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メッセージ - レビ記カテゴリのエントリ

性行為が「恥ずかしい」理由(レビ記15:16-24)

 以下の神様の指示も、現代の価値観で見るなら、不愉快に思えるかもしれない。

『人がもし精を漏らすことがあれば、その全身を水にすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。すべて精のついた衣服および皮で作った物は水で洗わなければならない。これは夕まで汚れるであろう。男がもし女と寝て精を漏らすことがあれば、彼らは共に水に身をすすがなければならない。彼らは夕まで汚れるであろう。また女に流出があって、その身の流出がもし血であるならば、その女は七日のあいだ不浄である。すべてその女に触れる者は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:16-19)
 
 
男性が子種を流し出した場合、女性が生理で経血を流した場合、男と女が性行為を行った場合、いずれも「汚れ」の状態となるため、水で洗わなくてはならず、夕方まで汚れるとされる。
 
経血が排出された女性は七日間汚れ、彼女が座った物も、それらに触れた人も、汚れるとされる・・・。差別や人権の観点から見るなら、ひどい話に聞こえるかもしれないが、私達キリスト者が御言葉と向き合う時、自分の快・不愉快の判断基準を、持ち込むべきではない。
 
「清い・汚れている」を定められるのは主であり、主が定められた以上は、その背後にどんな真理が隠されているのか、御言葉を根拠に解き明かしていくべきである。
 
 
神の基準では、男性・女性に限らず、性器からの漏出や、性行為は、「汚れ」というカテゴリに入る。
 
いのちを生み出す上で必要な生体活動や、すばらしいはずのその行為が、どうして「汚れ」になってしまったのだろう。
 
その原因は、創世記に記されている。
 
 
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
 
いのちを生み出すための活動は、元々、「生めよ、ふえよ」という祝福の命令に叶った、神の似姿を増殖させる、聖なる、素晴らしき良きものだった。
 
 
『それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。』(創世記2:24-25)
 
ここに、何のやらしさも、やましさも、感じられない。
 
二人は一つ肉となる。罪なき人の「肉」は、汚れたものでも、恥ずかしいものでも、全然なかった。
 
一体、いつから、性にまつわる事を、恥ずかしいと思うようになったのか?
 
それは、善悪を知る知識の木の実を食べた「直後」である。
 
 
『女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。』(創世記3:6-7)
 
目が開かれ、神のように善悪判断をするようになった時、彼らが真っ先に知ったのは、自分たちが裸である事。
 
そして、真っ先に覆い隠したのは、腰、すなわち、生殖器だった。
 
 
男性器・女性器は、人が罪を犯す前、神の聖なる似姿を増やしていくための、御心に叶った、素晴らしき良きものだったのが、人が罪を入れ込んでしまった結果、大いなる大逆転し、罪を産んで増やしていくための、御心を損なう、汚れた、恥ずかしむべきものとなってしまったのだ。
 
聖なる神の似姿を増やしていく、最も良き事が、邪悪な罪をはびこらせる、最も忌むべき事となってしまう。
 
だから、アダムとエバは真っ先に、そこを隠したのではなかろうか。
 
 
事実、性の乱れによって、人類は、奈落を転げ落ちて行くかのように悪い方向へ向かった。
 
エバが最初に産んだカインが、早速、弟殺しの殺人者となったのを筆頭に、ノアの時代に至るまで、神の子たちは、人の娘達と不自然な性関係を持ち、そうしてネピリムが生まれ、人の悪がますます増大して行き、ついには、世界は一度、水によって滅びるに至ってしまった。
 
それ故、神は、生殖器から出るものも、性行為も、「汚れ」とされたのではなかろうか。
 
 
この、性の乱れによる悲惨さから救われる唯一の道は、イエス・キリストを信じる事によって、神の子として生まれ変わる事である。
 
アダム以来、罪がはびこり呪われてしまった被造物は、キリストに贖われた人達、すなわち神の子達のあらわれを待っているのだ。
 
 
『被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
 
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。』(ローマ8:19-23)
 
 
人は、性的な事に羞恥心を覚える。それはアダム以降の人間には、正当な感覚である。
 
しかし、その正当な「羞恥心」という感覚を、意図的にねじ曲げているが故に、不自然で、歪んだ「性」をはびこらせているのが現代であり、ネピリムが闊歩していた時代のごとく、罪を、悲惨さを、大量に産み出している。
 
それ故、私達がレビ記に記されている事を読む時、私達は、へりくだるべきであり、私達の側に罪がある事を、覚えなくてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:主のもの(レビ記27:26-34):右クリックで保存

