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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

礼拝の回復と神の民を復興させる働き人となるために(イザヤ61:1-10)

第一礼拝 Youtube動画

English Service:Lord's workers should always ask to the Lord(2Kings4:18-37) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今年、私達はルカ4:16-21とイザヤ61:1-10から、「主の恵みの年、主の復讐の日」を回復させる働き人となるビジョンが与えられた。あれから色々な事が進行した今、そのビジョンを今一度、確認したい。
 
 そのような栄光の働き人となるためには、まず主の御霊(聖霊)の油が注がれる事が必要だ(イザヤ61:1)。
主に油注がれた者・クロスはなぜ、王達や国々の上に立って、何の妨げも無しに国々の宝物を得られたか。
それは彼は、神殿を再建させ、神の民の礼拝を回復させるために、神様から特別に選ばれたからだった。
 私達もこの時代、真に礼拝の回復と、神の民の復興を切実に求め、働くなら、主は私達に聖霊の油を注ぎ、世の権威と宝物をゆだね、その働きを任される。天声・エクレシアは長らくそれを求め続けて来た。
 続いて「主の復讐」とは何か。それはルカ4:18以降にある通り、今まで貧しくさせられていた日々や捕われ状態だった日々への復讐であり、心に傷を負わされた事や、盲目にさせられていた事、また虐げられてきた日々に対する復讐である。私達もモーセやクロス王のように、神の民を長らく奴隷状態に縛り続けていた物事から解放させ、「主の恵みの年」へと塗り替え行く働きをするのだ。どうすれば礼拝の回復と神の民の復興が成し遂げられるか。その方法と原理は、既に学んできた。御言葉暗唱(テフィリン)によってである。
 
 もし私達がそのように「恵みの年」を始動させるなら、どういう有様になって行くのか、その内訳が、イザヤ61:3以降に記されている。すなわちシオン(神の民)の悲しむ者達に、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる、と書いてある。それはすなわち、今まで虐げられ、傷ついて来た神の民に、慰めをもたらし、喜びを回復させ、賛美を回復させていく働きである。
 さらに4節以降には、昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する働きが示されており、続く節では、世の人々の間で指導的立場になって行く事が約束されている。
 『他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司(コーエン)ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。』(5-6節)。 コーエンとは「祭司長」「人々の長」を意味する。
 主に油注がれ、主の御心にかなった働きをして行くなら、私達は「コーエン」、すなわち人々にとって祭司、神の言葉を教える者、人々の上に立つ指導者となって、国々の力を食い尽くし、その富を誇るのだ。
 『あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。』(7節)。 確かに、物質的な祝福も約束されているが、そもそも、主が物質的祝福を与えて下さる理由は、それを用いて貧しい人々を救い、世に主の恵みの支配をもたらす為だ。富が増しても傲慢になったり堕落せず、常に真実でいるべきである。
主は公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与える、と8節に書かれてあるのだ。
 さらに9節の有様は、まさに、テフィリン・インターナショナル・アカデミー(TIA)が実体化させていく内容が記されている。『彼らの子孫は国々の内で、彼らのすえは国々の民の内で知れ渡る。彼らを見る者は皆、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。』(9節) テフィリン教育(御言葉暗唱教育)によって育まれた若者たちは、ダニエルやヨセフのように、どんな事があっても神から離れないようになり、知性や様々な能力においても、天才的になる。そうして御言葉中心の教育で育て上げられた若者たちが、政治、経済、文化、教育、あらゆる面でリーダーシップを取って行くなら、国々は、主の栄光を見、人々は、御言葉中心の政治、経済、文化、教育のもとで、保護されながら歩んで行く・・・。今、コーエン大学で養われた働き人達を中心に、世界中で、御言葉暗唱教育のムーブメントが起こり、実際、そのような若者達を育てている。
 
 イエス様は言われた。「今日はこの御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」(ルカ4:21)。つまりイエス様の御言葉を、耳で聞いて、それを心に混ぜ合わせて「信じる」なら、それはその人の内に、また、人生に成就する。「あなたが信じた通りになれ」と主が言われた通りである。 主は、今、人のいないのを、うめいておられる。御言葉を第一にして歩む人や、時代のためにとりなす人、主のうめきを察知して、主の働きをする人が、いないのを。私達はこの時代、神と人との間に立つコーエンとなって、この時代に主の恵みの年、主の復讐の日々を実現していく働き人でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

主日礼拝

王たる者のたしなみと、王を育てる母のたしなみ(箴言31:1-9)

第一礼拝 Youtube動画

English Service:The way of flesh and the way of the Spirit(Rom8:9-14) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 本日は母の日である。母は、子にとってはトーラー、神の法であり(箴言1:8)、子は、父よりも母の影響を受けて育つ。女性はいのちを産み、養い、育てたい、と願う。神様がその機能と性質を備えられたからだ。
 1テモテ2:15に、女性は慎みと共に子を産む事によって「救われる(ソーゾー)」とあるが、ソーゾーには「完成する」「癒やされる」「全うされる」の意味もあるので、女性は、子を産んで、育て上げる事によって、完成されるのだ。それは、実際にお腹を痛めて子を産む事に限らず、霊的な子を産んで、一人立ちさせる事によっても、そうである。女性がエデン以来、産みの苦しみが増加されたのは、御言葉によってではなく、自分の善悪判断によって、子を産んだり、育てるからだ。いかにしたら、正しく子を育てられるだろうか。
 
