メッセージ - 栄光にあふれた再会(創世記46:28-34)
礼拝説教メッセージ音声:栄光にあふれた再会(創世記46:28-34):右クリックで保存
『ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、そのくびを抱き、くびをかかえて久しく泣いた。』(創世記46:29)
ヤコブが最後にヨセフを見たのは、22年以上前、シェケムで羊を飼っている兄達の様子を知るために、ヨセフをおつかいに送り出したのが最後で、その時以来の再会である。
その時出ていったヨセフの姿は、父が贈った長服を着ていた。
しかしその長服は血まみれになって返って来て、それ以来、ヨセフは死んだものと思っていた。
それが今、20数年ぶりに会ったヨセフは、高級外車で迎えに来て、亜麻布の宰相服を身につけ、金の首飾りをかけており、パロの指輪をはめていた。
かつて、大切なわが子に、と身につけさせてやった長服やアクセサリーよりも、はるかに優れたものを彼は身に帯びており、かつて、ただ大切にしてかわいがっていたい、と思っていたヨセフだったのに、今や自分が、ただ彼に助けられ、養われる側となっていた。
ヤコブは、かつてヨセフが見た夢、あの太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んでいる様子を、思い起こした事だろう。
その時、その夢はヤコブの心を害したが、ヨセフは決して好き好んで、その夢をみたのでもないし、好き好んでエジプトの主となったわけでも、夢の通りに兄弟達や父母を養う者となったわけでもなかった。
ただ神が一方的に、イスラエル一族を救うため、予めヨセフを選び、その夢を見させ、予めエジプトへ送っていたのだ。
『時に、”イスラエル”はヨセフに言った、「あなたがなお生きていて、わたしはあなたの顔を見たので今は死んでもよい」。』(創世記46:30)
彼は、地上の祝福を掴み取ろうとする「ヤコブ」の生き方はもはや未練が無くなり、神のご計画が成就した事に満足を見出し、ただ神に支配されるがままの生き方をする「イスラエル」となった。
かつて「ヤコブ」は、世的な祝福を掴んで離さない生き方だったが、それら掴んできたものはやがて無理やり彼の手から引き剥がされて行った。
ラケルが剥がされ、ヨセフが剥がされ、そしてベニヤミンも、という所まで来た。
その時、「子を失わなければならないのなら、失ってもよい」(創世記43:14)と告白し、全てを全能の神の御手に委ねた。
するとヤコブは、ベニヤミンだけでなく、ヨセフをも取り返し、それも、思ってもみなかった程遥かに優れた形になって、彼の元に帰ってきたのだ。
自分で握りしめていたものを、主の御前に手放し、明け渡し、委ねる。そうして、主の元から再び返してもらう。
それが十字架と復活の経験である。
神は、その人が主の元へ手放したもの、主の故に失ったものを復活させ、以前よりも遥かに優れた形で、栄光のいのちを伴った形で、返して下さるのだ。
それはアブラハム、イサク、ヤコブが経験した事であり、私達も経験すべき事なのだ。
ヨセフは父や兄達に助言する。
『もしパロがあなたがたを召して、『あなたがたの職業は何か』と言われたら、『しもべらは幼い時から、ずっと家畜の牧者です。われわれも、われわれの先祖もそうです』と言いなさい。そうすればあなたがたはゴセンの地に住むことができましょう。羊飼はすべて、エジプトびとの忌む者だからです」。』(創世記46:33-34)
なぜわざわざ、エジプト人に嫌われる事を言うようにと、助言したのだろうか。
それは、ヨセフはエジプト人の有様を良く知っており、エジプト人とイスラエルの家が互いに和合し、血が混ざり、宗教が混ざらぬように、と思ったからであろう。
実際そのお陰で、430年後にイスラエル民族がエジプトを脱出する時、エジプト人とユダヤ人ははっきりと区別されており、民族的・宗教的純潔がずっと保たれていた。
兄達も「この国に寄留しようとしてきました」とパロに言い(47:4)、自分達はエジプトに永住するつもりは無い、ただ神が定めた時まで寄留するだけのつもりだと表明した。
私達も、世に対しては寄留者であるとの意識を持つべきである。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。』(1ペテロ2:9-12)