レビ記の最後で、主は、捧げ物としてはならぬ「主のもの」を示しておられる。
『しかし、家畜のういごは、ういごとしてすでに主のものだから、だれもこれをささげてはならない。牛でも羊でも、それは主のものである。』(レビ記27:26)
全てはじめに胎を開くものは主のものである、と、イスラエルがエジプトを出る直前で、主は既に言われていた。(出エジプト記13:2)
つまり、人も動物も、初子は元々主のものであるので、人が自ら進んで捧げる捧げ物とする事は出来ない。それだとダブルブッキングになってしまう。

『ただし、人が自分の持っているもののうちから奉納物として主にささげたものは、人であっても、家畜であっても、また相続の畑であっても、いっさいこれを売ってはならない。またあがなってはならない。奉納物はすべて主に属するいと聖なる物である。またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。』(レビ記27:28-29)
ここは、必ず滅ぼし尽くさなくてはならないもの、いわゆる「聖絶のもの」についてのおしえである。

「聖」とは元々、主なる神の、絶対的かつ排他的な、決して犯してはならぬ性質のものである。
主が「聖絶すべし」としたものを、人がとやかくしてはならず、それを犯してしまうと、その人は必ず尋常でない死に方をした。
例えば、アカンは聖絶のものに手を出してしまい、自分のみならず、イスラエル全体に災いを招いてしまったし、サウル王も、聖絶のものを見て自分の善し悪し判断を混ぜ込んでしまい、主から見放され、王座を奪われてしまった。
主が聖絶すべきとしたものは、人はただそれを滅ぼし尽くすのみ、それ以外は災いをもたらすのである。

『地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。もし人がその十分の一をあがなおうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。』(レビ記27:30-31)
地の産物の十分の一も、主のものであると主は主張されている。そうであるからには、人がことさら「進んで捧げる捧げ物」とする事はできない。
本来的には、「全地は主のもの」(詩篇24:1、詩篇95篇)であるはずだが、しかし主はあえて、人に、その十分の一を主のものとして捧げるよう命じられ、人の側がそれに従うのであれば、その人は、神と人との主従関係を行動をもって示した事になるのだ。

『牛または羊の十分の一については、すべて牧者のつえの下を十番目に通るものは、主に聖なる物である。その良い悪いを問うてはならない。またそれを取り換えてはならない。もし取り換えたならば、それと、その取り換えたものとは、共に聖なる物となるであろう。それをあがなうことはできない』」。』(レビ記27:32)
家畜の中で、どれを十分の一の聖なるものとして選別するか。
そのやり方は、家畜の群れに牧者のつえの下を通らせて、その十番目に通るものが、聖別すべきものである、と、主は定められた。
そして、その十番目に通るものについて、人は、とやかく言ったり判断したりしてはならない。
十番目に通ったものの善し悪しを見て、取り替えてはならず、取り替えようとするなら、両方を「聖なるもの」として、捧げなくてはならない。

『これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。』(レビ記27:34)
このレビ記において、主は私達に、何を求めておられ、どうなる事を望んでおられ、どのようになる事を忌み嫌われるか、そして、主の忌み嫌われる事を続けていると、どうなるか等を、はっきりと示され、イスラエルの民は、それを学習した。

レビ記で学んだ主の命令は、全て、法則である。
幸いを得る法則に従えば、必ず幸いになるが、呪いの法則に従えば、必ず呪われる。それ以上でもそれ以下でもない。
レビ記が学科であるなら、その次の民数記は、実技試験の記録である。
イスラエルの多くは、早くも学科で学んだ事を大いに違反し、災いを招いてしまったが、中には、少数ながらも主に従って幸いを得た人もいた。
主の法則にはシンプルに従い、幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:土地の評価価値(レビ記27:16-25):右クリックで保存

『もし人が相続した畑(土地)の一部を主にささげるときは、あなたはそこにまく種の多少に応じて、値積らなければならない。すなわち、大麦一ホメルの種を銀五十シケルに値積らなければならない。』(レビ記27:16)
土地の価値をはかる上で、基準とするものは、広さではなく、立地でもない。
「蒔く事の出来る種の量」である。
つまり100ヘクタールのいばらや岩だらけの土地よりも、20ヘクタールのよく耕された土地のほうが、価値がある、という事も、十分有り得るのだ。
この事から、神の御前に価値ありとされるのは、その人の生い立ちでもなく、教会にいた年数でもなく、その人がいかに、御前に良き「実」を結べるか、であると分かる。

私達は、神の畑である。(1コリント3:9)
何年教会に通っていても、使う言葉がいかにもクリスチャンっぽくても、「実」が無いとしたら、御前に価値は無い。

私達は、ガラテヤ5:22-23 にある「実」を結んでいるだろうか。
兄弟姉妹や隣人への「愛」があるだろうか。
喜んでいるだろうか。
平安だろうか。
寛容だろうか。
親切だろうか。
善意にもとづいて行動しているだろうか。
誠実だろうか。
柔和だろうか。
自制があるだろうか。
これらの実が、少しずつでも実って来ているなら、その人は御霊にあって成長している人である。
しかし、何年たっても変わらず、それらの実が全然増し加わっていないなら、キリスト者としての根本的なあり方を見直さなくてはならない。