 今回の箇所はマサの王・レムエルの母の言葉であるが、母のひとかたならぬ愛とうめきが込められている。
『わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。』(2節) 最初の語りだしは、マー(What? How? What!)という、感嘆の語を、3回も繰り返している。彼女が誓願をかけて得たこの子、苦しみつつ生んだこの子に、一体、何を伝えたらいいだろうか・・・。子に幸せになってほしい、間違った道に歩んでほしくない、とは、どの母も思うが、多くの母は、無知ゆえに、自分の善悪判断に従って育てて、失敗してしまう。本来、神の言葉に従って育てなくてはならないのに。
 母はうめく。一体我が子を、どうしたらいいだろう、と。そこで彼女が最初にいましめた言葉が、3節である。
『与えるな(置くな)、あなたの力(、富、権力)を、女達に。あなたの道を、王たちを摩耗・消滅させる者へ』(3節直訳) ここの「女」は複数形なので、神を知らない「異邦の女達」の事だろう。女とは、男性が夢中になる対象であり、そして男性の力で守り、愛し、育むべき相手である。「若い時の妻と喜び楽しめ、いつも彼女の愛に夢中になれ」と言われたが (5:18)、神の言葉よりも優先したり、支配権を逆転させたりしてはならない。神の言葉より妻の言葉を優先させてしまった結果、アダムとエバはエデンから追い出されたのだ。
 男性に限らず、女性も、夢中になりそうな異性や、溺愛しそうな相手(たとえば子供)には、気をつけるべきである。本来、自分が保護者として養い守るべき相手、すなわち、弱く無知で正しく守り導いてやらなくてはならない相手に、力や富や権力をあずけ切ってしまうと、神の国の秩序が脅かされてしまうからだ。
 エデンでは当初、神と、男と、女と、健全な三角関係があった。人は神を主とし、その上で、夫婦の正しい秩序を保っていた。その限りでは、エデンは楽園であったし、その時、共に裸であったけれども、全く気にならなかった。しかし、神抜きで、身勝手な善悪判断すると、家庭は壊れ、労苦するようになってしまった。
 レムエルの母は言う。王達を消し去る者に、ゆだねるな、と。ソロモンは、女達に主導権を握らせてしまった故に、偶像崇拝をするようになり、主の戒めを聞かなくなって、全イスラエルに災いをもたらしてしまった。
 私達も、キリストにあっては、御言葉で支配する王である。私達はその支配権を、手放してはならない。
 
 4-7節は、さらに、夢中にさせる物全般への警告が記されている。『レムエルよ、酒を飲むのは、王のする事ではない、王のする事ではない、濃い酒(シェカール)を求めるのは君たる者のする事ではない。』(4節)
 シェカールとは、うきうきさせるもの、夢中にさせ、中毒性をもたらすものであるが、特に、神の国と関係の無い、そして自分の意思で止める事が難しい「シェカール」の類を求めるのは、王たる者のする事ではない。
 それはアルコールはもちろんのこと、インターネットから流れてくる架空のコンテンツやメディア情報など、現実を離れさせ、ぼんやりさせるもの全般である。それらは、本来、取り組むべき仕事のための時間や、お金、エネルギーを浪費させ、仕事を「かったるい」と思わせたりする。王たるものは、そうしたものにうつつを抜かして、勅令(ハカク:刻まれた言葉:テフィリン)を、口から宣言する事を、忘れてはならない(5節)。
 
 8節は「あなたは全て口の利けない人、すなわち滅びが定められている者たちのために、口を開け」と訳せる。つまり、御言葉を口で言えない霊的な「おし」は、滅びへと向かっているのだ。実に多くの人が、そうである。キリストにあって王とされた私達は、そのような人のために、テフィリンした御言葉という「勅令」を口から発し、行くべき道が分からず滅びへ向かっている人を救って行くべきだ。この時代、王とされた者として、テフィリンした御言葉の勅令を口から出し、霊的な子にしろ、肉的な子にしろ、御言葉によって正しく育て上げて、立派な王へと育て上げていく私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

主の霊が留まる人にあらわれる性質(イザヤ11:2)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Walk in the Spirit(Rom8:1-8) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 5月の聖句は、イザヤ11章2節である。『その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である』。この箇所は、エッサイの根株から生じた「新芽(ネツェル:切り株から生じた全く新しい芽)」が示されており、それはすなわち、ナザレ人イエス・キリストを指す。
 その根株とは「切り株」、すなわち、一度は巨木へ成長したのに、高ぶった故に、切り倒されてしまったのだ(10:33-34)。実際、ダビデの子・ソロモン王の家は、祝福されると、高慢になり、信仰が変質して行ってしまったため、その王家は切り倒されてしまった。それで、ソロモン系列ではないダビデ王家の子孫から、イエス・キリストが出た(ルカ3:31)。主は、人の知恵や力由来の高慢が混ざった力は、用いない。むしろそれは切り倒し、人間の力の混じっていない、主の復活のいのちの力を通して、御国を建てられる。
 
 イエス様がバプテスマを受けて水から上がられた時、聖霊が鳩のように降りてきてイエス様に留まり、「その上に主の霊がとどまる」と預言された言葉が成就した。私達も、バプテスマを受け、イエス様へ接ぎ木されているなら、同じ霊が私達にも流れ込んでくる。その霊にはどのような性質や能力があるか。2節にある。
 1,知恵(ホークマー):wisdom 、知恵,知性,思慮。 2,悟り(ビーナー):understanding 、理解,識別。 3,はかりごと(エツァー):counsel 、計画、助言。 4,能力(ゲブラー):might、力。 5,主を知る「知識(ダアト)」:knowledge 、知識,理解,認知。 6,主を「恐れる(イェーラー)」:fear 、畏怖,尊敬,敬虔。
 私達もキリストにつながり、これらの性質に満たされるなら、もはや過ちや間違いは犯さなくなり、世のどんな力も、知恵者も、その人には太刀打ちできない。ちょうど、神の霊で満ちたダニエルやステパノのように。
 また、表面上の物事に騙されなくなる。その人は、目で見える所によって判断せず、耳で聞く話で判断せず、むしろ、公正と義をもって判断するようになり、特に寄るべのない人や貧しい人を正しく導き、また、口のむちをもって地を打ち、「くちびる(サーファー)の息(ルアッハ:霊)で悪者(ラーシャー)を殺す」(3-4節)。 
このサーファーとは、「唇」の他に、「言葉」、「境界線」、「縁」という意味があり、ラーシャーは、道徳的な悪を積極的に行う性質、あるいは、そういう人を指す。すなわち、そのような唇から出る息こそ、御霊の与える御言葉の剣であり、私達の中の、あるいは人の中の邪悪な性質や、反道徳的な性質を刺し殺すのである。
 
