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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

期待し望む者に与えられる聖霊(ヨハネ 14:11-21)

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週報/メッセージ(説教)概要 

 本日はペンテコステ(聖霊降誕日)。主が弟子達に約束しておられた通り、聖霊が与えられ、その日を境に、彼らはイエスを大胆に証する強力な働き人へと変えられた。今の日本ほど、聖霊によるしるしや奇跡が必要な時代はない。世の人々は、教会が世に媚びて発信する知識や哲学めいた事、エンターテインメントなどでは、釣られない。そうしたものは幾らでも世にあって、そちらのほうが魅力的だからだ。しかしもし、有り得ないような奇跡や癒し、しるしが起きるなら、彼らは、そのわざによって信じるようになる。(ヨハネ14:11)
 奇跡やしるしが起きる理由は、それによって人々が驚き怪しみ(5:20)、神が栄光を受け、また神の子が栄光を受けるためであり(11:4)、神を知らなかった人が知るようになり、信じようとしない人が信じて救われるためである。私達は、この聖霊の働きが実際に起こる!と、どれほど具体的に信じ、期待しているだろう。
 聖霊充満にあずかれる人とは、主から言われた事を思い巡らし、そうなる、と期待し続ける人である。
復活の主が昇天される時、500人以上の人々が集まっていたが、五旬節の日に聖霊充満を体験したのは、たった120人だった。残りの380人は、期待し続けられず、去ってしまったのだ。具体的に期待し、望み続ける事こそ、聖霊を受ける条件である。では、私達がその「期待」の度合いを高めるには、どうしたらいいか。
 
 当時、弟子達は共に集い、共に賛美(テヒラー)し、祈り(テフィラー)に専念していた。当時ユダヤ人の賛美は、詩篇にメロディをつけて歌うというもので、当時の祈りは、聖書の言葉をそのまま暗唱する事だった。
 それを反復するのが、我々がしている「テフィリン」である。主の言葉をじっくり思い巡らし、宣言し続けていくと、矢のように飛んで来る言葉や、感動する言葉、心について離れない言葉が現れる。それをさらに思い巡らし続けて行くと、どんどん清められ、内側に聖なる領域がどんどん広まり、また、罪や肉欲の領域がどんどん縮小されて行く。そうしてどんどん、主のわざを為すのに適した器となって行く。そして、ついに主のタイミングが来た時、聖霊が爆発的に働き、もの事、人、状況に対して、圧倒的な主の御業が遂行される。
 だから私達も、弟子達がしたように、主の言葉を喜びつつ期待するのだ。聖霊が来るなら、主がしていたわざが自分達にもできる、今までイエス様に関心が無かったあの人が、俄然聞くようになる、今まで山のように動かなかった状況が動き、癒されなかった病が癒され、出ていかなかった悪いくせが出ていく、と。
 
 異邦人が集団で聖霊充満するきっかけを作った、百人隊長のコルネリオは、元々、ユダヤ人の信仰を見て、自分もそうなりたいと「期待」し、ユダヤ人のように祈り(御言葉を黙想し)、断食し、施しをしていた。
 彼がペテロを招いた時、家族や多くの友人達も、そこに招き寄せていた(使徒10章)。カイザリヤという娯楽や誘惑が多い町で、ローマの百人隊長が、被支配国の一般人から宗教的な指導をいただく集会…。
人数を集めるのはとても難しそうだが、彼はどうして多くのローマ人を集められたのか。それは、彼はいつも「期待」していた故だ。それで、彼の祈りや施しにはいつも祝福がついて回り、彼がいつも良い方向へ変わっているのを、家族や友人達が見て、彼が信じる神は本当にいるかもしれない、と思われていたのだろう。
 果たして私達は、御言葉に期待して良い方向に変わった姿を、家族や友人から評価されているだろうか。
もし自分が変わらないまま、福音を伝えたり、教えても、聞きはしないだろうし、集会に来てもらえないだろう。
だからまず、御言葉に期待し自分が変わる必要がある。祈りや賛美を「ルーチンワーク」にしてはならない。
祈りと賛美に真心を込め、主のうめきを共に感じ、切に祈るのだ。イエス様、この事は一体どうしたらいいですか?このままではわたしは潰れてしまいます。このままではあの人は滅んでしまいます。このままでは国に将来はありません。ああ主よ!と。偉大な王・ダビデがいつもそのようだった事は、詩篇を読めば分かる。
ルーチンワーク的な礼拝を、主は嫌う。ルーチンワーク化されたパリサイ人の礼拝より、胸を叩いて涙を流した取税人の礼拝のほうを、主は選ばれた。主はうめき、痛み、喜びの余韻を持っている人を求める。
 だから、いつも「神の国の余韻」を持っているべきだ。この余韻を習慣的に持っているなら、町を歩いていて、全く知らない人をぱっと見ても、なんであの人はあんな事するんだろう、主よ!といううめきが出てくる。
 普段からのうめきが無いなら、たとえ御言葉を宣言しても、あるいはその人を前に祈っても、上っ面の祈りしか出てこない。いつも人に対し、時代に国に対し、イエス様、なんとかしてください、とうめきを持つべきだ。
 今、私達は期待しつつ、聖霊を求めるべきである。助け主が来るなら、主のわざを行う事ができる。物事が変わっていく。それをありありと望み、実際に得て、多くの人をイエス様へと導く皆さんでありますように!
 

