メッセージ - エステル記カテゴリのエントリ
ハマンとパウロの違い―心の天秤に何を据えるか(エステル記5:9-14)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-7-13 4:41
ハマンとパウロの違い―心の天秤に何を据えるか(エステル記5:9-14)
メッセージ音声
【概要】
ペルシャ帝国の高官ハマンは、ユダヤ人モルデカイが自分に敬意を払わないことに憤り、持てる富や名誉も虚しく感じました。この出来事を通して、私たちの心の天秤にイエス様を据え、どんな状況でも揺るがず、満足する秘訣を学びます。
【聖書箇所】
-
エステル5:9-14
-
詩篇127
-
ピリピ4:11
-
ガラテヤ6
-
ローマ12:19
【励ましの言葉】
イエス様を心の中心に据えるなら、パウロのようにどんな境遇にあっても満足することができます。イエス様があなたの報酬であり、あなたを強くしてくださる方なので、何事にも揺るがされることはありません。
【戒めの言葉】
ハマンのように、怒りや妬み、嫉妬に心を支配させてはいけません。たとえ全世界の富を手にしたとしても、心の天秤が壊れていれば、ささいなことで全ての喜びを失ってしまいます。
【勧めの言葉】
自分の心の天秤を点検しましょう。もし何をもっても満たされないと感じるなら、イエス様を心の中心に据え、その方に重きを置くべきです。人や状況ではなく、イエス様こそがあなたの揺るがない基盤です。
【悔い改めの促しの言葉】
もし私たちが人からの評価や態度によって一喜一憂し、心ない言葉に傷つき、怒りや憤りを抱えているなら、その心の状態を神の御前に告白しましょう。ハマンの罠に陥ることなく、イエス様を心に据え直すことができるよう、赦しと力を求めましょう。
【***詳細***】
皆さん、こんにちは。2026年7月13日、久しぶりにエステル記から恵みをいただきたいと思います。今日の箇所はエステル記5章9節から14節です。
このエステル記を読むと、神様のタイミングと、神様が働かれる空間がいかに美しく備えられているかを見ることができます。前回、王妃エステルは命がけで王の前に立ち、金の笏を差し伸べられて一命を取り留めました。王は「願いは何か。王国の半分でも与えよう」とまで言いましたが、エステルはすぐには願いを告げず、「私が設ける宴会に、ハマンと一緒にお越しください」とだけ頼みました。
その宴会の席でも、王は再び願いを尋ねましたが、エステルは「明日もう一度私が設ける宴会にお越しください」と言い、さらに一日、願いを告げるのを先延ばしにしました。なぜ彼女がそうしたのか、聖書は記していません。しかし、確かなことは、エステルが一日、また一日と引き延ばしたことによって、その間に神様が働かれる「間(ま)」が設けられたということです。
私たちも、神様が働かれる「間」を設けるべきです。私たちは時間に余裕ができると、すぐに自分のやりたいことで埋めてしまいがちですが、主が働かれるなら、私たちの働きよりもはるかに優れた御業をなしてくださいます。詩篇127編には「主は、その愛する者には、眠っている間にも、このように備えてくださる」と書かれています。今日は、神様が設けられたその「間」に、一体何をされたのかを見ていきましょう。この物語には「神」という言葉は一言も出てきませんが、その背後で神様が何をされていたかを見ることができます。
さて、今日の箇所の中心人物であるハマンは、王妃エステルが設けた宴会から、喜び勇んで上機嫌で帰途につきました。彼はペルシャ帝国で王に次ぐ地位にあり、王妃主催のプライベートな宴会に、王以外でただ一人招かれたのです。これ以上の栄誉はないでしょう。
しかし、その喜びは一瞬で台無しになります。9節の後半にはこうあります。「ところがハマンは、王の門のところにいるモルデカイが、立ち上がろうともせず、身動きもしないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。」この「憤り」はヘブライ語で「ヘマー」と言い、怒りや激情という意味の他に「毒」という意味もあります。人は何かに満たされる生き物ですが、何で満たされるかが問題です。ハマンは素晴らしい宴会を楽しんだはずなのに、家に持って帰ったのは、モルデカイを見たことで心に受けた「毒」でした。
その原因は、たった一人の男が自分に敬意を払って立ち上がらなかった、という些細なことでした。モルデカイが何かをしたわけではありません。ただ座っていただけです。それなのに、ハマンは勝手に毒を受け、その毒を家に帰って家族や友人にぶちまけます。
彼は家に帰ると妻や友人を呼び集め、自慢話を始めました。11節を見ると、彼が何を自慢したかが分かります。まず「富の栄光」。彼は帝国有数の資産家でした。次に「子供の多さ」。彼には10人の息子がいました。さらに、王が自分を高い位につけたこと、王妃の宴会に特別に招かれたこと、そして明日もまた招かれていること。彼は富も、家族も、地位も、名誉も、特権も、すべてを持っていました。将来はバラ色に見えたはずです。
しかし、彼は13節でこう言います。「しかし、私が王の門のところに座っているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これら一切のことも私には何の役にも立たない。」これは直訳すると「これらすべては、私にとって釣り合わない」という意味です。彼の心の中の天秤は、片方に帝国のすべての栄誉、富、家族、特権が乗っているのに、もう片方にはたった一人の男、モルデカイが乗っていました。そして、ハマンにとってはモルデカイの方がはるかに重かったのです。
これが怒りの力です。怒りや妬み、嫉妬に満たされると、たとえ帝国の富を持っていても、たった一人の人間の態度で、そのすべてが無価値に感じられてしまうのです。モルデカイはハマンから何も奪っていません。ただ立ち上がらなかっただけです。しかし、ハマン自身の心の天秤が壊れていたために、すべてのものが虚しくなってしまいました。
天秤が壊れた人は「これらすべてのものは、私には何の値打ちもない」と言い出します。この言葉を口にした瞬間、ハマンは滅びへの道を歩み始めました。
では、天秤の用い方を正しくしたもう一人の人物を見てみましょう。それは使徒パウロです。彼は牢獄の中で書いたピリピ人への手紙でこう語っています。「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも、飢えることにも、富むことにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)
パウロがこの手紙を書いた時、彼は囚人であり、無一文でした。家族もおらず、居場所は牢獄でした。一方、ハマンは帝国のナンバーツーでした。しかし、心の状態はどうだったでしょう。ハマンは「釣り合わない」と不満を抱いていましたが、パウロは「満ち足りている」と言いました。なぜなら、パウロの心の天秤にはイエス様が乗っていたからです。無限なるお方であるイエス様が心におられたので、パウロはどんな扱いを受けても、心が満たされていたのです。彼を敬う人などいない状況でも、彼の心は揺るぎませんでした。
皆さん、心の天秤にイエス様を据えてください。イエス様こそが、皆さんへの最高の報酬であり、ご褒美です。人から心ないことを言われたり、理解されなかったりする時こそ、内にいるイエス様を心に留めてください。そうすれば、ハマンのようにならず、パウロのように強くあることができます。
ハマンはその後、妻ゼレシュの助言に従い、モルデカイを処刑するための高さ50キュビト(約23メートル)もの柱を立てさせました。人を処刑するのに、これほど高い柱は必要ありません。これは、ハマンの高慢の高さそのものでした。「ハマンに逆らうとこうなるぞ」と、街中の人に見せつけたかったのです。
しかし、義なる者に悪を企むなら、その企みは自分に返ってきます。箴言には「穴を掘る者はそこに落ち込む」とあり、ガラテヤ人への手紙6章には「人は種を蒔けば、必ずその刈り取りをすることになります」とあります。皆さんもご存知のように、結局ハマンは、自分が立てたその柱に自分が吊るされることになりました。
一方、モルデカイは何をしていたでしょうか。彼はただ、灰をかぶり、断食して祈っていました。ハマンの企みなど知らなかったでしょう。しかし、彼が神に信頼し続けた時、神が動かれました。ローマ人への手紙12章19節にはこうあります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすること。わたしが報いをする、と主は言われる。』」
神様が働かれ、その夜、王は眠れなくなり、宮廷の記録を読ませました。そして、かつてモルデカイが王の命を救ったことが明らかにされ、事態は一変します。神様が、ハマンが自分で自分の処刑手続きを進めるように導かれたのです。
皆さん、今日、どうか自分の心の天秤を点検してください。もし何にも満たされないと感じるなら、それはあなたの状況の問題ではなく、心の天秤にイエス様を乗せているかどうかの問題です。イエス様以上に、他の誰かや何かを重んじてはいけません。イエス様を心の中心に据えるなら、どんな嵐が吹いても、決して揺るがされることはありません。主こそがあなたの相続財産であり、あなたへのお給料なのです。
敵があなたに罠を仕掛けても、イエス様を心に据えていれば、むしろその敵が自らの罠に陥るでしょう。イエス様にあって、揺るぎない人生を確立していきましょう。
【結論】
私たちの心の満足は、富や地位、名誉、あるいは他人の評価によって決まるものではありません。ハマンのように、それらすべてを持っていても、心に怒りと不満を抱えれば、すべては無価値になります。一方、パウロのように、すべてを失っても、心にイエス様がおられるなら、どんな状況でも満足し、強くあることができます。私たちの心の天秤にイエス・キリストという最も重いお方を据え、何事にも揺るがされない、主にあって満ち足りた人生を歩んでいきましょう。
主が働かれる「間」を待つ(エステル記5:3-8) 2026/06/11
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-6-11 8:20
主が働かれる「間」を待つ(エステル記5:3-8) 2026/06/11
メッセージ音声
【概要】
神様の御心と時を第一にすることの重要性を、王の前に立ったエステルの姿から学びます。私たちは自分の願いを性急に求めるのではなく、慎み深く主の言葉に耳を傾け、主が働かれる「間」を設けるべきです。
【聖書箇所】
エステル5:3-8
箴言21:1
詩篇127:1-2
【励ましの言葉】
主はその愛する者には、眠っている間に備えてくださるお方です。私たちが主の時を待ち望むなら、主は最善の形で物事を働かせ、私たちの想像をはるかに超える結果を与えてくださいます。
【勧めの言葉】
王の前に立ったエステルのように、私たちも王の王であるイエス様の前に進み出る時、まず主が好まれる飾りを身につけ、自分の言葉よりも先に、主が語られる言葉に耳を傾けるべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちはしばしば、自分の願いを第一にし、焦って事を進め、主の時や御心を聞かずに物事を台無しにしてしまうことがあります。自分の思いが先走り、主の働かれる「間」を設けなかったことを悔い改めましょう。
【***詳細***】
恵みをいただく御言葉はエステル記の5章3節から8節です。
エステル記5章3節を宣言いたします。
「王は彼女に言った。『どうしたのだ、王妃エステル。何を望んでいるのか。国の半分でもあなたにやれるのだが。』」(エステル5:3)
アーメン。一言お祈りします。
ハレルヤ。王の王であられるわが主イエス様。今、我らはあなたの御前に進み出ました。主よ、お語りください。僕(しもべ)は聞きます、との思いをもって主の御前に進み出ました。どうか私たちもいつも、まず、あなたが語られる言葉を聞くことができますように。どうか取り次ぐ僕(しもべ)の口を清め整えてください。また、これを聞く一人一人の耳を清くして、あなたの御声、あなたの御心をしっかりと聞いて、そして聞いたならばそれを行う、その僕(しもべ)の心を持って聞くことができますように、どうか助けてください。これからのすべてをあなたに期待します。我らの主イエスキリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒め、大いに賛美いたします。
エステル記から見ていますが、前回のところで、エステルが王妃の衣装を着て、王様の前に立った場面を見ました。それは王様にとって好みの衣装でした。そしてまた、このエステルの姿は私たちの姿でもありました。私たちもイエス様の前に、イエス様の好む飾りをつけて進み出るのです。イエス様の好む飾りとは、「穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ心の中の人柄」を飾りにすることです。それをもってイエス様、すなわち王の前に立つことが重要だということを見ました。
本当にエステルには、この時、切実な願いがありました。自分の民族を救うために王の前に出たのです。エステルとしてはもう真っ先に語りたかったでしょう。王様から金の笏(しゃく)をこうやって述べられる前に、言いたいことは心の中に満載していたかもしれません。「私はどうしても申し上げたいことがあって、ここに来ました。命をかけてこれを言わなくてはなりません。」そういった思いがあったかもしれません。けれども、彼女はまず王様の反応を待ったのです。彼女はそれまで、ただ静かにその佇まいを王様に見せるために、王の前に進み出ました。それに対して、王様の方から笏を述べるというアクションをしたのです。
こうして彼女の命は守られて、エステルは近寄って、その笏の先に触れました。ここで王様はついにエステルに語りかけます。「どうしたのだ、王妃エステル。何を望んでいるのか。王国の半分でもあなたにやれるのだが。」(エステル5:3)。アーメン。このお言葉をいただいただけで、もうエステルの願いは半分叶ったようなものです。自分の命は長らえ、王の好意を得ました。
ここで大事なことは、エステルが王の前に立った時に先に話し出したのは、エステルではなく王の方だったということです。王の方が彼女に「何を望んでいるのか」と問いかけたのです。その順番に私たちも注目すべきです。
私たちも、王の王であられるイエス様の前に進み出る時、だいたい願い事があって祈ることがありますね。願い事がなければイエス様に進み出ないということもあります。願い事がなくてもイエス様と交わるべきではあるのですが、願い事があってもイエス様の前に進み出ないということも、ままあります。そしてイエス様の前に進み出たかと思ったら、ただ願い事を先に並べ立て、私だけがベラベラと喋り出し、願いを吐き出して、イエス様が何を語られようとしていたのか、それを待たないまま…あるいはイエス様が何か語られたけれども、それも分からないまま、喋るだけ喋って祈った気になっている、ということがよくあるものです。
本当に私たち自身が、まず王の王であるイエス様を前に、このエステルのような嗜(たしな)みを身につけていくべきです。もちろん、イエス様の前に進み出て願い事をすることは悪いことではありません。主も「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」と言われました。あらゆる場合に、願い事を主に注ぎ出しなさい、そうすれば人知を超えた平安があなたを支配する、とも言われています。けれども、まず大事なことは、イエス様の御心が先だということです。私たちはもちろん願っていいのですが、しかし、イエス様の時、イエス様の御心、これがまず先です。
エステルの場合、まず自分の言葉をぶつけませんでした。切実な願い事があり、命を差し出す思いで王の前に進み出たにもかかわらず、エステルは何も言わずに、王が言われることをまず待ちました。王の好みの衣装をまとい、王の好む飾りを身につけて進み出ました。私たちも切実な願いがあればあるほど、このイエス様の好む飾り、すなわち善い行いという清らかな衣を着て、また柔和で穏やかな霊という朽ちることのない飾りを身につけて、それで大いなる王イエス様の前に進み出て、そして大いなる王イエス様が語られる言葉に耳を傾けるべきです。イエス様の前に進み出る時、私たちは口よりも先に耳を差し出すべきなのです。
すると、王の方から語られるのです。「どうしたのだ」「何を望んでいるのか。王国の半分でもあなたにあげるのだが」と。アハシュエロス王(クセルクセス王)はそう言いました。なんと、王国の半分もあげる、と言ってくださったのです。私たちはいつも願い求めていますが、エステルは王の好意を得て、「王国の半分でもあげる」と言われたのに、「じゃあ王国の半分、早速ください」とは言いませんでした。
