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「主の御名を信じる信仰が込められたあいさつの力(ルツ記1章)」 主日礼拝 2026年3月15日(Sun)
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- pastor 2026-3-15 14:40
「主の御名を信じる信仰が込められたあいさつの力(ルツ記1章)」 主日礼拝 2026年3月15日(Sun)
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週報/メッセージ(説教)概要
ルツ記に登場するユダヤ人の11のあいさつ
本日の御言葉 ルツ記1章
今日はルツ記に流れる、ひとつの真理を見たいと思います。それは、信仰者が唇から放つ言葉は、ただの言葉ではない、ということです。 私達・神を信じる者たちが発する言葉は、ただの習慣からではなく、気分によってでもなく、真理の宣言であり、信仰告白であり、祈りであり、祝福そのものであるべきです。
ルツ記は、明るい将来への希望で始まる書ではありません。ききんのゆえに食料は無く、若さも力も衰え、全てが色褪せてしまった状態から始まります。 ベツレヘムにいたナオミの家族は、パンを得るために、モアブの地へと移っていきました。しかし、神の民である彼らが、神に頼ることをせず、食物を求めて、神が指定された地を離れ、礼拝がない異国の地へ行った事は、全てが色褪せてしまう「はじまり」でした。やがて夫が死に、二人の息子も失い、残されたのは、三人の頼りない女たちの、行き場のない沈黙だけでした。
異国の空の下、ナオミにはもう守ってくれる夫も、息子たちもありません。これから結婚して家庭を築いて行けるような若さも、希望もありません。 ナオミは、若い嫁たちの将来までも取り上げてしまうかもしれない事に懸念したかもしれません。しかし、そんなナオミから嫁たちに発せられたことばは、驚くべきものでした。
それは、気分によるものではなく、習慣でもなく、祈りであり、信仰告白であり、そして真実でした。
「主があなたに、恵み、ご好意を下さいますように。」(8節)
「主があなたに、安らぎ、平安を与えてくださいますように。」(9節)
自分はもう、彼らを支えてあげられない。もう何かをしてあげられる力も残っていない。
だからこそナオミは、相手の人生の上に、「神の恵み、神のご好意、神の平安を置く宣言」をしたのです。
ルツ記は、永遠の栄光への希望によって終わりますが、その全ての転換点は、この、主の御名が込められた挨拶でした。 ルツはナオミから決して離れず、神の御名が記されたイスラエルへと入りました。生まれ故郷を離れ、今まで信じてきた神々から離れました。それは人の目には、賢い選択には見えなかったでしょう。
けれども、ルツはどうしてもナオミと彼女の神から離れたくなかったのです。なぜならこの神こそ真実であり、この神に身を寄せて生きる事こそ祝福の道、離れるならこの家族のような災いを受ける、と感じたのです。
事実、彼女たちが信頼した神が、その後、彼女たちをしあわせにしてくださいました。主の御名を信じる信仰が込められた挨拶には、祝福された地へと導く力、祝福された出会いへとつなげる力があるのです。
二人はベツレヘムに帰ります。町中はこの二人のうわさでもちきりになり、名が記されていない女たちはナオミに「まあ。ナオミではありませんか。」と、普通なあいさつ、主の御名の無い「人間言葉」の挨拶をしますが、それはただナオミを苦しめるだけでした。主の御名ぬきの社交辞令は、人をしあわせにする力はありません。ナオミは辛く感じながらも、それに対し「全能者」「主」という言葉をいくつも混ぜて返しました。
主への信仰が混ぜられた言葉の宣言は、永遠の祝福の源である主の御名の交わりへ繋げる力があります。
主の恵みの挨拶をナオミから受けたルツ、主の平安が宣言されたルツは、ある畑へと導かれていきます。
彼女が何の気もなしに、はからずも入った畑は、主の祝福のあいさつが交わされる畑、ボアズの畑でした。
畑の主人ボアズは、労働者に、主の御名のあいさつをします。「主があなたと共におられますように。」
従業員は、主人・ボアズに、祝福のあいさつを返します。「主があなたを祝福してくださいますように。」
主の御名が込められたあいさつは、祝福を呼び込みます。ボアズは、ききんの時代であっても、主の御名が込められたこの挨拶ゆえに、主の力が彼の集団を覆い、着実に力をつけ、有力者へとなっていました。
本日、私達が覚えるべきことは、主の御名を信じる信仰が込められたあいさつは、祝福を呼ぶ力があり、祝福された地へと導く力があり、祝福された交わりへと繋げる力がある、ということです。
私達・神の民は、主イエス様の御名を混ぜて、人に対し、世に対して、祝福を宣言すべきです。
主の御名ぬきの「人間言葉」は、何千・何万語を話すとしても、結局は何の益をもたらしません。
『あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』(コロサイ3:17)
何事においても、主の御名を宣言し、祝福された地・祝福された出会いへと導かれ、この時代の有力者となっていく私達でありますように。主イエス様のお名前によって祝福します!
