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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

大いなる祝福を受ける準備は出来ているだろうか(申命記6:10-19)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今回の箇所は、ユダヤ人が毎日宣言しているシェマー本文(第三テフィリン本文)の直後に記されている、テフィリンを守った人に約束している祝福の内訳である。すなわち、テフィリンする人には、自分で建てていないあらゆる良い物が満ちた町々や家々、掘らなかった井戸、植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得、食べて、満ち足りる…。誰もがうらやむ内容だが、それを得た時こそ、気をつけなくてはならない、と言われている。その祝福が与えられるのは、その人をリッチにして安住させるためではなく、むしろますます主を敬い、主と共に歩み、与えられた良いものを用いて、主の栄光を世界へとあらわし伝えていくためである。
 大きな祝福は、それを受けるに値すると主が判断した人に、すなわち準備が整えられた人に与えられる。
ユダヤ人は毎日テフィリンし、祝福の法則である御言葉を心と脳に刻みつけている。だからこそ、知能が祝福され、大いに富まされ、少人数であるのに、世界をほぼ牛耳っている。それでいて、表舞台で直接支配するでなく、また羽目を外して豪遊するでもなく、むしろ、得ている富を秩序正しく用い、諸々の良い事業や活動で世界に貢献している。それは彼らは、幼い時からテフィリンしていて、「整えられていた」からだ。
 
 初期のソロモン王は、なぜ、豊かな知恵が与えられ、富において、名声において、世界にとどろく”成功者”となったのか。それには理由がある。主が彼に、『あなたに何を与えようか、求めなさい』と言われた時、「知恵」が与えられるよう願って、主に喜ばれた事は知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」であり、彼がそれを求めた動機も、ただ自分のためではなく、王として、神の民を正しく取り仕切り、何が正しく、何が間違っているのかという、わきまえを得るためであった。(1列王記3章)
 知恵の本質とは何か。正しい「取り仕切り」は、どうすればできるか。それは、自前の知性を高めて思考するのではなく、シャマーする心、すなわち、主から聞き、御言葉から聞き、聖霊から聞き分け、聞いたら、それに従う心、である。それによって、私たちに日夜来るさまざまな物事を、正しく取り仕切る事ができるのだ。
 上から与えられる知恵、すなわち主のアドバイスこそ、価値あるものであり、地上に生きる自分由来の判断は、糞土である。パウロは、イエス様の知識の素晴らしさを知ってしまった以上、自分に生まれ持って与えられた、人間的な知恵や血筋、熱心は、損だ、損どころか、糞土のようだ、とさえ言った(ピリピ3:7-9)。
 知るべきである。自分由来の判断や、知恵、知識、経験は、糞土だと。ただ主イエス様に由来する、上からのアドバイスこそベストであり、何よりも尊く、それに「聞き分ける心、従う心」こそ、主に喜ばれる。それを私達も求めるなら、ソロモンのように、こちらが求めてもいないのに、力も、富も、勝利も、主が与えて下さる。
 
 そうして、それらの祝福が与えられたなら、主から離れず、主と共に歩み続けるべきである。『もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで(ハラク)、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。』(1Ki3:14) 主と共に歩み(ハラク)続ける。これこそ、主から知恵や力、富、栄誉が与えられ続ける秘訣である。そうするなら、栄えといのちは長く続く、と主は約束された。
ソロモンは、主の御声に聞き従い(シャマー)、主と共に歩み(ハラク)続ける限り、どんどん栄えて行った。
 しかし残念ながら、彼は、後にイスラエルに偶像礼拝を導入し、虚しさの極みで人生を終わってしまった。
一体何が、彼をそんなに悪くしてしまったのか。それはずばり、異邦の女との結婚である。結婚とは相手と一つからだとなる聖なる契約であり、相手と一つ価値観となり、共に同じように生き、共に同じ永遠の家へ行く決意をもってするべきものだ。だから私達は、一つとなって連合する相手によくよく注意すべきである。
 
 主は、多くのことを任せるに値すると判断した人に、多くを与えられるが、整えられていない人に大きな事を任せる事は、なさらない。聞き分ける心、従う心をもって、小さな事への忠実を積み重ねて行く人に、主は徐々に大きな事を任せ、地位において、富において、富んだものとなって行く。
 しかし、富を得たとたんソロモンのように傲慢になり、欲望に身をまかせ、連合してはならない相手と一つになったり、主に聞き従うのでなく連合相手に聞き従っていくなら、ソロモンのように祝福を失い、全てが虚しくなってしまう。私達は今から、しっかりシュミレーションし準備しておくべきである。自分で建てなかった町々や家々、掘らなかった井戸、植えなかったぶどう畑やオリーブ畑を得た時こそ、それを用いて、さらに主に従順し、大いに栄光を捧げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

主のテフィリン命令(出エジプト記13:1-10)

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週報/メッセージ(説教)概要

 世界で同時に行っているテフィリンは、出エジプト記に入った。このプロジェクトでは、聖書全巻の中から重要な箇所、1189節を抜き出してテフィリンするものであるが、出エジプト記からの箇所は、十戒が宣言された20章と、今実践しているこの13章である。出エジプト記13章が重要な理由は、ユダヤ人が身に着けているテフィリン箱に納められている4つの聖書箇所の内、2つが、この出エジプト記13章にあるからだ。ユダヤ人の子供はモーセ五書5845節を全て暗唱するが、その前にまず、このテフィリン本文を暗唱してからモーセ五書に入る。今回、テフィリン(御言葉暗唱)がいかに重要で、必要であるのかを見ていきたい。
 
 テフィリン本文の第1番目の箇所は、出エジプト記13:1-10で、ここのキーワードは「救い」である。ユダヤ人は、自分達は世とエジプトから「救われた者達」という事を覚え、過越祭で毎年、種を入れないパンと小羊を食べて、また日々、この箇所を暗唱する事によって 主の救いを記念し、感謝を捧げ、そして自分達は、主へと捧げられた民だ、という意識を、いつも持っている。 彼らが御言葉暗唱をするようになったのは、バビロン捕囚以降だった。彼らが捕囚され、離散の民となってしまった理由は、御言葉が体質化されていなかったからだ。御言葉がその人の中に無いと、すぐ主を忘れ、主から離れてしまう性質が、誰にでもある。
そこで、テフィリンが開発されたのだ。開発者はエズラで、彼は、思考や生活と、御言葉とを一体化させる「テフィリン教育」を確立したが、テフィリンの力はすさまじいものだったと歴史が証明している。ユダヤ人はバビロン捕囚以降、2500年もの間、あちこちに離散し、虐待されながら生きて来たのに、むしろその先々で栄え、富を得て、そして1948年、国の再興が2000年ぶりに実現した。これは奇跡としか言いようがない。
 
