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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

主が十字架と復活を通して私達にして下さった事(ヨハネ20:19-23)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、私達の主イエス様が復活された事を、記念し、祝う、キリスト教会で最も重要な日である。
私達にとって一番大切な事、それは、聖書が示す通り、イエス様が私達の罪のために死なれた事、葬られた事、三日目によみがえられた事、そして、その彼が、私達に現れて下さった事である。(1コリント15:3-5)
 復活がある事を信じているだろうか?私達にも、復活がある!と、信じているだろうか??もし復活が無い、と言うなら、その人の信仰は空しく、今なお、自分の罪の中で死んでいる事になってしまう。(同12-19)
 しかし今や、キリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられた。「死」という、あまりにリアルな脅威は、一人の人アダムを通して来たが、復活というあまりに偉大な喜びは、一人の人イエス・キリストを通して来た。キリストはやがて来て、あらゆる支配、権威、権力を滅ぼし、一切を父なる神にお渡しになる。
そして、最後の敵である死も、滅ぼされる!(同20-26)。これこそ、全クリスチャンにとっての希望である。
 イエス様は復活した後、弟子たちの真っただ中に入って来られ、宣言されたのは「平安」だった(ヨハネ20:19)。 不安があるだろうか?確かに不安の種は、日常生活の中に、沢山ある。死の不安、将来の不安、人との関係の不安、仕事の不安など…。しかし、復活の主が真っ先に取り除かれたのが、「不安」である。
 
 『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなた方を遣わす」。』 不安が取り除かれ、平安を得たなら、次は、働き人として、主から「遣わされる」のだ。遣わされる上で必要なものが、聖霊と権威である。『そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずにおく罪は、そのまま残る。』(21-23節)
 聖霊を通して受ける力・デュナミスは、ダイナマイトの語源である。すなわち私達が、復活の主を信じて平安が与えられ、聖霊をいただく時、私達は、爆弾を抱えた者となる。その時、私達は、あらゆる不安を爆破し、消極的の「消極」を爆破し、あらゆる貧乏根性を、ケチケチ精神を、奴隷根性を、そして人生破綻してしまった、その「破綻」を爆破する、ダイナマイトを持つ者となっているのだ。これは、信じた者のものである!
 聖霊の「霊」は、「風」とも訳せる。ダイナマイトの爆風は、いろいろなものを破壊するが、イエス様の復活の爆風は、死をいのちへと飲み込み、不安を平安へと飲み込む、破壊とは真逆の、いのちの爆風なのだ。
 
 イエス様の復活の爆発的な効力は、自動的に人に適用されるものではない。イエス様の復活を「信じる」必要があるのだ。あれこれ思い患ったり、不安や心配などで心の戸を閉ざしてしまっていないだろうか。
御言葉が、心の戸を叩いておられる時、戸を開いて、受け入れる(信じる)なら、主は入ってきて、平安を宣言し、聖霊の息吹で、あらゆる不安や心配を吹き飛ばして下さる。私達が信仰を持つ時、主はそれを喜び、実際に事を起こし、あらゆる不安をもたらす問題を解決して下さる。なぜなら神は、神がおられる事と、神を求める者には、報いてくださる方である、と信じる人を、喜んで下さるからだ。(ヘブル11:6)
 「信仰とは、望んでいる事がらを”確信(実体、権利証書)”し、まだ見ていない事実を”確認(証拠、監査明細)”する事である。」(ヘブル11:1) 信仰とは、望んでいる事柄の「権利証書」である。もし、ある土地の所有権を示す権利証書を持っていて、それを提示し、主張するなら、その土地は確かにその人のものだ。
 世の権利証書は、紙にサインしたものであるが、神の国における権利証書は、神の言葉を信じた事、すなわち、御言葉を信仰でサインしたものあり、それは、世の権利証書より、はるかに力がある。
 主は、私達を、不利に攻め立てるあらゆる債務証書を取りのけ、十字架に釘づけにされた。それ故、私達は、主が十字架と復活を通して私達に下さった、このすばらしい権利証書を、世のあらゆる物事に対し、提示すべきだ。信仰の先祖アブラハムは、神の言葉を「信じた」事によって、神に喜ばれ、報いられた。
 
 主が創って下さったあらゆる良きものや、富や、経済、権利、それらは今、不信仰な者の手に不当に渡っていて、悪用されている。私達は信仰をもって、それはわたしのもの!と、権利証書を主張するべきである。
今、そうする人があまりにいないので、信じて宣言するなら、神は喜んで報い、豊かに与えて下さる。
 イエス様は言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。イエス様がせっかく十字架で流された血によって、死からいのちへ名義変更されたのだから、この偉大な権利を、大胆に主張し、行使し、世からどんどん分捕り返していく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

主日礼拝

十字架の福音という愛のプロポーズ(雅歌8:5-7)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今週はイエス様の受難週、英語ではpassion weekという。なぜパッション(情熱)なのか。それはイエス様が、限りない情熱をもって、私達を愛した故、私達の身代わりに十字架の上で死んで下さった事によって、その愛を、実践して見せて下さったからだ。極みに至る愛を表現された十字架の主を、本日、おぼえたい。
 
 イエス様はなぜそこまで、私達を愛されたか。それは、「結婚」という、愛の究極を、結実させるためである。
結婚と、十字架は、密接な関係がある。ユダヤ人は過越祭の度に、雅歌書を朗読するが、過越祭は、十字架でほふられたキリストを意味しており、また、雅歌書のテーマは、まさに、男女の愛、そして結婚である。
 結婚とは、男性が女性に対し、また、女性が男性に対し、これからわたしは、自分の生涯(いのち)を、あなたに、そして、あなたと共に築いて行く新たな家庭のために、捧げます、そうして神様の「生めよ、増えよ」という使命を、あなたと一緒に、生涯を通して全うして行きます、という、聖なる契約である。イエス様は、私達と、その「結婚」関係を築くために、まず、イエス様の側から、ご自身のいのちを、私達へと捧げられた。
 
