メッセージ - とんとん拍子に物事が進む背景(創世記24:10-27)
礼拝説教メッセージ音声:とんとん拍子に物事が進む背景(創世記24:10-27):右クリックで保存
しもべはアブラハムに命じられた通り、イサクの嫁に相応しい女性を探すために、アラム・ナハライム(メソポタミア)のナホルの町に出かけて行った。
当時、水汲みは女たちの仕事で、夕暮れ時に水を汲みに来るため、知恵のある彼は、夕刻、井戸の所に陣取った。
しかし、彼がイサクの嫁となるべき女性へと導かれるかどうかは、主の御手の内にある事を知っていたため、彼は主に祈った。
「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」
アブラハムの命令は、常識的に考えれば無謀だったが、このしもべが主に要求した事もまた、無謀な事だった。
当時、その地方井戸は、日本の井戸とは違って直径数メートルの竪穴で、外周に階段があり、その階段を水瓶を持って水の所まで降りて汲み、十何キロにもなった瓶を持って登って行くという重労働である。
それに、砂漠を旅したらくだは、風呂桶ほどの量の水も、平気で飲み干してしまうものだ。
井戸に水をくみに来る女性は当然、しもべの10頭のらくだが目についただろう。
彼に「水を飲ませてください」と声をかけられた時、らくだにも水を飲ませようと自ら申し出る女性がいるとすれば、よほどお人良しで、勤勉で、もてなし好きであろう。
彼がその祈りを終わるか終わらないかの内に、一人の美しい女性が、水を汲みに来るのが見えた。
彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。
「水がめの水を少し飲ませてください。」
すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませ、彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。
なんと、彼が祈り終わらない内に来た女性が、その困難な事を、実にあっさり成したのだ。
彼女は、らくだ全部が水を飲み終わるまで、水とらくだとの間を行ったり来たりした。
彼はじっと、主が祈った通りに彼女が成し遂げるか見ていた。
祈ったら祈りっぱなしで、祈った事を忘れる、という姿勢では、祈りは聞き届けられない。
祈ったなら、主が成し遂げて下さるまで、信じて見守る責任がある。
彼女は、最後まで成し遂げた。
この僕の祈った通りではあったが、最も肝心な事は、勤勉さではなく、彼女がアブラハムの血縁で、神を畏れる者であるかどうかである。
彼は贈り物の品を手にとって、彼女に聞いた。
「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでしょうか」
すると彼女は、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答えた。
彼女こそまさしく、主人アブラハムが望んだ通りの娘であり、しかも、しもべが祈った通りの事をしてくれたである!
『彼はひざまずいて主を伏し拝み、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。』(創世記24:26-27)
今回の事から我々が学ぶべきは、祈る時は、具体的に祈る事が大事である事、祈ったら祈りっぱなしではなく、祈りが聞かれるまでじっと見守る事、祈りが聞かれたなら、ひれ伏して感謝と賛美を捧げるべき事である。
今回のストーリーは、都合が良すぎ、話が出来過ぎに見えるほど、とんとん拍子に物事が進んだ。
しかしながら、クリスチャンになれば何でもかんでもとんとん拍子に事が進むわけではないし、神様は、人の身勝手な願いを何でも叶えて下さるわけではない。
このしもべは、自分の身勝手な願いを主に注文したのではなく、”主人アブラハム”のために、祈ったのである。
彼の祈りの主語は、あくまで”主人アブラハム”であり、自分の主人が信仰によって自分を遣わしたため、その主人の信仰が成就するようにと祈ったからこそ、その祈りはよしとされ、とんとん拍子に導かれたのである。
人は様々な計画を立てるが、その計画が為るかどうかは、神にかかっている事を、彼は知っていた。
自分の力ではなく、主人の信頼する神に「より頼む」信仰のお陰で、主は御使いを使わし、彼の旅路を守られた。
リベカもまた、普段から勤勉で、旅人を迷わずもてなす品位を備え、もてなす事を喜びとし、目上の人を大切にするだけでなく、その人の持ち物であるらくださえも、おろそかにしないという、その諸々な小さな事への忠実さが、栄光の家系の母という、大きな事を任される要因となったのである。
日々の日常をおろそかにせず忠実だったリベカがイサクの嫁として収まったように、いつも主を恐れる事によって日々整えられ、まことのイサクであるキリストの花嫁として収まる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!