 ひるがえって、キリスト教は、どうだったか。ヨーロッパはかつて、キリスト教が熱かった時期があったのに、今や廃れてしまった。あれほど熱心に世界中に宣教師を送って伝道し、教会を建てたのに。現在、韓国も同じジレンマに陥っている。弟子訓練の方法や教会学校、バイブルスタディの方法論は非常に洗練されているのに、子供や若者の教会離れが凄まじい。日本も、Youtubeやインターネットを通して、いくらでも有名な先生のメッセージが見聞きできるのに、キリスト者は相変わらず弱いままで、福音が浸透して行かない。
 これは、御言葉暗唱をしない事が一番の原因である。事実、経典を暗唱しているイスラム教やヒンズー教は、どんどん勢力が増していて、方向性にもブレが無いのに、暗唱が無いキリスト教は、生活でも政治でも、御言葉の基準を捨て、世の中のトレンドや、人受けする事に媚びて、身勝手に判断し、同性愛も中絶も良しとし、御言葉からどんどん離れて、子供への信仰継承は崩れ、衰退の一途を辿ってしまっている。
 結局、衰退の理由は、バビロン捕囚前のイスラエルと同じである。御言葉暗唱せず、御言葉と一体化されていないと、どんなに教会のシステムを改善しても、世の誘惑に晒されたら、そちらに行ってしまうし、どんなに頑張っても、スマホやインターネットにある、もっと面白い、誘惑的な情報へと流されていってしまう。
結局、御言葉にではなく、「自分よかれ」に支配されていると、世の誘惑に100%、負けてしまうのだ。
 しかし、テフィリンで御言葉を蓄えている人は、本人の中にある御言葉が、自動防御システムとなり、世の誘惑を自動で跳ね除け、また人生を導くナビゲーションとなり、自動的に成功パターンで生きるようになる。
 事実、暗唱している子供は、世の誘惑を撥ね付け、たとえ自分に不利だと分かっていても正しい事を選ぶようになった。親が四六時中見張っていなくても、彼らの中に入った御言葉が彼らを指導しているのだ。
 御言葉は、光と闇の定義を明確にする。これを日々暗唱すると、世のあらゆる道に対処する術を身に着けられる。事実、イエス様がサタンの誘惑に勝利したのは、奇跡や超自然的パワーによってではなく、全部、御言葉によってだった。これは、私達もそれに倣って御言葉を暗唱して対処するように、と示している。
テフィリンして御言葉の剣を宣言する事こそ、悪魔サタンの惑わしや誘惑に勝利できる唯一の方法なのだ。
 
 テフィリンによって、御言葉が持っている聖なる品性を、私たちの思い、心、意思、感情、霊、魂の中に蓄え、染み着かせ、イエス様の完全な道に歩み、その御言葉の爆発的な力で歩む皆さんでありますように!
また、テフィリンによって蓄えた御言葉の剣を、的確な時・的確な場所で振るい、悪に勝利し、この世を支配していく皆さんでありますように!そうして宣言した御言葉がどんどん実体化して行くのを体感し、勝利パターンを身につけ、それによって織りなされてゆく世界の主人公となっていく皆さんでありますように!

主日礼拝

イエス様の復活によって完成した完全な安息(創世記2:1-3)

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週報/メッセージ(説教)概要

 『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。』(創世記2:1) 完成と訳された語カーラー כָּלָהには「完了した」「完成した」「終わった」の意味がある。神様が創造した全被造物は、あらゆる点において完璧であったが、最後に人を創造して被造物の中へ入れられた時、神は「非常に良い!(トーブ・メオド)」と大喜びされ、ついに完成を宣言し、安息に入られた。神様は、人が、神様が創造した素晴らしき被造物の中、御言葉を守る「完全な者」として、神様と共に歩む時、「非常に良い」と言って安息されるのである。
 しかし悲しいことに、その完成し完了したものは、人が神様の言葉を破った故に、破壊されてしまった。
人が神様の言葉を破って、善悪を知る木から食べた故に、被造物も呪われてしまい、土地は茨やあざみを生えさせ、人は一生、額に汗し、労しながら糧を得なくてはならなくなってしまった。こうして人と全被造物は「非常に良い」から離れてしまい、いのちの木への道も封鎖された。この呪われてしまった被造物と人間を、完全な、欠点の無い状態にする事ができるものは、天にも、地にも、地の下にも、誰一人いなかった。
 しかし、ユダ族から出たしし、ダビデの根であられるイエス様が、十字架上でほふられた事によって勝利を得られた。彼はほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、神のために彼らを王国とし、祭司とされ、地上を治めるようにされたのである。(黙示録5章)
 
 イエス様は、十字架上でほふられ、彼の地上における贖いの働きが完成した事を知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われ、酸いぶどう酒を受けられた。この酸いぶどう酒は、人の有り様を示している。神様が六日かけて素晴らしい世界を構築し、その”ぶどう園”に人を置き、彼らが甘い実を結ぶのを期待されたのに、人は罪を犯し、神様に対して酸いぶどうを実らせるようになってしまった。(イザヤ5章)
 イエス様は、罪を犯して酸っぱくなってしまった私達の人生を、すっかり飲みつくされた。彼は酸いぶどう酒を受けられた時、「完了した(テテレスタイ)」と宣言をされた(ヨハネ19:30)。このテテレスタイというギリシア語は、あの創世記二章の宣言、すなわち、神様が全被造物を欠けのないものとして創造し、完成された時の宣言と同じであり、「完了した、」「成就した」「終わった」「(借金などを)完済した」等の意味がある。
 イエス様は、人の酸っぱくなってしまった有り様も、被造物の酸っぱくなってしまった有り様も、十字架の上で、全て受けられた。そして「完了した」と宣言し、安息された。そうして十字架の日・第六日目は、日没となり、第七日目・安息日が始まった。そして夕があり、朝があった。そして第八日目、新たな事が起きた。
 第八日目、すなわち日曜日、主日。イエス様は、復活された!以前のものは過ぎ去り、もはや、この世界の時間や空間に制約されない、全く新しいいのちとして。以降、主は、主日に現れるようになる。週の初めの日(日曜日)、主は弟子達やトマスと会い、ヨハネは主日に主から啓示を頂き(黙示録1:10)、また初代教会の聖徒達も主日に主の名の元に集い、パンを割き、御言葉を聞き、聖徒の交わりを行った(使徒20:7)。
それで私達も、主日に、主と会うために集い、礼拝し、御言葉を聞き、パンを割き、主と共に安息するのだ。
律法の決まり事や安息日は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのだ(コロサイ2:16-17)。
 