主日礼拝

力を着せられるまで、都にとどまっていなさい(ルカ24:49-53)

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週報/メッセージ(説教)概要

 次週は聖霊降誕日である。聖霊が来ると主の力強い証人となり、罪について、義について、さばきについて、世にその過ちを認めさせるようになる。また、人や物事に対する識別力が与えられ、言葉や人間関係でつまづいたり、失敗したりしなくなっていく。五旬節をもうじき迎える今、私達はいかに備えたら良いか。
 
 『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなた方に贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなた方は「都(ポリス:城壁がある大きな町)」に留まっていなさい。』(ルカ24:49) 主は、「力を着せられるまで留まりなさい」と言われた。だからそれまで、勝手にあれこれするべきではない。しかし聖霊が与えられる時、内から込み上がってくる聖なる衝動に突き動かされ、聖なる行いをし、聖霊が語らせてくださるままを語る。
聖霊が働く時、失敗は無いが、聖霊抜きに、自分で編み出した力で神の国を立てあげようとすると、必ず失敗する。サラは、約束の子が与えられるのを待ちきれず、ハガルを通して苦い根を残し(創世記16章)、サウルは、サムエルが来るのを待ち切れず儀式を行い、王国が立つ事を逃してしまった(1サムエル13章)。
 
 初代教会の聖徒達は、力を着せられるまで待ったが、その間、エルサレムに留まって何をしていたか。
彼らは、非常な喜びをいただき、いつも神を褒め称え(テヒラーתהלה)て(49-53節)、また共に心を合わせて祈り(テフィラーתפלה)に専念していた(使徒1:13)。これは聖霊を待ち望む私達もするべき事である。
 私達も、聖徒の交わりという城壁の町の中に留まり、共に賛美し、祈り続けるのだ。祈り(テフィラー)は本来、主の御言葉を暗唱する事で、それを反復すると「テフィリンתפלין」となる。そうして御言葉を思い巡らし続けていると、やがて、非常な喜びが沸き起こり、それにメロディがついて賛美(テヒラー)となる。
 マリヤのように、主の言葉を繰り返し思い巡らしていると、矢のように飛んで来て刺さるような言葉が現れ、また、感動し涙する言葉、心から離れない言葉が現れ、大いにアーメンし、賛美したくなる。この人知を超えた経験をするのは、神の言葉は霊であり、生きており、その霊が、私達の霊と共鳴するからだ。
 こうして賛美、祈り、テフィリンを繰り返して行くと、その感動と喜びが、確信となり、アーメンとなり、それが貯まりに溜まってデュナミス(力)となり、それが見える世界で実体化し、力強く神をあかしするようになる。
 だから、御言葉を昼も夜も口ずさめば口ずさむほど、その言葉の高さ、広さ、深さを理解し、知恵と啓示の霊で満ち溢れる。そして、目の前にある人が来た時、または何かの事象が起きた時、それまで思い巡らして来た、エネルギーを帯びた言葉に、主がエンジンをかけて下さり、主のタイミングにより溜まっていた聖なるエネルギーがほとばしり出て、目の前の人、モノ、状況に対して、主の御業が”ばんっ”と遂行される。
 
 言葉には、3種類ある。思いの中の言葉と、態度という言葉と、口から出て人に聞かせる言葉であるが、思いの中の言葉が、一番大事である。人は、言葉を蓄えた器のようで、その器の中に蓄えて来た言葉を源とした言葉が、思いの中に、電光掲示板のごとく流れ、そうして思い巡らしている言葉が顔の筋肉を動かし、表情に現れ、または態度に現れ、それが定着して、顔立ちや言動パターンが、そして人生が出来上がる。
悪い言葉を蓄えて思い巡らしているなら、人相が悪くなり、健全な言葉を蓄えているなら、顔立ちが良くなる。せっかくエステに通っていても、もし内に蓄えている言葉が悪いなら、人相の悪さは治りようが無い。
 良くない言葉を内に溜めていると、良くない事を引き寄せ、嫌な思いをするので、内なる言葉を入れ替える必要がある。良くない言葉は、健全で積極的な「主の言葉」によって打ち消す以外には無い。
 もし主の言葉を思い巡らし、豊かに蓄え、その健全な言葉を豊かに自分に染み込ませているなら、その人の平安と健全さは、決して状況や気分によって左右されないし、一発屋的に終わるのでもない。
御言葉を思い巡らし、反復して宣言し、霊に染み込んだ御言葉には、腹の奥底からの確信があるからだ。
 
 今、コロナの危険がある現代、私達は悪者のはかりごとに歩んだり、罪人の道に立ったり、あざける者の座に着いてはならない。主の守りの保証から外れてはならない。むしろ聖徒の交わりの城壁の内にこもり、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむべきだ。そうすれば、時が来れば実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄える保証が得られる(詩篇1篇)。この時代、留まるべき御言葉に留まり、やがて聖霊の力が着せられ、大いに主の働きをする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

「変異型ソロモン」が書いた書の読み解き方(伝道者の書9:9-16)

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週報/メッセージ(説教)概要

 伝道者の書は、世界で最も知恵に恵まれたソロモンが書いた書だが、彼が行きついた境地は「全てがむなしい」だった。ソロモンは、若い時、素晴らしい信仰を保っていたため、神は彼を祝福したが、富と名声が増し加わるにつれ、彼は多くの妻を囲い、異邦の女達にたぶらかされ、偶像の宮を建てるようになり、主から二度も戒めを受けたのに聞かなかった。それで彼の後半人生は、ただ「むなしさ」で満ちるようになった。
 その堕落後のソロモンが書いた伝道者の書は、主を知らない人達には、非常に共感できる書である。
イエス様抜きで知恵を積み上げた人間が行き着く、究極の境地は、「全ては空」であり、これが、世の宗教・哲学の究極思想である。それとは違って、イエス様を信じ、御言葉に従って歩み続け、天国行きが約束されている私達・信仰者は、どう「虚しさ」を打ち破るか。この伝道者の書から、逆説的に恵みを頂きたい。
 
