メッセージ - 信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33)
礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存
イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)
彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。
『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。
パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)
私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。
信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)
信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。
『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。
百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。