 この世界の、最初の天地創造のみわざは、既に「終わっている」(ヘブル4章)。終わってしまっているからには、人がひと度破壊してしまったこの天地万物に、新たに修正を加える事は、できない。そこで神が取られた方法は、この、修復不能の天地万物はもはや過ぎ去らせ、もはや呪われるべきものの一切ない、新天新地を創る事である。そこには、神の言葉を意図的に反する人は一人も入れない。ただイエス様を主とし、主を愛し、自由意志をもって主の血の贖いを受け入れ、神のことばを守った人だけが入れる世界である。
彼らは、信仰によってイエス様を受け入れ、自分の善悪判断のわざを終え(止め)て安息に入った人である。
 それで私たちは、この世で六日働き、七日目の主日に主を覚え、礼拝し、安息するのだが、日々、善悪判断を捨てて、自分のわざを終え、全て主に明け渡すなら、毎日が、瞬間瞬間が、主にある安息である。
 安息日の休みは、神の民のためにまだ残っている。その神の安息に入った者なら、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずである。だから私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が一人もいないようにするべきだ(ヘブル4:9-11)。
 古い肉による生き方ではなく、イエス様にある新しいいのちの、新天新地の思考パターンで生き、安息して歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

御霊に従い、解放された人生を生きよ(ガラテヤ5:16-18)

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週報/メッセージ(説教)概要

 テフィリン(御言葉暗唱)の創世記箇所が終わり、先週はその復習期間だった。御言葉は良いものであり、礼拝も賛美も祈りも、神様と共に歩む生活も、喜ばしく良いものである。しかし時に、テフィリンする事や、そうした聖なる物事が、何か重い、喜んでできない、あるいは神様がいるという実感が持てない、といったジレンマに陥るかもしれない。どうしたらいつも、御言葉が喜びとなれるか。どうしたら日々、必要の満たしや病の癒やしなど、「祝福の実体」を得る日々となり、神様と喜びの交わりの日々となるか。その秘訣を得たい。
 
 鍵は、御霊(聖霊)である。もし「あれはいい、これはダメ」というような善悪判断システムが稼働しているなら、神は見いだせず、御言葉を理解できず、命も喜びも見いだせない。パウロは常々言っていた。御霊によって歩みなさいと。もし御霊によって歩まないなら…。御言葉はその人の血肉とならず、自分生来の知性の限度内でしか御言葉を理解できず、さらに、御言葉そのものさえ、自分の善悪で判断してしまい、聖なる御言葉と一体化できない自分に落胆するのみならず、自分を縛り、他人を縛りながら生きえざるを得ない。
御霊抜きには、満たされる事も解放される事も、無いのだ。律法学者やパリサイ人が、まさにそうだった。
 ユダヤ人は確かにテフィリンしていて、世的には祝福されているかもしれない。しかし、御霊の根源であられるイエス様を信じない彼らは、結局、自前の善悪判断システムの範囲内でのみ御言葉を理解し、御霊ならぬ、肉によって律法を適用し続けているため、心底の解放も、喜びもない。肉によって律法を成就しようとする事は、無理なのだ。律法の行ないによる人々は、すべて、呪いのもとにあるからだ。(ガラテヤ3:10)
 パリサイ人で律法の教師だったニコデモは、その解決を求めてイエス様の元に来た時、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(ヨハネ3:5)。水と霊によって新しく生まれる!それが、答えである。水は死を意味するが、今までの善悪判断に生きてきた生き方、すなわち「魂」に対しては、水へ浸し込んで死に明け渡し、御霊によって生きる生き方へ生まれ変わるのだ。人、モノ、コトについて、的確に、神の判断出来るのは、御霊しかない。
 神は霊であり、神が望んでおられるのは、私たちが霊とまことによって礼拝し、霊において祈り、霊において御言葉(すなわち神)と交わりをしながら、生きる事だ。御霊によって歩む時、肉に生きていた人は、今まで味わった事の無い、完全なる解放を味わい、今までに無かった大きな喜びが沸き起こる。
 結局、全て人生をややこしくし、罪に苦しみ、汗を流して労苦している根源は、あの、エデンにおいてアダムとエバが食べてしまった、善悪を知る知識の実にある。この、善悪判断・・・。「わたしは正しい」「あの人は間違っている」「自分が欲するままにしたい」「わたしが立てた計算に従いなさい」などなど、自分が神のようになって善悪判断する道こそ、「必ず死ぬ」道であり、この「善悪判断システム」が思いっきり稼働している人生は、肉欲に暴走し、あちこちぶつかりながら、あれこれ間違えながら、全身傷だらけの人生を生きる以外に無い。全て、「キリスト抜き」に生きて、自分流の善悪判断で生きている人は、その呪いの下にある。
 彼らは、真実なる御言葉を知らず、それを聞かされても、知識で善悪判断し、それを理解せず、従えない。
 しかし、「御霊判断システム」の中で生きると、御言葉すなわちイエス様がその人の中で稼働し、その人の霊を起こし、霊が蘇生し、たましいが霊に従い、御言葉に従順できるようになって真に解放されるのだ!
 
 神の息、神の霊が入っていない人は、所詮ちりである。人の組成は、酸素、水素、炭素、窒素、カルシウムで98%を占め、まさに「ちり」に過ぎない。成分単体では数千円の価値しか無いのに、なぜ人は尊いか。
それは、神に似たものとして創造され、御口から息吹かれた神の息が入ったゆえである(創世記2:7)。もし、人に神の息が無く、神の言葉に反するなら、人はただの「歩くちり、蛇のエサ」に過ぎない。(創世記3:14)
 御霊をいただいている新約聖徒である事は、何と幸いであろうか!バプテスマのヨハネは、女が産んだ中で最も偉大であるが、御国においては、最も小さいものである、と、主は言われた。旧約の律法も、預言者も、バプテスマのヨハネまでである。私たちが、彼が示した救い主イエス様を信じて、御霊をいただいているなら、私たちはバプテスマのヨハネより偉大であり、パリサイ人や律法学者の義に勝っているのだ。
 結局、全て問題の根源は、善悪判断である。神から離れた善悪判断がどれほど大変な事か。神は「それは食べるな!取って食べる時、死ぬ、死ぬ!」と、厳重に言われた点からも分かる。心してそこから離れ、御霊によって歩む事を、日々、選択する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します! 