 『全てあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。』(9:10) ソロモンは他人も陰府に行く事前提で書いているが、私達はここにアーメンしてはならない。私達信仰者が行く先は「陰府」ではなく、パラダイスだから。確かに聖書は、伝道者の書も含め、全て真理である。しかし、御言葉を正しく守り行っている信仰者には呪いの言葉は当てはまらないように、御言葉の全てが、私達に当てはまる訳ではない。もし、聖書で伝道者の書が一番共感できる、という人がいるなら、その人は陰府に行く事を前提に生きており、天国が実感できない人だ。その人はむしろ、イエス様が示された十字架の愛と贖い、福音の恵みにこそ心を向け、それを感謝して受け入れるべきである。
 私達は、正しく歩んでいた時の「信仰者ソロモン」が書いた箴言と、神から離れた「変異型ソロモン」が書いた伝道者の書とで、対応の仕方を変える必要がある。だから10節は、次のように読み替えたほうが良い。
 「全て、あなたの手のなしうる事は、イエス様の知恵と力でしなさい。あなたが行く天国は、死も、涙も、夜も、呪われるべきものは何一つなく、ただ、神の栄光と感謝と賛美で満ちた永遠の住まいだからである。」
 私達はイエス様にあって、いかなる立場であるか、聖書の他の箇所に即して、自分に当てはめるべきだ。
  11節では、強い者が必ずしも勝つ訳ではなく賢い人が必ず得るというのでもない事を論じているが、ソロモンはそれは「時と機会」、つまり「偶然」による、とした。彼の思考からは、一切、神が抜けてしまっている。
 『人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。』(12節) 神を認めたくない人は、全ての事象を偶然の産物にする。生きものの存在も、自分の存在さえも。彼らは、自分の力を根拠に生きるため、自分が構築した基盤がいつ「偶然に」壊れるか分からず、いつも漠然とした不安を抱えている。しかし聖書は言う。全能なる神、愛なる神は、人を愛し、いつも最善の時に最善のものを与えようと、量っておられる。
  さらに13節以降に、ソロモンが心に留めた出来事を書いている。ある小さい町に、大王が攻めて来て、町が今にも滅ぼされそうな時、一人の貧しい人が知恵を用いて町を救った。しかし誰一人、その貧しい人を記憶する人がなかった。何と報われない事だろう、人が望むもの(お金、才能、美貌など)が乏しい人は、知恵を持っていても無駄なのだ、と。人は結局、豊かか貧しいかによって全て決まってしまうのだろうか?
私達は、「変異型ソロモン」の言葉を、そのまま自分に適用してはならず、イエス様にあって、他の御言葉を自分に適用しなくてはならない。ソロモンは、貧しい人は報われないかのように言ったが、イエス様は、金持ち達が捧げた大金には目を留めず、一人の貧しいやもめが捧げた2レプタに目を留められた。主は全ての人をご覧になり、彼女が全てを捧げるほど主を愛し、主に信頼していた事をご存知だった。
 ソロモンは、知恵があっても、貧しい人がした事は、誰も心に留めてくれない、と判定したが、主は敢えて、誰も心に留めてくれない貧しい道を歩まれた(イザヤ53章)。『主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。』(2コリント8:9)
 人々に称賛されたり、お金持ちになって美味しいものや異性で楽しむ事が全てだという「変異型ソロモン」タイプの人には、決して理解できないが、イエス様は神であられる立ち位置を捨て、貧しくなられ、実に、十字架の身代わりの死を通して、私達を買い戻し、罪と死から解放して下さった。これは偉大な事であって、決して虚しい事ではない。私達は忘れてはならない。たとえどんなに貧しく、世の最高知恵者が「むなしい」「報われない」と評価した所で、全ての人に知恵と権威を授けられるお方・イエス様の十字架の贖いによって、私達は神の子とされ、将来も全ての必要も保証され、そして永遠の天国が保証されているのだ!
 

 

主日礼拝
レムエルの母より、王たるわが子へのメッセージ(箴言31:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 

 本日の箇所には、マサの王の母が、息子レムエルへ贈った言葉が記されている。母は子が正しい道を歩んで欲しいと願い、色々な言葉を残すが、特にここでは、子が「王」として正しく歩むためにどうすべきか、格別な愛情と共にアドバイスをしている。私達もキリストにあって「王なる祭司」とされている。(1ペテロ2:9)
 私たちはどのようにして、王として正しく与えられている場を支配し、治め、また祭司として正しく務めをなし、人々を執り成す事ができるだろう。母の日である今日、レムエルの母からアドバイスを頂きたい。
 
 『わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。私が願をかけて得た子よ、何をいおうか』(2節) 
この言葉に、論理的な意味は見いだせないかもしれないが、彼女が主に願をかけて生んだ子・レムエルへの深い愛情と、うめきに溢れている。願いに願って与えられた子よ、王たるあなたが、道を踏み外さぬよう、また、王として正しく治める者となるように、何を言おうか・・・。その、考え抜いて出た言葉が、3節である。
 『与えるな(置くな)、あなたの力(、富、権力)を、女達に。あなたの道を、王たちを摩耗・消滅させる者へ(与えるな)』(3節直訳) 女性は、男性にとって魅力的で、夢中にさせる存在だが、ここの「女」は複数形なので、5章でも示されている通り、神を知らない「異邦の女達」の事だろう。妻に対してはむしろ、「若い時の妻と喜び楽しめ、いつも彼女の愛に夢中になれ」と書いてある。しかし妻といえど、神の言葉より優先してはならない。神の言葉より妻の言葉を優先させた結果、アダムとエバはエデンから追い出されてしまった。
 だから男性に限らず、女性も、夢中になりそうな異性や、溺愛しそうな相手には、気をつけるべきである。
本来、自分が保護者として養い守るべき相手に、力や富や権力をあずけ切って生殺与奪の権を与えてしまうと、神の国の秩序が脅かされてしまう。私達は、主従関係をはっきりさせ、御言葉を第一優先すべきだ。
 