ここに、本当に神様が物事を支配しておられる様が見えます。この王の心を、神様が支配しておられるのです。エステル記には「神」という言葉も「主」という言葉も一度も出てきませんが、しかし、確かに神様はこの王様の心を手に取って、そして王様を通して、イスラエルの救いを、また神様の御心を進めておられるのです。箴言にはこうあります。「王の心は主の御手の中にあって、水の流れのようだ。主は御心のままにその向きを変えられる。」(箴言21:1)。ですから、この国の王、あるいは世界を支配している人間の王の心を、水路の流れのように支配されるのは、天の父なる神様だということです。
エステルにとっては、この目の前のクセルクセス王の機嫌が彼女の命に関わるものでした。王様がそこで怒れば終わりです。王様が拒否すれば、このユダヤ人の救いはありません。けれども、神様がこの王の心を支配して変えておられるのです。私たちの王イエス様は、人間の王の心をも支配してくださいます。だから私たちは、人の心をあれこれ心配する必要はないのです。会社の上司の心だとか、相手の反応、社会を支配している者たちの反応、相手がどう受け止めるかなど。私たちが御言葉に立って、真の王であるイエス様に願いを求めるのであれば、それを恐れる必要はありません。
もちろん、私たちは社会に対して無礼であってはいけません。このエステルのように、しっかりと整えられた態度で進み出るべきです。そしてエステルが国の法令に背いてでも「私は出ます」と言ったのは、ユダヤ人の救いのため、また神の御旨を貫き通すためでした。私たちは自分の意見を貫き通すために社会の道を曲げる者ではなく、むしろ、この御言葉を貫き通すために、時にはこのエステルのように、人間の法令に背いてでも、そうしなくてはならないことがあります。人間の法令よりも、天の法令、神様の御言葉の方が上ですから、私たちはそれを貫くべきです。
けれども、私たちは時をわきまえ、また皆、身だしなみをわきまえるべきです。エステルは時をわきまえました。この時、早速自分の願いをベラベラとしゃべりはしませんでした。時をわきまえていたからです。エステルはこう答えます。「もしも王様がよろしければ、今日私が王様のために設ける宴会に、ハマンとご一緒にお越しください。」(エステル5:4)。アーメン。
エステルは、すぐに願い事をこの場で訴えませんでした。まず王様を宴会に招いたのです。ここにエステルの知恵があります。祈って、断食して、主の御前に身も心も整えた人は、主がその心に正しい道を備えてくださるのです。その気がなくても、何かそういう正しい心の通りにしてしまうのです。断食して祈り、身なりと思いを整えた人はそうなります。けれども、主の前に整えない人、焦って恐れだけで動く人は、すぐに何もかも言いたくなって、時をわきまえないで、もっと傷口を広くしてしまいます。怒りだけで動く人は、すぐに相手を責める言葉、嫌味な言葉だけが先に出てしまいます。不安で動く人は、すぐにもう結論を出そうとして焦ってしまう。
けれども、祈った人は、時を見分けるのです。何をいつ言うべきか、どんな風に、どういう身だしなみや態度で言うべきか。今言うべき時なのか、いや、黙っているべき時なのか。エステルはそれをこの時、非常にわきまえていました。エステルがこの時、願いを先延ばしにした理由は書いてありません。怖かったから口から出てこなかったのか、王様の前に30日ぶりに出たから何も言えなかったのか、そういったことはわかりません。そうだったかもしれません。けれども、「時」ではなかったから、この時、ただ宴会に誘っただけだったのです。
5節を見ますと、「すると王は、『ハマンを急いで来させて、エステルの言ったようにしよう』と言った。王とハマンは、エステルが設けた宴会にやって来た。」(エステル5:5)。アーメン。エステルはハマンも宴会に招きました。本当にここも不思議ですね。エステルにとっては、ハマンこそ身の毛がよだつほど嫌っていい相手です。生理的に受け付けられないような嫌な相手かもしれません。けれども、エステルはこのハマンも一緒に宴会に誘いました。ハマンと王様を同じ席に、同じテーブルに引き出すということをエステルはしたのです。
私たちにとって真の王はイエス様です。そして私にとってのハマンは悪魔サタンであり、皆さんにとっては、皆さんを嫌がらせする誰かさんかもしれません。けれども私たちも、イエス様のこの宴会の席に、その相手も連れてくるのです。
この王とハマンがエステルの宴会にやってきました。この宴会の席でも王様はエステルに尋ねます。「あなたは何を願っているのか、それを授けてやろう。王国の半分でもそれを叶えてやろう」と。エステルはここで「やった、チャンスが来た!」と思ったわけではなく、この時もまた王の王なる神様の「時」ではないと判断したのでしょうか、願いを先に延ばすのです。「私が願い望んでいることは、もしも私が王様のご厚意を受けることができ、また、王様がよろしくて私の願いを許し、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会にもう一度ハマンとご一緒にお越しください。そうすれば、明日、私は王様のおっしゃったとおりにいたします。」(エステル5:7-8)。アーメン。
エステルの言葉は前置きが長いですね。けれども、この前置きの内容が非常に重要です。「もしも私は王様のご厚意を受けることができ、また王様がよろしくて私の願いを許し、私の望みをかなえていただけますなら」。私たちもイエス様に願い事を申し上げる時、ここまでへりくだるべきです。「イエス様、あなたのご厚意をいただけますならば」「イエス様、あなたがよろしければ、私の願いを許して、私の望みをもし叶えていただけるのであるならば」。私たちは「イエス様、愛してください!」と早速言いがちですが、しかし、本当にこのイエス様の御前に、このように「イエス様第一、イエス様の御旨がなりますように。イエス様のお心がなりますように。イエス様がもしよろしければ」という態度が、とってもとっても必要なのです。
エステルはこの王様の前に、徹底して「王様、あなたが望まれる通りに。あなたがよろしければ」という姿勢を貫いたからこそ、誰よりも好意を得たのです。王様の好意を、また人々からの好意を得ました。ここまで慎ましいからこそ、人々からの好意を得られるのです。自分の願いファーストでベラベラしゃべり、相手の願うことは一切聞かずに、ただ自分がしゃべって終わりという人は、誰からも好意は得られません。私たちは人から、神様から好意を得るためには、まず「父なる神様、あなたが第一です。イエス様、あなたの御心がなりますように」と、これを第一にするべきです。
というわけで、エステルがユダヤ人の救いのための願い事を言うのが、もう一日、後にずれました。なぜか、エステルがどういうわけでそうしたのか、聖書には説明がありません。けれども、私たちはこの後の流れをよく知っていますね。この後、王様は眠れなくなります。その夜、そして昔の記録の書が読まれ、たまたまそのページにモルデカイのことが書いてあり、何の報いも受けていなかったことが明らかにされます。そして、その日のうちに、ハマンがモルデカイを吊るすための柱を立てるのです。
モルデカイにとってピンチに思える、そういうことが起こる一日。また、王様が眠れなくなる、その一日のうちに神様が働かれたのです。私たちも神様が働かれる「間(ま)」を、神様にあげなくてはなりません。神様が働かれるための時間です。エステルが待った、一日待ったそのゆえに、神様が色々と働かれました。王は眠れなくなり、そしてエステルはその夜、どう過ごしたでしょうか。眠ったでしょう。けれども、主は私たちが眠っている間に備えてくださることがおできになるお方です。冒頭で宣言したのは詩篇127篇の1節と2節でした。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、見張る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩篇127:1-2)。アーメン。
主の御心でないところに家を建てるのなら、一年後に洪水で流される土地に家を建ててもしょうがありません。主の御旨でないところに家を建てても虚しいのです。主が行くなと言っている所に行けば、虚しい結果が起きてしまいます。けれども主は、皆さんのことを心配しておられます。皆さんが早く起きて遅く休んでまで、自分のやりたいことを叶えるために仕事をしても、それは虚しい、と127篇に書いてあります。「主はその愛する者には、眠っている間に備えてくださる」、また「眠りを与えてくださる」とも書いてあります。
このエステルが先延ばしにした一日、そのエステルが眠っている間に、主はすべての手続きを進め、物事を働かせました。私たちも神様が働かれる「間」というものを設けるべきです。「間が悪い」人というものがいます。間が悪い人は、待つことが苦手です。すぐに言いたい、すぐに答えが欲しい、自分が願ったことを今日中にやっておかなくては気が済まない。間が悪い人は待つことが苦手です。私たちは神様が働かれる「間」を設けるべきです。間が抜けちゃっている人を「間抜け」と書きますね。私たちはそういうふうになってはなりません。神様の「間」、神様の時、これを待つべきです。
神様の時は今日かもしれませんし、明日であるかもしれない。一週間後かもしれない。ですから、私たちは神様の時を待つべきです。焦って今日してしまえば、神様が明日に備えようとしておられることを、私たち自身の手で潰してしまうことになります。間が悪い人はその日のうちにやってしまって、明日、明後日の主の御業を逃してしまうのです。けれども、このエステルのように、「もしも王様がよろしくて」「王様、あなたが第一です」「王様、あなたが語られるのがまず先です」という、その嗜みを身につけるのであるならば、私たちもこのエステルのごとく、本当に神様が働かれて、私たちが考えたことよりも、はるかに上回る結果を神様が出してくださいます。
私たちも、この神様の時を求めましょう。神様を第一にしましょう。そして、私たちの願い、本当に何でも主の御前に持っていっていいのです。家族の救い、病の癒し、この日本の救い、本当に切実な願いがあります。けれども、神様の時、神様がまず第一です。どうか皆さんは、このエステルのごとく、本当に主の御前に慎ましく、身なりを整えて進み出て、そして主が語られる言葉をまず求めましょう。私たちは願い事を携えていく時、主はそれをご存知です。そして主は同時に、皆さんの願いがどのような形で、いつ、最善の形でなされるかもご存知です。主の御前に委ねて、この主を第一として歩んでいく今日一日でありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
私たちの切実な願いは、王の王であるイエス様の御前に持っていくべきです。しかし、エステルが王の前に慎み深く立ち、王の言葉を待ったように、私たちもまず主の御心と時を第一に求めるべきです。焦って自分の思いで動くのではなく、主が働かれるための「間」を信頼して主に明け渡す時、主は私たちの眠っている間にさえ最善を備え、私たちの想像をはるかに超える驚くべき御業を成し遂げてくださるのです。
王妃の衣装を身に帯びてただ王の前に立つ(エステル記5:1-2) 2026/06/09
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-6-9 8:20
王妃の衣装を身に帯びてただ王の前に立つ(エステル記5:1-2) 2026/06/09
メッセージ音声
【概要】
王妃エステルが王妃の衣装を着て、命がけで王の御前に進み出た場面から、私たちがイエス・キリストの贖いの衣を着て神の御前に進み出ることの意味を学ぶメッセージ。
【聖書箇所】
エステル5:1-2、ゼカリヤ3章、第一ペテロ3章
【励ましの言葉】
私たちは本来、罪のゆえに神の御前に進み出ることができない者ですが、イエス・キリストの贖いの血という衣を着て、神の御前に進み出ることができるようになりました。
【勧めの言葉】
柔和で穏やかな霊という朽ちることのない飾りを身につけ、従順な心をもって主の御前に進み出ましょう。自分の好みや意志ではなく、霊的なプロフェッショナルである聖霊の勧めに従いましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは時として、主の御前に臆面もなく、準備もせずに進み出てはいないでしょうか。真の王の御前に立つにふさわしい心の備えが必要です。
【***詳細***】
今日読んでいただく御言葉はエステル記の5章1節と2節です。
「3日目になり、エステルは王妃の衣装を着て、王宮の正面にある王宮の奥の中庭に立った。王は、王宮の入り口の正面にある王宮の王座に座っていた。」(エステル5:1)
今、私たちも真の王であられる主の御前に進み出ます。本来であるならば、御前に進み出るに値しない者、もしまかり間違って罪あるままで進み出るならば、打たれて死んでしまってもおかしくはないような、そのような者にもかかわらず、イエス様が贖いの衣を私たちに与えてくださったことを感謝します。
私たちは本当にこの主の御前に進み出るということについて、旧約聖書を見ますと、主の御前においそれと進み出てはならないということがわかるんですね。主のおられますところ、旧約においては至聖所でした。その至聖所に入っていけるのは年に一度、大祭司だけ、しかも贖いの血潮を携えて出なければ、打たれて死んでしまうという、それほどにまで聖なる、聖なる、聖なる神様が私たちの神なんです。
私たちは何かと馴れ馴れしいというか、図々しく進み出るようなところがありますけれども、本来であるならば、主はそういう聖なる方です。けれども、イエス・キリストという、この私たちの身代わりになって十字架で屠られてくださったお方がいるから、その方が贖ってくださったから、私たちはイエス様によって、この父なる神様の御前に進み出ることができるようになりました。
今日エステル記なんですけども、エステルもまた、本来であるならば、そのまま進み出るのであるならば死んでしまうような、そういう場所に進み出ました。けれども、エステルはしっかりとその前に身なりを整えていたんですね。王妃の衣装を着ていた、と書いてあるんですけども、彼女が着たのは王妃の衣装ばかりではなかったんですね。しっかりと3日間の断食、彼女自身が断食して祈り、またエステルが進み出るために多くの人々が、多くの神の民が3日間断食して、神様の御前に祈って、そしてこの王の御前に進み出て行くようになったんですね。
ここでエステルは、この5章1節で何をしたか。二つの動詞が出てくるんですけども、一つ目が衣装を着て、着る。そして2つ目は立つ、王宮の中庭に立ったというふうにあります。彼女がしたのはたったこれだけです。何も喋っておりません。ただ着いて、そして立っただけです。
この場面がね、最も雄弁な佇まいなんですね。雄弁というと、何か言葉を発するということを思われがちなんですけど、しかし言葉を発しない、ただ佇まいだけの雄弁さというものがあります。何も言葉を発していないけれども、そこにただいるだけで、その佇まいをもって、そこに進み出て立つだけで、雄弁に物語るものがあるんですね。
彼女は命がけでそこに立っております。王妃の衣装を着て、死の覚悟をもってそこに立っている。その有様そのものが、王様にもうすでに語りかけていたんですね。これはただごとではない。私たちも、イエス様の御前に雄弁な佇まいで進み出て立つべきです。
王妃の衣装、王の御前に立つ衣装、王の御前に立つ装いとは一体何か。この聖書ではですね、この王の御前に、あるいは自分を贖ってくださるお方の御前に晴れ着を着て、あるいは衣装をまとって進み出るという場面がいくつかありますね。ルツはこのボアズのところに行く前に、晴れ着をまとって、油を塗って、そしてこのボアズの、自分の買い戻しの権利あるお方の御前に進み出ましたし、また今日冒頭で宣言したところ、ゼカリヤ3章においては大祭司ヨシュアですね。
大祭司ヨシュアが神の御前に立っておりましたけれども、しかし最初ヨシュアが立った時、この大祭司ヨシュアの服は汚れておりました。汚物がついておりました。そのままで主の御前に立っていたから、彼を訴えるサタンがそこにもいたんですね。サタンは今にもこの大祭司ヨシュアを訴えようとしています。訴えネタが満載のヨシュアです。汚れた服を着て、そして神の御前に進み出ております。
けれども、その時、主はですね、こういうふうに言うんですね。「彼から汚れた服を脱がせなさい」って。そしてヨシュアに言うんです。「見よ、私はあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」アーメン。