 

主日礼拝

神の「非常に良かった」を回復する私たちキリスト者(創世記1:31)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先週は、「霊的世界史」に残るような記念すべき週だった。2千年前の教会発足以来、初めて、色々の国のキリスト者が、一丸となって、色々の言語で、創世記の天地創造の御言葉暗唱を、完走したからだ。
 これまで、ユダヤ人は会堂においてトーラーを暗唱してきたものの、キリスト者が組織的に御言葉暗唱をした事は、ただの一度も無かった。しかし神の子となったキリスト者が、天地創造以来初めて組織的に暗唱を開始し、先週、天地創造の箇所をテフィリンし終えた。天においてどれほど喜びが沸き起こっただろう。
そのような瞬間に、リアルタイムで参加し、日本語の言語でその一端を担えた事は、なんと栄誉な事だろう。
本日、私達はこの幸いを噛み締めつつ、主の「非常に良かった」の法則に、共にあずかりたい。
 
 「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記1:31) 神様は人を、ご自身のかたちに創造し、天の下にある全てのもの、植物、全ての生き物を支配するように、と、創造された。そしてついに時至って、最後に人が創造され、その被造物の中に人が組み入れられた時、神は見て、見よ!非常に良い!素晴らしい!と感嘆し、大喜びされた。
 しかし現代、この世界を見るに、「非常に良い」とは見えない。自然界は人に脅威をもたらし、今年は特にコロナという疫病や、大雨、ばったの被害に悩まされている国々がある。これはひとえに、彼らが神の言葉をあなどり、意図してそれを破っているからだ。地は、人が神の言葉を破った故に呪われ、人を労苦させるために、わざわざ、茨やあざみを生えさせ、人は一生、額に汗し、労苦しながら糧を得なくてはならない。
 
 罪とは、神の御言葉を違反し、神が建てた創造の秩序を破壊する事である。人が御言葉に逆らったり混ぜものをする時、 神が創られたあらゆる「非常に良し」が、割られてしまい、効力を失ってしまう。人が創造秩序を割ってしまったため、自然界は「非常に良かった」から離れ、呪われてしまい、疫病や洪水などの「茨やあざみ」を産出するようになった。それで被造物は今、うめきつつ、神の子の現れを待ち望んでいる。
 呪われてしまった被造物を回復するには、どうしたらいいか? 御言葉に「逆らった」故に、秩序が割られてしまったからには、御言葉に「従順する」事によって、創造当初の「非常に良い」が、帰ってくるのである。
 『主の「おきて(トーラー)」は完全であって、魂を「生きかえらせ(シューブ)」』(詩篇19:7a) シューブとは「帰る」という意味で、トーラーは、神の言葉そのものである。完全な神の言葉、「良し」の根源そのものである御言葉は、罪によって割られてしまった、あらゆる人、もの、事から、神の「良し」を帰らせるパワーがある。
私達の中に御言葉をどんどん浸透させて行くと、創造当初の「非常に良し」がどんどん帰って来るのである。
 御言葉を暗唱して行く内に、まず魂が回復される。御言葉を1節1節繰り返して宣言し暗唱して行くごとに、罪と肉に埋もれてしまった魂は、神の息を吹き返し、耳が、脳が、心が、霊が、どんどん蘇生して行く。
 主の「おきて(トーラー)」は完全であると書いてあった。完全なる主の御言葉が、世界を創造し、そして御言葉であられるキリストによって、全宇宙も、全被造物も、全生物も、存続している。だから、テフィリンする事によって、御言葉であられるキリストが、私達の内に刻み込められ、魂の生き返り(シューブ)が行われ、罪によってぼろぼろになってしまった人生に、神の「非常に良かった」が息吹かれ、再構築されて行くのだ。
事実、テフィリンによって体の癒やしが起き、必要が満たされ、家族の救いが起きた報告がなされている。
 
 一人の罪人が悔い改めて、神に帰る時、天において大きな喜びが沸き起こり(ルカ15:7,10)、神が人を創造した当初の、「見よ!非常に良い!」という感嘆が、湧き起きる。先週、世界において同時に、多くのキリスト者が天地創造箇所を暗唱し、宣言する、という快挙を成し遂げた。天において、どれほど大きな喜びが沸き起こっただろう。天においてばかりでない。被造物の間にも、どれほど喜びが沸き起こっているだろう。
 私たちは、御言葉によって神に似せて造られ、「非常によかった」「素晴らしい」と、神様から大喜びされてしまっている一人一人である。そして、御言葉によって、地を支配する者である。
 私たちは、主が創造してくださった「非常に良い」を、的確に探り当てる「センサー」をフル活動させ、毎日の生き方の中で大いに感動し、感情表現を宣言しつつ、神と交わりをして行くべきである。
 御言葉の中で生き、さらに御言葉を人々に伝え、神の「非常に良かった」を多くの人々に、そして、全被造物へと、もたらして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

神の似姿として神と交わり、神といのちを共に生きる(創世記1:26-28)

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週報/メッセージ(説教)概要

 7月から始まった世界同時テフィリンは、2ヶ月で創世記1章を終えた。ほんの1章を暗唱しただけで、神様はこんなにも被造物を尊く創られたのかという感動と、多くの悟りを得た。テフィリンをすると神様の御思い、意思、感情を感知する感受性が格段に豊かになる。今まで御言葉を1聞いて1理解していたのが、10も20も理解できるようになる。今回も、主は私達をどんなに尊いものとして造られたかを、確認したい。
 
 遠い昔、世界の基がまだ置かれる前から、神様は私たちをキリストの内に選んでおられ、御前で聖く、傷のない者にしようと定めておられた。ただ御心のままに、私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ、天にある全ての霊的祝福をもって祝福しておられた(エペソ1:3-12)。そしてついに時が満ち、三にして一であられる神が、思いと意見を一つにして御心を実行に移された。『さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて』(創世記1:26) こうして人は造られ、男と女とに創造された。
 神は人を、ご自身のかたちとし、またご自身に似せて創造され、地の全ての生き物を支配するようにと造られた(26節)。さらに、人を祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(28節) 私達は、他のどんな被造物とも違い、神ご自身の似姿としての権威、力、尊厳を帯びた、尊い尊いご性質と、そして、神ご自身の美しい品性が、与えられた。
 そして特別な使命として、地を従え、全ての生き物を支配する任務が与えられられ、さらには、私たちを、神ご自身との愛の交わりの内に、価値観を共にし、喜びの体験を共に分かち合うものとしてくださった。
 あたかも夫婦が共に生活し、共に同じものを見、共に感動し、いのちの喜びを共に分かち合うかのように、イエス様は、私たちが創られる前から、共にいのちの喜びを分かち合う相手として、定めておられたのだ。
 
