メッセージ - やられっぱなしは有り得ない(出エジプト記3:16-22)
礼拝説教メッセージ音声:やられっぱなしは有り得ない(出エジプト記3:16-22):右クリックで保存
40年前、イスラエルの民はモーセを拒んだが、さらに40年奴隷生活を送ってきたイスラエルは、救いをただ慕い求めるまでに心が整っていた。
『彼らはあなたの声に聞き従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と。しかし、エジプトの王は強い手をもって迫らなければ、あなたがたを行かせないのをわたしは知っている。』(出エジプト記3:18-19)
イスラエルはそれまでエジプトで奴隷であり、400年もの間、その状態が伝統のように続いていた。
エジプトの王は当然、ヘブル人が礼拝しに行く事を拒否するだろうし、事実、神も19節で神は「行かせないのを知っている」と言っている。
神はなぜ、パロに断られる事を知りながらも、敢えてモーセを遣わすのか。
断られると知りながらも敢えて行く事を、人は、無駄足と言うかもしれない。
それでも行かなくてはならない時があり、伝えなくてはならない言葉がある。
神の言葉は、折が良くても悪くても伝え、御心を人々に表明すべきであり、それを相手がどちらに受け止め、どう対応するかは、私達は一切、心配する事ではない。
ペテロの説教は何千何万を悔い改めに導き、リバイバルが起きた(使徒2-5章)が、ステパノの説教(使徒7章)では一人の悔い改めも起きず、かえって殺意の暴徒と化した群集によって彼は殺されてしまった。
ペテロは成功で、ステパノは失敗なのだろうか?決してそうではない。
御言葉をそのまま伝えた事、この事こそ主の御前で大成功であり、あれこれ思案して御言葉を伝えなかったり福音に混ぜ物をしてしまう事、これこそ、主の御前で大失敗である。
『それで、わたしは手を伸べて、エジプトのうちに行おうとする、さまざまの不思議をもってエジプトを打とう。その後に彼はあなたがたを去らせるであろう。』(出エジプト記3:20)
パロがかたくなにモーセを拒否する事で、神の強制力が発動され、さまざまの不思議をもってエジプトが打たれるなら、誰の目にも明らかに神が生きおられ、神を愛する人達には救いを与え、心頑なに神を拒否する者には、明らかな災が降りかかる事を、全世界が見るようになる。その事によって、神の栄光が明らかになるのだ。
そうして後、エジプトはイスラエルを去らせるようになる。それも、多くの富を持たせて。
『わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい」。』(出エジプト記3:21)
エジプトは、ヨセフの時代以来、神のあらゆる恩恵をもたらして来たイスラエル人を迫害し、奴隷にし、激しい労働でこき使い、さらには、男子の赤ちゃんを全てナイルに投げ捨てるまでに、イスラエルを徹底的に迫害し、搾取して来た。
私達も含めたアブラハムの子孫には、奪われたら奪われっぱなしという事は、ありえない。
イエスを信じ救われたなら、サタンに奴隷としてこき使われ、世からむりし取られ続けて来た全てのものを、大いに剥ぎ取り返してもらう権利が与えられるのだ。
神はなぜエジプトから剥ぎ取らせ、神の民に金銀を与えられるのか。
奪われたものを正当に奪い返すためだろうか。神の民を貧しいままにしておかず富ませるためだろうか。それもあるだろう。
しかし出エジプトの民は、エジプトから剥ぎとってきた金銀を、荒野で何に用いたか。それは、神の幕屋を造るため、すなわち、礼拝のために用いたのだ。それも彼らは、喜んで神にささげたのだ。
私達に金銀が与えられた時、それで神との関係が切れるとしたら、その金銀は、災いの元でしか無い。
私達が世から搾取されて来たものが、主の御手によって奪い返されるその時、私達も真っ先に、主を礼拝するべきである。
主から与えられたものを、主のために用いる事によって、さらに主との交わりが深くなり、主もまた、私達がもっと感謝できるようにと祝福を与えて下さるのだ。