信仰の息子・娘は脇に抱かれて遠くから来る!(イザヤ60:4)
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週報/メッセージ(説教)概要
今月の御言葉 イザヤ60:4
今月の御言葉は、これです。 「目を上げて、あたりを見渡せ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る。娘たちは脇に抱かれながら。」(イザヤ60:4)
これはかつて、バビロン捕囚で散らされた民に語られた言葉です。国は荒れ、礼拝を捧げる神殿は、焼け落ち、子どもたちはばらばらに、異国へ散って行きました。
現在の日本は、まさにこのような状況です。 「幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。彼らは母親に言い続ける。穀物とぶどう酒はどこにあるのかと。町の広場で負傷した者のように衰え果てたときに、母親の懐で息絶えそうなときに。」(哀歌2:11b-12節) なぜ幼子が、穀物やぶどう酒を求めるのでしょうか。
それらは、礼拝で捧げられる「捧げも」のです。子供たちは実に、霊的に飢えているのです。(アモス8:11)
今の日本の幼子、若者たちは、スマホやタブレットが与えられ、食べるものには事足りています。
しかし、心の奥底で叫んでいます。「本当の意味はどこにあるの?」「真理はどこにあるの?」
この霊的飢え渇きは、日本のみならず、古今東西、世界中の子どもたち・親たちも、覚えている事です。
主にある息子、娘たちが、遠くから抱かれてやって来る。この預言は、かつてのイスラエルで成就しただけでなく、歴史的には、世界中の色々な場所で起きた、古今東西変わらない「主の約束」です。
たとえば中国の話です。毛沢東が1976年に死んだ後、家の教会で若い世代が爆発的に増加しました。
文化大革命の時、教会は閉鎖され、聖書は没収され、牧師は労働改造所へ送られました。 誰もが「教会はもう終わった」と思いましたが、1980年代、河南省では、農村の「家の教会」に若者が押し寄せ始めます。
その地域は教育水準の低い、貧しい農村地域でしたが、文化大革命中も信仰のともしびは完全には消えていなかったのです。祖父母世代たちの何人かが、聖書を隠し持ち、密かに信仰を守っていたのです。
そして、文化大革命が終わった時、その古びた聖書が、再び開かれました。
すると、そのいのちの光に、特に若者たちがどんどん引き寄せられていきました。共産主義イデオロギーでは決して得られなかった、古いけれども斬新な内容。すなわち、神さまが与えて下さった人間の価値や、生きる意味、罪の解決、そして永遠のいのち・・・。 中国だけでなく、世界中の誰もが願っているのです。
真理が知りたい!新しく生まれたい! 中には、自転車で何十キロも通う青年がおりました。労働で泥だらけの靴で、家の集会に入る若者がおりました。こうして、信仰の息子・娘たちが、遠くから帰って来たのでした。 この非公認の「家の教会」のネットワークは、すぐに破竹の勢いで広がっていきます。
そしてなんと、その中心で働いたのは、10代後半から30代前半の若者だったと言われています。
張栄亮(ちょう・えいりょう)や、徐永沢(じょ・えいたく)といった、若い指導者たちが、次々と生まれました。
彼らはそれぞれ、別のネットワークを立ち上げましたが、それぞれの規模は、数百万と言われております。
はじまりの時は、若者は全くいない、ただ、わずかな祖父母世代が、公安に見つからないよう隠れて密かに持っていた聖書と、毎日の切なる祈りが「種」だったのでした。その御言葉と祈りが、若い世代へと蒔かれ、花を咲かせ、実を豊かに実らせ、そうして信仰の息子・娘たちが大勢、帰ってきたのでした。
イエス様は言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。」(マルコ10:14) 子供たちを邪魔してはならない、来させなさい、というのは、命令であり、御心です!