 神様は、私たちに託された地の全てのもの、全ての生き物を、神様の愛と品性と尊厳をもって、イエス様にあって見守り、支配するようにと願っておられるだけでなく、全被造物もまた、切実な思いでそれを願っている。私たちのような神の子が現れ、支配する事を。今、人は罪を犯し、神から離れてしまっている故に、被造物はうめき、産みの苦しみをしつつ滅びの束縛から解放される事を待ち望んでいる。(ローマ8:19-22)
 だから私たちは、イエス様がするように、造られしものの幸福のために、大切に支配し治めるべきである。
 
 現代、家庭内暴力(DV) が問題になっているが、暴力的な力による支配は、イエス様の愛の支配の真逆である。イエス様の愛(アガペー)は、相手を大切にする無私の愛であり、その統治は、愛の思いやりに満ちた統治である。もし今、私たちが、暴力的な支配や、わいろを取る等の不正や、神が配分されたものを、ごっそり我が物とするような支配が、はびこっているのを見るとしたなら、それはイエス様の名によって、足の下に踏みつけ、征服し、支配権を分捕り返さなくてはならない。神は次の命令をしておられるからだ。
 『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ(カーバシュ)。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ(ラーダー)。』(28節) カーバシュも、ラーダーも、それぞれ「踏む」「征服する」「支配する」の意味があるが、私たちは暴力で踏みにじるやり方ではなく、イエス様のように、死はいのちによって飲み込み、愛で覆い、愛で征服するのである。一体、そのような支配は、どうしたら出来るのだろう。
 それは御言葉を暗唱する事で、体得できるものである。なぜなら御言葉は、神の意図そのものだから。
御言葉なる神と直接交わり、その意図を知り、実感し、そうこうしている内に、神の聖なる感覚が、自動的に流れ込んで来る。創世記を共にテフィリンして来た方は、その感覚が流れ込んできた事を実感したはずだ。
 御言葉が刻み込まれていくと、創造の当初、主が人に備えてくださった統治する権威と力は、自然と身につく。その仕方も、仕草も。私たちは「統治する」というと、何か力んで意気込んでしまいがちだが、そうなる必要は、一切無い。テフィリンしていれば自然に、イエス様のように安息して、余裕で統治するのだ。
 
 創世記1章をテフィリンしたら、神様の意図をこんなにも実感できたのだから、さらに他の箇所もすれば、どれほど、増し加えられるだろう。テフィリンは、生活実践型、生活密着型の福音を、いとも単純に得られる手段である。人を創ったパワーのある御言葉が、人を造り変えるのだ。テフィリンによって、ますます神様の御思いを知り、正しい統治者となっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

主日礼拝

三位一体の神が、人を尊く創られた物語(創世記1:26)

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週報/メッセージ(説教)概要

 『神(エロヒーム)は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』(創世記1:26a) 7月から始まった世界同時テフィリンは、天地創造の佳境に入り、いよいよ、人を創って祝福する段に入った。今回、私たち人間は、どんなに神様から尊いものとして造られたか、この節から確認したい。
 
 神様はご自身を、「われわれ」と、複数形で表現された。神をあらわす語エロヒーム אֱלֹהִיםは、エロアーאֱלוֹהַּ(崇高なるお方)」の複数形で、「崇高なる方々」とも訳せる。唯一であられるはずの神は、なぜ複数形で表現されたのか…。聖書の最初、創世記1:1の原文は「べレシート・バラー・エロヒーム(はじめに、創造した、崇高なる方々が)」であるが、ここは複数形名詞・エロヒームに対し、単数形動詞のバラー(創造する)が当てられており、これは文法ミスとも思える(例えばThey is GODと書くような)尋常でない表現である。
 ユダヤ人の至宝であり、全人類の真理である聖書が、最初から文法ミスを犯しているのだろうか?いや、人がどう見ようと感じようと、ヘブライ語聖書は、一点一画で、真理そのものを正確に表現しているのだ。
 神は、本質としては一でありながら、人格(パーソン)は、三であられる。これをすなわち三位一体という。
 その三の人格(本来は「位格」)の第一は「父」、全てを企画設計するお方であり、第二は「子」、御父が企画設計した事を、実行するお方、そして第三は「聖霊」、御子が実行された事を助け、保全・保護される。
 そして父、御子、御霊が、天地創造の場面で唯一、志を一つにして言われた事は、「さあ人を造ろう」であった。それも、「われわれの形として、われわれに似せて」。神は人を、実に、特別な存在として創られた。
 
 神は、特に心して造られた人間に、どのような役割・どのような目的を与えられたか。『彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(ラーダー )するように。』(創世記1:26b)
 「ラーダー」の原意は、「踏み固める」、そこから「征服する」「支配する」の意味となる。つまり人は、本来、悪しき者や、御心にかなわない事がはびこる時、それを踏みにじり、征服し、全被造物が健全に安息を保つよう、正しく統治するための支配権が、委任されている。私たちはこの事を、しかと心に留めるべきである。
私達は、罪人の支配に押されているべきではないし、世の隅でひっそり清貧に生きている場合でもない。
世をキリストにあって正しく支配し、罪や汚れが起こった時は、しっかり足の下で踏み、征服すべきである。
 この正しい統治とは、キリストの権威の下に服してこそ、可能である。私たちは与えられている分を超えて、自分が神のようになろうとしてはならない。聖書の中で、三位一体の神が一丸して人間に反対されたケースは、善悪を知った人間が、いのちの木にまで手を伸ばす危険があった時、また、バベルの塔を築いて名をあげようとした時であった(創世記3:22, 11:7)。いずれも、罪ある人間が神のようになろうとした時である。
 神が三位一体として全力で人をバックアップする時とは、宣教のため全世界へ人を遣わされる時である(イザヤ6:8、マタイ28:19)。神はそれ程、救いの働きを尊ばれた。父・御子・御霊が、公に人前に現れたのは、イエス様が水のバプテスマを受けられた時で(マルコ3:16-17)、イエス様こそ、全人類の救いの中心、福音の働きの中心である、と、全力で強調された。父・御子・御霊は、様々な賜物や奉仕、働きの根源であり(1コリント12:4-6)、そしてバプテスマも、祝祷も、父・子・聖霊の御名による(マタイ28:19,2コリント13:13)。
 このように三位一体の神は、イエス様こそ生ける神の御子キリストであると強調され、また救いの働きを全力で助け、働き人を支え、救いのわざ、神の国の仕事に参加する事を、全面的にバックアップされる。
 
