メッセージ - イスラエルの子達への預言2(創世記49:13-21)
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言2(創世記49:13-21):右クリックで保存
前回に続き、イスラエルの子達への預言の箇所である。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13)
ゼブルン族は、海に近い所に相続地を得た。
ゼブルン族の中には、この祝福の通りに、海洋貿易で富を得た人はいたのかもしれないが、結局その領地は、海にもシドンにも、至らずじまいだった。(ヨシュア記19章)
モーセは後の時代に次のように祝福している。
『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。』(申命記33:18)
キリスト者の中にも、世に出て行って商いをし、富を得、教会に富をもたらす賜物を持った兄弟姉妹がいるのと同じである。
「イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。」(創世記49:14)
イッサカル部族は豊かな土地の相続地を得たが、なまけて安逸をむさぼった。
「彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(同15節)
この言葉の通り、後にはカナン人やアッシリアなど他国に税金を収めたり、ろばのように苦役を課せられる事になってしまった。
キリスト者の中にも、富を得て油断し、信仰になまけ癖がついてしまい、安逸をむさぼった結果、敵に蹂躙され、奴隷としてこきつかわれてしまう者もいる。
祝福を受けたからと言ってなまけ者になってはならない。怠けてしまうと、すぐに以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。』(創世記49:16)
ダンの名前は「さばく」という意味であり、ヤコブは、さばく人は道に隠れたへびのようだと、たとえている。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(同17節)
「悪魔」のギリシヤ語「ディアボロス」の原意は、元々、中傷する者、けなす者の意味であるが、兄弟姉妹をさばく人は、へびやまむしのようであり、それは悪魔の性質である。
ヤコブは、裁く人について、「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」(18節)と、主に助けを求めている。
『ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。』(同19節)
ガド部族は戦いに強い部族で、エリコを攻略する前にヨルダン川の東に相続地を先に得たが、ガドの勇士達は民の先頭に立ってカナンを侵略した。(民数記32章、申命記33:20)
兄弟姉妹の先頭に立って戦い相続を得させる役割が与えられたキリスト者もいるが、ガド部族はそのようである。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
アシェルの名は幸いという意味である。
神から食料を豊かに提供され、それを兄弟姉妹に、そして王なるキリストに、豊かにごちそう提供する人は、幸いである。
キリストの食物とは、神の御心を行い、それを成し遂げる事である。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
ここの「美しい子じかを生むであろう」は「美しいことば(歌)を生むであろう」とも訳す事ができる。
ナフタリはガリラヤ湖北の山地に相続地を得、他から解き放たれた雌鹿のように自由であり、士師デボラとバラクはイスラエルに勝利をもたらし、美しい歌を歌った。(士師記4,5章)
主を賛美する事は私達の力であり、勝利をもたらすものである。
このようにヤコブの子らは、色々な役割が与えられバラエティに富んでいた。
同じように、キリスト者にも色々な賜物を与えられた兄弟姉妹が、それぞれ、バラエティに富んだ役割を果たす。
祝福されて怠け者になったり、目を凝らして裁いたりする者にはならず、有用でいのちを増やす働きをする皆さんでありますように!