メッセージ - 礼拝がつまらない人のために(ネヘミヤ記8章)

礼拝がつまらない人のために(ネヘミヤ記8章)

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執筆 : 
pastor 2012-11-28 23:53

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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礼拝を喜びに満ちたものとするために

【概要】

ネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が律法の朗読を通して大きな喜びを得た出来事を学びます。礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあることを教えています。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ8:1-18

  • レビ23章

  • 第二歴代誌8:12-13

【励ましの言葉】

御言葉を心から慕い求め、理解しようと努める人は、年数に関係なく急速に霊的に成長し、キリストの似姿へと近づいていきます。礼拝の時間は、主を求める心があれば、喜びで満ち溢れた時間となります。

【勧めの言葉】

礼拝において受け身の姿勢ではなく、御言葉を理解しようと積極的に努めましょう。御言葉に対して敬意を持ち、心を尽くして主を慕い求めることで、礼拝は喜びの場となります。

【悔い改めの促しの言葉】

イエス様が私たちの罪のために命を投げ出してくださったことを深く理解するとき、自分の罪を悲しみ、悔い改めることが必要です。悲しみと悔い改めを経験した人こそ、その後の喜びがより深いものとなります。

【***詳細***】

今日のメッセージは、礼拝が楽しくないという方向けに、礼拝がどうすれば楽しくなるかというお話です。ネヘミヤ記の8章を見ていきます。ネヘミヤ記8章全体を見るのですが、まず8章の終わりの方は、非常にこのイスラエルの民の喜びで終わっています。それは8章全体の出来事があったからです。

ネヘミヤ8章1節から3節をお読みします。

「民はみな、一斉に水の門の前の広場に集まってきた。そして、彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。そこで、第七の月の一日目に、祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前でこれを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」

まず、礼拝が楽しく、喜びで満たされたものとなるためのコツは、早速1節の方からあります。民は皆、一斉に、これは直訳すると「一人の人のように」水の門の前の広場に集まってきたとあります。そして彼らは、律法の書を持ってくるように学者エズラに願ったとあります。これは学者エズラという大先生が立って、そしてイスラエルの人たちに「聞け、集まれ、そしてみんな座って聞け」というふうに言ったのではなくて、民自ら集まってきたんです。一斉に一人の人のように。そして「どうか主がイスラエルに命じた律法の書を持ってきてください」と願ったんです。

ちなみにこのエズラという学者、彼は祭司であり、このネヘミヤ記の直前の書、エズラ記にその活動が記されています。このエズラという学者であり祭司は、律法に非常に精通しており、そして、このネヘミヤより少し前に、このエルサレムに到着しました。そしてエルサレムの民を清めました。律法の書を一生懸命聞かせて、そして神は何を喜ばれ、何を嫌われるかということを民に告げ知らせて、それでイスラエルの民がこのカナン人の人たちと結婚をしてしまっているということを聞いて、非常に悲しんで、そしてその民の清めを断行しました。すなわち、民の中から異邦人と結婚してしまった家族を離婚させ、また、その異邦人たちをエルサレムの中から追放して、そして、すでに子どもが生まれてしまった、異邦人との間に子どもが生まれてしまったら、それを切り離す、自分の民から追い出すということをしました。

それは、神様の御教えに異質のものが混ざってはならないから。それで、そこから異邦人の教えを持つ女やまた子供たちをそこから切り離すことによって、そして悲しみが当然止まります。そこまでしなくていいんじゃないかという意見もありました。でも、あえて断行しました。それによってこのイスラエルは清められて、そして主に喜ばれるものとなっていったのです。

そこでこのネヘミヤが来て、この城壁が完成した後に、この第七の月一日目に祭司エズラは、男も女もすべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、そしてこの水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで朗読をしました。この第七の月の一日、これはイスラエルの中では、身を戒めて清めをする集会の日になっています。第七の月の一日ですけど、ラッパを吹き鳴らして、そして死を記念する祭りの日です。この日に、このエズラに願って、それでこの律法の書を朗読させました。

