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メッセージ - ネヘミヤ記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
異邦の女との結婚(ネヘミヤ記13:23-31):右クリックで保存

【概要】

ネヘミヤの改革、特に異邦人との結婚に対する厳しい姿勢を通して、ソロモン王の過ちを繰り返さないよう、神の民としての聖さを保つことの重要性を学びます。神の御心にかなうため、妥協を排し、生活の中から罪の入り口となるものを徹底的に取り除くことが、真の祝福につながります。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ13:23-31

  • ネヘミヤ10:28-30

  • 第一列王記11:1-13

【戒めの言葉】

  • 異邦人との結婚は、ソロモン王でさえも偶像礼拝に陥らせた大きな罪です。

  • 神様との約束を軽々しく破ってはなりません。そこには呪いが伴います。

  • 「少しぐらい大丈夫」という小さな妥協が、やがて信仰生活全体を蝕む大きな問題に発展します。

【勧めの言葉】

  • ネヘミヤのように、神様の御心に沿わないものを生活から断固として取り除くべきです。

  • 神様に喜ばれないもの、礼拝を妨げるものを取り除き、霊的な城壁の穴をふさぐ努力をしましょう。

  • 私たちは生ける神の宮なので、聖なるものとして俗なるものから身を切り離し、清い行いをすべきです。

【悔い改めの促しの言葉】

  • 異国の神々(偶像)、異邦の女(神様から引き離す影響)を取り除き、献金や安息日を守るなど、破っている神様との約束を思い出し、正す必要があります。そうでなければ、いつまでも祝福は注がれません。

【***詳細***】

今日はネヘミヤ記の最後の箇所です。ネヘミヤは13章で、いくつかの改革を行いました。当時のイスラエルの人々は安息日を守らなかったり、レビ人への配分が正しくなされていなかったりしました。ネヘミヤは、彼らが律法に従って忠実に歩むように、時には人の目には厳しく映るような大胆な改革を実行しました。

人々は「律法」とか「決まり事」と聞くと、堅苦しくて嫌だと感じがちです。しかしイエス様は、神様の御心に沿っていない人を御心に沿うように促す人は、天の御国で偉大な者と呼ばれる、とおっしゃいました。律法の中の最も小さな戒めを破るように教える人は天の御国で小さい者と呼ばれ、逆に、その小さな戒めさえも忠実に守るよう勧める人は、偉大な者と呼ばれるのです。ネヘミヤは、世間の人から見れば堅物で、少し怖い人に見えたかもしれません。しかし、天の御国においては、彼は偉大な人でした。

今日の箇所で彼が行った改革は、異邦人との結婚が蔓延していたことに対する清めです。ネヘミヤはエルサレムで、アシュドデ人、アモン人、モアブ人の女性と結婚しているユダヤ人男性がいることに気づきました。問題は深刻で、彼らの子どもたちの半分は、アシュドデなど他国の言葉を話し、ユダヤの言葉が分かりませんでした。ユダヤの言葉が分からないということは、神様の律法も分からないということです。

実はこの少し前、ネヘミヤ記の10章で、民は神様の律法に従って歩むという「呪いと誓い」を立てていました。ネヘミヤ10:30にはっきりと「すなわち、私たちの娘をこの地の民に嫁がせず、また彼らの娘を私たちの息子にめとらない」と誓ったのです。それにもかかわらず、13章では、その誓いを破る人々が大勢出てきました。人間にはそのような弱さがあります。守りますと誓った舌の根も乾かぬうちに、それを破ってしまうことがあります。しかし、主にあって約束したことをすぐに破るのは、「仕方ない」で済まされることではなく、改善すべきことです。なぜなら、そこには呪いが伴うからです。

ネヘミヤは、外国の女性と結婚した人々を詰問し、呪い、何人かを打ち、その毛を引き抜きました。毛を引き抜くという行為は、大変な侮辱を意味します。ダビデの時代にも、使者のひげを半分そり落とされたことが原因で戦争になったことがありました。ネヘミヤがそこまで徹底したのはなぜでしょうか。ひどい人だと思いますか?いいえ、彼がしたことは偉大なことだと知るべきです。ネヘミヤはこう言っています。「イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々の中に彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王とされたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行っていることを聞き流しにできようか」(ネヘミヤ13:26-27)。

あの偉大なソロモン王でさえ、外国の女性たちによって罪へと誘われてしまいました。ソロモンは、かつてないほど知恵に満ち、栄華を極めた王でした。彼自身、初めは「自分には知恵があるから、外国の女性と結婚しても大丈夫だ。外国の神々など無力だし、彼女を改宗させればいい」などと考えていたかもしれません。しかし、ソロモンでさえそうはなりませんでした。第一列王記の11章には、彼が外国の女性と結婚した結果、何が起きたかが書かれています。

「ソロモン王はパロの娘のほかに、多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。…それなのにソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。…ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった」(第一列王記11:1-4)。

ソロモンは、妻たちの影響でシドン人の神アシュタロテや、アモン人の神ミルコム、モアブの神ケモシュ、アモン人の神モレクなど、多くの偶像を礼拝するようになってしまったのです。あのソロモンでさえ、です。その結果どうなったか。主はソロモンに怒りを発せられ、こう言われました。「わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中はそうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう」(第一列王記11:11-12)。ソロモンの罪が原因で、イスラエル王国は彼の死後、真っ二つに分裂し、多くの血が流される悲劇を招きました。

この話は、男性が女性に気をつけなさい、というだけの話ではありません。私たち一人ひとりが、男女を問わず、まことの神以外のものに対する誘惑に、しっかりと気をつけなければならないということです。ネヘミヤがあれほど厳しく対処した理由が分かりますよね。ソロモンの二の舞を踏んでほしくない、という熱心さからです。民が誓いを立てた直後にそれを破るという事態に直面し、ネヘミヤは厳しく当たらざるを得なかったのです。

私たちも、「ちょっとぐらいなら大丈夫」「自分には自制心がある」と思ってしまうような、小さな誘惑に直面することがあります。しかし、それがやがて分裂の元になるのです。律法は堅苦しく見えるかもしれません。「盗んではならない」「嘘をついてはならない」。それを堅いと感じ、「少しくらいなら良い嘘もある」などと人に勧める者は、天の御国で小さい者と呼ばれてしまいます。その小さな嘘が、後に苦い根となり、ソロモンの時代のように、国を揺るがすほどの大きな問題に発展するのです。私たちは、誘惑の最初のとっかかりを、まず防がなければなりません。ネヘミヤがここで厳しい改革を行わなければ、イスラエルは再びすぐに衰退してしまったでしょう。

さらに28節以降には、別の問題が書かれています。大祭司エルヤシブの子、エホヤダの子の一人が、ホロン人サヌバレテの婿になっていました。サヌバレテは、ネヘミヤが城壁を再建しようとしたときに、執拗に反対した敵の一人です。なんと、神殿の最高責任者である大祭司の一族が、エルサレムの敵と結びついていたのです。エルヤシブは、敵と友好関係を結び、妥協することで共存しようとしたのかもしれません。しかしその結果、エルサレムの中に不法がはびこりました。同胞を奴隷にしたり、レビ人への捧げ物が滞って彼らが務めを放棄してしまったり、安息日に商売をする者たちが入り込んだりしていました。

ネヘミヤは、目に見える城壁を再建しただけではありませんでした。彼は、目に見えない霊的な城壁の再建もしたのです。安息日を破るという「穴」、異邦人との結婚という「穴」を、彼は塞ぎました。そうして、悪が入り込む隙間をなくしたのです。

ネヘミヤは最後にこう祈ります。「私はすべての異教的なものから彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めの規定を定め、定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規定も定めた。わが神。どうか、私を覚えて、いつくしんでください」(ネヘミヤ13:30-31)。

皆さんも「私をいつくしんでください」と祈るでしょう。しかし、その祈りの前に、ネヘミヤのように、自分の内から悪を取り除き、礼拝を妨げるものを取り除く努力をしたでしょうか。そのような努力なしに、ただ「私を祝福してください」と祈っても、それは聞き届けられません。献金を怠っていることを思い出したなら献金を捧げ、主の日を守っていないことを思い出したなら、それをしっかり守る。そうしなければ、いつまでも祝福は注がれないのです。

皆さんの中から、神様に喜ばれないものをすべて取り除いてください。霊的な城壁の穴をしっかりと埋め、誘惑や、礼拝を妨げるものが入り込まないようにガードしてください。そうすれば、ネヘミヤのように神様から大きな栄誉を受け、この地上での歩みにおいても、祝福された道を歩むことができるでしょう。

私たちは生ける神の宮です。不信者と釣り合わないくびきを一緒につけてはいけません。光と闇に交わりがないように、私たちは聖なる者として、罪や汚れ、闇といったものから身を切り離さなければなりません。

主よ、どうか私たちにもネヘミヤのような心を与えてください。人から「堅すぎる」「やりすぎだ」と言われることを恐れず、御心にかなったことを断固として実行する力を与えてください。主を愛するなら、その戒めは重荷ではなく、喜びであり、甘く麗しいものです。どうか主への愛を増し加え、心から主の教えを愛し、ネヘミヤのように祝福された歩みをする私たちでありますように。

【結論】

神の民として聖くあるために、私たちはソロモンの過ちから学び、生活の中にある小さな罪や妥協も見過ごしてはなりません。ネヘミヤが霊的な城壁の穴を塞いだように、私たちも神様に喜ばれないものを生活から取り除き、神様との約束を忠実に守るべきです。そのように自らを聖め、神の御心を行うときに初めて、私たちは真の祝福を受け、神に覚えられ、いつくしみを受けることができるのです。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
安息日の死守(ネヘミヤ記13:15-22):右クリックで保存

【概要】

ネヘミヤ13:15-22を通して、安息日を聖とすることの重要性と、ネヘミヤが霊的城壁を守るために徹底して行った改革について語られたメッセージです。イザヤ58:13-14、第2歴代誌36:11-21なども引用し、安息日を軽んじることの歴史的な結果と、主の前に徹底して歩む勧めが示されました。

【聖書箇所】

ネヘミヤ13:15-22

出エジプト20:8-11

ネヘミヤ10:29-31

2歴代誌36:11-21

イザヤ58:13-14

【慰めの言葉】

  • 主は安息日を祝福し、聖なるものと宣言された。安息日を喜びの日とするとき、主は私たちの喜びとなり、地の高いところを歩ませてくださる(出エジプト20:11、イザヤ58:14)。

【励ましの言葉】

  • ネヘミヤの徹底さに倣い、非常識と思われても主の御言葉を守り抜く勇気を持とう。主はその徹底を覚え、憐れみをもって養ってくださる。

【戒めの言葉】

  • 安息日を軽んじる怠慢の積み重ねは主への背きとなり、歴史が示すように厳しい結果を招く(2歴代誌36章)。売り買い、無駄口、世の思いに心を占められることを慎むべきである(イザヤ58:13)。

【勧めの言葉】

  • 安息日を「喜びの日」「主の誠実の晴れある日」と呼び、門を閉ざすかのように自分の生活を整え、礼拝を守るための具体的な境界線を設けよう(ネヘミヤ13章、イザヤ58章)。