 聖霊の油が注がれて、御霊に導かれて歩む人は、もはや、世の肉欲を満たしながら生きるためではなく、主の御国をこの地にもたらすために生きるようになる。そのため、肉の判断ではなく、霊の判断によって判断し、また、人間的なやりたい時にではなく、主の時に促されて事を起こす。主に油注がれた王・クロスは、人の技とは到底思えないような手段とタイミングで、バビロンに勝利し、ペルシア帝国を大いに栄えさせた。
 そして、そのように主の霊に導かれた人が統治する世界は、平和になる。その究極形態としての、イエス・キリストが統治する世界が、6−9節に記されている。そこでは、狼は子羊とともに宿り、子牛と、若獅子と、肥えた家畜は、共にいて、小さい子どもがこれを追って行く。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食うようになる・・・。9節に、そこがこんなにも平和である理由が記されている。
そこは「主の聖なる山」という領域であり、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」状態なのだ。
 獅子や熊が、牛と一緒になって草をハムハムする・・・。そう、主の知識である御言葉をテフィリンし、それが、私達の中に満ちると、どんなに獅子や熊、狼や蛇のような性質であったとしても、それらは抜き去られ、平和な食物を食べる者へと創り変えられ、主の聖なる山で、永遠に、平和の内に生きるようになる。
 
 私達はこの日本に、そのように平和な「主の聖なる山」をもたらす者になりたい、と、思わないだろうか。そのためにはまず、私達の中の高慢が切り倒されなくてはならない。人間的な誇りや高慢の一切混じっていない、「新芽」であられるキリストへと接ぎ木され、この御方につながり続けるなら、そうしている内に流れ込んで来る聖霊の油によって、豊かな実を結び続け、流れ込んでくるいのちに、満ち溢れるようになって来る。
 『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:5) 私達が御言葉にとどまり続けるなら、大胆に、主に何でも求める事ができるようになる。海が水で満ちているように、主の栄光でこの地を満たす、栄光の働きに、豊かに用いられる私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

主日礼拝

ディアスポラ:聖霊の風によるいのちの拡散(ヤコブ1:1)

第一礼拝 Youtube動画

English Service: Διασπορά:Scattered - God's great will(Jam1:1-5)  Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 先週は、二年半ぶりにキム・ヒョンジョン博士(米国コーエン大学副総長、テフィリン国際宣教会会長)をお招きし、コーエンジャパンの講義を行う事ができた。コロナの時代、海外の講師を日本にお連れするには、幾つもの許可や資料が必要で、受けるべき諸々の検査に不備が一つでもあったら実現しなかったし、また、準備の時期に関係者の一人でもコロナに感染したら、実現できないという、実に、信仰が試されるセミナー開催だったが、主は全ての青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折り、御言葉の真理の秘められた宝を、ざくざくと開示して下さった(イザヤ45:1-3)。ねたむ霊的存在からの妨害も、色々あったが、主は私達をあらゆる面で支え、成功させて下さり、私達が進んでいるこのテフィリンの道、御言葉中心の道は、確かに主が祝福し、守り、道を開いておられるという事が、ありありと示された。栄光の主をほめ讃えます!
 約2年半ぶりのキム先生の講義は「変わった」と言う人が多かった。確かに今まで、キム先生の講義は、博士課程の講義とは思えないほど、面白くて楽しい、けれども、難しい所もまた多かった。しかし今回のテーマはとても難しい内容のはずなのに、面白くてわかりやすい!という人が続出したのだ。この2年、キム先生にどういう変化があったのか。先生を空港にお届けする道中、その秘密をお伺いする事ができた。
 
  先生は、コロナ禍ゆえに、海外渡航制限されて以来、世界中を飛び回って講義する事が出来なくなり、手足がもがれてしまったかのように見たが、実は、それがかえって、全世界のテフィリン活動が熱くなるきっかけとなったのだ。ちょうどパウロが、ローマに行きたくても「神がかり的な妨げ(エコルセン、ローマ1:13)」に遭って、どうしても行けなかったように。しかし、その「妨げ」のおかげで、パウロはローマ書という書簡を書き残し、その素晴らしい内容が全世界へと広がり、今こうして、私達も、養いを受ける幸いにあずかった。
 キム先生も、世界に出て行けなくなったお陰で、テフィリン国際宣教会(TEIM)が立ち上がり、コロナ前に先生がテフィリンの種を蒔いて育っていた世界中の弟子達を通して、1189節の御言葉暗唱を、世界同時に行うプロジェクトが発足し、今、日本の私達も同じテフィリン箇所を全世界の仲間と一緒に暗唱している。
 現在それに参加している国は37ヶ国、テフィリン映像を制作できる国は、日本も含め9ヶ国に上っている。
 海外渡航が閉ざされ、世界でセミナー開催ができなくなった時、収入の見込みがなくなり、もはや働きができなくなるかのように見えたのだが、奇跡が起きた。キム先生と面識のない方々からの献金が続々集まり、全ての必要が賄われたのだ。神様は、テフィリンに関しては、道を開いておられる、という事なのだ。
 
 この2年半、先生はテフィリンの弟子達を養うために、聖書の一節一節について、四百字原稿用紙3〜5枚分ほどの解説を書くようになった。それは、どれ程の事だろうか。たとえば、「夕があり、朝があった。第三日」(創世記1:13)という、たった一節から、千字以上の解説を書き上げる事が、私達にできるだろうか?
 先生はあれ以来、一節の御言葉をじっくり読み、何度も声に出して宣言し、原語で一語一句を調べ思い巡らす、という作業を、何度も繰り返した。すると主が、その御言葉に込めて下さった命を与えて下さるのだ。
 神の言葉は、一節の中に、宇宙以上の価値が込もっており、御言葉のひとつを集中して何度も宣言し思い巡らしていくと、主が語りたい事が、聖霊を通してダウンロードされ、文字に起こす事ができるようになる。
 そうして聖霊によっていのちが与えられたその言葉は、血肉を帯び、感情を掻き立て、本能的・直感的に理解を与え、時には責め、戒め、あらゆる人に(子供であっても)わかりやすい、養いの言葉となるのだ。
 そして「文書」は残り、蓄積され、その書き残されたものは、全世界へと拡散されていく。あたかも、植物の種が、神様が起こした台風によって捲き上げられ、気流に乗って、拡散し、神様の意図する所へと運ばれ、落ちた所で芽を吹き、根を張り、育って、さらなる実を結び、数千億とも言える生き物たちを養うがごとくに。
 
