メッセージ - 撒いた種は必ず刈り取る(創世記27:11-17)
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イサク自身の歩みは、平和の人として申し分無かったものの、子育てや後継者選びの面において、諸々の間違いを犯してしまった。
長男エサウは、アブラハムの家系に入れてはならないヘテ人の女二人を妻としてしまい、また、主からは「兄は弟に仕える」と言われていたにも関わらず、イサクは自分の好むエサウの方に祝福を与えようとした。
そして、リベカとヤコブは共謀して父をだまし、兄エサウを出し抜いて長男の祝福を奪おうと計画したのだ。
一体、この平和に満ちていたはずの一家は、どうしてしまったのだろう。
いつのまに、そんなドロドロとした権謀術数の渦巻く一家になってしまったのだろう。
この時、一家全員に共通していた事は、本来なら主の御心を求め主が物事を為されるのを待つべき所を、それをせず、自分の感覚のままに身勝手に行動してしまっている事である。
いかにアブラハムの子と言えど、自分を主体とし、主を差し置いて行動するならば、すぐにこのようになってしまうのである。
「リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。」(創世記27:15-18)
ヤコブはリベカの指示の下、エサウの「晴れ着」と「山羊」の毛皮を用いて兄エサウになりすまし、「父親騙し」をして、祝福を横取りしようとしていた。
弟ヤコブが栄え、祝福を受け継ぐ事は、確かに御心であった。
しかし、親を騙して偽る事は紛れもない罪であり、後に彼は、その行いの実をそのまま刈り取る事になってしまう。
ずっと後に、ヤコブの最愛の子・ヨセフは兄達に憎まれ、結果的にエジプトへ売られてしまうのだが、その際、兄たちはヨセフの「長服(晴れ着)」と「山羊」の血を用いて「父親騙し」を実行したのである。(創世記37章)
この時、騙されたヤコブは、最愛の子ヨセフが野獣に噛み殺されたと思い込み、ヨセフと再び会える日までの膨大な日々を、涙と悲嘆の内に過ごす事となってしまった。
こうして彼は、自分が実行した「父親騙し」という報いを、そのまま自分の身に負う事となってしまったのだ。
「嘘も方便」「良い嘘もある」といった人間の感覚や言い伝え等によって、御言葉を上塗りしてはならない。
偽りはどんな些細なものでも、また、いかに「神のご計画を実行するため」だとしても、聖書に「偽ってはならない」と書いてある以上、偽りは罪である事には変わらず、悔い改めて、主に赦しを乞うべきなのである。
イサクもエサウもヤコブもリベカも、感覚による目視飛行を行なっていたために、この時一家は迷走してしまった。
私達は感覚に頼るべきではなく、御言葉に頼って生きるべきであり、常に、御言葉による計測飛行をしているかどうか、感覚による目視飛行をしていないかに、注意する必要がある。
御言葉は御言葉として尊く受け取り、災いを招くような歩みをせず、主に喜ばれる歩みをいつもしている皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!