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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

ききんの時代に養われ、神のご用に用いられる人(1列王記 17:8-16)

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週報/メッセージ(説教)概要

本日の御言葉 ヨシュア記2:1-7


 今日はイエス様の系図に名前が記されている、一人の女性についてお話しします。その名はラハブです。

イエス様が生まれるはるか昔、死海の近くの、岩と砂に囲まれた城塞都市・エリコという町で、彼女は、城壁の中に建て込まれたマンションのような住まいに住んでおりました。 そこに住めた、というだけで、他の人よりは安全な生活が保証されたかもしれませんが、彼女はそこで生活をするために、自分自身を身売りするかのようにしなくてはなりませんでした。自分の時間を差し出し、若さを差し出し生活するしかありません。

 現代の私たちも、全く変わりません。安定した所で生活するために、自分自身を売り、時間を売り、能力を売り、若さを売って働いています。それは家族を養うためであったり、周りに置いていかれないためであったり、ともかく自分と、自分の家族を養って生きるために、せざるを得ないのです。


 彼女は、小さい頃から聞かされていた神々に、どんなに祈っても、どんなに拝んでも、生活が良い方向に変わるわけではありませんでした。人生が良い健全な方向へと改善するわけでもありません。 何も変わらない時間だけがむなしく過ぎていって、若さと将来だけが削ぎ落とされていくだけでした。

そんな中、彼女はある「噂」を耳にします。 「力ある神」と、その神に導かれている不思議な民族について。 その神は、かつての大国・エジプトを打ち破り、海を真っ二つに分けてその民を救い出し、不思議な方法で荒野で40年も養われた。その素晴らしい教えによって、彼らは守られて、きよく充実した生活ができる。

しかも彼らは最近、近隣の強い王たちを次々と倒しながら、今まさに自分たちの町に向かって来ている…。

 ラハブは思いました。この神は、今まで聞いたどの神よりも 本物かもしれない。この神様のもとで生きる民は、なんてしあわせだろうか。この民に加わりたい…。そんな小さなあこがれを持っていましたが、この町の誰にも、自分のあこがれを言うことはできません。また、その民とはコンタクトの取りようもありません。

 けれども「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16:9) 神様は、全ての人の内を、知っておられるのです。


 ある日の事です。二人の男性が、彼女の所にやって来ました。 彼らは、今まで知っている男たちとは何か違いました。食事を勧めても、偶像に捧げた肉は食べません。この地方で流行りの悪い遊びにも、加わろうとしません。彼らは落ち着きがあって、秩序があります。 彼女は直感します。「この人たちだ!」
 その時、扉を激しく叩く音がしました。エリコの王の兵士たちです。

 「その男たちを出せ。彼らはこの地を探るために来たのだ!」 
 彼女はこの瞬間、究極の選択が迫られました。

 エリコの側について彼らを差し出し、幾らかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか?

 それとも、見たこともない将来と希望のために、まことの神の民に入れる可能性に賭けるか…。
 ラハブは、、、まことの神につく!と決断しました

彼女は命の危険を承知で、彼らを屋上に連れて行って、干した草の中に彼らを隠しました。この決断と行動によって、彼女と家族のいのちは長らえ、しかも、栄光の家系に入るチケットを手にしたのでした!


 今日、私達が学ぶべき事は、全能なる神様が生きておられる、という事と、その神様は「あなた」を見ておられ、心の底で「救われたい」と願う人のところに、使いを派遣される、という事です。 そして、まこと神につく!と決断する人を、神様は、イエス・キリストへと連なる栄光の家系へと入れて下さるのです。

 かつてエリコの城壁の町の中、ひそかにまことの神様にあこがれ、その民族にあこがれていたラハブに、神様が目を留めて、使いを送られたのと同じように、今、この時代も、コンクリートの壁の中で、自分の時間や能力、若さを身売りをしながら、むなしさの中で過ごしている人々に、目を配っておられます。

 そして神様はその人の元へと、使者を遣わし、救いの道を教えてくださるのです。

 この退廃的な世界の終わりが近づいている、というのは、誰もがぼんやりと認知しています。そして、その滅びから救われたい、と願っている人は、多いです。 救い主であるイエス様の名前を呼び求める人は皆、救われるのです。そして、救われた私達も、救いの鍵を握って、救いを求めるラハブのもとへと遣わされ、救いを届ける役割が与えられるのです! 御国の使者となって、救われるべき魂の元へと遣わされ、この時代の多くの人々を救っていくものでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

 

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ききんの時代に養われ、神のご用に用いられる人(1列王記 17:8-16)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日の御言葉 1列王記 17:8-16

 むかし、シドンのツァレファテという町に、一人のやもめが住んでいました。彼女は夫を失い、収入を失い、しかもその時代は、とても大変な時代でした。まことの神様を恐れ敬う人があまりにもおらず、天は閉ざされ、手に入るものはどんどん減って行ったのです。 人々はそれぞれ、自分がおがむ偶像の神々に頼みますが、なんの効果もありません。そんな中、彼女だけは、イスラエルの神、主を信じ、祈っておりました。
 「神様どうか助けてください。もう一回分の食べ物しか残っておりません。せめてこの子だけでも生かして下さい。」 彼女はそう祈って、最後の食事を調理するための薪を集めに、町の門のところに行きました。

