メッセージ - 安息に入るために(ヘブル4:1-11)
安息に入るために(ヘブル4:1-11)
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どういう人が安息に入れるか。それは、聞いた御言葉に自分の信仰を結びつけ、御言葉に従う人である。
「彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:2-3)
御言葉に聞く事、聞いた御言葉を信じる事、それがどれほど大切であるかは、強調してし過ぎる事は無い。
主の御言葉が語られる時、私達の取るべき唯一の姿勢は、それに聞き、従順し、服従する事。
御言葉を聞いても心背ける者、不従順な者は、決して安息に入れず、そこに例外は無い。
そしてまた、御言葉に聞き従う事は、どんな尊い捧げ物よりも主に喜ばれる行為である。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル15:22)
この御言葉の通り、どんなくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主はそんな捧げ物を忌み嫌われる。
サウル王が退けられてしまったのは、彼が物欲におびき寄せられ、「こんな高価な良いものを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実でこれらを残すなら、主もきっと許して下さるだろう」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込んだからである。
『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。実に、主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は占いの罪であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪である。
主の御心から離れた所で、いかに預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったとしても、かの日、主から『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言われてしまう。(マタイ7:21-23)
ここの「不法(anomia)」とは、法に則らない事、法を超過する事、法を乱暴に扱う事である。
大いなる奇跡を沢山経験すれば良いものではないし、偉大な指導者に導かれれば良いものでもない。
偉大な指導者・モーセに率いられ、多くの徴や奇跡を見、体験し、奇跡を食べ、飲んだ、かの60万以上の民のうち、安息の地に入れたのは、わずか二人だったのは何故なのか。そこに思いを馳せるべきである。
安息に入れず荒野に屍を晒したのは、不信仰のためであり、従おうとしなかったからだ。(ヘブル3:15-19)
結局大切なのは、法に則る事、すなわち、御言葉に聞き従い、御心に歩む事である。
出エジプトの民が荒野で滅んだのは、律法の何か一つを違反したからではなく、神の定めた指導者モーセに従おうとしなかったからだったが、そのモーセは、後の時代には自分と同じようなひとりの預言者が現れるから、彼に聞け、と言った。(申命記18:15) その「彼」こそ、主イエスキリストである。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、365の「するな」と248の「せよ」から成る律法の全てではなく、全律法が指し示すお方、すなわち、「ことば」そのものなるイエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来る。(マタイ11:28-30)
そして安息に入った者は、自分のわざを終えて、休む。(ヘブル4:10)
自分の能力、自分の持ち物、そうした自分の何かに頼りの源を置く生き方が、十字架の死に渡され、これからは、キリストに生きて頂き、キリストに勝利して頂き、私達はそのお方と共に歩んで行く生き方が始まる。
これこそ、安息の生き方である。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル3:13) この安息に入るように努め、かたくなになって荒野で滅ぶような人が 誰一人出ないよう、日々励まし合い、勧めあって、信仰生活を歩んでいく皆さんでありますように!