エゼキエルは、幻を見せられます。谷いっぱいの枯れた骨…。主は言われます。「これらの骨は生き返ることができるか?」 エゼキエルは、主から言われた通りに、主の御言葉を宣言しました。すると、骨は音を立ててつながり、息が入り、それは「大軍団(グレート・アーミー)」となりました(エゼキエル書37章)。
今、日本では、約四百年前に、信仰のゆえに殺された多くのキリシタンの骨が、叫んでいます。「この国が、神を信じる新しい世代で満ちるように」と。
私達もビジョンを掲げて祈りましょう。 日本は新しい世代の礼拝者で満ちる!枯れた骨に、神の息が吹き込まれ大軍団となる! 教会からはいのちの水が川々となって流れ出し、多くのいのちが集う所となる!
今月の御言葉、「目を上げて、あたりを見渡せ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る。娘たちは脇に抱かれながら。」 この約束の御言葉は今の日本でも有効な真実です。
この真理を握りしめ、今、次世代を起こす働きをしている皆さまをイエス様のお名前によって祝福します!
「退廃の町の小さなうめきを聞かれる主(ヨシュア記2;1-7)」 主日礼拝 2026年2月22日(Sun)
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- pastor 2026-2-22 14:06
主日礼拝
ききんの時代に養われ、神のご用に用いられる人(1列王記 17:8-16)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日の御言葉 ヨシュア記2:1-7
今日はイエス様の系図に名前が記されている、一人の女性についてお話しします。その名はラハブです。
イエス様が生まれるはるか昔、死海の近くの、岩と砂に囲まれた城塞都市・エリコという町で、彼女は、城壁の中に建て込まれたマンションのような住まいに住んでおりました。 そこに住めた、というだけで、他の人よりは安全な生活が保証されたかもしれませんが、彼女はそこで生活をするために、自分自身を身売りするかのようにしなくてはなりませんでした。自分の時間を差し出し、若さを差し出し生活するしかありません。
現代の私たちも、全く変わりません。安定した所で生活するために、自分自身を売り、時間を売り、能力を売り、若さを売って働いています。それは家族を養うためであったり、周りに置いていかれないためであったり、ともかく自分と、自分の家族を養って生きるために、せざるを得ないのです。
彼女は、小さい頃から聞かされていた神々に、どんなに祈っても、どんなに拝んでも、生活が良い方向に変わるわけではありませんでした。人生が良い健全な方向へと改善するわけでもありません。 何も変わらない時間だけがむなしく過ぎていって、若さと将来だけが削ぎ落とされていくだけでした。
そんな中、彼女はある「噂」を耳にします。 「力ある神」と、その神に導かれている不思議な民族について。 その神は、かつての大国・エジプトを打ち破り、海を真っ二つに分けてその民を救い出し、不思議な方法で荒野で40年も養われた。その素晴らしい教えによって、彼らは守られて、きよく充実した生活ができる。
しかも彼らは最近、近隣の強い王たちを次々と倒しながら、今まさに自分たちの町に向かって来ている…。
ラハブは思いました。この神は、今まで聞いたどの神よりも 本物かもしれない。この神様のもとで生きる民は、なんてしあわせだろうか。この民に加わりたい…。そんな小さなあこがれを持っていましたが、この町の誰にも、自分のあこがれを言うことはできません。また、その民とはコンタクトの取りようもありません。
けれども「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16:9) 神様は、全ての人の内を、知っておられるのです。
ある日の事です。二人の男性が、彼女の所にやって来ました。 彼らは、今まで知っている男たちとは何か違いました。食事を勧めても、偶像に捧げた肉は食べません。この地方で流行りの悪い遊びにも、加わろうとしません。彼らは落ち着きがあって、秩序があります。 彼女は直感します。「この人たちだ!」
その時、扉を激しく叩く音がしました。エリコの王の兵士たちです。
「その男たちを出せ。彼らはこの地を探るために来たのだ!」
彼女はこの瞬間、究極の選択が迫られました。
エリコの側について彼らを差し出し、幾らかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか?