このエルサレムの城壁が完成したのが第六の月の25日のことですので、それから5日ぐらい後のすぐ後ですね。エルサレムの城壁が完成したすぐ後です。早速、民は律法を朗読して、神様が喜ばれることは何か、神様が嫌われることは何かを求めたんですね。民自らです。

まず礼拝が喜びと楽しみになるコツのその1。皆さんの方から自主的に律法の書を慕い求めて、同じく神の御言葉、イエス様の御言葉を下に求めて、そしてそれを聞く耳を持つということです。

3節の方を見ますと、夜明けから真昼まで男や女で理解できる人たち、これは少なくとも国語能力がある高校生以上の人たちです。彼らがそれを夜明けから真昼まで、結構長い時間です。第七の月といえば9月です。太陽暦で言えば。結構日が長いんですけども、もう8時間ぐらいですね。その律法の書をずっと立って、それを聞いて耳を傾けていたんです。それはそれほど長い時間ですけれども、しかし民は疲れませんでした。あっという間だったんです。

律法の書を聞き入って、それをよく噛み締めて味わっている時間は楽しくて仕方がないのです。皆さんも聖書の学び会が2時間、3時間と続くので、ある人はとても潤っているのに、別の人は3時間も長い間座り続けている。そういうことがたまに起こるのですが、その違いは、御言葉を慕い求めているかどうか、御言葉を喜びとしているかどうかです。

心の置き所を御言葉じゃないところに置いている2時間3時間の礼拝というのは苦痛以外の何物でもないですよ。眠くて眠くて仕方がない。コツは、重い心を御言葉、イエス様に向けずに自分の考えやこれかれに向けること。そしたら、礼拝という時間は早く終わらないかなという、そういう苦痛以外の何者でもなくなります。

でも、イエス様を慕い求めて、御言葉を知りたい、もっとその御言葉の奥義を、奥深いところを知りたいと願う人にとっては、たとえ早朝から真昼までずっと礼拝だったとしても、それはあっという間なんです。礼拝が終わった後は、潤っているんですね。そういうふうにもなるでしょう。感動して。そういうふうになるんです。

5節から8節まで。

「エズラはすべての民の前でその書を開いた。彼はすべての民より高いところにいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが、大いなる神、主をほめたたえると、民はみな手を挙げながら、アーメン、アーメンと答えて、ひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」

この絵面が、まず民の高いところに、そして律法の書を広げました。当時はスクロールで巻物状だったんですけど、それを律法の書、御言葉を広げると、まず民は皆立ち上がりました。御言葉に対して、それなりの礼儀を尽くしているんですね。カトリックの教会というのは、礼拝の説教の時、御言葉が開かれる時は、その司祭が建物の上の方の階のバルコニーみたいなところでその御言葉を広げるんですけども、ちょうどそんな感じで、そしてそこに集まってくる人たちは起立して、そして見上げる形でその神さまの御言葉を仰ぎ望むんですけども、ちょうどそういう感じで、御言葉に対しての敬意を持っているんです。

御言葉への敬意を持っているのであれば、礼拝中は楽しみ、喜びとともに、また厳かな雰囲気、それを慎んで聴こうというその真剣さが生まれるわけです。そしてエズラは御言葉を朗読していくんですが、この学者エズラは、その朗読していくうちに大いなる神、主をほめたたえざるを得ない場面が何度かあったみたいですね。エズラは御言葉を朗読するうちに主をほめたたえました。すると民はみんな手を挙げながらアーメン、アーメンと答えました。このように朗読する人とまた民とが一つの一人の人みたいになって主を礼拝し、主を喜び、主をほめたたえるんです。そのような幸いな時だったわけですね。

7節。

「ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバデ、ハナン、ペラヤなど、レビ人たちは民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。」

この特に8節の方で「律法の書をはっきりと読んで説明したので、民はそれを理解した」とありますね。礼拝中は、単に受け身だけの姿勢では本当につまらないです。あっという間に眠くなってしまいます。でも、理解しようとして、そしてその説明を聞き入るのであれば、それが楽しみになっていきます。