 遠い昔、天地万物は、父なる神が設計し、御子キリストにあって創られた。三にして一であられる神は、心と思いを意思を一つにし、「さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて」と言われ、人が創られる前から人を愛し、人を喜び、人のために次々とこの世を構築して行き、そしていよいよ最終段階に入った時、全てのものを治めるように、と、神に似たものとして、人を創られた。人が男と女として創られ、彼らが全被造物の中におさまった時、神は、はなはだ喜び、とても良い!と評価された。
サタンが人をそそのかし、罪と死の奴隷にしてしまった時、神は早速、救いのご計画を発動し、御子イエスキリストご自身が、自ら犠牲となって救いのわざを達成された。そして聖霊は、弱い私たちを助け、私たちが神の子として御国を受け継ぐまで、助けておられる。そんなにも人は、神から尊ばれた存在なのだ。この本質を理解し、その本質の中に生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

アブラハムの「思い切りの良さ」を身に着けよう(創世記12:1-15:1)

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週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムは、全ての信仰者の父である。彼の素晴らしさは、何と言っても、主の言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」である。普通の人が聞けば、「えっ」と思えるほど、大胆に行動してしまう。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた時などは、その翌朝、早速その場所に出かけた程だ。
今回、彼の御言葉に対する思い切りの良さと、それによって受けた祝福の法則から、恵みをいただきたい。
 
 彼は75歳の時、主から「父の家を離れよ」と言われた時、彼はつべこべ言わず、すぐ離れ(12:4)、次の節では、もう約束の地カナンに入ってしまった。実に思い切りが良いが、彼はそこから、主から許容された範囲外へと行ってしまった(9節)。そこではききんに遭い、その不足を満たすために、さらに主が示した地から遠くエジプトへと降ってしまった。そこに神を恐れる文化は無く、みんな弱肉強食の価値観で生きていた。
彼は恐れ、媚びて、悪知恵を働かせ、彼の美しい妻サラを、妹だと言う事によって良い待遇を受けられるだろうと思案し、実行した。結果、サラはパロに召し入れられ、その代わり彼は多くの家畜や資産、男女の奴隷を得た。神は彼を責めるのではなく、パロを責め、サラは返って来た。パロは彼を恐れたので、エジプトの財はそのまま持たせ、彼は、神が指定された地に戻る事が出来た。これは、神の一方的な恵みである。
 私達・神の民が栄える方法は、結局、主が行けと言われた所に行き、主が留まれと言われた場所に留まる事である。そうするなら主が雨を降らせ、百倍を実らせ、敵を恐れさせ、自動的に栄えさせてくださるのだ。
 
 13章でも、彼の思い切りの良さが発揮される。アブラムと甥のロトは互いに持ち物が増え、それぞれの羊飼いの間で争いが起きるようになった。しかし彼は気前よく、目下のロトに、先に、行きたい所を選ばせる。
 クリスチャンは何かと、和解・共存しようとしがちだが、「ソドムを良い所」と判断して行ってしまうような者と、同じ財産を共有してはならない。たとえ肉親でも、霊性が違う人、種類が違う人には、気前よく与えてでもして、離れるべきなのだ。事実、ロトと別れたとたん、主からの祝福の言葉が怒涛のように来た。この地の東西南北を永久に与える、子孫を地のちりのようにならせる、その地を縦横に歩き回りなさい、と(13:14-17)。
 
 14章では、現イラク周辺の4人の王が、現イスラエル周辺の5人の王達に戦いを挑んで勝った記事が記されているが、その時、ソドムに住んでいたロトが捕らえられてしまった。アブラムは、思い切りが良い事に、それを聞いた時、彼の家で生まれた僕たち318人を引き連れて行き、次の節では打ち破っており、さらに次の節では、もう取り返している(14:14-16)。普通、こんな破竹の勢いの強力な王達に、わずかな手勢で戦いを仕掛けるなど、無謀の極みだが、彼は、主の約束を、握りしめていたのである。主は必ず自分に子孫を下さる、自分を祝福する者を主は祝福し、呪う者を呪ってくださる、という聖なる計算をしたのだ。
 実際、主は彼を祝福し、勝利させた。彼は9人の王の上に君臨できたはずであるが、そんな事は一切興味を示さず、靴紐一本ももらわない、と言った。なんという気前の良さだろう。主が勝利を与えて下さったとはいえ、そんな財産を、彼は得てはならなかったのだ。その王達は今まで、人から分捕り、人を泣かせて所有したものである。そんなものは靴紐一本でももらったら、悪いものがつきまとってしまう。私達は確かに世において王であっても、イエス様のように、大切に、いつくしみ深く、楽しく、統治し支配するべきである。
 アブラムはむしろ、サレム(平和)の王、メルキゼデク(義の王)から、パンとぶどう酒を受け、祝福を受けた。
このメルキゼデクこそ、イエス様であり(ヘブル5-7章)、アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げた。
 
 その後、主は言われた。「わたしがあなたの盾、そしてあなたへの飛び抜けて素晴らしい報酬である」と(15:1原意)。 主の祝福とは、莫大な富や栄誉などをもらうという次元ではない。主ご自身こそ私たちの莫大な報いであり、それは、世のいかなる栄光や富にはるかに勝る報酬である。主ご自身こそ、私達キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける「相続」なのだ。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)
 アブラムの祝福の源は、主の言葉を即実行に移す「思い切りの良さ」と、主の言葉を握りしめた故の平安から来る「気前の良さ」であった。また、彼の失敗は、主の言葉の範囲を超え、世を見て、恐れ、媚びた事だった。世の富や栄光より、主イエス様ご自身を慕い求め、御言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」を身につけ、地上において栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
アブラハムの「思い切りの良さ」を身に着けよう(創世記12:1-15:1)
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週報/メッセージ(説教)概要
 メッセージ概要
 
 アブラハムは、全ての信仰者の父である。彼の素晴らしさは、何と言っても、主の言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」である。普通の人が聞けば、「えっ」と思えるほど、大胆に行動してしまう。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた時などは、その翌朝、早速その場所に出かけた程だ。
今回、彼の御言葉に対する思い切りの良さと、それによって受けた祝福の法則から、恵みをいただきたい。
 