 そこに、一人の男性が近づいて来ます。彼は毛の衣を着て革の帯を締めておりました。彼女は、彼の風貌や雰囲気を見ると、この人は神の人だ、と感じました。事実彼は、旧約で最も偉大な預言者エリヤでした。
 彼は、彼女に言いました。「ほんの少しの水を持って来てください。」 水はこのご時世、とても貴重です。
けれども彼女は、彼のために、水を取りに行こうとしました。ここに、彼女の高貴な品性が垣間見られます。
どんなに貧しく苦しくても、神の人を大切にする。たとえ持っている財産がわずかでも、それを神の人のために用いる。 このような品性を持つ信仰者を、神様は天からしっかり見ておられ、覚えておられるのです。
 しかも彼は、さらに追い打ちをかけるような言葉を言います。 「一口のパンも持って来てください。」
彼女は、正直に答えます。 「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。 ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
 この言葉から、彼女が信仰者であった事、そして、この男性が神の人であると認めていた事がわかります。
彼女は正直に全部、神の人に打ち明けました。すると、彼は言います。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のために小さなパン菓子を作り、持って来なさい。」
 これは、とても理不尽に聞こえたかもしれません。しかし、彼がそう言ったのには、理由がありました。
実は、預言者エリヤがわざわざイスラエルを離れて、この異邦の町へ来た目的は、他の誰でもなく、「彼女に」会うためでした。神様は天からあまねく見ておられ、彼女の誠実な信仰をご存知であり、しかも神様は、彼女を通して、この偉大な預言者を長らく養うために、わざわざエリヤを彼女のところへと遣わしたのでした。
 一体どうして、今にも死にそうな程の貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
それは、他でもありません。「神様の、おことばを信じて、そのとおりにする事」によってです。これが何よりも素晴らしい性質であり、たとえどんなに貧しく弱くても、神様のために素晴らしい働きができるのです。

 エリヤは、さらに言葉をつづけます。『イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』』 彼女はこの言葉を、神であられる主が、他でもなく「自分に」向けて仰せられたお言葉として受け、希望を持つことができました。
 それで彼女は、薪を持ち帰り、いつものように料理台の前に立ちます。かめから最後の粉を出し、壺の油をその上に注ぎ尽くしました。 お腹を空かせた息子は、見ています。今、最後の料理をしている事が、息子にもわかります。母はそんな息子に気づき、彼に向かって言います。  「あの方が先です・・・!」
彼女は、神様のお言葉を信じ、従いました! 御言葉に従った事実が、後の明暗をくっきり分けるのです。
 こうして1つのパン菓子が焼き上がりました。彼女はそれを、預言者のところに持っていきました。預言者は彼女に言います。「ほら、台所に行って見てみなさい。神様がお言葉通りにしてくださったかどうか。」
 二人が台所に行って、見てみると、本当に、神様が言った通りでした! 空っぽになったはずのかめは尽きておらず、つぼの油もなくなっておりませんでした。こうして彼らの命は一日、つなぎました。この奇跡は、一日限りではなく、その翌日も、そのまた翌日も続き、こうして彼らは長い間、養われたのです。

 今日、皆さんに伝えたいことは、1つです。それは、「神様のお言葉に従う性質こそ、何よりも大事」だと言うことです。その性質を持ってる人をこそ、神様は困難な時代にも助けられるばかりでなく、神様の重要な働きをお手伝いするようになるのです。大きな力や持ち物がなくても、いいのです。神様はそのような人に、助ける人や物、事を遣わし、しかも、神様の偉大な働きへと用いられるのです。 あなたの神、主は、生きておられます!主は私達の日々の小さな従順をを見ておられ、全ての必要も見ておられ、それを満たしてくださるばかりでなくこの「霊的ききん」の時代を大きく動かすために、働きの一旦を担わせて下さるのです。

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必ず勝利して輝くキリスト - まことの光(ヨハネ1:5)

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 今月の御言葉 ヨハネ1:5


 イエス様が十字架にかかり、復活し、天に昇られた後、弟子たちは世界に出て行って福音を伝えました。

しかし、すぐに迫害の時代が始まります。実は初代のキリスト者たちのシンボルは、十字架ではありませんでした。 何だったでしょうか?それが、丸の中に、交差する二つの文字、「Χ(キー)」と「Ρ(ロー)」です。

それはギリシャ語で「キリスト」と書くときの最初の二文字で、この印は「キー・ロー」と呼ばれております。

なぜ十字架ではなく、この印だったのでしょうか? それは、この印が、命がけの信仰告白だったからです。


 今から1700年以上前、ローマ帝国の時代。イエス・キリストを信じるということは、捕まり、

 殺されることを意味していました。信仰が知られれば、コロシアムに連れて行かれ、

 大勢の人の前で見世物にされ、ライオンに食い殺されたり、火で焼かれたり、十字架につけられたりしました。 ですから彼らは、太陽の下で、公に礼拝することができませんでした。

 彼らが集まったのは、カタコンベと呼ばれる地下の墓所です。暗く湿っていて、死者が葬られている場所。

なぜ、そこが礼拝の場所だったと分かるのでしょうか。それは、カタコンベの遺跡から、たくさんのこの印が発掘されているからです。 2世紀の私達の信仰の先祖たちは、この印によって、密かに「私はキリストのものです」と、互いに告白しました。 そしてその印の下で、小さな声で祈り、小さな声で賛美しました。