【悔い改めの促しの言葉】

  • 生ぬるさと甘さを悔い改め、主の聖なる日を軽んじてきた心、礼拝の中で世事に心を向ける癖、他者を罪に誘う態度を捨て、主をたっとぶ心へと立ち返ろう。

【***詳細***】

今日は、ネヘミヤ記13章15節から22節までです。ネヘミヤ13:15-22。

その頃、私はユダの地で、安息日に酒舟を踏んでいる者や、麦束を運んでいる者、また、ロバに荷物を負わせている者、さらに、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけました。それで私は、彼らが食物を売ったその日、彼らを咎めました。また、そこに住んでいたツロの人々も、魚やいろいろな商品を運んできて、安息日に、しかもエルサレムでユダの人々に売っていました。

そこで私はユダの主だった人たちを問いただして言いました。「あなた方はなぜこのような悪事を働いて、安息日を汚しているのか。あなた方の先祖もこのようなことをしたので、私たちの神はこの全ての災いを私たちとこの町の上に送られたではないか。それなのに、あなた方は安息日を汚して、イスラエルに下る怒りを加えている。」(ネヘミヤ13:18)

安息日の前、エルサレムに夕闇が迫ると、私は命じて門を閉めさせ、安息日が済むまでは開いてはならないと命じました。そして、私の若い者の幾人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにしました。それで商人やあらゆる品物を売る者たちは、一度か二度エルサレムの外で夜を過ごしました。そこで私は彼らを叱って言いました。「なぜあなた方は城壁の前で夜を過ごすのか。再びそうするなら、私はあなた方に手を下す。」その時から彼らはもう安息日には来なくなりました。(ネヘミヤ13:19-21)

ネヘミヤ記では、城壁が完成した後も、ネヘミヤは霊的な城壁を守ることを遂行していきました。13章に入ってからは、まずレビ人への支給がなおざりにされていたため、レビ人たちは宮に仕えることができず、自分の畑に逃れてしまい、エルサレムからレビ人がいなくなるという事態が起きました。ネヘミヤはその状況を改善するために、レビ人たちへの支給分をしっかりと捧げるように布告しました。またその前には、神殿の中において、異邦人であるアモン人のトビヤの私物が神殿の倉庫の一角を私物化していたことを取り除き、清めました。13章の中では、他にも改革が続いていきます。今日お読みした箇所でも、ネヘミヤの改革は続きます。

ネヘミヤは、城壁の再建に限らず、霊的城壁を守ることに専心しました。とりわけ安息日を守ること、安息日という城壁をしっかり守ることの大切さをよく分かっていました。本文を読むと、安息日に仕事をしている人々を見つけ、彼らを咎めました。映画の一場面のように想像すると、ネヘミヤは堅物で、商売している人たちに「今日は仕事をしてはならない日だ」と言ってやめさせた、厳しい人だと思えるかもしれません。しかし、ユダの人々のうち、安息日に酒舟を踏んでいる人や、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなどの品物を売っている人、あるいはエルサレムに運び込んでいる人たち、彼らの方が約束破りでした。

覚えているでしょうか。今は13章ですが、10章ではエルサレムの人々が呪いの誓いをしている箇所があります。その誓いの中で、「私たちは安息日は聖なる日として覚えて、一切のものは買ったり売ったりしません」と約束しました。ネヘミヤ10:29-31にはこうあります。「彼らは…神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主のすべての命令、その定めと掟を守り行うために…約束した。」ところが、その約束を早速破ってしまいました。約束をするときは心が燃えていて、「守ります」と勢いよく言えるのですが、それを守り続けられる人こそ本当に主に喜ばれる人です。

安息日は、ユダにおいては誰も働かず、物を売ったり買ったりすることはできません。安息日に歩く歩数も限りがあることが知られています。安息日、例えば前日に作ったものを食べますが、「もっと別のものが食べたい」という時に、ふらっと買いに行きたくなることがあるでしょう。都会ではコンビニが24時間開いていて、夜中でも欲しいものをすぐ買える便利さがあります。しかし、その仕事をしている人たちは、夜中だろうが主日だろうが土曜だろうが元旦だろうが働いている。そこには安息がありません。神が命じられているのは「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」ということです。

十戒におけるこの命令は、出エジプト記20章にあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間、あなたは働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる在留異国人も。それは主が六日のうちに天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8-11)

安息日は、単に仕事をしないという決まり事の日ではありません。神がこれを聖なるものと宣言し、取り分けられた日です。創造の御業を主がすべて終えて安息されたから、私たちも安息日を覚えるのです。「安息日を守る」だけでなく「安息日を覚えてこれを聖とする」ことは、神を正しいとし、神を敬う心そのものです。ですから、安息日に売り買いしたり、家畜に荷を負わせたりすることは主に喜ばれないことです。

ただし、主の災いはすぐには下りません。私たちは主に背くつもりはないでしょう。しかし、一日一日の怠慢の積み重ねが、主への背きです。主に戦いを仕掛けることだけが背きではありません。ちょっと気を緩めて、神の定めを守らないことの積み重ねが背きとなります。

ネヘミヤが町を歩いていて、安息日に売り買いしている人々を見つけたとき、彼は彼らを問い質しました。厳しすぎると見えるかもしれませんが、根拠があります。先ほどのネヘミヤ13:18の通り、「あなた方の先祖もこのようなことをしたので…災いが下った」。安息日を守らなかったがために、ユダ王国は滅ぼされました。歴代誌という長い書物の最後は、バビロン捕囚の直前で終わります。

第2歴代誌36章では、最後の王ゼデキヤの記録があり、次のように語られます。「彼は二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間王であった。…彼はその神、主の目の前に悪を行い、主の言葉を告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。…彼はうなじの強い者となり、心を閉ざしてイスラエルの神、主に立ち帰らなかった。その上、祭司長全員と民も、異邦の民の忌み嫌うべきすべての習わしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。彼らの父祖の神、主は彼らのもとに使者たちを使わし、早くからしきりに、使いを送られた。それはご自分の民とご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが彼らは神の使者たちを笑いものにし、その御言葉を侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに主の激しい怒りがその民に対して積み重ねられ、もはや癒されることがないまでになった。そこで主は彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は剣で彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主はすべてのものを彼の手に渡された。彼は神の宮のすべての大きな器具、主の宮の財宝と、王とその司たちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取り壊した。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。彼は剣を逃れた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして彼らはペルシア王国が支配権を握るまで彼とその子たちの奴隷となった。これはエレミヤにより告げられた主の言葉が成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」(2歴代誌36:11-21)

ここには、安息が人にも町にも畑にも与えられるべきものであることが示されています。しかし安息は聖と覚えられず、イスラエルの民は主が使わされた預言者たちを馬鹿にし、その言葉を行わず、物笑いにした結果、あってはならないことが起こりました。神の聖所の庭で人々が殺され、聖なる器物はすべて奪われ、若者も年寄りも殺され、残された人々は捕らえ移されました。そうしてこの地は安息を得たのです。邪悪で不信仰で堅くなな人々が取り除かれ、残りが捕らえ移されることによって、地が安息を得た。安息を守らない国、安息日を聖としない人々は、神が取り除かれ、土地に強制的な安息が与えられることになります。

安息日を聖なる日とすることは、とても大事です。ネヘミヤはこのことをよく知っていました。ところが、安息日に売り買いしていた人たちは、儲けのことしか考えていませんでした。「安息日は誰も働かない。では私が市場に物を持ち込めば独占だ」と浅ましい儲けをしたのでしょう。しかしそれは、神を侮ることです。目先の利益を優先し、御言葉をないがしろにする民には、主が強制的に裁きをなされます。

異邦人の国にはこの律法は課せられていません。しかし、神の律法を知り、贖われ、神の民とされた者が、神が性別された日を守り行わないなら、エルサレムに起こった破壊が及ぶのです。そこでネヘミヤは、安息日を徹底的に守るために、夕闇が迫ったら門を閉じ、安息日が済むまで開けないよう命じ、見張りを立てました。外国の商人たちは門が閉まっているのを見て、城壁の前で夜を過ごし、安息日に門が開くのを待って商品を運び入れ、売り買いしようと企みました。しかしネヘミヤは彼らを咎め、「再びそうするなら、手を下す」と警告しました。それ以降、彼らは安息日には来なくなりました。

異邦人から見れば、ネヘミヤのやり方は堅苦しく、非常識でしょう。イスラエルに商品を持ち込んでやるものか、と思ったかもしれません。しかしネヘミヤは躊躇しませんでした。物を売りに来る商人たちの事情を考えれば、彼のしたことは厳しすぎる、非常識です。それでも、神の律法、御言葉、神に喜ばれることを守り通すために、ここまで徹底したことがあるでしょうか。私たちもネヘミヤのように、非常識と見られることがあっても、御言葉を守るために徹底する必要があります。

例えば、主日には無駄口を慎み、御言葉以外のことを話題にしないことを貫く。主日に電話がかかってきても、礼拝と安息のために切る勇気を持つ。ネヘミヤはそこまでやりました。「なぜ城壁の前で夜を過ごすのか。もう一度やったら手を下す。」彼は安息日を聖とすることに徹底しました。

この徹底は、イザヤの預言にも響き合います。「もしあなたが安息日に出歩くことをやめ、私の聖日(誠実)に自分の好むことをせず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を栄えある日と呼び、これをたっとんで旅をせず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、その時、あなたは主をあなたの喜びとしよう。私はあなたに地の高いところを踏み行かせ、あなたの父ヤコブの譲りの地であなたを養う。」(イザヤ58:13-14)安息日に出歩くことをやめ、主の聖日に自分の好むことをせず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を栄えある日と呼び、これをたっとび、無駄口を慎むなら、主はあなたの喜びとなり、あなたを高いところに歩ませ、譲りの地で養ってくださいます。

ネヘミヤのしたことは厳しく見えますが、イスラエルの民に罪を犯させないためであり、また地に売り買いしに来る異邦人たちにも罪を犯させないためでした。私たち自身も、主の聖なる日にそれをたっとび、喜びとし、無駄口を慎むなら、自分が罪を犯さないだけでなく、私たちに売り買いを仕掛ける人々、無駄口を誘う人々にも罪を犯させないことになります。ネヘミヤのような徹底さをもって、自分自身を、主が聖なるものとしてくださった者として清く保ち、主が聖別してくださった日を清く保つように勧めるなら、主は私たちを覚え、慈しみをもって憐れんでくださいます。

最後に祈りが捧げられました。ネヘミヤの徹底ぶりは、外から見れば厳しすぎるように見えます。しかしそれは相手に罪を犯させないことであり、イスラエルの人々に罪を犯させないことでした。私たちはこれほどまで徹底して罪と戦ってきたでしょうか。生ぬるい信仰を悔い改め、これからは自分を清く保ち、人々に罪を犯させないために、あえて厳しい態度をとる勇気を与えてください。御言葉を守ることの重要さを教えてください。かつて安息日を軽んじたイスラエルはバビロンに連行され、多くが殺され、神の聖所の前で殺され、土地は七十年の安息を得ました。私たちはその愚かを繰り返さないように。主が聖とされた礼拝の時を聖とし、頭の中で売り買いをせず、礼拝の時に世のことに心を使って罪を犯すことがないように。そうしている兄弟姉妹には、愛をもってしっかり戒めることができるように。主よ、助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【結論】