それとも、見たこともない将来と希望のために、まことの神の民に入れる可能性に賭けるか…。
ラハブは、、、まことの神につく!と決断しました!
彼女は命の危険を承知で、彼らを屋上に連れて行って、干した草の中に彼らを隠しました。この決断と行動によって、彼女と家族のいのちは長らえ、しかも、栄光の家系に入るチケットを手にしたのでした!
今日、私達が学ぶべき事は、全能なる神様が生きておられる、という事と、その神様は「あなた」を見ておられ、心の底で「救われたい」と願う人のところに、使いを派遣される、という事です。 そして、まこと神につく!と決断する人を、神様は、イエス・キリストへと連なる栄光の家系へと入れて下さるのです。
かつてエリコの城壁の町の中、ひそかにまことの神様にあこがれ、その民族にあこがれていたラハブに、神様が目を留めて、使いを送られたのと同じように、今、この時代も、コンクリートの壁の中で、自分の時間や能力、若さを身売りをしながら、むなしさの中で過ごしている人々に、目を配っておられます。
そして神様はその人の元へと、使者を遣わし、救いの道を教えてくださるのです。
この退廃的な世界の終わりが近づいている、というのは、誰もがぼんやりと認知しています。そして、その滅びから救われたい、と願っている人は、多いです。 救い主であるイエス様の名前を呼び求める人は皆、救われるのです。そして、救われた私達も、救いの鍵を握って、救いを求めるラハブのもとへと遣わされ、救いを届ける役割が与えられるのです! 御国の使者となって、救われるべき魂の元へと遣わされ、この時代の多くの人々を救っていくものでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
イエス様が十字架にかかり、復活し、天に昇られた後、弟子たちは世界に出て行って福音を伝えました。
しかし、すぐに迫害の時代が始まります。実は初代のキリスト者たちのシンボルは、十字架ではありませんでした。 何だったでしょうか?それが、丸の中に、交差する二つの文字、「Χ(キー)」と「Ρ(ロー)」です。
それはギリシャ語で「キリスト」と書くときの最初の二文字で、この印は「キー・ロー」と呼ばれております。
なぜ十字架ではなく、この印だったのでしょうか? それは、この印が、命がけの信仰告白だったからです。
今から1700年以上前、ローマ帝国の時代。イエス・キリストを信じるということは、捕まり、
殺されることを意味していました。信仰が知られれば、コロシアムに連れて行かれ、
大勢の人の前で見世物にされ、ライオンに食い殺されたり、火で焼かれたり、十字架につけられたりしました。 ですから彼らは、太陽の下で、公に礼拝することができませんでした。
彼らが集まったのは、カタコンベと呼ばれる地下の墓所です。暗く湿っていて、死者が葬られている場所。
なぜ、そこが礼拝の場所だったと分かるのでしょうか。それは、カタコンベの遺跡から、たくさんのこの印が発掘されているからです。 2世紀の私達の信仰の先祖たちは、この印によって、密かに「私はキリストのものです」と、互いに告白しました。 そしてその印の下で、小さな声で祈り、小さな声で賛美しました。
そこでは、いつも悲しい知らせがあります。 「仲間が捕まった」「家族が連れて行かれた」
そのたびに彼らは祈ります。「どうか、助けてください」「もし助からなくても、どうか、平安を与えてください」
すると、不思議なことが起こりました。コロシアムで殺されていく人々は、恐怖ではなく、平安に満ちていたのです。まるでこれから天国に行くかのように。まるで、目の前にイエス様がおられるかのように。。。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
歴史は語っています。その様子を見たローマ皇帝たちは、ますます恐れ、迫害をさらに激しくしました。
しかし同時に、それを見て、かえってイエス・キリストを信じる人々も起こされていったのです。
闇は、光を、消そうとしました。でも、決してキリストという光を、消せませんでした!