『もしその畑をヨベルの年からささげるのであれば、その価はあなたの値積りのとおりになるであろう。もしその畑をヨベルの年の後にささげるのであれば、祭司はヨベルの年までに残っている年の数に従ってその金を数え、それをあなたの値積りからさし引かなければならない。』(レビ記27:17-18)
土地を主の御用のために捧げるにあたっては、ヨベルの年までの年数も、関係して来る。
私達はあたかも、まことのヨベルの年、すなわち、全ての罪の負債が帳消しにされ、まことの故郷である天に還る日に向かい、日々、歩んでいるようなものである。
このまことのヨベルの年に至るまで、いかに御前に有用な実を結ぶか。そのような心がけで日々歩むべきである。

『もしまた、その畑をささげる人が、それをあがなおうとするならば、あなたの値積りの金にその五分の一を加えなければならない。そうすれば、それは彼のものと決まるであろう。しかし、もしその畑をあがなわず、またそれを他の人に売るならば、それはもはやあがなうことができないであろう。その畑は、ヨベルの年になって期限が切れるならば、奉納の畑と同じく、主の聖なる物となり、祭司の所有となるであろう。』(レビ記27:19-21)
約束のカナンの地で、主からゆずり受けた土地は、本来、その人とその子孫のものであり、いかに経済的に落ちぶれ、誰かに売ってしまおうとも、ヨベルの年には、その人の元に還ってくるのが基本だったが、ここに記されていたように、永久に、その人の手から放れてしまう、という事があるようである。
すなわち、その土地を「神様の御用のために」捧げた人が、ヨベルの年になってもその土地を買い戻さず、むしろ、その土地を他の人に金で売るとしたら、もはや、その土地は永遠に手放した事になってしまう。

ヨベルの年の前の年になっても、金を使い果たしてしまっていて買い戻しが出来ないのか、あるいは、主からゆずり受けた土地よりも、現金のほうが大切なのか、とにかく、その人の心が、主から受けたゆずりの地を軽んじて油断していると、永遠にそこを失ってしまうのだ。
エサウは、一杯の豆の煮物と引き換えに長男の権利を永遠に手放してしまった。
同じように、キリスト者の中にも、ひと度主に贖われ、主のものとされておきながら、世の一時的な金銭を得たいがために、ゆずり受けるべく神の国を、自ら永遠に手放してしまうような人がいるが、そういう事があってはならない。

『すべてあなたの値積りは聖所のシケルによってしなければならない。二十ゲラを一シケルとする。』(レビ記27:25)
神様のために捧げるものの値積もりは、私達に属する量りではなく、神に属する量りによって、量られなくてはならない。
人の量りでは重くても、神の量りには軽く値積もられ、その逆に、神の量りは重くても、人の量りでは軽く値積もられてしまうような事がある。
しかし私達は、世間の解釈や世間のはかりによってではなく、天の、神の国の、永遠に変わらぬ聖なる「はかり」によって、はかるのが本来である。

礼拝説教メッセージ音声:家畜と家の評価価値(レビ記27:9-15):右クリックで保存

続いて、主の御用のために、家畜や家を捧げる場合について。
『主に供え物とすることができる家畜で、人が主にささげるものはすべて聖なる物となる。』(レビ記27:9)
「聖なるものとなる」、すなわち「聖別」とは、所有権が人から神へと完全に移行した、という事であり、それを人が手出しすると、災いを免れない。(ヨシュア記7章、1サムエル15章)

『ほかのものをそれに代用してはならない。良い物を悪い物に、悪い物を良い物に取り換えてはならない。もし家畜と家畜とを取り換えるならば、その物も、それと取り換えた物も共に聖なる物となるであろう。』(レビ記27:10)
つまり「これを主の御用のために捧げた」と、一度決めておきながら、後からそれを「惜しい」と思って、より悪い物に取り替えたり、あるいは、一度これを捧げると決めておきながら、後から「そういう事ならもっと良い物にしておけばよかった」と思い直したりする事は、良くない事であると主は示している。

主は捧げ物について、純粋さ、シンプルさを求められる。
ひと度、神の所有にしたのであれば、それに対して人が「思い巡らした事」や「善し悪し判断」を、を混ぜ込んではならない。
人が後から、ああでもない、こうでもないと、あれこれ思い巡らした有形無形の成果物を混ぜ込んでしまうと、ほぼ、より物事を悪くする。
それをしてはならない。

