メッセージ - 主から呼ばれた時の作法(出エジプト記3:1-6)
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エジプトを抜けだしてきたモーセは、イテロの羊を飼うようになり、早、40年が経って80歳になった。
彼がいつものように羊を追い、神の山ホレブまで来た時、主の使いがモーセに現れた。
『主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。』(出エジプト記3:4)
神から呼ばれた時は「ここにいます」と答え、自分は聞く側、主が語る側と、主従関係を表明するのが正しい作法である。
少年サムエルが最初に神に呼び出された時、それが神からの呼びかけとは分からず、三度エリの所に行ってしまったが、エリから正しい応え方を学び、彼は正しく「しもべは聞きます。お話しください」と答えた時、主ははじめて御心を明らかにされた。(1サムエル3:9-10)
神から呼ばれた時の「正しくない」対応は、自分の主張など言葉数多くする事である。
預言者エリヤが、モーセと同じように神の山ホレブに行ってそこで主と出会った時、彼は「わたしは**しました」「でもあの人達は**です」「それで今こういう状況です」と、言葉数多く自己主張し、ささやかな主の御声を聞くことは出来なかった。(1列王記19章)
主は、岩をも砕くような大きな強い風の中にも、地震の中にも、火の中にも、おられなかった。しかし、火の後に静かな細い声が彼に聞えた。(1列王記19:11-12)
彼がささやかな御声を聞くことが出来た時、彼は顔を覆って再び同じ主張をしたが、神はその主張は相手にされず、彼がこれから為すべき事、起こるべき事を、初めて語られた。
私達は、主張する側ではない。主が語られる御声に、聞き従う側である。
『神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。』(伝道者の書5:1-3)
主の御前に出る時は、足を慎み、口に気をつけるべきである、と書いてある故、私達が御前に出ようとする時は、軽がろしく愚かな近寄り方をしていないか、軽々しく言葉を出そうと心あせってはいないか、自分を点検するべきである。
主はモーセに、足の靴を脱ぐよう指示された。
同じように私達も、あちこち歩き回ってちりだらけの靴は、脱いでから御前に出るべきである。
『また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。』(出エジプト記3:6)
神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、すなわち、生きている者の神である。
主が私達に近づかれる時、主は生きておられる神として来られる。
主が来られる準備は、できているだろうか。
すなわち、耳を傾ける準備はできているだろうか。主張したがる口を慎んでいるだろうか。
私達の足からは、あちこち歩き回る靴を脱いでいるだろうか。