現と謙虚な態度を保つべきであるという戒めともいえます。
また、伝道者の書に記されている「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ」という御言葉は、私たちに何気なく使う言葉や行動が、実は大いに注意深く扱われるべきものであることを説いています。エステルが王前で示した謙虚さは、この御言葉と共鳴しています。つまり、偉大な御業をなすためには、まず自らの言葉に責任を持ち、むやみに語らないという自己制御の精神が必要なのです。
エステルの一見控えめな振る舞いの背後には、真実の信仰と神への従順、さらには民族全体の存亡がかかっているという重大な使命感がありました。彼女はまた、ハマンという敵対者の動向を探るために、あえて宴会に王とハマンだけを招き、その場の空気を観察するという知恵も示しています。この行動は、決して軽率なものではなく、むしろ神の時と導きに身を委ねた慎重なる戦略であり、危機的状況においても冷静さと思慮深さを失わない模範として、私たち信者に大いに学ぶべき点です。
また、エステルがその願いを発する際に用いた言葉、すなわち「もしも王様がよろしければ、」という始まりは、相手に対する敬意と控えめな姿勢の表れです。現代においても、私たちが職場や家庭で大切なことを伝える場面では、まず相手の境遇や心情に配慮し、余計な主張や感情を控えるべきだと示唆されています。たとえば、上司に何かを訴えたい時や、家族との意見交換において、まずは相手の話をよく聴き、相手の心情を理解することが、実りある対話と建設的な解決への第一歩となるでしょう。
さらに、今回の説教で強調したい点は、私たちが言葉を発する際に神への畏敬の念を忘れてはならないということです。人はしばしば、いかに自らの考えを言葉に尽くそうとも、焦りや思い過ごしから無駄な発言をしてしまい、結果として自らを窮地に陥れることがあります。エステルが示したように、智慧ある人は「言葉数を少なくせよ」と忠告される通り、むやみに多くを語らず、必要な時に必要な言葉だけを発するのです。これは、日常生活におけるコミュニケーションはもちろん、霊的生活においても極めて大切な姿勢です。
現代社会において、情報があふれ、誰もが自分の意見を容易に発信できる状況ですが、私たち信者はエステルのように、常に神の御前において謙虚であり、時機を得るまで自らの言葉を慎むべきです。焦って無理に物事を前進させるのではなく、「主の時がある」と信じ、静かに、しかし確固たる信仰と知恵をもって行動することが求められます。そうすることで、神は確実に私たちと共に歩み、時には危機的な状況さえも救いの道へと導いてくださるでしょう。
このエステルの姿勢は、私たちにいくつもの霊的な教訓を残しています。彼女は一見、控えめで遠回しな言い方に見えるかもしれませんが、その裏には深い戦略と信仰の確信が流れていました。王の好意を得るためだけでなく、民族全体の命運を背負っての行動であったため、自らの口を慎み、神の御計らいに身を委ねることが如何に重要であるかが浮き彫りになっています。私たちもまた、日々の生活の中で神の導きを求め、コミュニケーションには十分な注意と謙虚さをもって臨むべきです。
例え仕事や家庭での小さな衝突、あるいは意見の食い違いがあったとしても、すぐに感情的な言葉を発するのではなく、まずは相手の気持ちに寄り添い、神の知恵によって冷静に判断することが信仰者として成熟する鍵です。そして、神が定められた正しい時に、私たちもまた必要な言葉を発する勇気と知恵を受けることでしょう。エステルのように、慎重に、しかし強く、そして謙虚な態度を忘れずに進むならば、どんな難局も乗り越えられると信じています。
この説教を通して、私たち一人ひとりが自らの言葉に責任を持ち、神の御前にあって控えめかつ賢明な判断を下すことの重要性を再認識し、またそれを実践する決意を新たにできるよう、心から祈り申し上げます。どうか皆さんもエステルの模範に習い、日々の生活の中で自らの唇を節制し、神の時を待ち、その導きに従って行動する信仰者となりますように。イエス・キリストのお名前によって、皆さんの家庭、職場、そしてあらゆる場所に神の平安と祝福が豊かに注がれますように、心からお祈りいたします。