捧げ物の善し悪し判断は、捧げる人がするべき事ではない。
『祭司はその良い悪いに従って、それを値積らなければならない。それは祭司が値積るとおりになるであろう。』(レビ記27:12)
ここにある通り、捧げ物の善し悪し判断は、祭司がする事であり、それは家畜の場合もそうであるし、家を主の御用のために捧げる場合も同じである。(同14節)

私達にとって、善し悪し判断をしてくれる祭司とは、まことの大祭司なるキリストである。
全ての評価は、私達ではなく、キリストがする事である。
私達は、主から何か大きな事を任される時、「自分はそんな奉仕なんて、とても出来ない」「自分にはそんな価値は無い」「能力外だ」と思うことがあるが、私達がどう思うかは重要ではなく、主が、私達にどのような御心を持っておられるかが重要であり、私達の考えた事が成るのではなく、主の御心が、必ず成るのである。
主がGOサインを出したのであれば、いかに能力外であろうと、いかに小さくつまらない者であろうと、それは、可能なのである。

そして、その逆の事もある。
すなわち、主の御心でもないのに、「自分こそ、その奉仕の適任者だ」などと言って、その事を為そうとするなら、必ずうまく行かない。
むしろ主のストップがかかり、強制的にその座から降ろされ、別の適任者にゆずる事になり、大恥をかいたりする。
『誇る者は主を誇るべきである。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。』(2コリント10:17)

人はむやみに「主に捧げる」と言うべきではないし、コミットメントもなしに奉仕者になるべきではない。
『もしその人が、それをあがなおうとするならば、その値積りにその五分の一を加えなければならない。』(レビ記27:13)
ひと度、主に捧げたものを思い直し、やっぱり自分のものにしようとすると、後々ペナルティがつくのは、法則である。
それは家畜の場合もそうだし、家を主の御用のために捧げる場合も同じであり(同15節)、そして私達も、ひと度主への奉仕を決心しておきながら後にそれを思い直してしまうとしたら、何かしらのペナルティが主から来るのは、法則である。

それ故、私達は主の奉仕、主への捧げ物については、自分の「善悪判断」は捨て去るべきであり、主の御心を求め、主の判断に従うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:人身の評価価値(レビ記27:1-8):右クリックで保存

レビ記最後の章は、民が自ら進んで捧げる捧げ物についてのおしえであり、今回の箇所は、「その人自身」を捧げる場合についてである。
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『人があなたの値積りに従って主に身をささげる誓願をする時は、あなたの値積りは、二十歳から六十歳までの男には、その値積りを聖所のシケルに従って銀五十シケルとし、女には、その値積りは三十シケルとしなければならない。 』(レビ記27:1-4)

主にその身をささげる、という特別な誓願をする場合の値積もりは、成人男性の場合は銀五十シケル、女性の場合はそのおよそ半分、そして、未成年者であっても、また、乳幼児といえども、しっかり評価値が定められている。
例えば、サムエルの母ハンナは、まだ子供がいない時、もし男の子が生まれたらその子を神様に捧げるという誓願を主に立てていたが(1サムエル1−2章)、彼女がサムエルを捧げた時、サムエルは五歳未満の男子という事で、値積もりは5シェケル、という事だったのだろう。

子供だからといって、まだ乳幼児だからといって、侮ってはならない。
主の御前に捧げられたからには、いかに子供であっても「主の働き人」なのだ。
実際、サムエルは10歳にも満たない年頃だったのに、年齢も経験も豊富な祭司エリでさえ聞けなかった御声を聞く事が出来、エリにさえ示されなかった預言を示された。

サムエルやエフタの娘のように、親によって主に捧げられた人がいるし、また、自ら誓願を立てて自ら主に捧げる人もいるし、そして、バプテスマのヨハネやサムソンのように、生まれる以前から主に捧げられた人もいる。
いずれにしても、主にその身を捧げる、という特別な誓願は、軽い気持ちで立ててはならない。

『神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。
あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。 』(伝道者の書5:1-6)

人が誰かを値積もって、誰々の人間的な付加価値は幾ら幾らだ、と、計算する人は多い。
イエス様さえ、人々から三十シェケルと値積もりされた。
天地はイエス様のために創られ、この御方にあって成り立っているのに、そのお方さえ、人間は銀30枚(およそ100日分の日当)と値積もったのだ。
それ程に、人が人を値踏みする評価は、愚かで当てにならず、そんな評価を気にする必要は一切無いのだ。

さて、私達の価値は、幾らだろうか。
キリストにあって神の子とされた私達は、天と地の主であられるイエスキリストのいのちと同等の値段が、付与されている。
それ故、誰かが私達を品定めしたり、計ったりする「評価」は、無益である。
『自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。しかし、わたしたちは限度をこえて誇るようなことはしない。むしろ、神が割り当てて下さった地域の限度内で誇るにすぎない。』(2コリント10:12-13)