そこでは、いつも悲しい知らせがあります。 「仲間が捕まった」「家族が連れて行かれた」

そのたびに彼らは祈ります。「どうか、助けてください」「もし助からなくても、どうか、平安を与えてください」


すると、不思議なことが起こりました。コロシアムで殺されていく人々は、恐怖ではなく、平安に満ちていたのです。まるでこれから天国に行くかのように。まるで、目の前にイエス様がおられるかのように。。。

 

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

 

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

 

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27

歴史は語っています。その様子を見たローマ皇帝たちは、ますます恐れ、迫害をさらに激しくしました。

しかし同時に、それを見て、かえってイエス・キリストを信じる人々も起こされていったのです。

 

闇は、光を、消そうとしました。でも、決してキリストという光を、消せませんでした!

 一世代、また一世代。長い長い年月が過ぎて行き、祈りは、地の底から、天へと積み上げられていきます。

そして、ついに、神様が動かれる時が来ました。


 西暦312年。ローマ北方、ミルウィウス橋の戦いです。将軍コンスタンティヌスは、圧倒的に不利な状況でした。自軍は約4万、敵は約10万です。 そんな戦いの直前、彼は、空に輝く光を見ました。その光はなんと、この、キー・ローの印でした。そして、こう示されたのです。「この印によって勝て!」 それで彼は兵士たちに命じます。「兵士たちよ、自分の盾に、この印を刻め!

 

 それまで、地下の暗闇の中、ずっと信仰者たちが隠れて信仰を表明続けていたあの印が、なんと、太陽の下、無数の兵士たちの盾に刻まれ、掲げられたのです

 

 戦いの結果は、歴史が伝えています。数で勝っていた敵は混乱し、皇帝は川に落ちて命を落としました。この勝利の翌年、313年。 コンスタンティヌスは、「ミラノ勅令」を出します。すなわち、キリスト教を禁じていた法律は取り消され、信仰は公に認められたのでした!

地下のカタコンベの暗闇から、地上の光の中へ。聖書のことばが、歴史の中で現実となったのです。

 

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった!」  こうして、地上に出た信仰の先祖たちは、ようやく、誰にもはばかることなく、喜び勇んで大声で賛美し、大声で祈ることができるようになったのでした。


 私たちの人生にも、暗闇のような時があります。迫害の時もあります。でも、忘れないでください。

 

光であられるイエス様は今も生きておられ、闇は決して長くは続かず、必ず光が勝利する、という事を

この主に信頼し続け、必ず与えられる勝利を、すぐにでも実際に体験する皆さまでありますように。

イエス様のお名前によって祝福します!

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こびりついた問題から解放させてくださるイエス様(ヨハネ5:1-8)

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今日の御言葉 ヨハネ5:1-8

 むかしエルサレムの北の門の近くに、「ベテスダ」と呼ばれる池がありました。「恵みの家」という意味です。
そこには、多くの病人たち−目の見えない人、足の不自由な人、やせ衰えた人たちが、何人も、何十人も、いました。なぜならその池には時々、御使いが来て水をかき回し、その後に一番先に水に入る人には、どんな病気も癒やされる、と信じられていたからでした。 それでそこは、そのような宗教的な「恵み」を待つ場であると同時に、水が動くのを待つ人々の競争の場、そして多くの失望が積まれた場所でもありました。
 世の中の宗教は、「恵み」と名をうつも、結局は競争社会と化し、いかに多くの献金をし、布教活動をし、その宗教組織に尽くしたか、によって序列が決められるゆえに、必然的にそこには、競争に勝てず、恵みにあずかれないまま、それでも追いかけ続けて何十年も経っている人々が多い様が見受けられます。

 さて、このベテスダには、三十八年もの間、病気がこびりついて離れなかった人がいました。季節が三十八回巡ります。かつていた人々は次々と「卒業」して、別の新しい人生を歩み出し、かつての子どもが大人になっていきました。しかし、彼だけはそこに取り残されたままでした。
 人が苦しんでいる様を見て、私たちは「ああ、あの人が苦しんでいてよかった」と思うでしょうか。私たち人間でさえそんなことは思いません。神様なら、なおさらです。それで、全ての人の心の叫びをご存知であられる主ご自身が、この人のところに訪れてくださるのです。それは今、この時代でも、全く同じです。

 『イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」』(ヨハネ5:6-7)
 イエス様は「良くなりたいか」と聞いたのですが、彼は、鬱積した心の荒波を吐露します。「人がいません」。誰か強い人が、誰か足の速い人が、水がかき回された瞬間、自分を抱えて水に入れてくれる人がいてくれたら。。。しかし、人間の助けは、不完全です。いつ来るとも分からない時のために、その人にずっと付き添いをしてくれる人は、誰もいません。 「誰か、誰か…。わたしを助けて…。」 イエス様は、その小さなうめきを失わずに聞き取られ、今日この時代も、そのようにうめいている人のところに、訪れるのです。