【結論】
エステルの慎み深い行動と絶妙なタイミングは、神の御導きのもとに生きる私たちにとって大いなる模範です。私たちもまた、焦らず、謙虚に、そして神を畏れる心を持って日々のコミュニケーションに臨むことで、どんな困難も乗り越え、神の御計らいに沿った素晴らしい未来へと歩みを進めていきましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
着飾ってただ立つ(エステル5:1-2):右クリックで保存
【概要】
本日は、エステル記5章の冒頭に見る、エステルが神の民のために命を懸けて謁見に臨んだ勇気と、その無言の振る舞いに秘められた信仰の力を学びます。その姿は、私たちに主の御前に正しく立つための模範を示しておられます。
【聖書箇所】
・エステル記 5章1節〜2節
・1ペテロ 3章1節〜6節
・ルツ記 3章9節
・雅歌 1章9節〜11節
・雅歌 4章9節
【慰めの言葉】
私たちがどんなに弱さや恐れを抱いていても、主はその心の奥にある真実な姿を見逃されません。エステルやルツのように神から与えられた贖いの衣に包まれていれば、どんな困難も乗り越えることができるのです。
【励ましの言葉】
王に謁見に臨むエステルのように、恐れずに主の御前へと進み出る勇気を持ちましょう。たとえ命のリスクがあったとしても、無言の誠実な振る舞いは、必ず主に届く確かな証です。
【戒めの言葉】
自己流の飾り付けや、世俗の価値にとらわれた心では、主の御許へ受け入れられません。主が授ける義の衣を軽んじ、誇示することなく正しい姿勢を保つよう自覚しましょう。
【勧めの言葉】
日々の断食と祈りを通して、自身を清め、霊の油で塗るよう努めましょう。そうする時、主が約束された守りと愛を実感する日が必ず来ると信じ、確信を持って歩みを進めることができます。
【悔い改めの促しの言葉】
もし今まで自分流のやり方で主に近づこうとしていたなら、今一度立ち止まり、真の贖いの衣に心を改めましょう。自分の外面的な飾りではなく、内面からにじみ出る穏やかな霊を、主の愛によって研ぎ澄ませる時です。
【***詳細***】
本日私たちは、エステル記5章1節〜2節に記されているエステルのある勇敢な姿に立ち返ります。エステルは、王妃としての地位を得ながらも、イスラエル民族を救うために自らの命を懸け、呼ばれていないにもかかわらず、敢えて王宮の内庭へと足を踏み入れました。聖書は「エステル記5章1節」にその状況を記録しています。王は、王宮の玉座に座しながらも、エステルに気付き、手に持った金の尺を彼女に向かって差し伸べられたのです。これこそ、神の民の救いを信じたエステルの無言の訴えであり、王でさえもその振る舞いに応じざるをえなかった瞬間でありました。
エステルは、ただ言葉を並べるのではなく、身なりを整え、王妃としての衣装に身を包み、慎ましやかでありながらも厳かな姿で謁見に臨みました。命を賭してでも、イスラエル民族の未来を託すその行動は、現代に暮らす私たちにとっても大変重い意味を持っています。私たちも、主の御前に立つ時、自己流の華美な装いではなく、主ご自身が支給された義の衣、つまりキリストの贖いの霊に満たされた姿で謁見に臨むべきです。聖書は「1ペテロ3章1節〜6節」において、敬虔な婦人が夫に従い、内面の美しさを現すことが、神に喜ばれる姿であると教えています。これは、エステルやルツが示した無言の従順さに通じるものであります。外面的な飾り付けは一過性のものにすぎず、内面に宿る平和な霊こそ、永遠の救いにつながる真実の装いなのです。