礼拝説教メッセージ音声:呪いの囲いによって祝福へと導かれた主(レビ記26:40-46):右クリックで保存

『しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。』(レビ記26:40-42)

人々はどうして、愚かにも、呪いへとまっしぐらに進む事を止めないか。それは「心に割礼が無いから」だと書いてある。
すなわち、心が「あれをやりたい」「これをやりたい」という肉の思いで覆い尽くされていて、それを取り除ける気が、一切無いからである。

その無割礼の心が砕かれ、取り除かれて、主が与えられた罰を正当とし、その罰を甘んじて受けようとする人達に、主は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こす、と言っておられる。
不従順の罰を受けたイスラエルの民が、自らの罪と、先祖たちが主に反逆した事とを告白し、主の元に立ち返るのを、主は、いつも忍耐深く待っておられる。
受けている呪いや罰を乗り越えるには、自分に罪がある事を認め、それを正直に主に告白する必要があるのだ。
そして、その向こう側で、主は、恵みと憐れみをの手を広げて待っておられるのだ。
人が主に背き、罰が与えられても、なお悔い改めず、さらに七を七倍、そのまた七倍の罰が与えられても、なお悔い改めないような人であっても、主はなおその人をあきらめず、その人に恵みと慈しみを施そうとしておられる・・・。それは、何と驚くべき忍耐、なんと驚くべき愛だろうか!

主はなぜ、この章に記されているほどの災いを用意されるか。
それは、愛しているからであり、死のパターンに陥らないようにと、懲らしめを与えられるからだ。
『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。・・・すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(ヘブル12:5-11)

人は思う。裏切り者に、そこまで義理立てする必要が、果たしてあるのか、と。
しかし主は、裏切り者にさえ「友よ」と呼びかけられたお方である。(マタイ26:50)
主は、愛がそのご性質であられ、それは昨日も今日、いつまでも変わらない。

『それにもかかわらず、なおわたしは彼らが敵の国におるとき、彼らを捨てず、また忌みきらわず、彼らを滅ぼし尽さず、彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。わたしは彼らの先祖たちと結んだ契約を彼らのために思い起すであろう。彼らはわたしがその神となるために国々の人の目の前で、エジプトの地から導き出した者である。わたしは主である』」。』(レビ記26:44-45)
主は、その民を、呪いの道には行かせないように、死へと向かわせないようにと、強制的に「災い」という囲いを用いて呪いへの道を閉ざし、守り、祝福へと門を開いて下さっている。
私達は盲目で、好き勝手な道を歩もうとしていても、主は無理矢理に祝福の道へと導いて下さる。
まさに、押入れゆすり入れして与えて下さる”不可抗力の”守りと祝福であり、踏んだり蹴ったりの祝福である。

主の愛は、完全で的確な愛。なおかつ、ねたむ程の激しい、熱い、強い愛。
その愛によって、私達は主から愛されているのだ。

礼拝説教メッセージ音声:のろいの明細 末期的段階(レビ記26:30-39):右クリックで保存

主への不従順がもたらす災いの末期的段階として、自分の息子や娘の肉を食べるまでの深刻な食糧難がある事を、前回見た。
しかしそれだけには終わらない。
『わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の祭壇を倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を投げ捨てて、わたしは心にあなたがたを忌みきらうであろう。』(レビ記26:30)

主は、あらかじめ人に「この不従順を行えば、この災いが下る」と警告を与え、そして人が不従順を行った場合、驚くほどの正確さで、その災いを実行される。
ただし、その執行までは、かなりの時間的隔たりがあり、人間にとっては「遅すぎる」と思える事がある。
主がそこまで時間を持たれるのは、忍耐をもって人が正しい道に立ち返るのを待たれるからだ。

このレビ記の時代(BC1500〜1300年頃、諸説あり)から数百年経った、レハブアム王の時代(前930―913年)、北イスラエル王国と南ユダ王国は分裂したが、その北イスラエル王国の最初の王・ヤロブアム(口語訳:ヤラベアム)の時代に、次の事が起こった。
『ヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。』(1列王記12:26-28)

レビ記を学んで来た皆さんは、この王はとてつもなく恐ろしい罪を犯した事を知って、心震えるだろう。
彼はイスラエルを災いへと導くような決断をしてしまったが、主は憐れみ深く、一人の神の人(預言者)を彼に遣わした。