 私達が、その契約関係へと入るために、まず必要なものが、信仰である。すなわち、イエス・キリストこそ私の救い主であり、また、私の人生の主人である、と、信じて、告白するのだ。信仰とは「to unite(連合する)」、「to band(結ぶ)」を意味するが、それはまさに婚姻関係と同じである。私達の信仰先祖・アブラハムは、神様の言葉を信じた故に、それが彼の義とされた、と書いてある。しかし、信じた事で完成、ではない。
 結婚という契約に入った際、日々要求される事は「捧げる事」である。結婚生活とは、自分を相手に捧げ、また、結婚した事によって生じた新しい「家庭」のために捧げる事によって、成り立つ。こうして自分は相手のものとなり、相手は自分のものとなり、そうして新しいいのち、新しい家庭を築き上げて行くのだ。もし夫婦のどちらか、あるいは両方が、その「捧げる」事をしないなら、その家庭はやがて分解してしまうだろう。
 以上、まことの花婿であるイエス様を「信じる」事と、「捧げる」事が、そして、イエス様と共に構築して行く新しい家庭、すなわち「神の国」のために、自らを捧げる事が、イエス様との契約において、必要である。
 私達自身を、きよい、生きた供えものとして、神様に捧げるなら、私達は神様の所有とされ、神様が私達の所有となるのだ。事実、アブラハムの信仰が「完成」したのは、彼のひとり子・イサクを「捧げた」時だった。
アブラハムは、その行いによって、彼の信仰は完成し(ヤコブ2:22)、それによって、彼の子々孫々は、永久に「神のもの、神の所有」となった。それ故、アブラハムの子孫は、この地上において特別な存在なのだ。
 私達も同じように、イエス様を信じ、自分の生涯(いのち)をイエス様へと捧げ、自分自身の所有権を、イエス様へと渡すなら、私達はイエス様と婚約関係となり、雅歌書にある通り、『わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。』(雅歌6:3)という関係、私達はイエス様の所有となり、夫であられるイエス様に永遠に保護され、愛されつつ、永遠の家・天国において、永遠に共に王として治めるのである。
 
 結婚において、肝心な事は、意志による決断だ。神様は、全て創られた生き物のうち、ただ人間にだけ、神様に従う自由・従わない自由を、与えられた。それは、人は唯一、キリストの花嫁となれる存在であり、キリストを愛し、その契約関係に入る、と、意思表明する事こそ、結婚においての前提だからである。
 私達もアブラハムのように、自分のしきたりと縄張りを捨て、主へと捧げるなら、この、永遠の契約関係へと入れられる。しかし、その自由意志を用いて、イエス様を「信じない」と選択する者、神様が提示した契約を捨て、ただ、自分の好む事をし続ける者は、”永遠の独身者”として、自分の罪の中で死に、永遠に絶たれてしまう。それ故、私達を愛してくださった主は、イエス様との結婚関係へと入りなさい、と、招かれる。
 
 十字架の出来事、それは、イエス様が自身を私達へと捧げられ、こよなき愛を示された出来事であり、福音とは、イエス様のその捧げた愛を「受け取りなさい」という、愛のプロポーズである。私達が先に神を愛したのではなく、神がまず私達を愛し、ひとり子を私達へ与えて下さった故に、私達に愛が分かったのである。
 このパッションウィーク、十字架上で自らを捧げる程に情熱を示してくださったその愛を思い、信仰をもってそれを受け入れ、イエス様との婚姻関係を、高らかに宣言し、天と地において一切の権威が与えられたイエス様と、永遠の家を築き上げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

あなたを救うために、彼は十字架で死なれた(ルカ23:33-34)

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週報/メッセージ(説教)概要

 来週から、イエス・キリストの受難週に入る。神の御子であられるお方が、何故に、十字架の上で苦しまれ、死なれ、そして、よみがえられたのか。イエス様は、どのようなお方であるのか、この時期、思いを馳せたい。
 
 『されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人達も、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。』(ルカ23:33) 私達は、イエス・キリストは、神の御子であられる事を知っているが、なぜ、神であられるお方が、人間の手によって、十字架刑という死刑に処せられたのだろうか。
 多くの人は、神について、次のように認識している。神は高尚で、力強いお方だから、私達は神に、色々なものを貢いで、願い事を叶えてもらおう、と。それで祈ったり、捧げものを捧げたり等して、「貢ぎ」をする。
 もしも貢ぎ方が悪かったなら、罰として災いが起こったり、報われなかったりする。人から拝まれている神は、このように、ご機嫌を伺わなければならない神だと認識があるが、そればかりではない。人の運命も、この世の力ある人も、皆、何を考えていて、どう動くのか分からない。人は常に、自分にはどうしようもない存在に振り回されつつ生きている。だから、神なぞ居ても居なくても同じだ、と言って生きる人もいる。それで多くの人は、どう転ぶか分からない将来のためベストを尽くし、もがきながら生きるしか無い、と思っている。
 
 聖書には書いてある。天と地と、宇宙万物を創り、私達・人間を創られた、ひとりの神が天におられ、その神は、実に、ひとり子をお与えになった程、私達・人間を愛された。神であられるイエス・キリストは、人に貢ぐために、高き天の御座から降りて来られた。何を貢ぐため?十字架上で、神のいのちを私達に貢ぐため。
 神の御子・イエス様がこの世に来られたのは、世の王のように、権力をふるって支配するためではない。
神の御子・イエス様は、人としてこの世に降りて来られた故に、私達の無知も、罪も、弱さも、全部ご存知で、それら全部をひっくるめて、私達の事を、父なる神様に執り成し、祈って下さる。 『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(34節)
 イエス様は人々のために、それも、わけも分からず、神であられるお方を十字架につけて、嘲っている私達・全ての人のために、「彼らは何をしているのか分からないのです」と、父なる神様に執り成して下さった。
 
