メッセージ - ヤコブからイスラエルへ - ペヌエルでの格闘(創世記32:22-32)
ヤコブからイスラエルへ - ペヌエルでの格闘(創世記32:22-32)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 創世記
- 執筆 :
- pastor 2012-8-23 23:09
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ヤコブは、殺意を持つ兄・エサウとの再会に備え、持ち物を二手に分けてリスク分散し、主に祈り、至れり尽くせりの贈り物の手はずも整えて備えたが、なお、心配と思い煩いで頭がいっぱいだった。
『彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。』(創世記32:22-23)
ヤコブは20年前、故郷を出てラバンの所へ逃げる時は、杖一本しか持っていなかったのに、今や彼は、二人の妻に二人の女奴隷、11人の息子、多くの家畜や奴隷を所有している。
しかし、これから会おうとする兄の機嫌いかんでは、愛する妻も、大切な子も、財産も、自分のいのちも、全て失ってしまいかねない。
ヤコブは、変える事の出来ない過去や、消しようのない兄の憎悪、逃れようのない未来に、そして、どうしようもない自分に憂い、ついに、たった一人で主の御前に出たのだ。
私達も、罪ある人間である以上、変えたくても変えられない過去のあの事この事、自分の愚かさの故に誰かから受けてしまう憎悪の一つや二つは、あるかもしれない。
そして、自分がしてきた事・しなかった事の刈り取りが待ち受ける逃れようのない未来におののき、そのようにしてしまった、どうしようもない自分を苛む事もある。
そのような時は、ヤコブのように、ただ一人、主の御前に出るべきである。
『ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と「組打ち(アバック:レスリング、相撲)」した。』(創世記32:24)
彼はひとりの人と、すなわち、主ご自身と、実際に、相撲を取ったのである。
抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘である。
夜明け前の最も暗い闇の中で、ヤボクの川のせせらぎと共に、二人の男たちが組打つ音、格闘の叫び声や息づかいが、夜明けまで響きわたっていたのだ。
その格闘は、ヤコブの命運を賭けた、力を尽くした祈りでもあった。
「ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。」(25節)
ももの関節が外れるのは、かなりの激痛であろう。
観客がいたとすれば、もはや勝負あった、と見る所だろうが、それでもなおヤコブは、彼をつかんで離さなかった。
もはや取っ組み合いと言えるようなものではなく、ただ、その人に全てを委ね、おぶさっているだけのような格好であったろう。
夜は明けようとしており、ただ、川のせせらぎだけが響いている。
『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。』(26-27節)
彼は名を尋ねられた時、兄エサウのかかとを掴んだ事、また兄だけでなく、色々なものを掴んで来た事を思い出したろう。
そして今、祝福をして下さるべきお方をつかみ、握り締めている。
ヤコブは、母の胎から出る時は兄のかかとを掴んで離さず、ヤコブという名が与えられた。
そして、人生を終える時は、杖の先を掴んで、礼拝しつつ息を引き取った。(ヘブル11:21)
つかむ事こそ彼の生き様であったが、そんなヤコブの名に、彼は終わりを告げさせ、新しい名を与える。
『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節)
イスラエルという名、聖書でここに初登場である。
この名前には「神と戦う」「神が支配する」という意味がある。
ヤコブは格闘の果てに、ただ、祝福して下さるお方のみを掴み、もはや祝福して下さるお方に寄りかかるしか無いこの状況で、新しい名前「イスラエル」が与えられた。
もはや、長兄のかかとを、すなわち、人間的な祝福を追いかけ、掴みとるような、以前の人生には、終わりを告げられた。
祝福そのものなるお方と取っ組み合い、勝利し、神の支配の内を歩む人生へと、造り変えられたのだ。
ヤコブはももを打たれ、力を奪われ、もはや自分の力では立行けず、ただ神の憐れみによりすがって生きるしか無い。
これから兄と会うのに、大丈夫なのだろうか?
大丈夫なのである!
なぜなら、人が弱い時にこそ、主が強いのだから。
『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)
自分の力に頼らず、ただ主の力に頼って生きる。
それこそ「イスラエル」の由来であり、私達・霊的イスラエルのアイデンティティなのだ。
神にどうしてもしていただきたい事はあるだろうか。理不尽な世の中に憤りを覚えているだろうか。神に対して納得できない思いがあるだろうか。
もしそうなら、ヤコブのように、ヨブのように、ハンナのように、エリヤのように、スロ・フェニキヤの女のように、主の御前にただ一人で出て、なりふり構わず、格闘の祈りをする時である。
思う存分組み合い、そして、ただその御方を掴み、全てを委ねておぶさるまでに力を出し切る時、その御方から答えと、祝福と、新しい名前、新しい生き方が、示されるのである。
主は、天高くふんぞり返って、人間からかけ離れたお方ではなく、人と「関係する事」を求めておられる。
主は全宇宙を造られた偉大なお方であるのに、人として降りて来られ、私達と格闘できる程にまで小さくなられ、相撲を取る程にまで生々しく関わて下さった。
祝福は、ただ口を開けて祝福が落ちてくるのを待つ者に降ってくるものではなく、激しく責め立てる者によって、奪い取られている。(マタイ11:12)
私達も、ヤコブのように、祈りにおいて相撲を取る程の気概も持つなら、新しい名前が与えられ、祝福が与えられ、新しい人生が与えられる時が近い。