 『神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、「離散している(ディアスポラ)」十二部族の人々へ、あいさつを送る。』(ヤコブ1:1) この言葉の元であるディアスパイローは、「ディア(あちこちに)」+「スパイロー(種が蒔かれる)」である。つまり「ディアスポラ」になる事は、神による意図的な種の拡散なのだ。一見すると絶望的な「散らされざま」に見えても、それは神の主導によるものであり、結果的には至る所にいのちの実が結ばれて行く事になるのだ。この時代、主が吹かせて下さった聖霊の嵐に乗って、テフィリンの種をさらに拡散させ、その実を豊かにみのらせていく私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

主日礼拝

終わりの時代の残された者になろう(ローマ11:4-5)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭(イースター)、主イエス様の復活を記念する日である。本日は特別に、テフィリン国際宣教会(TEIM)代表、キム・ヒョンジョン博士に、メッセージしていただく。
 『ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルに膝をかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。』(ローマ11:4-5)  
 この箇所は、旧約・第一列王記19章で、主がエリヤに語られた箇所からの引用である。かの時代、神の民と言われていた者達の誰もが、不信仰に陥ってしまった時代だった。そんな中、主に熱心に仕えたエリヤは、祈りによって天から火を降し、3年半も降らなかった雨が降るようになった。それを見た人々はこぞって「主こそ神です」と叫んで、信仰が一気に回復したかのように見えたが、たった一人の女・イゼベルの、たった一言によって、彼が今まで熱心に為して来た労苦と働きは、一瞬にして台無しになってしまった。
 エリヤは逃げて、大いに意気消沈し、「主よ、もはや充分です。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と願うまでになってしまった(1列王記19:4)。 しかし主は、復活の主であり、主にとって「復活」はお手の物である。主は、心が死んでしまったかのような働き人を、復活させて下さる。
 
 エリヤは全てを放り出して、木の下で眠っていたが、そんな彼に主が送られたのは、彼が願っていた「死」ではなく、むしろ、焼いたパンと水だった。復活の主イエス様も、弟子達に同じようにして下さった。弱さ故に過ちを犯してしまった傷心の弟子たちに、主は現れ、ご自身が焼いて下さった魚とパンを、弟子たちに差し出された(ヨハネ21:9-13)。 私達の主は、そのようなお方である。そのような主の直接の養いは、苦心して働く働き人に親密に与えられる、特別な特権であり、それによって養われる働き人は、復活する。
 主は、傷心のエリヤに、御使いを遣わされた。『主の使は再びきて彼に触って言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(7-8節) エリヤにはまだ、多くの成すべき「使命」があった。たとえ傷つき、疲れ、倒れてしまっても、主は、そんな働き人に直接の養いを下さり、そしてそれを頂く人は、どんな険しく、長い道のりでも、進み行く事が出来る。そして、人にはとうて出来ない「主のわざ」をするようになって行く。復活の主は、死を打ち破る爆発的な力を下さるのだ。
 
 エリヤは神の山ホレブに到着し、主の御前に自分の思いを全て投げ出し、一対一で交わった。とても激しく。そして、とても親密に…。その時、主が言われたのが、この言葉である。 『しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を「残しておく(שָׁאַרシャエル)」。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」』(1列王記19:18) シャエル(残された者)法則。それは、主が取って置かれた者、残しておられた者を通して、主が時代に介入される法則である。 どういう人が「残された者」として、主に用いられる働き人となるのか。それは、御言葉暗唱をして、御言葉が息吹かれた働き人、である。
 終わりの時代、主が用いられる人は、忍耐して神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続ける聖徒(黙示録14:12)、つまり、1,旧約の戒めを守り、2,イエスを信じる信仰を持ち続ける、という二つの「守る(シャマール)」を持つ人、すなわち旧新約の御言葉をそのまま暗唱する人が、終末時代の主人公となるのだ。
 
 エリヤはこれ以降、もはや、独りで戦うのではなく、主のために戦う次世代を育て、建て上げる働きへ入る。
主はエリヤに「ダマスコのハザエルに油を注いで王とせよ」と命じられたが、ハザエルを王としたのはエリヤではなく、後継者のエリシャだった。その後、エリシャの預言者のともがらの一人が、ニムシの子エフーに油を注いだ(2列王記9章)。「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは「預言者学校の生徒」と訳されている(2列王記2:3-5)。エリヤはかつて、預言者は全員殺されて自分しかいなくなった、と思ったが、主はバアルにひざをかがめない7千人を「残してシャエル」おられた。彼は後に、預言者学校を立ち上げ、多くの若手預言者たちを育成して行ったのだ。主と一対一で親密に交わり、復活の力を得たゆえである。
 今この時代、私たちは御言葉暗唱して、エリヤのように「御言葉暗唱学校」をつくり、暗唱学校の生徒を、主にある「残された者」として育て上げ、この時代に主のために使命をもって働き、主の栄光を届ける「時代の主人公」を育て上げていく私たちでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

十字架の主への感謝はあるだろうか?(ヨハネ12:24-25)

第一礼拝 Youtube動画

English Service: Why "Passion Week"?(Sol8:5-7) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 本日は「棕櫚の聖日(パームサンデー)」、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城した時、人々が衣服やしゅろの葉を置いてイエス様を歓迎したのを記念する日である。イエス様は、群衆がしゅろの葉を持ってホサナと叫びながら迎える様を、どういう心境で見ておられただろう。彼はご存知だった。その一週間後、彼らの「ホサナ」は「十字架につけろ」へと変わり、弟子達からも、そして神からも捨てられる、という事を。
 群衆はなぜ、そのように様変わりしてしまうのか。弟子達はなぜイエス様を捨てたのか。それは、人は、自分が心地良く都合がいい事を「正解」とし、都合が悪く心地悪い事を捨て去る性質があるからだ。しかし主は言われる。『自分の「命(プシュケー:自分主体の心理)」を愛する者はそれを失い、この世で自分の命(プシュケー)を憎む者は、それを保って「永遠の命(ゾエ:霊的・天的生命)」に至るであろう。』(ヨハネ12:25)
つまり、自分の思い・意思・感情よりも、神の言葉、すなわちイエス様を選択する人は、復活の主イエス様へと接ぎ木され、永遠の命の源泉なる神へとつながり、後に続く世へ存続するいのちを獲得するのである。
 
