メッセージ - 有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)
有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」(1コリント11:17)
兄弟姉妹は、単に集まれば良い、というものではない。「有害な集まり」というものが、確かに存在する。
良い集まりは、人をいのちで満たし、力強くするが、有害な集まりは、人を不安に導き、焦らせ、疲れさせる。
良い交わりと有害な交わりはどうやって見分ければいいか?それは、ガラテヤ5:19-23の、肉の行いのリストと、御霊の実のリストを見比べて、どちらの実を結んでいるかを見れば良い。
その集まりによって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が満ちるなら、その交わりを続けるべきである。しかし、その集まりによって、不品行や汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが増し加わるなら、止めた方が良い。
コリントの集まりが損失になっている理由は、肉の結果である分裂分派がある事だとパウロは言っているが、同時に、本当に残るべき者が明らかにされるためには、分派もやむを得ない、とも言っている。(19-20節)
人が教会から去っていく理由は色々あるが、もし、教会が正しく御言葉を伝え、霊的に問題無いのに、自分の意見や欲する事が通らない、というので教会を去っていくのなら、その人はそのまま去らせれば良い。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足されるべき所だからである。
また、教会の働き人は、人に仕えて人を満足させる、単なる「優しい人達」ではない。
教会の働き人とは、主イエスのために働き、仕える人達である。もちろん主は、人に仕えるように命じておられるが、主を差し置いて、人に優先的に仕えるのは、本末転倒である。
人の満足を求めるあまり、人の拒否や離別を恐れるあまり、御言葉を希釈したり、曲げたりしてはならない。
「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。」(1コリント11:20-21)
原語の位置から、パウロは極めて強い調子で「そんな飲食は、決して主の晩餐では無い!」と憤慨している。
教会の中で、真に助けるべき弱い人や貧しい人を軽んじ、辱めたりして、躓きを与える者たちがいたのだ。
富んだ者も貧しい者も、共に主にあって一つの食卓に与るようにと、整えられた聖なる主の愛餐を、俗悪なおしゃべりしたり、酔ったり、感謝も無くつまんだりして、貶めてしまった事を、彼は激しく憤った。
「神の教会」は、食べたり飲んだり、寝たり、おしゃべりしたりといった、社交サロン的な、使い勝手の良い施設のような場所だと思ったら、大間違いである。
神の教会は、聖なる主イエスの御体であり、聖なる主に礼拝を捧げ、共に主と一つとなる、聖なる所である。
間違った幻想を教会に求めて来て、物質的・霊的にも食い散らかす者を、主は忌み嫌われる。
パウロはここで、自分の食欲を満たそうと我先に飲み食いする者を叱責したが、それは何も、飲み食いの事だけでなく、聖徒の尊い思いやりや、きよい良心を食い散らかしたり、礼拝の時間を食い散らかしたりして、真にそれらを求めている人たちに、それらが行き渡らないよう食い散らかしてしまう者達も、含まれる。
「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。」(22節) 神の教会とは、キリストの御体である。
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」(29-30節)
人が良い方向へと変わるのは、教会が支援する食料やお金、良心的な思いやり等ではない。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変わるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならず、害になるだけである。
私達の集まりの中心は、主イエスであり、主イエスの御体を覚えて、全ての事を行うべきである。(24,25節)
主イエスを覚え、真に必要を覚えている人に支援し、共にひとつの食卓に与り、ひとつ主の御体に与って、ますます純粋で聖なる者とされていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!