皆さん、教会にある人はもう何十年単位で通っている、ある人は通ってまだ一年も経っていない、そういう状況かもしれないですけれども、しかし、年数は関係ないんですよ。御言葉をはっきりと聞こうとして、説明を聞いて、理解しようと努める人、そういう人はあっという間に成長していきます。あっという間に何十年か通い詰めた人の霊性を追い抜いて、ますますキリストの似姿へと近づいていきます。これは皆さんが体だけこの場にいるということには、それは一切関係がないんです。

身体だけいる人が礼拝という場にいなくてもよろしい。むしろ、御言葉を理解しようと努め、御言葉を聞こうと努める人にとっては、そこは喜びの場、潤いの場になり、本当に時間が経つのをあっという間に忘れてしまうほどのものなんです。

このエズラは、第七の月一日にこの律法を朗読して、そして民はそれを心から聞きたいと慕い求めてきました。9節からお読みします。

「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に説き聞かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『今日は、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたとき、みな泣いていたからである。さらに、ネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者には、ごちそうを送ってやりなさい。今日は私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。主を喜ぶことが、あなたがたの力だからだ。』レビ人たちも民全部を静めながら言った。『静まりなさい。今日は神聖な日だから。悲しんではならない。』こうして民はみな、行って食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」

アーメン。ここで、民は涙を流して泣いています。なぜでしょうか。この涙は悲しみです。ネヘミヤもレビ人も悲しんではならないと命じています。彼らは悲しかったんです。御言葉を聞いた時。ということは、自分たちに身に覚えがあることをどんどんどんどん聞かされていったからです。

いつだったか、申命記の二十何章でしたか、呪いの箇所がありましたね。祝福と呪いの箇所。で、その呪いの箇所を朗読するだけでも10分15分かかりました。それほど長かったんですけども、その中に書いてあります。もし心を頑なにして御言葉に聞き従わないのであれば、これこれの災いに遭う。あなたがたは籠も、こね鉢も呪われて、あなたが一つの道で敵を攻撃しようとしたら、七つの道から逃げ去るようになる。もしそういう災いにあっても、なお聞き従わないのであれば、さらに恐ろしい災害に遭い、あなたの息子娘たちは囚われ人となって連れて行かれる。それでも聞き従わないのであれば、あなたの母親たちは息子娘たちを煮て焼いて食べるようになる。

そこまで書いたんですよ。律法では、モーセの律法の書で。モーセの時代でさえ、主はそういうふうにあらかじめこうなればこうなるという呪いを示されていたんですが、しかしイスラエルの民は心を頑なにして聞き従わず、自分のやりたい放題やって、そして呪いを身に受けて、すべての呪いをイスラエル人は葬儀に受けてしまったのです。

このネヘミヤ記の時代はバビロン捕囚の後の時代です。要するに敵国に捕らえられ移され、エルサレムが焼き滅ぼされて、城壁も壊されて、その後の時代にこの律法の書を改めて朝から昼間までずっと聞いていた。イスラエル人はどれほど身につまされたことでしょうね。もうモーセの時代、はるか先祖の時代からずっと主はそのように言っておられた。しかし私たちの先祖たちはそれを聞き従ってこなかった。まさに主が言われた通りだ。主は正しかった。私たちが間違っていた。それで彼らは泣いていたのです。彼らには悲しみがありました。

悲しみがあるというのは、それは良いことです。それは自分が何をしたかを理解しているか、そして自分の罪があるということを理解したからです。皆さんは主に救われたということがどれほど喜びであり、自分の罪を見たときどれほど悲しい思いをしているでしょうか。イエス様を知れば知るほど、感情が湧き起こってきます。喜びの感情、悲しみの感情、それらが湧き起こっていない人は、まだまだ理解が浅いということです。