 私達は本能的に、御言葉は正しい、とはわかる。けれども、御言葉が「良し」と示す事をせず、「悪し」と示す事を捨てずに、御言葉を無視して、あくまで自分の好む事を貫き通すなら、不義をもって真理を阻む事になってしまう(ローマ1:18)。そうしているなら、その分だけ、呪いめいた事、災いめいた事が起きてしまう。
 人はすべて、エデンの園以来、神の言葉に逆らって神から離れ、自分の善悪判断に従って歩み続けた故に、無意識的・自動的に、滅びへと向かう生き方以外を、知らなかった。しかしイエス様は、私達が知らないでやっていた罪については、十字架上で執り成し祈ってくださった。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と。そして本来私達が受けるべき罪の刑罰を、イエス様は、身代わりになって、受けてくださった。それを信じて、救われた人間が、私達・クリスチャンである。
 私達は、私達のために十字架上で痛まれ、私達の身代わりに死んで下さったイエス様への感謝を、どれ程、感じているだろうか。自分の罪に、申し訳なさを感じるだろうか。自分の弱さに、ふがいなさや悲しみが出てくるだろうか。そして、そんな自分が、罪と滅びから買い戻され、救われた事への感謝と喜びの感覚が、あるだろうか?主がして下さった事への感謝を、言葉だけでなく、ありとあらゆる感情や感覚をもってあらわす事、それが天国への道である。天国は永遠に、感謝と喜びの賛美があふれているからだ(黙示録5章)。
 
 しかし、もしひと度、福音を聞いて救われ、その喜びと御国の素晴らしさを味わっていて、敢えて御言葉を捨てて、自分のよかれで歩んで行くなら、その人の下すあらゆる選択は「愚鈍の極み(アスネトス)」となる。
 『なぜなら彼らは神を知っていながら神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その無知な心(アスネトス)は暗くなったからである。』(ローマ1:21) 「感謝もせず」と訳された語ユーカリステオーは、感謝の意を表明する事である。英語の感謝(thanks)は、考える(think)と密接に関わった語である。
 つまり、神様への感謝は、具体的に表明すべきものなのだ。神様はこの案件に、どう介入し、いかに成功させて下さったか、その一つ一つを熟考し、感情を込め、具体的に感謝を捧げなさい、という事である。
 神をあがめ感謝すべき場面なのに、それらを捧げないなら、一つ、愚かさを積み上げる事になる。だから神への感謝が無い人は、次から次へと愚かになって行き、悪の力に縛られ、人生の諸々が、悲惨な状態へと傾いて行ってしまう。そうして「愚鈍の極み(アスネトス)」になると、物事を「正常に考える」という軸が無くなり、あらゆる事を、愚かで邪悪な方法で片付ける以外に、思いつかなくなり、サタンの手下として思うがままに用いられてしまう。そのような状態の人が助かる道は、1つしか無い。
「神に感謝する事!」  それも、 具体的に感謝を表明する事によって。
 
 私達は、私達のために十字架で痛まれ、悲しまれ、神に捨てられたイエス様に、感謝しても、し尽くせないはずである。イエス様が身代わりに死なれた事への申し訳なさ、自分のふがいなさ、そしてイエス様が為されたわざの故に、贖われ、救われた事への感謝や喜び、また、ありとあらゆる「感覚」を表現しながら、感謝と賛美を捧げる人には、全ての祝福が戻ってくる。ネブカデネザル王は、そうだった(ダニエル4章) 。
 この時期、十字架の主が具体的に自分に何をして下さったのか、今一度思い返し、感謝と賛美を捧げ、主との関係を一層親密に深めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

主日礼拝

この宇宙の下で最も尊く大切なもの(1コリント13:13)

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English Service: When Jesus visits you(Luk19:1-10) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今月の聖句は、第一コリント13:13である。パウロは勧める。あなた方はより優れた賜物を熱心に求めなさい、しかしどんな賜物にまさる道がある、それは、愛である、と(1コリント12:31)。この宇宙の下で、最も尊く、大切なものが「愛」であり、これこそ、私達が真っ先に追求し、そして身につけなければならないものである。
 クリスチャンの中には、「すごい」と思えるような賜物を持っている人は、確かにいる。心に秘めた事や、将来を言い当てる「預言」の賜物を持つ人、あらゆる奥義や知識に通じているかのような人、あるいは、この人が祈るなら、山をも動かせるのではないか、と思えるような信仰の人など。あるいは、持っている物を全部、貧しい人達に分け与えるような人や、自分の体を焼かれるために渡す程の、すごい犠牲を払う人もいる。
 しかし、そうした「すごい賜物」を持っているからといって、必ずしも、神と人から評価されるわけではない。
書いてある。もし「愛」が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルであると(1節)。
このアララゾーとは、鬨の声を大声で叫ぶ際の擬音で、やかましく喚きちらす事である。つまり、たとえそうした「すごさ」を持っていたとしても、愛が無いなら、その「すごさ」が、逆に「やかましい」と厭われてしまう。
すごい奇跡が起きたね、でもそれが何? あなたはすごい信仰だね、だから何? わたしの渇いた人生に、それが一体何の足しになるの? と。たとえ、そういったすごさは無くとも、愛があるなら、人の心は動くのだ。
私達キリスト者は、なぜ、イエス様に心惹かれ、イエス様について行くようになっただろうか?それはイエス様が、私達を愛してくださったから、ではなかったか。しかも、十字架上で、ご自分のいのちを投げ出すまでの愛で。だから、私達キリスト者も、イエス様にならって、愛を追い求め、愛を振りまいていくべきなのだ。
 