 私達は、本当に、真理について無知である。人は本来、神様と共に、永遠に、神様の愛の中で生きるように、と、創造されたのに、サタンにそそのかされて、罪と死が入り、神様も真理も、わからなくなってしまった。
 人は、罪と死が厳然として目の前にある不安に、おののきつつも、訳もわからない不条理な人生を生きている。罪なく、死も無いはずの、神の御子キリストは、その全ての呪いを打ち破るために、全人類の罪と死を、一身に背負って、十字架に釘づけられ、そうして、全ての罪と死を十字架上で処罰して下さったのだ。
 しかしそれで終わりではない。イエス様は、三日目に、死を打ち破って、よみがえって下さった。イエス様は、人類最後の敵である死に勝利し、罪も、死も、サタンも、一切を十字架で処罰し、勝利して下さった。
 このイエス様を、「わたしの救い主」として信じつつ生きる人は、全て、罪に、死に、サタンに勝利するのだ。
このイエス様に呼び求める時、天と地と時間を支配しておられる神様は、私達の将来も、なすべき事も、最善へと導いて下さる(ローマ8:28)。もはや、未来も、人生も、わけのわからない偶然の連続ではなくなる。
 私達を創造し、私達を愛し、私達に、将来と希望の計画を立てておられる主は、私達の最善を、一番良く知っておられる故、もし私達が、イエス様を主とし、一切の思い煩いも、未来も、主導権を全部、お委ねするなら、彼は世の全てを動かして、私達のベストの未来へと導いて下さり、将来への不安は一切なくなる。
 
 父なる神様は、限りなく愛であられ、実に、ひとり子をお与えになるほどに、世を、あなたを、愛された。
御子キリストは、全人類の身代わりとなって、十字架上で処罰を受けられた。罪なきお方なのに、罪とされ、聖なる、不死の「神のいのち」を、私達・全人類の罪の借金の支払のために差し出し、交換して下さった。
 私達がそれを信じ、祈り心を込めつつ「わたしを救って下さい」と、救い主・イエス様の御名を呼ぶなら、生きておられるイエス様は、この祈りを聞かれ、不思議な導きをもって、答えてくださる。なぜなら、イエス様の御名(ヘブライ語では「イエシュア」)の意味は、「彼は救い」であるから。この、救い主の御名を呼び、あらゆる面において、救いに入る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

神様の縄張りとしきたりから離れないように気をつけよ(創世記16章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主が示された所に留まって礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる、という法則が、創世記12:1-3に示されている。彼はその法則通りにした結果、9人の王の頂点になり、もはや、富や力においては満ち足りすぎる程、満ち足りていた。
 しかしまだ、肝心の子供が与えられていなかった。彼はその事についての思い煩いを、全て主に打ち明けた所、主は彼と契約を結び、彼の子孫は、必ず空の星々のようになる、と、確かな約束をされた。(15章)
 
 しかし16章で、再び失敗をしてしまう。その失敗の源は、外からのものではなく、内部からのものであった。
神様の御旨は、アブラムとサライという、素晴らしい信仰の夫婦が、一体となって、子々孫々へと信仰の継承をさせて行くものだったのに、「子供がいない」という目先の問題を解決するために、彼らは神の方法でなく、世の方法を採用してしまう。『彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。』(1節)
 ハガル。彼女はエジプト出身、すなわち、力で、富で、若さや美で、支配権を「奪う」世界出身の者である。
 サラはハガルをアブラハムに与え、彼女に代理で子を産ませる、という、当時の習わしを提案し、アブラハムは妻の声に聞き従って、その通りにした。その結果、後々の子孫に、苦い根を残す事になってしまう。
 私達がこれから気をつけるべきは、エジプトの思考を持った人を、要職につけてはならない事である。
サラの提案通りにしてみると、ハガルは、すぐに身ごもった。するとハガルは、エジプト根性が芽生え、女主人に見下た態度を取るようになった。アブラハムは、人生初めての子が、ハガルの胎に宿った事に浮かれ、それを放任した。サラは、何年経っても身ごもらなかったのに、ハガルは一瞬で身ごもったので、ますます惨めになった。結局、神様の平安がどこにも無い家庭となってしまい、当初もくろんだ未来とは、かけ離れた現実となってしまった。神様の示された縄張りとしきたりから、踏み外すと、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」といった、肉の実(ガラテヤ5:19-21)を、見事に結んでしまうのである。
 サラは、ハガルが自分を見下げるようになったのを、「あなたのせいだ」と言った。そう、アブラハムは、神に聞かず、妻の声に聞き従い、また、女奴隷が「分」を超えて、女主人サラを軽んじるのを、戒めなかった。
 もし私達が、何かの「主人」であるなら、配下たる者が分を越え、また、神様の言葉を超えるような事を薦めてきた場合、御言葉を根拠に、正しく治めなくてはならない。それをしないと、家に呪いを招いてしまう。
 アブラハムはサラに、ハガルをあなたの好きなようにしなさい、と言った(6節)。それでサラはハガルに辛く当たったので、ハガルは逃げ出した。周囲の人々は、やはりアブラハムこそ家長で、サラこそ女主人であると思い知った。養っている人が、分を超えた態度を取って来たら、しっかり戒め、示しをつけるべきなのだ。
 
