メッセージ - 寄留者として(創世記23章)
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「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」(創世記23:2)
アブラハム人生最大の試練、イサクを捧げる場面では、彼の感情表記は一切無かったというのに、ここでは、アブラハムは胸を打ち、嘆き悲しんだと書かれている。
彼がいかにサラを愛し、大切にしていたか、いかにこの時悲しかったかが伺える。
アブラハムは、その地に住んでいるヘテ人たちに言った。
「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」
主からは、その地を与える、と約束されているのに、彼はあえて、自分は「あなたがたのところに一時滞在する寄留者」だと言っている。
私達も、この世では寄留者である。
世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく私達のものである(1コリント3:22)けれども、あえてそれを主張せず、世においては、持たない者のように、寄留者という立場で歩むのである。
なぜなら、私達は「主のもの」であり、本籍を天に置く者達であるからだ。
アブラハムはこの地において「神に選ばれた方」(英語の聖書では「神の王子」)と言われていた。(創世記23:6)
この事から、彼は、富においても、人格者としても、そして、全能の神が彼を明らかに祝福している点においても、彼は異邦人の中にあって、一目置かれた存在であった事がわかる。
私達も、教会の中でしか通用しないクリスチャンであってはならず、世に出ていき、キリスト者としてしっかり良き評判を得る事が望ましい。
御言葉を守り行う事によって、私達は祝福を受け、それを見た人達が全能なる神に栄光を捧げるようになるからである。
『アブラハムはヘテ人にていねいにおじぎをして言った。「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」』(創世記23:8-9)
実に、へりくだった物腰、謙遜な言い方である。
この地において祝福され、力があるのに、つけこんで傲慢にならず、彼はただ、エフロンの所有である畑地を所望した。
エフロンは彼に「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。」と応え、アブラハムは再び皆の前でおじぎをして答えた。
「私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。」
エフロンの「差し上げます」という言葉は、ずいぶん太っ腹に見えるかもしれない。
これは、当時のヘテ人(ヒッタイト人)の商取引時の慣習で、売る側は最初に「差し上げます」と言い、買う側は「いえ、代価をお支払いします」と辞退し、そこから具体的な値段交渉が始まるのが、当時の通例であった。
エフロンはアブラハムに答えて言った。
「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。」
当時の資料によると、村ひとつの値段は、百から千シェケル程だったので、一つの畑地に対して四百シェケルという値段は、かなり高額である。
四百シェケルは値段交渉の最初の一声であり、本来なら、そこから値下げ交渉が始まるはずだったのに、アブラハムは実に太っ腹で、言い値の最も高い段階で、それを成立させてしまった。
人々は、アブラハムの鷹揚さ加減に驚いたであろう。
事実、アブラハムにとって、四百シェケルは、大した事では無かった。
出費を抑える為に値段交渉は出来たであろうが、金銀など主がいくらでも備えて下さる事を知っていたアブラハムは、むしろ、仮住まいである異邦人の地で、平和に、神に祝福された者として、振る舞ったのだ。
こうしてこの畑地は、正式にアブラハムのものとなった。
彼はこのカナンの地の全体を、得た約束を主から頂いていたが、事実上、彼の人生の中で得た土地は、このわずかな畑地だけだった。
彼の富と武力をもってすれば、さらに多くの土地を得ようと思えば、得る事が出来たであろう。
にもかかわらず、彼が得たのは、墓場のみだった。
信仰の父であり、私達の父であるアブラハムが、そのようにしたからには、私達も、この世においては、いかに生きるかではなく、いかに死ぬか、という用意すべきである。
アブラハムは、自らを一時滞在する寄留者であると告白したように、私達もこの世界での歩みは、一時滞在の寄留者という立場である。
私達には、さらにすぐれた都、天の故郷がある。(ヘブル11:9-16)
そこにはアブラハムやイサクがおり、信仰の先人たちがおり、彼らは、私達が地上での信仰の歩みを全うして、やがてそちらに行くのを、待っている。
この世においては寄留者として生き、この世に煩わせられる事なく、ただ天の故郷を日々目指して歩み、この地上においてさえも、豊かに祝福されて歩んで行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!