メッセージ - これ以上に無い”しるし”(出エジプト記3:7-12)
礼拝説教メッセージ音声:これ以上に無い”しるし”(出エジプト記3:7-12):右クリックで保存
『主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。』(出エジプト記3:7)
もし私達がイエスを主としたのなら、主が私達の内におり、私達も主の内におられる。
『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。』(ヨハネ14:20)
それ故、私達を虐げたり圧迫したりする者がいるなら、その者は私達のみならず、主をも虐げたり圧迫する者ゆえ、主はその状況を放っては置かれない。
主が、イスラエルの民の悩みを「見」「聞き」苦しみを「知」っておられたと7節にあったように、主は私達の有様も一切見て、聞いて、知っておられる故、主は天を押し曲げて降りて来て救い出し、広く良い地へと導いて下さる。(詩篇18篇)
『さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。』(出エジプト記3:10)
モーセはこの時、80歳である。
40年前のモーセだったなら、二つ返事でOKしたかもしれない。
しかし主は、人間的なヤル気が大きく気力にあふれている時は、必ずと言っていい程、ご自身のご用のために用いられることはない。
主は、弱い者を、用いられる。
80歳。十分な年齢である。モーセはこれから何かするには、あまりに歳を取りすぎていたが、主が召したのはその時だった。
ギデオンやサウル王も、自分が小さい者だと知っている時に召しだされ、主の特別なミッションに就かせられた。
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(2コリント12:9-10)
イザヤの召命の時もそうだった。
彼は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。(イザヤ6章)
主の衣のすそは神殿に満ち、御使い(セラフィム)が互いに呼びかわして万軍の主をほめ称え、その叫ぶ声のために神殿の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
その大いなる、聖なる、厳かな場面に立たされたイザヤは言った。
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
神はあまりに大きく、御使いの賛美はあまりに聖であり、その叫びは雷よりも大きく、神殿が揺らぐほどである。それに引き換え、私達人間はあまりに弱く小さく、汚れている。
神の聖なる有様に人間が触れるなら、ただちに死ぬのみであり、預言者イザヤも絶望したほどだった。
主は、そんな人間に、どうされたか。
『すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」』(イザヤ6:6)
主は、そんな人間の罪を燃やし、清め、贖われ、その上で呼びかけられる。
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
それでイザヤは、言うことが出来た。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
万軍の主はなぜ、その力ある身腕で御業を実行されるのではなく、小さく弱い、罪深い人間を、わざわざ用いられるのか。
なぜ主は、聖かつ完全な御使いの力に任せるのでなく、わざわざ罪ある人間を清め、しかも、わざわざ人間の自主性に委ね、人間の同意を得た上で用いられ、御業を実行されるのか。
本当に分からない。
とにかく、私達が自分の力で主の役に立とうなど思うのも、私達が主の御前に価値があると思うのも、そもそもの傲慢である。
モーセも言った「わたしは、いったい何者でしょう。」と。
神はあまりに大きく聖であり、私達はあまりに弱く、汚れている。しかも、主が私達に要求される事は、人の力を遥かに超えた、能力外の事である。
主は言われた。
「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわした”しるし”である。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。(出エジプト記3:12)
物事を為すのは、私達ではなく、主だ。
「主が共におられる事」。それがモーセをつかわしたしるしであり、私達をつかわすしるしである。
「しるし」とは大いなる不思議や奇跡ではない。
天地を創られた万軍の主が共におられる事、それ以上の大いなるしるしは、無いのだ。