メッセージ - エステル記カテゴリのエントリ
真の美しさ(エステル記2:12-23)
メッセージ音声
【概要】
本当の美しさとは、外見ではなく、真の王であるイエス様の喜びとなることを求め、その御心に従うことです。自分の価値観や好みを捨て、ただ主を恐れ敬い、従順であることこそが、神と人からの好意を受ける秘訣です。
【聖書箇所】
エステル2:12-23
箴言31:30
【勧めの言葉】
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自分の好みや価値観ではなく、真の王であるイエス様の御心を第一に求め、その喜びとなることを目指しましょう。
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自分の手柄を主張せず、霊的な指導者の教えや命令に謙虚に従いましょう。
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麗しさや外見の美しさ以上に、主を恐れ敬う心を大切にしましょう。
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たとえ今すぐ報いがなくても、私たちの行いはすべて神の年代記に記録されており、やがて必ず報いられることを信じましょう。
【***詳細***】
皆さん、こんにちは。
今日皆さんと共に見ていきたい御言葉は、エステル記2章12節から23節です。まず、12節をお読みします。「娘たちは女たちの規則に従って十二か月の期間が終わった後、一人ずつ順番に、アハシュエロス王のところにはいっていくことになっていた。準備の期間は、六か月は没薬の香油を、次の六か月は香料と女たちのための化粧品を用いて化粧することで完了するのであった。」アーメン。
愛するイエス様、今、私たちがあなたの御心にかなうもの、美しいものとなれますように。あなたが「さあ、立って出ておいで」と言ってくださるような者となりたいです。主よ、本当の美しさとは何か、外見に勝る美しさとは何かを教えてください。今、取り次ぐ僕を清め、このメッセージを受け取るお一人お一人を整えてください。礼拝に来られない方々の上に、あなたの癒しと導きがありますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒め称えます。
ここ最近、エステル記から「本当の美しさ」とは何かを学んでいます。このエステル記の物語では、まずペルシャ全国から美しい娘たちが集められました。そして、その中からたった一人の王妃が選ばれるのです。たくさんの娘たちが集まりましたが、王妃になれるのは一人だけ。彼女たちは、ある意味で必死だったことでしょう。
今日の箇所、12節にあるように、彼女たちは12ヶ月もの間、徹底的にエステティックなケアを受けていました。最初の6ヶ月は没薬の香油で、次の6ヶ月は香料や化粧品で体を整え、体から良い香りが滲み出るほどでした。
ちなみに、「エステ」という言葉は、このエステル記が語源かと思いきや、実は違うようです。フランス語の「エステティック(美学)」は、元をたどるとギリシャ語の「アイステーシス(感知する、感じる)」という言葉から来ています。一方、聖書のエステルという名前は、ペルシア語で「星(スターラ)」を意味するか、あるいはバビロニアの愛と美の女神「イシュタル」に由来すると言われています。エステルの本来のユダヤ名は「ハダサ」で、これは「ミルトス」という植物を意味します。イザヤ書には「いばらの代わりにミルトスが生え…これが主の記念となる」という言葉があります。いばらのような私たちでも、主にあってミルトス、つまりエステルのように美しい存在になることができるのです。
さて、多くの娘たちが王のもとへ行きます。13節にはこうあります。
「このようにして娘が王のところにはいっていくとき、その娘の願うものはみな与えられ、それを携えて後宮から王宮にいくことができた。」
これはすごい待遇です。一年間、徹底的に美を磨き上げられ、さらに王に会うときには、欲しいものを何でも与えられたのです。彼女たちはきっと、自分の価値観で「これが一番良い」と思う最高の宝石や衣装、香水を求めて、王の前に出たに違いありません。一晩で人生が変わるかもしれない、王の心を射止められるかもしれない、そんなチャンスに全てを賭けていたのです。ハーレム(後宮)は、自分の美しさで王の心を掴もうという女性たちの気迫で満ちていたことでしょう。
しかし、その世界は非常に厳しいものでした。14節を見てみましょう。
「娘は夕方にはいっていき、朝になると第二の後宮に帰ることになっていた。そこはそばめたちの監督官である王の宦官シャアシュガズの管理のもとにあった。その女は王が気に入って指名されるのでなければ、二度と王のところにはいけなかった。」
王に気に入られなければ、二度と会うことはできません。一晩きりで、その後一生召されることなく生涯を終えた女性も多かったでしょう。その夜の王の機嫌や、ほんの偶然によって運命が左右される。多くの女性たちは、その一瞬の偶然に賭けるしかなかったのです。これは、私たちの世界にも通じる厳しさです。たった一度の面接やテスト、タイミングや偶然によって、その後の人生が大きく変わってしまうことがあります。この後宮は、まさにそうしたこの世の厳しさが凝縮された場所でした。
しかし、その中で一人、必死さを感じさせない女性がいました。それがエステルです。15節です。
「さて、モルデカイが引き取って自分の娘とした彼の叔父アビハイルの娘エステルが、王のところにはいっていく順番が来たとき、彼女は、女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。」アーメン。
他の女性たちが自分の好みで飾り立てたのとは対照的に、エステルは自分の価値観を一切持ち出しませんでした。彼女が求めたのは、ただ一つ、「王の宦官ヘガイが勧めたもの」だけでした。ヘガイは、王のことを誰よりもよく知るプロフェッショナルです。王の好み、好きな衣装、色、仕草、言葉遣いまで、すべてを熟知していました。エステルは、「王様は何を求めておられるのだろうか」「何が王様の心を穏やかにするのだろうか」ということだけを追求し、ヘガイの言う通りにしたのです。
そして、「こうして」という接続詞に注目してください。「こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた」。彼女が好意を受けた理由は、プロフェッショナルの言うことに素直に従ったからです。
このエステルの態度は、20節にも表れています。
「エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていたときと同じように、彼の命令に従っていた。」アーメン。
彼女は、霊的な指導者であり、父親代わりであるモルデカイの命令にも従順でした。「おっしゃることは何でもいたします」というこの姿勢こそが、王の心を射抜き、すべての人から好意を得る秘訣だったのです。真の王妃となる人の性質は、自分の好みを押し出さず、ただ王の好みを追求することです。
これは、受験生が自分のやりたいことではなく、受験のプロの言うことを聞けば合格しやすいのと同じです。コンテストでも、専門家のアドバイスに素直に従う人が受賞するのです。
エステルは、見事に王の心を射抜きました。17節です。
「王はほかのどの女よりもエステルを愛した。このため彼女はどの娘たちよりも、王の好意と寵愛を受けた。王は王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。」アーメン。
ここで、元王妃ワシュティの名前が出てきます。ワシュティは王の命令に逆らい、自分の好みを通した結果、王妃の位を追われました。一方、エステルは宦官ヘガイと養父モルデカイの言葉に従いました。この「従順」のゆえに、彼女は王の心を掴んだのです。
さらに、エステルは主を恐れ敬う女性でした。彼女はユダヤ人として、神の民に敵対する者には決して頭を下げないという強い信仰を持つモルデカイに育てられました。冒頭で読んだ箴言31章30節には、「麗しさは偽り。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」とあります。
女性が美しくありたいと努力することは素晴らしいことです。しかし、クリスチャン女性にとって、それ以上に大切なのは、主を恐れ敬うこと、そして真の王であるイエス様の好みは何かを求め、その喜びになりたいと願う心です。
雅歌の中に、男性が女性を褒め称える場面があります。彼は、自分が彼女に贈った金の首飾りや宝石を身につけている彼女の姿を「美しい」と褒めるのです。男性は、自分が飾りたいと思ったものを身につけている女性を、愛おしく、美しいと感じるのです。私たちも、自分の好みではなく、誠の王であり夫であるお方の好みを身につけ、その方に喜ばれる者となりたいです。
さて、物語は21節から23節に進みます。ここに、後の大きな出来事への伏線が記されています。
モルデカイが王の門に座っていた時、二人の宦官が王の暗殺を企てているのを知ります。彼はそのことを王妃エステルを通して王に伝えました。22節には、「王妃エステルは、これをモルデカイの名で王に告げた」とあります。ここでもエステルは、自分の手柄にせず、モルデカイの名を立てています。なんと慎ましい女性でしょう。
この企ては調査され、二人の宦官は処刑されました。そして23節の最後に「このことは王の前で年代記に記録された」とあります。
この時、モルデカイは王の命を救ったにもかかわらず、何のご褒美もありませんでした。「なんで?」と思ったかもしれません。しかし、この記録こそが、後にユダヤ民族全体が危機に陥った時に、彼らを救う重要な伏線となるのです。この時点では彼は無名のままで、その功績に対する賞賛も報酬もありませんでした。
私たちも、今、自分の働きが報われていないと感じることがあるかもしれません。しかし、この物語が示しているように、神様はすべてを見ておられます。
「このことは王の前で年代記に記録された。」アーメン。
皆さんの昨日までの行い、今日の行いは、すべて天の書物に記録され続けています。人が見ていても見ていなくても、イエス様の喜びとなる行動をするとき、それは地上で、あるいは天で必ず報いられます。良いことも悪いこともすべて記録されているのです。今日の一日が、皆さんの行動が王の年代記に記され、将来の祝福の伏線となる一日でありますように。イエス様の御名によって祝福いたします。
【結論】
真の美しさとは、外見的な麗しさではなく、主を恐れ、その御心に従う従順な心にあります。エステルのように、自分の好みや価値観を手放し、ただ真の王であるイエス様が何を喜ばれるかを求めるとき、私たちは神と人からの好意を受け、真に美しい者とされるのです。たとえ今すぐには評価されなくても、私たちのすべての行いは神の書物に記録されており、最も良い時に必ず報いられます。主への従順こそが、私たちを飾る最高の宝石なのです。
真の美しさ—内面の品性と神への誠実
メッセージ音声
【概要】
ワシティ王妃とエステルの「美しさ」の違いを通して、神に喜ばれる真の美しさとは何かを学びます。それは外見的なものではなく、悲しみや痛みを知り、神の言葉によって整えられた内面からにじみ出る品格です。
【聖書箇所】
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エステル2:1-11
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エステル2:7
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エステル2:15
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第一ペテロ3:3-4
【慰めの言葉】
あなたが人知れず耐えてきたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けてきたこと、そのすべてを神様は見ておられ、それを「美しい」と見なしてくださっています。
【励ましの言葉】
今はまだ世のスポットライトを浴びていなくても、神の言葉によって内面を整えられ、誠実に歩むなら、神様はあなたを見出し、やがて時が来ればエステルのように大きく用いてくださいます。
【勧めの言葉】
人の評価や流行に惑わされず、外見の美しさを追い求めるのではなく、神の御言葉を中心とした内面の美しさ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない品性を飾りとしましょう。
***詳細***
エステルといえば「美しい」という言葉が真っ先に思い浮かびます。では、聖書が語るエステルの真の美しさとは何でしょうか。今日は、エステル記の冒頭からその秘訣を読み解いていきたいと思います。
エステル記の最初には、二人の美しい女性が登場します。一人は王妃ワシティ、そしてもう一人がエステルです。二人とも美しいと書かれていますが、ヘブライ語の原語を見ると、その「美しさ」には違いがあります。
まず、ワシティの美しさについて、1章11節にはこう書かれています。王様が王妃ワシティを人々の前に呼び出そうとしたのは、「彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と諸侯たちに見せるためであった」とあります。ここで使われている「容姿が素晴らしかった」「その美しさ」という言葉は、「見る姿が美しい」、つまり外見的な美しさを意味します。王は、自分の権力を飾り、宴会を彩るために、人々に誇示するものとしてワシティの美しさを用いようとしました。彼女の人格よりも、見た目が重視されていたのです。しかし、ワシティはその人格のゆえに、王の命令に従わず、結果として退けられてしまいました。