 イエス様はそんな彼に、ただお言葉をかけられました。『イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。』(ヨハネ5:8-9a)
 彼の、三十八年こびりついた病からの解放は、こんなにも唐突に来ました。こんなにもあっけないものなのでしょうか? 彼は、自分と話しているお方がイエス・キリストだったとすら分かっていませんでした。ただ彼がしたとは、イエス様から言われた、おことばどおりに行った事でした。イエス様について、よくわからなくても良いのです。ただ、イエス様のおことばどおりに行う、それこそ、あらゆる「呪縛」から解かれる鍵です。
 イエス様のおことばどおりにする事、それによって人は、あらゆる宗教的呪縛から解放されます。
誰か強い人が自分にしてくれるのを待つ必要もなくなります。ただ、イエス様のおことばに従う事によって、人は全く新しくつくりかえられるのです。

 私たちにも、人生に長年こびりついた問題があるでしょう。それは、彼のように、病かもしれません。心の悩みかもしれません。何十年も変わらない状況かもしれません。 「誰か、助けてくれないかな」と、人を待ちながら耐えてはいないでしょうか。 あの条件とこの条件を満たして、はじめていただける「恵み」を追いかけ続ける、「宗教」というベテスダの呪縛にあるでしょうか。
 こびりついた問題の解決を、「限りのある人間の誰か」に委ね続けるのを、やめましょう。
 今日、主は言われます。「起きて、床を取り上げて、歩きなさい」。
 それを聞いた今、あなたを縛り続けていた「病」という床、「宗教」という床は、取り上げ、イエス様と共に歩みだして行く時が来ております。「イエス様、助けてください」。そのの声は確かに主に届き、そして主は、三十八年の男にされたように、あなたの人生にも来てくださいます。

 

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人を新たに創り替えられるお方・イエスキリスト(マルコ10:46-52)

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 今日の御言葉 マルコ10:46-52

 

 この世界は、神のことばによって創造されました。神のことばであられるイエス・キリストは、世界を創造するほど力あるお方であり、あなたの人生を「再創造」することがおできになるお方です。

 天地を創られ、宇宙を創られ、「光があれ」ということばで光を創られたお方は、あなたの人生を、光に満ちた人生へと創りなおすことができるのです。今日は、人生が再創造された人の事例を見たいと思います。

 

 昔、イスラエルのエリコという町に、バルテマイと呼ばれる人がいました。バルテマイは彼の名前ではなく、「テマイの子」 という意味です。というのは、彼は生まれつき目が見えず、父テマイは、彼は名前を与えるにも値しない、と、名前を与えなかったからです。 成長した彼は、物乞いとして生きるしかありませんでした。

 毎朝大通りに行って座り、人々から何かを恵んでもらうしかありません。多くの人が彼を見下ろして通り過ぎて行きます。馬車やらくだは、パレスチナの乾いた土を巻き上げ、時には、ふんを落として行ったでしょう。 彼自身、思ったでしょう。 自分はなぜ目が見えずに生まれついたのか…。なぜ自分は、ただ恵んでもらうだけで、恵む側にはなれないのだろう…。でも彼は自分の人生が変わるとは思えず、あきらめていました。

 ――ある日、彼は、ひとつの噂を耳にします。
それは、どんな人をも癒し、救うことができる、ダビデの子として来られる救い主・イエス・キリストの噂でした。彼はその噂を聞いた時、「このお方なら、癒してもらえるかもしれない」「彼に会えたなら、人生が変わるかもしれない」と思いました。 しかし、どうすればイエス様に会えるのか分かりませんでした。 そうして来る日も来る日も、大通りに行っては恵んでもらう、という変わらない日々が、厳然とただ繰り返されていました。


 ある日のことです。町の空気がいつもと違うことに気づきました。――何か、喜ばしいような。何か、興奮しているような。。。 彼は、通りの人に尋ねます。すると答えが返ってきました。「ナザレのイエスがもうすぐここをお通りになる!」 その言葉を聞くやいなや、バルテマイはすぐに立ち上がって、大声で叫びました。
 「ダビデの子イエスよ、どうか、私をあわれんでください!
人々は驚き、彼を叱りつけました。「うるさい!黙れ!」「静かにしろ!」 しかし彼は、もっと大きな声で叫び続けます。 「イエスさま!私のところに来てください!」 「どうか、私をあわれんでください!」
 イエス様は、彼の叫び声を聞いて、立ち止まりました。そして言われます。「あの人を呼んで来なさい」

すると黙らせようとしていた人々は、言うしかありません。「安心して立ちなさい。あなたを呼んでおられる。」
 バルテマイはそれを聞くと、自分の上着――物乞いとしての着物――を投げ捨てて、

イエス様がおられると思われる方へ、手探りで一歩一歩進んで行きました。
 何歩目を進んだ時でしょうか。彼は、イエス様のことばを聞きます。  「わたしに何をしてほしいのか?
イエス様はすべてをご存じでした。目が見えないことも、名も与えられなかった人生も。長い日々の苦しみ・悩みも。それでもイエス様は、彼自身の口で語らせ、ことばでの個人的な交わりを求めておられるのです
 バルテマイは答えました。「わたしの偉大な先生、目が見えるようになることです。
すると、イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った。
 その瞬間―― 彼の闇は、上と下に真っ二つに裂けて、人生初めての光が彼に差し込みました
彼は、自分を救ってくださったお方が見えるようになり、天と地が見え、涙が地に落ちるのが見えました。
 イエス様は、目を癒しただけではありませんでした。聖書はこう続けます。「すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」と。彼はもう、元の物乞いには戻らず、その上着は着ませんでした。