安息日は、主が祝福し聖とされた日であり、私たちが神をたっとぶ心を具体的に表す「霊的城壁」です。ネヘミヤの徹底は、民と異邦人を罪から守るための愛の実践でした。私たちも境界線を明確にし、安息日を喜びの日と呼び、無駄口を慎み、礼拝を聖とするとき、主は私たちの喜びとなり、地の高いところを歩ませ、譲りの地で養ってくださいます。2024-11-20 12:53:18に与えられたこのメッセージを心に留め、日々の小さな怠慢を悔い改め、御言葉を守り抜く徹底で歩みましょう。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神殿の宝物庫をきよめよ(ネヘミヤ記13:1-14):右クリックで保存

【概要】

ネヘミヤがエルサレムの城壁完成後に行った神殿の改革と、ネヘミヤ不在時に堕落した神殿を再び改革したことから、私たちの内なる神の宮(心)を常に聖く保つことの重要性を学びます。御言葉にとどまり続けることで、祝福と喜びが満たされる生き方を探求します。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ13:1-14

  • 申命記23:3-5

  • ヨハネ15:5-11

【戒めの言葉】

  • 神の民は、この世の価値観に流され、神に敵対する者たちと安易に妥協し、連合してはなりません。特に、結婚のような重要な結びつきは、神を信じる者同士であるべきです。

  • 神の宮(私たちの内側)に、世のものを入れてはなりません。

  • 少しの気の緩みが神から離れるきっかけとなり、神の敵が内側に侵入してきます。

  • 自分に都合の良い御言葉だけを選び、辛い御言葉や酸っぱい御言葉を退けてはいけません。

【励ましの言葉】

  • イエス様にとどまり、御言葉が私たちの内にとどまるなら、求めるものは何でも叶えられます。

  • イエス様の愛にとどまることで、私たちの喜びは満たされたものとなります。

  • どんな御言葉でも受け入れ、従うなら、祝福され、願いが叶えられ、喜びが増し加えられます。

【悔い改めの促しの言葉】

  • もし、私たち自身の内なる神殿(心)が、この世の欲望や神の敵の持ち物で汚されているなら、それらをすべて投げ出し、神の宮を清めなければなりません。

  • 世のものを握り続けるなら祝福はなく、神から離れてしまいます。自分を聖別し、神に立ち返りましょう。

【***詳細***】

今日は、ネヘミヤ記の13章、1節から14節までです。

まず、1節から3節までをお読みします。

「その日、民に聞こえるように、モーセの書が朗読されたが、その中に『アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない』と書かれているのが見つかった。それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎え入れず、かえって彼らを呪うためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神は、その呪いを祝福に変えられた。彼らはこの律法を聞くと、混血の者を皆、イスラエルから取り分けた。」(ネヘミヤ13:1-3)

この「その日」とは、エルサレムの城壁が完成し、その奉献式を行った日のことです。聖歌隊が二組に分かれて城壁の上を歩き、賛美しながら完成を祝った、その感動的な日に、モーセの書が朗読されました。その中で、「アモン人とモアブ人は神の集会に加わってはならない」という言葉が読まれました。これは申命記の23章3節から5節の言葉です。

なぜなら、アモン人とモアブ人は、かつてイスラエルの民が荒野を旅していた時、敵対的な行動をとったからです。彼らは、アブラハムの甥であるロトの子孫であり、ある意味で親戚関係にありましたが、イスラエル人を助けるどころか、パンも水も与えず、さらには預言者バラムを雇って呪わせようとまでしたのです。だから、神の集会に加わることが許されませんでした。この律法を聞いた民は、すぐにイスラエルの中にいた混血の者たち、つまりアモン人やモアブ人と結婚していた者たちを共同体から分けました。

本来、神の民を祝福すべき立場にある者が、逆に呪ったり、意地悪をしたり、何かを奪い取ろうとしたりすることがあります。このアモン人やモアブ人がそうでした。

この世の価値観では、敵対的な人とも「理解し合おう」「お互いの意見を尊重しよう」とすることが美徳とされるかもしれません。しかし、まことの神様を礼拝することに関しては、それは通用しません。神に敵対する者、異なる神を拝む者と連合すること、特に結婚という深い結びつきを持つことは、神様の前では許されないのです。人々はこれを「頭が固すぎる」と感じるかもしれませんが、なぜそうなのかは、この後の箇所を読めばはっきりと分かります。

4節から9節を読みます。

「これより以前、私たちの神の宮の部屋を任されていた祭司エルヤシブは、トビアと親しい関係にあったので、トビアのために大きな部屋を一つあてがっていた。その部屋にはかつて、穀物のささげ物、乳香、器物、およびレビ人や歌うたいたち、門衛たちのために定められていた穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、および祭司のための奉納物が保管されていた。その間、私はエルサレムにいなかった。私はバビロンの王アルタクセルクセスの第三十二年に王のところに行き、その後しばらくたって王にいとまを乞い、エルサレムに帰って来たからである。そしてエルヤシブがトビアのために、神の宮の庭に部屋をあてがうという悪事を働いたことを知った。私は非常に機嫌を悪くし、トビアの家の器具類を全部その部屋から外へ投げ出し、命じてその部屋を清めさせた。そして私は、神の宮の器物、穀物のささげ物や乳香と一緒に、再びそこに運び入れた。」(ネヘミヤ13:4-9)

皆さんは、トビアという名前を覚えているでしょうか。彼は、ネヘミヤが城壁を再建しようとした時に、真っ先に反対し、妨害したアモン人です。驚くべきことに、イスラエルの大祭司であるエルヤシブが、このイスラエルの敵であるアモン人トビアと「親しい関係」にあったのです。

これは、たとえるなら、この教会の牧師である私が遠くに出かけている間に、誰かが皆さんにひどいことをした敵と仲良くなり、この教会の最も神聖な宝物倉を、その敵の私的な物置にしてしまうようなものです。その人のテレビや、夏に使わない扇風機などが、教会の倉庫に置かれていたら、皆さんはどう思いますか?許せないですよね。

まさにそれと同じことが、ネヘミヤが留守の間に起こっていました。エルサレム総督であったネヘミヤは、12年間務めた後、一度主君であるアルタクセルクセス王のもとに帰っていました。その留守中に、大祭司エルヤシブは、神殿の中にあった大きな部屋をトビアの物置として提供してしまったのです。

しかもその部屋は、ただの部屋ではありません。かつては、神殿での礼拝に必要な穀物のささげ物、乳香、レビ人や聖歌隊たちの生活を支えるための十分の一のささげ物などが保管されていた、非常に重要な宝物倉でした。神の民の礼拝を支えるための聖なる部屋が、神の敵であるトビアの私物で占拠されていたのです。

エルサレムに帰ってきたネヘミヤは、この事実を知って激しく怒りました。8節にあるように、「私は非常に機嫌を悪くし、トビアの家の器具類を全部その部屋から外へ投げ出し」ました。そして、その部屋をきれいに清めさせ、本来そこにあるべき神殿の器物やささげ物を元に戻したのです。

ネヘミヤ記の13章は、このように神の宮を清めることから始まります。城壁という外側を建て直しただけでは、改革は完全ではありません。内側も清められなければならないのです。

なぜ大祭司が、神の敵であるアモン人と結託したのでしょうか。アモン人やモアブ人は、かつて金で預言者バラムを雇ってイスラエルを呪わせようとした民です。おそらく、この大祭司エルヤシブも、トビアから金銭的な利益を得て、彼と手を結んだのではないでしょうか。

もし私が、神の敵に金で雇われて、この教会を汚すようなことがあれば、皆さん、ためらわずに私を追い出してください。神の宮は、そのような汚れから守られなければなりません。

アモン人トビアが城壁の再建を嫌がったのは、城壁が完成すれば、エルサレムに自由に出入りして、好き勝手なことができなくなるからです。神の都は聖なる場所です。城壁によって守られるのと同じように、皆さん一人ひとりも、イエス・キリストが住まわれる「神の宮」「聖なる神殿」です。愚かな考えや神の敵が、あなたの心に入り込まないように注意してください。大祭司エルヤシブのように、欲望に引きずられて、神の敵を心に出入りさせるような扉を作ってはなりません。

イエス様も、神殿が汚された時に激しく怒られました。縄で鞭を作り、神殿の中で商売をしていた者たちを追い払われたのです。普段は優しいイエス様がなぜ?と思うかもしれませんが、それは「神の宮を思う熱心」が、イエス様をそうさせたのです。皆さん一人ひとりという神の宮が、この世の欲望や売り買いの道具にされることを、イエス様はお許しになりません。主は必ず「宮きよめ」をなさいます。イエス様は言われました。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるはずだ。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:17)。神の宮は、自分のものにしようとする欲望の塊である「強盗の巣」であってはなりません。清いものであるべきなのです。

ネヘミヤは、神殿を清め、本来あるべき姿に戻しました。「ネヘミヤ」という名前は「神の慰め」という意味です。もし私たちの内側が、何かの欲望によって汚され、神の敵の物置のようになってしまっているなら、まことのネヘミヤである主イエス・キリストが、それをすべて取り除き、清め、本来あるべき聖なる宮へと回復してくださるのです。

ネヘミヤはさらに改革を進めます。10節以降を読みましょう。

「私はまた、レビ人の分け前が渡されていなかったので、務めに当たっていたレビ人や歌うたいたちが、それぞれ自分の畑に逃げ帰ってしまっていることを知った。そこで、私は代表者たちを詰問し、『どうして神の宮が見捨てられているのか』と言った。そして、私はレビ人たちを集め、元の持ち場に戻らせた。すると、ユダの人々は皆、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一を宝物倉に持ってきた。そこで私は、祭司シェレムヤと学者ザドクとレビ人の一人ペダヤに宝物倉を管理させ、マタンヤの子ザクルの子ハナンを彼らの助手とした。彼らは忠実な者と認められていたからであった。彼らの任務は、兄弟たちに分け前を分配することであった。わが神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮とその務めのためにした私のさまざまな愛のわざを、拭い去らないでください。」(ネヘミヤ13:10-14)

神殿に仕えるレビ人たちへの給料(十分の一のささげ物)が支払われなくなり、彼らは生活のために自分の畑仕事に戻ってしまっていました。その結果、神の宮での奉仕がないがしろにされていたのです。

これは、現代の私たちにも起こりうることです。教会の中に、本来交わるべきではない世の中の価値観や考えが入り込み、神のために仕えるべき人々が軽んじられ、その場を去ってしまう。それによって、神の言葉がなおざりにされ、神への奉仕も疎かになってしまうことがあるのです。

ネヘミヤはエルサレムに戻ると、この状況を改革しました。代表者たちを叱責し、レビ人たちを呼び戻し、民が再びささげ物を持ってくるように促しました。そして、忠実な者たちに宝物倉の管理を任せ、レビ人たちに正しく分配されるようにしたのです。