いつの時代も、人は見られることを強く意識します。特に現代では、SNSなどで自分の美しい姿を見せたいという欲求が強くあります。しかし、人に見せるための美しさを追い求め続けると、「SNS疲れ」という言葉があるように、疲弊してしまいます。無理が生じると、その無理は隠しきれないものです。
では、エステルの美しさはどうだったのでしょうか。2章7節を読んでみましょう。
「モルデカイは叔父の娘ハダサ、すなわちエステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔立ちも良かった。モルデカイは彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた。」(エステル2:7)
ここでエステルの美しさを表す言葉は、ワシティのそれとは異なります。「姿も美しく」という言葉には「整えられた」という意味合いが含まれています。そして「顔立ちも良かった」というのは「見るによい」ということです。つまり、エステルの美しさは、単なる外見の美しさだけではありませんでした。それは、全体の雰囲気、にじみ出る品格、柔らかさ、柔和さといった、人格から来る「整えられた美しさ」だったのです。
聖書は、宮殿の華やかさから視点を移し、一人のユダヤ人モルデカイと、彼に引き取られた孤児エステルに焦点を当てます。エステルの物語は、美しさからではなく、両親を失った悲しみから始まります。捕囚の地で、叔父に引き取られた一人の少女の物語です。聖書は、彼女が美しいということよりも先に、彼女が悲しみを経験したことを記しています。エステルの美しさは、何不自由なく育った華やかなものではなく、悲しみや涙、孤独を知っている美しさ、痛みを通って練られた品性、練られた美しさだったのです。
モルデカイは、彼女を自分の娘として、神を恐れ敬うユダヤ人としての教育を施しました。その中で、エステルは外見だけでなく、人の痛みを理解し、思いやることができる内面の美しさを育んでいきました。彼女には、人を安心させる柔らかさがありました。15節を見ると、「彼女を見るすべての者の好意を得た」とあります。彼女といると誰もが安心し、彼女を助けたいと思うような、そんな魅力があったのです。この「好意」という言葉は、「恵み」とも訳され、「愛される柔らかさ」というニュアンスを持っています。
テレビをつければ、見た目の美しさや若さばかりがもてはやされます。しかし、外見の美しさは永遠には続きません。「美人は三日で見飽きる」ということわざもありますし、英語にも "Beauty is but skin deep"(美しさは皮一枚にすぎない)という言葉があります。外見は文字通り皮一枚のものですが、内面の美しさは違います。むしろ、主と共に歩む中で、その美しさは年を重ねるごとに深まっていきます。
使徒ペテロはこう語っています。
「あなたがたの飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りとしなさい。それこそ神の御前で価値あるものです。」(第一ペテロ3:3-4)
エステルはまさにこのような女性でした。心の中の隠れた人柄が美しかったからこそ、外面的な飾りが加わったとき、さらにその美しさが輝いたのです。
この時点では、エステル自身は、自分が後に王妃となり、民族を救う器になるとは夢にも思っていませんでした。孤児として育てられ、王宮に召され、与えられた場所で誠実に生きていただけです。私たちも今はまだ、世の中からスポットライトを浴びていないかもしれません。しかし、人目のつかないところでの誠実さ、忠実さ、御言葉を大切にする姿を、神様はすべて見ておられます。主は心を見られるのです。
神様は、羊飼いの少年であったダビデの、神を信頼し敬う心を見抜かれました。同じように、神様はエステルの心に目を留めておられました。皆さんが人知れず耐えたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けたこと、そのすべてを主は見ておられ、その忠実さを「美しい」と見ておられるのです。
ワシティの美しさは「人に見せる」美しさでした。しかし、エステルの美しさは「神に見出される」美しさでした。それは、忠実で誠実な、御言葉に沿った美しさです。私たちも、神様への誠実さを最高の飾りとして、この時代に用いられるエステルのような、またモルデカイのような真の美しさを培っていきましょう。
【結論】
神様が価値あるものとされる真の美しさは、外見ではなく、試練や痛みを通して練られ、神の言葉によって整えられた内なる品性です。人に見せるための飾りではなく、神様の前での誠実さを飾りとし、人々の好意を得るような、柔和で穏やかな心を育てていきましょう。そうすれば、時が来たときに、神は私たちをエステルのように用いてくださいます。
エステル記1章12-22節
メッセージ音声
【概要】
王妃ワシティが王の呼びかけを拒んだことで王妃の座を失った出来事を通して、私たちがキリストの花嫁として主の呼びかけにどう応答すべきかを学ぶメッセージ。真の美しさとは外見ではなく、従順で柔和な心であることが示されている。
【聖書箇所】
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エステル1:12-22
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第一サムエル15:22-23
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第一テモテ2:9-11
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エゼキエル28章(ルシファーについて)
【戒めの言葉】
高慢は滅びに先立つ。王妃ワシティのように、立場や美しさのゆえに高ぶることは、神の呼びかけを拒むことにつながり、結果として祝福を失うことになる。
【勧めの言葉】
主の呼びかけに対して、「主よ、はい、ここにおります」と即座に応答する心を持つべきである。エステルのように「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という従順な姿勢が真の美しさである。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは時として、自分の働きや立場を誇り、主に指図するマルタのようになってしまう。自分の使命に心が急ぎ、御言葉に集中している人々を呼び出してしまうこともある。主の御前に謙遜に立ち返る必要がある。
【***詳細***】
エステル記1章12節から22節、初めに12節を宣言します。「しかし、王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った」。
エステル記の1章は、一人の王妃が王の呼びかけに応じなかったということが発端になって、物語が展開していきます。この王妃ワシティは、たった一度の王の招きに応えなかったことが、王妃の冠を失ってしまうほどの結果を招いてしまいました。
本当に私たちにとっての王はイエス様です。この王妃ワシティも、このアハシュエロス(クセルクセス)王も人間の王、人間の王妃でした。しかし私たちにとっての王、少なくとも私たちはキリストの花嫁であり、そしてイエス様が私たちの王です。今日のところにおいて、王が皆さんに呼びかけるとき、皆さんはどのように答えるべきかということを示しております。
このエステル記の1章は、まばゆい宴会から始まりました。このペルシア帝国は、当時インドからクシュ、アフリカのエチオピアの方面まで治める大帝国、127州を治める当時最大級の帝国でした。その王宮の中において物語が始まります。180日もの間、自分の栄光と富を誇るために宴会が開かれ、そしてさらに7日間、この王宮の庭園で全市民を招いての宴会が行われていました。
その宴会7日目のことです。王はぶどう酒で心が陽気になって、それで王妃ワシティを呼びます。王妃の冠をかぶってみんなの前に出なさい。確かにこの時の王様は酔っておられました。けれども、この王が王妃を呼んだ理由は、彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであったというふうに書かれてあります。
私たちの主イエス様は、私たちが贖われた時に、私たちのことを美しいというふうに呼んでくださいます。王冠をかぶらせてくださいます。本当に私たちもイエス様が、美しい花嫁よ、出ておいで、王冠をかぶって出てきなさい、もう嘆き悲しむことはやめて出てきなさい、と画家所の花婿のように呼びかける時、皆さんはしっかりとそのところから出て、王冠をかぶって出てくるべきなんです。
けれどもワシティは、この時王様がその美しさを見せなさい、王冠をかぶって出てきなさいという呼びかけに対して、それを拒みました。拒んだということを王様が聞かされた時、王様は激しく憤って、その怒りが燃え上がったのです。
このワシティとしては、ちょっと気分が乗らなかったかもしれません。なんかまた酒の肴にされるみたいなことを思ったかもしれません。あるいは、この王妃自身も女性たちの中で宴会を開いていた女性たちの間で何か話し合われていたのかもしれません。とにかく彼女は拒みました。王様のこのお言葉を拒否しました。
ここまでは大丈夫だろうという、そういったことをもしかしたら試したのかもしれません。昨日、試みという言葉について聞きましたね。試みというのは、子供が親の「してはなりません」という線にちょっとだけ、半歩だけ出て、それで親を試してみて、親が厳しい態度を取らなかったら「ああ、ここはいいんだ」と、よしここの線は確保したということで線を越え、またさらにその次の線をちょっと試してみる、ということをよくしてきます。王妃ワシティも、王様のこの呼びかけに今日はちょっとそれに応じないことを試してみようか、もしかしたらそういうことだったかもしれませんが、しかしこれが、この一度が王の怒りを招いてしまったんです。
しかも結果的には、これによって会議が召集されて、それで知恵のある人々に王様は聞いて、その会議の中で決定されたことは、この王妃ワシティはとても良くないことを王様にした、王様にしたばかりでなく王国全体に対して良くないことをしました、と。もしこのワシティが王様の呼び出しを拒絶したということが王国中に知れ渡れば、王国中のその妻たちが、王妃ワシティが夫の声を拒否したということで、甚だしい蔑みと怒りが生じるでしょう。なので、ぜひ王様こういうふうにしてください。もう王妃ワシティは王の前に進み出てはならないというお触れを出して、そしてこのことにきっちり対処するのであるならば、王国中のその妻たちは夫を軽んじることをやめるでしょう、ということがこの会議の中で出されました。
それでそれが全員の心にかなったんです。こうしてワシティは、この時もう二度と王の御前に出ることができなくなってしまって、そしてこのことが王国中に触れ広められました。
ここで本当に考えたいです。王妃という、本当に女性として最高の立場にいた人が、その座をなぜ失ってしまったのか。聖書全体を見渡すと、同じ落とし穴に落ちた存在がもう一つあるんです。それはエゼキエル書28章の方を見るとあるんですけども、もともと美の極みであった御使いルシファーです。ルシファーはもともととても美しい天使でした。けれども、その美の極み、それによって高慢になって、自分も神々の座に、神々と同じ立場になろうということで、その心が高慢になったゆえに、彼は投げ落とされたというふうに書いてあります。
本当に私たちはここから悟るべきです。本当にこの高慢が滅びに先立つものです。滅びというものは何か外側の罪というよりも、いつも私たちの内側から湧き上がって、特にこの高ぶり、高慢、これが私たちを滅ぼしてしまうことになります。
美しいこと、これは罪ではありません。立場が高いことも、それは良いでも悪いでもないんです。ただ、その高い立場を用いて、この王のために働くべきではあるんですけども、問題はその立場、美しさ、それのゆえに高慢になってしまって、私はできるから、私は美しいから、それが高慢になってしまって、そのゆえに高ぶった心のゆえに身を滅ぼしてしまうということ。これが本当に私たち自身、気をつけなくてはなりません。
私たちはワシティほど美しくはないかもしれませんけれども、本当にこの高慢というもの、私、優れているからというこの心、私、他の人よりも特別だからというこの心が滅びに先立ってしまうわけです。それでその高慢が、このワシティの高慢は、王様から呼び出された、それに対して私、王妃だよ、私、王様に並ぶ、その右左に並ぶものだよ、というそういう高慢があったんです。それで王様の呼びかけに答えないという形で表に現れました。
この王様は結局怒りに燃えましたけれども、結局このことを通してワシティは王妃という座が取り上げられてしまいました。
冒頭で宣言した言葉が第一サムエル記15章22節から23節なんですけども、そこにおいて宣言しました。「聞き従うことは生贄に勝る。聞き従うことは牡羊の脂肪に勝る。けれども、背くことは占いの罪、また強情を張ることは偶像礼拝に等しい」。強情ですね。これは偶像礼拝に等しいんです。新改訳の方では「まことに背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ」。この従わないこと、これ強情なんです。
強情を貫き通すことは偶像礼拝の罪に等しいということです。私たち、本当にこの御言葉を前にして強情を張ったら、偶像礼拝と等しくなってしまうんです。
私たちにとっての王の王はイエス様です。イエス様は皆さんのその働きっぷりよりも、むしろ従順であること、イエス様は皆さんのことを求めておられ、その従順を美しいというふうに呼んでくださるんです。