 彼は75歳の時、主から「父の家を離れよ」と言われた時、彼はつべこべ言わず、すぐ離れ(12:4)、次の節では、もう約束の地カナンに入ってしまった。実に思い切りが良いが、彼はそこから、主から許容された範囲外へと行ってしまった(9節)。そこではききんに遭い、その不足を満たすために、さらに主が示した地から遠くエジプトへと降ってしまった。そこに神を恐れる文化は無く、みんな弱肉強食の価値観で生きていた。
彼は恐れ、媚びて、悪知恵を働かせ、彼の美しい妻サラを、妹だと言う事によって良い待遇を受けられるだろうと思案し、実行した。結果、サラはパロに召し入れられ、その代わり彼は多くの家畜や資産、男女の奴隷を得た。神は彼を責めるのではなく、パロを責め、サラは返って来た。パロは彼を恐れたので、エジプトの財はそのまま持たせ、彼は、神が指定された地に戻る事が出来た。これは、神の一方的な恵みである。
 私達・神の民が栄える方法は、結局、主が行けと言われた所に行き、主が留まれと言われた場所に留まる事である。そうするなら主が雨を降らせ、百倍を実らせ、敵を恐れさせ、自動的に栄えさせてくださるのだ。
 
 13章でも、彼の思い切りの良さが発揮される。アブラムと甥のロトは互いに持ち物が増え、それぞれの羊飼いの間で争いが起きるようになった。しかし彼は気前よく、目下のロトに、先に、行きたい所を選ばせる。
 クリスチャンは何かと、和解・共存しようとしがちだが、「ソドムを良い所」と判断して行ってしまうような者と、同じ財産を共有してはならない。たとえ肉親でも、霊性が違う人、種類が違う人には、気前よく与えてでもして、離れるべきなのだ。事実、ロトと別れたとたん、主からの祝福の言葉が怒涛のように来た。この地の東西南北を永久に与える、子孫を地のちりのようにならせる、その地を縦横に歩き回りなさい、と(13:14-17)。
 
 14章では、現イラク周辺の4人の王が、現イスラエル周辺の5人の王達に戦いを挑んで勝った記事が記されているが、その時、ソドムに住んでいたロトが捕らえられてしまった。アブラムは、思い切りが良い事に、それを聞いた時、彼の家で生まれた僕たち318人を引き連れて行き、次の節では打ち破っており、さらに次の節では、もう取り返している(14:14-16)。普通、こんな破竹の勢いの強力な王達に、わずかな手勢で戦いを仕掛けるなど、無謀の極みだが、彼は、主の約束を、握りしめていたのである。主は必ず自分に子孫を下さる、自分を祝福する者を主は祝福し、呪う者を呪ってくださる、という聖なる計算をしたのだ。
 実際、主は彼を祝福し、勝利させた。彼は9人の王の上に君臨できたはずであるが、そんな事は一切興味を示さず、靴紐一本ももらわない、と言った。なんという気前の良さだろう。主が勝利を与えて下さったとはいえ、そんな財産を、彼は得てはならなかったのだ。その王達は今まで、人から分捕り、人を泣かせて所有したものである。そんなものは靴紐一本でももらったら、悪いものがつきまとってしまう。私達は確かに世において王であっても、イエス様のように、大切に、いつくしみ深く、楽しく、統治し支配するべきである。
 アブラムはむしろ、サレム(平和)の王、メルキゼデク(義の王)から、パンとぶどう酒を受け、祝福を受けた。
このメルキゼデクこそ、イエス様であり(ヘブル5-7章)、アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げた。
 
 その後、主は言われた。「わたしがあなたの盾、そしてあなたへの飛び抜けて素晴らしい報酬である」と(15:1原意)。 主の祝福とは、莫大な富や栄誉などをもらうという次元ではない。主ご自身こそ私たちの莫大な報いであり、それは、世のいかなる栄光や富にはるかに勝る報酬である。主ご自身こそ、私達キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける「相続」なのだ。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)
 アブラムの祝福の源は、主の言葉を即実行に移す「思い切りの良さ」と、主の言葉を握りしめた故の平安から来る「気前の良さ」であった。また、彼の失敗は、主の言葉の範囲を超え、世を見て、恐れ、媚びた事だった。世の富や栄光より、主イエス様ご自身を慕い求め、御言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」を身につけ、地上において栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

時代を祈りで支配し栄える者となれ(ダニエル1章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今年は、歴史的な一年である事は間違いない。中国武漢でのコロナに始まり、世界がコロナで弱っている最中、中国共産党は世界各国へ様々な侵略を始めたが、その直後、中国は洪水や台風、ばった、雷、雹などの災いが次々降りかかり、普段は絶対、聖書や神について言及しない日本のメディアさえ、出エジプトの記事を引用したり、神の罰と書くようになった。神は、表現しておられる。「わたしはある」と。生きておられる神が、「神はいない」と暴挙を働く者をどのようにあしらい、また、神を信じ、畏れ敬い、神の御旨を行おうとする人に、神はどのように報われるのか。本日、時代に働かれる神のわざを読み解く目を養いたい。
 
 今、世界が今一番求めているものは、コロナに効くワクチンだろう。通常、開発から実用化までに何年もかかるが、アメリカはトランプ大統領によるワープ・スピード作戦が功を奏し、今、早くも治験の最終段階へと入って、3万人を対象に検証しており、これがパスされたなら、即時、大量生産に入る体制に入っている。
 もし米国が真っ先にワクチンを世に出せば、トランプ政権のアメリカは大いに栄誉を受けるだろう。一方、コロナを拡散させただけでなく各地へ侵略をしている中国共産党は、世界中から叩かれ排除されるだろう。
 聖書で一貫して語られている事は、神を信じ、神の御心どおり生きる人には、栄誉が与えられるが、神を無いものとして暴虐を働く者は、呪われ、あざけりと衰退が待っている事である。私たちは、祈るべきである。
 
 トランプ大統領は、以前は世の罪と欲望に貪欲な人ではあったが、神を敬うようになり、彼の背後では、保守派のクリスチャン達が、祈りにおいて、実質において、強力にバックアップしている。
 彼に似た聖書の人物といえば、バビロンの王・ネブカデネザル王かもしれない。ネブカデネザルは当時、世界を制覇し、エルサレム神殿の宝物を奪い、多くのユダヤ人をバビロンへと連行したが、それは当時、ユダヤ人が、主に忌み嫌われる事をし続けた故に、主がそれらを彼に渡されたからだ。(ダニエル1:2 )
神が、汚れた者達に満ちたエルサレム神殿から、バビロンの宝物庫という最も安全な場所に移したのだ。
 ネブカデネザル王は、その後、好き勝手な振る舞いをする。自分の夢が解き明かせない知識人達を虐殺しようとしたり、偶像を建てて無理やり拝ませたりしたが、イスラエルの神・主を敬うダニエルと、その3人の友人達を通して働かれる神を恐れるようになり、神である主を拝むように、と、全世界にお触れを出した。
 当時、ユダヤ人は一切、神を伝えず、神の栄光を広めるより、むしろ、貶める事ばかりしていたが、ネブカデネザル王は、そんなユダヤ人がしなかった事、神の栄光を全世界に知らせる事に、大いに用いられた。
 そしてネブカデネザル王を裏で支配したのが、ダニエルと3人の友人である。『この四人の者には、神は知識を与え、全ての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまた全ての幻と夢とを理解した。』(17節)
 