 自分に愛があるか無いかは、4節以降を「逆」に読むと見えて来る。すなわち、愛が無い人は不寛容であり、不親切であり、よく人を妬む。愛が無い人は、自慢し、高慢になり、礼儀に反する事をする。愛が無い人は、自分の利益を求め、怒りに身を任せ、人がした悪をよく勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。
愛が無い人はがまんできず、信用せず、期待せず、耐え忍ばない。そういう人は、どんなに「すごい」事をしてみせたところで、やかましいシンバル、すぐにでも止めて欲しい「騒音」となってしまうのだ。
 パウロは言う。完全なものが現われたら、不完全なものは廃れる、と(10節)。つまり預言も、異言も、知識も、そうした賜物は、所詮は完全なものの一部分を映す鏡に過ぎない。パウロはさらに続ける。子どもの時は子どもとして話し、考え、論じた、と。つまり、「愛」と比べるなら、それらのものは「子供のたぐい」「鏡にぼんやり映るたぐい」なのだ。真に価値あるものは「愛」であり、愛そのものであられるイエス・キリストである。
 私達は、彼によって完全に知られており、彼にあって、ぼんやり鏡に写ったようなものを完全に知る事ができる(12節)。優れた賜物を熱心に求める事は、確かに重要ではあるが、愛が無いなら、何にもならない。
愛があってこそ、物事を完全に知り、物事をわきまえ、全ての賜物が、完全になるのだ。
 
 この宇宙、この三次元世界は、愛の実体であられるお方・イエスキリストの再臨と共に、巻き去られる。
その有限世界の下で最も価値あるものは、愛である。愛が目指すところは「いのち」であり、愛が最も言いたい事は「生きなさい」「存在しなさい」である。それが、愛なる神様が、私達に願っておられる事である。
 自分には愛が無い、どうしたら愛が自分から流れ出るようになるか、と思う人は、私達をはじめから愛してくださったイエス様を、神の御子と告白し、その愛の内に留まり続けているなら、自然と身についてくる(1ヨハネ4:7-21)。イエス様は、私達が生きるように、と、ご自身のいのちを差し出し、身代わりとなって下さった。
 それに対し、サタンは、愛を破壊する「善悪判断」へと誘い込み、愛のわざを、あたかも損得勘定の「損」と思わせ、愛のわざを、くだらないと思わせ、愛から離れるように仕向けて来る。そしてサタンの願うところは、「生きるな」「存在するな」である。私達はサタンのわざを踏みつけ、キリストの働きをするべきである。忘れてはならない。この世で最も価値あるものは、愛であり、世の富や地位は、何も永遠へと加えるものは無い。だから、愛によって子育てしている専業主婦のほうが、愛が無い高給取りよりは、はるかに値高いのだ。
 神の御子が十字架でいのちを投げ出す事は、究極的に無駄な事に思えるかもしれない。しかし、それによって神のこよなき愛が示された。イエス様の十字架こそ、この宇宙で最も価値のある愛のあらわれである。
 イエス様にならい、この限りある時間、限りある地上の命を、人を生かし、次世代を生かし、真理をつなげるために、いのちを燃やし尽くして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

 

主日礼拝

知恵と啓示の霊を、思慮分別の霊を、求めよ(ダニエル2:1-30)

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週報/メッセージ(説教)概要

 バビロンのネブカデネザル王は、かつてなかったような無茶な難題を、バビロンの知者へ突きつけた。
自分が見た夢を言い当て、その解き明かしをするようにと要求し、それができないなら、その人の手足を切り離して、その家を滅ぼし、ごみの山とする、と、言って来たのだ(1-6節)。人が見た夢の内容など、言い当てられられる訳が無いので、バビロンの知者達は、まず、夢の内容をお話しください、と返す(7節)。しかし王は、頑として言う。あなた方は時間を稼ごうとしている、もし出来ないなら、判決は同じだ、と。一方はあれを要求し、他方はこれを要求して、互いに話が噛み合わないまま、互いの感情だけが険悪になって行く…。
 そもそも王は、なぜこんな非常識な難題を押し付けて来たのか。それは、王は、夢を見て心が騒いだからであり(1,3節)、速やかにその解釈を知りたかったのだが、肝心の、自分の見た夢の内容を、覚えておらず、ただ、内容のインパクトが強かった、という事だけを覚えていて、眠れないまでになってしまっていたからだ。
 
 いつも王の近くに侍っていたバビロンの知者達は、普段から、呪文や神伺いなどを駆使して、何もかも解決できるかのように振る舞っていたので、王としては、彼らには夢の内容と解き明かしが言い当てられるだろう、と、思っていた。ところがバビロンの知者たちは、この期に及んで、そんな事ができる人は一人もいないし、そんな難問をつきつけてきた王は誰もいない、と返して、結局、今まで彼らが行ってきた事は「人間わざ」だったと自ら暴露した。それで王は大いに怒り狂い、バビロンの知者を全て滅ぼせ、と命じた(12節)。
 強硬に要求をゴリ押しして来る人は、自分の思い通りに動いてくれない相手を、短絡的に「無能」呼ばわりし、イライラする。もしその人が強権を持った上司であるなら、大いにやっかいだが、そのような相手に一番してはならない事は、自分の正論をそのままぶつけ、短絡的な解決方法を押し通す事である。そうしてしまうなら、大切なものを失ってしまう。大切な人間関係、積み上げた信頼、そして最悪、大切ないのちを。
 そういう場合に必要なものは「知恵と思慮」である。ダニエルは、自分を殺しに来た侍従長に「知恵と思慮」をもって応待したので、殺しに来た彼らの心をやわらげ、事の詳細を引き出す事に成功した(14節)。
 私達も知恵と思慮を身につけるなら、子育てや夫婦関係、友人や上司との関係において、失敗する事は無くなる。だから私達は、ワンダフルカウンセラーであられる主イエス様に求めるべきである。あなたが見るように見させて下さい、あなたが聞くように聞かせて下さい、あなたの知恵と啓示の霊を与え、思慮分別の霊を、わたしにも与えて下さい、と。 ダニエル達は、祈り求めた結果、与えられた(17-19節)。主は、知恵を求める人には、誰にでも、惜しげなく、咎めることなく、お与えになるお方である(ヤコブ1:5)。主は、人の心に隠れた事を解き明かし、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられるお方だ(20-23節)。
 