マリアとマルタがおりましたね。マルタお姉さんの方は仕事ができる人でした。仕事を優先させて、イエス様の足元に座ってイエス様のお言葉に聞き入っているマリアを指さして、「ちょっとこのマリアが何も働かないで、私だけ働いているの、それなんともお思いにならないのですか。なんか一言言ってあげてください」ってイエス様に進言したら、イエス様は「マルタ、マルタ」って2回も名前を呼んで、「あなたはいろんなことで心を忙しくしているけど、しかしマリアは何よりも一番大事なことを選んだんですよ。マリアからそれを取り上げないでください」っていうふうに言ったんです。
私たち、忙しくなったり、また仕事ができたり、もろもろするとね、本当にイエス様にさえも指図をしてしまうようになってしまう。本当に私たちはよく気をつけるべきです。イエス様は本当に優しいお方で、マルタに「お前は指図するのか」とか、そういうことは言わないで、「マリアから一番いいものを取り上げないでください」っていうふうに、本当に私たちイエス様に習いたいですね。イエス様のお心、習いたいものです。
私たちは何かと、つい「私、これだけしております。これだけの奉仕をしています」っていうことを言いたがりなところはあるかもしれません。けれども、第一テモテ2章9節から11節には書いてあること、それは本当に私たちキリストの花嫁としてどのように立ち居振る舞うべきか書いてあります。「同じように女も慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、派手な髪の形とか金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい」。
本当に良い行い、これが私たちの飾りなんです。真珠や高価な諸々で身を飾るということよりも、主の目に本当に美しい飾りというのは、柔和で穏やかな心を持って良い行いで自分を飾ること。これが主の御前において何よりも美しい飾りなんです。
ですから本当に神様の御前における真の美しさ、それは外見でもない、お化粧でもなく、またあるいは高価な立場でもありません。本当にこの主からお呼びがかかったらすぐにお答えする。「主よ、はい、ここにおります。主よ、おっしゃる通りにいたします」というその心、それが聖書的な美しさです。
エステルにはそれがありました。エステルは一度も王様に「私それしたくありません」とかそういったこと言いませんでした。エステルの口癖は「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という言葉で、エステルはいつも始めたんです。
本当に私たちもイエス様の御前において、「イエス様、もしあなたの御心でしたら、イエス様、あなたが主人です。あなたの御心がなりますように」。それがエステルの美しさ、真の美しさ、このワシティにはない美しさ。それはこの柔和で穏やかな心、従順な心。これは本当にエステルの美しさです。私たちは本当にこのエステルの美しさを身につけるべきです。
聖書は教会のことをキリストの花嫁というふうに呼んでますね。エペソ書でもそういうふうに言ってます。黙示録においても、私たちは花嫁だっていうふうに言っております。私たち、キリストの花嫁であるとするならば、本当に主がお呼びになる時はすぐに御前に従順な心を持って進み出るべきです。
このワシティは本当にこの高慢が先立って身を滅ぼしてしまいました。エステルはこの従順な心ゆえに王様から愛されました。私たちは真の王であるイエス様から、本当にこの従順な心を持って、真の王であるイエス様から愛される、そのたしなみをしっかりと身につけて、本当にイエス様から王冠がかぶせられて、「さあ美しい人よ、さあ出ておいで」、その呼びかけに応じて、イエス様の御前に、本当にこのキリストから与えられた飾り、柔和な飾りを身につけて進み出て、そして本当にイエス様から愛される皆さんでありますように。
【結論】
私たちキリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応答する従順な心を持つべきである。真の美しさとは外見や立場ではなく、柔和で穏やかな心、そして良い行いという飾りである。エステルのように「主よ、もしあなたの御心でしたら」という謙遜な姿勢を保ち、高慢を捨て、主に従順に従う者となることで、主から愛され、王冠を与えられる祝福に与ることができる。
エステル記1章1-12節 説教
メッセージ音声
【概要】
エステル記1章1-12節から、クセルクセス王の豪華な宴会とワシティ王妃の拒絶の物語を通して、神の御言葉の境界線内で生きる真の自由について学びます。人間の栄光ではなく神の栄光を求め、「思いのまま」という誘惑に陥らず、真の王イエス・キリストに従順に歩むことの大切さを説いています。
【聖書箇所】
エステル1:1-12
【戒めの言葉】
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御言葉の境界線を越えた「思いのまま」の自由は滅びに先立つ
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主を試みてはならない。小さな一線越えが大きな堕落につながる
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神抜きで人間の栄光を誇示する生き方は、最後には王の怒りを買う
【勧めの言葉】
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御言葉の秩序の中にとどまることで、真の自由と幸いを得られる
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ワシティではなくエステルのような従順さを求めよう
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礼拝の姿勢、言葉、時間の使い方において御言葉の境界線を保とう
【悔い改めの促しの言葉】
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自分の心の中の「思いのまま」を点検し、一線を越えていないか吟味せよ
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もし自分の中にワシティに似た面があるなら、それを認めて悔い改めて捨てよ
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記の1章1節から12節です。
エステル記1章1-12節では、はじめに1節から4節を宣言します。
「クセルクセスの時代、クセルクセスがインドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で王座についていた頃、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシアとメディアの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、180日に及んだ。」(エステル1:1-4)アーメン。
今朝も我らは御前に進み出ました。どうか我らにお語りください。御言葉をもって我らを生かし、御言葉によって清め、御言葉の道、その真実の道に歩ませてくださいますように。そうして私たちがこの邪悪な世の中においてイエス・キリストの光を輝かせることができますように助けてください。
ハレルヤ!素晴らしい主の御名をほめたたえ賛美いたします。エステル記の公開説教、エステル記に入りました。前回はこのエステル記という書の全体を眺めました。不思議な書でしたね。この神様の名前、主の御名が一切出てこないけれども、確かにこのページの行間、行間に、一文字一文字の間に神様が働いておられるのを見ました。隠れた私たちの王の御手が私たちを守っているんですね。それがエステル記を通してわかるんですけども、今日は早速その本文の中に一歩ずつ入っていきたいと思います。
この物語の始まり、今日は1章1節から12節までなんですけども、ここにおいてはまだエステルは登場しません。モルデカイとか、また悪いハマンもまだ姿を見せないんですけども、けれどもこの最初の場面、ここにおいて、これから始まる壮大なドラマの伏線が全部仕込まれているんですね。物語には伏線というものが仕込まれているものですけれども、今日の箇所において、この幕開け、現代私たちはどのようにして生きるべきか、その私たちに対して何を語りかけているのか、それが今日の箇所から見ていけるんですけども、まず、この物語はクセルクセス王、新改訳第三版でアハシュエロス王、その治世から始まるんですね。
彼はこのインドからエチオピアまで127州を治める巨大な帝国の王様でした。そしてその首都がスサというところです。スサ、王様はこの治世の第3年に王宮で大規模な宴会を開くんですけども、それがなんとも桁違いな常識外れな宴会なんですね。なんと180日にも及びました。ですからおよそ半年ぐらいですね、ずっと王様はこの王の栄光とまた富を示すためにずっと、この諸国の高官たちに見せ続けてきたんですね。王の栄光、王はこんなにも富んでいるよ、こんなにも気前がいいんだよっていうのをずっと見せ続けました。
そしてその後、それが終わった後に、この首都に住むすべてのものを集めて7日間の宴会を開きました。この王宮の庭には白と紫の幕が飾られていて、大理石の柱とか銀の長椅子、金の杯、それも全部趣向が違っていて、どれもこれも素晴らしいものだったんですね。この王様の豊かな栄光、またその勢力の輝きというふうに4節を見ますとわかるんですけども、でもこれ結局神の栄光ではなくて人間の栄光なんですね。神様抜きで人のこのきらびやかさが輝くと、それは永遠のきらびやかさではないものなんですね。
私たちが今生きているこの世界も同じです。一見きらびやかに見えるところがありますね。このスマホを開くと、多くの人々がSNS上できらびやかな自分を見せておりますね。こんなにも美味しいものを食べている、こんなにもゴージャスなところに行っている、それを自慢している様がたくさんあります。でもキラキラ輝いているその有様のその大半は、神様抜きで人間が作り上げている栄光ですね。問題は、それが輝いて見えれば見えるほど、その背後に隠されている薄暗いところが実はあるものですね。エステル記は、そのきらびやかな幕の裏側を、これから容赦なく見せつけていくことになります。
特にこの8節の方を見てみたいんですけども、8節にこう書いてあります。
「しかし、飲酒は強要しないことという法に従っていた。誰でもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと王が宮廷のすべての長に命じていたからである。」(エステル1:8)
王様はそれぞれ自分の思いのままにさせるよっていうふうに言ってたんですね。強要しない。一昔前はお酒の席に先輩が、上司が注ぐ酒は必ず飲まなければならないという空気がありましたけども、最近は強要しないという空気になってきました。
王様、それぞれ自分の思いのままにさせるというふうに、王様がすべての長に命じていたと8節に書いてありますね。一見、優しい王様の心配りに聞こえますね。これが王様の気前の良さ、また寛大さを表しておりました。けれどもここに落とし穴が潜んでおります。望む通りにしなさい、思いのままにしなさいっていうふうに言われた時、人間はどういうふうに振る舞うか。神様を知らない人間、好きなようにしていいよというふうに、御言葉を知らない神様を知らない人間に言うとどういうふうにすることが目に見えているか。
お酒、好きにしていいよと言われた時に、あ、じゃあ節度を持って適度に飲みますって言って、節度を持って適度に飲むのが人間でしょうか。食べ物、節度を持って健康にいいように食べるでしょうか、太らないように食べているでしょうか。互いに節度を持って節度を持った口調で、また言葉遣いでお話をしたり振る舞ったりしているでしょうか。まあ、ほとんどの場合、そうではないですね。良い方向には進みません。だから街中見ると、成人病を患っている人がたくさんおりますね。限度を超えて、下品なおしゃべりがまかり通ったりして節度を超えて振る舞っているわけです。
ですから、この御言葉の秩序を構築しないままで、いいよ、好きなふうにやっていいよ、自由だからっていうふうにそういう空気を作ってしまうと、いつの間にか何をしてもいいんだっていうそういう空気に変わっていってしまいます。思いのままを許すこの空気の中において、この王様自身もこのお酒に身を委ねて節度を越えていってしまいます。そしてその流れがこの王妃ワシティにも移って、王妃にも移り、宮殿の中に移り、女たちの中に移りということがつながっていきます。
この現代社会もまさにこの思いのままが美徳とされていて、そしてそれがまかり通っていくような時代ですね。思いのままに振る舞っていいんだ。自分らしく、したいことをすればいい、誰にも強制されない。それ自体は何か一見するといいような言葉に聞こえるんですけども、けれども、神様を中心に見据えない思いのまま振る舞っていいっていうところは、必ずどこかしら暴走をしていってしまうものですね。自分は男、女、どっちでもいいんだ。今日は男、明日は気分が乗ってるから女みたいな、そういう自由にしていい、したいことをすればいいということがはびこった結果、どういうふうになるか。本当にこの社会が混乱してしまい、また子どももどういうふうに自分が自分のアイデンティティを確立すればいいのかわからなくなってしまっております。
この誰にも強制されない、自分らしく、これは美しく聞こえる言葉ですけれども、けれども、結局、自由であること、自由であることの幸いというものは、この秩序の中にとどまってこそ、真にこの自由の幸いが輝くわけですね。神様の御心のまま、神様のこの節度の中、御言葉のこの囲いの中にいてこそ、本物の幸い、幸せ、自由はあるんですけども、この神様の御言葉の囲いを超えたところにおける自由気まま、これが滅びに先立ってしまうものになってしまいます。
もう一度言いますと、神様の御言葉の囲いからはみ出た自由、これは自分の身に滅びを招いてしまうものです。