 ダニエルは結局、バビロン、メド・ペルシャの3つの帝国で、重要な地位を務め上げ、栄えた。(20-21節)
 それは、彼自身、自らを清く保った故、神が用いたからである。どれ程清く保ったか。それは、彼を訴えようとする者達が、彼についてあら捜ししても、訴えるべき口実や怠慢は、一切、見出だせなかった程である。
 神は、きよい器をこそ用いられる。人でさえ、汚物がついた皿やコップは用いない。たとえ、黄金で造られていようとも、汚物がついているなら、主は黄金の器よりも、清い土の器のほうをこそ用いる。
 結局、時代を動かし、当時の大勢の人々に神の栄光をあらわしたのは、ダニエルであった。
 現代も、同じである。トランプ大統領が今なおその働きで成功しているのは、その背後で多くのクリスチャンの祈りがあり、それが彼を支えているからだ。天声でも、彼が大統領になる前から、祈りを積んでいた。
 
 私たちも、祈るべきである。世界情勢のために、またアメリカで開発しているワクチンが速やかに完成し、神を敬う民に軍配が上がり、コロナであえいでいる全世界が慰められるように。また、共産主義が世界から根絶され、イスラムの暴挙も根こそぎ取り除かれるように。これら全てを通して、神があがめられるように。
 ネブカデネザルを裏で動かしたのは、忠実な神のしもべ達、きよい器たちであったように、主は、主の御言葉をいつも思い巡らすテフィリン世代を、時代の支配者の上に立てられる。私たちもダニエルのようになり、この時代の忠実な主のしもべとして、霊において、祈りにおいて、裏で世界を統治していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

神の「良し(トーブ)」とは(創世記1:25)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先月より、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしているが、同じ御言葉を何百回と反芻していると、この31節の、ほんの数分で読めてしまう箇所から、深い知識や奥義を、大きな喜びや深い慰めを、生きるための秘訣などの宝を、次から次へと掘り起こしている。本日も創世記から恵みを得たい。
 
 『神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良し(トーブ)とされた。』(創世記1:25) 神は、動物や木や草を、鳥や魚を、種類にしたがって創造された。「種類にしたがって」の言葉が、この節で3回、1章全体で10回も繰り返されている。
神がそれらを「良し」としている所から、神の価値観が知れる。神は、多様性を「良し」とされているのだ。
 神は、一人ひとりを、固有の存在として創造された。AはAとして、BはBとして。決して、AもBもCもひっくるめてZになれ、とは言わない。それは「種類にしたがって」に反する。それなのに、いかに人は、自分と他人を比べて、自分はだめだと評価したり、神が造られていない別のキャラクターを演じて、疲弊してしまったりしているだろうか。動物や鳥、魚は、しない。あの鳥みたいに美しくなりたいとか、あの獣みたいにうまくできるようになりたい、それに比べて自分はだめだ、などと思って、絶望したり、自殺したりは・・・。
 神は、種類にしたがって、様々な個性をもった海の魚、空の鳥、野の獣、家畜、地をはう全てのものに対し、「生めよ、増えよ」と、祝福を宣言された。色々な種類が、それぞれ与えられた個性の本領を発揮し、その全体が、神の栄光をほめたたえる。それが、神の「良し」である。実際、ユダヤ人は、競争教育はしない。
むしろ、それぞれ神から与えられた得意分野を探し、見つけ、それを育成し、関係性を大切にしながら育って行く。彼らの教育法は、御言葉中心であり、小学からずっとクラス替えはせず、互いに同じ御言葉を学び、あるいは同じ学科を学び、それを議論し、口論し、そうして互いが、それぞれの分野でエキスパートに、リーダーとなって行こうという、リーダーシップを養う教育法である。これをハブルタ(友達)教育という。
 
 神の「良し(トーブ)」とは何だろう。私達は、トーブを、パーフェクト、ビューティフル、グッドとして習ったが、一体、誰にとってのパーフェクト、ビューティフル、グッドなのだろうか。創世記から分かる事は、トーブとは、神が「あれ」と言われた通りのまま、また、神が名を付け、神が使命を付与した、そのまま、が、トーブである。
すなわち、神が私達を創造して下さったそのままを、神が付与された意図をそのままを生きる事である。
 トーブは、誰か人間基準の「良し」では、決して、ない。怠け者にとっては、怠ける事が良しであるし、共産党にとっては、神が無い事、人民は意見や知識を持たず「見ざる、言わざる、聞かざる」なのが良しである。
 神のよしではなく、人間の良しに従って行くと、必ず、死に通じる。他と比べて優れているとか、劣っているとか、良いとか悪いとか、そういった神から離れた善悪判断こそ、死をもたらす概念である。神は言われた。善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ、と。
 私達は、他人の目から見る”良かれ”から解放され、神のトーブへと入って行くべきである。また、自分の目の”良かれ”からも解放され、サタンからの、御言葉に反する方向へと仕向けるささやきに、勝利するべきである。サタンがエバをそそのかした時、『女が見ると、その木はまことに食べるのに「良く(トーブ)」、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった』(創世記3:6)ので、彼女は食べてしまった。
「神が創られた通り」「神の意図どおり」。それが真のトーブであり、エデンをキープする道、祝福の道である。
 
 私達は神のトーブを知り、その道を歩むべきである。私達は、分からないかもしれない。はたして今、自分の道が、神のトーブに沿っているだろうか。どうしたら、神のトーブを知り、そうある事ができるだろうか・・・。
それは、とてもシンプルである。「御言葉どおり」がトーブである、という事は、御言葉を暗唱し、昼も夜も口ずさみ、御言葉の通り歩む事。すなわち、テフィリンする事である。御言葉を暗唱すれば、神の基準を知り、神のトーブは何で、今、自分がどのような地点を歩んでいるのかが分かるようになる。そして日々の選択において、どちらが神の目に良いのかが分かるようになる。そればかりではない。神のトーブに反するものが、自動的に嫌いになり、神のトーブに則したものが、自動的に好きになるようになって行く。
 今、私達も教会も、神のトーブを見いだし、伝えていかなくてはならない。神様の御心であるトーブな生き方を正しく教え、多くの人々を養い、栄光の次世代を産み出していく皆さんでありますように!
 
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