ヨシュアは何も言ってません。許してくださいとか、そういったことは何も言っておりません。ただ、この王なる神様の御前に立ちました。サタンは訴えどころ満載ですけれども、しかし、このなんと主はですね、汚れた服を脱がせなさいというふうに言うんですね。主の御心、主の御旨、それは私たちが訴えられることではありません。
私たちはもともと神の似姿として、神の子として作られております。それが罪を犯して汚れた有様を帯びること、これは主の御旨ではありません。じゃあ一体誰がこの人間をそういう有様にしたかというと、サタンです。悪魔サタンこそ訴えられるべき。だから主はですね、このサタンに対してむしろ訴える。このヨシュアに対しては、「彼は、燃えさしではないか」というふうに主は言われるんですね。不思議な表現です。燃えさしって、もう燃え尽くした後なんですね。主は私たちを本当にこのまず罪を清めてほしいんです。
私たちがこのイエス・キリストの贖いの血をしっかりと身に帯びて、贖いの衣、それはイエス・キリストの血です。これを着て、御前に進み出るのであるならば、一切訴えられることがないんです。そして、頭に清いターバンを被らせなさいというふうに言ってくださいます。私たちは、このイエス・キリストの贖いなしで御前に進み出るとするならば、本当にこの汚れた有様で主から打たれてしまってもおかしくはないものです。
このエステル、エステルはこの王妃の衣装を着て進み出ました。これはエステルの好みの衣装じゃないですね。エステルが買ってきたものではありません。与えられた装いです。エステルが最初に王様の御前に出た時は、この宦官、ヘガイのアドバイスしたもの以外は身につけなかったというふうにありましたね。このエステル自身の好みは一つもなかった。この王様の好み、ただ王様が着飾らせたいという、そういう飾りだけを、それを身につけて進み出ること。これが王の好意を得られるその秘訣です。
この時、王妃エステル、王様から送っていただいた衣装でしょうかね。あるいは宦官、ヘガイって、王様の好みを熟知しているヘガイの勧めた衣装だったか。それはわからないんですけど、とにかく王様の好みの装いを身につけて、そして命がけで王に訴えるために、この自分の民、ユダヤ人の救いを訴え出るために、その場所に進み出ていったんです。
こうして断食で身を清め、礼装を整えて、そして王妃の衣装を着て、王の好みの衣装を着て、そして命がかかっているその場所に進み出てきたエステル。何も言わないその佇まいよ。それを見て王様はどうだったでしょうかね。
2節を見ますと、「王が中庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を得た。王は手にしている金の笏をエステルに差し伸ばした。エステルは近寄って、その笏の先に触れた。」(エステル5:2)アーメン。
王妃エステルは王の好意を得たと書いてあります。この好意を得る、これですね、実はエステル記の中で何度も出てくるキーワードなんですね。エステルにつきまとうキーワード、これは好意を得るというキーワードですね。2章9節の方で、後宮の監督官ヘガイの目にかなった、これ、好意を得ると同じ言葉です。2章15節でもね、彼女を見るすべての者から好意を受けた。ですからエステルね、誰かに妬まれたり憎まれたりするキャラクターでなくて、みんなから好意を得るキャラクターなんですね。
2章17節でも王の好意と寵愛を受けたっていうふうに書いてあります。そして今日のこの5章2節でも王の好意を得たって書いてあります。なんでこれほどまでにエステルは人から、王から好意を得るのか。好意を得る条件は何だったでしょうかね。
先週学びましたけれども、好意を得る、先週ちょうど2章を見たんですが、まず2章15節のところを見ますと、このエステルは王の宦官、ヘガイの勧めたもののほか、何一つ求めなかった。こうしてエステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。アーメン。
エステルはね、本当にこのプロフェッショナル、この王に対してのプロフェッショナルであるヘガイの勧めたもののほかは何一つ求めなかった。それでこうしてエステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。ですからエステル自身の好みは一切出さず、ただプロフェッショナルのその勧めたもの、私たちは本当に霊的なプロフェッショナルの勧めたものだけを身につけて、主の御前に進み出るべきですね。
さらにもう一つ、エステルはモルデカイが命じた通りに行っていた。モルデカイによく養育されていた時と同じように、彼の命令に従っていた。ですから、従順する心、服従する心、これがエステルのキャラクターです。ですから、エステルの美しさは外見の美しさだけではなかった。外見だけの美しさはワシュティですね。けれども、エステルは外見の美しさプラス、その内面の美しさを身に備えていたんです。
何が真の美しさか。第一ペテロ3章に書いてあります。「あなた方の飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ神の御前に価値あるものです。」(第一ペテロ3章)
女性献金の献金袋に書いてあるんですね。ですから私たちの飾り、真の飾り、確かに髪を飾ったり、金の飾りをつけたり、外面的な飾り、これは女性の嗜みであるんですけれども、しかし真の飾りというもの、それは柔和で穏やかな霊ですね。これが朽ちることのない飾りです。
その反対の性質がワシュティですね。箴言7章に騒がしい女が出てきますね。この女はね、騒がしくて御しにくく、騒がしくてかたくなで、臆面もなくて、そういう性質ですね。ルールに従わない、また敵対的な、厚かましい、これがこの女の性質、またワシュティの性質。図々しい、厚顔無恥、面の皮が厚いっていうんですかね。また、臆面もない、臆する面がないという感じですね。
エステルは内心臆する面があったかもしれません。でも王の御前に進み出ました。王のこの法令に背いていった理由にはちゃんとした理由がありました。ワシュティは、王様の呼び出しに臆面もなく断りましたね。それは彼女が王よりも、何か自分も王のように高い位置になろう、そういった傲慢さがありました。そのゆえに彼女は降ろされてしまいました。
本当にこのエステルの美しさ、それは外面的なものだけでなく、柔和で穏やかな霊、またよく聞き従う心、そしてプロフェッショナルの助言に100%従う。自分のやりたいは1%も出さない。そういうこの内面の美しさ、プラス外面の美しさ、それがあったから、だから王の好意を得て、またみんなからも好意を受けて、そしてこの栄えある地位に彼女は就かせられたんですね。上り詰めたんじゃない。他人から、王様から、神様からその地位が与えられたんです。
この地位が与えられる性質、本当にこの私たちもこの柔和で穏やかな霊、これをもって本当にイエス・キリストの御前において素直な従順な柔和の心、それを持していくのであるならば、主が私たちに汚れた重い心、そうしたものを脱がせて礼服を着せよう、晴れ着を着せようというふうに言ってくださるんですね。
この王様から支給されたこの晴れ着、服、これを着ないまま王の宴会に出るのであるならば、外の暗闇に放り出されてしまう、この王の宴会の例えでありましたね。王の宴会、そこにおいて晴れ着を着ないで来た者が一人おりました。晴れ着を持っていなかったんじゃない。王から支給されていたんですけれども、それを着ないで、この王の宴会に出たところ、追い出されてしまいました。
私たち、この礼拝という場面、本当にセレブレーションです、宴会です。そこにおいて、本当に私たちがイエス様からの贖いの衣を着ないまま、ズカズカと臆面もなく進み出たりしていないでしょうか。それは外の暗闇に追い出されてしまう性質です。
このエステルに向かって、王は金の笏を伸べて王の好意を受けました。どうか皆さんも、このイエス・キリストという真の王を前にして、本当に柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ心の中の隠れた人柄を飾りにして進み出て、そして本当にこのつくばみらいの地、この日本の地の救いのために訴え、エステルのごとく訴えて、そして、この日本に救いをもたらしていく。そのように用いられる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
エステルは王妃の衣装を着て、3日間の断食をもって身を清め、何も語らずただ王の御前に立つことで、王の好意を得ました。私たちも同じように、イエス・キリストの贖いの血という衣を着て、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない飾りを身につけ、主の御前に進み出るべきです。自分の好みや意志ではなく、霊的プロフェッショナルである聖霊の勧めに100%従う従順な心を持って、この日本の地の救いのために主の御前に立ち、用いられる者となりましょう。
信仰・断食・召命の決断(エステル4章)
メッセージ音声
【概要】
ペルシア帝国によるユダヤ人絶滅の危機に際し、モルデカイと王妃エステルが信仰を貫き、神に頼って立ち上がった姿を通して、私たちも置かれた場所で神の民としての使命を果たすことの重要性を学びます。
【聖書箇所】
-
エステル4:1-3
-
エステル4:7
-
エステル4:8
-
エステル4:11
-
エステル4:12-14
-
エステル4:16
-
エステル4:17
【励ましの言葉】
-
信仰を貫き通すなら、神様は必ず助けを起こしてくださいます。
-
あなたが今この場所に置かれているのは、まさに「このような時のため」です。
-
神様が与えてくださった立場や能力は、神の国と神の民のために用いるべきものです。
-
たとえ小さく弱いもののように見えても、御言葉を貫くなら、やがて大いなる救いを見ることができます。
【戒めの言葉】
-
安全な場所にいるからといって、危機にある神の民を顧みず、何もしないでいてはなりません。
-
神様から与えられた地位や機会を神のために用いなければ、滅びてしまいます。
-
不従順は、子々孫々にまで不幸をもたらすことがあります。
【勧めの言葉】
-
危機に際しては、まず主の御前に断食し、自分を低くして祈り求めるべきです。
-
神の民としてのプライドを貫き通し、決して降ろしてはならないものを守りましょう。
-
問題に直面した時、「どうしようか」と人間的に考えるのではなく、「主は何とおっしゃっているのか」を御言葉に尋ねましょう。
【***詳細***】
今日はエステル記の4章から、主の恵みをいただきたいと思います。初めに1節から3節をお読みします。
モルデカイはなされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら、都の真ん中に出て行った。そして、王の門の前のところまで来た。王の門の中には、荒布をまとったままでは入ることができなかったのである。王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と鳴き声と嘆きが起こり、多くの人たちは荒布をまとって灰の上に座った。(エステル4:1-3)
新しい年が主の御言葉によって始まり、主の御言葉のうちに進んでいける幸いを感謝します。私たちはそれぞれ、遣わされた場所に置かれています。なぜそこにいるのか、なぜそこに進もうとしているのか。私たちがイエス様を信じて歩んでいる限り、神様がその道を備え、「これに行きなさい」とおっしゃっているのです。
今日の箇所では、ユダヤ人全体が滅ぼされるという危機に陥り、嘆きと悲しみ、叫びが起こりました。当時の世界で最も権威のあったペルシア帝国が、彼らを殺そうとしていたのです。しかも、その法令は取り消すことができません。この絶望的な状況の中で、ユダヤ人たちは大きな嘆きに包まれました。
モルデカイは、この事態を知るとすぐに衣を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶって都に出て行きました。しかし、彼がいつも仕事をしていた王の門の前まで来ましたが、中に入ることはできませんでした。当時の法令で、荒布をまとったまま王の門に入ることは禁じられていたからです。それでも、モルデカイは荒布を脱ぎませんでした。
荒布をまとうという行為は、ユダヤ人にとって、主の御前に自分を低くし、ただ主に求めるという信仰の表明でした。衣を引き裂くことは、自分の心を引き裂いていることを主の御前に示す行為です。エステル記には「神」や「主」という言葉が直接出てきませんが、モルデカイの行動の背後には、はっきりと主に対する思いがありました。彼は王妃エステルに会うことよりも、まず主の御前に断食し、自分を低くすることを最優先したのです。
他のユダヤ人たちも同様でした。国中に「断食と鳴き声と嘆きが起こり、多くの人たちは荒布をまとって灰の上に座った」とあります。彼らもまた、政治的・軍事的な解決策に頼る前に、まず神様に向かって叫び求めたのです。この神様に向かう姿勢こそが、ユダヤ民族がエステルの時代だけでなく、その後のホロコーストのような多くの苦難を乗り越え、今日に至るまで力強く存在し続けている理由なのです。
さて、この知らせは王宮にいるエステルにも届きました。彼女はモルデカイの様子を聞いて深く悲しみ、宦官ハタクを通して、なぜそのようなことをしているのか尋ねさせます。エステルは着替えの衣服を送りますが、モルデカイはそれを拒否します。主の御前にへりくだっている今、荒布を脱ぐわけにはいかなかったのです。そして、モルデカイはハタクに事の次第をすべて告げます。
モルデカイが自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に収めると約束した正確な金額も告げた。また、ユダヤ人を根絶やしにするために、スサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。(エステル4:7)
王宮の中にいたエステルは、この深刻な事態を知りませんでした。この問題は、そもそもモルデカイがハマンにひれ伏すことを拒んだことから始まっています。しかしモルデカイは、エステルに事態を伝える際、「私が悪かった」とか「あの時ひれ伏しておけばよかった」などとは一切言いません。彼はただ主の御前に悔い改めの断食をし、自分を低くし、そしてエステルには正確な状況を伝えただけでした。
それはエステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からの憐れみを乞い求めるように彼女に命じるためであった。(エステル4:8後半)
この危機を王に訴え出るのに、王妃であるエステルほど適した人物はいませんでした。モルデカイは彼女に、自分の民族、神の民のために王に取りなすよう命じたのです。
私たちが信仰を貫くと、しばしば反動が返ってきます。その反動だけを見て、「もっと妥協すればよかった」「自分が悪かったんだ」と思ってしまいがちです。しかし、モルデカイはそうではありませんでした。彼は、神の民としてアマレク人(ハマンはアマレク人の末裔)に対して貫いた正しい態度に、一点の曇りもありませんでした。周りのユダヤ人たちも、「なぜお前だけひれ伏さなかったのか」とモルデカイを責めることなく、一つとなって断食し、神に叫び求めました。だからユダヤ人は強いのです。私たちも、神様に対する姿勢を貫くなら、それは神様の目に高価で尊いものです。神様は必ず助けを起こしてくださいます。
しかし、エステルには懸念がありました。彼女はモルデカイにこう伝えます。
「王の家臣たちも、王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという一つの法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」(エステル4:11)
王に呼ばれていないのに御前に出れば、王妃であっても死刑になる可能性があったのです。しかも、エステルはもう30日間も王に呼ばれていませんでした。失敗すれば死が待っている。彼女が躊躇し、恐れを抱くのは自然なことでした。
その答えを聞いたモルデカイは、エステルに力強い言葉を送ります。
あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろうと考えてはいけない。もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない。(エステル4:12-14)
私たちも、「自分は安全な場所にいるから大丈夫」と考えてはいけません。世界では信仰のゆえに迫害されている兄弟姉妹がいます。私たちは彼らのために祈り、行動を起こすべきです。
モルデカイは言います。「あなたが沈黙を守るなら、助けは別のところから来る。しかし、あなたは滅びる」と。神様が与えてくださった王妃という立場。プリンセスになることは多くの人の憧れですが、それはゴールではありません。神様がその立場に置かれたのには目的があります。それは、神の国と神の民のためです。与えられた地位や機会を用いないなら、それは失われてしまいます。