このアハシュエロス王、クセルクセス王の宴会180日、それプラス7日ずっと続いておりました。そのアハシュエロス王の宴会の目的は結局4節に書いてあるんですけども、王様自身のこの栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示すこと、これは人々に示すことでした。見せること、これが目的だということが4節見ると分かります。私はこんなに偉いんだ、私はこんなに気前がいいんだ、こんなに偉いんだって、こんなに金持ちなんだ、それを誇示するための宴会だったんですね。
それで王様はこの心が酔った時にふと思いつきます。そうだ、いろいろと富を見せてきた。じゃあ今度は自分の妻、王妃ワシティがどんなに美しいか見せよう。で、王妃ワシティを呼んでこさせようということで呼んでくるんですけども、けれどもここはクライマックスなんですね。自分の富を見せ、宮殿の豪華さを見せつけて、それでもまだ足りなかった。本当にSNSで自分を見せる時、美しく、なんか美しい自撮りができるような、そういうアプリもありますね。それは自由に加工もできます。なんかこういう風に横が大きいの太いのを縦長にすることもできますし、また何かお化粧しているかのようにも見せることもできますね。
このように自分を美しく見せることのたどり着く先は、実は醜くなってしまうんですね。高ぶりは滅びに先立ちます。心の高慢は倒れに先立つ、箴言に書いてありますね。悪魔サタンはなんで、もともと天使だったのが、サタンに堕落してしまったか。これ、自分の美しさ、これを誇示して神よりも上に立とうとしたからですね。結局、自分の美しさ、自分の素晴らしさ、これを誇示する先には滅びが待っているんです。この王の気前の良さ、それは神様抜きであるとするならば、結局、自分自身を本当に嫌な思いをさせてしまうものになってしまいます。
12節の方を見ますと、この王妃ワシティを呼んだんですけども、けれど、どういう風になったか。
「王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。王は激しく怒り、その憤りは彼の内で燃え立った。」(エステル1:12)
ワシティは王の呼び出しに対して「ノー」をつけました。これわざわざ王様からの7人の宦官、名前が記されている7人の宦官を通して王妃は呼び出されたにもかかわらず、王妃は自分の宴会をこの女たちの間で開いていて、そしてこの7人の宦官の呼び出し、王様からの呼び出しを「いいえ、行きません」ってそれを突きつけたんですね。
聖書がここで示している事実がはっきりしています。大切な原則が隠れています。結局、自分の好き勝手に振る舞って、高ぶって、王の命令さえも拒むものであるならば、最後には王の怒りを買ってしまうということです。私たちが真の王であるイエス様、御言葉、この限度を超えて振る舞うのであるならば、結局最後は、主の怒りを買ってしまうことになってしまいます。
本当に現代の私たちも本当にありがちな話です。ワシティはこの時いきなり「いいえ」を突きつけたのかどうか。おそらく違うはずですね。この拒む、「ノー」を突きつけるという行動の前に、もっと小さな積み重ねがあったんですね。王妃ワシティはこの何をしてもいいよっていう180日がなければ、その前だったらおそらくこういうことはしなかったはずですけども、けれども好きにしていいよという180日の後に、これがあったんですね。
本当に人間、私たち全員含めてです。何をしてもいいよ、好きに振る舞っていいよ、御言葉の範囲、範疇外で自分の思いのままでは、本当にこの王妃ワシティの罠に陥ってしまうことがあります。
聖書に試みるという言葉があるんですけども、「あなたの神である主を試みてはならない」悪魔サタンに対してイエス様が言った言葉です。試みというものは、ここまでいいよという限度、リミットがある。そのリミットを少しずつ超えて、このリミット、白黒はっきりしているリミットですけど、しかし試みというのはグレーゾーンに足を踏み入れて、それで、ここで大丈夫だったらさらにもう一歩踏み越えて、それでもなお何か許されそうな感じであるならばさらに大きな一歩を踏み越えて、そういうふうにちょっとずつちょっとずつほんの小さな線を越えていく。
最初は誰にも叱られない。叱られないということを子どもが経験すると「あ、ここは大丈夫なんだ」って言ってもう少し一歩踏み込んでくる。それでこれも大丈夫、大人は怒らないでいるとするならば、子供はどんどん大胆に大きく踏み外していってしまうようになってしまうんですね。最初だったら絶対に超えなかった線を平気で超えていってしまうようになってしまう。これは試み。子供が親を試みることを積み重ねた結果でしたね。
このワシティもおそらくその積み重ねの結果だったんじゃないかと思うんですね。少しずつ主人である王を軽んじる心が芽生えた。女たちの宴会を開いていた女たちの間で、王様ってさあ、ちょっとあれあれだよねって、そういうふうに盛り上がっていて、その女たちの宴会の世界の中でどんどん蔑む心、傲慢な心、それがどんどん芽生えていく。で、そして境界線がずらされていって、そしてその積み重ねがあの決定的な踏み外しになってしまったんです。
イエス様は荒野で悪魔から試みられた時、はっきりこう言われました。「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。アーメン。
私たちは王の王である主に対して、ここまではいいかなっていうのを繰り返してはならないですね。許されてきたじゃないか、だから自分は大丈夫なんだって、そういうふうにしていってしまうと、どんどんこの歯止しがつかなくなってしまいます。御言葉がやめなさいと告げていること、これぐらいだったらと思って、少しずつ超えていく。言葉の秩序がどんどん乱れていく。お金の使い方が乱れていく。携帯、スマホの使い方がどんどん乱れていく。そして礼拝の順守、それが乱されていく。
本当にこの試みが好きな子供、あるいは人というものが確かにおります。ここまではこうやっていいよ。そういう人はチャレンジングな言葉、チャレンジングな態度をするんですね。そのような人は本当に滅びに先立ちやすいものです。
本当に私たち、特に実際教育をしております。本当にこの御言葉の秩序、これをしっかりと保たなくてはなりません。今、私たちは神様から与えられている自由裁量があります。それを皆さんはどのように使っているでしょうか。神様、確かに私たちを奴隷としてではなく、自由人として扱ってくださっておりますけれども、その自由をどのように皆さんは使っているでしょうか。この自由は神様抜きで好き勝手していいという自由ではありません。しっかりとこの御言葉の境界線の内側で生きる本物の自由、それがあるんですね。これをしっかりと実際に伝えていかなくてはなりませんね。
本当の自由の喜び、これはこの御言葉の境界線の内側、イエス様のその守りの御翼の陰においてこそ、本当の守りと自由があるのであって、それを乗り越えた自由というものは、それは滅びが待っている自由になってしまいます。
私たちは今、主を試みてはいないでしょうか。この主を、主の権威を試みてはいないでしょうか。礼拝の姿勢や、また自分自身の口から出る言葉、あるいは自分のスマホで見るもの、時間、神様との時間、それをしっかりと皆さんは境界線を持って保っているでしょうか。強制されていないからっていうのを理由にして、少しずつ乗り越えていないか、点検したいと思います。
この本当にしっかりと御言葉の境界線を保っている人は、このワシティの結末を避けられる人ですね。ワシティはこの一件によって王妃という地位を失ってしまいました。聖書はこの空いた王妃の座に全く違うタイプの女性を、王妃に据えるということが読み進めていくとわかるんですね。エステルです。
エステル記の物語で、本当にこのまずワシティのこの拒否する、本当に試みに試みて、そして一線を越えてしまったというところの後ろ暗さから始まりました。だから、その後に来るエステルという王妃のこの従順という性質の美しさが際立っていくんですね。2章以降、本当にこのエステルの美しさが際立つのは、このワシティのこの王に対する拒否があったからなんですね。
次回以降、13節から進んでいくんですけども、本当にこの今日、まず私たちは自分の心の中の思いのまま、小さなこの一歩一線を越えてしまうという、これをしっかり点検しましょう。そして本当にこの神様の栄光ではなく、自分の栄光、これをあのサタンやこのワシティの道に倣うことなく、本当にそれはしっかりと十字架の前に置いて、そしてエステルのごとく、真の王の前に対して従順という美しさを、それを輝かせる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
エステル記1章は、神の名が一度も登場しないにもかかわらず、神の御手が確かに働いている書の幕開けです。クセルクセス王の180日に及ぶ豪華な宴会と、「思いのまま」という自由の中で、ワシティ王妃は王の命令を拒否し、その地位を失いました。
この箇所から私たちが学ぶべき大切な真理は、神の御言葉の境界線の内側でこそ真の自由と幸いがあるということです。「思いのまま」「自分らしく」という現代社会の価値観は美しく聞こえますが、神様抜きの自由は必ず暴走し、滅びに先立ちます。
私たちは主を試みることなく、小さな一線越えを積み重ねることなく、御言葉の秩序の中で生きるべきです。ワシティの高慢と拒否ではなく、次章に登場するエステルの従順と美しさを目指しましょう。神様から与えられた自由裁量を、御言葉の囲いの中で正しく用い、真の王イエス・キリストに従順に歩む者となりましょう。
エステル記概要 - エステル記から学ぶ神の摂理
メッセージ音声
【概要】
エステル記は神の御名が一度も登場しない不思議な書でありながら、異教の地ペルシア帝国で生きるユダヤ人を通して神の確かな働きを示す物語である。紀元前480年頃、民族存亡の危機からの救いを描き、日常の「たまたま」の中に働く神の精密な御手を示している。
【聖書箇所】
エステル4:14、エステル1-10章(全体)、サムエル記(聞き従うことに関する箇所)
【励ましの言葉】
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神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられないストーリーの中で、礼拝も自由にできないそういうところにおいても、神様は確かにおられ、働いておられる
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私たちの日常生活の中で、突然の奇跡や声が聞こえなくても、ごく普通の出来事、日常の中において神様は臨在しておられる
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神様は見えなくても確かに働いておられる
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あなたが今いる場所には、確かに神様の意味がある
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「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」(エステル4章)
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人生を振り返れば、神様の歯車がカチッと合っていたことがわかる時が来る
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イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です
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イエス様の名前で祈ったことを、主が実行してくださると約束されています
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主は敵の前で宴を設けてくださる方です
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長年報いが受けられていなかったかもしれないが、天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来る
【戒めの言葉】
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残してはならない悪がある
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自分の中のハマンの性質(弱い者いじめ)を根っこごと引き抜く必要がある
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中途半端な従順は、後に大きな災いの根を残す
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「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪」(サムエル記より)
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悪の芽は小さいうちに摘み取ること
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悪を憎め
【勧めの言葉】
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この時代のエステル、モルデカイとして歩むこと
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それぞれの場所で誠実に働きをなすこと
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神の民として覚悟を持って立つこと