彼は単に、「目が見える普通の人」として生きるのではなく、「主に従う者」として生きる道を進んだのです。
 彼は、人から恵みをいただいていた人生から、多くの人々にイエス様の恵みを証しする者へと変えられ名前すら与えられていなかった彼を、イエス様は、永遠の書物に書き記される者へと再創造されたのです。

 

 私達も、イエス様にあって、バルテマイのようになれます!イエス様は今も生きて働かれる神の御子です。

イエス様が、通り過ぎようとしておられる時、彼を叫び求めてください。彼は立ち止まり、尋ねられます。
あなたは、わたしに、何をしてほしいのですか?」 この問いに、私達は、何と答えるでしょうか?

 どんなに「自分は変わらない」と思えたとしても、また、闇の中で座り込んでみじめに思っていたとしても、世界を創造し、光を創られた「おことば」なるお方イエス様は、今、あなたの人生を創りなおすのです!

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主のもとに帰れ(ルツ記1-2章)

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 今日の御言葉 ルツ記1-2

 

1:1 さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。

1:2 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。

1:3 するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。

1:4 二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。

1:5 するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。

・・・

1:8 ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、【主】があなたたちに恵みを施してくださいますように。

1:9 また、【主】が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

・・・

1:15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」

1:16 ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です

1:17 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

1:18 ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。

・・・

2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった

2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。

・・・

2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。

2:9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」

2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」

2:11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています

2:12 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように

・・・

2:15 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない

2:16 それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」

2:17 こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。

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見たこともないような全く新しいことをしておられる主(イザヤ43:19)

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週報/メッセージ(説教)概要

 

1月の御言葉 イザヤ43:19

 

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:19)

 

 今年最初のニューイヤーズ・イブ礼拝で、新年が明けた時のメッセージで示された御言葉は、アブラムに対する主の言葉、「恐れるな、(アブラム)よ。わたしは(あなた)の盾であり、(あなた)への、はなはだ大いなる報酬である。」(創世記15:1 逐語訳)でした。 主を自分の盾とし、主を自分の相続とし、報酬とする人が受ける報いは、非常に大きい! その報いの第一弾は、「主は全く新しくしてくださる」、です。

 

今月の御言葉、イザヤ43:19をより詳細に訳すと、以下のようになります。

「見よ。わたしは(今まさに)行っている。(これまでになかった全く)新しいことを。

今、芽生えているではないか。あなたはそれを知ろうとして行かないのか?

わたしは置く。荒れ地に道筋を、また乾いた地に川々を。」

 すなわち、神ご自身が、今まさに行動を起こして新しいことが芽生えておられ(進行形)、しかも神は、
「あなたはそれを知ろうとしていないのか?」と、問いかけておられます。すなわち私達に、受け身で観察をするのではなく、信仰による洞察と応答を自分から積極的にしなさい、と、促すニュアンスになっています。 

主は、主がなさろうとしている新しい事を積極的に知って行こうという姿勢を私達に求めておられるのです。

 

 最近、1189テフィリンでは、伝道者の書を暗唱していますが、ソロモンはそこで真逆な事を言っています。

すべてのことは物憂く、日の下に新しいものは一つもない。これは新しい、と言われるものがあっても、それははるか先の時代に既にあったもので、それはもう記憶には無く、これから起こることも後の時代の人々の記憶には残らない。。。全てはむなしい、と。 私達はソロモンの言葉に同意するでしょうか?それとも??

 忘れてはならない事は、これは、神様から段々離れて行ったソロモンが晩年に書いたもので、つまり、神から離れた人間が叡智を極めた結果、最終的に行き着く思想が、この伝道者の書である、という事です。

 神様を「抜き」にして、世の知恵、世の富、世の楽しみを味わい尽くす者の行き着く先が、伝道者の書の思考ですが、それに対し、「主こそわたしの報酬」としている人に、主が準備しておられる報いは絶大です。

主に望みを置く人の行き着く先は、黙示録21-22章に記された永遠のいのちの喜びと、新しい希望です。

 

 主は、言っておられます。これまでになかった全く新しいことを、今、まさに構築中だ、と。今、それが芽生えているではないか、と。外の桜は、今は枯れ枝のように見えますが、見た目はそうでも、その中では芽生えの準備を着々と進めています。 それと同じで、たとえ今、主がなさろうとしておられる事が見えず、枯れているかのように見えても、主は着々と、見た事の無いようなものを準備しておられ、それはある時、華やかに開花します。主は「あなたはそれを知ろうとして行かないのか?」と、私達の積極性を求めておられます。

 

 主は言われます。「わたしは置く。荒れ地に道筋を乾いた地に川々を。」と。 荒れ地は道なき所ですが、主は、そこに「道(デレク:道筋、方法、通り道)を設けてくださいます。どんなにめちゃくちゃで、道筋も方法も見いだせないところでも、私達の報酬であられる主は、そこに道筋を、方法を、通り道を置かれます

