メッセージ - 「言ったもん勝ち」への対処方法(創世記31:43-55)
礼拝説教メッセージ音声:「言ったもん勝ち」への対処方法(創世記31:43-55):右クリックで保存
ラバンの顔を見るのもいよいよ今回で最後だが、ラバンは最後に、身勝手な所有権を主張する。
『ラバンは答えてヤコブに言った、「娘たちはわたしの娘、子どもたちはわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものはみなわたしのものです。これらのわたしの娘たちのため、また彼らが産んだ子どもたちのため、きょうわたしは何をすることができましょうか。』(創世記31:43)
彼が主張した所有権は、根拠の無い偽りであるが、そのような主張は看過して良いものではない。
例えば、ある人が自分のものではない土地に勝手に居座り続け、それに対して、本来の所有者が何の文句もつけずに、何年か経ってしまうと、既成事実化してしまって、その土地の所有権は、勝手に居座った者へと、移ってしまう。
サタンが奪うやり口も全く一緒で、身勝手に偽りの所有権を主張し、その勢い飲まれたり、無抵抗だったりしていると、さらに調子に乗って、もっと侵入して来る。
いわゆる「言った者勝ち」の論理である。
偽りの所有権に対しては、「真理」をつきつけて、必ず、対処しなくてはならない。
少しでも侵入を許すと、もっと調子に乗って来るので、追い出すのはより困難になって来るからだ。
サタンが仕掛ける、偽りの所有権への対処方法は、力や議論で勝つ事ではない。
御言葉の真理を突きつける事である。
その実践方法は、イエス様から見習うことができる。
『それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。』(ルカ4:5-7)
悪魔はイエス様にさえ、世界の権威も栄華も自分のものだと主張し、ひざまずくならあなたにあげよう、と、持ちかけた。
確かにこの世は、悪しき者の支配下にあり(1ヨハネ5:19)、悪魔は自分にひざまずく者達に、権威や栄華を与える「分」はある。
それに対し、主は、どう対処されただろうか。
『イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」』(同4:8)
ただ、御言葉には○○と書いてある、とだけ口から発し、たったそれだけでサタンは、もはやその議論ができなくなってしまった。
人は何かと、議論や力技で対抗しようとする。
「サタンよ、それは違う、嘘だ。人も地球もお前が創ったのか?違うだろう。元々父なる神様が創ったもので、お前のではない。」などと、議論で返したくなるが、私達はむしろ、サタンと同じ論壇に乗ってはならない。
エバはまんまとサタンとの話し合いの場に乗ってしまい、まんまと罠にはまってしまった。
サタンと対抗できる唯一の手段。
それはただ、「御言葉の剣を差し出す事」に尽きる。
ヤコブも、ラバンの横柄ともいえる「自分のものだ」という主張に、議論で返さず、真理に基づいて対処している。
彼はラバンに対し、まず、石の柱によって境界線を引いた。
『ヤコブはまた一族の者に言った、「石を集めてください」。彼らは石を取って、一つの石塚を造った。こうして彼らはその石塚のかたわらで食事をした。ラバンはこれをエガル・サハドタと名づけ、ヤコブはこれをガルエドと名づけた。』(創世記31:46)
エガル・サハドタはカルデア語、ガルエドはヘブライ語で、共に「証拠の塚」という意味である。
ラバンは、ヤコブが立てた石の塚にさえ、身勝手に自分の国の言葉で名前をつけたが、ヤコブはすかさず、自分の言葉で名付けた。
サタンも、私達に身勝手なサタン王国の名前をつけるかもしれない。「おまえは、みじめだ。」と。
そのような時、私達神の国の者は、すかさず、自国語すなわち神の国の言葉で、正しいアイデンティティを上塗りするべきである。
「私はキリストによって、神の子とされた」と。
『そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。』(創世記31:49)
ヤコブはまた、ミツパという名前もつけた。
ミツパは後のサムエルの時代、ペリシテの圧政のためにイスラエルが集まって主の御前に心を注ぎ、断食して祈った所である。
ペリシテは攻めて来たが、主ご自身がさばいてくださり、ペリシテは打ち負かされ、その記念に「エベンエゼル(守りの岩)」が建った所である。
私達にとって守りの岩は、イエス・キリストである。
私達が、サタンとの間にこの守りの岩であるイエス・キリストを置くなら、サタンは打ち負かされ、そこを乗り超えてくることはできない。
ラバンは51節でも、しつこく「私が立てた石塚」と主張する。
ヤコブはそれは言わせておくが、53節のラバンの言葉は、看過していない。
『どうかアブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神がわれわれの間をさばかれるように」。ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った。』(創世記31:53)
ラバンが誓ったのは、アブラハムの神、ナホルの神、先祖達の神によって、である。
それに同意しても問題無い、と思われた方は、罠にかかっている。
アブラハムが74歳以下の時に拝んでいた神は、偶像の神であり、ナホルやその先祖たちが拝んでいた神も、もろ、偶像の神である。
ヤコブはすかさず、「父イサクのかしこむ者」と言って、明瞭に全能なる神を指定し、この御方によって誓った。
私達が祈るべきは、イエス・キリストの名前によってのみであり、この方以外に、救いの名は無い。
もしクリスチャンの中で、訳の分からない神に祈っているようであるなら、明確に、イエス・キリストの名前によって祈らせるべきである。
「あくる朝ラバンは早く起き、孫と娘たちに口づけして彼らを祝福し、去って家に帰った。」(創世記31:55)
こうしてヤコブは平和に、圧制者ラバンと別れる事が出来た。
それはヤコブがラバンの議論に乗らず、力に頼らず、ただ真理を告白して対処したからである。
『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』(1ヨハネ5:18)