メッセージ - 「神が」(創世記45:1-15)
礼拝説教メッセージ音声:「神が」(創世記45:1-15):右クリックで保存
『そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、「人は皆ここから出てください」と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。』(創世記45:1-2)
ヨセフは、兄達やユダの高貴な趣を身につけた様を見、そして、彼らが父や弟を思いやる愛に満ちた弁明を聞き、もはや我慢ができなくなり、別の部屋にいるエジプト人達にも聞こえるほど大声で泣いた。
そして、いよいよ自分を打ち明けた。
「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」(3節)
ヨセフの人生をドラマとして見るならば、クライマックスに相当する場面である。
不当な扱いを受け、苦労に苦労を重ね、最底辺に落とされ、最高権力者へと上げられ、かつて彼を虐げていた兄と、大逆転の立場で再会するという数奇な運命。
ドラマ好きな人が好みそうなサクセスストーリーであり、ヨセフのようになりたいと漠然と憧れるキリスト者も多いが、もし、ヨセフのようになりたいのなら、彼が試練を受けていた時機、すなわち、兄に憎まれていた時期や、奴隷の時期、監獄にいたそれぞれの時期に、どなたを主とし、何を口で告白し、どなたを基準に行動したのか、という事に目を留め、それに見習って行動すべきである。
映画やドラマの中にも「神」はよく登場するが、その中で神が演じる役割は、人を面白おかしい運命へと導いたり、あるいは良い人をドラマチックな形で幸せに導き、あるいは悪い人をドラマチックに災いを下らせる、「一役者」のように描かれている。
しかし、あいにく神は、私達の人生をいろどる役者でも、願い事を叶える為の手段でもないし、私達の人生を面白おかしくドラマチックに演出する義理も、神には無い。
神は、全てを支配しておられる全能者、私達の主であり、主従関係において私達は従、神は主である。
そして神は、ひとり子の命を捨てるまでの愛をもって私達を愛し、私達を自由意志のある「子」として扱われ、たとい、私達の罪によって、せっかくの御業を台無しにしてしまっても、全てを益とし、最善へと導いて下さる、憐れみ深いお方なのだ。
『しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。”神は”命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。”神は”、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。』(創世記45:5-7)
結局、全てを導いたのは、”神”である。
ヨセフは、表向き兄の手に陥り、奴隷としてひっ立てられて行った形だったが、実は、そこかしこに神の配剤があったのである。
神は、イスラエルの家全体を救うために、ヨセフを先にエジプトへ遣わし、その一連の役割を果たさせるためにヨセフを宰相へと任じた。
それに対しヨセフは、「父や兄を養う」という、神から与えられた使命を果たす為、宰相としての日々の職務を、忠実に全うしたのだ。
人は、お金持ちになったり権力者になったりする事を目標とし、それが達成したとたん神を忘れ、あるいは神をポイ捨てするような所があるが、私達を権力者にも囚人にも導く事のできるお方をこそ恐れ、愛の故にいのちを差し出して下さったお方をこそ、大切にすべきであり、与えらた祝福は、神が愛しておられる兄弟姉妹を養うために用いるべきである。
ポンテオ・ピラトがイエス様に「わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威がある」と言った時、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。」と答えられた。(ヨハネ19:11)
その時、イエス様は誰よりも弱々しく、ピラトが誰よりも強いかのように見えたが、イエス様を低くされたのも、ピラトを高くされたのも、神であり、全ての権威は、上から与えられるものである。
「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、知恵と権能とは神のものである。神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。」(ダニエル2:21)
私達はただ、この全能の神にひれ伏し従うのみであり、いのちを差し出す程に私達を愛されたイエスを愛するのみである。