 また、乾いて生命なき所に、豊かさや命の象徴である川々(複数形)を置いてくださいます

続く20節では「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」と書いてあります。たとえジャッカルのように荒々しく、弱いものを集団で食い物にするような者でも、あるいはだちょうのように、知恵も愛情も無い者であっても、主を知り、主をあがめるようになる、と書いてあります。 これこそ、主に望みを置く者の受ける報いであり、それは今までに一切なかった、全く新しいつくりかえが、主によって為されるからです。

 しかし、世のものや、過ぎてしまった過去など、神ではないもの、すなわち、すたれるべきものに見入って、目を留め続けているなら、新しいものが来ても気づかないものです。ソロモンのように、神を除外した自分だけを見つめ続けていると、堂々巡りから脱出できません。 しかし、主を自分の「報い」とした人は、主が用意してくださる新しい命、新しい歩みの中を進むことができます。主を自分自身の「報い」として定め、今まで見たことも聞いたこともないような、全く新しい報酬を得ていく今年の皆さまでありますように!

主日礼拝

熱いスピリットを起こす秘訣(マタイ5:3-6)

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週報/メッセージ(説教)概要

 この度、韓国各所に起こされているIMのセンターを視察するため、韓国をほぼ一周して来た。行った先々で、共通して言われた事は、このIMのシステムおかげで、次世代だけでなく大人もどんどん変えられ、その変えられた彼らの様に驚いた人々が次々と加わり、さらに増え、さらに変えられている。今は今までで一番幸せな働きをしている。日本のために喜んで助けに行くのでぜひ、うちのセンターに頼んで下さい、と。
実際、それぞれのセンターの子どもたちは共通して、素晴らしく秩序があり、礼拝においても賛美においても、ワーシップダンスにしても、伝道にしても、一切の迷いなく、はつらつと行うので、閉塞的だった子供も大人も、ともにイエス様を祝う喜びの渦へと巻き込んで行った。子供たちの学びの場や生活の場も見させて頂いたが、びっくりしたのは、彼らの時間管理と、空間管理の、規律正しさである。とにかく無駄が無い。
そして彼らは、御言葉を暗唱してからでないと、夕食にあずかれない。若い時からそのような習慣が身についているからには、今回、第一期生がアメリカの一流の大学に次々と合格したのも、うなずける。
 
 私達はリバイバルをこの地にもたらすために、強いモチベーション(動機づけ、やる気)が必要である。
ネヘミヤは、エルサレムが廃墟である事に対する深いうめきがモチベーションとなって彼を動かし、わずか52日で城壁を完成させた。ダビデも、神の陣営が40日もなぶられていた事に対する強い憤りに突き動かされて、巨人をたった一つの石で打ち倒した。パウロは福音を伝える事について、返さなければならない負債(ローマ1:14)、どうしてもしなければならない事、もししなかったら災いだ(1コリント9:16)、とまで言った。
 この地にリバイバルをもたらしたい、次世代を起こしたい、といった「モチベーション」が無いとするならそれが私達にとって一番の深刻な問題である。それはつまり、熱いスピリットが無い事を意味しているからだ。
 どうしたら、それを奮い立たせる事ができるだろう。それは自分で奮い立たせられるものではないし、叱られたり、急かされたりして沸き起こるものでもない。これを湧き起こす鍵は、イエス様の山上の垂訓にある。
 
 『心の貧しい人達は、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:3) 「心の貧しい人」とは、原文的には、「霊で自分の貧困を意識する者たち」「自らの霊性で、自分が神の前に無一物、乞食同然であることを知る人々」である。また、「天国」と訳された語は、原文的には「天が支配する領域」である。
 つまり幸いな人とは、自分は霊において自分は何もない、無一文な者だ、自分は乞食のようで、もし恵みを受けられないのなら、生きられない!と自覚する人々の事である。そのように自覚している人こそ天からの援助を受けられ、天の支配が、自分自身へと導入される特権が与えられる、という事を意味しているのだ。
 自分は富んでいる、教えらなくてはならない事など無い、諭されなくてはならない事も一切無い、と思っている人こそ、じつは霊的に麻痺状態で、みじめで、何も持っていないのだ。自分は霊において貧しい者である、次世代が面している危機をうめく心が無い、リバイバルを求める心において自分は貧しい、自分は愛において、親切において、人を顧みる心において心無しで貧しい、自分にはビジョンが無い、主の働きのために必要なものがない…そういった「貧しさ」を涙を流して悲しむ所から「偉大な働き人」への道が始まる。
 
 『悲しんでいる人達は、さいわいである、彼らは慰められるであろう。』(4節) ここの「慰められる」とは「パラカレオー」の受動態で、励まされる、元気づけられる、熱心に説かれる、勧告される、訓戒される、等の意味もある。だから、自分は霊において貧しい!と悲しむ人こそ、それが与えられ、慰められ、励まされ、あるいは慰め主である聖霊(パラクレートス)から、熱心に説かれ、あるいは勧告され、また訓戒される。
 そして、「柔和である事」(5節)こそ、重要である。もし私達が、リバイバル化された日本を、相続したいのなら、柔和さを身につけるべきだ。柔和でない人には、「神の国」化された日本を、相続させてもらえない。
 そして「義」に飢え渇く心も、重要である。自分の中を見、また世の中を見るに、義が無い状況について主に「飢えています!」「渇いています!」と訴える人にこそ、充分に満足する程、与えられるのだ。
 次世代を起こす働きも、この国にリバイバルをもたらす働きも、強いモチベーションが無いなら不可能だ。
それを自身にもたらすには、まず自分が霊において貧しい者である事を自覚し、悲しみ、主の前で涙し、うめき、求めるのである。そうするならパウロのような、ダビデのような、ネヘミヤのような熱いスピリットが与えられ、この時代に立ちはだかる巨人を倒し、霊的な城壁を回復させ、福音のためならいのちをも惜しまない栄光の建て上げ屋になって行く。熱いスピリットをもってこの時代を建て直して行く私達でありますように!
 