  そもそも今回の騒動は、ハガル一人のせいではない。サラは、次世代をもうけるという一大事に、神の方法を捨て、世の方法を取り入れてしまい、アブラハムも、正しく治めなかった。しかし主は憐れみ深い。
身重の身で、やるせない気持ちで逃げていたハガルに、主の使いが現れ、アブラハムの家で再び平和にやっていくチャンスを与えられた。天が宣言する。あなたはしもべで、主人の元で、身を低くすべきだ、と。
ハガルはその時、自分の立場を「サライの女奴隷」と、正しく表明した。それで主は彼女に、子孫の祝福の約束を与えられた。私達も、与えられている立場、正しい主従関係の下に、正しく身を置くなら、祝福されるが、主は、自分の領域を守らず、おるべき所を捨てる者を、永遠に暗闇の下に閉じ込められる(ユダ6節)。
 主は、彼女に生まれる子に「イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)」という名をつけるよう命じた。それでハガルは、告白した。あなた(主)は、生きておられ、見ておられ、聞いて下さるお方だ、と。(13-14節)
 こうして荒野で学んだ彼女は、主の言葉通り、本来あるべき立場・本来あるべき身分に、戻った。
彼女はきっと、その体験を、アブラムとサライに報告しただろう。そして彼女が、「主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方だ」と、証を聞いた時、夫婦共々、自分達の身勝手さに、恥じ入っただろう。
 結局のところ、今回の騒動は、それぞれ神様の縄張りとしきたりから外れた、身勝手な判断や行動をした結果だったが、それら全てを超えて、主は、生きておられ、見ておられ、聞いておられるお方、なのだ。
 世の方法には最初から頼らず、主のしきたりとなわばりから離れず、また、世の思考に染まった者には支配権を与えず、ただ、主から任された自分の領域を、正しく支配し、一切の災いを招くことなく、主の平安から外れない、信仰の家を構築して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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祝福がバージョンアップし具体的になって行くためには(創世記15章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今年に入ってアブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主の御言葉に示された所に留まり、礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる事が創世記12:1-3で示されている。
 彼は、留まるべき所に留まった結果、9人の王の頂点になり、メルキゼデクから祝福を受けた(14章)。
そして、ソドムの汚れた富を辞退した彼に、主は、幻の内に彼に臨んで、仰せられた。 『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう』(創世記15:1)
 主の幻を見れる人とは、普段から主を慕い求め、切に会いたい、と願う人である(エレミヤ29:12-13)。 礼拝の時間だけでなく、普段の生活で、いつも、見たもの、感じたものの感覚を、全部主に持って行き、主を思う習慣を持つ人に、主は幻で現れて下さる。幻を見た信仰者には、世に、ライバルはいなくなるのだ。
 
 アブラハムは既に、資産や力においては満ち足りていて、世のどんな王にも勝利できる事が分かった。
ただ、この素晴らしい祝福と、素晴らしい神様への信仰を受け継がせるための、子がいない。彼がそれを言うと、主は、言われる。一緒に散歩に行こう、外に出て、天を見上げなさい、そして星を数えなさい、と。
 主は言われた。『「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた(アーマン)。主はこれを彼の義と認められた。』(創世記15:5-6) ここのアーマンは、アーメンの元となる動詞で、「建てあげる、サポートする、忠実にする、看護する」の意味があり、また使役態が使われているので、「アブラムは(自分自身を)主へと信じさせた」とも訳せる。 人が義とされるのは、本人自身の意思をフル稼働させ、自分自身を主へと信じ込まさせ、意図して主の言葉をサポートし、建てあげる事による。彼は、星を見なさい、と言われて、いつも見慣れた空を見上げる感覚で見たのではなく、主が言われた故、自らの心を信じさせ、奮い立たせて、見たのだ。すると、闇にキラキラ輝く数え切れない星々が、輝く自分の子々孫々に見えたのだ!
そして心はウキウキし、晴れやかになって、心底アーメンして喜び、神様はそれを、彼の義とされたのだ。
 主から受けた言葉を、感動もせず、確認もせず、ただぼんやり受けて過ぎ去らせてはならない。彼はしっかり確認した。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8節)
主からとてつもない、すごい事を言われたからと言って、「そうなんだ、アーメン」と言葉では言っても、実感も感動もしないまま、普段どおりのルーチンワークを続けるなら、ルーチンワーカー以上にはなれない。
自ら、主の言葉に、感動しようと心を奮い立たすべきであり、もし実感が沸かないなら、主に確認すべきだ。
アブラハムは、それが本当なのか、確かなのかを確認した。すると主は、じゃあ契約といこうか、と言われる。
主は契約のために、捧げものを用意せよ、と指示された。捧げものの種類も年齢までも、具体的に。(9節)
 
 『日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。』(12-13節) 主は、400年という時を経るまで、四代目になるその時まで、悪辣な者達の「咎が満ちることはない」、と言われた。
現代も悪がはびこっていて、神の民がその奴隷状態であるのを見るかもしれない、主はなぜそれを放置されるのか?それは、その者達が、刑罰を受けるに値するまでの咎が、満ちていないからだ(黙示録6:11)。
 悪辣な者達が一見栄えているように見えても、それは、その者達が蓄えたものをそっくりそのまま神の民へと引き渡すためである。神の民は、自分で立てなかった町々や家々、自分で植えなかった畑を得るのだ。
 アブラハムは、その400年で子孫が増え、4代目の代では、たった一人だったのが、200万以上へと増えるのだ!それが主の計算である!だから今、私達は、沢山の事は考えなくていい、ただするべき事は、よりすぐりの信仰者の家庭を構築し、子を産んだら、御言葉暗唱のテフィリン教育をして、よりすぐりの信仰者として育てよ!そのシンプルな事が、あなたの子孫が、空の星々のようになるための秘訣なのだ!
 そうして主は、アブラハムと契約を結ばれた。彼に与えられる領域は、エジプト川からユーフラテス川まで、渡される民族は、10民族、と、具体的に示された(19-21節)。こうして彼に与えられた祝福は、どんどんバージョンアップし、より具体的になって行く。私達アブラハムの子孫が、空の星のようになるまでには、色々あるけど、最終的に得る地は、エジプトの地のようではなく、山と谷の地、天の雨で潤っている地、主が求められる地で、年の初めから終わりまで主が絶えず目を留めておられる地なのだ(申命記11:10-12)。 

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栄光に満ちた神の都シオン(詩篇87篇)

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週報/メッセージ(説教)概要

 成田エクレシアは本日より、礼拝する場所を新しい所に移してスタートする事となった。整えの祈りをするために行ってみると、既に清らかに整えられていて、主がここに目を留めておられた事を共に喜び合った。
 成田エクレシアや天声教会を思う時、いつも出てくる賛美は、韓日讃頌歌245番「栄に満ちたる」である。
1,主の栄光に満ちていて、主がいしずえを堅く置いておられ、救いの石垣に高く囲まれ、御民の平安が、決して乱されない教会。 2,主の尽きせぬ愛が源流となって、流れてくるいのちの泉は豊かに湧き出て、汲んでも汲んでも尽きないため、御国の世継ぎ達は決して渇かず、溢れる恵みに、絶えず潤っている教会。
3,御恵みを受けつつ生きる御民は、はかない楽しみや、虚しい富、奢り高ぶる世人のあざみに会っても、全く動じず、この上ない喜びは、全く変わらない。このような教会となりますように、と、いつも祈りが出てくる。
 この幸いは、アブラハムの祝福が、子へと、孫へと、子々孫々が、どんどん増えて行くほどに、どんどんバージョンアップし増し加わって行く祝福である。彼らの受け継ぐ地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている地、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、主が絶えず目を留めておられる地である。
 
