メッセージ - 血の災い(出エジプト記7:14-25)
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いよいよエジプトに降される10の災いのうちの最初の災い、血の災いが降る。
エジプトに降る災いの内の、はじめの3つは、モーセがアロンに命じて災いを降らせ、その後の3つの災いは言葉のみで降り、その後の3つの災いはモーセ自らの手の杖で行わせている。
『そして彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしをあなたにつかわして言われます、「わたしの民を去らせ、荒野で、わたしに仕えるようにさせよ」と。しかし今もなお、あなたが聞きいれようとされないので、主はこう仰せられます、「これによってわたしが主であることを、あなたは知るでしょう。見よ、わたしが手にあるつえでナイル川の水を打つと、それは血に変るであろう。』(出エジプト記7:16-17)
パロは既にその事を何度か聞いているのに、それを聞き入れなかった。
そのため、毎日の生活に必要な水が血に変わる事によって、誰の目にも見える形で災いが降された。
「彼はパロとその家来たちの目の前で、つえをあげてナイル川の水を打つと、川の水は、ことごとく血に変った。」(20節)
パロが朝ごとにナイルの水の所に出てくるのは、ナイルの神ハピを礼拝するためだったと思われるが、モーセ達がその川の水を打った事により、彼らが崇拝しているエジプトの神々が、パロと家臣たちの目の前で、打たれたのである。(民数記33:4)
それもエジプト人が嫌う羊飼いの杖によって。
ナイル川の水だけでなく、池など水の集まっている所、木の器や石の器にさえ、血が満ちた。
皆さんは恐らく、何かの器に血で満たして放置したような経験は無いかと思うが、そのような血が至る所にあるのは、どれほど胸が悪くなるような悪臭だったろう。
エジプトの全住人は血を見、それによって実生活は脅かされる事となり、モーセ達の事も知れる所となった。
水が血に変わる災いは、黙示録16章にも出てくるが、それは、聖徒達の血を流した者どもが、報いを受けるためである。
『それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。』(黙示録16:5-7)
神の裁きは不当だ、エジプトに災いを降す神はひどい、と言う人はいるが、神の裁きは正しく真実である。
エジプトに災いを降す神はひどい、と言う人は、エジプトが400年もの間、誰を苦しめ、誰の血を流してきたか、裁きを受ける側が今まで何をして来たのかが、すっぽりと抜けている。
血を流す者は、必ずその血の報いを受ける事になるのだ。
『エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。しかし、主の言われたように、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。パロは身をめぐらして家に入り、またこのことをも心に留めなかった。』(出エジプト記7:22-23)
モーセ達は神の御業を行い、ナイル川の神は人々の面前で敗北し、多くのエジプトの民も、血となった水の故に生活に支障をきたしたのに、結局、世の知者達のあさはかな”立証”によって、神の大いなる御業を”説明可能なもの”として貶めてしまった。
パロはそれ故にかたくなになり、このこの事を心にも止めなかった。
この世のいわゆる知者も、神の存在を否定する事でやっきになり、多くの人々を神から遠ざけているが、やがて彼らは、全能の神から否定される側となってしまう。
結局パロは、朝ごとに礼拝を捧げているのは形だけであり、彼の「神」を敬ってもいなかったし、民を思いやっているのでもなく、ただ単に、自分の思い通りに行きたいだけなのだ。
そのように傲慢で頑なな者には、災いが絶えることは無い。
「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」(箴言28:14)
心かたくなにする者ではなく、主を恐れ、主に対して心を開き、幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!