そして、あの有名な言葉。「あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない」。
今、私たちがこの場所に置かれている理由も、まさに「このような時」のためなのです。クリスチャン人口が極めて少ないこの日本という国、この世界情勢の中で、神様が皆さんを今の場所、今の立場に置いてくださったのには意味があります。私たちは無関係だと思ってはなりません。与えられた賜物、財産、専門性、そのすべてを神様のために用いるべきなのです。
この言葉を聞いたエステルの心は決まりました。
「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも同じように断食します。そのようにした上で、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)
彼女はまず、自分のために断食して祈ってくれるよう頼みました。そして「死ななければならないのでしたら、死にます」と、死を覚悟して王の前に進み出る決意を固めたのです。この姿には、ゲツセマネで「私の願いではなく、あなたの御心のままになさってください」と祈り、十字架へと向かわれたイエス様の姿が重なります。
聖書ではしばしば「三日目」に復活、救いが起こります。イエス様も三日目によみがえられました。この三日間の断食は、エステルとユダヤ人にとって辛い時間だったでしょう。しかし、彼らは三日の死の後には復活があることを信じていました。この断食は、ただ食べず飲まずにいることではありません。神様に集中し、命を懸けて祈り求めるためのものでした。
モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。(エステル4:17)
モルデカイがこのことをユダヤ人たちに伝えると、彼らは皆、それに従いました。この事態を引き起こした張本人とも言えるモルデカイの言葉に、彼らは従ったのです。なぜなら、彼らはモルデカイが神の民としてのプライドを貫いたことを知っていたからです。彼らは一つとなり、三日三晩断食して神に祈り、救いを待ち望みました。これこそが、ユダヤ人が生き残り、神に守られてきた秘訣です。
私たちにも、主から与えられた使命と、神の民として貫き通すべきプライドがあります。エステルもモルデカイもそれを貫きました。私たちも、イエス様にあって神の民としての誇りを持ち、貫くべき御言葉を貫き通しましょう。たとえ今は小さく弱い存在に見えても、御言葉をこの地にしっかりと根ざすなら、やがて大いなる救いと栄誉がもたらされます。エステル記の結末で、モルデカイとエステル、そしてユダヤの民が大いなる栄誉を得たように。
皆さんが今この時代に生かされているのは、まさにこの時のためです。この御言葉を受け取り、この日本において神の栄光を現していく者となりましょう。
【結論】
ユダヤ民族が滅亡の危機に瀕した時、モルデカイとエステルは、人間的な策略に頼るのではなく、まず神の御前に断食し、へりくだって祈り求めました。そしてエステルは「死ななければならないのでしたら、死にます」という覚悟をもって、王妃という立場を神の民の救いのために用いました。私たちも、神が今の時代、今の場所に置かれた目的を悟り、与えられた立場や賜物を神の栄光のために用いるべきです。困難に直面した時こそ、信仰のプライドを貫き、一つとなって主に叫び求めるなら、主は必ず救いの道を開いてくださいます。
エステル記、神の計画 VS 悪人の企て(エステル基3:7-15)
メッセージ音声
【概要】
悪しき者ハマンはユダヤ人を滅ぼすため「くじ(プル)」を投げますが、その決定さえ主の御手の中にあり、神は民の救いのための時間を確保されました。地上の王が権威を乱用するように見えても、真の王なる神はすべてを支配し、エステルとモルデカイのような誠実な者を用いて御計画を進められます。
【聖書箇所】
-
エステル3:7-15
-
箴言16:33
-
エステル3:10
-
ヨハネ10:10
【慰めの言葉】
この世で悪しき者が権力を握っているように見えても、真の王である神がすべてを支配しておられます。その権威はやがて神を敬う者の手に渡されるので、絶望する必要はありません。
【励ましの言葉】
人の目には絶望的に見える状況でも、神は裏で働き、すでに救いの手筈を整えておられます。日々の小さなことに忠実であるなら、主はいざという時に大きなことを任せ、多くの人を救う働きに用いてくださいます。
【戒めの言葉】
人を憎む心は時間・財産・健康を奪う高価な代償を払わせます。悪魔は真理にわずかな嘘や毒を混ぜて人を欺きます。巧妙な言葉や抽象的な非難に注意し、ねじ曲げられた真実に惑わされないように。
【勧めの言葉】
許せない心を投げ捨て、神の御心に従って誠実に歩みましょう。神から信頼され、権威(印鑑・指輪)を託されるようなエステルやモルデカイのような者となりましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
過去の世代の不従順は後の時代に災いをもたらします。自分の理性や知性で神の言葉を裁かず、聖書をそのまま信じて実行する素直な心を持ちましょう。
【***詳細***】
本日のメッセージの恵みの御言葉はエステル記3章7節から15節です。初めに7節と8節を宣言します。
「クセルクセス王の第十二年の第一の月、すなわちニサンの月に、日と月とを決めるために、ハマンの前でプル、すなわち、くじが投げられた。くじは第十二の月、すなわちアダルの月に当たった。ハマンはクセルクセス王に言った。『王国のすべての州にいる諸民族の間に、散らされて離れ離れになっている一つの民族がおります。彼らの法令はどの民族のものとも違っていて、王の法令を守っておりません。彼らをそのままにさせておくことは、王のためになりません。』」(エステル3:7-8)
愛する主よ、悪しき者はこのようにして悪しき企みをしますが、しかし、あなたはもうすでにその前に布石を打っておられた神であることを感謝いたします。今、その神がなんと私たちの神であり、今こうして私たちが礼拝するあなたであることを、あらゆることを感謝します。どうか今、私たちに御言葉を教え、あなたの法則、また世の法則、そして世に立ち向かう法則を教えてください。この説き明かす者の唇、また聞く人々の耳通りをよくしてくださり、天から流れ滴るあなたの命の言葉を豊かに命として受け取らせてください。初めから終わりまでのすべてを、あなたの支配の御手にお委ねして、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
ハレルヤ。素晴らしい主の御名をほめたたえ、賛美いたします。
ここに「くじが投げられた」と書いてあります。ある牧師先生は、夫婦げんかの時に「神様に聞こう。私の提案か、あなたの提案か、どちらかにしよう」とくじを投げるのだそうです。するといつもその先生の案に当たるので、奥様は面白くない顔をされるのだそうです。しかし、聖書はこう言います。「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主からくる。」(箴言16:33)そうです。悪人が投げるくじも、実は主の御手の中にあります。悪人が投げるくじに限って、神様が働くことができないということは決してありません。
先週、エステル記3章1節から6節までを学びましたが、アガグ人ハマン、つまり神が滅ぼし尽くすように命じられたアマレク人の末裔である彼が突然昇進しました。それに対して唯一ひざをかがめなかったユダヤ人のモルデカイがいました。ハマンの怒りは、モルデカイ個人への憎しみから、ユダヤ民族全体を根絶やしにするという企てへ広がりました。しかし、その前の2章で、神はすでにエステルを王妃という地位に据えて、先手を打っておられました。
3章では、ハマンのユダヤ人に対する憎しみが取り消せない方向へと進みます。けれども、神は人の目にはどんなに絶望的に見えることであっても、裏で働き、手筈を整えられます。エステル記には「主」や「神」という語が現れませんが、確かに神が働いておられます。私たちの日常も、神という文字が見えないかのように思える時があります。しかし、その裏、はるか天において、神は既に手を打っておられるのです。私たちは「絶望だ」「どうしたらいいのか分からない」と思う時でも、神の御手は必ずあることを覚えましょう。
7節を見ると、くじはペルシア語で「プル」と言います。ハマンはユダヤ人を滅ぼすのに最もふさわしい日を決めるため、くじを投げました。当時、重大な政治的決定を「神の意志」に委ねる習慣がありました。ハマンは自分の信じる「神」に問い、くじを投げました。しかし、真の神がその決定を支配されたのです。「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主からくる。」(箴言16:33)
ハマンがくじを投げたのは第一の月(ニサン)、当たったのは第十二の月(アダル)でした。ほぼ一年先の日です。ハマンは明日にでも実行したかったかもしれませんが、くじは最も遠い月に当たりました。こうして、ユダヤ人には約一年の猶予が与えられました。ハマンが自分の「神」に投げたくじでしたが、実は真の神が御手を動かし、ご自身の民の救いに最も良いタイミングに事を当てておられたのです。神は時間と空間を支配される方です。この神が、ハマンのくじを通して民を救うための時間と空間を確保してくださいました。
この猶予の間に、エステルが王の前に進み出る時があり、モルデカイが断食を呼びかけ、ユダヤ人たちが祈る時間が与えられました。神は「神」という名を出さずに、当時の人々と今の私たちに、ご自身が生きて働かれることを示されます。私たちの人生でも、「たまたま」「偶然」に見える出来事や「アンラッキー」に見えることがあるでしょう。しかし、神は最善を用意しておられます。最悪ではなく最善をもって導かれる神に感謝しましょう。今日、2026-06-05に起こるかもしれない、偶然に見える一つ一つの出来事の裏に、神は働いておられます。
さて、くじで日程が定まり、ハマンは王の前に進み出ます。8節と9節でこう言います。
「王国のすべての州にいる諸民族の間に、散らされて離れ離れになっている一つの民族がおります。彼らの法令はどの民族のものとも違っていて、王の法令を守っておりません。彼らをそのままにさせておくことは、王のためになりません。」(エステル3:8)
さらに「私はその仕事をする者たちに銀一万タラントを測って渡します」と申し出ます。
ハマンの言葉に注目すると、彼は「モルデカイの民族」「ユダヤ人」と具体名を出さず、「一つの民族」「散らされて離れ離れ」という抽象的表現を用います。これは巧妙です。悪に長けた者は、抽象的で印象操作的な語りにより、私たちの判断を鈍らせます。
ハマンの告発には一つの真実が混ざっています。「彼らの法令はどの民族のものとも違っています」。これは真実です。世の法則と神の法則は違います。世で正しいとされることが、神の民には正しくないことがあります。また、世の人がしないことを神の民はします。その違いのゆえに、私たちは迫害や困難に直面することがあります。
ハマンはその「違い」を利用し、王の心を「滅ぼすべきだ」に傾けるため、真実に少しの嘘を混ぜました。ねじ曲げられた真実は人を信じやすくします。これは悪魔サタンの常套手段です。神の言葉という真理に、ほんの少しの毒を混ぜるだけで、人を破滅へ導きます。もしカレーに1グラムの毒が混ざれば、それは人を殺す毒のカレーになります。同様に、ほんの少しの毒が全体を台無しにします。ハマンは真実と嘘を混ぜ、王の心を動かし、神の民ユダヤ人を滅ぼそうとしました。
しかも、彼は「銀一万タラント」をそのために差し出すと言います。これは当時のペルシア帝国の年間税収のおよそ3分の2に相当する途方もない額です。彼が個人で支払えたかは不明ですが、彼の憎悪の徹底ぶりが金額に現れています。
人を憎む心は非常に高くつくものです。もし誰かを憎むなら、その時間、財産、健康は無駄に浪費されます。罠を買い、装置を用意し、本を読み、相手を貶めようとする努力は時間とお金を奪い、健康も損ないます。憎しみの多い人は病にかかりやすく、表情も険しくなります。許せない心は人生から多くを奪います。イエス様は主の祈りで「われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と教えられました。許す心は日々の糧と同じくらい重要です。私たちは許せない心を投げ捨てるべきです。
さて、エステル記3章10節にはこうあります。「王は自分の手から指輪をはずして、アガグ人ハメダタの子でユダヤ人の敵であるハマンにそれを渡した。」(エステル3:10)
王は気前よく「その銀はおまえに与えよう。またその民族も、おまえの好きなようにするがよい」と言いました。しかし王は、どの民族を滅ぼそうとしているのか確かめもしませんでした。王の指輪には王の印があり、それを渡すことは王の全権委任を意味します。王の印が押された決定は覆せません。王は面倒を避け、何百万もの命に関わることを深く考えもせず、悪魔的志を持つハマンに権威を渡しました。これは恐ろしいことです。
この王は自分が世界の支配者だと思っていたでしょう。しかし、この出来事のずっと前に、神はすでに一手を打っておられました。確かにこの時点では王の指輪がハマンの手に渡り、ユダヤ人根絶の勅令が通りました。しかし、聖書の結末を私たちは知っています。その指輪はやがてハマンの手から取り去られ、モルデカイの手に渡されます。
今、この世の実権が悪しき者に渡っているように見えるかもしれません。しかし、聖書は教えます。実権はやがて神を敬う者に渡されるのだと。伝道の書は「悪人が富をたくわえるのは、神の御心にかなう人にそれを渡すためである」と語ります。悪人は自分のために財を蓄えますが、それはやがて神にかなう人が用いるために、労苦だけが悪人に与えられるのです。ハマンも一見、好き勝手に進めているようですが、天には王の王なるイエス様がおられ、すべては主の御手の中にあります。
こうして全世界に勅令が行き渡りました。「第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの財産をかすめ奪え」。悪魔サタンは、神の御心がユダヤ人を通して成就することを知っているため、彼らを根絶やしにしたくてたまりません。この勅令は「根絶やしにし、殺害し、滅ぼし」と同義語が三重に重なり、人間の憎しみの執念深さを示します。ハマンの憎しみは年寄りも子どもも女性も、一切の例外を認めません。これはサタンの性質です。イエス様は「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない」(ヨハネ10:10)と言われました。悪魔の動機は、まさに盗み、殺し、滅ぼすことなのです。
この勅令は首都スサだけでなく全土に早馬で伝えられ、人々は混乱に陥りました。しかし、張本人の王とハマンは王宮で酒を酌み交わしていました。スサの都が混乱したということは、ユダヤ人だけでなく、彼らと交わって生活し商いをしていた他民族も恐れおののいたということです。懇意のユダヤ人商人が突然滅ぼされると聞いて、人々は驚き、恐れ惑いました。一度発布されたペルシャの法令は変えることができないのに、ハマンはあっさり書き、王は確かめもせずに印を押したのです。
しかし、天の神はすべてを覚えておられ、すでに手を打っておられます。現代の私たちにとっても同じです。悪しき王のような者が権力を振るい、人々を苦しめる法令を出し、酒を酌み交わしていても、真の神はしっかり動いておられます。そして、その権威を神のために用いるべきは誰かを見ておられます。神は苦難の中で私たちがどのように高潔(ノーブル)な行動をとるかを見ておられます。私たちの集いがどんなに小さく無名でも、誠実に行動する者を主はご覧になり、やがて印鑑(指輪)を託してくださいます。私たちは御言葉に従って誠実に働きましょう。主は必ず報いてくださる方です。
どうか私たち一人ひとりが、日々の小さなことに忠実に歩むことで、神から「この人になら印鑑を渡してもよい」と見なされる者となりますように。そして、いざという時に大きなことを任され、多くの人々を神のもとへ導き救う働きに召されますように。
愛するイエス様、あなたこそ真の王の王です。地上の王たちは好き勝手に権威を振りかざし人々を苦しめますが、あなたはすでに私たちという布石を、この地に、それぞれの場所に置いてくださっていることを感謝します。どうか私たち一人ひとりが、御前にあって凛々しく高潔なエステルであり、モルデカイでありますように。そして、悪のたくらみを打ち砕き、あなたの御心がこの地上に豊かになされるための神の民でありますように、助け導いてください。すべてを感謝し、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