神の宮での奉仕が忠実に行われるようになって初めて、苦労して再建した城壁も意味を持つのです。どんなに立派な建物を建てても、その内側が神の敵の物置にされていたり、奉仕する人々が逃げ出してしまっていたりするなら、それは全く意味がありません。ネヘミヤは、神の宮が、神の宮として正しく機能するために改革を行ったのです。

幸いなことに、私も世の仕事を辞めて、この神の宮の奉仕に専念することができています。それは、聖徒の皆さんが、レビ人の分としてささげ物を捧げ、また食事の世話などをしてくださるからです。食べるもの、住むところに困ることなく、日夜ここで主に仕えることができるのは、皆さんのおかげです。

一体いつから、こんなことになってしまったのでしょうか。それは、指導者であるネヘミヤがいない時でした。私たちも同じです。少しでも気を抜くと、私たちの内側もこのようになってしまいます。私たち自身が「神の宮」であると言われますが、ほんの少し気を抜いていると、世のものが心の中に入ってきてしまいます。本来、聖なるイエス様をお迎えするべき私たちの心が、イエス様が不在の状態になると、世の中の楽しみや他のもので満たされてしまうのです。そうなると、私たちの内側から、神様からの良いものがどんどん逃げていってしまいます。

もし、自分の心の中にそのような状況があると気づいたなら、それを清めてください。そして、神様への奉仕の心、つまり「レビ人」を再び呼び戻してください。世的なもので物置にされているあなたの内側を清め、再び聖なるもの、聖なる思いを呼び戻すのです。

人が神様から離れるとき、それは意図的に「離れよう」と思って離れることはほとんどありません。ほんの些細なこと、ちょっとした気の緩みから始まります。イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしのことばにとどまり続けなさい」と何度も言われました。「とどまり続ける」ということは、日々、少し気をつければできる、簡単なことです。しかし、その簡単なことを一日、二日と怠けてしまうと、それが当たり前になり、神様から離れる日数が長引くほど、心の中の「レビ人」は逃げ去り、神の敵が内側に侵入してきてしまうのです。どうか、日々とどまり続けることを、なおざりにしないでください。

ヨハネによる福音書15章5節から、その「とどまり続ける」ことの大切さについて見てみましょう。

ヨハネ15:5-7

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、わたしにとどまっていなければ、枝のように外に投げ捨てられて、枯れてしまいます。人々はそれを集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

まずイエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。ネヘミヤの時代のイスラエルの民は、ネヘミヤが少し不在だった間に、神様の律法からすぐに離れ、とどまることをやめてしまいました。その結果、神の敵の私物を神殿に持ち込み、レビ人への供給を怠ったために、彼らは去ってしまいました。もし彼らが御言葉にしっかりとどまり続けていれば、こんなことは起こらなかったはずです。

とどまっていない期間が長引くと、枝は枯れてしまい、外に投げ出されて焼かれてしまいます。ですから、枯れてしまう前に、再びイエス様のもとに戻り、とどまる生活を始めるべきなのです。

そして7節の言葉は素晴らしい約束です。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい」。私たちは祈りの中で、欲しいものを求めます。しかし、それには条件があるのです。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」という条件です。イエス様の言葉が私たちの内にまずとどまること。その時初めて、私たちは何でも欲しいものを願い求めることができ、主はそれを叶えてくださるのです。この順番が非常に大切です。

続けて読んでみましょう。

ヨハネ15:8-11

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もしあなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

ここでも「わたしのことばにとどまりなさい」「わたしの愛にとどまりなさい」と、とどまることの重要性が繰り返し語られています。ネヘミヤの時代のイスラエルの民は、御言葉にとどまることをやめてしまいましたが、ネヘミヤによって叱責され、再び御言葉に立ち返りました。私たちにとっても、イエス様の愛にとどまり続けることは非常に大切です。

「とどまる」ことは、少し気をつければできることです。しかし、少し気を抜くと、すぐに私たちの内側から祝福が逃げていってしまいます。それは、せっかく築き上げたエルサレムの城壁に、自ら穴を開けるようなものです。皆さん一人ひとりが御言葉にとどまり続けることによって、自分自身の心の城壁をいつも穴のない状態に保ってください。そうすれば、祝福に次ぐ祝福があなたの内側に入ってくる状態を保ち続けることができるのです。

イエス様がおっしゃったように、私たちが欲しいものを与えられる状況を保ち続けるコツは、イエス様のうちにとどまり続けること、御言葉を私たちのうちに留め続けることです。「あっちの御言葉は甘いから好きだけど、こっちの御言葉は辛いから嫌だ」というように、御言葉を選り好みしてはいけません。御言葉は、甘いものも辛いものも酸っぱいものも、すべてを自分の内に留め続けることが大切です。酸っぱい御言葉は聞きたくないからその礼拝は休んで、自分の耳に心地よいメッセージだけを聞く、というような状態では、あなたの欲しいものは叶えられません。

どの御言葉もしっかりと受け止め、思い巡らし、たとえそれが酸っぱくても辛くても「アーメン」と受け入れて従うなら、あなたの欲しいものは叶えられ、あなたの喜びは満ちあふれるものとなります。しかし、御言葉を離れるなら、そうはなりません。

どうか皆さん自身が、さらに聖なるものとして幸いを得て、欲しいものが次々と叶えられ、ますます喜びが増し加えられていきますように。そして、その人生のすべてにおいて、神様に祝福された者となっていきますように。

【結論】

私たちの内側は、聖なる神の宮です。ネヘミヤが改革したように、私たちも自分の内側から世俗的なものや神に喜ばれないものを取り除き、常に清く保つ必要があります。日々の生活の中で、イエス様の御言葉に「とどまり続ける」ことを選び取りましょう。甘い言葉だけでなく、厳しい言葉もすべて受け入れるとき、私たちの祈りは聞かれ、神からの豊かな祝福と満ちあふれる喜びを体験することができます。ネヘミヤのように、神の宮とその務めのために忠実に働くとき、神は私たちの愛のわざを決して忘れず、覚えていてくださいます。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁の奉献式(ネヘミヤ11-12章):右クリックで保存

概要】

ネヘミヤ記11章と12章を通して、エルサレムの再建とその住民たちの霊的な再建について学びます。エルサレムに住むことの意義と、私たちの霊的なアイデンティティについて考えます。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ記11章

  • ネヘミヤ記12章

【励ましの言葉】

エルサレムに住むことを選んだ人々のように、私たちも神の国に属する者としてのアイデンティティを持ち続けましょう。

【戒めの言葉】

霊的な城壁を築かずにいると、邪悪な者たちが入り込み、私たちの聖なる領域を侵すことになります。

【勧めの言葉】

私たちの国籍は天にあり、イエス・キリストを主とする者として、日々の歩みを整えましょう。

【***詳細***】

ネヘミヤ記11章では、エルサレムに住む人々のリストと系図が記されています。エルサレムは「聖なる都」として特別な意味を持ち、そこに住むことは神に選ばれた者としての証しです。民の司たちはエルサレムに住み、他の民はくじを引いて選ばれた者がエルサレムに住むようにしました。自ら進んでエルサレムに住むことを選んだ人々は祝福されました。

このように、エルサレムの城壁が再建された後、住民たちは霊的な再建を行いました。彼らは自分たちの罪を告白し、神に対する誓いを新たにしました。私たちもまた、霊的な城壁を築き直し、神に対する誠実な歩みを続ける必要があります。

ネヘミヤ記12章では、エルサレムの城壁の奉献式が行われます。歌うたいたちが集められ、感謝の歌を歌いながら城壁を巡りました。ネヘミヤは後ろから民を見守り、彼らの行進を導きました。彼は自らの栄光を求めず、神の働きを優先しました。

この奉献式では、数多くの生贄が捧げられ、喜びの歌が歌われました。賛美の歌は、時代を超えて私たちに力を与え、神への信頼を新たにします。私たちもまた、日々の生活の中で神を賛美し、感謝の歌を歌い続けましょう。

【結論】

エルサレムの再建とその住民たちの霊的な再建は、私たちにとっても重要な教訓です。私たちの国籍は天にあり、イエス・キリストを主とする者として、霊的な城壁を築き直し、神に対する誠実な歩みを続けましょう。神の国に属する者としてのアイデンティティを持ち続け、日々の生活の中で神を賛美し続けることが大切です。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の宮をなおざりにしない(ネヘミヤ10章):右クリックで保存

【概要】

律法によって自らの罪を示されたイスラエルの民が、悔い改めの祈りの後、神の律法に従って歩むことを固く誓い、具体的な取り決めを定めました。私たちも自らを神の宮として聖く保ち、神の宮をなおざりにしない決心をすることで、主からの豊かな祝福を受けることができます。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ10:1-39

  • 申命記27:15-19

  • マラキ3:8-12

  • 第1コリント3:16-17

【励ましの言葉】

  • 神様のものを神様にお返しするなら、主は天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。

  • あなたが神の宮であるならば、あなたを脅かす者を神ご自身が仕返ししてくださいます。

【戒めの言葉】

  • 御言葉に人間的な解釈や世の教えを混ぜ込んではなりません。

  • 主が定められた聖なる日を、世の売り買い事や俗なることで汚してはなりません。

  • 神様のもの(十分の一や奉納物)を盗んではなりません。

【勧めの言葉】

  • 私たち自身が神の宮であることを自覚し、神の宮をなおざりにしない決心をしましょう。

  • 自分自身が聖なる者となり、ますます清く正しい生活を送ることで、豊かな人生を歩むことができます。

【***詳細***】

今日はネヘミヤ記の10章です。その前に、前回の9章のおさらいをしましょう。イスラエルの民は、第7の月に律法が朗読されるのを聞いて、心が深く刺されました。律法に従うなら、自分たちは罪ある者であり、神に打たれても仕方がない存在だと悟ったのです。何百年も前に記された律法が、まるで最近の自分たちの姿や、身に降りかかった災いの原因を記しているかのように新しく感じられました。律法の書には、神の教えをないがしろにすると様々な災いが起こり、それでも心をかたくなにするなら、さらに大きな災いが臨み、ついには国を追われると書かれていました。女たちが自分の子供を煮て食べるような悲惨なことまで、すべて律法に記されていた通りに起こったのです。それは、イスラエルの民が神様の教えや戒めをないがしろにし続け、心をかたくなにして自分の道を変えなかったからです。

自分たちの歴史と身に起こったことを振り返り、彼らは「本当に私たちは罪を犯した」と悟りました。そして、神様の律法を守り行うことこそがすべてであり、礼拝をおろそかにしてはならないことの重要性を知りました。そのため、喜びの祭りである第7の月の祭りとは別に、悔い改めのための集会を開き、民全体で祈ったのがネヘミヤ記9章です。この祈りは、何かをお願いする祈りではなく、ただ自分たちが主の御前にどのように罪を犯し、主がどのように対応され、そして今、自分たちがどのような心で主の前に立っているのかを告白する、画期的な祈りでした。

この9章の祈りの後、レビ人や祭司たち、主だった人々はその告白を書き記し、印鑑を押しました。10章の冒頭には、その印を押した人々の名前が記されています。筆頭は総督ネヘミヤで、続いて祭司やレビ人、民の長たちの名前が27節まで続きます。