 ダニエルは、王の前に連れて来られた時、社会的身分は「ユダからの捕虜」であった(25節)。そうでありながら彼は、ネブカデネザル以上に、世界に神のわざをもたらす影響者となった。実際ダニエルは、3つの覇権国、合計4人の王の代を、生きて、栄えた(1:21)。人の世の地位と、神が授ける地位は、違うのだ。
 ダニエルは王に言った。あなたが求める秘密は、世のどんな知者も示す事はできないが、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、終わりの日に起こる事を王に示されたのです、と(27-29節)。ダニエルは王に、あなたは寝床で、この後何が起こるのかを思い巡らされました、と言い当てたが、なぜ、それができたのか。
 世のカウンセラーは、他人が寝床で思い巡らした内容など分からないが、ワンダフルカウンセラーである主は、全ての秘密も、問題の本質も、そして、それら全部の解決方法も、ご存知である。
 王は、夢の内容を思い出せなかったが、全ての人も同様に、自分の問題の原因を、思い出せない。
どうしてこんなに心が騒ぐのか、どうして皆、とんちんかんなアドバイスしかくれないのか、なんで皆、自分を奇人扱いするのか。人は、どうして自分自身の性質がこのように形成してしまったかを、思い出せない。
 このように、本人すら分からない心の思いと問題の本質は、知恵と啓示の霊と、思慮分別の霊によって味付けられた人こそ、真に、解決への糸口へと導く事ができる。だから私達・クリスチャンは、四六時中、ワンダフルカウンセラーであられるイエス様に祈り、求め、聞くべきである。イエス様と、いつもひっきりなしに交わって、共に歩んで行くなら、ダニエルのように、知恵と啓示の霊が与えられ、思慮分別の霊が与えられ、時代を支配し、神の国をもたらす者、栄える者とされて行くのだ。ワンダフルカウンセラーであるイエス様にいつも求め、御霊を得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

 

主日礼拝

時代を制する者となる秘訣(ダニエル1章)

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English Service:The Secret of Becoming a Conqueror of this generation(Daniel 1) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 ダニエルとその友人達は、激動の時代を経験した。彼らの国・イスラエルの信仰が堕落し、バビロンという異教の国が力を得て、彼らはそこへ囚われて行ってしまったが、彼らはそれでも、見事、御言葉の基準を貫き、彼らを通して、世界は真の神を知り、彼らは時代をリードする人物となった。まさに今、全世界は、彼らのような人材を待ち望んでいる。彼らのような次世代を生み出す極意を、ダニエル1章から得ていきたい。
 
 ダニエル1章には「神が与えた」という重要なキーワードが、3回登場する。 その一番目は2節にあるが、2節の「与えた」は、あまり有り難いものではない。主は、神の宮の宝物と、世界の政治・経済・文化・教育の支配権を、バビロンの王へ「与えた」のだ。なぜ神は、神の言葉を微塵にも重んじない異邦の王に、それを与えたのか?それは、「神の民」と呼ばれる人達が、主に忌み嫌われる事をし続け、預言者を通して警告されても無視し続けたからだ。そのような事を続けるなら、聖なる器と支配権を、神の民から奪い、異邦の王へと「与え」るのだ。主はいつも、主に忠実で熱心な神の民を探し求めておられる。どんな暗い時代であっても、いかに異教の地であっても、また、どんなに人数が少なくても、主は、彼らを通して、威光を表される。当時、そのような、主の御旨にかなった少年達が、バビロンへ連れて行かれた中に4人いた(3-7節)。
ダニエルと、彼の3人の友人たちである。彼らは親元である神の民の中から引き離され、神の国の価値観から程遠い国のただ中に強制連行されても、御言葉の基準を固く貫いた。多くのクリスチャンの子供は、親元から離れたとたん、羽目を外してしまいがちだが、そのような子供達は、世の荒波に飲まれ、挫折し、何もかも失った末に、ようやく神様と出会う、という、お決まりのパターンの「無駄足」を踏んでしまう。
 ダニエル達は、そういった「寄り道」は一切せず、神と人から重んじられ、その時代に神の栄光の支配をもたらす者となった。彼らのようになるにはどうしたら良いか。彼らは自分の身を汚すまいと決心したが(8節)、彼らが決心をしたその知識は、彼らがバビロンに移される前、親から受けた御言葉教育の故だった。
 彼らは幼少期からテフィリンし、御言葉の知識があって、その基準を守ろう、という熱心が、既に子供の時から備わっていたのだ。そのような人に、神は、知恵と能力と地位と、その時代の支配権を「与えられる」。
 
 二番目の「神が与えた」は、9節にある。「神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。」
 彼らは、王の食卓からの飲食物を、律法に照らして「汚れたもの」と断り、野菜と水だけを求めたが、そのような失礼な事をするなら処刑させられてもおかしくはなかった。神は、そんな健気な彼らに図らって、逆に、上役に好意を得させ、十日間、彼らが申し出た通り試すようにした。その結果、十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、体も肥えていた(10節)。「顔色(マレーヘ)が良い(トーブ)」とは、外見がパーフェクト、ビューティフル、グッドになったという事で、また「肥えていた(バーリィー)」とは肥満という事ではなく、体格ががっちりした、つまり、ナイスバディになったのだ。
たった10日試しただけで、ビフォーとアフターが明確なほど、外見もボディも美しくなった、だけではない。
 
 三番目の「神が与えた」が17節にある。神は彼らに知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた!
これは、学校で学んでいる子供や、御言葉学校やコミュニティセンターを建てる私達に、まさに必要なものである!これらが与えられたいなら、私達も、世の価値観や映像など、汚れた「罪の飲み食い」を断り、ただ神様が「よし」とされたものを願い求め、採り入れるのだ。そうするなら、美しい外見やボディのみならず、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられる、ばかりではない。あらゆる面でダントツになって行く。
 彼らは3年の過程を修了し、王の前で面接を受けた時、誰も彼らに並ぶ者は無かった(19節)。王が彼らに尋ねてみると、彼らは知恵や悟りやあらゆる面で、国中のどんな知恵者より「十倍も」勝っていた(20節)。
そしてダニエルは、バビロン、メディア、ペルシアという3つの覇権国で、ずっと重要な地位にあった(21節)。
そのようになりたいだろうか?それならまず、私達自身がテフィリンして御言葉を暗唱し、ダニエル達のような価値観を身に付けよう。彼らのように、主の嫌われるものを断ち、ただ主に喜ばれるものを求めるなら、上に立てられた人々からの好意が「与え」られ、良い外見やボディも「与え」られ、さらには世に十倍まさる知恵や悟りが「与え」られる。そうして神を第一とする仕組みを建てあげ、この時代、素晴らしい御言葉教育の機関をつくり、誰もがあっと驚くような子を育て、次世代リーダーを送り出して行く私達でありますように!