聖書は、私たちが忘れてはならないことを書き記しています。サウル王が神の命令を実行せず、滅ぼし尽くすべきものを残したために、その残骸から生まれたハマンによって、今度はユダヤ人全体が滅ぼし尽くされそうになりました。この因果関係を知るべきです。聖書を知らない人々には前後関係が分からず、防ぎようがありません。しかし、神は私たちに恵みとして聖書を与え、前後を知る者としてくださいました。
人の理性や知性は頑固で、自分の考えに合わないことは受け入れない性質があります。しかし、私たちは自分の理性で判断するのではなく、神が記してくださった御言葉の中に生きる道しるべを見出し、それをそのまま実行する者となりましょう。私たちの知性、理性を御前にへりくだらせ、御言葉が示すことをそのまま信じる素直な者となりますように。
私たちの先祖が神に逆らったことが、どれほど後世に災いをもたらしてきたかを思うと恐ろしくなります。私たちはイエス様にあって、ただ主だけについていきます。主よ、私たちがモルデカイのようにこの世を見張り、エステルのような次世代を育てることができますように。この悪い時代にあって、神の正義のために逆風を起こすことができるエステルを育てることができますように。私たち自身が従順と服従で身を飾り、王の前に出ることができますように。
主よ、あなたは今日、この聖書の箇所を通して、ただあの時代の出来事としてではなく、この私自身に決断を迫っておられることを覚えます。主よ、あなたの決断に私たちが加わることができますように。
【結論】
ハマンの巧妙な企てと莫大な富を用いた悪意は、くじ(プル)という出発点から始まりました。しかし、そのくじさえ主の完全な支配の中にあり、神は民の救いのための一年の猶予を与えられました。地上の王が指輪を悪人に渡し、覆せない勅令が発布されても、真の王なる神はすでに先手を打ち、やがて権威を神を敬う者の手に移されます。私たちは憎しみに心を支配されず、許しと誠実をもって歩み、聖書の御言葉に素直に従う者となりましょう。神は日々の小さな忠実を見ておられ、時至って大きな働きと権威を託し、多くの人々を救う器として用いてくださいます。すべての偶然に見える出来事も主の御手の中にあり、最善へと導かれる神の計画の一部です。
中途半端な従順と神の民としての一線(エステル記3:1-6)
メッセージ音声
【概要】
数百年越しの確執がついに表面化する場面。モルデカイが報われず、代わりにアガグ人ハマンが昇進する。しかしモルデカイは神の民としての一線を守り、ハマンに膝をかがめることを拒んだ。中途半端な従順が後の世代に災いを残すことを警告している。
【聖書箇所】
-
エステル3:1-6
-
エステル2:5
-
ローマ12:2
-
第一サムエル15章
【戒めの言葉】
中途半端な従順は後々の世代に災いを残す。御言葉に対して「このくらいならいいだろう」という妥協は、自分自身や子孫に害をもたらすことになる。
【励ましの言葉】
報われていないように見えても、神様の救いの計画における大切な一手として、あなたは置かれている。神様の計画はすでに動き始めている。
【勧めの言葉】
神の民として膝をかがめてはならない一線を守り続けること。毎日繰り返される誘惑や圧力に対しても、信仰的な筋を通し続けることが求められる。
【***詳細***】
今日の箇所はエステル記3章1節から6節です。初めに1節を読みます。
「これらの出来事の後、クセルクセス王はアガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を彼と共にいる首長たちの誰よりも上に置いた。」
前回までエステル記の2章までを見てきました。本当に控えめなエステルが王妃に選ばれて、そしてそのエステルの育ての親、モルデカイが王の門の前で座り続けており、そしてこの王の暗殺計画をモルデカイが暴いて、王様の命を救いました。その功績が年代記の書に記されたとだけは書いてあるんですけど、実際的なご褒美をもらえるとか、そういったことはないままで3章に入ります。
モルデカイがいよいよ報われるのか、章が変わったと思いきや、そうではないんですね。モルデカイではない者が地位を得ました。「クセルクセス王はアガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を彼と共にいる首長たちの誰よりも上に置いた」と書いてあります。
昇進したのはモルデカイではなく、ハマンでした。一方、モルデカイは相変わらずこの王様の門の前にただ座っているだけの状態ですね。報われないけれども、他の人がもっと昇進してしまう。これは私たちも日々生活している中でよくある経験することですけれども、正しいことをしたのに報われない。むしろ間違っているかのように見える人の方が引き立てられて目立って、上に立てられていく。
けれども、このエステル記はそれをただの不運として描いているわけではありません。運がなかったなということではないんですね。ここから物語が大きく動いていくんです。この大きく動く物語って、一体どれほど大きなストーリーだったのか。実はこれ、数百年ほどのストーリーが動いている様があるんですね。
この1節をよく見ますと、このハマンは何者かというと、アガブ人ハメダタの子ハマンというふうに書いてあります。彼はアガブ人、これがこのハマンの本性です。ハマンの素性、アガクの子孫で、アガク、聖書に出てきます。アガクが出てくるのは第一サムエル記の方です。
第一サムエル記の15章において、預言者サムエルがこのイスラエルの最初の王サウルにこういうふうに命じるんですね。「行ってアマレクを打て。彼らに属するすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。」けれども、サウルはこの命令に完全に従いませんでした。
このアマレクの王がアガクだったんです。このアガクを生かしたまま捕らえて、そしてこの戦利品の分捕ったもののうち全部聖絶しなさい、分捕り物は取ってはならない、全部滅ぼし尽くしなさいと言われていたにもかかわらず、その肥えた物を惜しんで、これは残しておいてもいいよねと、つまらないものだけを滅ぼして、残してはならないものを残した。
この中途半端な従順、従順は完全でなくてはならないんですけど、しかし中途半端な従順は後々その中途半端さが後々災いを残してしまうんですね。このサウルが残した故に数百年流れた後、このエステルの時代、その災いが一気に降りかかるんですね。このアガグ人のハマン、これはサウルが残してしまったあのアガクの末裔であったわけです。
さらにですね、このモルデカイの出自について、またよく見てみたいんですけどもね。エステル2:5を見ますと、モルデカイはベニヤミン人キシの子の子孫として紹介されています。これ、要するにサウル王と同じ血筋なんですね。ですから、この3章で始まったのは、数百年越しのその確執の再現であったわけです。つまり、サウルとアガクの対決の、その数百年越しの再現がこの3章で始まったわけなんですね。
サウルが取り残したこのアマレクの末裔が、今、この次世代のまたさらなる次世代、もっとさらなる子々孫々に下った後に、それが害として現れて、そしてこの民全体を滅ぼそうと、またこのアマレクのアガグ人、それが今この3章においてまさに実現しようとしていたわけです。
ですから、本当にここから学ぶべきことは、私たちは御言葉に対して中途半端な従順であってはならないんです。その従順の中に中途半端さを残していたら、その中途半端さが、いずれやがて自分自身に跳ね返り、あるいは自分の代に跳ね返ってこないとしても、自分の子供の孫の後々の世代に害となって現れてしまうわけです。
ですから、今日、私たちが御言葉に対して、御言葉がやめなさいと告げていることに対して、ちょっとぐらいはいいじゃないかというふうに言うとしたならば、その人は自分自身の後、あるいは自分自身の子孫に害を残すことになってしまうわけです。
現実、実際、今自分自身に起きている報われないなということで、それ、自分が犯した罪じゃないのにと思っていたかもしれなくても、先祖が犯した罪が実は今、この代の自分に返ってきてしまうということがあるわけです。だから私たちは先祖の犯した罪を本当に悔い改めて祈るべきなんですね。
2節の方を読みますと、「王の門のところにいる王の家来たちは皆、ハマンに対して膝をかがめてひれ伏した。しかし、モルデカイは膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかった」と書いてあります。
モルデカイは、なぜ膝をかがめなかったのか。この自分より高い地位にある者に対してひれ伏すことは、当時はまあ、ごく普通の習慣というか、儀礼だったんですけども。なんでモルデカイはこの彼に膝をかがめなかったか。4節にはっきり理由が示されています。
「モルデカイが自分がユダヤ人であることを彼らに打ち明けていたからである」と書いてあるんですけども、モルデカイは自分がユダヤ人であることをみんなに打ち明けていたとあります。ですから、ここに理由があるんですね。
モルデカイはハマンが嫌いだったからとか、わがままだったからとか、そういったことではなくて、ユダヤ人だったから。つまりモルデカイは自分は神の民、そして神の民としてひれ伏してはならない一線を、彼ははっきりと持っていたんですね。
ハマンはアガグ人です。ハマンはモルデカイにとって、モルデカイ自身の先祖サウル王が残した敵でした。アガクはまたアマレク人です。聖書に書かれてあります。「主はアマレクと代々戦う。」あのモーセの時代、モーセが手を挙げて祈っていた時は、ヨシュアの軍勢が優勢、手を疲れて下ろしていたら、ヨシュアの軍勢が不利になった。その相手がアマレクで、そしていよいよモーセの疲れた手を、両隣からアロンとフルが支えて、そしてしっかりとその祝福の手が降りなかったゆえにヨシュアたちが勝利しました。
そこで主が宣言されたのは、「私は代々アマレクと戦う」ということを主は仰せられました。ですから、モルデカイはその律法を知っていた。そしてこのアマレクは主の敵である。主はこのアガブ人、ハマンと代々戦う。今このように取り上げられているけれども、しかし主は必ずこのハマンを取り下ろすということを、律法からモルデカイが知っていたから、だから、決して膝をかがめなかったんですね。
もちろん、王様に対してはね、礼儀として膝をかがめましたね、モルデカイは。けれども、ハマンに対しては、神の民として、またこのキシの子、ベニヤミン人として、決して膝をかがめてはならない相手だったんですね。
今日の私たちね、膝をかがめてはならない、そういう相手、いるでしょうか。神の民として、これは別に気に食わない相手であってはなりません。神の民として、そのかがめてはならない欲望があり、またかがめてはならない罪があります。世の中において、みんなはこの偶像礼拝をしているから、自分もこの同じようにしようって、そういったこと、かがめてはならないんですね。
聖書には偶像拝んではならないって、非常に事細かく書いてあります。冒頭で宣言したのは、ローマ12:2なんですけども、書いてあります。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ神の御心は何かを見分けるために、心の一新によって自分を変えなさい」と書いてあります。
私たちも膝をかがめてはならない罪があり、欲望があり、誘惑があります。この御言葉が示すこと、私たちは本当にこの一線を守るために毅然と立つことはできるでしょうか。
さらにですね、3節から4節のところに、見落としてはならない一言があるんですね。3節から4節見ますと、この王の家来たちはモルデカイに、「あなたはなんでこのハマンに膝をかがめないのか。これ、つまり王の命令に背くことだ。なんで王の命令に背くのか。」彼らは毎日そう言ったが、モルデカイは耳を貸そうとしなかったと書いてありますね。
毎日そういうふうに言われました。毎日です。信仰の戦いは一度勝利したということで満足してはならなくて、2日目、3日目にまた誘惑が来たら、その一線を越えてはならない戦いがあるわけです。信仰の戦い、これは毎日。しかもモルデカイは毎日繰り返し同じ圧力がかけられたんですけども、でも耳を貸そうとしなかったんですね、モルデカイは。
このモルデカイの有様だけ見ると、なんて頑固で、なんか融通が利かないって思う人がいるかもしれないですけど、しかしモルデカイとしては、この律法から、また神の民として、そして自分の血筋として膝をかがめてはならない相手だった。だから耳を貸そうとしなかったんですね。
モルデカイは毎日毎日繰り返し同じ圧力がかけられても、耳を貸そうとしませんでした。これが本当の信仰の戦いです。多くのユダヤ人はハマンに膝をかがめました。モルデカイはかがめませんでした。でもエステル記の最後を見ますと、ユダヤ人の中で唯一モルデカイが大いに取り上げられて高く地位が上げられたわけですね。主が引き上げたんです。それはこのモルデカイが、決して膝をかがめてはならない、神の民としてはかがめてはならない相手にかがめなかった。それを貫き通したからなんですね。
このモルデカイは自分がユダヤ人であることを隠さないで打ち明けておりました。エステルは時が来るまで自分の出自を隠していなさいとモルデカイが言ったんですけども、モルデカイは違いました。これはそれぞれの任された場所、それぞれ任された地位において、それぞれの導きがあるんですね。
エステルは明かさないことが益でした。けれど、モルデカイは自分はユダヤ人だと明らかにしていたからこそ、だからこのハマンに対して膝をかがめない。その理由、信仰的な筋が通っていて、そしてみんな周りにそれが知らされたわけですね。自分はユダヤ人、そして相手はこのアガグ人だから、ユダヤ人として、信仰者として膝をかがめないということだったんですね。
私たちも本当に自分がどこに所属するのか、私たちは天国に所属する、イエス様に所属する。はっきり証を立てていくべきです。
さらに5節から6節見ますと、ハマンは、このモルデカイが自分に対して膝をかがめないのを聞いて、憤りに満たされた。しかもハマンはこのモルデカイ一人に手を下そうとするだけでは満足しないで、ハマンはすべてのユダヤ人、このモルデカイの民族全体を根絶やしにしようと企みました。
本当に恐ろしいものです。自分のそのプライド、高慢が傷つけられたことに対する怒りを、決して個人だけでなく、その個人が所属する集団全体、民族全体を滅ぼそうという憎しみに膨れ上がっていった。ここに、このアマレクのその汚さと言いますか、その罪深さが垣間見られます。
自分に膝をかがめなかったあの一人に対する憎しみ、これが全集団に対して、その民族に対して、その国全体に対する怒りに変わっていく。これがまあ、今よく囁かれているヘイトの構造ですね。ですから、あの時代から今に至るまで、この構造が変わっていないわけですね。
本当にこのハマンの中で動いていたこの蠢く怒り、その性質、これモーセの時代からまたサムエルの時代、サウル王の時代からずっと働いていた。いやむしろその前から悪魔サタンがすべてこの神の民を根絶やしにしようと滅ぼそうと企んで、そうしてこのようなハマンを用いて、悪魔サタンがハマンを用いて神の民を根絶やしにしようって企んでいたわけです。これ今でも、それは世界的な戦争において、本当にそれが起こされております。
けれども、覚えておくべきことは、神の子イエス様は、まさにその悪魔の業を打ち壊すために来られたんです。私たちの信じるイエス様は、必ずこの悪魔サタンの業を打ち壊してくださいます。
このエステル記の3章は、確かにこの暗い始まり方をしたかもしれません。けれども、神様はその中において、もうすでに空いた王座にエステルを据えておられたんです。神様の一手、それはもうこの前に置かれていたわけですね。「このような時のために」、エステル記において重要なキーワードでした。
ハマンのこの企みが膨らみ始めるその以前から、もう神様の救いの計画、その一手はもうすでに置かれているんです。王宮の中で、もうすでにこの神様の救いの計画は動いていたわけです。
今の私たちに対して、このエステル記3章は問いかけております。まずは皆さん、モルデカイのように報われていないなって、それを感じる場面あるでしょうか。でも皆さん、しっかりと神様の一手として皆さんは置かれているんです。このつくばみらいの地に、それぞれの場所、場所に。神の一手として皆さんが置かれて、そしていかに報われていないかのように見えても、実はですね、それ布石なんですね。
また、今日の箇所が示すこともう一つ、膝をかがめてはならない一線というものがあります。その置かれている場所、場所において、その一線は人によって違うかもしれません。私たちは本当にこの祈りを通して、御言葉を通して、その一線をはっきりと知る必要があります。そして、たとえみんなが膝をかがめたとしても、皆さんはその罪に、誘惑に膝をかがめてはならないんです。