 

 

 

主日礼拝

主に向くなら(イザヤ43:18-20)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 1月のカレンダー聖句は、『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』である。今年は「メタモルフォー」、すなわち反転、逆転、変貌、反撃、ひっくり返しの年として、新年が始まったのだが、今月の聖句も同様に、「荒野に道」「荒れ地に川」という反転・逆転が示されていた。全ての事は二人または三人の証言によって確定する、と書いてあるからには、主は今年、全く新しい、良き方向へ導いて下さるだろう。
 
 主のメタモルフォーに与れるかどうかの鍵は「主に向く事」であると、第2コリント3:16-18から学んだ。
そこは原文的には、「人が主に振り向く時はいつも、その覆いは取り除かれている」、つまり、主に向き続けている状態なら、いつでも、栄光を遮断する覆いは取り除かれた状態で、逆に、主に向いていない状態なら、いつでも覆いに覆われてしまった状態、という事である。もし主の栄光が見えない、という事なら、主ではないもの(自分、現実、心配事など)に、目が向き続けている、という事だ。しかし主に向くなら…、覆われていた覆いは取り除かれ、主の栄光があらわになり、その栄光の輝きを通して、物事が起きるようになる。
  だから私達は、主のなさろうとする御旨に乗っかって行くべきである。主の御旨をさておきして、自分が思った通りにして欲しい、願い事を叶えて欲しい、と主に突きつけ、拝み倒す「異邦人の祈り」は、実は、主の栄光を邪魔する「覆い」で、自分自身を覆ってしまう事なのだ。もし私達が、物事に自分の手練手管を混ぜ込むなら、それは、その物事に「罪」を交ぜる事になる。 モーセは若い時、たった一人のユダヤ人を自分の方法で助けようとした結果、殺人者となり、ヒーローになるどころか、追われ逃げ隠れる犯罪人となった。
彼は結局、たった一人のユダヤ人さえ助けられず、大いに非難を浴びてしまった。 主が願われる道ではなく、自分の「はかりごと」によって物事を通して行こうとするなら、それ相応して「額に汗」しなければならず、生えてくる茨やあざみへの対応に追われ、ついには「ちり」にかえらなくてはならない(創世記3:17-19)。
 しかしもし、「主に向き続けている状態」であるなら、御霊が与えられる。そして御霊と真理がある所には、自由がある。閉塞感や束縛感にあふれている人こそ、真理なる主に目を向けて、御霊を求めるべきだ。
その人は、覆いが取り除けられた顔で、鏡に映し出されるかのように、主の栄光を見続ける。そうしてその人は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ続けて行く(メタモルフォーの現在形受動態)。
 
 だから主は言われる。先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな、と。そういった、以前のものや、現状のもの、将来のもの、自分のもの、他人のものにではなく、「主に向くなら」、主は新しい事をされ、反転をなさる。道の無い荒野に、道をもうけ、渇き切った荒野に川を設ける。野の獣も、ジャッカルも、だちょうも、主をあがめる、と書いてある。いかにジャッカルのような荒々しく、人を喰いものにするような者も、主をあがめるようになる。だちょうは、自分が産んだ卵を砂の中に埋めて、砂に温めさせる。自分ではどこに産んだのかすら忘れ、自分の足で卵を踏み潰しても何とも思わない。 また、猛獣が目の前に現れると、砂の中に自分の頭を埋める。そうするとダチョウ的には、猛獣が見えなくなるので、猛獣から逃げおおせた、と思い込んでいるのだが、単に猛獣の前に無防備に大きな図体を晒し続けて、じっとしているだけなのだ。
そのように知恵がなく愚かであっても、また、愛情のかけらが無い者でも、主に向くなら反転させて下さる。
ダチョウのような愛情が無い、愚かで、浅はかな自分に、嫌気がさしているだろうか。ジャッカルのような自分に嫌気がさしているだろうか。道が見えないだろうか。渇いているだろうか…。私達が主に向くなら、主がそれを反転させ、逆転させ、メタモルフォーの造り変えをして下さり、道を設け、川を流して潤して下さる。
 
 主はいつも、何もできない人、絶望している人を逆転・反転させて用いられる。イエス様の弟子達は、大した地位があったわけでもないし、知恵があったわけでもなかったが、神は知恵ある者をはずかしめるために、あえてこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた。それは、神の御前でだれをも誇らせないため、ただ主だけを誇るようになるためである(1コリント1:27-30)。
 主は私達を、イエス様の働きへと招いておられる。イエス様が建て上げて行かれる、神の国の栄光の働きに加わるように、と。その働きの向こうには、ただ栄光しかない。イエス様に不可能な事は無く、倒せない敵は存在しない。主に向いて、今までのあらゆる古い覆いを取り除いていただき、人生が良い方向へと反転して行く経験をするこの年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