一世代、また一世代。長い長い年月が過ぎて行き、祈りは、地の底から、天へと積み上げられていきます。
そして、ついに、神様が動かれる時が来ました。
西暦312年。ローマ北方、ミルウィウス橋の戦いです。将軍コンスタンティヌスは、圧倒的に不利な状況でした。自軍は約4万、敵は約10万です。 そんな戦いの直前、彼は、空に輝く光を見ました。その光はなんと、この、キー・ローの印でした。そして、こう示されたのです。「この印によって勝て!」 それで彼は兵士たちに命じます。「兵士たちよ、自分の盾に、この印を刻め!」
それまで、地下の暗闇の中、ずっと信仰者たちが隠れて信仰を表明続けていたあの印が、なんと、太陽の下、無数の兵士たちの盾に刻まれ、掲げられたのです!
戦いの結果は、歴史が伝えています。数で勝っていた敵は混乱し、皇帝は川に落ちて命を落としました。この勝利の翌年、313年。 コンスタンティヌスは、「ミラノ勅令」を出します。すなわち、キリスト教を禁じていた法律は取り消され、信仰は公に認められたのでした!
地下のカタコンベの暗闇から、地上の光の中へ。聖書のことばが、歴史の中で現実となったのです。
「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった!」 こうして、地上に出た信仰の先祖たちは、ようやく、誰にもはばかることなく、喜び勇んで大声で賛美し、大声で祈ることができるようになったのでした。
私たちの人生にも、暗闇のような時があります。迫害の時もあります。でも、忘れないでください。
光であられるイエス様は今も生きておられ、闇は決して長くは続かず、必ず光が勝利する、という事を
この主に信頼し続け、必ず与えられる勝利を、すぐにでも実際に体験する皆さまでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!
この世界は、神のことばによって創造されました。神のことばであられるイエス・キリストは、世界を創造するほど力あるお方であり、あなたの人生を「再創造」することがおできになるお方です。
天地を創られ、宇宙を創られ、「光があれ」ということばで光を創られたお方は、あなたの人生を、光に満ちた人生へと創りなおすことができるのです。今日は、人生が再創造された人の事例を見たいと思います。
昔、イスラエルのエリコという町に、バルテマイと呼ばれる人がいました。バルテマイは彼の名前ではなく、「テマイの子」 という意味です。というのは、彼は生まれつき目が見えず、父テマイは、彼は名前を与えるにも値しない、と、名前を与えなかったからです。 成長した彼は、物乞いとして生きるしかありませんでした。
毎朝大通りに行って座り、人々から何かを恵んでもらうしかありません。多くの人が彼を見下ろして通り過ぎて行きます。馬車やらくだは、パレスチナの乾いた土を巻き上げ、時には、ふんを落として行ったでしょう。 彼自身、思ったでしょう。 自分はなぜ目が見えずに生まれついたのか…。なぜ自分は、ただ恵んでもらうだけで、恵む側にはなれないのだろう…。でも彼は自分の人生が変わるとは思えず、あきらめていました。
――ある日、彼は、ひとつの噂を耳にします。
それは、どんな人をも癒し、救うことができる、ダビデの子として来られる救い主・イエス・キリストの噂でした。彼はその噂を聞いた時、「このお方なら、癒してもらえるかもしれない」「彼に会えたなら、人生が変わるかもしれない」と思いました。 しかし、どうすればイエス様に会えるのか分かりませんでした。 そうして来る日も来る日も、大通りに行っては恵んでもらう、という変わらない日々が、厳然とただ繰り返されていました。
ある日のことです。町の空気がいつもと違うことに気づきました。――何か、喜ばしいような。何か、興奮しているような。。。 彼は、通りの人に尋ねます。すると答えが返ってきました。「ナザレのイエスがもうすぐここをお通りになる!」 その言葉を聞くやいなや、バルテマイはすぐに立ち上がって、大声で叫びました。
「ダビデの子イエスよ、どうか、私をあわれんでください!」
人々は驚き、彼を叱りつけました。「うるさい!黙れ!」「静かにしろ!」 しかし彼は、もっと大きな声で叫び続けます。 「イエスさま!私のところに来てください!」 「どうか、私をあわれんでください!」
イエス様は、彼の叫び声を聞いて、立ち止まりました。そして言われます。「あの人を呼んで来なさい」
すると黙らせようとしていた人々は、言うしかありません。「安心して立ちなさい。あなたを呼んでおられる。」
バルテマイはそれを聞くと、自分の上着――物乞いとしての着物――を投げ捨てて、
イエス様がおられると思われる方へ、手探りで一歩一歩進んで行きました。
何歩目を進んだ時でしょうか。彼は、イエス様のことばを聞きます。 「わたしに何をしてほしいのか?」
イエス様はすべてをご存じでした。目が見えないことも、名も与えられなかった人生も。長い日々の苦しみ・悩みも。それでもイエス様は、彼自身の口で語らせ、ことばでの個人的な交わりを求めておられるのです。
バルテマイは答えました。「わたしの偉大な先生、目が見えるようになることです。」
すると、イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った。」
