メッセージ - 早く楽になるためには、手放せ(創世記42:29-38)
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ヤコブの子達は父の元に帰り、エジプトでの事をありのまま話し、そして皆は恐れた。
『父ヤコブは彼らに言った、「あなたがたはわたしに子を失わせた。ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンをも取り去る。これらはみなわたしの身にふりかかって来るのだ。(KJVでは、all these things are against me.)」』(創世記42:36)
ヤコブはこの時、自分が大切に握りしめているものが、どんどん指の間からこぼれ落ちて行き、最後の大切な末子・べニヤミンさえ喪失してしまうのではないかという恐れに満たされ、あたかも全ての物事が、自分に敵対しているかのように見えた。
『ルベンは父に言った、「もしわたしが彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、わたしのふたりの子を殺してください。ただ彼をわたしの手にまかせてください。わたしはきっと、あなたのもとに彼を連れて帰ります」。』(創世記42:37)
ルベンは、自分の二人の子供のいのちにかける事で、覚悟を表明したかったのだろう。
しかし「もし失敗したら」という話では、逆に心配を募らせるであるし、万一、ベニヤミンを失ってしまった時に、ルベンの子二人を殺した所で、ヤコブには何の慰めもメリットも無い。
ヤコブはルベンの言葉を拒否して言った。
「わたしの子はあなたがたと共に下って行ってはならない。彼の兄は死に、ただひとり彼が残っているのだから。もしあなたがたの行く道で彼が災に会えば、あなたがたは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせるであろう」。
ヤコブは昔の生き方に、すなわち、自分の好きなもの欲しいものをつかんで離さない生き方に、再び戻ってしまった。
かつては、最愛の妻も子供も皆自分の元から去らせ、一人、主の御前に出て主ご自身と格闘し、イスラエルという新しい名と祝福を勝ち取った。
それなのに、神を掴もうとする生き方から離れ、世のものをつかもうとする生き方に逆戻りしてしまった。
神の方法は、いつでも死と復活である。
自分を十字架の死へと明け渡し、神から息吹かれる新しいいのちを着せられる「復活」を通して、人は新しく造り替えられ、罪は聖められ、いのちの祝福が与えられるのだ。
なぜ死と復活を経なくてはならないか?
それは、人は生まれながら邪悪で、一旦破棄せねばならないものだからだ。(ローマ3:10-18)
ヤコブは、ベニヤミンを愛していると言うが、それは他人を不幸に陥れる不健全な愛である。
そもそもの家族分離劇の原因は、ヤコブのその偏愛癖からではなかったか。
生まれながらの人間が、良かれと思って為す事は、大抵、どこかしらに歪みがあり、その歪みから誰かの不幸が生まれ、自分の不幸が生まれ、後悔が生まれていくのだ。
自分の願う事の一切を神に委ねて明け渡したアブラハムやイサクには、祝福と備えは、すぐに来た。
アブラハムは最愛の子イサクを捧げなさいと神に言われた時、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたため、一日の躊躇もなくイサクを捧げに行き、三日の行程の後、すぐにイサクを取り戻した。
イサクもまた、異邦人に井戸を奪われようとした時、争ったり自分を主張したりする事無く、すぐに手放した所、すぐに別の井戸が主から与えられる、という事が、二度三度あった。
それに引き換え、ヤコブは、かなり長い間、自分の願う事を掴んで離さず、苦しみの期間をいたずらに長く過ごしてしまった。
ヤコブは「握りしめて離さない」という生来の手癖が出てしまい、彼が偏愛していたラケルは奪われ、偏愛していたヨセフも奪われ、今偏愛しているベニヤミンも奪われようとしている。
彼は後に告白している。
『ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」』(創世記47:9)
掴んで離さない人生は、わずかで、ふしあわせで、先祖のたどった年月には及ばない。
私達も、楽になりたいなら、主の前で掴んで離さないものは、すぐに主の前に手放すべきである。
願いも、重荷も、大切にしているものも。
神に愛された人であるなら、神はその人から何もかも強制的に剥ぎ取ってしまった後、今度は、祝福を強制的にゆすり入れて下さるのだ。