そして28節からは、印は押さなかったけれども、同じように祝福と呪いの誓いに加わった人々が何をしたかが書かれています。

【ネヘミヤ10:28-29】「このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また国々の民と縁を絶って、神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々に頼り、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うための呪いと誓いとに加わった。」

まだ主ご自身、このように指導者に聞き従うことも有益です。

彼らが加わった「呪いと誓い」とは、と直接関わることに難しさを感じている人々は、民の長や祭司など、目に見える指導者たちに頼って誓いに加わりました。信仰の初心者の方が、牧師や信仰の先輩に頼るように、彼らも民の優れた人々に頼ったのです。もちろん、最も大切なのは一人ひとりが主と直接関わることですが具体的にどのようなものだったのでしょうか。申命記の27章にその様子が書かれています。祭司たちが律法を宣言し、民が「アーメン」と応答する形式です。

【申命記27:15】「職人の手の業である主の忌み嫌われる彫像や鋳造を造り、これを密かに安置する者は呪われる。」民はみな答えてアーメンと言いなさい。

【申命記27:16】「自分の父や母を侮辱する者は呪われる。」民はみなアーメンと言いなさい。

このように、「〜する者は呪われる」という宣言に、民が「アーメン」と答えることで誓いを立てたのです。ネヘミヤの時代の人々も、律法によって心が新たにされ、このような誓いを立てました。

その具体的な内容が30節以降に記されています。

【ネヘミヤ10:30-31】「すなわち、私たちの娘をこの地の民たちに嫁がせず、また彼らの娘を、私たちの息子にめとらない。たとい、この地の民たちは安息日に、品物、すなわちいろいろな穀物を売りに持ってきても、私たちは安息日や聖日には彼らから買わない。また、私たちは七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない。」

ここには三つの誓いがあります。

第一に、異邦人との結婚を禁じ、民族の純潔を保つことです。これは、主の御言葉に人間的な教えや世のものを混ぜ込まず、純粋さを保つことの重要性を示しています。例えば「偽ってはならない」という御言葉に、「嘘も方便」という人間の教えを混ぜ込んではいけないのです。御言葉はそのまま受け取るべきです。

第二に、安息日や聖なる日に売り買いをしないことです。異邦人がビジネスチャンスと見て安息日に物を売りに来ても、一切買わないと誓いました。私たちにとっても、主の日である聖なる日に、世の中のことで心を満たしたり、エネルギーをやり取りしたりすることをやめる、ということです。仕事などでやむを得ない場合はありますが、自ら積極的に聖なる日と俗なる日を混ぜこぜにしてはなりません。

第三に、7年目には土地を休ませ、負債の取り立てをしないことです。イスラエル民族が災いにあった理由の一つは、土地を休ませるという安息の定めをないがしろにしたことでした。その結果、バビロン捕囚によって民が取り除かれ、土地が強制的に70年の安息を得ることになったのです。また、7年目には負債を免除することも、憐れみを示す大切な教えです。憐れみのない裁きをする者は、自分も憐れみのない裁きを受けることになります。

さらに32節以降では、神の宮の働きを支えるための具体的な取り決めもしています。毎年シェケルの3分の1をささげること、祭壇で燃やす薪を誰がささげるかくじで決めることなどです。以前は人々の自発的なささげ物に頼っていましたが、それが絶えてしまったため、仕組みとして神の宮の働きが滞らないように知恵を絞ったのです。これは、誰がやるか曖昧だった部分に責任の所在をはっきりさせた画期的なことでした。

また、初物や十分の一をきちんとささげることも改めて決心しました。神様のものを神様にお返しすることは非常に重要です。旧約聖書の最後の書であるマラキ書には、驚くべきことが書かれています。

【マラキ3:8】「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは十分の一と奉納物によってである。」

神様のものを盗むことができるのです。それは、ささげるべき十分の一や奉納物をささげないことです。しかし、主は続けてこう約束されています。

【マラキ3:10-12】「十分の一をことごとく宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を、あなたがたに注ぐかどうかを試してみよう。わたしはあなたがたのために、いなごを叱って、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる──すべての国民は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが、『喜びの地となるからだ』と万軍の主は仰せられる。」

私の経験上も、ささげることを惜しんだ時には手痛い目に遭いましたが、きちんとささげるようになってからは、主が本当に生きて働いておられるとしか思えないような、幸いな日々が続きました。主は、ささげる者に天の窓を開き、あふれる祝福を注いでくださるのです。皆さんもぜひ試してみてください。

この章の締めくくりは、39節の最後の言葉です。

【ネヘミヤ10:39】「…こうして私たちは私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」

彼らの決心のまとめは、「神の宮をなおざりにしない」ということでした。

では、今の私たちにとって「神の宮」とは何でしょうか。それは教会でもありますが、それ以上に、皆さん一人ひとりです。

【第1コリント3:16-17】「あなたがたが神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もしだれかが神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」

皆さんの内にキリストの御言葉が豊かに宿っているなら、皆さんはキリストが宿る神の宮です。そして、その聖なる宮を壊そうとする者、つまり皆さんを脅かす者がいれば、神ご自身がその人を滅ぼしてくださいます。ですから、皆さんをいじめる者や攻撃する者がいるなら、自分の内にイエス様をお迎えしてください。そうすれば、その人はイエス様をいじめることになり、イエス様が直接仕返しをしてくださるのです。

これは敵に対抗するためだけではありません。皆さん自身が聖なる者となり、ますます清く正しい、豊かで健やかな人生を送るためです。皆さん一人ひとりが神の宮であることを自覚し、神の宮らしく歩むこと。神の宮をなおざりにしないと決心することです。そうすれば、皆さんの行く所どこにでも主の臨在が伴い、ますます祝福され、喜びに満ちた勝利の人生を歩んでいくことができるのです。

【結論】

ネヘミヤの時代、民は悔い改めの後、「神の宮をなおざりにしない」と固く決心し、具体的な誓いを立てました。私たちも、自分自身がキリストの宿る「神の宮」であることを自覚し、聖さを保ち、神様へのささげ物を惜しまず、主の教えを第一とする決心を新たにするなら、主は天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
斬新な祈り(ネヘミヤ9章):右クリックで保存

【概要】

ネヘミア記9章に記された、イスラエルの民による長い悔い改めの祈りを通して、真の祈りの姿勢について学ぶメッセージ。自分の願い事を並べるのではなく、神の恵みを数え、自らの罪を告白する祈りの重要性が語られる。

【聖書箇所】

ネヘミア9:1-37、詩篇51:14-17、サムエル記上15:22(引用)

【悔い改めの促しの言葉】

私たちは神様に対して、恩を仇で返すようなことを何かとしている。自分がどんなひどいことを神様にしてきたかを告白し、へりくだる心を持つことが必要である。

【励ましの言葉】

神は憐れみ深く、恵み豊かで、怒るのに遅く、赦しに富んでおられる。砕かれた心、悔いた魂を主は軽んじられることはない。

【勧めの言葉】

主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、祝福の方へと導いてくださる。願い事ばかりではなく、主への感謝と罪の告白の祈りを大切にしよう。

【***詳細***】

私が小学生の頃、隣の男の子が授業中に消しゴムを貸してくれと言うので、私は消しゴムを貸しました。消しゴムが私に必要になったので、消しゴムを返してくれと言ったら、その人は私の目に向かって消しゴムをバーって投げつけて、私の目に当たりました。それで一年後ぐらいに、その人に「去年これこれのことをしたよな」って言ったら、その人は見事忘れておりました。

私たちが神様に対してそういうひどいことをしたこと、それは何かと忘れがちで、それでもなお消しゴム貸してくれ、鉛筆貸してくれ、そういうふうに言うのが大体人間の実情です。私たちは神様にお祈りをします。あれください、これください、消しゴムを貸してくれ、鉛筆を貸してくれと祈るんですが、でも神様の大切なところにバーンと、良くない仕方で返すこと、その消しゴムを借りたこと、恩を仇で返すようなことを、私たちは何かとしているものなんです。

そういうことをしないために、主が与えてくださった恵みを思い起こすための祈りをしたのが、今日のネヘミア記なんですけども、このネヘミア記の9章です。ネヘミア記の9章は非常に長い祈りの章で、3ページぐらいにわたる祈りです。

9章の1節から3節までお読みしましょう。「その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布をつけ、土をかぶって集まった。そしてすべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した。彼らはそのところに立ったままで、一日の四分の一は彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は告白をして彼らの神、主を礼拝した。」

先週の8章のところでは、第七の月の仮庵祭の日、まず律法を朗読する祭りと、そしてまた、そのイスラエルの歴史上かつてなかったほどに、ヨシュアの時代以来かつてなかったほどの正しい仮庵祭を行って、民のうちに大きな喜びが沸き起こりました。その月のうちの24日ですから、この喜びの祝いの日からそんなに経っていないうちに、今度はこの断食をして、荒布をつけて土をかぶる集まりをしました。第七の月の24日です。ちなみに第七の月の24日は、特に何の祭りを行えという定めはないので、この民は自らこの断食の集い、荒布の悔い改めの集いをしたくて、そして彼らは集まってきたわけです。

彼らは2節、「すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した」と書いてありますね。自分たちの罪と先祖の咎を告白したんです。

そしてこの6節からずっと37節まで非常に長いお祈りになるんですけども、このお祈りの非常に特徴的なところは、主がどういうお方であるかということの告白がまずあり、そして先祖に対して主はどのような恵みを与えてくださったかが書いてあり、しかし先祖たちはいったい何を主に対して返してきたか。さっきの消しゴムを貸したのに、消しゴムを目に思いっきり投げつけるような、そういう返し方をするのと似たようなことを、このイスラエル民族は神様に対してしてきたわけです。でもそれにもかかわらず、主はどう憐れんでくださったか。どのようにして祝福の地へと導いてくださったか。そしてイスラエル民族をどんなに良くしてくださったか、その恵みの数々が告白されて、しかしそうやってその安息の地で安住して肥え太っていくと、このイスラエル民族はまた何を主に対して返したか。そうした度重なる罪々をずっと告白しております。

そして非常に面白いことに、「主よ、私たちはこれこれの状況です」という告白があるのですが、この状況からお救いくださいといったお願い事が一切この長い祈りの中にはないのです。ただ先祖たちは何々をしました。しかし主、あなたはこれこれの憐れみをしてくださいました。

祈りにはいろいろな祈りがあります。賛美の祈り、感謝の祈り、罪の告白の祈り、悔い改めの祈り、お願いの祈り。今5つ、5種類挙げましたけど、皆さんお祈りという総数の時間の中で何がどれほどの割合か。大体の人はその5つの中でお願いに関する祈りがだいたい90%を占めて、あと残りの5%が感謝賛美、残りの1%ぐらいが悔い改めとか、そういう、ちょっとそれは極端な例ですけども、だいたいお願いが多いわけですね。そして悔い改めが少ない。罪の告白も少ないものです。何々してください、何々してください、それが結構多いんですけど、しかしこのネヘミヤ記の9章の祈りはほぼもう全域が、自分が何をどんなことをしたか。この災いが自分たちに降りかかるのは当然ですという、それがとうとうと記されており、また主が荒野において、またカナンの地においてどれほどの恵みを与えてくださったかがとうとうと書いてあり、そして今私たちはこれこれの状況ですという現状告白はあるんですが、しかし、そこからお救いくださいというのが0%なんですね。お願いが0%の祈りです。こんなに長いのに。