 4-7節はさらに、夢中にさせるものに対する警告が記されている。『レムエルよ、酒を飲むのは、王のする事ではない、王のする事ではない、濃い酒(シェカール)を求めるのは君たる者のする事ではない。』(4節)
 シェカールは元々、うきうきさせるもの、夢中にさせ中毒性をもたらすのの意味である。今、私たちは、神の国とは関係が無い、そして、自分の意思で止める事が難しい、夢中にさせる何かがあるだろうか。レムエルの母は言う。その「シェカール」を求めるのは、王たる者のする事ではない、と。
 5節では、王は勅令を定め(ハカク:文字を彫り込む事)、悩む人を正しくさばくいて幸せへと導くべきものである事が書いてあるが、酒は勅令を忘れさせ、さばきを曲げてしまう。私たちは日々、御言葉を宣言して心に刻み、学ぶべきことを脳に彫り込み、正しくさばくべきである。そういった本来しなくてはならない事から離れさせたり、取り組まなければならない勉強や仕事を、かったるく思わせたりするものが、酒である。
 レムエルの母は、繰り返す。 酒を飲むのは、王のすることではない、王のすることではない、と。
 祭司も、シェカールの類を取るべきではない。レビ記10章には、大祭司の息子達が至聖所にむやみに入って焼き殺された事件があり、そのすぐ直後、祭司たるものは務めに入る時、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない、という命令が定められた。酒に酔ったまま、聖なる所に入るなど、もっての他なのだ。
 私たちは、ぼんやりさせ現実を忘れさせるものに、かかずりあってはならない。すべき事は、王なる祭司として、御言葉の勅令を定め、御言葉によって正しく物事をさばき、迷える人々に道を開かせていく事である。
 
 『あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。』(8-9節) 王たるものは、苦しんでいる人々のために積極的に口を開き、悪がはびこらないよう、正しくさばくべきであると命じている。その、正しいさばきが出来るための知恵は、御言葉に養われる事によって、である。
 母はいつも思う。子には良いものをあげたい、と。しかし、子が求めるものは何でも無条件に与えるものではない。おりにかなった御言葉を与え、時宜にかなったものをあげることによって、子は、正しく育っていく。
 レムエルの母は、おりにかなった正しいことばで息子を養った。そして偉大な王になっていくために必要なものが、御言葉である。御言葉によって養われ、また御言葉によって子を正しく育て上げ、立派な王として成長して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

世と時代に対し城壁を築く(ネヘミヤ2:17-20)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 ネヘミヤはバビロン捕囚後、長い間がれきの山だったエルサレム城壁をたった52日で再建し、また人々に、主は何を喜び、何を嫌われるかを教えて霊的な城壁も再建した。今、世はまさに「城壁再建」が必要だ。
今、コロナゆえにマスクや外出自粛という「城壁」は張っていても、肝心の「霊的城壁」をおろそかにし、世の有害な情報や享楽が入り放題、しかし将来の不安や心配には、何の対策もできないでいる人々も多い。
 神の民イスラエルがあの時代、勝てなかったのは、世に流れる退廃的情報にあけっぴろげで、何の城壁も張らなかったからだ。今回ネヘミヤ記から正しく城壁を張って自分達を守り、世に勝利する術を学びたい。
 
 主の民がバビロン捕囚から帰還した当時、エルサレム城壁の再建は、誰もやらなかった。誰かがやってくれるだろう、と思って誰もやらず、少しやる気を起こしてみても、やる気をくじく敵が来て、再建させなかった。
それで敵から良いようにふんだくられ、そしりを受け続けていた。ネヘミヤはその現状を聞くと、泣いて断食して祈り、王に懇願し、再建を願い求めると、王は快諾し、彼を遣わした。ネヘミヤの名の意味は「主の慰め」。すなわち、助け主であり慰め主である聖霊と同じである。聖霊は、私達のために深くうめき、執り成す。
 城壁が崩れ、境界線がはっきりしていないと、誰をどこまで受け入れて良いか分からず、大切な財産や時間、エネルギーを奪われ続けたり、そしりを受け続けたりしてしまう。聖霊は教えてくれる。何が罪で、何が義で、何がさばきを招くものか。また何をすべきで何を止めるべきか、どこまで良くて、どこから悪いかを。
 ネヘミヤは到着すると、早速、破壊されている所をくまなく探りまわった(2:9-16)。聖霊も同じように、私達の内側をくまなく探り、傷ついた道のあるかないかを調べ、掃き清めながら、失われている価値を探す。
もし、その人が悔い改めて、価値あるものとなったなら、主は御使いと共に大いに喜ばれる。(ルカ15:8-10)
 ネヘミヤは、『さあ、我々は再び世のはずかしめをうける事のないように、エルサレムの城壁を築こう』と言った(17節)。人々はネヘミヤの言葉で、希望を持つ事ができた。なぜならネヘミヤは、再建については王のお墨付きをいただいており、また、神の御手が彼に恵みを下さった事を、皆に知らせたからだ(18節)。
 私達の人生が再建される事は、私達の王の王、主イエス様のお墨付きであり、主の御手の恵みをいただいている。主は言われた。もし御言葉があなた方の中にとどまるなら、何でもほしいものを求めなさい、と。
 人々は、ネヘミヤの言葉に希望をもって、再建に取り組んで行くが、それを面白がらない人が出てくる。
 
