メッセージ - 監獄の奴隷から総理大臣へ(創世記41:37-46)
礼拝説教メッセージ音声:監獄の奴隷から総理大臣へ(創世記41:37-46):右クリックで保存
『パロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。』(創世記41:39-41)
いよいよヨセフは、監獄の奴隷から、総理大臣へと、大昇進を遂げる。
ヨセフを総理大臣に大抜擢したパロは、ヒクソス時代の王と思われる。
エジプト人は元々羊飼いを嫌い、ヘブル人とは一緒に食事をしないものだが、ヒクソス(ヘカ・カスウト:「異国の支配者達」あるいは「羊飼いの王達」の意味)は、パレスチナ地方に起源を持つ、異国の血が混じった雑多な集団と考えられており、異国人や他文化には比較的寛大で、パロがヨセフに理解がありエジプトの神々にも執着がない事とも、つじつまが合う。
総理大臣として国政を任せるからには、当然、夢を解く能力だけでは務まらない。
会社の人事が学生を採用するにあたり、学生時代にどのように資質を培って来たかを見るように、パロもまた、ヨセフを呼び寄せるに当たり、献酌官長や彼に関わった全ての人達から、彼の人となりを詳しく聞き、背後調査をしただろう。
ヨセフがいた監獄でどんな管理をし、仕事ぶりを発揮したか。ポティファルの家でどんな仕事ぶりで、どんな昇進を遂げ、どういう成果を出したか等、彼の性格や人となり、管理能力や問題解決能力など資質を総合判断し、その上で「神の霊」に満ちている様を見たので、パロは彼に国政を任せる気になったのだろう。
私達も、小さな事に忠実となり、素養を培うべき時にしっかりと培うべきである。
『そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第二の車に彼を乗せ、「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。』(創世記41:42-43)
指輪は印鑑の役割を果たし、王としての権威を委ねられた、という事である。
また亜麻布の衣服は高級な宮廷服であり、金の首飾りは名誉のかざりである。
「パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた。ヨセフはエジプトの国を巡った。」(創世記41:45)
パロがヨセフに与えた新しい名「ザフナテ・パネア(別訳:ツァフェナテ・パネアハ)」とは「世界の救い主」「秘密を解き明かす者」あるいは「神は語る、彼は生きる」という意味だそうである。
パロがヨセフをそのような称号で呼ばせたように、私達も、イエス様を一家の救い主とし、秘密を解き明かす者、人生の導き者と家族に呼ばせるなら、大いに祝福され、栄えるのである。
ヨセフはイエス様のひな形である。
ヨセフは30歳の時に公な活動を開始したように、イエス様も同じ30歳で公の活動を開始した。
父からの寵愛を受け、誰にも正直に、神から託された事を語り、それ故に妬まれ、憎まれ、銀で売り渡され、無実であるのに罪状をなすりつけられた。
それでも彼は、ののしり返さず、正しくさばかれる神に委ね、一時は地下牢に下ったが、後には栄光の統治の座に着いた。
パロは自ら支配の座を降り、神の霊に満ちた人・ヨセフに委ねたが、そのパロの態度を私達も見習うべきである。
パロ(ファラオ)とは元々、「王宮(大きな家=ぺル・アア)」を意味するが、彼はエジプトという車の運転席を降り、ハンドルをヨセフに譲って、ヨセフのハンドルさばきに国の運行を委ねた結果、パロの家は、どの国よりも栄えた。
私達も同じように、自分の人生という車の運転席を自ら降りて、イエス様に譲り、イエス様に人生のハンドルさばきを委ねるのである。
そうするなら全てにおいて祝福され、幸いな者とされ、滅びる事のない神の国へと導かれて行くのである。
『あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。』(1ペテロ2:21-25)