私たちはこの祈りを読むとき、本当に新鮮な気持ちになります。私たちがいかにお願い事が多くて、そして自分たちが何をしてきたか、どんな迷惑を神様に対してなしてきたか、どんなひどいことを神様になして、どんな痛い思いを主にさせてきたかが、とうとうと綴られているわけです。

詳しく見ていきますと、9章の6節から8節まで、特に9章6節が主がどのようなお方であるかということの告白から始まります。ヨシャパテの祈りもそうでした。主はまずどのようなお方からの告白で始まりました。「ただ、あなただけが主です。あなたは天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」

この7節と8節は先祖アブラハムを選ばれて、そしてこのアブラハムに対して契約を結んでくださって、そしてアブラハムとの約束を主は果たされたということをここで告白しております。

9節以降、9節から15節までは、エジプトに対してどのような災いを下されたか。イスラエルの民、9節を見ますと、「あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。あなたはパロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行われました。これは彼らが私たちの先祖に対して高ぶった振る舞いをしていたのをあなたが知られたからです。こうして今日ある通り、あなたは名を挙げられました。」

まずイスラエル民族に対して、この彼らの先祖に対してエジプトの国がいかにひどいことをしてきたか。しかしそこからいかに主は救い出してくださったか。イスラエルにどのような恵みを注いでくださったか。主はイスラエル民族を海の中を通らせて救わせて、しかしエジプトは海の中に投げ込まれました。そして荒野においても、昼間は雲の柱、夜は火の柱によって彼らを導いてくださり、荒野においても迷うことがないように、また砂漠の日差しの中を歩くその苦しみを解くために雲の柱を用意されて、また夜は迷わないように火の柱を用意されて、この荒野を導かれたこと。そして律法をこのイスラエル民族に授けてくださり、また彼らに天からパンを与えて岩から水を与えて、そして約束の地を所有するようにと向かって行ったのですが、しかし先祖たちは罪を犯しました。

16節。「しかし彼らは、すなわち私たちの先祖は、高ぶって勝手に振る舞い、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりの頭を立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。」

自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかをここで告白したのです。そしてそれにもかかわらず、自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかにもかかわらず、神様は恵み深く、情け深く、憐れみ深く、怒るに遅くと告白をしました。

ある教会から離れている方とお話をしている時、「あなたの好きな聖句はどこですか」と聞きましたところ、「これはこれです」と。普通の人から聞けば、なんでそんな災いにあっているようなところが好きなの、という感じがするんですけど、主が今私をこのように災いに取り扱っておられるからですと、その方は答えてですね。でも主はそんなにいつまでも災いのうちに身を投じておられるような神ではありませんよ。神は災いの神じゃありませんよ。憐れみ深く恵みに満ちておられる。いつまでもそのようなことをされておられない神様ですから、ですからどうかこちらの聖句の方をお勧めしますよということでお勧めしたことがありましたけれども、神様をどのようなお方かということを告白するのは大事です。

神様はただ災いを起こされるお方として告白していたら、そこから抜け出すことはできません。それは皆さんの唇からの信仰告白によって、皆さんその唇の実を皆さん刈り取るからです。このイスラエル民族は、確かに神様は私たちを災いに合わせられた。でもそれでも主はなお赦しの神であり、情け深い、慈しみ深いお方であると告白した。主がどのようなお方か。主は素晴らしいお方です。憐れみ深い方です。赦しに富み給う方です。確かに私たちが神様の目にかなわぬことをしたら、それは災いになります。しかし、そこから立ち返るのであれば、その自分のかたくなさを捨てて、主の命令に聞き従うことを選ぶのであれば、主は再び恵みを施してくださいます。

事実、この荒野の民は大きな憐れみによって導かれて、火の柱、雲の柱によって導かれて、またマナが絶えさせられることがなく、また水も尽きるということがありませんでした。荒野の地にあって、主は恵み深いお方。40年の間、主は荒野でイスラエルの民を養われたので、彼らは何の不足もなく、着物も擦り切れず、足も腫れずに導かれていくことができました。

このネヘミヤにおける祈りで、そのように告白して、そしていよいよカナンの地へと彼らが占領したことを告白しております。この先祖たちは、この子孫たち、イスラエルの子孫たちを星の数のように増やして、そして所有せよと言われた地に導き入れられました。こうしてあの地の住民、カナン人たち、カナンの地は弱肉強食の世界であり、また強力な体が大きいアナク人とかおりましたし、またエリコという城壁のある町々、エリコの他にもそういう強力な攻め落とすのが困難な町々があったにもかかわらず、このイスラエル民族に、ただ荒野を旅してきた民が攻め落とすことができて、そしてこの良い町、肥えた土地を彼らに与え、良いものに満ちた家々、また、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹がたくさん実るその乳と蜜がまさしく流れるような地へと導き上られ、そして彼らはそこで安住して、食べて満腹し、肥え太って、大いなる恵みを楽しむことができるようになりました。

しかし、しかし、彼らは反抗してしまいました。26節「しかし、彼らは反抗的で、あなたに反逆し、あなたの律法を後ろに投げ捨て、あなたに立ち返らせようとして、彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、ひどい侮辱を加えました。そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなる憐れみによって彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。」

士師の時代に突入したんですね。しかし「しかし」ですよ。「しかし」がまた続くんですよ。28節。「しかし、一息つくと、彼らはまたあなたの御前に悪事を行いました」云々とずっと悪事を行っては悔い改め、罰せられ、悪事を行っては罰せられて悔い改める。その繰り返しがずっと起こっていたわけです。その告白が29節に至るまでそれです。

30節。「それでもあなたは何年も彼らを忍び、あなたの預言者たちを通して、あなたの霊によって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けませんでした。それで、あなたは彼らを国々の民の手に渡されました。」

ついに、このネヘミヤの時代、バビロン捕囚からやっと帰ってきたばかりです。要するに、まだ彼らは苦難の中にあったのです。異邦人の手に渡されて、異邦人の支配のもとに、このイスラエルの人たちはありました。独立国家としてではなく、それでも自治はある程度の自由はあったのですが、自治権はあったのですが、それでも異国の王たちに税金を納めなくてはならない状況でした。

31節「しかし、あなたは大いなる憐れみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは情け深く、憐れみ深い神であられますから。」アーメン。

神様、災いに会っている時の神様へのイメージは、神様はひどいお方だと思いがちです。でも、このネヘミヤの時代において、彼らは神様ひどいお方だと言うことはせず、あなたは情け深く憐れみ深かったのです。私たちがこのような罪を犯しました。あの時このような罪を犯し、この時このような罪を犯しましたと告白しました。

私が子供の頃受けたあの消しゴム目にたたきつけ事件の時も、一年後にその友達に悔い改めているかなという、そういう希望もあって、「お前あの時こんなことしたね」それを見事に忘れられていたと聞いたのは、とてもがっかりしました。神様はがっかりされるんですよ。皆さんがそれまで頑なに、あの時、預言者を遣わして改めさせようとしたのに、でも、預言者を突っぱねて、逆に嘲ったり、そういうことをする時、神様に対して唾を吐いているようなものです。この時、神様が災いを立ち返らせるために起こしたのに、神様はひどいと言ってますます頑なになる。それも神様にひどいことをすることです。

私たちが悔い改め、また自分たちの罪の告白をし、私はあの時かたくなでした。主は今このような業になっていますということを告白すること。主はそのような祈りを喜ばれます。主が喜ばれるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心と詩篇の51編に書いてあります。あのダビデはナタンが遣わされた時の祈りです。

こうしてこの31節まではずっとこのネヘミヤの時代に至るまでの歴史をとうとうと告白して、そして主は恵み深いお方であることを告白し、また自分たちの先祖が、一息つくたびに度重なる悪を主に対して行ってきたということをここで告白しております。

そこで32節以降、彼らの現状を告白する祈りに入ります。32節「私たちの神、契約と恵みを守られる大いなる、力強い、恐るべき神よ。アッシリアの王たちの時代から今日まで、私たちと私たちの王たち、私たちの司、祭司、預言者たち、また私たちの先祖とあなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さいこととみなさないでください。私たちに降りかかってきたすべてのことにおいて、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。」

ここで民は、自分たちが行ってきたことによる災い、それは当然の報いであることを告白しており、そして主の方が正しかった。自分たちが今まで苦しい目に遭ってきた。それは主よ、あなたが正しかったのです、という告白ですね。

皆さんの人生を思い返した時、私の人生、苦労でできなかったと。神様はこんな私の人生を苦労に満たして酷いという人は多いかもしれませんが、でも私の人生はあの時この時、神様に逆らうような自分の好き勝手を選択して神様の戒めを無視してきたなという悔い改めの祈りがもしなされていたならば、主はもっと早い時期にこんな苦労を負わなくて済んだというような人生と変えられていたことでしょう。

この自分たちの民全部に降りかかったすべての困難にどうか小さいこととみなさないでくださいと。むしろ私たちが小さいこととみなしてしまうんですよ。逆にこのイスラエルの民はそれを小さいこととみなさないでください。自分たちに降りかかってきたすべての罰の報いを、小さいこととみなさないでくださいと主に告白しました。

36節「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りとその良いものを食べるようにされたこの地で、ご覧ください。私たちは奴隷です。私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちの体と私たちの家畜を思い通りに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」

ここで終わりなんですよ、この祈りは。あれって思いますね。どうか今からこの状況からお救いくださいという祈りがないんですよ。ここで終わってるんですよ。ただ自分たちは今奴隷です。あなたが与えてくださったこの地においてご覧ください。私たちは奴隷です。ただ主に対してご覧くださいという祈りをしているわけですね。助けてくださいという祈りではないんです。自分たちが今このような状況に陥っているのは当然です。助けてくださいと言うなんておこがましい。そこまで彼らはへりくだっているわけです。そのような祈りをこの回衆はしていたわけです。

荒布をつけ、断食をし、土をかぶった集まり、一日の四分の一は律法の書を朗読し、次の四分の一は主に告白をして、この告白です。自分たちが何をしてきたか。1日の4分の1といえば6時間ですね。6時間を律法の書の朗読、つまり御言葉の時間にあて、次の6時間を、自分たちの罪を、自分たちの行いをとうとうと主の御前に告白してくるという、そういう12時間に及ぶ集会の日がこの7月24日だったわけです。本当に今までにない集会ですね。

主はこのイスラエルをその後顧みてくださいます。主の御前に出るときは悔い改めた心、悔いた魂、それを主は軽んじられることはありません。詩篇の51篇14節から17節。

「神よ、私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば私の舌はあなたの義を高らかに歌うでしょう。主よ、私のくちびるを開いてください。そうすれば私の口はあなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。神へのいけにえは、砕かれた魂、砕かれた悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」