 『ところがホロニ人サンバラテ、アンモン人奴隷トビヤおよびアラビヤ人ガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
 なぜ彼らは、再建されて良くなる事を邪魔するのか。それは彼らは今まで、城壁が無かったからこそ自由に出入りし、搾取し、こきつかって、うまい汁を吸っていたからだ。だから彼らは、再建のわざを「王に対する反逆」と、あたかも後ろめたい事、悪い事かのような気をさせるのだ。彼らはさらに、再建をしている人を巧妙に仲違いさせ、悪く印象づけ、もうだめだ、いくら努力しても報われない、と、再建をあきらめさせる。
それは、悪魔サタンの策略である。しかし私達は、主が見捨てていないなら、自分や相手に失望したり、諦めたりしてはならない。諦めさせようとする悪魔の策略に対しては、ネヘミヤのように宣言すべきである。
 『わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。』(20節)
 そう、私達は神の民であり、神が私達を成功させて下さるのであり、それだから、神の僕である私達は、再建にとりかかっているのだ。私達の貴重な人生、貴重な時間、貴重なエネルギーを盗んで再建を妨げている者達に対しては、お前たちは何のわけまえも、権利も、記念も無い!と、宣言するのだ。
 今まで、悪い者に、良いように言われ、信じ込まされ、奪われ続けて来たとしても、聖霊が来るなら、聖霊が私達に言うべき言葉を備え、力と勇気と大胆さを備えて下さる。そして、思い出させてくださる。イエス・キリストはどなたであり、何を語られたのかを。私達は、イエス様に救われ、聖霊の息を吹きかけられ、神の子とされ、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされ、地の塩、世の光として召し出された事を。
 世の声は、混沌や絶望を仕掛け、奴隷生活を仕掛けてくる。その者達には、「天の神が私達を成功させて下さる!その神のしもべである私達は、再建にとりかかっているのだ!」と宣言し、城壁をしっかり築き上げ、この時代を治めていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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正しいひきこもり生活の過ごし方(ガラテヤ5:13-26)

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週報/メッセージ(説教)概要

 

 現在、コロナウイルスのために、今まで普通にしていた事業や学校生活が出来ず、先が見えない状況だ。
そんな中にあっても私達キリスト者には、主イエス・キリストと御言葉にあって希望がある。私達はこの時期、与えられた時間をどのように有効活用して、時代の有力者へ飛躍して行けるか、ガラテヤ書から学びたい。
 
 パウロは言う。与えられた自由は肉の働く機会とせず、愛をもって互に仕え合いなさいと。(ガラテヤ5:13)
愛をもって仕え合う相手は、まず、家の中の目の前にいる夫や妻、子供、親である。『律法の全体は「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(14節) 彼らが健やかになるよう仕え、時に戒め、共にいのちの喜びを増し加えて行くのだ。もし互いにかみ合ったり食い合ったりしているなら、互いに滅ぼされてしまう(15節)。もし家族が噛み合う相手なら、この時勢どれほど辛いだろう。
 さらにパウロは言う。『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』(16節) 生まれつきの人間は「肉(サルクス)」の存在である。「肉」とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行うもので、そこには、罪の棘が刺さっており、罪に傾く性質がある。
 このようなご時勢、世の中では、持て余した時間を、映画や動画、漫画やゲームなどに投じる人が多い。
それらはインターネットから、幾らでも観たり遊んだり出来るが、それらは御霊ではなく肉を刺激するものが多い。事実、人気と言われる番組やゲームは、19-21節に記されている性質を「売り」にしている事が多い。
『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの』(19-21節) 人には罪のとげが刺さっているため、どうしても不品行や好色、魔術や魔法、妬みや憤り、戦闘意欲を駆り立てる系統のテーマや話題に、惹き込まれる性質があるからだ。
 「偶像」を表すヘブライ語の一つに、「エリィル」がある。エリィルは偶像の他に「空しいもの」「意味の無いもの」、特に、占い師が作った実体的な意味が無い、空しいものを現す。仮想世界の映像やゲームは、視覚・聴覚などあらゆる感覚に訴え、夢中にさせ、それに時間、お金、エネルギーを費やさせ、神の似姿である人の尊い霊性と人生の時間を奪っていく。まさにエリィルだ。それらの映像や物語という「偶像」に浸り切っていると、神が創造してもいない魔物や架空の能力、架空の恐怖や架空の快楽を夢想するようになる。
 それは「肉」にとっては非常に心地よく、どんどん霊的な感覚や健全性や、真理の感覚がすたれて行くのみならず、肉体的・精神的にも不健全になり、社会性や、コミュニケーション力、思考力、生きる意欲がどんどん萎えて行く。そして、現実世界の、目の前の愛し仕えるべき家族や伴侶が、つまらなくてうっとおしい存在となり、罵声を浴びせたり、攻撃したりするようになってしまう。サウル王がまさにそうだった。
 サウル王は、健全な主の言葉に耳を傾けず、気分に流されるまま、「妬み」「怒り」「殺意」など悪霊好みの言葉をいつも思い巡らしたため、悪霊に憑かれ、常に刃物を持ち歩くようになり、自分の思い通りに行かないと、ダビデであろうとヨナタンであろうと槍を投げつけていた。それで自分の身を滅ぼしてしまった。
 私達の「思い」は、常時、何かの「言葉」が電光掲示板のように流れている。その思い巡らす言葉の内容を、管理し、支配すべきだ。なぜなら私達は、内外に流れる「ことば」に影響を受けながら「人となり」が形成されて行くからだ。こうした思いが思考パターン化してしまった「要塞」は、普通なら到底太刀打ちできない。
 
 もし、そうした「要塞」が構築されてしまった場合、それを打ち破る効果的な武器がある。その武器とはキリストへの服従である。自分の理屈や計算を破り、神の知恵に逆らって立つあらゆる高慢を打ち壊し、全てのはかりごとや所存をイエスの名によって「逮捕」し、キリストに服従させ、その服従が完全になった時、要塞をも破る大砲の玉が込められ、全て不従順なものが処罰される準備が整うのである。(2コリント10:3-6)
 ただ、服従には骨が折れる。一番ラクな方法は、御言葉をそのまま暗記し体質化する「テフィリン」である。
 御霊の剣である神の言葉が入り、体質化すると、肉への攻撃も防御も全自動となる。御心にかなった健全な方法を選択し行う事と、罪と滅びの性質を避ける事が、思考パターン化・行動パターン化するからだ。
そうなると、22節以降に記されている御霊の実(愛、喜び、平安など)を結んで行くのも、自動化される。
だからこの時期こそ、テフィリンをして、将来に向けて知恵と洞察力と人間力、霊性を磨いて行くべきだ。
 肉に興じて、ラクな”時間つぶし”をしている人が多い中、家族に愛をもって仕え、御霊に従って歩み、時の有力者を目指して、ぐんぐん成長する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
主の民は、主の御名にふさわしく生きよ(黙示録3:8-11)
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週報/メッセージ(説教)概要