 この賛美の元となった聖句が、詩篇87篇である。この詩篇は、神の都シオンが、やがて全世界の中心となる事を示した、預言的な歌である。シオンは神殿の丘、もしくはエルサレムを、あるいはその住民を表す名として、聖書に多く登場する。そこは、アブラハムの時代、モリヤという名前だった。アブラハムはそこで信仰の最終試験を受け、彼は一人子のイサクを捧げるが、主は、イサクの身代わりとして雄羊を備え、イサクを死者の中から取り戻した。アブラハムは最愛の一人子を捧げるという、信仰の実体を行ったため、主は、彼に対する祝福を揺るぎないものとされた。すなわちシオンは、アブラハムの信仰が完成した地なのだ。
 シオンは、このようにすばらしい地だったのに、いつしかエブス人(意味は「踏み潰す」)が占拠するようになってしまった。彼らはシオンの要害の強さを頼みに、驕り高ぶり、好き放題な事をしていたが、ダビデがその要害を攻略し、神の民を入植させ、ダビデ自身が住む、偉大な王の町とした。そこはダビデによってさらに強固に建て直され、後には聖なる神殿が建てられ、その神殿の丘が、シオンと呼ばれるようになった。
 この、シオンの成り立ちは、私達・神の民や教会(エクレシア)の成り立ちを、よく表している。
私達は元々、神の似姿として創造され、永遠に神と共に生き、神を礼拝する永遠を生きるはずだったのに、人はいつしか、サタンという「踏み潰す者」に踏みにじられ、占拠されてしまった。罪の奴隷状態となって、汚れた感情や思いの占拠状態だった、そんな私達に、まことのダビデであられるイエス様が、介入して来られ、踏み潰す者・サタンを打ち破り、その圧政から、私達を分捕り返して下さった。
 終わりの日、キリストによって贖われた人々は、啓示録に書かれてある通り、世界中から集められ、神は彼らの中に住み、彼らはその民となる。それはキリストが、あの恵みの丘で十字架につけられ、全ての人々の身代わりとして、ほふられて下さったからである。ちょうどモリヤでイサクの身代わりとなった雄羊のように。
 
 『主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。』(1節) この都、すなわち、エクレシアの基(土台)を揺るぎなく据えられたのは、主である。そして私達キリスト者の土台は、キリストご自身である。(1コリント3:11)
 『主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。』(2節) 主は、他のどの町よりシオンを愛し、選ばれた。「もろもろの門」と書かれてあるように、シオンには沢山の出入り口があり、やがてそこから、諸国の人々が、主に栄光を捧げるために、入って来る。(黙示録21:12,22:14)
 4節で示されている諸々の国々は、神に敵対した、邪悪な事で有名な国々なのに、神はなんと、このような者達さえ、神の国へと取り込まれるのだ。この国々は、神の国の市民権を得る。その救いを生み出したのがシオンであり(5節)。主はやがて、全国民、民族、部族を、神の民として登録される(6節)。その登録されるための資格は、血筋ではなく、それまでの行いでもなく、ただ、小羊によって贖われた事である。
 
 シオンの丘とはモリヤであり、モリヤの地は、アブラハムが従順を示して信仰を完成した地、そして、小羊が身代わりとなってほふられた地、そこが、エクレシアの原点である。私達エクレシアは、シオンとして、主が置かれた基に堅く立ち、救いの石垣に高く囲まれ、平安が決して乱されない教会とされ、また、主の尽きせぬ愛が豊かに流れ、いのちの泉が豊かに湧き出るエクレシアの皆さんでありますように!

主日礼拝

限りない東西南北で信仰の勇士を育てよ(創世記13章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今年に入って以来、アブラハムの祝福の法則を学んでいる。それは、創世記12:1-3の通り、以前の罪のなわばりやしきたりから出て、主の御言葉で示された所へ留まる事。そうすれば、7つの祝福を得られる。
 アブラハムは御言葉に従い、ひと度、約束の地に入ったものの、目の欲におびき寄せられて、主の約束の地ではない所、主の保護が無いエジプトへと行ってしまい、嘘の生活を続けた挙げ句、妻を奪われたり、散々な目に遭ったが、そこから再び約束の地に戻って、主が示された地に留まり、礼拝の生活を続けた結果、外からの災いは一切起こらなくなり、持ち物もおびただしく増えていった。(創世記13:1-4)
 しかし、「内部から」問題が沸き起こった。持ち物があまりに増えすぎて行ったため、アブラハムの使用人と、甥のロトの使用人との間に争いが起こったのである(5-7節)。富や地位は、それを得て傲慢になるか、それとも、謙虚さを貫き通すかという信仰のリトマス試験紙となる。ロトは本来、目上のアブラハムの使用人との間で争いが起きたなら、率先して戒めなければならないのにそれをせず、敢えて争わせておいたのだ。
 もし、富や地位を得たら、そのような傲慢が出てくるような人とは、一緒にいてはならない。このような人が、集いの中にいる間、その集いには、祝福が来ないからだ。なぜならそういう人は、主の祝福を受けると、それを利用してさらに罪を犯し、聖なる交わりに争いを引き起こして汚して、主の顔にドロを塗るからである。
 