イエス様は皆さんの罪を負って身代わりになって死んでくださって、そして皆さんの罪はチャラにされました。それを聞いたとき、ああ、ラッキーラッキーって鼻くそほじりながら、ああ、俺ラッキーだったんだ、へえ、っていう態度でいれる人は理解が浅いということですね。イエス様の痛み、イエス様の受けた屈辱、命を投げ出すほどの愛。それを聞いた時には私たちは感情が沸き起こってくるべきなんです。人間であるからには。

このメッセージの前に河合さんがある子供と母親の話をしましたね。母親の顔にありありと火傷の傷跡が残っている。その娘はその母親を世界一の美人だと先生や友達に紹介していた。母親が娘を火事から救うために火傷を負って、女性の顔に醜いその焼け跡を残した。娘はその母親を、ああラッキーラッキー、私命が助かったもんね、なんていうことだったら、皆さんはたたきたいですね、そういう娘だったら。

イエス様は、皆さんの命を救うために命を投げ出されたのです。なんで鼻くそほじりながらラッキーラッキーみたいなそんな態度でいれるでしょうね。主は。私たちは自分の罪を悲しむべきなのです。自分のそれまで行ってきた頑なさを恥じ入り、悲しみ、そして悔い改めて、そうして初めて喜びが来るのです。

信仰生活に何の喜びを見出せないという人は、まずその逆の悲しみを味わうべきなんです。悲しみを味わい、悔い改めを経験した人こそ、その喜びが深いものになる。その味わいがますます深くなっていくんです。この律法を読んだ、朗読を聞いた民は泣きました。悲しみました。でも、このネヘミヤもレビ人たちも言います。今日は神聖な日だ。祭りを祝う日だ。悲しんではならない。泣いてはならない。むしろ上等な肉を食べなさい。むしろ甘いぶどう酒を飲みなさい。そして何も用意できなかった貧しい人にはそのご馳走を送ってやって、そして共に喜びなさいと言いました。これが主の民の受ける喜ばしき分です。この祭りの日、非常に喜びが湧き起こったはずです。

12節。

「こうして民はみな行き、食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして大いに喜んだ。彼らが教えられたことを理解したからである。」

そうです。理解すること。これが大事です。ですから、御言葉と相対する時は、理解しようと努めること。それが大事です。理解したなら、普通の感覚を持った人間であるならば、悲しみが沸き起こることもあるでしょう。痛みが沸き起こることも、喜びが沸き起こることもあるでしょう。そうして、ますます主の奥深さ、主のその大いに偉大なお方であることを、ますます私たちは理解していくのです。

13節以降をお読みします。

「2日目に、すべての民の一族の頭たちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まってきた。こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、『イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない』と書かれているのを見つけ出した。これを聞くと、彼らは自分たちのすべての町々とエルサレムに次のようなおふれを出した。『山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、ナツメヤシ、また枝の茂った木などの枝を取ってきて、書かれている通りに仮庵を作りなさい。』そこで民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また、神の宮の庭や水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。捕囚から帰ってきた全集団は仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それが非常に大きな喜びであった。神の律法の書は最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めに従って聖なる集会が行われた。」

この第七の月は非常に祭りが多い月でした。それはレビ記の23章の方にあるのですが、まず第七の月の第一日目は、先ほども言いました通り、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合の日で、そして第七の月十日は聖なる集会、身を戒めて、そして民の贖罪をする日です。そして第七の月の15日は、仮庵の祭りが行われます。仮庵の祭りを行って、そして7日間毎日集会があり、第8日目は聖なる会合をして聖なる集会を行うという、そのレビ記の23章の記述があって、ここが朗読されたんですね。祭司エズラによって。

それを聞くと、このエルサレムの住人はこぞってその通りに、やりなさいというお触れが出されます。それは、長らくこのイスラエル民族の地から断たれていた祭りでした。なんと17節、「ヌンの子ヨシュアの時代から今日に至るまで、イスラエル人はこのようなことをしていなかった」。あれ本当だったかなと思って、聖書を検索してみたところ、確かに記述がないんですね。仮庵の祭りを行ったって。唯一ヒットしたのが、歴代誌の8章のソロモンの時代ですね。第二歴代誌の8章のちょうど自分の宮殿が建て終わった時のその時。第二歴代誌の8章12節と13節。