 現在、コロナウイルス感染症緊急事態宣言が、全国都道府県にも拡大され、平和に生きてきた私達は、今まで体験した事の無い時代に突入している。今、全世界が、特に政府や指導者が、試されている。
この時代を私達キリスト者は、いかに無事に乗り切って行くべきか。その秘訣は、主の御名にある。
 
 主は「忠実また真実」と呼ばれる方であり、その名は「神のことば」と呼ばれ、その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれている(黙示録19:11-16)。もしこの時期、忠実さ・真実さを捨て去って、嘘で塗り固めたり、事実とは違ったふりをしたり、現実的でないロマンを押しつけたり、怠慢や不真実な対応で乗り切ろうとするなら、コロナは無慈悲なまでに襲いかかって来る。これは誰に対しても同じである。
 主は言われる。たとえ小さな力しかなくても、忍耐してわたしの言葉を守り、わたしの名を否まないなら、地上に住む者達を試みるために、全世界に来ている試練の時に、あなたを守ろう、と。(黙示録3:8-10)
 主の民は、主の御名にふさわしく生きるべきであり、そこに留まるために、忠実と忍耐が求められている。
 
 主ジェホバの呼び名は、聖書全体では81種類も登場すると言われる(ジェホバ・ジレ、ジェホバ・シャンマ等)。それらを代表する8種類の呼び名が、実は、詩篇23篇に隠されている。
1,「主はわたしの牧者」(1節a) ヘブライ語では「ジェホバ・ロイ」、羊飼いである主の御名が表現されている。私達が主が羊飼いである事を否まず、あくまでそれを認めるなら、以下の特典が私達へついて来る。
2,「わたしには乏しいことがない」(1 節b)。ここには「ジェホバ・イルエ」という主の御名が隠されている。
この御名が登場するのは創世記22:14で、「主の山には備えあり」として有名であるが、正しくは「ジェホバ(主)+ラアー(見つめるの未完成形)」、「主は今なおずっと見つめ続けておられる」である。主は見つめておられる。主は確かに必要なものを備えて下さるが、それは人の欲する最善ではなく、「主の最善」である。
3,「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水際に伴われる」(2節)。ここには「ジェホバ・シャローム(主は平安)」という主の御名が隠されている。それが示されたのは、部族の中で最も小さく、弱く、臆病だったギデオンに対し、彼を大勇士にして下さった場面においてである(士師記6:24)。イエス様も、恐れ隠れている弟子達に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。
4,「主はわたしの魂をいきかえらせ」(3節) ここには「ジェホバ・ロフェ」すなわち「癒し主」という御名が隠されている。『あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプト人に下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたを癒やす者(ロフェ)である。』(出エジプト記15:25-26)
5,「み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」(3節) ここには、「ジェホバ・チヅケヌ(義なる主 エレミヤ23:6)」の御名が隠されている。主が人を立て直す順番は、最初に「たましいを生き返らせ」、次に「義の道に導かれる」であり、主が人を義とする理由は、ただ「主ご自身の御名のために」である。
6,「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(4節) ここに隠されている御名は「ジェホバ・ニシ」、「主はわが旗」(出エジプト記17:8-15)という意味である。その箇所では、モーセが手を上げて祈り、勝利をもたらした。同じように、私達が手を上げて祈る事は、主の旗を掲げる事なのである。
7,「あなたがわたしと共におられるからです」(4節) ここには「ジェホバ・シャンマ」、すなわち「共におられる主」(エゼキエル48:35)の御名が隠されている。イエス様は、インマヌエル(主が共におられる)であられる。
8,「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる」(5節) 
ここには「ジェホバ・メカディシケム(聖別する主 出エジプト記31:13)」という御名が込められている。主は、敵の面前で油を注いで聖別し、任職して下さる。そして主は、敵の面前で、宴会を設けてくださる。
 
 以上は、主のご性質を表す御名の、ほんの一部である。私達がこの時代、主の御名を否まず、忍耐して主の言葉を守るなら、既に来ている全世界の試練の時、主に守られ、主から栄誉を頂く事ができる。
この素晴らしい御名という冠を、誰にも奪われないようしっかりと持ち、勝利を得る者として、主の御名と、新しいエルサレムの名が書き記される皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
キリストの十字架と、死と、復活に参加せよ(1コリント15章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、イエス・キリストの復活を祝う日である。キリスト者にとって「復活」は、重要な救いの根拠であり、パウロも第一コリント15章にて福音の根幹である「復活」について詳説しているので、詳しく見たい。
 
 あの日、イエス様は十字架上で、確かに死なれた。大勢が見ている中、息を引き取り、槍で突かれると血と水が流れた。遺体となったイエス様は十字架から降ろされ、布で巻かれ、葬られた。墓は封印され番兵が守った。祭司長や律法学者達は勝ち誇り、弟子達は逃げ隠れした。イエス様は明らかに、死んだのだ。
 もしイエス様がよみがえられなかったとしたら…。イエス様を見殺しにした弟子たちは、イエス様が葬られて三日目、勇気を振り絞って番兵達を気絶させ、封印を解いて、重い石をころがし、イエス様の遺体を盗み出し、至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のだろうか。果たして、みすみす見殺しにしたような弟子達が、見殺しにした彼らの師匠を、命がけで「よみがえった」と吹聴するメリットは、どこにあるというのか。
 ところが、あらゆる敵にとって残念な事に、イエス様は確かに復活された!封印は破られ、入口を塞いでいた大岩は転がされ、番兵達は、御使いを見るなり死人のようになった。イエス様の遺体に香油を塗ろうと女達が来てみると、遺体は無く、御使いがいて、「ここにはおられません。よみがえられました」と言われた。
 