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子どもたちに惜しまずにキリストを届ける者でありましょう
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この時代において選ばれた栄光の次世代を担う者として立ちましょう
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へりくだって主の御心を行使する者となりましょう
【***詳細***】
前回までネヘミア記を公開説教のような形で一章ずつやってきました。今日は、公開説教の後、詩編をやりたかったんですね。詩編の101編でずっと止まって、もうここ数年ぐらい公開説教が滞っていたので、続きをやろうかなと思っていたところ、そこに甲斐先生が突然「あなた今何してるの」って。それで「まあ今公開説教、今度詩編にしようと思ってるんだけど」って言ったら、なんか「エステル記」っていう声が隣の部屋から聞こえてきて、まあ、神学生宣教師がそういうリクエストしたんですけど、「うん」って思って。まあ確かにネヘミア記の次はエステル記だけどもなんて。
で、甲斐先生に言ったら、なんか突然その順番を乱すようなことするんじゃないみたいなこと言われて。それでまあ確かにネヘミア記の次はエステル記だし、まあリクエストもあったから、まあこれが導きだろうと思いまして。ということで、エステル記を今度はまた公開説教をしていきたいと思います。
今日はエステル記の概要的なところを見ていきたいと思うんですけども、まあ、エステル記を一言で表す箇所といえばどこだろうな、と思ったところ、この4章14節ですね。エステル記の4章14節をちょっと宣言したいと思います。
エステル4:14「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない。」
アーメン。一言お祈りします。父なる愛する主よ、エステル記から恵みをいただきたいと思います。あなたが確かにこの箇所へと導かれました。主よ、本当に折にかなった言葉があなたからいただきますことを期待し、感謝いたします。どうか取り次ぐしもべの唇、また聞く一人一人の耳を清め、通りよくしてください。あなたの御旨、それを豊かに悟ることができますように助けてください。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒めたたえ賛美いたします。このエステル記なんですけども、非常に不思議な書でして、この他の書物とは決定的に違うところがあるんですけど、それはですね、何が不思議かというと、実はね、「神」という言葉、「主」という言葉が一言も出てこないんですね。この初めから終わりまで一切出てきません。ヘブライ語でのユダヤ、ヤーウェ、主の御名が出てきませんし、またエローヒムも登場しないんですね。「神がこう仰せられた」とか、「主が現れた」、「神様が答えた」、はっきり書かれてありません。
けれども、それにもかかわらず、このエステル記を読み終わった時には、確かに神が生きて働かれたのだということを、それは確信できる書でもあるんです。このエステル記から、これから一緒に恵みを受けていきたいんですけども、まずね、このエステル記の物語はいつどういう時代であるのかを押さえておきたいんですけども、この時代としてはおよそ紀元前480年頃で、場所は紀元前480年当時の世界の一番の大国である、ペルシア帝国においての物語です。
で、その時の王様の名前は、まあ、アハシュエロス王、まあ、新改訳第三版の方でアハシュエロス王、けれども、歴史上では、クセルクセス王という名前です。新改訳2017ではクセルクセスというふうに記されております。で、その領土はインドからエチオピアまで127の州に及んでいた。それほどの超大国の、その王宮の真っ只中においての物語になるんですけども。
で、エステルが王妃になったのは、およそ紀元前479年頃と言われてます。で、ネヘミアの時代とはまあどうなのか。まあ若干かぶってないんですね。ネヘミアがエルサレムに来たのは、だいたい紀元前445年ですので、エステルの時代はネヘミアよりも一世代前の方なんですね。ですから若干遡る時系列です。
ここで思い出したいのは、ユダヤ人はなんでこのエルサレムから遠く離れていたところにいたのか。これですね。まあ、留学していたわけでもないし、観光していたわけでもないし、バビロン捕囚ですね。この国、エルサレムが滅ぼされて、遠く異国の地に強制的にもう縛られて連れて行かれて、それで行ったその子孫たちがこのエルサレムから遠く離れたペルシアの方に行ったんですね。その子孫たちが、バビロンからペルシアの時代になった。そして故郷に帰ってもいいという許可もおりました。
けれども、このエステル記の時代、まだ城壁が再建されない、その92年の間のストーリーなんですね。ネヘミアとかエズラに率いられて、一部の人々はその時エルサレムに帰りはしたんですけども、けれども、帰れなかった人たちが大勢いたわけです。このエステルとかモルデカイ、まさにその帰れなかった側の人々なんですね。
ここで留めておいていただきたいのは、このエステル記は神殿があるこのイスラエル、エルサレム、神の都の中の物語ではありません。むしろそこから遠く離れざるを得なかった、異教の帝国のど真ん中で生きる人々の物語なんです。神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられない、ストーリーの中で礼拝も自由にできない。そういうところにおいての物語。果たして神様はそこにおられるのか。エステル記は「果たして神様はそこにおられるのか」という問いに対して、「おられる、確かに神様は働いておられる」というストーリーなんですね。このエステル記は。
で、エステル記はですね、もう一つ面白いエピソードは、聖書として選ばれるまで非常に揺れた一冊でもあったということですね。まあ、その理由は、この神様の御名が一つも出てこない。エローヒムも出てこない、ヤーウェも出てこない、一度も出てこない。果たしてこれ、聖書と呼べるんだろうかって昔の人々も悩んだんですね。
また、興味深いことに、あの死海のほとりで、死海写本がたくさん見つかったんですけども、で、旧約聖書39巻のうち、ただ一冊だけ、このエステル記だけが死海写本の中に一つも出てこなかったですね。で、後の時代、あの宗教改革者のマルティン・ルターもですね、このエステル記、一体どういうふうに扱うべきか、果たして本当に聖書と呼べるんだろうかって悩んだ。そういう人もまたいたんですけども、けれども、エステル記はしっかりと聖書のうちの一冊として受け止められたんですね。
それは、ユダヤ人がプリム祭というものを行っているんですね。プリム祭というのは、このエステル記に起源がある祭りです。プリム祭、民族が皆殺しの危険にあった、そこから救われた、それを祝う祭りですね。そして本当にこの神様が確かに働かれて、この民族の危機を救ってくださった、民族の危機、そこから救ってくださった。ですから、ユダヤ人としてはもう民族の記憶そのものだったんです。
で、もう一つ、さらに深い理由。それは神様の御名が書かれていないということ自体が、神様に関する重要なメッセージだということを、それを私たちに訴えてるんだということですね。私たち、今このつくばみらいという場所において信仰生活をしてるんですけども、何か奇跡が突然、空から降ってくるわけでもありませんね。神様の声が聞こえてきたわけではないですね。なんで私たちがここにいるのかって。ここを歩いていたら、阿部先生夫婦に、阿部夫婦、「この土地が主の御心の地だ」って声が聞こえたわけではなかったですね。ごく普通の出来事、日常の中において神様が臨在をして、確かにここが神様の御心の場所だって、そういうふうに確信した。
エステル記は、聖書の中でも非常にユニークな書物です。この書物の最大の特徴は、神様の名前が一度も登場しないということです。しかし、神様の名前が出てこないからといって、神様が働いておられないわけではありません。むしろエステル記は、見えない神様が確かに生きて働かれるということを、私たちに力強く示しているのです。
私たちの日常もエステル記に似ています。神様の声が聞こえるわけでもない。何か、すごい奇跡が起こるわけでもない。そんな日常の淡々とした日々の最中に、神様が確かに生きて働かれるということを、まさにこのエステル記は示しているのです。
エステル記を読み進めていくと、「たまたま」という言葉が何度も出てきます。たまたま、王妃がエステルになった。そしてたまたまユダヤ人の危機が起こった。ユダヤ人たちが断食して神様に祈った。たまたま王様が眠れなかった。たまたま王様が持ってこさせた書物が、このユダヤ人の危機を回復させる手がかりになった。たまたまエステルが王妃になっていて、そして王様に訴えることができた。
王妃エステルは命がけで断食した上で、王様の御前に進み出たところ、王様の快諾を得た。そうした「たまたま」の積み重ねの上に、確かに見えない神様の御手が働いておられたのだということを、このエステル記は訴えているのです。
この聖書66巻が皆さんの手元にあるのは、人間が選んだということではありません。神様が選んで、そしてこの聖書66巻がこうしてあるのです。そして2000年ずっと、この皆さんの手元にある聖書が聖典として皆さんの手元にあるわけです。今、神様は見えません。しかし、見えない神様は、確かに今この時、精密に緻密に働いておられる。エステル記そのものがそれを証明しているわけです。
このエステル記を起承転結的に四つに分類して見てみましょう。
まず「起」、これは1章から3章です。民族危機の種が蒔かれるところから始まります。華やかな宴会の場所から物語が始まります。王妃ワシティが王様の呼びかけに対してそれを無視するのです。そしてそれが原因になってワシティは王妃から退けられて、たまたまこのバビロン捕囚民のエステルが王妃として選ばれるのです。
その一方でハマンが力をつけてきます。悪役です。このハマンに対してユダヤ人モルデカイ、このエステルの叔父にあたるモルデカイがハマンに対して跪かない。ただそれだけの理由で、この民族全体を滅ぼしてしまおうという殺意に変わるのです。
次に「承」の部分、それは4章から5章のところです。この大きな危機の中においてモルデカイがエステルに直訴するのです。王様に直接訴えられるのはあなただけだ、と。けれどもエステルはそれを躊躇します。お呼びがかかっていない時に王様のところに行くことは、死刑になる確率が非常に高いからです。
しかしそこにおいて、聖書の中においても本当に屈指の名言が語られます。「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」。エステルは覚悟を決めます。「もし私が死ななければならないのでしたら死にます」と言って、3日の断食の後に御前に命がけで進み出ます。
そして「転」、6章から7章です。すべてがひっくり返すのです。まさに「転」、物語が本当にクライマックスを迎えるのは、王様がたまたま眠れなくなったところです。そのたまたま眠れなくなった夜、退屈しのぎに記録の書を持ってこさせて朗読させたところ、モルデカイの話が出てきました。モルデカイに対して功績があるのに、彼に対して十分な報いが与えられていなかったのです。
皆さんも長年報いが受けられていなかったかもしれません。それを天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来るでしょう。モルデカイに対しては、ある時、報いが与えられて、その報いがたまたまその夜だったからこそ、ユダヤ人滅亡の危機が回避されたわけです。すべての神様の歯車がカチッと合う時が来て、しかもこのユダヤ人、神の民に対して滅亡を企んだハマンが逆に首をかけられて、自分が立てた25mほどのポールにハマン自身がかけられて、墓穴に自分で落ちたのです。
そして「結」、8章以降です。この嘆きが喜びに変わります。このハマンが下した死の法令が、ペルシアの法令においては取り消せないところがありますが、しかしそこでモルデカイがその死の法令に勝る命の法令を発布するのです。身を守って良いという法令を新たに発布して、こうして滅亡の日は逆に勝利と解放の日に取って代わりました。嘆きの日が喜びの日に変わる。これがエステル記の見事な起承転結なのです。
この古い物語は、今、私たちに新しく命を吹き込んで、三つのことを力強く語りかけています。
まず第一に、神様は見えなくても確かに働いておられるのだということです。私たちの毎日もエステル記に似ております。神様の声を直接かけてくれるわけでもありません。奇跡が起こるわけでもない。仕事があり、家事があり、毎日食事作りがあり、毎日学校の仕込みがあり、淡々と地味な日々が続いていくように見えます。
しかし神様は確かに私たちの中に働いておられます。「たまたま」の連続の中において、私たちにとって必要な物事が起こされていきます。たまたまあのことが起きた。たまたまこの子が来た。たまたまこの授業でこれが必要になってきた。そうした連続の中に、神様は確かに働いておられるということ、これが第一です。
第二は、皆さんが今いるこの場所、それは確かに意味があるのだということです。モルデカイは、「あなたが今、王妃になっているのは、私たちが今ここにいるのは、まさにこの時のためかもしれない」と言いました。今、皆さんがつくばみらいにいるのは、まさにこの時のために神様が置いたのです。
エステルが王妃の座についたのは、このエステルの野心があったからではありません。「ぜひ私が王様のハートを射抜いてやろう」といったことは一切なしでした。まさにこのような時のためだったのです。皆さんが今いる場所、家庭、職場、学校、もろもろの場所、そこにいるのは偶然ではないのです。
一見つまらなく見える、なんで自分がこの役職なんだって戸惑うような場面であったとしても、神様は今まさにこのような時のためにここに置いておられるのだということです。それが二番目です。