 

主日礼拝

メタモルフォーの年(2コリント3:16-18)

ニューイヤーズ・イブ礼拝 〜 カウントダウン 〜 新年礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 22年暮れから示され続けている一連の言葉群がある。反転、逆転、変貌、反撃、覆し、ひっくり返し・・・。
古い上着を脱ぎ捨て、全く新しいものを着る。防戦から攻勢に転じる。世の医者が12年治せなかった病が完治する。38年も寂しく病の床にあった人が一瞬で癒やされ、床を担いで歩き出す。生まれつき足が萎えていた40歳の人が一瞬で癒やされ、跳んだりはねたりしながら、憧れていた神殿に入って礼拝する。これらは、私達の主イエス様が実際に為された事で、私達に対して為される事である。主こそ、逆転の主である。
死をいのちに、呪いを祝福に、弱い者を強いものに、貧しい者を富む者に「逆転」させられる。これらを一言で表すギリシア語が「メタモルフォー」である。メタモルフォーを多く体験するこの新年でありますように!
 
 そのためには、主には、全てがおできになると信じ、今までの人生で培ってきた思い込みや固定概念というバリヤを破る必要がある。その向こうには、限りない自由、開放、無限の可能性が、天のように開けた世界がある。『しかし主に向く時には、その覆いは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。私達は皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に「変えられていく(メタモルフォー)」。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)
 メタモルフォーとは、変貌山において、主の姿や形が全く変わった、あの「変貌」である。その時、主の顔は太陽のように輝き、御衣は、世のさらし屋では到底できないほど白く輝いた(マルコ9:3)。主の霊に浸しこまれるなら、日々メタモルフォーして行く。世のさらし屋で消せない汚れはきれいに消えて白く輝き、世の医者では治せない病も癒やされ、臆病だった心は勇士の心にされる。だから主の霊を求めるべきである!
 新幹線と衝突すると体がばらばらになってしまうように、主の霊が圧倒的に臨むなら、自分の意固地な感情、悲しさ、卑屈さ、恐れ、不安、絶望といった、主のものでない感覚は、ちりぢりばらばらにされる。そして、主の「わたしの子よ!」という愛に溢れた意図に圧倒され、細胞の隅々にまで浸透し、神の子にされたという確信によってどんな状況でも揺るぎない平安、喜びが来、そしてどんな事でも主にあって熱心になれる。
 神様の方法は、いつもそうだ。神様が神の国を立てあげる時、力が無い小さい者を、力ある者に反転させ、何もできない人、絶望している人を、主の力で充満した者に逆転させて用いて下さり、私達を通して、イエス様のビジョン行わせて下さる。イエス様は、私達が考え出すビジョンに力添えするお方ではない。私達をイエス様のビジョンの中へと入れ、揺るぎない神の子に引き上げて行って下さる。イエス様に招かれ、イエス様に建て上げられて行くからには、立ちはだかるものがゴリヤテであろうと、どんな病や貧困、また不可能に思える事であろうと、全き平安の内に導かれていく。イエス様が平安の息を吹きかけられたからだ。
 
 しかし、せっかく油注ぎを受けても、取り上げられてしまう人もいる。サウルがそうだった。サウルから神の霊が離れると、彼は凡人になってしまい、自分の王座を固持するあまり、あれこれもがいて悪を重ね、恐れ悩んだ挙げ句、死んでしまった。もし神の霊が無いなら、凡人となって、悩みに悩んで命を終えるしか無い。
神の霊とは接点なしに人生を終える人とは、自分の思いを世に嵌めたまま、思いを刷新しない人である。
 『この世の鋳型にはめ込まれてはいけません。かえって、あなたがたは、何が神の御心か、すなわち、何が良いことで神に喜ばれ完全かを識別するために、自分の「思い(ヌース)」の刷新によって、「変えられ続けていきなさい(メタモルフォーの現在受動態命令形)」。』(ローマ12:2 ギリシャ語新約聖書インタリニア)
 私達は、スマホなどを経由して入ってくる、世の側が提供してくる情報、世のスタイル、世が仕掛けてくる「鋳型」に、嵌め込まされてはならない。同化させられてはならない。新しいぶどう酒は、古い皮袋に入れる事はできない。もしそんな事をしたら両方だめになってしまう。私達は、考え方や心構え、意見、決心を刷新し、「新しい皮袋」になるべきである。そうするなら聖霊の新しいぶどう酒に充満され、日々メタモルフォーが推進して行く。たとえ何かが立ちはだかっても、その辺に転がっている石ころ一つで、ダウンさせられる。
 
 全く経験した事の無い領域に入って行く事に、不安を覚えるだろうか。ダビデは、未だかつて経験した事の無いような巨人が立ちはだかっても、主の陣が40日もなぶられた事に、聖なる憤りに充満され、恐れは一切なかった。主の霊に臨まれるなら、恐れも粉微塵になって、主の栄光を表す働きを、何でも出来る!
今までのあらゆる古い覆いを取り除き、あらゆる方面で反転を経験して行く、この新年でありますように!

 

 

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