『神の人は祭壇にむかい主の命によって呼ばわって言った、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。その名をヨシヤという。彼はおまえの上で香をたく高き所の祭司らを、おまえの上にささげる。また人の骨がおまえの上で焼かれる』」。その日、彼はまた一つのしるしを示して言った、「主の言われたしるしはこれである、『見よ、祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ出るであろう』」。』(1列王記13:2-3)
この預言者は、具体的に「ヨシヤ」というまだ生まれていない王の名前を挙げ、やがてこの王が、この偶像の祭壇の上にその祭司たちの死体を焼いて汚すという、レビ記で約束されている通りの事を行うであろう、と預言をした。
その時、実際に祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ、ヤロブアム王は差し伸ばした手が萎え、主への恐れが起こったが、残念ながら、ヤロブアム王はそれで悔い改めなかった。
そして、そのおよそ350年後、この預言者の言葉が成就し、実際にヨシヤという名の王が生まれ、彼によって、この事が為された。(2歴代誌34章)
主は真実な方であり、大昔から立てられたご計画を実行されるお方である。

真実な神は、私達にも、大昔から祝福の約束を与えておられる。
私達が生まれる前から、キリストにあって天にあるもろもろの霊的祝福によって祝福し、私達を御前で清く傷なき者として、定めておられた。
それが定められていたのは、世界の基の置かれる前から、である。
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)
まことに主のはかりごとは遠大過ぎて、私達には及びもつかない。

『わたしはまたあなたがたの町々を荒れ地とし、あなたがたの聖所を荒らすであろう。またわたしはあなたがたのささげる香ばしいかおりをかがないであろう。わたしがその地を荒らすゆえ、そこに住むあなたがたの敵はそれを見て驚くであろう。』(レビ記26:31-32)
民が不従順を犯すと、主は自ら「聖」と定められた神殿さえ、荒らされるままにされた。
ソロモンの時代に建てられた神殿は、これ以上は無いというくらい金銀がふんだんに使われた豪華絢爛なもので、主の栄光もその中に満ち満ちて、祭司もその栄光のために仕えられなくなった程に臨在が濃厚になった事さえあった。

その時代の、一体誰が想像出来たであろう。
この聖なる場所が、異邦人に蹂躙され、全ての宝物が奪われ、破壊されてしまう様を。
ソロモンは、その時代に不従順の罪を犯してしまい、レビ記で記されてあったのろいを早くも実現する土台をつくってしまった。
主は、神殿などの「場所」に宿るのではない。人々の従順さの内に宿るのである。
どこか場所や建物が神殿だと思ったら、間違いである。
私達キリスト者こそ神殿であり、その人が不従順になるなら、主の栄光と臨在は、そこから去ってしまうのだ。

結局は、既に聞いている通りである。御言葉に服従する事、それが全てである。

礼拝説教メッセージ音声:のろいの明細 2(レビ記26:23-29):右クリックで保存

あくまで頑なになって主の御声に聞き従わず、自分の好き勝手を貫き通そうとする者に、主は段階的に災いを降され、立ち返るよう促される事を見ている。そして前回までの所で、その第三段階目までを見た。
それでもなお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、第四段階目の呪い、すなわち、戦争と疫病、食料不足の災いが降りかかる。
『わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう。あなたがたが町々に集まる時は、あなたがたのうちに疫病を送り、あなたがたは敵の手にわたされるであろう。わたしがあなたがたのつえとするパンを砕くとき、十人の女が一つのかまどでパンを焼き、それをはかりにかけてあなたがたに渡すであろう。あなたがたは食べても満たされないであろう。』(レビ記26:25-26)

この災いでも、なお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、食料不足は最悪の状態になり、自分の息子や娘の肉を食べるまでになる。(27-29節)
そのような深刻な食糧難は、預言者エリシャの時代のサマリヤにおいて、バビロン捕囚前後のイスラエルにおいて、また、イエス様を十字架につけた世代のイスラエルで、実際に起こった。
その時の王や民は、主に対してどのような態度で、どのような霊的状況だったのかを、2列王記6−7章から知ることが出来る。

『この後スリヤの王ベネハダデはその全軍を集め、上ってきてサマリヤを攻め囲んだので、サマリヤに激しいききんが起った。すなわち彼らがこれを攻め囲んだので、ついに、ろばの頭一つが銀八十シケルで売られ、はとのふん一カブの四分の一が銀五シケルで売られるようになった。』(2列王記6:24-25)
銀一シケルが日雇い労働者の日当の3〜4倍相当であるから、食料価格のとてつもない暴騰である。
そこに、ある女が、王に次の訴えをしている。