また、私たち、「このくらいになったら別にいいじゃないか」、そのようなサウルのような、「このくらいなら別にいいじゃないか」、これは本当に捨て去るべきです。中途半端な従順、これが後々に災いを残しました。皆さんは本当にこの自分の中に残してはならないアガクを残していないでしょうか。私たちはしっかりとそれは取り扱って、そして本当にこの完全な従順を通して、全き祝福に入っていくべきです。
皆さんはこの神の民としてのプライドをしっかり保ち、そして神様に対する従順を保って、そして祝福へと入っていきましょう。本当にこの従順が完全になる時、一切の不従順は処罰される準備ができます。皆さんが本当に神さんに対する従順を保って、そして一切の不従順を処罰する皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。
【結論】
私たちは御言葉に対して中途半端な従順であってはならない。サウルの中途半端な従順が数百年後の子孫に災いをもたらしたように、私たちの妥協も後の世代に影響を与える。しかし、モルデカイのように神の民としての一線を守り続けるなら、たとえ今は報われていないように見えても、神様はすでに救いの計画を動かしておられる。私たちは神の民としてのプライドを保ち、完全な従順を通して全き祝福へと入っていくべきである。
真の美しさ(エステル記2:12-23)
メッセージ音声
【概要】
本当の美しさとは、外見ではなく、真の王であるイエス様の喜びとなることを求め、その御心に従うことです。自分の価値観や好みを捨て、ただ主を恐れ敬い、従順であることこそが、神と人からの好意を受ける秘訣です。
【聖書箇所】
エステル2:12-23
箴言31:30
【勧めの言葉】
-
自分の好みや価値観ではなく、真の王であるイエス様の御心を第一に求め、その喜びとなることを目指しましょう。
-
自分の手柄を主張せず、霊的な指導者の教えや命令に謙虚に従いましょう。
-
麗しさや外見の美しさ以上に、主を恐れ敬う心を大切にしましょう。
-
たとえ今すぐ報いがなくても、私たちの行いはすべて神の年代記に記録されており、やがて必ず報いられることを信じましょう。
【***詳細***】
皆さん、こんにちは。
今日皆さんと共に見ていきたい御言葉は、エステル記2章12節から23節です。まず、12節をお読みします。「娘たちは女たちの規則に従って十二か月の期間が終わった後、一人ずつ順番に、アハシュエロス王のところにはいっていくことになっていた。準備の期間は、六か月は没薬の香油を、次の六か月は香料と女たちのための化粧品を用いて化粧することで完了するのであった。」アーメン。
愛するイエス様、今、私たちがあなたの御心にかなうもの、美しいものとなれますように。あなたが「さあ、立って出ておいで」と言ってくださるような者となりたいです。主よ、本当の美しさとは何か、外見に勝る美しさとは何かを教えてください。今、取り次ぐ僕を清め、このメッセージを受け取るお一人お一人を整えてください。礼拝に来られない方々の上に、あなたの癒しと導きがありますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒め称えます。
ここ最近、エステル記から「本当の美しさ」とは何かを学んでいます。このエステル記の物語では、まずペルシャ全国から美しい娘たちが集められました。そして、その中からたった一人の王妃が選ばれるのです。たくさんの娘たちが集まりましたが、王妃になれるのは一人だけ。彼女たちは、ある意味で必死だったことでしょう。
今日の箇所、12節にあるように、彼女たちは12ヶ月もの間、徹底的にエステティックなケアを受けていました。最初の6ヶ月は没薬の香油で、次の6ヶ月は香料や化粧品で体を整え、体から良い香りが滲み出るほどでした。
ちなみに、「エステ」という言葉は、このエステル記が語源かと思いきや、実は違うようです。フランス語の「エステティック(美学)」は、元をたどるとギリシャ語の「アイステーシス(感知する、感じる)」という言葉から来ています。一方、聖書のエステルという名前は、ペルシア語で「星(スターラ)」を意味するか、あるいはバビロニアの愛と美の女神「イシュタル」に由来すると言われています。エステルの本来のユダヤ名は「ハダサ」で、これは「ミルトス」という植物を意味します。イザヤ書には「いばらの代わりにミルトスが生え…これが主の記念となる」という言葉があります。いばらのような私たちでも、主にあってミルトス、つまりエステルのように美しい存在になることができるのです。
さて、多くの娘たちが王のもとへ行きます。13節にはこうあります。
「このようにして娘が王のところにはいっていくとき、その娘の願うものはみな与えられ、それを携えて後宮から王宮にいくことができた。」
これはすごい待遇です。一年間、徹底的に美を磨き上げられ、さらに王に会うときには、欲しいものを何でも与えられたのです。彼女たちはきっと、自分の価値観で「これが一番良い」と思う最高の宝石や衣装、香水を求めて、王の前に出たに違いありません。一晩で人生が変わるかもしれない、王の心を射止められるかもしれない、そんなチャンスに全てを賭けていたのです。ハーレム(後宮)は、自分の美しさで王の心を掴もうという女性たちの気迫で満ちていたことでしょう。
しかし、その世界は非常に厳しいものでした。14節を見てみましょう。
「娘は夕方にはいっていき、朝になると第二の後宮に帰ることになっていた。そこはそばめたちの監督官である王の宦官シャアシュガズの管理のもとにあった。その女は王が気に入って指名されるのでなければ、二度と王のところにはいけなかった。」
王に気に入られなければ、二度と会うことはできません。一晩きりで、その後一生召されることなく生涯を終えた女性も多かったでしょう。その夜の王の機嫌や、ほんの偶然によって運命が左右される。多くの女性たちは、その一瞬の偶然に賭けるしかなかったのです。これは、私たちの世界にも通じる厳しさです。たった一度の面接やテスト、タイミングや偶然によって、その後の人生が大きく変わってしまうことがあります。この後宮は、まさにそうしたこの世の厳しさが凝縮された場所でした。
しかし、その中で一人、必死さを感じさせない女性がいました。それがエステルです。15節です。
「さて、モルデカイが引き取って自分の娘とした彼の叔父アビハイルの娘エステルが、王のところにはいっていく順番が来たとき、彼女は、女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。」アーメン。
他の女性たちが自分の好みで飾り立てたのとは対照的に、エステルは自分の価値観を一切持ち出しませんでした。彼女が求めたのは、ただ一つ、「王の宦官ヘガイが勧めたもの」だけでした。ヘガイは、王のことを誰よりもよく知るプロフェッショナルです。王の好み、好きな衣装、色、仕草、言葉遣いまで、すべてを熟知していました。エステルは、「王様は何を求めておられるのだろうか」「何が王様の心を穏やかにするのだろうか」ということだけを追求し、ヘガイの言う通りにしたのです。
そして、「こうして」という接続詞に注目してください。「こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた」。彼女が好意を受けた理由は、プロフェッショナルの言うことに素直に従ったからです。
このエステルの態度は、20節にも表れています。
「エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていたときと同じように、彼の命令に従っていた。」アーメン。
彼女は、霊的な指導者であり、父親代わりであるモルデカイの命令にも従順でした。「おっしゃることは何でもいたします」というこの姿勢こそが、王の心を射抜き、すべての人から好意を得る秘訣だったのです。真の王妃となる人の性質は、自分の好みを押し出さず、ただ王の好みを追求することです。
これは、受験生が自分のやりたいことではなく、受験のプロの言うことを聞けば合格しやすいのと同じです。コンテストでも、専門家のアドバイスに素直に従う人が受賞するのです。
エステルは、見事に王の心を射抜きました。17節です。
「王はほかのどの女よりもエステルを愛した。このため彼女はどの娘たちよりも、王の好意と寵愛を受けた。王は王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。」アーメン。
ここで、元王妃ワシュティの名前が出てきます。ワシュティは王の命令に逆らい、自分の好みを通した結果、王妃の位を追われました。一方、エステルは宦官ヘガイと養父モルデカイの言葉に従いました。この「従順」のゆえに、彼女は王の心を掴んだのです。
さらに、エステルは主を恐れ敬う女性でした。彼女はユダヤ人として、神の民に敵対する者には決して頭を下げないという強い信仰を持つモルデカイに育てられました。冒頭で読んだ箴言31章30節には、「麗しさは偽り。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」とあります。
女性が美しくありたいと努力することは素晴らしいことです。しかし、クリスチャン女性にとって、それ以上に大切なのは、主を恐れ敬うこと、そして真の王であるイエス様の好みは何かを求め、その喜びになりたいと願う心です。
雅歌の中に、男性が女性を褒め称える場面があります。彼は、自分が彼女に贈った金の首飾りや宝石を身につけている彼女の姿を「美しい」と褒めるのです。男性は、自分が飾りたいと思ったものを身につけている女性を、愛おしく、美しいと感じるのです。私たちも、自分の好みではなく、誠の王であり夫であるお方の好みを身につけ、その方に喜ばれる者となりたいです。
さて、物語は21節から23節に進みます。ここに、後の大きな出来事への伏線が記されています。
モルデカイが王の門に座っていた時、二人の宦官が王の暗殺を企てているのを知ります。彼はそのことを王妃エステルを通して王に伝えました。22節には、「王妃エステルは、これをモルデカイの名で王に告げた」とあります。ここでもエステルは、自分の手柄にせず、モルデカイの名を立てています。なんと慎ましい女性でしょう。
この企ては調査され、二人の宦官は処刑されました。そして23節の最後に「このことは王の前で年代記に記録された」とあります。
この時、モルデカイは王の命を救ったにもかかわらず、何のご褒美もありませんでした。「なんで?」と思ったかもしれません。しかし、この記録こそが、後にユダヤ民族全体が危機に陥った時に、彼らを救う重要な伏線となるのです。この時点では彼は無名のままで、その功績に対する賞賛も報酬もありませんでした。
私たちも、今、自分の働きが報われていないと感じることがあるかもしれません。しかし、この物語が示しているように、神様はすべてを見ておられます。
「このことは王の前で年代記に記録された。」アーメン。
皆さんの昨日までの行い、今日の行いは、すべて天の書物に記録され続けています。人が見ていても見ていなくても、イエス様の喜びとなる行動をするとき、それは地上で、あるいは天で必ず報いられます。良いことも悪いこともすべて記録されているのです。今日の一日が、皆さんの行動が王の年代記に記され、将来の祝福の伏線となる一日でありますように。イエス様の御名によって祝福いたします。
【結論】
真の美しさとは、外見的な麗しさではなく、主を恐れ、その御心に従う従順な心にあります。エステルのように、自分の好みや価値観を手放し、ただ真の王であるイエス様が何を喜ばれるかを求めるとき、私たちは神と人からの好意を受け、真に美しい者とされるのです。たとえ今すぐには評価されなくても、私たちのすべての行いは神の書物に記録されており、最も良い時に必ず報いられます。主への従順こそが、私たちを飾る最高の宝石なのです。
真の美しさ—内面の品性と神への誠実
メッセージ音声
【概要】
ワシティ王妃とエステルの「美しさ」の違いを通して、神に喜ばれる真の美しさとは何かを学びます。それは外見的なものではなく、悲しみや痛みを知り、神の言葉によって整えられた内面からにじみ出る品格です。
【聖書箇所】
-
エステル2:1-11
-
エステル2:7
-
エステル2:15
-
第一ペテロ3:3-4
【慰めの言葉】
あなたが人知れず耐えてきたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けてきたこと、そのすべてを神様は見ておられ、それを「美しい」と見なしてくださっています。
【励ましの言葉】
今はまだ世のスポットライトを浴びていなくても、神の言葉によって内面を整えられ、誠実に歩むなら、神様はあなたを見出し、やがて時が来ればエステルのように大きく用いてくださいます。
【勧めの言葉】
人の評価や流行に惑わされず、外見の美しさを追い求めるのではなく、神の御言葉を中心とした内面の美しさ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない品性を飾りとしましょう。
***詳細***
エステルといえば「美しい」という言葉が真っ先に思い浮かびます。では、聖書が語るエステルの真の美しさとは何でしょうか。今日は、エステル記の冒頭からその秘訣を読み解いていきたいと思います。
エステル記の最初には、二人の美しい女性が登場します。一人は王妃ワシティ、そしてもう一人がエステルです。二人とも美しいと書かれていますが、ヘブライ語の原語を見ると、その「美しさ」には違いがあります。
まず、ワシティの美しさについて、1章11節にはこう書かれています。王様が王妃ワシティを人々の前に呼び出そうとしたのは、「彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と諸侯たちに見せるためであった」とあります。ここで使われている「容姿が素晴らしかった」「その美しさ」という言葉は、「見る姿が美しい」、つまり外見的な美しさを意味します。王は、自分の権力を飾り、宴会を彩るために、人々に誇示するものとしてワシティの美しさを用いようとしました。彼女の人格よりも、見た目が重視されていたのです。しかし、ワシティはその人格のゆえに、王の命令に従わず、結果として退けられてしまいました。
いつの時代も、人は見られることを強く意識します。特に現代では、SNSなどで自分の美しい姿を見せたいという欲求が強くあります。しかし、人に見せるための美しさを追い求め続けると、「SNS疲れ」という言葉があるように、疲弊してしまいます。無理が生じると、その無理は隠しきれないものです。
では、エステルの美しさはどうだったのでしょうか。2章7節を読んでみましょう。
「モルデカイは叔父の娘ハダサ、すなわちエステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔立ちも良かった。モルデカイは彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた。」(エステル2:7)
ここでエステルの美しさを表す言葉は、ワシティのそれとは異なります。「姿も美しく」という言葉には「整えられた」という意味合いが含まれています。そして「顔立ちも良かった」というのは「見るによい」ということです。つまり、エステルの美しさは、単なる外見の美しさだけではありませんでした。それは、全体の雰囲気、にじみ出る品格、柔らかさ、柔和さといった、人格から来る「整えられた美しさ」だったのです。
聖書は、宮殿の華やかさから視点を移し、一人のユダヤ人モルデカイと、彼に引き取られた孤児エステルに焦点を当てます。エステルの物語は、美しさからではなく、両親を失った悲しみから始まります。捕囚の地で、叔父に引き取られた一人の少女の物語です。聖書は、彼女が美しいということよりも先に、彼女が悲しみを経験したことを記しています。エステルの美しさは、何不自由なく育った華やかなものではなく、悲しみや涙、孤独を知っている美しさ、痛みを通って練られた品性、練られた美しさだったのです。
モルデカイは、彼女を自分の娘として、神を恐れ敬うユダヤ人としての教育を施しました。その中で、エステルは外見だけでなく、人の痛みを理解し、思いやることができる内面の美しさを育んでいきました。彼女には、人を安心させる柔らかさがありました。15節を見ると、「彼女を見るすべての者の好意を得た」とあります。彼女といると誰もが安心し、彼女を助けたいと思うような、そんな魅力があったのです。この「好意」という言葉は、「恵み」とも訳され、「愛される柔らかさ」というニュアンスを持っています。