 アブラハムは、ロトと穏便に別れるために、場所を移り住む事において優先権をロトに与えた。私達は主の約束に留まっているなら、相手に優先権を与えたとしても、不安になる必要は無い。むしろ御言葉に自分を降ろし、御言葉の思考で、まだ見ぬ将来を見るべきだ。目の欲に従っていく人は、欲におびき寄せられ、自分の頭でいいなと思っている世界を見積もり、主の約束の地とはかけ離れた方を選んで行く。
ロトは結局、神に対して甚だ罪深いソドムへ向かって離れて行った。信仰によってではなく、欲によって物事を計る人は、どんなに良い条件を得ても、後には何も残らない。宝くじで一等を当てた人の多くは、数年で散財してしまう統計結果もあるのだ。しかし、聖なる交わりには、「ロトの類」が離れたとたん、祝福が来る。
 
 『ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。』(14節) この時、主は初めて「目を上げなさい」と言われた。ロトと別れた事によって、その東西南北は、一切妨げが無い東西南北となったのだ。私達も主がOKするまでは、自分の目で東西南北を見てはいけない。かつてアブラハムがエジプトに目を向けたように、誤った判断をしてしまうからだ。
しかし、主が「目をあげよ」と許可された東西南北は、もはや、何の妨げも邪魔者もいない東西南北である。
主はそこに、「永久に子孫に与える」と約束し、「子孫を地のちりのように多くし」、「その地を縦横に行き巡りなさい、それをあなたに与える」、と言われた(14-17節)。そこに至るまで、私達も従順を続けるのである。
 アブラハムは、ヘブロンにあるマムレのテレビンの木の傍らに住み、そこで祭壇を築いて留まった(18節)。
そこにおいて、彼は、自分の家で生まれ育った信仰の勇士318人を訓練し、礼拝を欠かさない生活を続けた結果、前回見た、あの強力な王達に、大勝利するまでに至ったのである。
 私達も、ロトのたぐいとは離れ、一切の邪魔する者がいない東西南北のまぼろしを主から得て、そこで、信仰の318人を、すなわち、栄光のテフィリン世代を育てるべきである。私たちの戦争は、世の王との戦争というよりむしろ、いかに御言葉のまぼろしをキープできるか、という戦争なのだ。主が与えて下さるまぼろしを信じ、何が起ころうともそれをキープし続け、行動するなら、一切の妨げが無い東西南北が与えられる。
そこで信仰の勇士、栄光のテフィリン世代を養い、礼拝し続けるなら、どんな世の王達にも勝利できるのだ。
 
 今の世の中、御言葉に敵対する勢力が集結して、強大な権力や資金によって世論を支配し、嘘も強引にまかり通し、盤石の体制を整えようとしている。これは、バベルの塔の名残であるが、私達はテフィリンに  よって、御言葉の塔を建てるのだ。バベルの塔は神の言葉によって崩され、バベルの塔が立った地・シヌアルの王は、前回見た通り、アブラハムの勢力318人によって討ち滅ぼされ、囚われ人は分捕り返された。 今、主は、共にコラボレーションして、信仰の次世代を育てる人を探しておられる。このグループの中で、目に見えるものによってでなく、主が見させてくださるまぼろしによって歩み、この世の王達に打ち勝つ、信仰のテフィリン世代を育て上げて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

主からのまぼろしを得て語れ(創世記14章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムが神様に導かれ、カナンに定住した頃、カナンの5人の王達は、バビロン地方の王達に反抗して、戦争が起きた。バビロン地方の4人の王達が攻めて来て、行く所々で連勝し、南端の紅海の港町エル・パランまでも制圧した。そして、カナンの5人の王の財産を全部奪い、多くの捕虜を連れて悠々と引き返して行った。その囚われ人の中に、アブラハムの甥のロトもいた。一見、災いにも見える中に、主の意図がある。主はアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う、あなたの名は、大いなる者となる」と言った、祝福の実体を披露するために、敢えて、この事を許されたのだ。
 『一人の逃亡者がヘブル人アブラムの所に来て、その事を告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木の所に住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。』(13節)
 ここに初めて「ヘブル人」という言葉が出てくる。ヘブル人とは「川(境界)を超えて渡ってきた者」の意味、すなわち、古い生き方を捨て、境界を超え、主にある新しい生き方に入って来た者達である。私達もアブラハムにならって、古い罪のしきたりと縄張りを出て、水のバプテスマを経て、主に示された所に留まり、礼拝を捧げつつ生活して行くなら、力強くなり、どんどん周囲から尊ばれる存在へ、壮大な者へとなって行く。
 
 アブラハムが、あの勢いづいているバビロンの4人の王に、わずか318人で戦いを仕掛けるなど、とんでもなく無茶な事だった。それなのに、同盟を結んだマムレ達は、どういう訳か、アブラハムの呼びかけに応じ、一緒に戦いに出た。なぜそんな無茶な戦いに参戦したのか?その理由は、彼らは、アブラハムには確かに背後に神がついておられ、神が彼を祝福している様を見て、「彼ならやってのけるかもしれない」「あの悪辣で手がつけられない王達に、もしかしたら勝利して、9人の王のてっぺんに立つかもしれない」「自分も一緒に戦いに出るなら、その恩恵にあずかれるかも知れない」、というまぼろしが見えたのだ。
 実際、アブラハムは見事に勝利し、彼らは、戦利品を勝ち取る恩恵に預かった。アブラハムは、ソドムの王からの汚れた富は、くつひも一本も取らなかったが、マムレ達は、自由に取らせたのだ。(24節)
 主が私達に見せて下さるまぼろしの内容は、世の人が見れば、滅茶苦茶かもしれない。しかし私達は、アブラハムの子孫として「この人と一緒なら、何だって大丈夫!」という存在となれるよう、求めるべきである。
そして、同じビジョンを一緒に見て繰り出して行けるような、右に左に立って一緒に戦う友を求めるべきだ。
 そのためには、日々、主が示された約束の地にしっかりとどまり、礼拝し、主から与えられる恵みを日々数え、記録する事を、習慣化しておくべきである。主が与えて下さったまぼろし、すなわち、御言葉の約束から目を離さず、それを書き記し、昼も夜も口ずさみ、それが成る、と信じて、日々歩むのだ。日々、主がして下さった小さな恵みを書き記し、それを数えて行くなら、「主は確かである」という信頼が、遥かに強固なものとなり、主が見せて下さるまぼろしは、腹の奥底から湧き上がる自信となって、周囲に伝染し、周囲を動かして行くようになる。そうすると、「主は今度何を起こしてくださるのだろう、主はこの問題を、どう解決して下さるのだろう」と、主に限りなく期待できるようになり、周りを主のまぼろしへと巻き込む先駆者となれる。
 世の人は、現実的な事実を、計算機ではじいて、一番有利なものに飛びつくが、私達はそうではなく、主が示して下さる、いのちにみなぎった、わくわくするようなまぼろしを見て、それを生き生きと語るべきだ。
 もし相手が、主が示して下さるまぼろしに、同意しないのであれば、ああ、この人はわたしと組めない人だ、と分かる。主は「この人と組みなさい」と定められた人を、脱落させるような事は、なさらないお方だからだ。
 