『「この女はわたしにむかって『あなたの子をください。わたしたちは、きょうそれを食べ、あす、わたしの子を食べましょう』と言いました。それでわたしたちは、まずわたしの子を煮て食べましたが、次の日わたしが彼女にむかって『あなたの子をください。わたしたちはそれを食べましょう』と言いますと、彼女はその子を隠しました」。』(同28-29節)
親が子の肉を食らう状況、実際にレビ記にて、あらかじめ主が予告していた災いである。
訴えとしては「詐欺」とか「約束破り」を王に訴えているのだろうが、常軌を逸した内容を、それも、恥も外聞も無しに、大勢の前で大声で訴えて、もはや人間性のかけらもない状態となっている。

『王はその女の言葉を聞いて、衣を裂き、――王は城壁の上をとおっていたが、民が見ると、その身に荒布を着けていた―― そして王は言った「きょう、シャパテの子エリシャの首がその肩の上にすわっているならば、神がどんなにでもわたしを罰してくださるように」。』(同30-31節)
この王の言葉に注目してほしい。
彼は、衣服は裂いてその身に荒布を着けていて、外見上は、あたかも悔い改めて身を慎んでいるように見えるが、その実、神が遣わされた預言者エリシャを殺そう、と言っているのである。
王は、自分の衣を裂くよりも、むしろ、神の御言葉に背いた事を悔い、自分の臣下にこのような災いを招いてしまった事を、心を裂いて悔い改めるべきなのに、それをせず、頑として、災いを預言した預言者が悪い、だから殺してやる、という意向なのだ。

また、王の使者もエリシャに言っている。
「この災は主から出たのです。わたしはどうしてこの上、主を待たなければならないでしょうか。」(同33節)
それに対しエリシャは、幸いが来る預言をした。
『エリシャは言った、「主の言葉を聞きなさい。主はこう仰せられる、『あすの今ごろサマリヤの門で、麦粉一セアを一シケルで売り、大麦二セアを一シケルで売るようになるであろう』」。時にひとりの副官すなわち王がその人の手によりかかっていた者が神の人に答えて言った、「たとい主が天に窓を開かれても、そんな事がありえましょうか」。エリシャは言った、「あなたは自分の目をもってそれを見るであろう。しかしそれを食べることはなかろう」。』(2列王記7:1-2)

このように、王の副官も、主に期待しない心で「主はそんな事はなさらない」と、不信仰告白をしている。
これほどの災いを下す主はひどい、災いの預言をした預言者は殺してやる、主には期待なぞしない、主は幸いをなさらない、そのような、頑なな心を悔い改めない、主に期待しないような心が、あらかじめレビ記に記されていた呪いを引き起こし、多くの人達ともども災いへと導いたのだ。

皆さんは、このような王の統治下にいたいだろうか。あるいは、皆さんが、王の地位にいるとしても、臣下をこのような不幸な暮らしへと導きたいだろうか。
私達は、頑なさを捨てるべきである!
御言葉によって悔い改めが促されたら、即、自分を下ろして悔い改め、御言葉を信じ、主が良きお方である事を期待して主に求め、速やかに幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:のろいの明細 1(レビ記26:14-22):右クリックで保存

14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)

祝福を受ける条件もわずか二節のみであったが、呪いを受ける条件も二節のみ、非常にシンプルではあるが、人は、シンプルであれば守れる、というものではないようである。
アダムとエバの時も、たった一つの「してはならない」さえ守らなかった。
そして主はまた、アダムとエバの時のように、「してはならない」をしてしまったら何が起こるかを、詳細に、具体的に示された。

呪いが振りかかる場合、少しでも「してはならない」を破ってしまったら、即座にありとあらゆる災いが降りかかるものではなく、徐々に、段階的に災いの度合いが重くなっていくものである。
主の御声に聞き従わないなら、まず、これこれの災いが降りかかり、それでも聞き従わないなら、七倍重い災いが降りかかり、それでも聞き従わないならもっと重く、、、といった形で、五段階に渡る災いが、ここで示されている。

そのまず第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。

『人の霊(ルアッハ:神の息)は病にも耐える力があるが/沈みこんだ霊(破綻してしまった神の息)を誰が支えることができよう。』(箴18:14 新共同訳)
人の内で神の息がしっかり息吹いているなら、どんな病にも耐えぬく力があるが、その、全能者の息が破綻してしまっていたら、どんな些細な事でも恐怖し、すぐに心がしおれてしまうものである。
アダムとエバは、善悪を知る木から取って食べた時、息吹かれていた神の息が破綻し、恐怖に襲われ、神との正常な関係が持てなくなってしまった。
そこから救われるには、「神から離れた善悪判断」を止め、与えられている御声に聞き従い、イエスキリストにあるいのちの路線へと回帰する事である。