さらに、ルツ記におけるルツの姿勢も私たちに大きな示唆を与えます。ルツは、ナオミの導きに従い、体を清め、香り高い油で身を飾り、そして無言で買い戻しの権利を訴えました。聖書「ルツ記3章9節」の言葉には、ルツが「あなたの衣の裾を広げ、私に覆いを与えてください」と謙虚に訴える場面が描かれており、彼女の静かな忍耐と信仰が、最終的にボアズの心を動かしたのです。私たちも、自己主張や派手な言葉に頼るのではなく、内に秘めた静かな誠実さをもって主に謁見すべきです。エステルもまた、王の謁見に臨む際に、断食を三日三晩続け、多くの人々の祈りに支えられ、そして自らも主に信頼するその無言の振る舞いによって、王の心を動かしました。
聖書「雅歌 1章9節〜11節」及び「雅歌 4章9節」に見られるように、真の美しさとは言葉や外見にとどまらず、無言のまなざしや、内面からあふれ出る神の愛に根ざした姿からにじみ出るものです。ソロモン王が愛した女性の美しさは、単なる外面的な装飾だけではなく、彼女の心のあり様、そしてその無言の献身の中にあったのです。現代の私たちも、どんなに世俗の装飾が魅力的であっても、主が与えてくださる義の衣、すなわち救いの恵みによって着飾ることこそが、真に勝ち取るべき美しさであると信じなければなりません。
また、イエス・キリストが十字架上で見せられた無言の忍耐は、義人アベルの血が主の御前で雄弁に叫んだと伝えられる聖書の記述にも重ね合わせることができます。私たちにとって、無言の振る舞いはただ沈黙を守るだけのものではなく、主へ捧げる崇高な証であり、心からの信仰の表現なのです。王に対して、身を粉にして謁見に臨むエステル、そして買い戻しの権利を無言で求めたルツの姿は、私たちに「恐れずに主の御前へ」と叫びかけています。
私たちが日々の生活の中で、自己流の飾り付けや世間の成功、虚飾に頼るならば、主はそれを受け入れず、むしろ外面のみに偏った生き方から離れるよう厳しく戒められます。聖書に記されているように、「我が行い、救いを得ず」とは、自分自身で奮闘することでは決してなく、主から授けられた恵みと義を着こなすことこそが唯一の救いへの道です。主が支給して下さる晴れ着、すなわちイエス・キリストの御顔にあずかるその恵みを、私たちは何よりも大切にしなければなりません。
このように、エステルとルツ、そして雅歌に登場する美しくも勇ましい姿は、現代に生きる私たちにとっての生きた教訓です。たとえ命を賭けるかのような危険な状況にあっても、恐れずに主の御前へと進み、無言の信仰と従順で神の救いを求めるその精神が、いかに尊く、また効果的であるかを思い起こさせます。私たちもまた、日常の中で主から与えられた義の衣を身にまとい、精霊の油で心を満たし、神の前にひたむきな態度で謁見に臨むことができるよう、日々の祈りと自己反省に励みましょう。
どうか、エステルが命をかけたその勇敢な振る舞い、そしてルツが謙虚に従ったその無言の態度が、私たち一人ひとりの心に刻まれ、どんな困難な状況にあっても主に頼る信仰と希望の証として生き続けますように。私たちが自分の作り上げた飾りではなく、真に主から授けられた義の衣を纏い、内面から溢れ出る霊の香りによって神の栄光を称える者とならんことを、主イエス・キリストの御名によって固く宣言いたします。
あらゆる状況の中で、無言の振る舞いが雄弁に神の御心を伝えるという確信のもと、我々は命懸けの信仰、自己犠牲の愛、そして神への絶対的従順をもって、この地上での日々を歩んでいきます。どうか、私たちが姿勢を正して主の御前に謁見し、くださった祝福に応える真摯な信仰の証を見せることができますように。
本日のメッセージを通し、私たちは決して自分自身の力では救いを得られないこと、ただ主ご自身が支給してくださった義の衣にすがることでのみ、救いと勝利がもたらされるという真実を再確認いたします。私たちは世俗的な評価や外見に惑わされることなく、内面から湧き上がる霊の美しさをもって、ひたむきに主の謁見に臨む生きた証人となるよう努めましょう。
【結論】
エステルやルツが見せた無言の振る舞いと真摯な信仰を例として、私たちも主から与えられた義の衣を信じ、恐れずに主の御前に立つ勇気を持ちましょう。日々、真心をもって自己を清め、主の愛によって満たされる生き方こそが、私たちの救いと未来への道であります。