メッセージ - 相手が理想とかけ離れていた時は(創世記29:15-30)
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イサク〜ヤコブ家族の騒動を読み解く重要なキーワードの一つとして、一方を溺愛し他方を軽んじる「偏愛」がある。
ヤコブは、ラケルと彼女の子を偏愛し、それによって一家に不和を招き入れてしまった。
イサクはエサウを偏愛し、リベカはヤコブを偏愛してしまったため、そのような環境で育ったヤコブにも、偏愛する特性が身についてしまったのかもしれない。
しかし、後のラケルとレアの歩みを見れば分かるが、偏愛されれば幸せになれるものではないし、偏愛からこぼれた位置についてしまえば不幸になる、というものでもない。
私達が幸いになるのは、決して変わらぬ愛によって、主から愛されている事に気付く時である。
教会の兄弟姉妹たちも、大所帯になればなる程、そのような事は起こりがちになる。
ヤコブは、ラケルの姿や顔立ちが美しいので彼女を特に愛したが、そのように、外見的・肉的な特性によって兄弟姉妹を偏り見るのは当然、良くない事で、災いを招く事である。
世的な理由で偏愛や差別する事はもちろん良くないが、高慢な者や霊的に俗悪な者などにも、聖徒として同等に扱いなさい、という事ではない。(マタイ18:15-17)
神にはえこひいきなどは無いが、「区別」されるお方である。
自分を降ろさずに自分中心を貫き通す者には祝福は与えず、身勝手な祈りには徹底として沈黙を守られるが、悔い改めて自分を下ろし、へりくだる者には恵みをお授けになる。(1ペテロ5:5)
「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。」(創世記29:25-26)
ラバンのこの行動は、明らかな詐欺である。
妹を姉より先に嫁がせることはしない、という風習があるにしても、前もってヤコブに言わず、夜闇に紛れてヤコブが伴侶として望む女性とは違う女性を送ったからには、明らかにヤコブを欺いたのである。
ヤコブは当然、大いに憤った。
そして、自分が当てがわれた事によって、大いに憤ってしまったヤコブを見たレアの心境には、察して余りある。
「とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(創世記29:27)
ヤコブはさすがに神の民らしく、自分の正当性を主張してレアを突き返したりする事はせず、レアと一晩、同じ夜具で過ごしたけじめをつけて、ラバンの要求を飲んだ。
彼にとっては青天の霹靂だったかもしれないが、ヤコブは神の民として正しいけじめをつけた結果、歴史的な観点で見れば、ヤコブにとってもレアにとっても大きな祝福となった。
私たちも、結婚を迎えた時、相手は自分が切実に望んでいた理想の人とは違っていた、と、気付く事があるかもしれない。
その失望感から、新婚早々、相手を疎んじる夫婦も、世の中には沢山ある。
しかし、ヤコブにとって婚礼の期間、相手はどうあがいても、レアであってラケルではない。
それと同じように、私達も、相手が自分が切実に欲していた理想の相手とは違っていたと分かったとしても、神と人との間で交わした婚姻のけじめをつけるべく、きっちりとそれを受け入れ無くてはならない。
もしあくまで、相手に自分が切実に欲していた理想の人である事を押し付け、願い、神に「この人をレアではなくラケルにしてください」のような祈りをしたとしても、それは無駄であり、夫婦間の苦しみを増し加えるだけである。
そのような時は、相手が変わる努力をするのでなく、自分を変える努力が必要である。
ヤコブは自分の主張を下ろした事によって、最終的には多くの子達が生まれ、後にはメシヤなるキリストが生まれるという栄光の祝福にあずかれた
同じように、自分が主の御前に降りるなら、実はそれが祝福であったと、分かる時が、必ず来るのだ。