サムエルもサウルに言いました。「主は主のみことばに聞き従うことほどに、いけにえを望まれるだろうか。見よ。聞き従うことは、雄羊のいけにえにまさり、聞き従わないことは占いの罪、背くことは、偶像崇拝の罪だ」と。いかに私たちが、かたくなになること、聞き従わないこと、それを主が嫌われるか。いかに私たちが悔い改めてへりくだる心を主は喜ばれるか、はっきりしております。

皆さんの祈りは主に聞かれたいでしょうか。それであるならば、まず砕かれた心、悔いた魂に戻ることです。自分の主義主張を捨てること。なんだか今日、ここに講壇に立つのは1日で3回目なんですけど、また同じことを言ってるなって思うかもしれません。同じことを言っておりますので、主は悔い改める者のそばに侍かれます。砕かれた心を主は軽んじられません。

どうか皆さんは、聞き従う心、また自らの行いをよく点検して、主がひどいことをしたことを数えるよりも、私たちが主にひどいことをしたことを数えて、それら一つ一つを主の御前に告白して、祈るのであれば、主はその祈りを喜んでくださいます。

ちなみに私に消しゴムを投げたその人はとても苦しい状況に、今どういう状況になっていますか、なってるのかわからないんですけども、その人と電話したのがもう10年くらい前だったかな。かなり仕事の面で苦しくて転職をしたんですけど、その転職先でも苦しい目にあっているようです。ある女性と同棲を始めて家に来て、それで私は聖書にこう書いてありますよということを伝えたんですけども、その後、彼がどうなっているかわかりません。願うことなら、主に立ち返っていればいいなと思っております。

しかし、私たちは主の民は主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、そして祝福の方へと導いてくださいます。どうか皆さんは主に聞き従い、主に対してもしひどいことをしてきたことが、とか思い出して、それを告白して、そして主に柔軟になって、主に信頼して、そして祝福のうちを歩んでいく。そのような皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

ネヘミア記9章の祈りは、お願いが一切ない画期的な祈りであり、主がどのようなお方であるか、主がどれほどの恵みを与えてくださったか、それに対して私たちがどれほどひどいことを返してきたかを告白する祈りである。私たちは願い事ばかりを並べるのではなく、自分の罪を告白し、へりくだった心で主の御前に出る必要がある。主は砕かれた心、悔いた魂を軽んじられることはない。主に聞き従う生活をする者を、主は祝福の道へと導いてくださる。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
礼拝がつまらない人のために(ネヘミヤ記8章):右クリックで保存

礼拝を喜びに満ちたものとするために

【概要】

ネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が律法の朗読を通して大きな喜びを得た出来事を学びます。礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあることを教えています。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ8:1-18

  • レビ23章

  • 第二歴代誌8:12-13

【励ましの言葉】

御言葉を心から慕い求め、理解しようと努める人は、年数に関係なく急速に霊的に成長し、キリストの似姿へと近づいていきます。礼拝の時間は、主を求める心があれば、喜びで満ち溢れた時間となります。

【勧めの言葉】

礼拝において受け身の姿勢ではなく、御言葉を理解しようと積極的に努めましょう。御言葉に対して敬意を持ち、心を尽くして主を慕い求めることで、礼拝は喜びの場となります。

【悔い改めの促しの言葉】

イエス様が私たちの罪のために命を投げ出してくださったことを深く理解するとき、自分の罪を悲しみ、悔い改めることが必要です。悲しみと悔い改めを経験した人こそ、その後の喜びがより深いものとなります。

【***詳細***】

今日のメッセージは、礼拝が楽しくないという方向けに、礼拝がどうすれば楽しくなるかというお話です。ネヘミヤ記の8章を見ていきます。ネヘミヤ記8章全体を見るのですが、まず8章の終わりの方は、非常にこのイスラエルの民の喜びで終わっています。それは8章全体の出来事があったからです。

ネヘミヤ8章1節から3節をお読みします。

「民はみな、一斉に水の門の前の広場に集まってきた。そして、彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。そこで、第七の月の一日目に、祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前でこれを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」

まず、礼拝が楽しく、喜びで満たされたものとなるためのコツは、早速1節の方からあります。民は皆、一斉に、これは直訳すると「一人の人のように」水の門の前の広場に集まってきたとあります。そして彼らは、律法の書を持ってくるように学者エズラに願ったとあります。これは学者エズラという大先生が立って、そしてイスラエルの人たちに「聞け、集まれ、そしてみんな座って聞け」というふうに言ったのではなくて、民自ら集まってきたんです。一斉に一人の人のように。そして「どうか主がイスラエルに命じた律法の書を持ってきてください」と願ったんです。

ちなみにこのエズラという学者、彼は祭司であり、このネヘミヤ記の直前の書、エズラ記にその活動が記されています。このエズラという学者であり祭司は、律法に非常に精通しており、そして、このネヘミヤより少し前に、このエルサレムに到着しました。そしてエルサレムの民を清めました。律法の書を一生懸命聞かせて、そして神は何を喜ばれ、何を嫌われるかということを民に告げ知らせて、それでイスラエルの民がこのカナン人の人たちと結婚をしてしまっているということを聞いて、非常に悲しんで、そしてその民の清めを断行しました。すなわち、民の中から異邦人と結婚してしまった家族を離婚させ、また、その異邦人たちをエルサレムの中から追放して、そして、すでに子どもが生まれてしまった、異邦人との間に子どもが生まれてしまったら、それを切り離す、自分の民から追い出すということをしました。

それは、神様の御教えに異質のものが混ざってはならないから。それで、そこから異邦人の教えを持つ女やまた子供たちをそこから切り離すことによって、そして悲しみが当然止まります。そこまでしなくていいんじゃないかという意見もありました。でも、あえて断行しました。それによってこのイスラエルは清められて、そして主に喜ばれるものとなっていったのです。

そこでこのネヘミヤが来て、この城壁が完成した後に、この第七の月一日目に祭司エズラは、男も女もすべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、そしてこの水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで朗読をしました。この第七の月の一日、これはイスラエルの中では、身を戒めて清めをする集会の日になっています。第七の月の一日ですけど、ラッパを吹き鳴らして、そして死を記念する祭りの日です。この日に、このエズラに願って、それでこの律法の書を朗読させました。

このエルサレムの城壁が完成したのが第六の月の25日のことですので、それから5日ぐらい後のすぐ後ですね。エルサレムの城壁が完成したすぐ後です。早速、民は律法を朗読して、神様が喜ばれることは何か、神様が嫌われることは何かを求めたんですね。民自らです。

まず礼拝が喜びと楽しみになるコツのその1。皆さんの方から自主的に律法の書を慕い求めて、同じく神の御言葉、イエス様の御言葉を下に求めて、そしてそれを聞く耳を持つということです。

3節の方を見ますと、夜明けから真昼まで男や女で理解できる人たち、これは少なくとも国語能力がある高校生以上の人たちです。彼らがそれを夜明けから真昼まで、結構長い時間です。第七の月といえば9月です。太陽暦で言えば。結構日が長いんですけども、もう8時間ぐらいですね。その律法の書をずっと立って、それを聞いて耳を傾けていたんです。それはそれほど長い時間ですけれども、しかし民は疲れませんでした。あっという間だったんです。

律法の書を聞き入って、それをよく噛み締めて味わっている時間は楽しくて仕方がないのです。皆さんも聖書の学び会が2時間、3時間と続くので、ある人はとても潤っているのに、別の人は3時間も長い間座り続けている。そういうことがたまに起こるのですが、その違いは、御言葉を慕い求めているかどうか、御言葉を喜びとしているかどうかです。

心の置き所を御言葉じゃないところに置いている2時間3時間の礼拝というのは苦痛以外の何物でもないですよ。眠くて眠くて仕方がない。コツは、重い心を御言葉、イエス様に向けずに自分の考えやこれかれに向けること。そしたら、礼拝という時間は早く終わらないかなという、そういう苦痛以外の何者でもなくなります。

でも、イエス様を慕い求めて、御言葉を知りたい、もっとその御言葉の奥義を、奥深いところを知りたいと願う人にとっては、たとえ早朝から真昼までずっと礼拝だったとしても、それはあっという間なんです。礼拝が終わった後は、潤っているんですね。そういうふうにもなるでしょう。感動して。そういうふうになるんです。

5節から8節まで。

「エズラはすべての民の前でその書を開いた。彼はすべての民より高いところにいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが、大いなる神、主をほめたたえると、民はみな手を挙げながら、アーメン、アーメンと答えて、ひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」

この絵面が、まず民の高いところに、そして律法の書を広げました。当時はスクロールで巻物状だったんですけど、それを律法の書、御言葉を広げると、まず民は皆立ち上がりました。御言葉に対して、それなりの礼儀を尽くしているんですね。カトリックの教会というのは、礼拝の説教の時、御言葉が開かれる時は、その司祭が建物の上の方の階のバルコニーみたいなところでその御言葉を広げるんですけども、ちょうどそんな感じで、そしてそこに集まってくる人たちは起立して、そして見上げる形でその神さまの御言葉を仰ぎ望むんですけども、ちょうどそういう感じで、御言葉に対しての敬意を持っているんです。

御言葉への敬意を持っているのであれば、礼拝中は楽しみ、喜びとともに、また厳かな雰囲気、それを慎んで聴こうというその真剣さが生まれるわけです。そしてエズラは御言葉を朗読していくんですが、この学者エズラは、その朗読していくうちに大いなる神、主をほめたたえざるを得ない場面が何度かあったみたいですね。エズラは御言葉を朗読するうちに主をほめたたえました。すると民はみんな手を挙げながらアーメン、アーメンと答えました。このように朗読する人とまた民とが一つの一人の人みたいになって主を礼拝し、主を喜び、主をほめたたえるんです。そのような幸いな時だったわけですね。

7節。

「ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバデ、ハナン、ペラヤなど、レビ人たちは民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。」

この特に8節の方で「律法の書をはっきりと読んで説明したので、民はそれを理解した」とありますね。礼拝中は、単に受け身だけの姿勢では本当につまらないです。あっという間に眠くなってしまいます。でも、理解しようとして、そしてその説明を聞き入るのであれば、それが楽しみになっていきます。

皆さん、教会にある人はもう何十年単位で通っている、ある人は通ってまだ一年も経っていない、そういう状況かもしれないですけれども、しかし、年数は関係ないんですよ。御言葉をはっきりと聞こうとして、説明を聞いて、理解しようと努める人、そういう人はあっという間に成長していきます。あっという間に何十年か通い詰めた人の霊性を追い抜いて、ますますキリストの似姿へと近づいていきます。これは皆さんが体だけこの場にいるということには、それは一切関係がないんです。

身体だけいる人が礼拝という場にいなくてもよろしい。むしろ、御言葉を理解しようと努め、御言葉を聞こうと努める人にとっては、そこは喜びの場、潤いの場になり、本当に時間が経つのをあっという間に忘れてしまうほどのものなんです。

