メッセージ - 花嫁と出会う花婿(創世記24:62-67)
礼拝説教メッセージ音声:花嫁と出会う花婿(創世記24:62-67):右クリックで保存
太陽が地平線に沈もうとしていた時、メソポタミヤ方面から長旅をして来た老僕とリベカ達は、ヘブロンに到着した。
その時、イサクは野にいて散歩していた。
イサクが顔を上げて見ると、北東方面から、らくだに乗ってこちらに来る一隊が目についた。
一隊の女性たちの中には、ひときわ美しい乙女がいて、顔や腕に飾られた金の飾り輪が、スポットライトのような夕日を受けて輝いていた。
イサクは彼らに対して夕日を背に位置していたため、一隊の目からは、彼は暗いシルエットとして見えただろう。
イサクとリベカ、初の対面である。
黄金で飾られ、夕日の光に輝くリベカを見て、イサクはどのように感じただろう。
『リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか」と僕に尋ねた。「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。』(創世記24:64-65)
この箇所で思い出すのは、雅歌1章の女性である。
『エルサレムのおとめたちよ/わたしは黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。どうぞ、そんなに見ないでください/日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。』(雅歌1:5-6)
雅歌に登場する女性は、自分が野の仕事ばかり命じらて日焼けしていたため、花婿に、自分を見つめないで欲しいと思った。
リベカもまた、10頭のらくだ全てが水を飲むまで、井戸の階段を走って登り降りする程の逞しい女性である。
恥じらいがあったのかもしれない。しかし大切なのは、花嫁の側の自意識ではなく、花婿がどう花嫁を見るか、である。
「恋人よ、あなたをたとえよう/ファラオの車をひく馬に。房飾りのゆれる頬も/玉飾りをかけた首も愛らしい。あなたに作ってあげよう/銀を散らした金の飾りを。」(雅歌1:9-11)
花嫁を逞しい馬車馬にたとえるのは、現代の日本人にとっては不思議な価値観だが、ファラオの車をひく馬は特別な馬である。
よく調教されており、手綱一本で主人の意向どおり動かなくてはならない。
王である花婿が目を留めるのは、従順さにおいてよく訓練さている事、そしてまた、花婿が贈る贈り物を身につける、という事である。
花嫁がいかに世に擦れていようとも、黒くとも、王が着せる花嫁衣裳を着けて、王の好みの飾りによって、望むがままに飾られる花嫁を、王は愛するのだ。
イサクは、母が産みの苦しみをした天幕の奥の間へと彼女を導いた。
彼はリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。(67節)
同じように、キリストも、その妻である教会、すなわち、新しいエルサレムが整えられ、花嫁として自分の幕屋に迎える日を、心待ちに待ち望んでいる。
私達は思うかもしれない。
自分は世の罪に染まって真っ黒になってしまった、主の聖なる眼差しで見られるのは、耐えられない、と。
しかし、私達がいかに世から汚れを受けていようとも、いかに罪で真っ黒になっていようとも、キリストの血によって洗い清められ、キリストの贖いの衣を着せられ、キリストの望むままに飾られるのであれば、王であるキリストによって、愛されるのだ。
大切なのは、私達の自意識ではない。
キリストが私達を、どのような眼差しで見て下さるか、である。
キリストはご自身を信じる者達を、自らの血によって洗い清め、贖いの衣を着せ、花嫁として飾られるのだ。
『更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』(黙示録21:2-4)
この新しいエルサレム、キリストの花嫁は、リベカよりもさらにゴージャスに飾られている。
透き通ったガラスのような金で飾られ、土台は全て色とりどりのの宝石であり、門は真珠でできているのだ。
私達にとって大事な事は、自分生来の美しさでもなく、自前の飾りで着飾る事でもない。
そんなものは、主の御前に受け入れられない。
ただ主によって洗われ、清くされ、御心のままに飾られる事が重要なのである。