メッセージ - 第七の災い-雹(出エジプト記9:22-35)
礼拝説教メッセージ音声:第七の災い-雹(出エジプト記9:22-35):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「あなたの手を天にむかってさし伸べ、エジプトの全国にわたって、エジプトの地にいる人と獣と畑のすべての青物の上に雹を降らせなさい」。モーセが天にむかってつえをさし伸べると、主は雷と雹をおくられ、火は地にむかって、はせ下った。こうして主は、雹をエジプトの地に降らされた。』(出エジプト記9:22)
今回以降の3つの災いは、モーセ自らが杖を動かして災いが降るようにしている。
この時モーセは、もはやパロに対する怖気は無く、神の代理人としての余裕と、その穏やかな口調に貫禄と気品が見える。
神はモーセの過去のトラウマを癒し、人の頑張りでは決して出来なかった事をもさせて下さった。
同じように主は、私達が過去受けた傷を癒し、解放し、権限を委任された使徒として私達を用いて下さり、余裕と気品で飾らせて下さるのだ。
『そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。』(出エジプト記9:24)
かつて無かったほどの雹の災いは、黙示録にも登場する神の裁きである。(8:7,16:21)
この災いの前日、モーセは予めアドバイスをしていたが、それに従った者は災いを免れ、そうでない者は災いを受けた。
そして神は、またもイスラエルを区別され、イスラエル人の住むゴシェンの地には雹は降らなかった。
このように主は、御言葉に従う人と従わない人、神の民とそうでない人、さばきを免れる人とさばきを受ける人の区別を、明確にされる。
『そこで、パロは人をつかわし、モーセとアロンを召して言った、「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください。この雷と雹はもうじゅうぶんです。わたしはあなたがたを去らせます。もはやとどまらなくてもよろしい」。』(出エジプト記9:27-28)
パロは言う。「こんどは罪を犯した」と。
「こんどは」と言うからには、裏を返せば、今まで彼の頭の中では、パロが正しくて、モーセ達と神が間違っていたわけである。
このように、頑なな者の特徴とは、自分は正しくて、自分の望む通りに動かない周りや神のほうが間違っている、とする事である。
パロが「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください」と言ったのは、激しい雹が降っている最中だった。
しかしモーセには分かっていた。「あなたとあなたの家来たちは、なお、神なる主を恐れないことを、わたしは知っています」(30節)
「亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻は花が咲いていたからである。小麦とスペルタ麦はおくてであるため打ち倒されなかった。」(31-32節)
主は憐れみ深く、いきなり再起不能な一網打尽は、なさらない。
主から懲らしめを受けた時は、自分が滅ぼし尽くされなかった事を感謝し、主に立ち返るのが正しい作法であるが、パロとその家臣たちは、そうではなかった。
『ところがパロは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪を犯し、心をかたくなにした。彼も家来も、そうであった。すなわちパロは心をかたくなにし、主がモーセによって語られたように、イスラエルの人々を去らせなかった。』(出エジプト記9:34-35)
株で身を滅ぼす人のパターンは、大きな損をした時に、自分にはまだあれが残っている、これを保持していれば必ずいつか巻き返す、など、根拠なき希望を頑なに持ち続けて、手放すべきものを手放さず、結局、何もかも失ってしまうものだが、パロとその家臣たちは、その滅びの行動パターンに陥り、ますます頑なになってしまったのである。
『また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。』(黙示録16:21)
私達は雹の災いを受ける人を見て、あたかも対岸の火事を見るのように、どうしてそこまで頑なになれるのかと第三者的に思うかもしれないが、人は結構、自分がこの頑なさに陥っている事が、わからないものである。
「なぜ親はあんなに厳しく、うるさく、しつこく自分を罰するのか」と思った事はあるだろうか。
それは自分が周囲に、厳しく、うるさく、しつこく迷惑を振りまいていたからに、他ならない。
頑なな者はいつもそのように、罪ある自分に気付かないまま、主から罰を受ける。
私達は災いを受けた時、自分を省みるべきである。
主は、自分の咎を悔いた人をあわれみ、労苦に報い、祝福の将来を与えて下さるお方である。(エレミヤ31:15-22)