 イエス様は、私たちを愛するその愛の激しさのゆえに、激しい苦しみ・悲しみをものともせず、十字架の上で死んで、陰府に降られた。それは、私達を愛して、愛し抜いた故、私達の罪を一身に負い、私達の身代わりとなるためであった。そして彼が死人の中からよみがえって下さったのは、彼が眠った者の初穂となり、イエス様に続く私たちも、彼とともに全く新しく生まれ変わって、共に永遠に生きるためである。(20節)
死が一人の人を通して来たように、死者の復活も一人の人を通して来るのであり、また、アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによって全ての人が生かされるのである。(21-22節)
 最初の人アダムが罪を犯した時、アダムの腰にいた何億何千万という全人類も、共にその罪に参加した。
故に、人から生まれ出る人は全て、罪の責め苦を負わなくてはならない。しかし、イエス様が十字架で全人類の身代わりに罪を負って下さった事を信じ、この御方を「わたしの主」とするなら、その人は救われる。
信仰をあらわすヘブライ語エムナーの動詞「アーメン」には、「サポートする」「確認する」「忠実である」の意味がある。信仰とは、共に参加する事。相手と連合し、結束する事なのだ。
 だからキリストを信じた人は、キリストの、あの十字架刑に共に参加した者となり、共に陰府に降った者、共によみがえった者となるのだ! 「私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私達がもはや、罪の奴隷となる事がないためである。」(ローマ6:6)
 私達は時間に縛られ、過去に犯してしまった事はどうする事もできないが、信仰は時間を超越する。
アダムの腰にいた時に参加してしまった罪を、帳消しにするには、イエス様が十字架で成して下さった事を信仰じ、「参加する」事により、アダム系列とは全く別次元の、キリスト系列の者となるのだ。『もし私達が、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう。』(ローマ6:5)
 
 「赦し」は、信じ、告白し、参加した人だけのものであって、イエス様が十字架にかかった時点で人類の誰も彼もが赦された訳ではない。イエス様が十字架にかかった時、わたしもそこに参加した!と、信仰告白し、そして信じて告白した事に見合った、「行い」という実体が、継続して実を結んでいるかが大事である。
 パウロも言う。『兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です…思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。』(31-34節) 
 だから、キリストに連合しキリストの死と復活に参加した信仰者は、信仰者らしく、昔の友だちや、昔の生き方、すなわち世と連合し、罪の交わりに参加した生き方から、離れ続けなくてはならない。『肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない…なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。』(50・53節)
 この4月、新しい学期が始まり、新しい年度が始まった。ますます、世の罪に参加するかのような行いや友人からは離れ、キリストの十字架の死と復活に参加した者として、ますます日々、朽ちない者、神の国を受け継ぐ者として創り変えられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
キリストのパッション(雅歌8:6-7)
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 本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、本日から受難週(パッション・ウィーク)が始まる。
イエス様の十字架の経験は、ありとあらゆるパッションが込められている。あまりに激しい苦しみ、あまりに深い悲しみ、そして断絶と死の向こうに待ち構えている、決して薄れない喜び。彼が十字架の道を進んだ最たる動機は、彼の、捧げ尽くした愛だった。罪と死の奴隷状態で苦しんでいる人々を、神の子の本来あるべき姿へと戻したい、救いたい。そして、主と共なる永遠の愛の交わりへと、導き入れたい。そのような動機によってイエス様は、十字架への道を進んで下さった。この受難週、主のパッションを味わって行きたい。
 
 イエス様が十字架につく前の晩、ゲツセマネで体験された感情は、「恐れ」ではなく、死ぬほどの「悲しみ」だった(マルコ15:34)。イエス様は、世が始まる前から御父と親密な愛の交わりをしておられた。しかし彼は、本来私達が受けるべき裁きを、身代わりになって受けるため、私達の代わりに御父から捨てられ、断絶され、呪われた。それは、血の汗を滴らせる程、計り知れない大きな悲しみだった。
 イエス様が十字架上で脇腹を槍で刺された時、すぐにそこから血と水がほとばしり出た事から、彼は、極度のストレスから心臓破裂で息を引き取り、その時に心臓に溜まった血液と水が流れ出た、と思われる。
 全人類の罪を一身に負い、御父から捨てられた事、また、十字架による肉体的苦痛は、どれほどのストレスだっただろう。『キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救う事のできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』(ヘブル5:7)
  これ程のパッション、情熱をもって、主は十字架にかかられたのだ。父なる神は、愛するひとり子を全人類の身代わりとし、十字架につけて死なせ、そうして、全人類を救う。全能の神はなぜこんなにも痛みが伴う「割りに合わない」方法を取られたのだろう。それは計り知れないが、ともかく、それほどの痛みや苦しみを支払ってでもかまわない程の大きな愛で、私たちを愛し、救いたいと願っておられた事は、真実である。
  神は無感覚・無感動の神ではない。情熱の神である。神も痛むし、悲しむし、涙を流す。しかし、罪人の一人が悔い改めるなら、天で大宴会を起こして喜ぶお方である。神は私達のところに降りて来て、面と面を向かって相撲を取って、生々しく関わって下さる。神は私達を熱烈に愛し、もし、私達が別の神に「浮気」するなら、激情に駆られて妬むお方である。
 キリストは私達を救うため、天を押し曲げて降りて来られ、人となり、十字架の上で苦しみを受けた。彼を愛する人には、雅歌書で表現されているように、花婿が花嫁を慕い求めるような、甘い愛で迫ってくださる。
 