テレビをつければ、見た目の美しさや若さばかりがもてはやされます。しかし、外見の美しさは永遠には続きません。「美人は三日で見飽きる」ということわざもありますし、英語にも "Beauty is but skin deep"(美しさは皮一枚にすぎない)という言葉があります。外見は文字通り皮一枚のものですが、内面の美しさは違います。むしろ、主と共に歩む中で、その美しさは年を重ねるごとに深まっていきます。
使徒ペテロはこう語っています。
「あなたがたの飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りとしなさい。それこそ神の御前で価値あるものです。」(第一ペテロ3:3-4)
エステルはまさにこのような女性でした。心の中の隠れた人柄が美しかったからこそ、外面的な飾りが加わったとき、さらにその美しさが輝いたのです。
この時点では、エステル自身は、自分が後に王妃となり、民族を救う器になるとは夢にも思っていませんでした。孤児として育てられ、王宮に召され、与えられた場所で誠実に生きていただけです。私たちも今はまだ、世の中からスポットライトを浴びていないかもしれません。しかし、人目のつかないところでの誠実さ、忠実さ、御言葉を大切にする姿を、神様はすべて見ておられます。主は心を見られるのです。
神様は、羊飼いの少年であったダビデの、神を信頼し敬う心を見抜かれました。同じように、神様はエステルの心に目を留めておられました。皆さんが人知れず耐えたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けたこと、そのすべてを主は見ておられ、その忠実さを「美しい」と見ておられるのです。
ワシティの美しさは「人に見せる」美しさでした。しかし、エステルの美しさは「神に見出される」美しさでした。それは、忠実で誠実な、御言葉に沿った美しさです。私たちも、神様への誠実さを最高の飾りとして、この時代に用いられるエステルのような、またモルデカイのような真の美しさを培っていきましょう。
【結論】
神様が価値あるものとされる真の美しさは、外見ではなく、試練や痛みを通して練られ、神の言葉によって整えられた内なる品性です。人に見せるための飾りではなく、神様の前での誠実さを飾りとし、人々の好意を得るような、柔和で穏やかな心を育てていきましょう。そうすれば、時が来たときに、神は私たちをエステルのように用いてくださいます。
エステル記1章12-22節
メッセージ音声
【概要】
王妃ワシティが王の呼びかけを拒んだことで王妃の座を失った出来事を通して、私たちがキリストの花嫁として主の呼びかけにどう応答すべきかを学ぶメッセージ。真の美しさとは外見ではなく、従順で柔和な心であることが示されている。
【聖書箇所】
-
エステル1:12-22
-
第一サムエル15:22-23
-
第一テモテ2:9-11
-
エゼキエル28章(ルシファーについて)
【戒めの言葉】
高慢は滅びに先立つ。王妃ワシティのように、立場や美しさのゆえに高ぶることは、神の呼びかけを拒むことにつながり、結果として祝福を失うことになる。
【勧めの言葉】
主の呼びかけに対して、「主よ、はい、ここにおります」と即座に応答する心を持つべきである。エステルのように「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という従順な姿勢が真の美しさである。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは時として、自分の働きや立場を誇り、主に指図するマルタのようになってしまう。自分の使命に心が急ぎ、御言葉に集中している人々を呼び出してしまうこともある。主の御前に謙遜に立ち返る必要がある。
【***詳細***】
エステル記1章12節から22節、初めに12節を宣言します。「しかし、王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った」。
エステル記の1章は、一人の王妃が王の呼びかけに応じなかったということが発端になって、物語が展開していきます。この王妃ワシティは、たった一度の王の招きに応えなかったことが、王妃の冠を失ってしまうほどの結果を招いてしまいました。
本当に私たちにとっての王はイエス様です。この王妃ワシティも、このアハシュエロス(クセルクセス)王も人間の王、人間の王妃でした。しかし私たちにとっての王、少なくとも私たちはキリストの花嫁であり、そしてイエス様が私たちの王です。今日のところにおいて、王が皆さんに呼びかけるとき、皆さんはどのように答えるべきかということを示しております。
このエステル記の1章は、まばゆい宴会から始まりました。このペルシア帝国は、当時インドからクシュ、アフリカのエチオピアの方面まで治める大帝国、127州を治める当時最大級の帝国でした。その王宮の中において物語が始まります。180日もの間、自分の栄光と富を誇るために宴会が開かれ、そしてさらに7日間、この王宮の庭園で全市民を招いての宴会が行われていました。
その宴会7日目のことです。王はぶどう酒で心が陽気になって、それで王妃ワシティを呼びます。王妃の冠をかぶってみんなの前に出なさい。確かにこの時の王様は酔っておられました。けれども、この王が王妃を呼んだ理由は、彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであったというふうに書かれてあります。
私たちの主イエス様は、私たちが贖われた時に、私たちのことを美しいというふうに呼んでくださいます。王冠をかぶらせてくださいます。本当に私たちもイエス様が、美しい花嫁よ、出ておいで、王冠をかぶって出てきなさい、もう嘆き悲しむことはやめて出てきなさい、と画家所の花婿のように呼びかける時、皆さんはしっかりとそのところから出て、王冠をかぶって出てくるべきなんです。
けれどもワシティは、この時王様がその美しさを見せなさい、王冠をかぶって出てきなさいという呼びかけに対して、それを拒みました。拒んだということを王様が聞かされた時、王様は激しく憤って、その怒りが燃え上がったのです。
このワシティとしては、ちょっと気分が乗らなかったかもしれません。なんかまた酒の肴にされるみたいなことを思ったかもしれません。あるいは、この王妃自身も女性たちの中で宴会を開いていた女性たちの間で何か話し合われていたのかもしれません。とにかく彼女は拒みました。王様のこのお言葉を拒否しました。
ここまでは大丈夫だろうという、そういったことをもしかしたら試したのかもしれません。昨日、試みという言葉について聞きましたね。試みというのは、子供が親の「してはなりません」という線にちょっとだけ、半歩だけ出て、それで親を試してみて、親が厳しい態度を取らなかったら「ああ、ここはいいんだ」と、よしここの線は確保したということで線を越え、またさらにその次の線をちょっと試してみる、ということをよくしてきます。王妃ワシティも、王様のこの呼びかけに今日はちょっとそれに応じないことを試してみようか、もしかしたらそういうことだったかもしれませんが、しかしこれが、この一度が王の怒りを招いてしまったんです。
しかも結果的には、これによって会議が召集されて、それで知恵のある人々に王様は聞いて、その会議の中で決定されたことは、この王妃ワシティはとても良くないことを王様にした、王様にしたばかりでなく王国全体に対して良くないことをしました、と。もしこのワシティが王様の呼び出しを拒絶したということが王国中に知れ渡れば、王国中のその妻たちが、王妃ワシティが夫の声を拒否したということで、甚だしい蔑みと怒りが生じるでしょう。なので、ぜひ王様こういうふうにしてください。もう王妃ワシティは王の前に進み出てはならないというお触れを出して、そしてこのことにきっちり対処するのであるならば、王国中のその妻たちは夫を軽んじることをやめるでしょう、ということがこの会議の中で出されました。
それでそれが全員の心にかなったんです。こうしてワシティは、この時もう二度と王の御前に出ることができなくなってしまって、そしてこのことが王国中に触れ広められました。
ここで本当に考えたいです。王妃という、本当に女性として最高の立場にいた人が、その座をなぜ失ってしまったのか。聖書全体を見渡すと、同じ落とし穴に落ちた存在がもう一つあるんです。それはエゼキエル書28章の方を見るとあるんですけども、もともと美の極みであった御使いルシファーです。ルシファーはもともととても美しい天使でした。けれども、その美の極み、それによって高慢になって、自分も神々の座に、神々と同じ立場になろうということで、その心が高慢になったゆえに、彼は投げ落とされたというふうに書いてあります。
本当に私たちはここから悟るべきです。本当にこの高慢が滅びに先立つものです。滅びというものは何か外側の罪というよりも、いつも私たちの内側から湧き上がって、特にこの高ぶり、高慢、これが私たちを滅ぼしてしまうことになります。
美しいこと、これは罪ではありません。立場が高いことも、それは良いでも悪いでもないんです。ただ、その高い立場を用いて、この王のために働くべきではあるんですけども、問題はその立場、美しさ、それのゆえに高慢になってしまって、私はできるから、私は美しいから、それが高慢になってしまって、そのゆえに高ぶった心のゆえに身を滅ぼしてしまうということ。これが本当に私たち自身、気をつけなくてはなりません。
私たちはワシティほど美しくはないかもしれませんけれども、本当にこの高慢というもの、私、優れているからというこの心、私、他の人よりも特別だからというこの心が滅びに先立ってしまうわけです。それでその高慢が、このワシティの高慢は、王様から呼び出された、それに対して私、王妃だよ、私、王様に並ぶ、その右左に並ぶものだよ、というそういう高慢があったんです。それで王様の呼びかけに答えないという形で表に現れました。
この王様は結局怒りに燃えましたけれども、結局このことを通してワシティは王妃という座が取り上げられてしまいました。
冒頭で宣言した言葉が第一サムエル記15章22節から23節なんですけども、そこにおいて宣言しました。「聞き従うことは生贄に勝る。聞き従うことは牡羊の脂肪に勝る。けれども、背くことは占いの罪、また強情を張ることは偶像礼拝に等しい」。強情ですね。これは偶像礼拝に等しいんです。新改訳の方では「まことに背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ」。この従わないこと、これ強情なんです。
強情を貫き通すことは偶像礼拝の罪に等しいということです。私たち、本当にこの御言葉を前にして強情を張ったら、偶像礼拝と等しくなってしまうんです。
私たちにとっての王の王はイエス様です。イエス様は皆さんのその働きっぷりよりも、むしろ従順であること、イエス様は皆さんのことを求めておられ、その従順を美しいというふうに呼んでくださるんです。
マリアとマルタがおりましたね。マルタお姉さんの方は仕事ができる人でした。仕事を優先させて、イエス様の足元に座ってイエス様のお言葉に聞き入っているマリアを指さして、「ちょっとこのマリアが何も働かないで、私だけ働いているの、それなんともお思いにならないのですか。なんか一言言ってあげてください」ってイエス様に進言したら、イエス様は「マルタ、マルタ」って2回も名前を呼んで、「あなたはいろんなことで心を忙しくしているけど、しかしマリアは何よりも一番大事なことを選んだんですよ。マリアからそれを取り上げないでください」っていうふうに言ったんです。
私たち、忙しくなったり、また仕事ができたり、もろもろするとね、本当にイエス様にさえも指図をしてしまうようになってしまう。本当に私たちはよく気をつけるべきです。イエス様は本当に優しいお方で、マルタに「お前は指図するのか」とか、そういうことは言わないで、「マリアから一番いいものを取り上げないでください」っていうふうに、本当に私たちイエス様に習いたいですね。イエス様のお心、習いたいものです。
私たちは何かと、つい「私、これだけしております。これだけの奉仕をしています」っていうことを言いたがりなところはあるかもしれません。けれども、第一テモテ2章9節から11節には書いてあること、それは本当に私たちキリストの花嫁としてどのように立ち居振る舞うべきか書いてあります。「同じように女も慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、派手な髪の形とか金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい」。
本当に良い行い、これが私たちの飾りなんです。真珠や高価な諸々で身を飾るということよりも、主の目に本当に美しい飾りというのは、柔和で穏やかな心を持って良い行いで自分を飾ること。これが主の御前において何よりも美しい飾りなんです。
ですから本当に神様の御前における真の美しさ、それは外見でもない、お化粧でもなく、またあるいは高価な立場でもありません。本当にこの主からお呼びがかかったらすぐにお答えする。「主よ、はい、ここにおります。主よ、おっしゃる通りにいたします」というその心、それが聖書的な美しさです。
エステルにはそれがありました。エステルは一度も王様に「私それしたくありません」とかそういったこと言いませんでした。エステルの口癖は「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という言葉で、エステルはいつも始めたんです。
本当に私たちもイエス様の御前において、「イエス様、もしあなたの御心でしたら、イエス様、あなたが主人です。あなたの御心がなりますように」。それがエステルの美しさ、真の美しさ、このワシティにはない美しさ。それはこの柔和で穏やかな心、従順な心。これは本当にエステルの美しさです。私たちは本当にこのエステルの美しさを身につけるべきです。
聖書は教会のことをキリストの花嫁というふうに呼んでますね。エペソ書でもそういうふうに言ってます。黙示録においても、私たちは花嫁だっていうふうに言っております。私たち、キリストの花嫁であるとするならば、本当に主がお呼びになる時はすぐに御前に従順な心を持って進み出るべきです。
このワシティは本当にこの高慢が先立って身を滅ぼしてしまいました。エステルはこの従順な心ゆえに王様から愛されました。私たちは真の王であるイエス様から、本当にこの従順な心を持って、真の王であるイエス様から愛される、そのたしなみをしっかりと身につけて、本当にイエス様から王冠がかぶせられて、「さあ美しい人よ、さあ出ておいで」、その呼びかけに応じて、イエス様の御前に、本当にこのキリストから与えられた飾り、柔和な飾りを身につけて進み出て、そして本当にイエス様から愛される皆さんでありますように。
【結論】
私たちキリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応答する従順な心を持つべきである。真の美しさとは外見や立場ではなく、柔和で穏やかな心、そして良い行いという飾りである。エステルのように「主よ、もしあなたの御心でしたら」という謙遜な姿勢を保ち、高慢を捨て、主に従順に従う者となることで、主から愛され、王冠を与えられる祝福に与ることができる。
エステル記1章1-12節 説教
メッセージ音声
【概要】
エステル記1章1-12節から、クセルクセス王の豪華な宴会とワシティ王妃の拒絶の物語を通して、神の御言葉の境界線内で生きる真の自由について学びます。人間の栄光ではなく神の栄光を求め、「思いのまま」という誘惑に陥らず、真の王イエス・キリストに従順に歩むことの大切さを説いています。
【聖書箇所】
エステル1:1-12
【戒めの言葉】
-
御言葉の境界線を越えた「思いのまま」の自由は滅びに先立つ
-
主を試みてはならない。小さな一線越えが大きな堕落につながる
-
神抜きで人間の栄光を誇示する生き方は、最後には王の怒りを買う
【勧めの言葉】
-
御言葉の秩序の中にとどまることで、真の自由と幸いを得られる
-
ワシティではなくエステルのような従順さを求めよう
-
礼拝の姿勢、言葉、時間の使い方において御言葉の境界線を保とう
【悔い改めの促しの言葉】
-
自分の心の中の「思いのまま」を点検し、一線を越えていないか吟味せよ
-
もし自分の中にワシティに似た面があるなら、それを認めて悔い改めて捨てよ
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記の1章1節から12節です。
エステル記1章1-12節では、はじめに1節から4節を宣言します。