三番目。それは皆さん、エステル記を通して皆さんが学ぶべきは、残してはならない悪があるということです。悪を憎め、神様は聖書において書いてあります。
このハマン、実はこのエステル記の時代よりもはるかずっと昔、サウル王の時代、サムエルが、滅ぼし尽くしなさいと言われているアマレク人のその子孫だと言われているのです。サウルが「ちょっとぐらいいいや」って、もったいないから滅ぼし尽くさなかった。ちょっと中途半端に従ったゆえに、この災いの根っこがもうずっと残って、何百年も後にこうしてハマンという悪の実が結んだわけです。
本当にサムエルが言ったこと、それは「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪だ」という言葉が重要になってきます。私たちは本当にこの自分の中の悪、皆さん自身の中のハマンの性質、皆さんを悪どい方向に持っていく、そういったもろもろはもう根っこごと引っこ抜いて、そして残してはならないのです。
このアマレクの性質、これを一言で言えば弱い者いじめです。アマレク、この出エジプトをしていたイスラエルの民、後ろから、弱い者を、落伍した者たちを略奪して、そういう性質です。これはサタンの性質そのものです。
私たちの心の中にも、放置しておけば、この民族を滅ぼしかねないような、そういう悪の根っこ、これ小さい根っことしても残しておいてはならないのです。芽は摘み取っておかなくてはなりません。
このエステル記、神様の名前は一度も出てこないのですけども、でも皆さんにも隠れた王がおられます。イエス様です。このエステル記、神様の名前が出てこないとしても、けれども、この全ページを通して、上から見たら、確かに神様が生きて働かれておられた。神の民を愛しておられた。ということを見ることができます。
私たちの人生も同じです。毎日毎日、1日1日見れば、神様果たしているのかな、神様の御手が見えない時期が続くかもしれません。けれども、人生を上から読み返して見返してみれば、確かに神様が生きて働かれたのだ。このすべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれたんだな、仕込んでおられたんだ、だから今、あの時、あの時期があったんだ、とわかる時が来ます。
神様は今まさに皆さんをこのような時のために、このつくばみらいに、横浜において、あるいはそれぞれの場所、場所においておられます。どうか皆さんはこの神様、見えないかもしれなくても、それでも神様のその御手がちゃんと働いておられるということをはっきりと見て、皆さんも今ここに置かれたエステルとして、あるいはモルデカイとして、このところにおいてしっかりと根ざして、それぞれの働き、誠実になしていきましょう。
どうか皆さんお一人お一人がこの時代のエステルとなり、モルデカイとなり、また本当にこの聖書におけるヒーローとして歩んでいく皆さんでありますように。
さらに、世界を民主主義で、イエス・キリストにある自由民主主義で再編することができますように、あなたがお守りください。トランプ大統領の心が驕り高ぶることがないように。イエス様、あなたがいつも導いてください。そして、へりくだって、主の御心を行使することができますように。
主よ、あなたが祝福してください。イランが何らかの形で、もう本当に今回落ち着いて、そして昔のペルシアに戻ってほしいと思います。なぜならペルシアはイスラエルを助けた実績がある国です。昔の本当に和気あいあいと愛し合った、助け合ったその時代の友情を戻すことができますように。
そしてイランが解放されて、今隠れクリスチャンがどんどん増えているイランが、公においてたくさんの教会が立ち、そしてイエス様を褒め称えることができますように。主よ、あなたが助けてください。
その未来、キリスト教会に、また宣教教会に、栄光の礼拝者、栄光の働き人、栄光の伝道者、栄光のリーダーを送ってください。そして、共に時代を担っていくことができる、イエス様に選ばれた働き人の集まり場所でありますように、主よ祝福してください。
子どもたちに惜しまずにキリストを届ける一人一人でありますように。そして、この時代において選ばれた栄光の次世代がどんどん運ばれてきて、そしてキリストを賛美することができますように。主よ、あなたが祝福してください。
今日一日を主にお祈りいたします。主を敬うべき人と出会わせ、そして良き御言葉に満ちた一日となりますように。私たちがイエス様に会って、良き出会いがありますように。そしてイエス様に会って土地との出会いがありますように。建物との出会いがありますように。主よ、祝福してください。
今、ICUに入っているパク執事のために祈ります。主よ、阿部先生の肺の水を抜いてくださった主よ。私の肺の水を抜いてくださった主よ。彼の肺の水も抜いてください。枯らしてください。呼吸を穏やかにし、イエス・キリストにあって立ち上がりますように。敵の前で宴を設けてくださる主にあって回復しますように。主よ祝福してください。
私の名によって祈るならば、父が聞いてくださる、私が実行すると約束してくださったイエス様のお名前で祈りました。
この時間、祈りの課題をもって主に祈っていきたいと思います。イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です。イエス様の名前を呼びます。
【結論】
エステル記は神の名前が一度も登場しない書物ですが、その全編を通して見えない神様の精密な御手が働いていることを示しています。私たちの日常も同じです。「たまたま」の連続のように見える出来事の中に、神様は確かに働いておられます。
私たちが今いる場所は偶然ではなく、「このような時のため」に神様が置かれた場所です。同時に、自分の中の悪(ハマンの性質)を根っこから取り除く必要があります。中途半端な従順は後に大きな災いを生みます。
見えない王イエス・キリストが、私たちの人生の全ページを通して確かに働いておられることを信じ、この時代のエステル、モルデカイとして、それぞれの場所で誠実に歩んでいきましょう。人生を振り返る時、すべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれていたことがわかる時が来ます。
エステル - 王に促されたなら敵を殲滅せよ(エステル9-10章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
今年に入ってから、王の前に相応しく身を整え、宴会を設けるべき事をエステル記から学んでいる。
それをするなら、王がその人を祝福し、敵の面前で宴会が設けられ、勝利し、大いに栄える事を今まで学んで来たが、いよいよ運命の日が訪れる。ハマンが定めたユダヤ人を滅ぼす日、2月13日は、逆に、神の民を滅ぼそうとしていた者達が、滅ぼされた日となった。全ての人はユダヤ人を恐れ、大臣や総督など主だった人達も皆ユダヤ人側についた。なぜならモルデカイが破竹の勢いで勢力を増していたからだ。
その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、今度は王のほうからエステルに、欲しいものは何でも願え、必ず聞き届けられる、と促されて来た。私達も、キリストの御言葉に留まるなら、王なるキリストのほうから、欲しいものは何でも願いなさい、と促される。そこでエステルは、あの優美な口調で王に言う。
「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください。」(13節) 敵は既に首都スサだけでも五百人が殺され、ハマンの子達10人も死んだ。その上なお敵を根絶し、ハマンの子達の死体は木に架けて晒して下さい、と言うのは、やりすぎでは?と思うかもしれない。あの優美なエステルの言葉とは、あまり思えない。
しかし聖書には、容赦せずに、徹底的に滅ぼし尽くすべき事例を、幾つか見つけられるはずだ。
そうすべき時とは、王からの促しがあった場合、すなわち、王なる主が「せよ」と言われた場合である。
そのような時、神の民の敵に対しては、徹底して滅ぼし尽くさなくてはならない。神の民は、やられてもただニコニコ黙っている者ではなく、主に促されたなら、勇敢に戦い、滅ぼすべき相手は滅ぼし尽くすのだ。
その戦いとは、昨今行われている戦争とは全く性質が違う。ほしいままに富や利権を分捕ったり、他を力づくで自分色に塗り替えたりするものではない。実際ユダヤ人は、許されていた分捕りを、しなかった。
神に敵対し、いのちを踏みにじるサタンのわざに対しては、王なる主キリストの許しが得られ、また「滅ぼし尽くせ」と命じられたなら、徹底的に滅ぼし尽くすべきであって、決して容赦してはならないのだ。
そもそもエステルが願ったこの願い、神の民の敵の根絶は、サウル王の時に成されなくてはならなかった。
昔、サウル王が主から命じられた時、その通りにアマレク人を滅ぼし尽くしていたなら、アマレク人の末裔・アガク人ハマンも生まれる事なく、こんな好き勝手をされずに済んでいたのだ。(1サムエル15章)
私達の内から滅ぼし尽くすべき敵とは、肢体に宿る、御霊に敵対する罪や欲望である。(コロサイ3:5-6)
「何もそこまで」「ちょっとくらいは」と思って滅ぼす事を留めていたら、それはすぐに苦い根(ヘブル12:15)を出して蔓延り、サウル王のように取り返しがつかなくなる。サウル王は結局アマレク人にとどめを刺された。
主が滅ぼしなさいと言われたのに滅ぼさないなら、それが罠となり、逆にとどめを刺されてしまう。それは、ヨシュアの時代のアカンがそうだったし、ヨシュア後のイスラエル国も、ヨアシュ王の時代もそうだった。
エステルは、王の前でも敵の前でも、あくまで優美な品性を身に纏い、自分の好む事ではなく王の好む事を為し、そして、王に促しが与えられたなら、大胆に敵の滅びを求めた。私達もそれに見習うべきである。
こうしてエステルの時代、神の民の敵は一網打尽にされ、ユダヤ人は暫く安息と繁栄を享受した。
彼らは安息を得た日12月14日を祝日として定め、プリム祭として現代でも祝っている。
エステル記最後の10章は、後にアハシュエロス王はさらに強力になり、モルデカイも、王の次の位が与えられ、自分の民族のために多くの功績を残した事が記されている。ユダヤ人も安息の内に栄えた。
最後には勝利と、宴会と、永遠の栄光が待っているのだ。その栄誉を受けるための最も最短コースは、へりくだる事であり、神はそのような人を、ちょうど良い時に高くして下さる。モルデカイはまさにそうだった。
安息を得るには、敵を殲滅しなくてはならない。私達の内に住む罪や汚れ、妬みや憎む心など、滅ぼし尽くすべきものが沸き起こった時は、それをキリストにあって捕縛し、服従させなくてはならない。(2コリ10:5)
服従を着る事が、王なるキリストの前に花嫁衣装を着る事である。そして主のために宴会を設けるとは、主の喜ばれるごちそうを用意する事、すなわち「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」事である。
そのようにする人には、敵の面前で油注がれ、宴を設けられ、敵が蓄えた栄誉や富を、そのまま引き渡されるのだ。そのように安息の内に栄える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
一時期低くされても(エステル9:20-10:3):右クリックで保存
以下AIによるメッセージ概要
【概要】
本日はエステル9章20節から10章3節および1ペテロ5章6節〜11節の御言葉を通して、神の救いの計画と、謙遜・信仰・忍耐の大切さについて学び、日々の生活にあらわれる御業を振り返ります。
【聖書箇所】
・エステル9:20-10:3
・1ペテロ5:6-11
【慰めの言葉】
苦難や敵の陰謀の中でも、神は決してあなたを見捨てず、必ず良い時に高く引き上げ、平和と喜びへと導いてくださいます。
【励ましの言葉】
恐れや不安が襲ってくる時、イエス・キリストの御名にあって、あなたは必ず信仰による勝利と慰めを得ることができます。神の恵みは絶えることがありません。
【戒めの言葉】
高ぶる者に敵対し、謙遜をもって生きることが求められています。どんな状況でも自己中心的な態度を改め、神の御心に従う生活を心がけましょう。
【勧めの言葉】
日々の暮らしの中で、聖書の御言葉・エステル記と1ペテロの教えに立ち返り、互いに支え合いながら信仰を実践し、平和と和解の証となるよう努めましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
過去に傲慢や自己中心的な行いによって御心から逸れてしまったことがあれば、今一度心を改め、神に立ち帰って悔い改めることこそが新たな祝福への第一歩です。
【***詳細***】
本日の説教は、エステル記の9章20節から10章3節までの御言葉と、1ペテロ5章6節〜11節の御言葉を中心に、神の御計画、イスラエルの民が受けた大いなる祝福、そして私たち一人ひとりに求められる謙遜と信仰についてのお話です。
冒頭、エステル記では、モルデカイがアハシュエル王の国内全域にわたって、ユダヤ人に向けた書簡を送る様子が記されています。「アハシュエル王のすべての州の近いところや遠いところにいるユダヤ人全部に手紙を送った」と記され、ユダヤ人にはアダル月の14日と15日が、かつて敵に虐げられていた悲しみの日が、今日では喜びと祝宴の日に変えられたことが告げられています。ここでモルデカイは、ユダヤ人がすでにその日を守り始めた事実と、かつて迫害の道具となった者ハマンへの報いが、神の御計画のもとにあることを強調します。「ユダヤ人を滅ぼそうと企んだ者の企みが、王の耳に入り、その悪い計略をその頭上に返す結果となった」という出来事は、単なる偶然ではなく、神が正義をもって働かれた証と捉えることができます。
このエステル記の記述は、当時のユダヤ人にとって絶大な慰めであり、また新たな希望の光でもありました。書簡により、彼らは毎年この祭日の慶びを忘れることなく、家族や親しい者たちと互いにご馳走を送り合い、貧しい者へも惜しみない贈り物がなされるように定められたのです。モルデカイは、「これを廃止してはならないと定め」と強く謳い、これが子孫に渡り絶えないようにする意志を表明しました。