その瞬間―― 彼の闇は、上と下に真っ二つに裂けて、人生初めての光が彼に差し込みました。
彼は、自分を救ってくださったお方が見えるようになり、天と地が見え、涙が地に落ちるのが見えました。
イエス様は、目を癒しただけではありませんでした。聖書はこう続けます。「すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」と。彼はもう、元の物乞いには戻らず、その上着は着ませんでした。
彼は単に、「目が見える普通の人」として生きるのではなく、「主に従う者」として生きる道を進んだのです。
彼は、人から恵みをいただいていた人生から、多くの人々にイエス様の恵みを証しする者へと変えられ、名前すら与えられていなかった彼を、イエス様は、永遠の書物に書き記される者へと再創造されたのです。
私達も、イエス様にあって、バルテマイのようになれます!イエス様は今も生きて働かれる神の御子です。
イエス様が、通り過ぎようとしておられる時、彼を叫び求めてください。彼は立ち止まり、尋ねられます。
「あなたは、わたしに、何をしてほしいのですか?」 この問いに、私達は、何と答えるでしょうか?
どんなに「自分は変わらない」と思えたとしても、また、闇の中で座り込んでみじめに思っていたとしても、世界を創造し、光を創られた「おことば」なるお方イエス様は、今、あなたの人生を創りなおすのです!
1:1 さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
1:2 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。
1:3 するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。
1:4 二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。
1:5 するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。
・・・
1:8 ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、【主】があなたたちに恵みを施してくださいますように。
1:9 また、【主】が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。
・・・
1:15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」
1:16 ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
1:17 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」
1:18 ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。
・・・
2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。
・・・
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。
2:9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」
2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」
2:11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。
2:12 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
・・・
2:15 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない。
2:16 それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」
2:17 こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。
1月の御言葉 イザヤ43:19
「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:19)
今年最初のニューイヤーズ・イブ礼拝で、新年が明けた時のメッセージで示された御言葉は、アブラムに対する主の言葉、「恐れるな、(アブラム)よ。わたしは(あなた)の盾であり、(あなた)への、はなはだ大いなる報酬である。」(創世記15:1 逐語訳)でした。 主を自分の盾とし、主を自分の相続とし、報酬とする人が受ける報いは、非常に大きい! その報いの第一弾は、「主は全く新しくしてくださる」、です。
今月の御言葉、イザヤ43:19をより詳細に訳すと、以下のようになります。
「見よ。わたしは(今まさに)行っている。(これまでになかった全く)新しいことを。
今、芽生えているではないか。あなたはそれを知ろうとして行かないのか?