 アブラハムは見事勝利した後、二人の王が出迎えて来た。一方はサレム(平和)の王、いと高き神の祭司、メルキゼデクで、他方は、不品行と汚れの町ソドムの王である。私達も、信仰によって進み出て勝利した時、二人の王が現れる。その時、汚れた王は、汚れた富を手にするよう誘って来るが、そのような者の誘導に引っかかってはならない。後で恩着せがましく主張する機会を作ってしまい、主の栄光ではなくなるからだ。
 私達はむしろ、勝利した時こそ、本当に御前にへりくだらなければならないお方・イエス様にひれ伏し、十分の一を捧げ、罪深い王から提示された富は、くつひも同然に見做し、きよく自分を保つのだ。
 主が「とどまれ」と言われた地にしっかり留まり、礼拝を続けていくなら、主は、壮大な者として下さる。
そこで、与えられた御言葉の約束のまぼろしを日々仰ぎ見て、右に、左に、そのまぼろしに同意する同盟者を得て、時代の勝利者となっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 主日礼拝

祝福の秘訣:御言葉どおりに留まるだけ(創世記12章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムは私達全て信仰者の父で、彼が主と共に歩んだ道や、受けた祝福は、私達にとても密接に関係する。私達の祝福の基本は、創世記12:1-3にある通り、以前の罪深い縄張りやしきたりを離れ、神様が示された御言葉のしきたりと、御言葉の縄張りの中へと入って行く事だった。再び12章から恵みを得たい。
 
4節: アブラハムが神様に呼び出されて、古いなわばりとしきたりから出て来た時、甥のロトもついて来た。
アブラハムは、主の言葉に従って出たのに対し、ロトは、主にではなくアブラハムという「人」について来た。
ここに「天と地の差」がある。ロトは別れるまで一貫して自分の目に良い所へ行き、主の言葉に従った記述は無い。そのような者はやがて「アブラハムの群れ」から離れ、離れたとたん、群れには大きな祝福が来る。
5節: アブラハムは、父の家を出てから、カナンの地に入るまで、たった1節しか費やしていない。なぜアブラハムは1節で入れたのに、彼の父テラや、出エジプトした民の多くは、カナンに入ないまま死んだのか。
その理由はシンプルである。アブラハムは「神様から言われた」と「行動した」の間に、何も挟まなかったのに対し、出エジプトの民は、御言葉に対し「でも」や「だって」を挟み、テラは自分の好む所に留まったのだ。
 私達が学ぶべきは、御言葉に対しては私情や意見は挟まず、思考停止してすぐ実行する事こそ、速やかな祝福の秘訣でり、実行するのを思い煩った分、利子がついて、祝福を受けるのを長引かせてしまう。
6-8節: アブラハムは元々、行き先は分からなかったが、カナンまで来た時、主は初めて相続地を明らかにした。アブラハムはそこに祭壇を築き、礼拝を捧げた。私達も、留まるべき地が明らかにされたなら、そこに留まり、礼拝する生活を続けるなら、どんどん祝福され、国々の王さえ打ち破るまでになって行く。
しかしアブラハムは、「ここが相続地だ」と分かった時、もう行き先が見えない旅をしなくていいのだ、と余裕が出て、余計な事をしてしまう(9節)。私達も一段落ついて、余裕が出た時こそ気をつけなくてはならない。
10節: アブラハムは「主が与える」と言われた場所から離れて行ってしまう。すると、ききんという悪い状況が、すなわち、主からの「戻れ」というサインが起きた。しかしアブラハムは戻らず、エジプトへ下って行った。
エジプトに近づくにつれ、今までおぼろげだった不安が、具体化してくる。私たちは、霊において不安な事は、やってはならない。彼は御心の逆を、すなわち、うそで生活を乗り切ろうと、具体的に御心に反する事をし始めた。心配で頭がもたげると、御心とは真逆の、愛、喜び、平安とは、真逆の実を結んでしまう。
12-13節: 彼は不安に駆られ、妻のゆえに自分は殺される、と、起きてもいない事を「起きる」と思い込み、さらに彼は、妻との関係を、公には「兄妹関係」とする事で、エジプト人から好待遇を受けられるだろう、と、確信犯的な皮算用もしている。主のスタンダードから離れて、「労苦」という主からのサインが来たなら、速やかに主の御言葉と、主の定められた地に戻るべきである。私達は、労苦してはならない。もし労苦が重なっても、主の言葉に戻らずに、人を恐れ続けると、アブラハムでさえ、このような狂気に走ってしまうのだ。
14-16節: それまでアブラハムの心の中にだけあった心配が、そっくりそのまま実現してしまった。信仰とは、思っていた物事の実体化なのだ。妻は、パロの宮廷へと連れて行かれ、パロの妾にされてしまった。
その見返りに、アブラハムは、多くの家畜の群れや、男女の奴隷を所有するようになった。アブラハムは、それらに満ちた天幕、そして、妻がいない天幕を見て、もう二度と会えないかもしれない妻を思い、主の前に、どううめいて呼ばわっただろうか。主は、聖なるうめきを、聞いて下さる。主は直接、動いて下さった。
17-20節 : 主は、パロの家に災いを起こされた。パロは、災いの原因は、明確に、アブラハムの妻の故だ、と知った。それでパロは、アブラハムを呼び出し、彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
 失敗を仕出かしたのは、アブラハムだったのに、災いに遭ったのはパロで、賠償をしたのも、パロだった。
アブラハムは、エジプトから多くを分捕ったような形で出てきた。しかし、もらって良いものと、いけないものがある。忌まわしい所からのもの、特に、忌まわしい思考を持った人間は、もらってはならない。アブラハムは、エジプトの女奴隷ハガルをもらってしまった故に、後々、大変な事になってしまう。彼女はいつでもエジプトをなつかしみ、エジプト流の考えをアブラハムの家の中に導入し、エジプト化された世界を形成した。
 アブラハムは、その後、ソドムや王達の富を辞退した。そう、私達は、世のものを欲しがるのではなく、むしろ、清さを保ちつつ、主が留まれ、と言われた所に、留まり続けるべきである。そうするなら、9人の王の富さえ、くつひも程度にしか見えない程、気持ちにおいても、実体においても、富んだ者になるのだ。
アブラハムの歩んだ成功と祝福の道に歩み、失敗した道には足を踏み入れない皆さんでありますように!
 