 

 

 

 

主日礼拝

無割礼の強者が「仕組み」を強要して来る場合(1サムエル記17章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 ゴリヤテは、身長2.9メートルの巨体に、殺傷力が高い武器や防具を身につけ、幼い時から戦闘訓練を受けてきた能力にモノをいわせ、神の民を脅し、彼のルールを押しつけて来た。「お前らはサウルの奴隷ではないか」「一人よこせ」「勝負して勝ったら奴隷になってやる」「勝負に負けたら、お前達は奴隷になれ」と(4-9節)。イスラエルの軍は彼に気圧され、意気消沈し、40日もの間、朝夕なぶられっぱなしであった。
 私達にもこのような「ゴリヤテ」が立ちはだかるかもしれない。そのゴリヤテは一方的にルールを押し付け、勝手に設けた不利な土俵で勝負するよう要求し、「とても勝てない」と気落ちさせ、なぶられ放題にするような「仕組み」を仕掛けて来る。今、時代が、そうなりつつあるが、聖書には、小さい者が大きな相手を倒す場面が、いくつもある。そのような「ゴリヤテ」がはびこる昨今、その者と渡り合って、勝つ術を学びたい。
 
 イスラエルがなぶられて40日が経った時、少年ダビデは、父からのお使いを頼まれて、そこへ来た。
ダビデは、ゴリヤテが平然とイスラエルをなぶるのを見、また、イスラエルの大人達が皆、彼を恐れて逃げ隠れしているのを見て、大いに憤慨した。ダビデにとって、自分達は「生ける神の陣」なのに、それを、無割礼の者によって良いようになぶられっ放しだったからだ(24-26節)。私達も、きよく保つべき自分の人生や仕事、家庭、経済という「神の陣」を、無割礼の者が好き放題にしているなら、大いに憤り、対処すべきだ。
 サウル王は、そんなダビデを呼び出した。サウルは思ったかもしれない。この少年はきっと、少年にありがちな「全能感」に駆られ、大風呂敷を広げているのだろう、と。しかしダビデには、ゴリヤテを打ち倒す根拠があった(34-37節)。ダビデは羊飼いだったが、羊がさらわれたなら、相手が獅子でも熊でも、いのちがけで取り返す性分だった。その性分こそ、神様が「エッサイの子らの中に王を見つけた」と評価された性質だ。
ダビデは「羊飼い」という、人から見れば「下っ端仕事」をしている間、忠実に羊を守り、獅子や熊からさえも、羊を守ったので、主は彼を、イスラエルを牧する「王」とするために、羊飼いの牧場で鍛えておられたのだ。
私達も「羊」を養う時、軽んじてはならない。その「羊飼い」の仕事は、王になるための訓練だと思うべきだ。
 サウルは、ダビデに、自分のよろいかぶとを着させたが、ダビデは、それが馴染まない、と分かると、躊躇なく脱ぎ捨て、自分に馴染んだ、「羊を養う道具」を採用した。神の国の戦いは、世の手段や常識に合わせて戦おうとすると、合わなくなる。それを用いようとすると、全然身動きが取れないのだ。主の戦いの武器は、殺傷能力の高い世の武器や、暴言や、脅し言葉などではなく、羊飼いの道具、すなわち、養い守るべき”羊達”を守ってきたことば、手段、方法であり、何より、まことの羊飼いであられる主の言葉だ。ダビデは、川から滑らかな石を5つ取って来たように、私達も巨人を倒すためには、御言葉の水の洗いに揉まれて角が取れた”生ける石”を取り、イエス・キリストという岩の土台に立って、敵に立ち向かうのだ。
 
 45節以降のダビデの言葉には、私達が勝利する秘訣が、ふんだんに込められている。「お前は剣と、槍と、投げ槍を持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、お前が挑んだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」 ダビデは、この言葉によって、武器や力の戦いから、自分の神 vs 相手の神という戦いヘと、シフトした。私達も、主イエスの御名を宣言し、シフトすべきである。
「この全会衆も、主は救を施すのに、剣と槍を用いられない事を知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主が我々の手にお前達を渡されるからである」。そう!主は、武器や装備、経済などを使わずに、救う事がおできになる方である!私達も主の約束の言葉に基づいて、イエス様の御名によって、主の戦いである事を宣言し、主に戦っていただくなら、あとは、主が、勝利へと導いて下さる。
 ダビデはそうした結果、石ひとつでゴリヤテを打ち倒し、ゴリヤテ自身の武器でとどめを刺した(49-51節)。
そしてダビデがゴリヤテを倒した時、イスラエルは、ゴリヤテが決めたルールなぞ守らなかった(52-53節)。
神の民はそもそも、無割礼の者が敷いたルールに、従わされるべきではない。むしろ、主にあってルールを敷いて、それに、無割礼の者を従わせるべきである。「ゴリヤテルール」は、ダビデの信仰宣言によって「ダビデルール」へと上書きされ、それによってダビデは、勝利した。人生における戦いや、主にある兄弟姉妹の戦いを、「主の戦い」へとシフトして、相手がどんなに巨大でも、どんなに大軍でも、どんな装備であっても、彼らの拠り所としているものが、無力化され、私達の神の前に倒れ、そしられていた日々の復讐の日々が始まり、滞っていた祝福の流れが流れ出して行く皆さんでありますように!
 

 

 

 

 

 
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