メッセージ - 全てを持つ者(創世記33:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:全てを持つ者(創世記33:1-11):右クリックで保存
いよいよ兄エサウとの対面の時が来た。
エサウと供の者四百人が遠くに見える内に、ヤコブは妻子達を後に、自分は先頭に立って、相対した。
彼は腿の関節を外され、びっこを引いている。逃げも隠れもできない。
ヤコブは兄に近づくまでに、七回、地におじぎをした。
七回おじぎをする行為は王を迎える時の礼儀であるが、彼は、エサウにしてきた事の手前、七度礼をしたのかもしれない。
『するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。』(創世記33:4)
エサウは、ヤコブが心配していた「殺意に満ちたエサウ」ではなく、「善意と親しさに満ちたエサウ」だった。
エサウのような生殺与奪の権を持つ者の心を、主は、柔らかにもすれば、かたくなにもする事も出来る。
祈りによって圧政者の心を変えた例は、ダニエルの時代にも、エステルの時代にもあったし、出エジプトの時代は逆に、さらに頑なにする事によって、主の栄光を表した。
神の民は、そうして祈りによって守られて来たのだ。
エサウの心から、いつ、殺意が無くなったのだろうか?
エサウの住むエドムからヤボクまでは160km以上はあり、その距離を400人も引き連れてスピーディに移動したからには軍事力で滅ぼす意図を持っていた事を思わせるが、もしかしたら単純に、善意から歓迎したい気持ちで、大勢で急いで来ただけなのかもしれない。
真相はどうあれ、たといエサウが直前まで殺意に燃えていたとしても、主は一瞬にして善意に満ちたエサウへと導く事も出来るお方であり、私達の時代においても、主はそのような事がおできになる方である。
ヤコブの心配は、無駄だったのだろうか?
決してそうではない。
ヤコブが恐れたお蔭で彼は真剣に神と相対するようになり、結果的に、ますます神と親密になり、新しい名前も与えられ、もはや自分の力に頼らず神に頼るようになった。
いずれにせよ主は、ヤコブを御心に沿った形へと導き、全てを最善へと導かれたわけである。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:28-29)
エサウはヤコブの贈り物に「私はたくさん持っている」と辞退する。
『ヤコブは言った、「いいえ、もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。』(10節)
彼がエサウに「神の顔のようだ」と言ったのは、決しておだてた訳ではない。
ヤコブにとって、エサウの善意と親しさに満ちた様そのものが、まさに、神の御業そのものだったのである。
『どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。』(11節)
ヤコブは元々、それらの品を「祝いの品」として持ってきたのではなく、何とかエサウをなだめるためにであった。
しかし主の御業によって、それらはいつのまにか、祝いの品となっていた。
神は、恐れに満ちた品を、祝いの品へと変え、涙の谷も、泉の沸くところとされる。(詩篇84:6)
また日本語の訳では「私はたくさん持っていますから」と訳されているが、この「たくさん(kol)」は、「全て」とも訳せる。
エサウが9節で言った「わたしはじゅうぶんもっている」は、単なる物を持っている事の意味だが、ヤコブが言った言葉はそれとは違い「全て」を持っている、という意味だ。
全能なるお方のものとされたという事、それはすなわち、全てを持った、という事である。
「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」(1コリント3:21-23)
私達もキリストにあって、全てを持っている。
私達は一体、その事の意味を、どれほど理解しているだろうか。
「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:17-21)