このエズラは、第七の月一日にこの律法を朗読して、そして民はそれを心から聞きたいと慕い求めてきました。9節からお読みします。

「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に説き聞かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『今日は、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたとき、みな泣いていたからである。さらに、ネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者には、ごちそうを送ってやりなさい。今日は私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。主を喜ぶことが、あなたがたの力だからだ。』レビ人たちも民全部を静めながら言った。『静まりなさい。今日は神聖な日だから。悲しんではならない。』こうして民はみな、行って食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」

アーメン。ここで、民は涙を流して泣いています。なぜでしょうか。この涙は悲しみです。ネヘミヤもレビ人も悲しんではならないと命じています。彼らは悲しかったんです。御言葉を聞いた時。ということは、自分たちに身に覚えがあることをどんどんどんどん聞かされていったからです。

いつだったか、申命記の二十何章でしたか、呪いの箇所がありましたね。祝福と呪いの箇所。で、その呪いの箇所を朗読するだけでも10分15分かかりました。それほど長かったんですけども、その中に書いてあります。もし心を頑なにして御言葉に聞き従わないのであれば、これこれの災いに遭う。あなたがたは籠も、こね鉢も呪われて、あなたが一つの道で敵を攻撃しようとしたら、七つの道から逃げ去るようになる。もしそういう災いにあっても、なお聞き従わないのであれば、さらに恐ろしい災害に遭い、あなたの息子娘たちは囚われ人となって連れて行かれる。それでも聞き従わないのであれば、あなたの母親たちは息子娘たちを煮て焼いて食べるようになる。

そこまで書いたんですよ。律法では、モーセの律法の書で。モーセの時代でさえ、主はそういうふうにあらかじめこうなればこうなるという呪いを示されていたんですが、しかしイスラエルの民は心を頑なにして聞き従わず、自分のやりたい放題やって、そして呪いを身に受けて、すべての呪いをイスラエル人は葬儀に受けてしまったのです。

このネヘミヤ記の時代はバビロン捕囚の後の時代です。要するに敵国に捕らえられ移され、エルサレムが焼き滅ぼされて、城壁も壊されて、その後の時代にこの律法の書を改めて朝から昼間までずっと聞いていた。イスラエル人はどれほど身につまされたことでしょうね。もうモーセの時代、はるか先祖の時代からずっと主はそのように言っておられた。しかし私たちの先祖たちはそれを聞き従ってこなかった。まさに主が言われた通りだ。主は正しかった。私たちが間違っていた。それで彼らは泣いていたのです。彼らには悲しみがありました。

悲しみがあるというのは、それは良いことです。それは自分が何をしたかを理解しているか、そして自分の罪があるということを理解したからです。皆さんは主に救われたということがどれほど喜びであり、自分の罪を見たときどれほど悲しい思いをしているでしょうか。イエス様を知れば知るほど、感情が湧き起こってきます。喜びの感情、悲しみの感情、それらが湧き起こっていない人は、まだまだ理解が浅いということです。

イエス様は皆さんの罪を負って身代わりになって死んでくださって、そして皆さんの罪はチャラにされました。それを聞いたとき、ああ、ラッキーラッキーって鼻くそほじりながら、ああ、俺ラッキーだったんだ、へえ、っていう態度でいれる人は理解が浅いということですね。イエス様の痛み、イエス様の受けた屈辱、命を投げ出すほどの愛。それを聞いた時には私たちは感情が沸き起こってくるべきなんです。人間であるからには。

このメッセージの前に河合さんがある子供と母親の話をしましたね。母親の顔にありありと火傷の傷跡が残っている。その娘はその母親を世界一の美人だと先生や友達に紹介していた。母親が娘を火事から救うために火傷を負って、女性の顔に醜いその焼け跡を残した。娘はその母親を、ああラッキーラッキー、私命が助かったもんね、なんていうことだったら、皆さんはたたきたいですね、そういう娘だったら。

イエス様は、皆さんの命を救うために命を投げ出されたのです。なんで鼻くそほじりながらラッキーラッキーみたいなそんな態度でいれるでしょうね。主は。私たちは自分の罪を悲しむべきなのです。自分のそれまで行ってきた頑なさを恥じ入り、悲しみ、そして悔い改めて、そうして初めて喜びが来るのです。

信仰生活に何の喜びを見出せないという人は、まずその逆の悲しみを味わうべきなんです。悲しみを味わい、悔い改めを経験した人こそ、その喜びが深いものになる。その味わいがますます深くなっていくんです。この律法を読んだ、朗読を聞いた民は泣きました。悲しみました。でも、このネヘミヤもレビ人たちも言います。今日は神聖な日だ。祭りを祝う日だ。悲しんではならない。泣いてはならない。むしろ上等な肉を食べなさい。むしろ甘いぶどう酒を飲みなさい。そして何も用意できなかった貧しい人にはそのご馳走を送ってやって、そして共に喜びなさいと言いました。これが主の民の受ける喜ばしき分です。この祭りの日、非常に喜びが湧き起こったはずです。

12節。

「こうして民はみな行き、食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして大いに喜んだ。彼らが教えられたことを理解したからである。」

そうです。理解すること。これが大事です。ですから、御言葉と相対する時は、理解しようと努めること。それが大事です。理解したなら、普通の感覚を持った人間であるならば、悲しみが沸き起こることもあるでしょう。痛みが沸き起こることも、喜びが沸き起こることもあるでしょう。そうして、ますます主の奥深さ、主のその大いに偉大なお方であることを、ますます私たちは理解していくのです。

13節以降をお読みします。

「2日目に、すべての民の一族の頭たちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まってきた。こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、『イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない』と書かれているのを見つけ出した。これを聞くと、彼らは自分たちのすべての町々とエルサレムに次のようなおふれを出した。『山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、ナツメヤシ、また枝の茂った木などの枝を取ってきて、書かれている通りに仮庵を作りなさい。』そこで民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また、神の宮の庭や水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。捕囚から帰ってきた全集団は仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それが非常に大きな喜びであった。神の律法の書は最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めに従って聖なる集会が行われた。」

この第七の月は非常に祭りが多い月でした。それはレビ記の23章の方にあるのですが、まず第七の月の第一日目は、先ほども言いました通り、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合の日で、そして第七の月十日は聖なる集会、身を戒めて、そして民の贖罪をする日です。そして第七の月の15日は、仮庵の祭りが行われます。仮庵の祭りを行って、そして7日間毎日集会があり、第8日目は聖なる会合をして聖なる集会を行うという、そのレビ記の23章の記述があって、ここが朗読されたんですね。祭司エズラによって。

それを聞くと、このエルサレムの住人はこぞってその通りに、やりなさいというお触れが出されます。それは、長らくこのイスラエル民族の地から断たれていた祭りでした。なんと17節、「ヌンの子ヨシュアの時代から今日に至るまで、イスラエル人はこのようなことをしていなかった」。あれ本当だったかなと思って、聖書を検索してみたところ、確かに記述がないんですね。仮庵の祭りを行ったって。唯一ヒットしたのが、歴代誌の8章のソロモンの時代ですね。第二歴代誌の8章のちょうど自分の宮殿が建て終わった時のその時。第二歴代誌の8章12節と13節。

「それからソロモンは、彼が玄関の前に建てた主の祭壇の上に、主のために全焼のいけにえをささげた。すなわち、モーセの命令通りに毎日の日課によりこれをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとにこれをささげた。」

ついでに「ついでに仮庵の祭り」という言葉が出てきたような、そういう感じですね。ソロモンが宮殿を建てた時、それは非常に豪勢な時代でした。主の神殿に捧げられるその牛や羊たち、それはもう数えきれないほどだったから、特別に庭を聖別して、そこ全体で生贄を焼いたほど、物に富んでいる、そういう時代でした。ソロモンの時代は。でもそこに心はなかったようですね。見かけは豪勢。でも心がなかったのです。ソロモンの時代に、ソロモンはさっさと別の国に走ってしまいました。

ヨシュアの時代、その時代は、本当に民の心はまだ主に対して、主を恐れて主に対して真っ直ぐだったのですが、でもそのヨシュアのすぐ後の時代、士師記の時代からイスラエル民族は自分勝手なことをし出すようになってしまいました。その時からずっとこの仮庵祭は断たれていたのです。形式上は行われていたのですが、しかし、ここに書いてあるような、民が自分の屋根の上や広場やそういったところに仮庵を作るということを、そこまで真剣にしていなかったのでしょうね。

しかし、この17節の文を見ますと、「このイスラエル人、ヌンの子ヨシュアの時代から今日までイスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった」とあります。まだこのエルサレムの城壁が再建し終わってから1ヶ月も経っていないような、そういう時期に行われた仮庵祭です。それは本当にソロモンの時代から見れば質素な、粗末な、急いで作ったかのような粗末なものだったかもしれないのですが、しかし、大きな喜びがありました。主の御言葉を守った。忠実に行った。そこには喜びがあるんです。そこは別にゴージャスでなくても、喜びというのは沸き起こるんです。心があるのであれば。

人は祝福を求めます。富を求めます。健やかさを求めます。ゴージャスさを求めます。しかし、大切なのは主に向かう心です。真剣に主を求める心があるのであれば、その祭りは非常に喜ばしいものとなります。きっと仮庵祭、野に出て行って、木の枝を集めて、それを自分の庭とか屋根の上とかに小屋を作って、そこに寝て、イスラエルの民が仮の宿に休んでいた時期を思い巡らす、そういう祭りだったんですけど、きっと廃れていってしまったのは、何かそこまで堅苦しくやらなくていいじゃんっていう、そういう思いだったのかもしれない。

しかし、そうした思いを捨てて、たとえ世の人から見れば、堅苦しくてそこまでしなくていいんじゃないみたいなところを、あえて主のゆえに守りを行うところに喜びが湧き起こるんです。こうして、この第七の月、このイスラエルの民にとっては特別な、ささやかですけども、しかし喜びに満ちた、そして、祭りの期間を送ることができました。それは、自ら積極的に御言葉を慕い求める心があったからです。また、御言葉に対する畏敬の念、恐れがあったからです。そして、何が神様に喜ばれ、何が悲しまれ、何が憎まれるのか、その律法を読んだ時に、何が悲しまれ、何が憎まれるのか。心に悲しみが起きたからです。悲しみがあったから、そこには悲しみがなくなり、逆に喜びが湧き起こるのです。

礼拝という心を尽くして、思いを尽くして、主を慕い求める。そこには主からの喜びが湧き起こるのです。礼拝がつまらないという人は、どうか心から主を求めて礼拝に臨んでみてください。そうしたら喜びで満ち溢れる礼拝の時間がとても楽しいものになります。どうか礼拝を喜びに通し、ますます神様から祝福をいただいていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあります。御言葉に対する敬意を持ち、自分の罪を悲しみ、悔い改める時、そこから真の喜びが湧き起こります。ネヘミヤの時代の民のように、心を尽くして主を求めるならば、たとえ質素であっても、礼拝は喜びに満ち溢れた時間となるのです。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁の内側に住まわせるべき人とは(ネヘミヤ7章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁完成前の猛攻撃(ネヘミヤ6章):右クリックで保存

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城壁の内側にも気をつけよ(ネヘミヤ5章):右クリックで保存

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