わたしは置く。荒れ地に道筋を、また乾いた地に川々を。」
すなわち、神ご自身が、今まさに行動を起こして新しいことが芽生えておられ(進行形)、しかも神は、
「あなたはそれを知ろうとしていないのか?」と、問いかけておられます。すなわち私達に、受け身で観察をするのではなく、信仰による洞察と応答を自分から積極的にしなさい、と、促すニュアンスになっています。
主は、主がなさろうとしている新しい事を積極的に知って行こうという姿勢を私達に求めておられるのです。
最近、1189テフィリンでは、伝道者の書を暗唱していますが、ソロモンはそこで真逆な事を言っています。
すべてのことは物憂く、日の下に新しいものは一つもない。これは新しい、と言われるものがあっても、それははるか先の時代に既にあったもので、それはもう記憶には無く、これから起こることも後の時代の人々の記憶には残らない。。。全てはむなしい、と。 私達はソロモンの言葉に同意するでしょうか?それとも??
忘れてはならない事は、これは、神様から段々離れて行ったソロモンが晩年に書いたもので、つまり、神から離れた人間が叡智を極めた結果、最終的に行き着く思想が、この伝道者の書である、という事です。
神様を「抜き」にして、世の知恵、世の富、世の楽しみを味わい尽くす者の行き着く先が、伝道者の書の思考ですが、それに対し、「主こそわたしの報酬」としている人に、主が準備しておられる報いは絶大です。
主に望みを置く人の行き着く先は、黙示録21-22章に記された永遠のいのちの喜びと、新しい希望です。
主は、言っておられます。これまでになかった全く新しいことを、今、まさに構築中だ、と。今、それが芽生えているではないか、と。外の桜は、今は枯れ枝のように見えますが、見た目はそうでも、その中では芽生えの準備を着々と進めています。 それと同じで、たとえ今、主がなさろうとしておられる事が見えず、枯れているかのように見えても、主は着々と、見た事の無いようなものを準備しておられ、それはある時、華やかに開花します。主は「あなたはそれを知ろうとして行かないのか?」と、私達の積極性を求めておられます。
主は言われます。「わたしは置く。荒れ地に道筋を。乾いた地に川々を。」と。 荒れ地は道なき所ですが、主は、そこに「道(デレク:道筋、方法、通り道)を設けてくださいます。どんなにめちゃくちゃで、道筋も方法も見いだせないところでも、私達の報酬であられる主は、そこに道筋を、方法を、通り道を置かれます。
また、乾いて生命なき所に、豊かさや命の象徴である川々(複数形)を置いてくださいます。
続く20節では「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」と書いてあります。たとえジャッカルのように荒々しく、弱いものを集団で食い物にするような者でも、あるいはだちょうのように、知恵も愛情も無い者であっても、主を知り、主をあがめるようになる、と書いてあります。 これこそ、主に望みを置く者の受ける報いであり、それは今までに一切なかった、全く新しいつくりかえが、主によって為されるからです。
しかし、世のものや、過ぎてしまった過去など、神ではないもの、すなわち、すたれるべきものに見入って、目を留め続けているなら、新しいものが来ても気づかないものです。ソロモンのように、神を除外した自分だけを見つめ続けていると、堂々巡りから脱出できません。 しかし、主を自分の「報い」とした人は、主が用意してくださる新しい命、新しい歩みの中を進むことができます。主を自分自身の「報い」として定め、今まで見たことも聞いたこともないような、全く新しい報酬を得ていく今年の皆さまでありますように!
主日礼拝
熱いスピリットを起こす秘訣(マタイ5:3-6)
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