主日礼拝

神様から報酬をいただくには?その報酬とは?(創世記15:1-6)

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週報/メッセージ(説教)概要

  アブラハムは、主に示された地に留まった事によって大いに富まされたため、彼には、9人の王達に勝利して得た分捕り品など、くつひも程度にも見えなかった程、主にあって満ち足り富んでいた事を、前回見た。
私達もアブラハムに習い、出るべき所(罪の性質)を出て、主が示された留まるべき所に留まり、主を礼拝するなら、主にあって富まされた者となる。さらにその後、主はアブラハムに現れて言った。『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報い(報酬)は、甚だ大きい。』(創世記15:1)
 主は、甚だ大きい報酬を与えて下さる、と言われたが、私達はそれを、どうやって受け取れるのだろうか。
 
 アブラハムは、信じて戦いに出た結果、勝利と祝福の言葉をいただいた。つまり主から報酬を受けるには、神様が提示された御言葉を「信じ」、信じた通りに「行う」事によってであり、その支払いは、神様の言葉が「実体化」される事によってである。彼に一番最初に与えられた御言葉は、「Aをしなさい、するなら、Bを与える」、というもので、Aとは、本土、親戚、父の家を離れる事、そうするなら、大いなる国民とし(B1)、祝福し(B2)、名を大いなるものとし(B3)、名は祝福となり(B4)、あなたを祝福する者をわたしは祝福し(B5)、あなたを呪う者をわたしは呪う(B6)、全ての民族は、あなたによって祝福される(B7)というものだ。(12:1-3)
 この約束を聞いたアブラハムは、期待し、信じ、実行した結果、実際にBの祝福が、全部実体化した。
アブラハムは、なぜ信仰の父となったか。なぜ、イエス・キリストの系図はアブラハムから始まるのか。彼は、神様から提示された言葉を信じ、信仰の行いをした結果、その報酬として、御言葉の実体化や、必要の満たしを得、祝福を得た「最初の人」であり、続く系図の人々も、今の信仰者も、皆、そのような人々だからだ。
 
 しかし私達は、御言葉の約束を頂いても、心にモヤモヤがあったり、信じ切れなかったりする事がある。
その時は、遠慮なく、主に申し上げるべきである。アブラハムも当初、そうだった。アブラハムにはまだ、肝心の子が与えられていなかった(2節)。主は、莫大な富や勝利はいくらでも与える事ができる、と、前回の戦争で実体験したが、その莫大な祝福と信仰とを受け継がせるための、肝心の、子が与えられていない。
主が生きて働いておられる事は、十分経験済みなのに、一番肝心の「子」だけが、与えられていないのだ。
 私達も、そういう時がある。御言葉の約束は与えられていて、実際に祝福され、主が生きて働かれている事は十分経験済みなのに、肝心の、求めている「それ」だけ与えられていない、という事が。
 主はその時、アブラハムを外に連れ出して、言った。『「天を仰いで、星を数える事ができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を「信じた(アーマン)」。主はこれを彼の義と認められた。』(5-6節) アーメンとは信じ、同意し、それと一体化する事である。
 神様から報酬を受け取るためには、与えられた御言葉を「信じ」、その通りに「行う」事によって、だった。
 彼は以前、あなたの子孫を地のちりのように多く増し加える、という約束を聞いただけで、ウキウキし、生まれ故郷を飛び出したのに、約束が中々実現しないと、主の約束へのときめきとドキドキが無くなっていた。
 主は、そんな彼でも、信じてアーメンできるように、天を仰いで星を数えなさい、と言われた。それは彼が信じて、義と認定するためだった。私達も、信じ切れなかったり、モヤモヤする時、主に遠慮なく申し上げるなら、主は、こんな私達でも、信じられるように、天を仰がせ、私達の見るべき「星」を見させて下さる。
この、罪と不正に満ちた暗闇の中、キラキラと輝きながら、御言葉によって支配し、治める、信仰のテフィリン世代を。もし、私達にも見させて下さい、と願うなら、信じられるように、その星空を見させて下さるのだ。
 
 ときめきをもって御言葉を受け取り、期待し、楽しみつつ行うなら、主は、喜んで報酬を与えて下さるが、もし、聞いて、ぼんやり「有り難い」とは思っても、何も手足を動かさないままでいるなら、報酬は何も無い。
聞いた御言葉を信じ、期待し、楽しみつつ実行してこそ、御言葉の実体化という喜びの報酬を得るのだ!
 信じて宣言した御言葉は、主が責任を取って下さる。宣言した御言葉が真実であると示すために、主はしるしや奇跡をもって答え、今、彼が言った言葉は本当だよ、と保証して下さる。信じて宣言するのは、私達の分。それを実行して下さるのは、神様の分なのだ。イサクも、ヤコブも、そのように生きたので、彼らを見ていた人々は、確かに彼らには神がおられる、と、恐れた。御言葉を聞いたなら、信じ、実践し、そして主から大いなる報酬をいただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 
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