メッセージ - 人の愛情(創世記37:29-36)
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『彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、その長そでの着物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」。 』(31-32節)
ヤコブ自身が愛情を込めて特別にこしらえ、ヨセフに贈った長服が、ぼろぼろに、血に染まって帰って来た。
それを手に取った時の彼の悲しみは、どれほどだったろう。
しかし、彼自身が行った「偏愛」という行いの実を、彼自身が刈り取ったのである。
ヤコブはかつて、「やぎ」の毛皮と、兄の「晴れ着」を用いて「父親騙し」を実行し、父が愛した兄から祝福を奪ったが、今回、彼の息子たちに「やぎ」の血とヨセフの「長服」を使って「父親騙し」を実行され、愛するヨセフを奪われたのだ。
自分がかつて行った「父親騙し」の実も、その身に刈り取ったわけである。
「そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。」(34節)
ヤコブのその後の言動からは、以前のような覇気は無くなってしまい、何事にも神経質で、失う事を非常に恐れている事から、悲嘆にくれつつ余生を送っていたのを伺う事ができる。
人間の愛情。
それは良いものに見えて、実にやっかいである。
ヤコブがヨセフに寄せていた「愛情」は、兄弟に憎しみを芽生えさせ、ヨセフを命の危険に晒させ、ヤコブ自身に、大きな悲しみを招いてしまった。
人の愛は、利己的で、時に不純で、気まぐれであり、愛憎が強ければ強いほど、自分や周りに対して破壊力を生み出すものだが、主の愛は純粋で完全、永遠である。
彼は時にイスラエルと記されたり、時にヤコブと古い名で記されたりしているが、今回の箇所では、ヤコブの名で記されている。
ヤコブという名前からは、人を掴み、人の祝福を奪い取る、以前の古い生き方を連想させる。
彼は神からイスラエル(「神に支配される」の意)という新しい名が与えられたのに、しばらくは「ヤコブ」と「イスラエル」との間を、行ったり来たりしていたのだ。
ヤコブの生き方、すなわち自分で掴み取る生き方は、失うのみである。
彼はヨセフを手の内に「掴んで」寵愛した結果、失ってしまった。
自分のものとして握り締めていたもろもろが、指の間からこぼれ落ちていくたびに、「あなたはまだ手放さなくてはならない」と言われているのであり、どんどん手放して身軽になっていく内に、ますます主の御前に有用になって行くのである。
一家の中からヨセフが消えた事によって、この一家は変えられていく。
父親は、偏って愛する事がいかに愚かな事だったかを悟り、父親がこんなに悲しんだのを見た兄たちも、自分達のしてきた事がいかに愚かだったかを知った。
しかし、主にあって一度失ったものは、遥かに優れた形で取り戻すのが、十字架の原則である。
ヨセフはまだ生きており、そしてやがて、遥かに優れた形になって父親の懐に帰ってくるのである。