そのような災いに遭っても、懲りずに主の御声に聞き従わないなら、第二段階の呪い、すなわち、「作物の不作」が来る。
『それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう。あなたがたの力は、むだに費されるであろう。すなわち、地は産物をいださず、国のうちの木々は実を結ばないであろう。』(レビ記26:18-20)
ここの「七倍重く罰する」は「七倍(七回)懲らしめることを増し加える(繰り返す)」という意味である。
主に対して心頑なで、有用な御霊の実を実らせない者に対しては、天もその人に対して頑なに雨を降らせないようになり、土地もその人に対して頑なになって実りを与えないようになる。

それでも懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、第三段階の呪い、すなわち、「野獣」が横行する。
『もしあなたがたがわたしに逆らって歩み、わたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪に従って七倍の災をあなたがたに下すであろう。わたしはまた野獣をあなたがたのうちに送るであろう。それはあなたがたの子供を奪い、また家畜を滅ぼし、あなたがたの数を少なくするであろう。あなたがたの大路は荒れ果てるであろう。』(レビ記26:21-22)
実際、サムソンの時代やヤロブアム王の時代などの不従順な世代では、獅子や熊が横行し、往来を行き来するのも危険であった。

結局、自分の中から頑なさを降ろし、神から離れた善悪判断を止め、主の御言葉に従順し、服従するに限る。
それでも聞き従わないとしたら、主はさらなる災いが下ることを、あらかじめ示されている。

礼拝説教メッセージ音声:祝福の明細(レビ記26:1-13):右クリックで保存

26章は祝福とのろいの約束である。
その祝福を受けるための条件は、1-2節に記されており、その時受けるべく祝福はどのようなものであるかが、3節から13節の所に具体的に記されている。
また、主の命令を守り行わず、呪いを受けるとしたら、それはどのようなものであるのかも、14節から39節にかけて、詳細かつ具体的に記されている。
この章は、「こうすればこうなる」という約束の目録であるが、読んでみると、あたかも旧約聖書のイスラエルが辿った歴史を読んでいるかように思える程、そまんまの祝福とのろいがイスラエルに起きている。

祝福を受けるための条件は、以下の二節である。
『あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。』(レビ記26:1-2)
ここでは特に、偶像の禁止と、安息日の尊守の二点が命じられているが、それらは、十戒の中でも特に重要なものである。

偶像とは天地を創られたまことの神以外の「神」であり、偶像礼拝とは、まことの神と自分との間に「別の何か」を置いて、それにより頼む事である。
その「別の何か」とは、何も、神社仏閣にある偶像とは限らない。お金も、仕事も、異性も、そして自分自身も、偶像になりうる。
祝福の第一条件は、偶像の禁止、すなわち、神と私達との間に、何も置かない事である。

また、「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。」と言われており、つまり主は、「主が定めた日」と、「主が定めた場所」とを重んじ、敬うべきだと言っている事がわかる。
キリスト者の中には、礼拝は「何も主日ではなくても良い」「教会でなくてもどこでもできる」と言って、主日以外の日、教会以外の場所で礼拝を行う人がいる。
確かに、主を礼拝するのは、いつでも、どこでも出来る。事実、迫害下にあった時のキリスト者はそのように行った。
だからと言って、特にやむを得ない理由も無いのに、敢えて主日礼拝に行かないとしたら、それは、自分の好き勝手を優先させているのであり、主が定めた日、主が定めた場所を軽んじる事である。

『もしあなたがたがわたしの定めに「歩み」、わたしの戒めを「守って」、これを「行う」ならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。』(レビ記26:3-4)
祝福は、主の定めに歩む事、主のいましめを「守り行う事」によるのであり、聞いて頭の中に留めておくだけでは、与えられない。
しかし主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。

『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。

『わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。』(レビ記26:6)
イスラエルの近辺は、聖書にも幾度か記されている通り、古くから戦争の多い所で、熊や獅子などの獣も出没する所である。
そのような危険な場所にあっても、主の御言葉を守り行うのであれば、それら全ての危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。

また、敵への勝利の約束が与えられている。
『あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:7-8)
実際聖書には、主に忠実なわずかな人数が、圧倒的多数の敵に勝利した記事が、幾つもある。

『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。

そして、何よりの祝福は、以下である。
『わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。わたしはあなたがたの神、主であって、あなたがたをエジプトの国から導き出して、奴隷の身分から解き放った者である。わたしはあなたがたのくびきの横木を砕いて、まっすぐに立って歩けるようにしたのである。』(レビ記26:11-13)
主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。
それこそ、何にもまさる祝福である。

主はイスラエルをエジプトから救い出し、奴隷のくびきの横木を砕いて、祝福の道へと導いて下さったように、私達をも、希望なき世から救い出し、罪の奴隷状態から開放し、罪のくびきを打ち砕いて下さった。
この主と共に歩むこと、主が共に住んでいて下さる事の幸いが、どれ程であるのかを、ますます知り、ますます拠り頼んで歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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