「それからソロモンは、彼が玄関の前に建てた主の祭壇の上に、主のために全焼のいけにえをささげた。すなわち、モーセの命令通りに毎日の日課によりこれをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとにこれをささげた。」

ついでに「ついでに仮庵の祭り」という言葉が出てきたような、そういう感じですね。ソロモンが宮殿を建てた時、それは非常に豪勢な時代でした。主の神殿に捧げられるその牛や羊たち、それはもう数えきれないほどだったから、特別に庭を聖別して、そこ全体で生贄を焼いたほど、物に富んでいる、そういう時代でした。ソロモンの時代は。でもそこに心はなかったようですね。見かけは豪勢。でも心がなかったのです。ソロモンの時代に、ソロモンはさっさと別の国に走ってしまいました。

ヨシュアの時代、その時代は、本当に民の心はまだ主に対して、主を恐れて主に対して真っ直ぐだったのですが、でもそのヨシュアのすぐ後の時代、士師記の時代からイスラエル民族は自分勝手なことをし出すようになってしまいました。その時からずっとこの仮庵祭は断たれていたのです。形式上は行われていたのですが、しかし、ここに書いてあるような、民が自分の屋根の上や広場やそういったところに仮庵を作るということを、そこまで真剣にしていなかったのでしょうね。

しかし、この17節の文を見ますと、「このイスラエル人、ヌンの子ヨシュアの時代から今日までイスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった」とあります。まだこのエルサレムの城壁が再建し終わってから1ヶ月も経っていないような、そういう時期に行われた仮庵祭です。それは本当にソロモンの時代から見れば質素な、粗末な、急いで作ったかのような粗末なものだったかもしれないのですが、しかし、大きな喜びがありました。主の御言葉を守った。忠実に行った。そこには喜びがあるんです。そこは別にゴージャスでなくても、喜びというのは沸き起こるんです。心があるのであれば。

人は祝福を求めます。富を求めます。健やかさを求めます。ゴージャスさを求めます。しかし、大切なのは主に向かう心です。真剣に主を求める心があるのであれば、その祭りは非常に喜ばしいものとなります。きっと仮庵祭、野に出て行って、木の枝を集めて、それを自分の庭とか屋根の上とかに小屋を作って、そこに寝て、イスラエルの民が仮の宿に休んでいた時期を思い巡らす、そういう祭りだったんですけど、きっと廃れていってしまったのは、何かそこまで堅苦しくやらなくていいじゃんっていう、そういう思いだったのかもしれない。

しかし、そうした思いを捨てて、たとえ世の人から見れば、堅苦しくてそこまでしなくていいんじゃないみたいなところを、あえて主のゆえに守りを行うところに喜びが湧き起こるんです。こうして、この第七の月、このイスラエルの民にとっては特別な、ささやかですけども、しかし喜びに満ちた、そして、祭りの期間を送ることができました。それは、自ら積極的に御言葉を慕い求める心があったからです。また、御言葉に対する畏敬の念、恐れがあったからです。そして、何が神様に喜ばれ、何が悲しまれ、何が憎まれるのか、その律法を読んだ時に、何が悲しまれ、何が憎まれるのか。心に悲しみが起きたからです。悲しみがあったから、そこには悲しみがなくなり、逆に喜びが湧き起こるのです。

礼拝という心を尽くして、思いを尽くして、主を慕い求める。そこには主からの喜びが湧き起こるのです。礼拝がつまらないという人は、どうか心から主を求めて礼拝に臨んでみてください。そうしたら喜びで満ち溢れる礼拝の時間がとても楽しいものになります。どうか礼拝を喜びに通し、ますます神様から祝福をいただいていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあります。御言葉に対する敬意を持ち、自分の罪を悲しみ、悔い改める時、そこから真の喜びが湧き起こります。ネヘミヤの時代の民のように、心を尽くして主を求めるならば、たとえ質素であっても、礼拝は喜びに満ち溢れた時間となるのです。

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