さらに、説教は歴史的出来事だけに留まらず、現代に生きる私たちへの霊的なメッセージへと話は展開します。聖書の中で語られる、ハマンの悪計が逆に彼自身やその子どもたちに返された事実は、世における善と悪、正義と不正の戦いの中で、神が決して義人を見捨てないことの証です。実際、歴史上のユダヤ人が迫害や絶望の中からいかにして這い上がり、神の御加護を受けて幸運をつかんできたかを、私たちは今日の生活の中にも当てはめながら考えるべきです。
現代においても、私たちの周囲には常に「サタン」という名の霊的な敵が存在しています。説教では、これを「日々、日が攻め立てる敵」と例え、私たちはキリストにあって、恐れや不安という死に至る闇に対して、光と命に変える力を持っていると強調されました。具体的には、「恐れや恐怖といった死にかかわる勢力は、イエス・キリストの名前によって打ち消すことができ、結果として平安と休みが与えられる」と説かれています。私たちが心からイエスにあって信仰を保ち続けるならば、たとえどんな激しい敵対勢力が襲いかかっても、必ずや神の保護と導きを受けることができるのです。
また、説教は人間関係の中での妬みや争い、兄弟姉妹間での憎しみについても触れています。これらの悪しき感情は、まさに悪魔にとっての攻撃材料であり、私たちが内面で抱えるすべての否定的な感情は、霊的な平安を乱す要因となります。だからこそ、キリストにあってそれらを打ち消し、自己の自我や誇りを十字架に釘付けにすることこそが、神の国において高められるための最も確かな道であると教えています。
続いて、説教は1ペテロの御言葉に移ります。1ペテロ5:6-11では、「若い人たちは長老たちに従い、皆互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」と書かれており、ここからは謙遜と信仰の実践がいかに重要かが説かれています。説教者は、こうした御言葉を通して、常に「神の力強い見ての下にへりくだる」ことの大切さと、敵である悪魔が獅子のように獲物を狙っている現実を強調します。私たちは、霊的な目を覚まし、信仰に立ち続けることによって、悪魔の策略に決して屈してはならないという、戒めと励ましの両面のメッセージが込められています。
説教はその後、歴史上の偉人、例えばヨセフやモルデカイの例を引き合いに出し、低いところから神に守られ、ひたむきな誠実さゆえに高い地位へと導かれたその姿勢を紹介します。ヨセフが奴隷売られ、牢獄に送られた後に、神の計らいにより王の右にまで上り詰めたこと、そしてモルデカイが最初はささやかな役職であったにもかかわらず、最終的にはアハシュエル王の次に位するに至ったことは、どんなに苦しい状況の中でも真摯な信仰と正直な行いが報われることを、私たちに示しています。
ここで注意すべきは、世間の常識や、短絡的な手段に頼るのではなく、純粋な信仰と謙遜、そして神の御言葉に従う生活が、最終的に神様の大いなる祝福と平安へと導くという確信です。説教者は現代のユダヤ人がプリム祭を祝う様子にも触れ、その伝統が家族や地域、さらには異文化間の交流を通して生き続けていることに感嘆を示しています。一方で、同じ祭りの日に大人たちが過度に飲酒にふける現状もあり、このような習慣が本来の霊的な意味や感謝の念をかすめる危険性についても戒めがなされています。
更に説教は、日常生活における人間関係の葛藤や、不和が生じた際の和解の大切さについても触れています。過去に己の誤りを謝ることなく放置していた結果、関係に亀裂が生じた事例を紹介し、誠心誠意謝罪し、改めることで和解へと向かったエピソードは、私たち一人ひとりにとって大きな励ましであり、また悔い改めの動機となるべきものです。
最後に、説教は私たちが今日この場所において学んだエステル記や1ペテロの教えを、霊的なアブラハムの子孫としての責務と受け止め、全世界に福音の良い知らせを伝える使者となるよう呼びかけています。イエス・キリストがご自分を無にして人々に仕え、十字架の死に忍び従った後、天に高く引き上げられたことは、私たちにとっても大いなる希望であり、模範です。どんなに一時的に挫折や苦難の中にあっても、神の御計画の中では必ず「ちょうど良い時」に引き上げられると信じ、それに向かって謙遜と誠実をもって歩むことが大切です。
この説教を通して、私たちが学ぶべき点は、神が歴史・人の運命に働きかけ、あらゆる状況の中で救いと平安をもたらしてくださるという確かな御約束、そして私たち自身が日々の生活の中で謙遜に、真摯な信仰によってその祝福に応えるべきだということです。
改めて、エステル記にあるように、絶望の中にあっても神は救いの日、喜びの日を準備され、また1ペテロの御言葉は、私たちに常に「へりくだること」を求め、悪魔や世の迷いを退けるための忠告として語られています。今日の説教が、あなた自身の心に光をともすとともに、日常生活の中で勇気と決意を新たにする契機となることを、心から祈っております。
【結論】
エステル記と1ペテロの御言葉は、神の救いの計らいと、私たちに求められる謙遜な生き方、信仰の堅持を教えています。暗い時にあっても神は必ず光を差し、苦難の後に喜びと平安をもたらしてくださいます。私たちは、イエス・キリストにあって真摯な信仰を持ち、謙遜な心で日々を歩むことにより、いずれ神の大いなる祝福に導かれることでしょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
容赦してはならぬ時(エステル記9:1-19):右クリックで保存
【概要】
本日の御言葉は、ユダヤ人が絶望の中から神の守りによって勝利を得られたエステルの御業と、エリシャを通して神の命令に従うことの大切さを示された列王記の御言葉により、神の御業と信仰に基づいた断固たる行動の必要性を教えています。
【聖書箇所】
エステル9:1-19
列王記13:14-19
【慰めの言葉】
どんなに暗く見える状況でも、神は常に御自分の民を守り、絶望の中にも導きと慰めをお与えになります。
【励ましの言葉】
私たちがおのおのの信仰に立ち返り、神から与えられた力と恵みに全幅の信頼を置くなら、どんな強大な敵にも立ち向かえると励まされます。
【戒めの言葉】
神の御命令に従うにあたり、決して妥協や曖昧さを許してはなりません。部分的な従順は、かえって敵を許すことにつながり、私たちの歩みを阻む罠となります。
【勧めの言葉】
教会の兄弟姉妹として、私たちは自らの信仰生活において、徹底的に主に立ち返り、時には勇気をもって敵と向き合い、取り除くべきものを徹底的に排除する態度を持つべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
もし私たちが世俗の妥協や怠惰に流れてしまっているなら、今こそ立ち返り、悔い改めの心を新たにして、神の御前に謙虚に立つことを促します。
【***詳細***】
今日、私たちが聞くのは「エステル9:1-19」の御言葉です。かつて、ユダヤ人の敵は彼らを滅ぼそうと狡猾な策略を巡らせ、王の命令によってユダヤ人が全土で打倒される危機が迫りました。しかし、神はその御手をもって事の流れを逆転されました。敵を害する意図を抱いていたものが、実際にはユダヤ人自身に対して敵対していた者たちを全力で打倒する結果となり、諸州の主官や王の役人までもが、神の力の前にひれ伏さざるを得なかったのです。エステルの勇気ある姿勢、王妃として王に助けを求めたその決断は、ただ単に自己の救いのために留まらず、民族全体の命運を変える重要な瞬間でありました。私たちはここで、障壁を打破し神が定められた救いを、敵に対して断固として立ち向かう決意から受け取るべきであるという教えを得ます。
この御言葉に現れる状況を振り返ると、ユダヤ人が集い武装して敵対勢力に立ち向かった様は、単なる歴史的事件にとどまらず、今日の私たちが信仰の戦いにおいても、神が与えてくださる権限と守りにより、立ち向かうべき敵の存在を象徴しているとも言えます。各人が家族や共同体を守るため、また純粋な信仰を保つために、断固たる姿勢で進む決意は、神が私たちに与えた聖なる使命そのものです。このとき、私たちは神の御名によって召された民として、「敵を徹底的に打倒せよ」という御命令を胸に刻み、現代における霊的戦いにおいても、迷いやためらいを捨てるべきであると教えられます。
また、「列王記13:14-19」に記されている、エリシャ預言者とイスラエルの王との出来事も、徹底した従順の大切さを今に伝えております。エリシャが王に、主の勝利をもたらす矢を掲げるよう命じ、その具体的な行為において徹底されるべき神の意向を示しました。もし、王がエリシャの示された回数通りに矢で地面を打たず、主の命令を完全に遂行しなかったならば、その結果は単なる戦術の失敗だけでなく、国全体に災いがもたらされたことでしょう。部分的な従順は、後に大きな悔いや災厄につながるとエリシャは厳しく戒めました。このことから、私たちは主の御命令を徹底的に実行することの重要性、決して曖昧な態度をとってはならないという戒めを学びます。
歴史の中で、エステルが王に対して恐れず訴え、大胆に敵対勢力に立ち向かったように、またエリシャが神の命令に忠実に対して容赦なく徹底行動を促したように、今日の私たちも神の民として、一切の妥協を許さず、霊的な戦いにおいては強固な姿勢を持たねばなりません。現代社会では、キリスト者に対する迫害や試練、また悪霊やサタンの勢力がまさに顔を出し、私たちの信仰を攻撃しようと試みる状況が見られます。これらの霊的な敵に対して、単なる受動的な姿勢ではなく、断固たる呪いの祈りと、神から賜る権限に基づいた積極的な行動をもって立ち向かうべきであるというメッセージを、私は強く心に刻みました。
ここで、私たちが思い出すべきは、エステル記におけるあの劇的な転換点です。かつて、敵がユダヤ人を侵略し滅ぼさんと企んだ法令が、結果としてユダヤ人に自らの敵を打ち倒すための法令に変わりました。王の命令において、彼らの敵対する者たちは一斉に滅ぼされ、彼ら自身が休みと祝宴の日を迎える結果となりました。神は常に、彼の民を守るための抜本的な変革をもたらされるのです。私たちも、もし心の中に神に敵対する思いや、妥協が存在するならば、むしろそれに立ち向かい、断固として排除する必要があります。そうすることで、私たちは神の完全な守りと祝福の下で、真の繁栄と平和を享受できるのです。
そして、エリシャが示されたエピソードは、私たちに「主の言葉に耳を傾け、忠実に従うこと」がどれほど重要であるかを改めて訴えかけています。王がわずかにしか従わなかったために、後になって多くの災いが起こったように、私たちもまた部分的な信仰や曖昧な従順では、結果として自らの霊的な安全と繁栄を損なってしまいます。聖書は私たちに、決して手を緩めず、主の敵、つまり私たちの心や家族、共同体に害を及ぼすあらゆる霊的な悪と戦い抜く決意を持つように求めています。
私たちは、エステルやエリシャ、サウル王や古のイスラエルの歴史から、神がどのようにして御民を救い、敵を徹底的に打倒されるかを知ることができます。これらの御言葉は、ただ歴史の記録としてではなく、今日の私たちの信仰生活に対する直接の教訓として、より明確に届けられています。もし、今私たちの心に何らかの障害や敵意、世俗への依存があるならば、それはすぐに取り除くべき対象です。神は、私たちが純粋な心で、まっすぐ神に従い、そして主の敵に断固として向かうようにと命じられています。
最後に、現代という時代においても、我々の周囲には信仰に逆らう勢力が渦巻いております。しかし、歴史の中で神が示された御業と、エステルやエリシャのような聖なる生き方が、今日の私たちへの強い励ましとなっています。私たちは、この御言葉にあるように、主の命令に従い、断固たる信仰と行動をもって、世の中の悪に立ち向かいます。そして、敵に対しては決して妥協せず、神から与えられた権限を信頼して、全力で取り除く努力を惜しまないよう誓いましょう。主がもし、私たちに具体的な行動を促されるならば、その御命令に即座に従い、内にある不信仰や妥協する心を断ち切るよう、真摯な悔い改めの姿勢を保つよう努めなければなりません。
このように、エステルの勇気とエリシャの厳しい戒めは、今日のクリスチャンにとっても普遍的な霊的戦いの模範であり、私たちの内に潜む霊的な障害を根絶するための確固たる指針となります。どんな時も主の導きに信頼し、逆境の中でさえも神の守りと戦いの力を信じ、歩み続けるその姿勢こそ、私たちが目指すべき真の信仰であると確信いたします。
【結論】
エステルとエリシャを通して示された御業は、私たちに神の守りと御命令に徹底的に従うことの大切さを改めて教えてくださいます。どんな困難や霊的な敵が現れようとも、主の力に信頼し、妥協せず徹底的に立ち向かう姿勢を持つならば、私たちは必ずや祝福と勝利の中に歩むことができるのです。アメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
法則のカウンターパンチ(エステル8:9-17):右クリックで保存
AIによる要約
【概要】
本日のメッセージは、エステル記8章9節から17節とイザヤ書61章を通して、神の救いの計画、罪と死の法則に対抗する命の御霊の法則、そして逆境からの勝利と今を生きる私たちへの希望について語られています。エステル記の歴史的出来事と、イザヤ書の預言が重ね合わされ、神の摂理と救いの約束が強調されています。
【聖書箇所】
・エステル8:9-17
・イザヤ61:1-9
【慰めの言葉】
どんな困難な状況においても、神は必ず私たちに救いの手を差し伸べ、絶えず希望と祝福を与えてくださいます。ユダヤ人が絶望の淵に立たされた時も、神は祈りに応え、逆転の勝利をもたらされました。
【励ましの言葉】
信仰をもって歩むとき、私たちは過去の苦しみに支配されることなく、新たな力と勇気を受け、日々の戦いに勝利することができます。ユダヤ人が断食と祈りを通して神に立ち返り、敵に勝利したように、私たちも信仰によって新しい歩みを始めることができます。
