メッセージ - あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)
あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)
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雅歌は聖書の他の書とは明らかに違う。 読んでいて恥ずかしくなるほど男女の愛の悦びが生き生きと表現され、近寄りがたい崇高さも、規律的な厳しさ、難しさも、一切無い。
この書は、ユダヤでは30歳以下の者が読む事を禁じられた。 男女の愛の悦びは、成熟して結婚の契を交わした男女のみに相応しいように、キリストとの関係も成熟さを増せば増すほどに、宗教的な束縛感から開放され、自由になり、悦びに満ち、あたかも新婚夫婦のような悦びの関係に入ってくる。
キリストと弟子達は、はじめは師弟関係(ヨハネ13:14)だったのが、主が命じる事を行なう内に、友の関係となり(同15:14)、十字架の後には兄弟関係(同20:17)となり、やがては、キリストのからだなる教会に接合され、成熟する事によって、花婿と花嫁の関係となっていくのだ。(黙示録21,22章)
地上のものは全て天の写し、影であり、新婚の甘い日々もまた、我々がやがて天で味わう事の影である。
「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌2:3)
恋心の乙女は、意中の男性以外が雑木に見えるように、私達も成熟すればする程、巷の神々や権威ある者達、世の富や宝は、全てどうでも良く見えて来て、唯一頼りとしたいと思うのは、キリストのみとなっていく。
主の羊は、真の羊飼いである主の声を聞き分ける。 彼らは、いと高き全能なる神の元に身を寄せ(詩篇91)たいと心底願い、その陰に宿り、御口から出てくる御言葉を甘いりんごのように慕い求めるのである。
「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌2:4)
主は私達に、敵の面前で酒宴をもうけ、頭に香油を注いで下さり、盃を溢れさせて下さる。(詩篇23:5)
敵の面前で、私達は「主ご自身」という旗で覆われ、私達の上ではためくその旗印は、愛である。
「干しぶどうの菓子で私を力づけりんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅2:5)
干しぶどうもりんごも、他の箇所では、喜びを表している。(2サムエル6:19、イザヤ16:7-10、ヨエル1:12)
男女の愛には喜びと潤いがあるように信仰生活にも喜びと潤いが必要であり、それを主に求めるのである。
「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌2:6)
女性にとって、好きな男性の左腕の中に腕枕され、右腕で抱かれている一時は、至福の時ではなかろうか。
それは、女性は男性のあばら骨から取られたからであり、女性の居場所は元々男性の懐だったからである。
男女が並んで歩く時、男性が右側で女性が左側である事が多いのは、男性が利き腕を自由に動かしてリードし、女性は利き腕で男性を離さず、男性にリードされて行く姿が、自然だからである。
ベタニヤのマリアは、イエスの足元というりんごの木の下で、イエスの口からこぼれてくる御言葉という甘いりんごを、いつも慕い求めていた。その場所その時が、何よりの至福の場所、至福の時だったからである。
その心でイエスを慕い求め、イエスの御思いを理解したからこそ、他の弟子達が誰も出来なかった葬りの準備を、唯一、彼女だけがその時を悟り、その準備が出来たのである。
イエスと深い交わりをして御心を知る、という事が無いなら、たとえ神のために良かれと思って何かをしたとしても、それは自分の思いに過ぎず、弟子達のようにとんちんかんな、あさっての事をしてしまうものである。
マリヤは、マルタや弟子達から色々の否定的な言葉を浴びせられてもイエスご自身が直接保護して下さったように、イエスの御翼の陰に宿る私達を、主ご自身が直接的に保護し、敵を𠮟り飛ばして下さるのである。
「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌2:7)
かもしかや野の雌鹿は、繊細な動物である。自分を無理矢理恋心へと持ち込むと、すぐヘンな男に引っかかってしまうように、主に対する愛も、無理やり駆り立てようとせず、自然に湧き起こるのを待てば良い。
シャロンの花であるイエスを、甘いりんごのように慕い求め、マリヤのように、主の足元が慕わしくて仕方がなくなるまでに、繊細な主への愛を、自然な形で、大切に育み育てていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!