メッセージ - あぶの災い(出エジプト記8:20-32)
礼拝説教メッセージ音声:あぶの災い(出エジプト記8:20-32):右クリックで保存
エジプトに降る第四の災いは、あぶの災いである。
日本語で「あぶ」と訳されている言葉は、ヘブライ語でアロブ、七十人訳では「いぬばえ」、犬などの家畜や人に刺し、刺されると痛みが走る虫で、動物の神々を敬うエジプト人には嫌悪される虫である。
エジプト人の、聖獣といわれる動物への崇敬ぶりは、すごいものがある。
『エジプト人が死守していたベルザの城をペルシャ王カンビセスの大群が久しく囲んで落とせないでいた。智慧の深いカンビセスは、攻撃軍の先鋒に当たる兵士や士官の全部に楯を与える代わりに猫を一匹ずつ持たせた。この、世にも堂々たる進軍が起こされると同時に、城の輿論が決した。エジプト人は猫を殺すくらいなら潔く城を明渡そうと云うのに一致したのだった。』(「猫のいる日々」大佛次郎氏)
今回の災い以降、アロンが杖を差し伸べることではなく言葉で命じる事によって災いが降る。
そして今回の災い以降、主はエジプトとイスラエルを明確に区別され、イスラエルには災いが降りかからないように、特別扱いされた。
神を恐れぬ国の中にいると、その国の中にいる神の民にも災いのとばっちりを受ける事があるが、神は真実なお方であり、その邪悪な国の中に義人が十人いるなら、その国を滅ぼすことはなさらず(創世記一八章)、義人を悪者の集団もろとも滅ぼすような事の無いお方である。
『主はそのようにされたので、おびただしいあぶが、パロの家と、その家来の家と、エジプトの全国にはいってきて、地はあぶの群れのために害をうけた。そこで、パロはモーセとアロンを召して言った、「あなたがたは行ってこの国の内で、あなたがたの神に犠牲をささげなさい」。』(出エジプト記8:24)
パロはモーセの言った要求の一部は許可したが、そこに自分の主張も混ぜ込み、モーセに譲歩させようとした。
しかしモーセはそれには乗らず、自分達は神の要求を何一つ違えるつもりは無くそのまま実行すると主張した。
世は神の民に、色々な手を使って「妥協」を要求して来る。
礼拝するのは主日でなくてもいいではないか、イエスを信じるのは勝手だが私達にイエスを伝えるな、など。
私達は世に妥協して、御言葉をねじまげてはならない。
『こうしてモーセはパロのもとを出て、主に祈願したので、主はモーセの言葉のようにされた。すなわち、あぶの群れをパロと、その家来と、その民から取り去られたので、一つも残らなかった。』(出エジプト記8:30-31)
昨日まで国中に溢れていたあぶの群れが、モーセの言葉のとおり、翌日には一匹も残らずいなくなった。それもまた、すごい奇跡である。
かえるの災いの時、モーセはかえるが絶えるよう主に叫んだが、今回は単に「祈願した」とだけある。それはモーセの主に対する信頼が以前より増したからである。
水を恐れる人が、膝の高さの水でも溺れてしまうのは、水に対する恐れと不安のために、余分な力を入れたり余計なもがきをしてしまうからで、水泳の達人は、水への知識と信頼があるため、無意識的にに力を抜き、必要な力だけを使って、素早い泳ぎができる。
同じように、信仰が発達していない人も、余計な心配や祈りをして、信仰生活が、あたかも莫大なエネルギーを要するかのように見てしまうが、しかし主と共に歩んだ日数の多い信仰の達人は、無意識的にに主を信頼し、余計な力の入った祈祷をせずとも、意識する以前から必要が備えられたりする。
『しかしパロはこんどもまた、その心をかたくなにして民を去らせなかった。』(出エジプト記8:32)
パロは今回、モーセに「私のために祈ってくれ」と言った。
もしもパロがこの時に約束を守っていたら、モーセは約束した通りパロのために祈ったであろうが、残念ながら、モーセが荒野に出てパロのために祈った事は無かった。
なぜなら、パロは更に幾度も心頑なになり、神の前での約束を反故にし、エジプトの初子が打たれてやっとイスラエルの民は荒野へ行けたのに、それでもなおパロは軍隊を遣わして、イスラエルの民を滅ぼそうとし、そこで主はエジプトの軍隊を海に飲み込ませ、そうしてイスラエルは徹底的にエジプトと決別したからである。
今は恵みの時、救いの日である。
とりなし手が祈ってくれる内に主を恐れ、心を頑なにする事を止め、御前にへりくだるべきである。