【戒めの言葉】
罪と死の法則にとらわれることなく、常に命の御霊の法則に従う生活を心がけなさい。過去の過ちに甘んじるのではなく、神の定めた正しい道を選びましょう。ユダヤ人がハマンの法令に恐れ従うのではなく、モルデカイが定めた新しい救いの法令を信じて行動したように、私たちも新しい法則に従う決断が求められています。
【勧めの言葉】
毎日の生活の中で、イエス・キリストへの信仰を実践し、互いに励まし合いながら神の祝福に満ちた歩みを続けることが大切です。命の御霊の法則に従い、互いに助け合い、神の祝福を享受しましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
これまでの歩みや、罪に縛られていた過去を深く省み、心から神の赦しを求め、新たな信仰の道へと立ち返ることが求められています。イエス・キリストの贖いによって与えられた救いの法則をないがしろにせず、大いに活用し、勝利の人生を歩むことが勧められています。
【***詳細***】
本日の説教は、エステル記8章9節から17節の出来事から始まります。第三の月、シュワンの月の23日、王の書記官が招集され、モルデカイの命令に従い、アハシュエロス王の名と王の指輪による印で、全127州の首長や各民族に向けてユダヤ人に関する新たな法令が発布されました。これは、ハマンによって発布されたユダヤ人殺害の命令が依然として有効であったため、ユダヤ人が自らの命を守るために結集し、敵に対抗し、家財を奪うことも許可する内容でした。この法令は、アダルの月13日に実行されるよう定められ、ユダヤ人が自分たちの敵に復讐する準備をするために公示されました。
前回の流れとして、ユダヤ人殺害の命令が悪人ハマンによって発布され、ユダヤ人たちは絶望的な状況に追い込まれましたが、断食と祈りによって神に助けを求めました。その結果、ハマン自身が自ら仕掛けた罠に陥り、処刑されるという逆転劇が起こりました。しかし、ハマンの法令はペルシャ・メディアの法により取り消すことができなかったため、エステルが王に再度願い出て、王は新たな対抗法令を発布することを許可しました。モルデカイが発布したこの法令により、ユダヤ人は自衛と敵への反撃が公に認められ、各地で大いなる喜びと祝宴がもたらされました。
この歴史的背景は、単なる過去の出来事ではなく、現代の信仰生活にも大きな示唆を与えています。モルデカイの行動は、神の摂理と救いの計画が働いていることを示し、ユダヤ人がかつて迫害されていた状況から、神の守りと知恵、力によって逆転し、勝利を収める姿が描かれています。ユダヤ人は、敵よりも知恵と力、神の守りによって圧倒的に有利となり、周囲の民もユダヤ人を恐れ、多くの人が自らユダヤ人であることを宣言するほどでした。
この出来事は、罪と死の法則に対して命の御霊の法則が勝利するという霊的現実の縮図でもあります。サタンが人間に罪と死の法則をもたらしたように、ハマンがユダヤ人を滅ぼそうとした法令を発布しました。しかし、神はイエス・キリストを通して、信仰による救いの法則を新たに定め、罪と死に勝利する道を開かれました。イエス・キリストを信じる者には、永遠の命と勝利が与えられます。
エステル記におけるモルデカイの立場の転換、すなわちかつては無力であった彼が王の権威と栄誉を与えられ、ユダヤ人全体が守られるようになった事実は、イエス・キリストの生涯と重なります。イエス・キリストも人として低くされ、苦難を受け、十字架の死を経て、天の王として高く引き上げられました。やがてすべての者がイエス・キリストの前にひざまずく時が来ると預言されています。モルデカイが受けた栄誉は、信仰者が将来受ける栄光と祝福の希望を示しています。
イザヤ書61章の御言葉にも注目が集められます。「主の霊が私の上にある。主は私に油を注ぎ、貧しいものに良い知らせを伝え…」とあるように、神は貧しい者、傷ついた者、囚われた者に解放と慰めを約束されています。イザヤ書の預言は、エステル記の逆転劇と重なり、困難な状況からの救いと復興を強調しています。過去の荒廃や悲しみが、神の恵みによって喜びと祝福へと変えられることが約束されています。
また、イザヤ書の預言は、過去の荒廃した状態からの再建、将来の完全な復興の約束を含んでいます。廃墟が再び立ち上がり、悲しみが喜びへと変わる日、すべての国々が神の御業に驚嘆し、祝福を認めるようになります。これは、信仰を堅く守ることで霊的な勝利と実際の祝福を手にする確かな保証です。
このように、エステル記の物語は、どんな逆境にあっても神が救いの道を示し、私たちがその祝福に与るよう導いてくださる歴史的証拠です。イエス・キリストによる救いの法則は、サタンが定めた罪と死の法則に対抗し、永遠の命と勝利をもたらします。現代においても、私たちはこの二つの法則のせめぎ合いの中に生きています。もし罪と死の法則に従っていたならば、望みなく滅びる運命でしたが、イエス・キリストの贖いによって命の御霊の法則に従うなら、いかなる霊的な攻撃にも打ち勝つ力が与えられます。
私たちは日々の生活の中で、神の定めた新しい法則に歩みを合わせ、互いに励まし合いながら信仰を実践することが重要です。過去の失敗や罪に甘んじるのではなく、今この瞬間から神の恵みにすがり、命の御霊の法則に従って生きる決意を新たにしましょう。救いの法則を見過ごすことなく、イエス・キリストの救いを実感し、その力によって敵に勝利し、栄光ある未来へと歩む使者となるのです。
最後に、説教を聴く皆さんにお願いがあります。どんな時も、心の奥深くにある罪や弱さを認め、神の御前にへりくだり、その赦しと救いを求めてください。日々の生活の中で互いに助け合い、神の祝福がもたらす真の勝利を享受しましょう。エステル記とイザヤ書に記された出来事は、過去の物語ではなく、今を生きる私たちへの生きた証です。神は、どのような状況にあっても必ず救い出し、命の御霊の法則を通して新たな希望と勝利を示してくださいます。イエス・キリストの贖いの恵みを信じ、実践する者は、絶えず守られ、栄光ある未来へと導かれます。今日の神の御言葉を心に刻み、真実の信仰をもって歩み続けることが、永遠の祝福への道です。
【結論】
エステル記とイザヤ書の御言葉は、絶望の中にあっても神の救いと勝利が備わっていることを示しています。私たちは、イエス・キリストにあって、罪と死の法則に対して命の御霊の法則を確信し、日々の歩みの中でその救いを実践する者として、真の祝福と永遠の命を受けるのです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰を用いて理不尽な法に勝つ(エステル記8:1-8):右クリックで保存
【概要】
本日のメッセージは、エステル記8章1節から8節の御言葉を通して、神の御計画の中で信仰と勇気がどのように働くかを学ぶものです。私たちはまた、信仰により罪と死の呪いに対抗できる力が与えられていることを確信します。
【聖書箇所】
・エステル8:1-8
・ヘブル11:1
・マタイ16:15-19
【慰めの言葉】
私たちが絶望の淵にあっても、神は必ず救いの道をお示しくださいます。どんな取り消しの効かぬ罪の法則の中にも、イエス・キリストという救いのカウンター法令が確かに働いています。
【励ましの言葉】
エステルが自らのためだけでなく民族のために勇気ある一歩を踏み出したように、私たちも日々の信仰において立ち上がり、神の与えられた権威を信じ、行動すべきです。神はあなたに天の御国の鍵をお与えになっておられます。
【戒めの言葉】
一度発せられた罪の法則は取り消しができないと聖書は教えています。しかし、私たちが何も行動せず、ただ流されるならば、罪の罠に陥ってしまいます。今一度、心を引き締め、信仰の権利証書に正しく記された御言葉に従うよう戒めます。
【勧めの言葉】
神が私たちに与えてくださった貴重な信仰の実印を、惜しみなく用いてください。王がエステルに指輪を託し、自由に法令を書き換えるよう命じたように、私たちもイエス・キリストの御名にあって、罪と死の呪いに対抗する権威を積極的に宣言し、実践しましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
もしも今、信仰を働かせることなく日々を過ごしているなら、自らの心を省みてください。罪に満ちた古い自分を悔い改め、救いと祝福に満ちた新しい霊の法則に立ち返る時です。悔い改めを通して、神の恵みと救いの計画に再び立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日の御言葉は、まずエステル記8章1節から8節に見るように、**「エステル8:1-8」**の中で、アハシュシュ王が王妃エステルを通してユダヤ人に対する迫害を企んだ者たちの法令を取り消すため、王の指輪と実印を授けられた出来事に端を発します。エステルは自らの危険を顧みず、愛する民族のために立ち上がり、悩み苦しむ民の声を代弁しました。神の御心が働かれるその瞬間、エステルの深い信仰と決意が、取り消すことのできない法令に対して、対抗法令を授ける王の権威と結びつけられたのです。
この出来事において、王の指輪――すなわち実印が持つ権威は、私たちにとって大きな象徴です。聖書は「エステル8:8」において、王の指輪で印を押された文書は「誰も取り消すことができない」と強調しています。これは、私たちが何かあるべき姿、すなわち神の祝福や救いに関して、信仰によって確固たる権利証書を得るという確信に重ね合わせることができます。罪と死の法則は、人間の力では取り消すことのできない厳然たる現実ですが、天の父なる神は、イエス・キリストを通してその呪いに対抗するためのカウンター法令を与えてくださいました。
そして、筆者はここで、信仰とは「望んでいる事柄の権利証書」とも言えると説いています。これは、**「ヘブル11:1」**の御言葉にあるように、「信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。私たちの信仰は、まさにこの保証、あるいは権利証書として、天においても地上においても有効なものです。もし、信仰を働かせ、神が与えてくださった実印――すなわちイエス・キリストの救いの権威――を用いるならば、どんな困難な状況であっても、神の救いの計画に基づく祝福を宣言し、罪と死に対して立ち向かうことができるのです。
また、イエス・キリストが語られた**「マタイ16:15-19」**の御言葉において、「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てる」と語られたことは、私たち一人ひとりが信仰告白の上に立ち、またその信仰の告白を通して、天の御国への鍵を授かっていることを象徴しています。イエスは、ペテロに天の御国の鍵を託し、地上で「つなぐ」もしくは「解く」権威を与えました。これは、私たちにも同様に、信仰の宣言をもって、呪いに対抗し、祝福を宣言する特権が与えられていることを示しているのです。
エステル記のこの物語は、ただ歴史上の出来事として語られるのではなく、現代に生きる私たちに対しても深いメッセージを投げかけています。今の時代、私たちは日々の生活の中で、身体的な病や試練、経済的な困難、または精神的な葛藤にさらされることが多々あります。しかし、これらの状況は決して偶然のものではなく、罪の法則が働く現実の反映です。しかし、同時に、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神の御国の権威に参与しているのです。
信仰を働かせるということは、自らの意思で神の与えてくださった権威の実印―つまり、霊的な証書―に記された約束を宣言することです。たとえば、私たちが何か問題に直面した時、「この病はイエス・キリストが追い払ってくださった」と信じ、宣言するならば、その信仰は確固たる権利証書となり、天の御国においても実態を伴った祝福として現れるのです。エステルが自らの民族を救うために立ち上がったように、私たちも信仰をもって困難に打ち勝つ、あるいは神の祝福を引き寄せる力が与えられているのだという確信を新たにしましょう。
また、ここで気をつけるべきは、神が与えてくださった実印をただ所有するだけではなく、それを積極的に活用することの大切さです。もし、モルデカイが王から授かった実印を用いなかったなら、ユダヤ人の危機は免れなかったでしょう。これは、私たち自身も同様に、神の権威に預かりながら日常の中で信仰を宣言し、実践しないならば、罪の中に沈んでしまう危険性を示しています。したがって、私たちは決して受動的な信仰者に留まらず、積極的に神の御言葉に従い、日々の生活の中でその権威を発揮する努力を怠ってはならないのです。
このように、エステル記、ヘブルの御言葉、そしてイエスが語られた御言葉は、私たちに「信仰を働かせよ」という強いメッセージを送っています。信仰は、ただの心の状態ではなく、積極的な力の働きであり、宣言すれば現実になる霊的な権利証書なのです。私たちがイエス・キリストを信じ、その救いの福音に立脚するならば、どのような取り消しのできぬ呪いの法則にも対抗でき、むしろ神の恵みと祝福が確固たる形で現れるのです。
どうか、皆さんもこの日のお言葉を胸に刻み、生命に満ちた信仰の歩みを日々実践してください。受動的な存在ではなく、エステルやペテロ、そしてモルデカイのように、神の定められた役割と権威を喜んで担い、どんな困難にも立ち向かう勇気ある信仰者となることを切に願います。天の御国の鍵があなたの手にあることを思い出し、言葉と行いによってその偉大な権威を現す日々となりますように。
【結論】
私たちの信仰は、エステルの勇気やペテロの告白に象徴されるように、天の御国への確かな権利証書です。日々の生活の中で、イエス・キリストの御名による権威と実印を積極的に働かせ、罪と死の呪いに対抗する信仰の宣言を実践していきましょう。愛する主イエスの御名によって、私たちは必ず勝利し、永遠の祝福に満たされるのです。
