メッセージ - 気になると、せずにはおれない人の災い(創世記35:16-29)
礼拝説教メッセージ音声:気になると、せずにはおれない人の災い(創世記35:16-29):右クリックで保存
ヤコブは「あなたは立ってベテルに上り、そこに"住んで"、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」と主から言われていた。(1節)
それで彼はベテルに行き、祭壇を造って礼拝した。そこまでは良かったのだが、ベテルには住まず、すぐに父イサクの住む南の方へと歩を進めてしまう。
しかも、愛する妻ラケルが妊娠して、お腹が大きくなりかけていた時に。
舗装されていない砂漠をらくだに揺られながらの旅である。妊婦にとっては、かなり大変だ。
ヤコブはなぜ留まるべき場所を離れ、しかも、ラケルが安静にしていなくてはならない時に、移動してしまったのか。
確かにヤコブは、20年前にベテルで主が現れた時、父イサクの家に戻る事を表明していた。(創世記28:21)
しかし、それは主が命じたのではなく、彼が自分で決めた事である。
主からは「ベテルに住みなさい」と、つい最近命じられたばかりであるので、そんな遥か昔に決めた事など、実行するような時ではなかったはずだ。
もしかすると、父イサクがかなり高齢で、いつ死ぬか分からなかったので焦ったのかもしれない。
いずれにせよ、彼はこの時、自分でやりたい事や心配事が沸き起こったら、それが気になって気になって仕方なくなり、ラケルや主の命令よりも、自分の思いを優先させて、さっさと実行してしまわなくては、気が済まなかったようである。
御心を求めず、周りも顧みずに、自分が思い立った事を、その時やらずにはおれない人には、災いが尽きないものである。
ヤコブは主の命令を脇に置き、お腹の膨らんだ最愛のラケルに旅を強い、皆を引き連れて移動させた結果、彼女は難産になり、それが元となって、彼女は死んでしまった。
『イスラエルはまた、いで立ってミグダル・エダルの向こうに天幕を張った。』(21節)
ミグダル・エダルとは「羊の群れのやぐら」という意味で、恐らくそこは、羊を飼うのに適した所だったのだろう。
彼はそこにとどまった時、彼にとって屈辱的な事が起きた。
『イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。』(22節)
この出来事によって、ルベンは長男の権利を失い、彼は他の兄弟達に抜きん出る事もなく、その後の歴史でも、彼の民族からは士師も預言者も王も出る事は無かった。
家長であり、指導者でもあるヤコブが、主から与えられていた命令を守る事をせず、父の家に帰るという自分で決めた事も中途半端にして、羊を飼うのにいい所を見つけると、そこに定住してしまう。
そのように、思いの向くまま、行き当たりばったりで自分の集団を導いてしまうと、最愛の人を亡くしてしまったり、子供や部下が好き勝手にし出して、家長としての権威と秩序を失ってしまうものである。
彼らはそこからさらに移動し、ついに、ヘブロンのマムレにいる父イサクの所へ到着した。
「イサクの年は百八十歳であった。イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」(28-29節)
イサクは、アブラハム・イサク・ヤコブの中では、最も波瀾万丈さが無く、第三者が「ストーリー」として見る分には、最もつまらないかもしれないが、彼は最も長く生き、最も安泰な生涯だった。
それは、イサクが平和の人であったから、彼は争う必要も無く主に守られ、平和に長寿を全う出来たのである。
ヤコブとは、実に対照的な生き方である。
ヤコブは後に言う。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47:9)
自分の気の赴くままに、周りを振り回し、自分自身も振り回されてしまう人生は、「短く」「苦しみ多い」。
主に信仰の碇を降ろし、イサクのように平和と尊厳に満ちた人生を生きる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!