「クセルクセスの時代、クセルクセスがインドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で王座についていた頃、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシアとメディアの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、180日に及んだ。」(エステル1:1-4)アーメン。
今朝も我らは御前に進み出ました。どうか我らにお語りください。御言葉をもって我らを生かし、御言葉によって清め、御言葉の道、その真実の道に歩ませてくださいますように。そうして私たちがこの邪悪な世の中においてイエス・キリストの光を輝かせることができますように助けてください。
ハレルヤ!素晴らしい主の御名をほめたたえ賛美いたします。エステル記の公開説教、エステル記に入りました。前回はこのエステル記という書の全体を眺めました。不思議な書でしたね。この神様の名前、主の御名が一切出てこないけれども、確かにこのページの行間、行間に、一文字一文字の間に神様が働いておられるのを見ました。隠れた私たちの王の御手が私たちを守っているんですね。それがエステル記を通してわかるんですけども、今日は早速その本文の中に一歩ずつ入っていきたいと思います。
この物語の始まり、今日は1章1節から12節までなんですけども、ここにおいてはまだエステルは登場しません。モルデカイとか、また悪いハマンもまだ姿を見せないんですけども、けれどもこの最初の場面、ここにおいて、これから始まる壮大なドラマの伏線が全部仕込まれているんですね。物語には伏線というものが仕込まれているものですけれども、今日の箇所において、この幕開け、現代私たちはどのようにして生きるべきか、その私たちに対して何を語りかけているのか、それが今日の箇所から見ていけるんですけども、まず、この物語はクセルクセス王、新改訳第三版でアハシュエロス王、その治世から始まるんですね。
彼はこのインドからエチオピアまで127州を治める巨大な帝国の王様でした。そしてその首都がスサというところです。スサ、王様はこの治世の第3年に王宮で大規模な宴会を開くんですけども、それがなんとも桁違いな常識外れな宴会なんですね。なんと180日にも及びました。ですからおよそ半年ぐらいですね、ずっと王様はこの王の栄光とまた富を示すためにずっと、この諸国の高官たちに見せ続けてきたんですね。王の栄光、王はこんなにも富んでいるよ、こんなにも気前がいいんだよっていうのをずっと見せ続けました。
そしてその後、それが終わった後に、この首都に住むすべてのものを集めて7日間の宴会を開きました。この王宮の庭には白と紫の幕が飾られていて、大理石の柱とか銀の長椅子、金の杯、それも全部趣向が違っていて、どれもこれも素晴らしいものだったんですね。この王様の豊かな栄光、またその勢力の輝きというふうに4節を見ますとわかるんですけども、でもこれ結局神の栄光ではなくて人間の栄光なんですね。神様抜きで人のこのきらびやかさが輝くと、それは永遠のきらびやかさではないものなんですね。
私たちが今生きているこの世界も同じです。一見きらびやかに見えるところがありますね。このスマホを開くと、多くの人々がSNS上できらびやかな自分を見せておりますね。こんなにも美味しいものを食べている、こんなにもゴージャスなところに行っている、それを自慢している様がたくさんあります。でもキラキラ輝いているその有様のその大半は、神様抜きで人間が作り上げている栄光ですね。問題は、それが輝いて見えれば見えるほど、その背後に隠されている薄暗いところが実はあるものですね。エステル記は、そのきらびやかな幕の裏側を、これから容赦なく見せつけていくことになります。
特にこの8節の方を見てみたいんですけども、8節にこう書いてあります。
「しかし、飲酒は強要しないことという法に従っていた。誰でもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと王が宮廷のすべての長に命じていたからである。」(エステル1:8)
王様はそれぞれ自分の思いのままにさせるよっていうふうに言ってたんですね。強要しない。一昔前はお酒の席に先輩が、上司が注ぐ酒は必ず飲まなければならないという空気がありましたけども、最近は強要しないという空気になってきました。
王様、それぞれ自分の思いのままにさせるというふうに、王様がすべての長に命じていたと8節に書いてありますね。一見、優しい王様の心配りに聞こえますね。これが王様の気前の良さ、また寛大さを表しておりました。けれどもここに落とし穴が潜んでおります。望む通りにしなさい、思いのままにしなさいっていうふうに言われた時、人間はどういうふうに振る舞うか。神様を知らない人間、好きなようにしていいよというふうに、御言葉を知らない神様を知らない人間に言うとどういうふうにすることが目に見えているか。
お酒、好きにしていいよと言われた時に、あ、じゃあ節度を持って適度に飲みますって言って、節度を持って適度に飲むのが人間でしょうか。食べ物、節度を持って健康にいいように食べるでしょうか、太らないように食べているでしょうか。互いに節度を持って節度を持った口調で、また言葉遣いでお話をしたり振る舞ったりしているでしょうか。まあ、ほとんどの場合、そうではないですね。良い方向には進みません。だから街中見ると、成人病を患っている人がたくさんおりますね。限度を超えて、下品なおしゃべりがまかり通ったりして節度を超えて振る舞っているわけです。
ですから、この御言葉の秩序を構築しないままで、いいよ、好きなふうにやっていいよ、自由だからっていうふうにそういう空気を作ってしまうと、いつの間にか何をしてもいいんだっていうそういう空気に変わっていってしまいます。思いのままを許すこの空気の中において、この王様自身もこのお酒に身を委ねて節度を越えていってしまいます。そしてその流れがこの王妃ワシティにも移って、王妃にも移り、宮殿の中に移り、女たちの中に移りということがつながっていきます。
この現代社会もまさにこの思いのままが美徳とされていて、そしてそれがまかり通っていくような時代ですね。思いのままに振る舞っていいんだ。自分らしく、したいことをすればいい、誰にも強制されない。それ自体は何か一見するといいような言葉に聞こえるんですけども、けれども、神様を中心に見据えない思いのまま振る舞っていいっていうところは、必ずどこかしら暴走をしていってしまうものですね。自分は男、女、どっちでもいいんだ。今日は男、明日は気分が乗ってるから女みたいな、そういう自由にしていい、したいことをすればいいということがはびこった結果、どういうふうになるか。本当にこの社会が混乱してしまい、また子どももどういうふうに自分が自分のアイデンティティを確立すればいいのかわからなくなってしまっております。
この誰にも強制されない、自分らしく、これは美しく聞こえる言葉ですけれども、けれども、結局、自由であること、自由であることの幸いというものは、この秩序の中にとどまってこそ、真にこの自由の幸いが輝くわけですね。神様の御心のまま、神様のこの節度の中、御言葉のこの囲いの中にいてこそ、本物の幸い、幸せ、自由はあるんですけども、この神様の御言葉の囲いを超えたところにおける自由気まま、これが滅びに先立ってしまうものになってしまいます。
もう一度言いますと、神様の御言葉の囲いからはみ出た自由、これは自分の身に滅びを招いてしまうものです。
このアハシュエロス王、クセルクセス王の宴会180日、それプラス7日ずっと続いておりました。そのアハシュエロス王の宴会の目的は結局4節に書いてあるんですけども、王様自身のこの栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示すこと、これは人々に示すことでした。見せること、これが目的だということが4節見ると分かります。私はこんなに偉いんだ、私はこんなに気前がいいんだ、こんなに偉いんだって、こんなに金持ちなんだ、それを誇示するための宴会だったんですね。
それで王様はこの心が酔った時にふと思いつきます。そうだ、いろいろと富を見せてきた。じゃあ今度は自分の妻、王妃ワシティがどんなに美しいか見せよう。で、王妃ワシティを呼んでこさせようということで呼んでくるんですけども、けれどもここはクライマックスなんですね。自分の富を見せ、宮殿の豪華さを見せつけて、それでもまだ足りなかった。本当にSNSで自分を見せる時、美しく、なんか美しい自撮りができるような、そういうアプリもありますね。それは自由に加工もできます。なんかこういう風に横が大きいの太いのを縦長にすることもできますし、また何かお化粧しているかのようにも見せることもできますね。
このように自分を美しく見せることのたどり着く先は、実は醜くなってしまうんですね。高ぶりは滅びに先立ちます。心の高慢は倒れに先立つ、箴言に書いてありますね。悪魔サタンはなんで、もともと天使だったのが、サタンに堕落してしまったか。これ、自分の美しさ、これを誇示して神よりも上に立とうとしたからですね。結局、自分の美しさ、自分の素晴らしさ、これを誇示する先には滅びが待っているんです。この王の気前の良さ、それは神様抜きであるとするならば、結局、自分自身を本当に嫌な思いをさせてしまうものになってしまいます。
12節の方を見ますと、この王妃ワシティを呼んだんですけども、けれど、どういう風になったか。
「王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。王は激しく怒り、その憤りは彼の内で燃え立った。」(エステル1:12)
ワシティは王の呼び出しに対して「ノー」をつけました。これわざわざ王様からの7人の宦官、名前が記されている7人の宦官を通して王妃は呼び出されたにもかかわらず、王妃は自分の宴会をこの女たちの間で開いていて、そしてこの7人の宦官の呼び出し、王様からの呼び出しを「いいえ、行きません」ってそれを突きつけたんですね。
聖書がここで示している事実がはっきりしています。大切な原則が隠れています。結局、自分の好き勝手に振る舞って、高ぶって、王の命令さえも拒むものであるならば、最後には王の怒りを買ってしまうということです。私たちが真の王であるイエス様、御言葉、この限度を超えて振る舞うのであるならば、結局最後は、主の怒りを買ってしまうことになってしまいます。
本当に現代の私たちも本当にありがちな話です。ワシティはこの時いきなり「いいえ」を突きつけたのかどうか。おそらく違うはずですね。この拒む、「ノー」を突きつけるという行動の前に、もっと小さな積み重ねがあったんですね。王妃ワシティはこの何をしてもいいよっていう180日がなければ、その前だったらおそらくこういうことはしなかったはずですけども、けれども好きにしていいよという180日の後に、これがあったんですね。
本当に人間、私たち全員含めてです。何をしてもいいよ、好きに振る舞っていいよ、御言葉の範囲、範疇外で自分の思いのままでは、本当にこの王妃ワシティの罠に陥ってしまうことがあります。
聖書に試みるという言葉があるんですけども、「あなたの神である主を試みてはならない」悪魔サタンに対してイエス様が言った言葉です。試みというものは、ここまでいいよという限度、リミットがある。そのリミットを少しずつ超えて、このリミット、白黒はっきりしているリミットですけど、しかし試みというのはグレーゾーンに足を踏み入れて、それで、ここで大丈夫だったらさらにもう一歩踏み越えて、それでもなお何か許されそうな感じであるならばさらに大きな一歩を踏み越えて、そういうふうにちょっとずつちょっとずつほんの小さな線を越えていく。
最初は誰にも叱られない。叱られないということを子どもが経験すると「あ、ここは大丈夫なんだ」って言ってもう少し一歩踏み込んでくる。それでこれも大丈夫、大人は怒らないでいるとするならば、子供はどんどん大胆に大きく踏み外していってしまうようになってしまうんですね。最初だったら絶対に超えなかった線を平気で超えていってしまうようになってしまう。これは試み。子供が親を試みることを積み重ねた結果でしたね。
このワシティもおそらくその積み重ねの結果だったんじゃないかと思うんですね。少しずつ主人である王を軽んじる心が芽生えた。女たちの宴会を開いていた女たちの間で、王様ってさあ、ちょっとあれあれだよねって、そういうふうに盛り上がっていて、その女たちの宴会の世界の中でどんどん蔑む心、傲慢な心、それがどんどん芽生えていく。で、そして境界線がずらされていって、そしてその積み重ねがあの決定的な踏み外しになってしまったんです。
イエス様は荒野で悪魔から試みられた時、はっきりこう言われました。「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。アーメン。
私たちは王の王である主に対して、ここまではいいかなっていうのを繰り返してはならないですね。許されてきたじゃないか、だから自分は大丈夫なんだって、そういうふうにしていってしまうと、どんどんこの歯止しがつかなくなってしまいます。御言葉がやめなさいと告げていること、これぐらいだったらと思って、少しずつ超えていく。言葉の秩序がどんどん乱れていく。お金の使い方が乱れていく。携帯、スマホの使い方がどんどん乱れていく。そして礼拝の順守、それが乱されていく。
本当にこの試みが好きな子供、あるいは人というものが確かにおります。ここまではこうやっていいよ。そういう人はチャレンジングな言葉、チャレンジングな態度をするんですね。そのような人は本当に滅びに先立ちやすいものです。
本当に私たち、特に実際教育をしております。本当にこの御言葉の秩序、これをしっかりと保たなくてはなりません。今、私たちは神様から与えられている自由裁量があります。それを皆さんはどのように使っているでしょうか。神様、確かに私たちを奴隷としてではなく、自由人として扱ってくださっておりますけれども、その自由をどのように皆さんは使っているでしょうか。この自由は神様抜きで好き勝手していいという自由ではありません。しっかりとこの御言葉の境界線の内側で生きる本物の自由、それがあるんですね。これをしっかりと実際に伝えていかなくてはなりませんね。
本当の自由の喜び、これはこの御言葉の境界線の内側、イエス様のその守りの御翼の陰においてこそ、本当の守りと自由があるのであって、それを乗り越えた自由というものは、それは滅びが待っている自由になってしまいます。
私たちは今、主を試みてはいないでしょうか。この主を、主の権威を試みてはいないでしょうか。礼拝の姿勢や、また自分自身の口から出る言葉、あるいは自分のスマホで見るもの、時間、神様との時間、それをしっかりと皆さんは境界線を持って保っているでしょうか。強制されていないからっていうのを理由にして、少しずつ乗り越えていないか、点検したいと思います。
この本当にしっかりと御言葉の境界線を保っている人は、このワシティの結末を避けられる人ですね。ワシティはこの一件によって王妃という地位を失ってしまいました。聖書はこの空いた王妃の座に全く違うタイプの女性を、王妃に据えるということが読み進めていくとわかるんですね。エステルです。
エステル記の物語で、本当にこのまずワシティのこの拒否する、本当に試みに試みて、そして一線を越えてしまったというところの後ろ暗さから始まりました。だから、その後に来るエステルという王妃のこの従順という性質の美しさが際立っていくんですね。2章以降、本当にこのエステルの美しさが際立つのは、このワシティのこの王に対する拒否があったからなんですね。
次回以降、13節から進んでいくんですけども、本当にこの今日、まず私たちは自分の心の中の思いのまま、小さなこの一歩一線を越えてしまうという、これをしっかり点検しましょう。そして本当にこの神様の栄光ではなく、自分の栄光、これをあのサタンやこのワシティの道に倣うことなく、本当にそれはしっかりと十字架の前に置いて、そしてエステルのごとく、真の王の前に対して従順という美しさを、それを輝かせる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
エステル記1章は、神の名が一度も登場しないにもかかわらず、神の御手が確かに働いている書の幕開けです。クセルクセス王の180日に及ぶ豪華な宴会と、「思いのまま」という自由の中で、ワシティ王妃は王の命令を拒否し、その地位を失いました。
この箇所から私たちが学ぶべき大切な真理は、神の御言葉の境界線の内側でこそ真の自由と幸いがあるということです。「思いのまま」「自分らしく」という現代社会の価値観は美しく聞こえますが、神様抜きの自由は必ず暴走し、滅びに先立ちます。
私たちは主を試みることなく、小さな一線越えを積み重ねることなく、御言葉の秩序の中で生きるべきです。ワシティの高慢と拒否ではなく、次章に登場するエステルの従順と美しさを目指しましょう。神様から与えられた自由裁量を、御言葉の囲いの中で正しく用い、真の王イエス・キリストに従順に歩む者となりましょう。