 ユダヤ人は過越祭の度に雅歌書を朗読するが、そこに書いてある。『わたしを刻みつけて下さい。あなたの心に、印章として。あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。』(雅歌8:6) ここに、花嫁の花婿に対する愛慕が記されているが、イエス様は十字架上で、その手・その足に、脇腹に、刻みつけて下さった。私達の身代わりとなって下さった、愛のしるしを。
 『私の愛する方は私に語られた、「起きなさい。わたしの愛する人、わたしのかわいい人。一緒に行こう。』(雅歌2:10 林直訳) ここの「語られた」は完了形だが、ヘブライ語の動詞は生きていて、過去から現在へ、未来へ飛び越えて来る。過去、幸せだったあの時、愛するあの方が言ってくれたあの言葉、その時の彼の姿、その言葉を聞いた瞬間に感じたしあわせな感覚が、今へとオーバーラップし、あの時の幸せな気持ちに浸る事が出来るように、聖書に書いてある言葉は、その幸せな気持ちが過去から今へとオーバーラップし、新約のイエス・キリストへと会う事が出来る。彼の言葉は、昔も、今も、未来も、ずっと生きているからだ。
 私達も、聖書を開く時、花婿であられるキリストが、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のように、時代と空間を飛び越え、十字架の激しい苦しみと悲しみを乗り越え、私達の所に希望をもたらす素晴らしい花婿として、すぐに飛んで来て下さる。あの時代も今も、昨日も今日も、そして未来も、変わらずに。
 主は今も変わらず語られる。「起きなさい。わたしの愛する人、わたしのかわいい人。一緒に行こう」と。
  私達は、このパッションの主に対し、無感動・無感謝であってはならない。生ぬるくあっては、ならない。
雅歌書の花嫁のように、私達も答えるべきである。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(韓国語:わたしはあなたに属し、あなたはわたしに属している)」(雅歌6:3) 十字架で死ぬ程の情熱をもって愛して下さったイエス様の愛に、情熱的に答え、愛し、愛されて行く皆さんでありますように!
 

 

主日礼拝
全てを癒やし、いのちの水で満たして下さるキリスト(ヨハネ1:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 人は、エデンの園で善悪を知る知識の木から食べて以来、神から離れた「善悪判断」という破綻した”ものさし”で物事を判断し、狂わせ、破綻するしか無かった。昨今人類を脅かしているコロナウイルスも、また生活の中のあらゆる労苦や痛み、死は、全てこれが原因である。しかしその全てを治すお方がおられる。
 
 初めに、「ことば」がおられた。「ことば」は、神と共におられた。「ことば」は、神であられた。(ヨハネ1:1)
この人格あることばは、ギリシア語でロゴス、ロジック(論理)の語源で決して変わらない客観的真実である。
 この、決して変わらない真実なる「ことば」。彼が宇宙の全存在を創造された。この御方によらずにできたものは何一つ存在しない。この、全世界を創造されたロゴスであられるお方、それはイエス・キリストである。
 このお方こそ、全て存在するものを存続させ、全てのいのちの源なるお方、死んでしまったいのちを再びいのちで息吹くお方、一切の闇を圧倒的な光によって塗り替えるお方である。『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。』(4-5節)
 この、ロゴスであられるイエス・キリスト、すなわち、全存在の源であり、全て生命あるものの生命の根源であり、人の光であられるお方の、不変のいのちのことば(ロジック)によって測り直されるなら、全て、本質から外れたゆがみは解消され、あらゆる傷は癒やされ、死はいのちへと飲み込まれて行く。。。
 
 『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) このように、イエス様を信じ続けている人は、「血筋」の束縛、「肉の欲」の束縛、「人の(意)欲」の束縛から解放されて行く。それらは全て、人間の善悪判断による、本質を外した”ものさし”によるもので、もはや、それらに左右されなくなって来るのだ。
 世の人は「血筋」を重んじる。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、そうした「血筋」の束縛から開放される。また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、望まない命が「できてしまった」という事は多々あるが、自分はそういった「人の欲望の産物だ」という空しさもなくなる。また「人の意欲」の束縛、すなわち、親や誰か他人の政略的な操作によって今の自分は存在するのだ、といった空しさからも解放される。信じた人は、ただ、神の完全な愛によって、神の子として愛される存在として、今もこれからも永遠に存在するのだ、と確信し、解放され、全く自由を味わうのだ。
 
 太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人から共感を得た。全存在の源である「有る」お方を持たない人が、サタンの言葉に惑わされるなら、そんな言葉に同意してしまう。神の敵・サタンが、人を破壊させる最たる言葉は、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならない、である。それを全くもって打ち消す、超・積極的なことばが、全存在の根拠であられるキリストの言葉である。
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無い。
 イエス様は、人が存在する前から、人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人がご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる覚悟で人を救おうと、なんと、永遠の昔から愛をもって定めておられたのだ。その意図の中で、人は創造されたのだ。(エペソ1:3-6)
 この御方のことばを豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。
 
 イエス・キリストというが加えられた測りで測り直して行くなら、狂っていた全ては直って行き、いのちの水が湧き出て、死に満ちていた所は、いのちに満ちた所となり、そのいのちにおびきよせられて来る。
 その完成形が、天国の、水晶のように光るいのちの川である。この川は神と小羊との御座から出て、その両岸にはいのちの木があり、毎月、十二種の実を結び、その葉は諸国民をいやす。(啓示録22章)
 今、世界は死がはびこり、エデン以来受けてきた労苦や痛みにあえいでいる。そんな中、私たちは全く積極的なことば、いのちの源であり、人の光であられるイエス・キリスト、すなわち御言葉を、豊かに住まわせ、死をいのちへと、闇を光へと飲み込んで行き、いのちの水の川を豊かに流しだして、周りをいのちで満たして行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
 
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